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目の覚める悪夢 #ブラック・ジャック

 夜も更け、ピノコもとうに寝静まり、波の音しか聞こえなくなった頃。ようやく書類に目を通し終えた。凝った肩をほぐすようにぐるぐると腕を回し、伸び、疲れた目をこする。時刻は午前二時を少し回ったところだ。少し水を飲んでから寝よう、と書斎のドアをゆっくりと慎重に開ける。この自宅兼診療所を建ててもう何年にもなるがドアがギイギイと古臭い音を立てるようなことは幸いまだない。とはいえ、真夜中だ。物音でピノコが起きても困る。

 廊下に出てみると、病室から明かりが漏れているのが分かった。ベッドサイドのナイトライトだ。こんな時間に、と眉を寄せる。今あの部屋にいるのは。
 小さいノックを二回。はい、と応じたのはウカだった。

「寝付けないのか?」廊下から声をかけた。
「先生……」

 彼女は質問に答えない。入っても? と問うと、どうぞ、と返事があった。こんな夜更けに女性の寝所に入る気が引けたが彼女の声には放っておいてはいけない何かがあった。
ウカは春用の薄いパジャマを着て震えていた。気温はそう低くないはずだが、汗が冷えたのかもしれない。応急処置として隣のベッドから毛布をはぎ取って肩からかけてやる。ウカの身体がびくりと跳ねたことで、自分の手が彼女の肩に触れたことに気づいた。すまない、と謝るとウカは、私こそすみません、とさらに小さくなった。

「真っ青で──まるで病人じゃないか。一体どうしたんだ」

 彼女は患者としてここにいるわけではない。
 彼女はピノコの遊び相手で、相談者で、教師だった。今日はたまたま私の帰りが遅く、彼女を家まで送り届けることができなかったため泊まってもらったのだ。ピノコは大層喜んで夕飯がステーキになった。当然、私の分の肉はない。

「先生」
「なんだ」
「先生が病気になったら──、どうなりますか?」
「はあ?」

 彼女の質問は突飛で私は間抜けな声しか出せなかった。私のぽかんとした様子に、彼女はむきになり、大事なことです、と続けた。
 彼女はふざけているわけではなさそうだ。窓の外から見える今夜の月は細く、ベッドサイドのナイトライトがなければ彼女の表情は窺えなかっただろう。安っぽい光に照らされるウカの顔は今にも泣き出しそうだった。
 これが患者ならいくらでも対応の仕方がある──といっても大抵「甘えるな」と怒鳴るくらいな──のだが彼女は患者ではない。

「私が病気に?」仕方がないので復唱する。
「それは、医者の不養生ってやつだ」
「いいえ先生。そういうことではないんです」
「じゃあ何だっていうんだ」
「……」
「どうしたんだ?」

 私が今日何度目かのどうしたんだを口にすると、ウカはようやく話し始めた。彼女の目にはいつの間にか涙が滲んでおり、潤んだ瞳にはナイトライトの明かりが反射してキラキラ揺らめいていた。

「先生は世界一の名医です」
「ああ、その通りだ」
「日本だけじゃない。世界中の人が、先生に診てもらいたくてやってきます」
「ああ、そうだな」
「でも先生──」

 ウカはそこで一旦言葉を区切って手の甲で涙を拭った。

「先生が病気になったら、誰が先生を治すんですか?」

 私にとっては愚問と言わざるを得ず即答する。

「自分でやるさ」
「手術も? 動けなくなったら? 誰が先生を助けられるっていうんですか?」

 こんなに感情的なウカは初めて見る。彼女も自覚しているのか、そこまで言い切ると、ごめんなさい、と結んで黙り込んでしまった。そしてナイトライトをそっと消す。いきなり変わった光の量に私の瞳孔は追いつけない。少しして、ようやく暗闇に慣れた私の目がとらえたのは、あふれる涙を拭おうともせず、ぼろぼろと零しっぱなしにただただ泣くウカの姿だった。

「先生、死なないで」

 ほとほと困り果てた私は、ウカの頭をただただ撫でてやることしか出来なかった。

目の覚める悪夢
それは想像を絶する恐怖だった

おしまい

夢小説,短編,その他 1645字 No.112 

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