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ここが私のハビタブルゾーン #カク

 今日はもう駄目だ。
 ウカは早々に今日を良き日にしようとするあらゆる努力を手放した。
 今日を良き日にしようとする努力とは例えば、自分には全く関係ないクレームを処理することになっても「こういう日もある」と自分を慰めたり、確認のたびに違うことを言う上司のせいで余計な仕事が増えても「人間だもの」と上司を許そうと試みたり、口ばかりで手が動かない後輩二人の雑談が気になって仕方なくても「仕事に支障がでてなければ、別にね」と気にしていない振りをしてみたりする、こういうあらゆる努力のこと。体力とメンタルに余裕がある日であれば、これくらい全然へっちゃら。アルカイックスマイルで対応できる。
 でも。
 今日はもう駄目だ。
 今日は寝坊したせいで眉毛しか描いていないし、時間がなくて朝ごはんも食べられなかったし、そもそも寝坊したのは繁忙期でここのところ残業続きだからだし、曖昧な指示しかもらえない資料を仕方なく勘で作ってみたら「これは縦じゃなくて横で作って欲しかったんだよね」と根本からひっくり返されるようなことを言われるし、そしたら別書類の日付と先方の名前は間違えるし、まあとにかく。
 今日はもう、駄目だ。
 こういう日は途端に酸素が薄くなる。呼吸がしにくくて、何度深呼吸しても、酸素は取り込めないし、二酸化炭素は吐き出せない。結果、血がどろどろになって、腕も足も動かなくなって、脳にも酸素がいかないから何も考えられないし、イライラして頭が痛くて、人に全然優しくなれなくて、そんなすぐ余裕がなくなる自分も不甲斐なくて、どんどん、どんどん。息が。

「今日もだいぶ頑張ってきたみたいじゃの~」

 家に帰ってメイク(眉のみ)を落とすことすらせず、ラグの上に倒れ伏した私に、カクのゆるゆるした声が上から降ってくる。私は動くのも億劫だったが、なんとか背中を丸めて膝を引き寄せ、人間が最もリラックスすると言われている胎児姿勢に移行すると「うん、今日は大変だったの」と呟いた。
 「ほれ、ティラミス」とカクがスプーンで掬ったティラミスを口元に持ってきてくれるが、私は「今はハイになれない」と力なく首を振る。ほんの少しだけ驚きを含ませた声で「重症じゃの」と私の負傷ぶりを判断したカクは、掬ったティラミスをそのままぱくりと食べてしまった。

「ひどい……わたしのティラミス……」
「理不尽が過ぎやせんか?」

 カクは私の非道な言い分にも動じない。これくらいはもう慣れっこだと言いたげなベテラン顔で、ラグの上の胎児を寝かしつけるように横たわる。私はもぞもぞと無言でカクの懐に潜り込んでいく。まだ目も開かない産まれたての子犬や子猫が母親に擦り寄っていくように。
 カクの腕の中で大きく深呼吸するとカクの匂いがした。同じ部屋で過ごして、同じ洗剤で服を洗って、同じ石鹸で髪と体を洗うのに、カクの匂いはカクの匂いだから不思議だ。カクの匂いと一緒に酸素を取り込んで、二酸化炭素を吐く。すう、はあ。すう、はあ。繰り返すうちに身体のこわばりが解れてきて、手足が弛緩する。脳がだんだん、まともなことを考え始める。

「ここはあったかくて、いい匂い」
「そりゃよかった」
「私はここを大事にする」
「ぜひそうしてくれ」

 カクは私の背中に回していた腕にぐっと力を込めた。肺が潰れて、せっかく吸った酸素が漏れていく。カクのかたい胸板で私の鼻が潰れていって、脳が甘く麻痺していく。

「ぐるじい」
「そりゃ失礼」

 少しだけ緩められた腕の中で、私は、ぷは、と息継ぎした。そして思い出す。生命居住可能領域、通称ハビタブルゾーン。生き物が生きていくために必要な要素が揃った領域のこと。私が見つけたハビタブルゾーンは、ここ、カクの腕の中だった。
 ここで大きく息をして、灼熱の乾いた砂漠や、凍てつく氷の大地、光の届かない真っ暗な深海、酸素の薄い高い山のような社会に挑み、疲弊したら、また息を吸いにここに戻ってくる。

「でも、もう少し甘えさせて」
「そりゃいくらでも、いつまでも」

 ここが私のハビタブルゾーン(生命居住可能領域)。おしまい

夢小説,短編,ONEPIECE 1714字 No.17 

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