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No.23, No.22, No.21, No.20, No.19, No.18, No.177件]

来年の今月今夜は神のみぞ知る #カク

七年前・冬

 今日は恋人たちの日。
 ウカは赤い薔薇の花束を持った男性が待ち合わせ場所に駆けていくのを目にして、やっぱり今日だよね、と諦めに似た気持ちを覚えた。腕時計に目をやりながら、ショーウインドウで前髪を直す女性や、早足で人並みをすり抜けていく男性。街全体がその雰囲気にのまれている、というほどではないけれど、いつもとは確実に様子の違う街の空気に、のまれるものかと足を突っ張りたくなる。
 残念ながらというのは語弊があるかもしれないが、ウカにとっては、ここ何年もずっと縁のない日だったのだが、今年は少し違った。なんと、カクからご飯に誘われているのだ。
 いつもの調子で「明後日の夜、もし空いてたらメシでも食べに行かんか?」と誘われたものだから、ウカは結構かなり困っている。カクは今日がなんの日か知っていて、誘ったのだろうか。ウカにはわからなかったし、確認する勇気もウカにはなかった。結局、ウカは、全然なんにも意識していないですよ、という空気を精一杯だして「お、いいね」とだけ言って了承した。
 待ち合わせた店に早めに着いてしまったウカは、感じのいい店員にカクに予約してもらった席へと通されながら、横目ですでに店内で食事を楽しむカップルたちの様子を窺った。ウカよりずっと若く見える子達も含め、みな気安い雰囲気で思い思いに「今日」という日の食事を楽しんでいるように見える。
 ウカは、いい年をして思春期の女の子みたいに、内心どぎまぎしていることが急に恥ずかしくなった。でも、許してほしい、とも思う。なぜなら、ウカの育った東の海の小さな島国では、今日は「女の子が好きな男の子に告白する日」だったのだ。三つ子の魂、ではないが、住む場所が変わって、ウォーターセブンにそんな文化はなくても、ウカはそれをなんとなく気にしてしまう。
 ウカは、カクが自分の手にほんの軽く唇を寄せてくれた時から、彼に対してなんだかむずむずとした気持ちを抱えてはいる。だが、ずっと希望を見いだせない恋、いや、もはや執着と言っても差し支えないような思いをここ何年もずっと引きずっていたせいか、正直、恋とはどんなものかしら? といった具合で、ここからどう進めたいのか自分でもわからなくなっていた。
 一緒にいて楽しい、とウカは思う。だが、それだけで進むのは、もう怖い。
 カクはカクで、あの後気まずくなるでもなく、かといって距離が縮まるでもなく、仕事の話をしたり、最近読んだ本を教え合ったりしながら、海列車でプッチに足を伸ばして新しいお店を開拓してみたりとするだけで、楽しく「お友達」を継続中だった。
 このままが、いいよね? ウカは自分に言い聞かせるように自問した。誰も答えてはくれない。

   ◆

「はは、待たせたの」

 カクの荒い息交じりの声と一緒に、肩越しに差し出されたのは一輪の薔薇だった。紅く、柔らかにうっとりと広がる瑞々しい花弁も見事で目を奪われるが、何より「今日」という日に自分の目の前に薔薇の花が現れたことに息を呑む。
 「び、っくりした……」と、ウカがようやく振り返ると、満足そうに「成功じゃ」と笑うカクと目が合った。驚き冷めやらぬウカがお礼を言うタイミングを失っているうちに、カクは、どっこらしょ、とウカの前に座る。テーブルの下はほとんどカクの足で埋まってしまい、ウカは足が絡まるんじゃないかとひやひやした。

「今日は、恋人たちの日? なんじゃろ? ささやかじゃけども」

 カクは照れる様子もなく、晴れ晴れとした顔で言った。こういうとこあるよな、とウカはカクの不意打ちにまんまとしてやられる。なんとか「ううん、もう、とんでもなく嬉しい」と答えてみせるが、カクは「そりゃ良かった」と余裕の表情だ。

 もうメニューは見とったか? せっかくだしバレンタインメニューにするかの、と無邪気なカクとの温度差にウカはますます気恥ずかしさが募っていく。
 実は、ウカも三つ子の魂にならって、チョコレートをプレゼントしようと準備しているのだ。ウカの生まれた島では、チョコレートを渡して告白、だったが、そんなつもりはない。ただ、なんでもないふうに、お礼の気持ちでさらっと渡せたらと思っていたのに、初っぱなから正解を見せつけられ、ウカは出鼻を挫かれた。完全にタイミングを失ったウカは気もそぞろに「そうだね、せっかくだしね」とバレンタインメニューを頼むことにする。

   ◆

「はああ、旨かったのう。バレンタイン限定なのが残念じゃ」
「今日頼まなかったメニューも気になるし、また来よう」
「そうじゃな」

 ティラミスを食べ終わったら、今夜は終わりだろうか。ウカは、結局渡せずにいるバッグの中のチョコレートを思い浮かべながら、ティラミスを口に運ぶ。告白なんてものをするわけじゃない、ただちょっとしたものを日々のお礼に渡したいだけなのに、妙に意識してしまう。渡せばいいだけ、渡せばいいだけ、ウカは心のなかでそう唱えてみるが、唱えるほどに体温が上がるような気がした。

「デザートに甘いものも食べたいのう」
「へ? いま、ティラミスを……」
「わしはチョコレートがいいんじゃけど」

 カクが唐突に言うので、ウカは再び「へ?」と間抜けな声を出した。カクは頬杖をしたまま片眉をあげて、謎めいた笑みを浮かべながらウカを見つめている。

「チョコレート。誰に渡すんじゃ?」
「なんで、わかるの?」
「昨日、うんうん唸りながら悩んで買っとるところを見かけたもんで」

 ウカは、そんな……と、呻きながら、一瞬で耳まで紅潮した顔を隠すように手で覆って伏せた。買うところから見られていたなんて、とウカは昨日の自分を思いだす。カクの言う通り、価格や色形、種類、フレーバー、全てにおいて悩んで悩んで決めたのだ。ウカが頭を抱えてカクの顔を見られずにいると、テーブルの下で二人の足が絡んだ。いや、カクがウカに足を絡めた。ウカは反射的に顔をあげてしまい、全てを見透かしたようなカクの視線に射抜かれる。

「なァ? それは、誰にやるチョコなんじゃ?」

 カクはウカを逃がさない。

「……カクさんにあげようと思って買ったやつ、ですよ」

 ウカが観念して白状すると、カクはくしゃっと笑って「よかった!」とはしゃいだ。ウカは、よかった、ってどういうことだろうと思いつつも、早う早うとせかしてくるカクでうやむやになる。なんだ、こんなに喜んでくれるなら、さっさと渡せば良かった。ウカは、バッグから手のひらサイズの小箱を取り出して「いつもありがとう」と言って手渡した。

「よし、店を出たらちょっと一緒に食べんか?」
「え? いいの?」
「だってこれ、美味しいやつじゃろ?」

 カクのシンプルな「美味しいやつ」という言い方に、ウカはなんだかほっとした。「美味しいやつ」を一緒に食べようって言ってくれる人なんだよなあ、としみじみしながら、いそいそとお会計の準備をするカクに続いて、ウカは慌てて席を立つ。

   ◆

 街は、やはりいつもより浮ついているような気がした。まだ眠らないぞ、という気概を感じる。とはいえ、風は冬らしく乾いて冷たく、近くの店で急いでホットコーヒーをテイクアウトして、広場のベンチに腰かけた。カクはウカからもらったチョコレートをコートのポケットから大事そうに取り出す。

「ふは、高そうでうまそうじゃの~」
「ふふっ、そうだね。ちょっと奮発したよ」

 無事渡せてほっとしたことで、ウカも軽口を叩けるようになってきた。楽しみじゃのう、と言いながら、カクが長い指で赤いリボンをつまみ、しゅるしゅるとほどいていく。カクのうきうきした様子に、やっぱり準備して良かったなとウカがほっとしたのも束の間、箱を開けたカクは開口一番、

「ハートじゃない……」
「え?」
「ハートじゃないんか?」

 と縋るような瞳をウカに向けた。確かにウカが選んだチョコレートは、ミルク、ビター、キャラメル……といくつかのフレーバーが楽しめるもので、全部一口サイズの四角いチョコだった。けれど。

「は、ハート? いやあ、ハートのは……お店になくて……」
「……本当に?」

 カクに探るような目を向けられたウカは弱かった。あっさりと両手をあげ、降参のポーズをとり、「すみません、恥ずかしくて無理でした」と素直に謝る。カクは「はああああ、楽しみにしとったのに!」と大げさに悲しんでから、ウカの唇にチョコレートを一つ摘まんで押し付けた。ウカが反射で口を開けると、カクがチョコレートを放り込む。

「来年は頼んだぞ」

 何でもないふうにカクは言うが、ウカは、カクの来年に当たり前のように自分がいるのがたまらなく嬉しい。しかも、ハートのチョコをご所望だ。
 相変わらずウカの気持ちは定まらず、なんて返事をしたいのか自分でもまだわからない。ひとまず口の中のチョコレートが溶けきらぬうちは、このまま。
 ……このままが、いいの?おしまい


 

夢小説,長編・連作,ONEPIECE,KISSMEMORE 3711字 No.23 

果たして真相はまたいつか #カク

七年前・秋

『今日、ウカを食事に誘ったといったら、こうするのがこの島の礼儀だからちゃんとしろと……』

 パウリーの悪戯に騙されたカクさんにキス(手の甲)をされてしまい、なんだか妙な空気になってしまった。されてしまい、なんて失礼か、とウカは思う。していただいた、と言っていいくらいだ。ウカは本当に嫌じゃなかったなあ、と妙に感慨深く思って、またほんの少し頬を赤らめるが、お酒のせい、お酒のせい、と自分に言い聞かせた。
 カクはまだ顔を上げられずにいた。テーブルに近づいてきたブルーノが「そろそろラストオーダーだ」と声をかけてくるので「お水を二つ」とウカが頼むと、「わしはエールがいい」とカクがむくりと起き上がる。

「まだ飲むの?」
「飲まんと……やってられん」

 「パウリーのやつ」とカクは憎らし気にその名を口にした。頬は赤いままだ。頬杖をついて、とにかくウカの方は見ないように、とたいして興味もないが隣のテーブルで騒ぐ四人組を眺めてみる。

「仲良くなったんだね」
「この仕打ちが?」
「パウリーは、……悪ガキだけど、いいやつよ」
「ああ、そういえばパウリーから聞いたぞ」
「え? 私の話? どうせ悪口でしょ?」

 他の客がひとり、またひとりと店を後にする。ブルーノはグラスを磨きながら、話の尽きない二人にいつ声をかけようかタイミングを見計らう。

   ◆

「本当に送っていかなくていいのか?」
「悪いよ。ここからすぐだし、まだ人通りも多いしね」
「じゃあ本当に気を付けて。わしはまだしばらくここにおるから、もし何かあれば大声で戻ってくるんじゃぞ」
「はは、わかった。でも、うちはここからほんとすぐだよ」
「いやでも家の中に誰かおるかもしれんじゃろ。変だと思ったらすぐ戻ってくるんじゃぞ。戸締まりはちゃんとな。途中、そのへんの海賊にぶつかるんじゃないぞ。やっぱり送ろうか……いや、女性の自宅じゃしの……」

 カクは心配そうな顔をしたり、眉を顰めたり、表情をころころと変えながら、考えられることを手当たり次第列挙しては、「とにかく気をつけて」と結んだ。それを聞いたウカは、こんな風に誰かに心配されるのはいつぶりだろう、と頬が緩む。両親にだってここまで大っぴらに心配されたことはない。久しぶりに惜し気もなく、小娘、というより女児扱いされるのは、こそばゆくも素直に嬉しかった。  カクは顔の横でひらひらと手を振り、ウカを見送った。カクは大分飲んでいたようにみえたが、もう、あの熱を孕み潤んだ瞳ではなくなってしまっている。ウカはなんとなくそれが寂しい。
 少し歩いてから、そっと後ろを振り返ってみると、カクは道の端に寄ってはいたが、きちんとウカを見ていた。振り向いたウカに気がつくと、もう一度片手をあげ、笑顔で手を振ってくれる。なんだか、大きい犬みたいな子だな、ウカは犬種まで想像する。ウカはもう一度手を振って、短い帰路についた。
 家の鍵を開けてまたすぐ閉めると、ウカはそのままベッドに直行する。タイトスカートのホックとファスナーをはずしてストンと脱ぐと、ブラジャーのホックをゆるめてそれだけブラウスの中から器用に抜き取った。そこまでしてから、靴を脱ぐとようやく人心地ついて、ベッドにぼふ、と身体をあずけ大の字になる。シャワーも浴びずに酒場からベッドに直行か、ウカは反省しつつも、今日だけは、と天井を見つめた。
 まだよく知らない人と初めてご飯を食べるこの感じ、どんなに楽しくてもちょっと疲れる。ウカは寝返りを打って、横を向く。すると、先ほどキスされた右手の甲が目に入り、カクになぞられた爪や指、押し当てられた唇の感触を思い出して、鳩尾のあたりがきゅっとなった。カクはまだあの場所で待っているのだろうか。顔がにやけて、年甲斐もなく足をばたつかせてしまう。キスされた箇所を指でそっと撫でた。

「ふにふにしてたな……」

 ぽつん、と呟いてみても、言葉はただウカしかいない部屋に響くばかりだ。
 髪は、柔らかそうだった。肌は、きれいだった。髭はなかったな。歯並びもいい。肩はがっしりしてて、指はごつごつしていた。爪は短く切りそろえてあって、……そこまで考えてウカは、はたと思う。品定めみたいに、なにをしているんだろう。
 ウカは、望んだ温もりを得られずにいたそれなりに長い年月を思って、なんとなく、ゆっくりと気持ちが冷めていく。

「まあ、ときめきは肌にも良さそうだし」

 ウカはあっさりと自分を許すことにする。
 でもパウリー、あいつは許さん。得はしたけど、それはそれ。これはこれ。

   ◆

 翌日ウカが出勤すると、ちょうど本社の前でパウリーと出くわした。パウリーはにやにやしながら「おれからの餞別はどうだった?」と朝の挨拶もそっちのけで声をかけてきて、ウカの静かな怒りには気がつかない。ウカは無表情で「カクさんとのご飯代、全部ツケてきたからね。さっさと払いに行きなさいよ」と朝の挨拶を省略した。

「はあ!? なんの腹いせだ!?」

 パウリーが心底心外だという顔で抗議してくるものだから、ウカの眉間にも皺がよる。

「この島に来たばっかりのカクさんに嘘を教えないでよ!」
「ってことはいい思いしたんじゃねえのか!?」

 同僚たちは、朝からぎゃあぎゃあと喚きたてる二人を、仲がいいねえ、と微笑ましく思いながら素通りした。ウカは同僚たちの温かい眼差しに気がついて、少しだけ声のボリュームを落とす。

「それとこれとは別」
「してんじゃねえか!」

 ウカがウォーターセブンに越してきてすぐ借りた部屋は、パウリーの家の近所だった。家の前の道で、水路で、遊び呆けていたパウリーのことは、鼻を垂らしていた小さい頃からよく知っている。何度、鼻水をぬぐってやったことか。完成した海列車を見たいとせがむパウリーを連れて行ってあげたのもウカだ。海列車に感動したパウリーが抱いた大きな夢も随分聞かされて、なんならガレーラカンパニーの入社試験のことだってウカが教えてあげたのに。
 パウリーはそれが面白くないらしく、入社してからもこうしてウカに悪態をついてくる。

「で、なんだって? カクに、その、されたのか?」

 『キス』すら気恥ずかしくて言いづらそうにしているパウリーに、ウカまでつられて照れてしまう。

「だってパウリーがそうしろって言ったんでしょう?」
「違ぇよ!」
「え?」
「おれァ、嫌ならやんなくていいってちゃんと言ったぞ!?」

 「礼儀だからって嫌々するもんじゃねえだろ、ああいうのはよ!」とぼやぼや呟いているパウリーを尻目に、ウカは熱くなってくる両手で自分の頬を覆う。パウリーの方を恐る恐る見ると、パウリーは頭を掻きながら、「少なくとも嫌じゃなかったんじゃねえの?」と言った。続けて「知らねェし、わかんねェけどよ!」とも叫ぶ。

「嫌じゃなかったってことかなあ?」
「だから知らねェって!」

   ◆

ウカと食事? ……そうかそうか、じゃあ覚えておけよ。この島じゃな、男が女にお礼するときは、手にキスすんだ。あいつァ礼儀にうるさいからな」
「ほう、初耳じゃの」
「あ、嫌なら別にいいからな?」
「礼儀なんじゃろ? 教えてくれてありがとう、パウリー」
「嫌なら、いいんだからな!?」

 カクのあまりの素直さに、パウリーは何度も念を押した。カクは「わかった、わかった」と軽い調子で返事をするだけで、何をどう分かったのか、パウリーにはさっぱりわからない。

「嫌なら、いいんじゃろ?」

果たして。おしまい


 

夢小説,長編・連作,ONEPIECE,KISSMEMORE 3141字 No.22 

はじまりはいつも突然に #カク #長編第1話

七年前・秋

ウカさんは今晩、空いてるかのう? お礼をしたいんじゃが」

 採用五日目の、まだ顔と声しか知らない年下の男の子にそんな風に食事に誘われたウカは、咄嗟に「はい」と言ってしまった。採用五日目の、まだ顔と声しか知らない年下の男の子の名前は「カク」といった。カクは「そうか、よかった」とわかりやすく安堵のため息をつきながら、胸を撫でおろしている。

「じゃあ、最近見つけたお店でいい?」

 カクは「もちろん!」と賛成した。そして、この島には来たばかりで実はまだ町を知らないのだと頭を掻く。ガレーラカンパニー本社玄関前。微妙な距離を保ったまま立ち止まってしまった二人の背中を、春のまだ冷たい夜風が押した。肌寒さに腕をさすりながら、行こうか、とウカが声をかけ、カクがとっ、と踏み出し距離を詰めてウカの隣に並び立つ。そうして並んで歩き始めた。そんな二人の姿をパウリーが何やら意味ありげな視線を向けて見送ったが、二人ともその視線には気づかなかった。

   ◆

「ところでお礼って?」
「なんじゃ、よくわからんのについてきたのか」

 カクは丸い目をさらに大きくして「だめじゃろ、ウカさん。女性がそんな無警戒でどうする」と眉を吊り上げた。思わぬところで女性扱いされたウカは、軽口だとわかっていても頬が緩むのを止められない。赤く染まる頬を誤魔化すように、店に着くなり頼んで、すぐに運ばれてきたエールを煽る。それを見たカクも、真似してジョッキを傾けた。
 ウカの先導でやってきた店は、半年くらい前にオープンした店主の名前を冠した酒場で、お酒だけじゃなく食事も楽しめる。ウカはこの島にきたばかりだというカクのために、店主のブルーノを呼んで「この島といったら水水肉は外せないよね」と相談しながら、適当な料理をいくつか選んで注文した。カクはにこにこしながら、黙ってウカのオーダーを聞いている。
 頼んだ料理が並んだところで、ウカはまた「で、お礼って?」と話を戻した。

「船の査定、やり直した方がいいって教えてくれたじゃろ? パウリーと一緒に査定をやり直したら、見積もりから漏れてたところがたくさんあってのう。慌てて直したわい。おかげで、じいさん職人に怒鳴られずに済んだ」

 あのことか、と合点がいったが、それよりも、カクが“じいさん”職人、と言うのが面白くて思わず噴き出す。「カクさんもおじいちゃんみたいだけど?」とからかうと、カクは心外だと言わんばかりの表情で「わしゃ、十八じゃ」と胸を張った。十八歳! パウリーよりもさらに若いのか、と内心、自分との歳の差におののいてしまう。
 思った以上に年下だったカクは、ウカに対して敬語を使うことはなかった。でも、その態度は横柄なわけでも生意気なわけでもなかったので、年上だからと色々気を遣われることの方が多くなっていたウカには新鮮だ。こういう付き合い方もあるんだなと清々しい気持ちになって、ウカも早々に敬語はやめてしまう。

「カクさんが査定してくれた船を造ってた会社は、あんまり評判が良くなくてね。もう潰れちゃったんだけど、船のあちこちに面倒事が多いみたいで、以前もトラブルになってたの。それを知らずに査定したんだから、仕方ないよ」
「そう言ってもらえると気が楽になるのう。パウリーもそんなこと言っとった。でもまさか、経理部からそれを教えてもらえるとは思わなんだ」
「経理部でもなんでも、ガレーラカンパニーじゃない。カクさんも、数字が間違ってるのに気づいたらちゃんと教えてよね」

 数字、苦手なんだよねと零せば、エール片手に「ウカさん、経理部じゃろう?」と笑われる。そうなんだけどさ、とウカはそのまま言葉を濁した。
 ウカは元々ガレーラカンパニーで働くつもりはなかった。立ち上げを手伝うだけのつもりが、人手不足だった経理部に配属になって、そのままずるずるとなんとかこなしているだけ。
 こんなこと言うと絶対に方々に憎まれるので、固く口を閉ざしている。それくらいの分別はあった。カクもガレーラカンパニーに憧れてやってきた口かもしれないので下手なことは言わないでおこう、と慌てて別の話題を探す。

「カクさんはこの島には来たばっかりって言ってたよね? 出身は?」
「わしは東の海じゃな」
「そうなんだ! 私も東の海だよ。奇遇だねえ。お互いはるばるグランドラインまでやってきて、こうして同じ島で、同じ会社に勤めてるなんてすごく不思議だなあ」

 海はこんなに広いのに、と感動していたら、カクも「本当じゃのう」と目を伏せて、十八歳らしからぬ感慨をみせるので少し驚いた。パウリーのせいにすると、また彼は怒るかもしれないけれど、カクは十八歳。パウリーの一つ下なんてまだほんの子供、と思っていた。けれど、目の前の彼は、仕事で世話になった礼にとこうして食事をおごってくれようとしているし、故郷の海に思いを馳せて、賑やかな酒場でふと静かになる。彼は十分に大人だった。そんなに急いで大人にならなくていいのにと、もうすっかり大人であるウカは一抹の寂しさを覚える。

「乾杯!」
「お、おう! 乾杯!」

 そんな空気を振り払うかのように、高々とジョッキを掲げた。カチン、と高くていい音が鳴る。
 ウカはカクを子ども扱いしたくなって「ちゃんと食べてる?」と尋ねたが、実は聞くまでもなくカクはよく飲んで食べた。
 カクは軽やかなテンポで杯を重ねて、何杯目でも一杯目のように美味しそうに喉を鳴らしたし、合間につまむ料理にも「これは酒がすすむ味でうまい」「こっちは初めて食べる味でうまい」と一つ一つ感想を述べて、最後は必ず「ウカさんも食べてるか?」と結んだ。ウカの空のジョッキは気にしたが、勝手に注文したりはしないで「次は何が飲みたい?」とメニューを差し出す。
 こうやって一緒にご飯を食べると、全部じゃないけど、人となりが分かる気がする。ウカは、そうだ、人と食事するってこうだった、と思い出した。
 一人暮らしももう長い。暮らし初めは、寂しさも相まって友達とよく外食を重ねていたが、だんだんと一人の楽しさもわかるようになってくる。それに呼応するように、友達や同僚がひとり、またひとりと恋人や新しい家族を持ち始め、最近はもっぱら一人で過ごすことが多かった。
 ウカは久しく忘れていた、誰かとの食事の楽しさをカクとの食事で思い出していた。もちろん、誰とでもこうして楽しく過ごせるわけではない。カクの食事のリズム、テンポはウカにとって、かなりちょうどよかった。

「はあ。知らん海に知らん島に知らん人らで心細い気もしていたが、優しい先輩もおるし、メシはうまいし、さんのおかげでなんとかやってけそうじゃ。ありがとう」

 カクが、へら、と頬を緩ませながら、熱を孕んだ瞳で見つめてくるので、ウカは一瞬息がひゅっと止まってしまう。そして、追い打ちをかけるかのように、とく、と胸が鳴るからびっくりした。

「こ、こちらこそ、誘ってくれてありがとう! こうやって誰かと食事するのは久しぶりだったけど楽しかった。友達も同僚も、恋人とか新しい家族が出来たりするとなかなか機会がないし、一人の方が融通がきいて気楽だしなんて思っちゃって、最近は全然」

 そこまで言って、しまった、と慌てて言葉を切った。取り繕うようにぬるくなったエールを口にする。
 うっかり口が滑って、独り身の寂しい女アピールになってしまったかもしれない。いやいや、ぎりぎり踏みとどまったかも。それにしたって、こんな年下の男の子になんてことを。自分だって若い頃、大先輩たちの自虐混じりのコメントに何と答えていいかわからず困ったというのに。似たようなことを言ってしまった気がする。
 ちらりとカクを窺ってみるが、カクが何を思っているのかいないのか、まだ付き合いの浅いウカにはよくわからない。でもカクが「また誘っても?」と聞いてくれたので、ウカはわかりやすくほっとした。

「もちろん! あっ、今日もお礼とか気にしなくていいからね? 最初に言えばよかったけど。何があってもなくても、良かったらまた一緒にご飯食べよう。カクさんとのご飯、楽しいし」
「そんな。食事がお礼のつもりだったのに困ったのう」
「本当に気にしないでいいから! 大体、後輩から奢ってもらうなんて気が引けるよ」
「そうか、じゃあ」
「え?」

 カクは、ゆったりとした動作でジョッキに添えていたウカの手を取った。あまりに緩慢な動きだったので、ウカは黙って事の成り行きを見守ってしまう。ウカは少しも嫌な感じがなくて不思議な気分になった。嫌な感じはしなかったが、ただ、なんだなんだ? と目を白黒させる。そして。

ちゅ。

 声は出なかった。ウカはびゅんと飛び跳ねるようにして立ち上がる。椅子がガタンと大きな音を立てて倒れたが、店の喧騒はそれ以上だったし、周りはみんな酔っ払いだったので気にも留めなかった。顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせるウカを見て、カクは反対に青ざめる。

「な、なんで」
「なんではこっちの台詞だよ! なんで、き、キスなんか!」

 ウカは胸の前で右手の甲を左手で覆って守るようにした。カクの唇の感触がまだ残っている気がして、それが薄れないよう、なんだか大事にしたかったのだ。そのまま、ばくばくと跳ね回る心臓を両手でぐっと抑えてみたがなんの意味もなく、汗がぶわっと噴き出るだけだった。

「そんな! わしは言われたとおりに」
「え?」
「わしはなにか間違ったのか!? これがこの島のお礼の仕方、礼儀なんじゃろ!? パウリーからそう聞いたぞ!」 

 カクが青ざめたまま叫ぶように弁解する。ウカは「パウリーが?」と低い声で繰り返した。昔からよく知る悪ガキの名前に、ウカの双眸がすっと細くなる。汗が引いていく気がした。カクは自分が睨まれたわけではないのにたじろぐ。

「今日、色々教えてもらったお礼にウカさんを食事に誘いたいとパウリーに相談したら、こうするのがこの島の最上級の礼に当たるからちゃんとしろと」

 カクは頭を抱えながら消え入りそうな声でやっとそれだけ言った。パウリーめ、と拳を握り、倒れた椅子を戻しながら卓につく。そして、ブルーノが気をきかせて持ってきてくれた水をごくごく飲んだ。身体が冷えていく気は全然しないけれど、カラカラだった喉が潤っていく。
 ぷは、と一息つくと、ウカはん゛っと喉を整えてから、自分に出せる一番優しい声で「あの、嫌じゃなかったからね」と伝え、ブルーノには吹っ切れた爽やかな調子で「今日の分は全部パウリーにつけておいてください」と笑顔で頼んだ。
 口づけられた右手はまだ灼けるように熱い。追加で頼んだエール、早く来ないかな。おしまい


夢小説,長編・連作,ONEPIECE,KISSMEMORE 4429字 No.21 

ウェンザレインストップス #サー・クロコダイル

「雨がお嫌いですか?」

 朝から降りやまぬ雨を見つめながら、ぎり、と葉巻を噛みしめているように見える社長にそっと声をかける。地上三十階にあるこのフロアから見えるのは灰色の曇り空ばかりで、こうも優しい雨では音もせず降っているのかよくわからない。社長は雨に濡れるだけのモノトーンの街からは目を離さず、私の問いかけに問いで答えた。

「なぜ、そう思う?」

 昔のあなたを知っているので、とは思うだけで決して口にしない。そばにいると何度も口をついて出そうになってしまうこの思いを、私は唇を噛んで胸の中にぐっと閉じ込める。その時の、うっ、と喉の詰まる感覚にも、もう慣れてしまった。それくらい、そばにいる。
 「昔」というのは今から何年前、というわけではなく、きっと前世と説明される「いつか」。あなたは「砂漠の王」で「サー」だった。私は、レインディナーズで借金のカタにと置いて行かれた小娘で、あなたに拾ってもらって、秘書の真似事を。大変に優秀な副社長の補佐の補佐の補佐、くらいだったけれど、いなくても決して困らないが、あって邪魔なものでもない、くらいの働きはしたようで、サーが最後の作戦に打って出るというその日まで仕えた。
 ナノハナにサーの葉巻を受け取りに行った私は、副社長からきつく言われていた。「明朝七時までに街を出るように」と。理由を知ったのは街が火の海になってからだ。「明日、珍しい葉巻が届くよ」と店主に教えてもらい、ナノハナに泊まってそれを待つことにしたのだが、それが運の尽き。私の最後の記憶は、頬で感じた、ナノハナの熱く乾いた地面の固さだ。大方、騒乱の流れ弾に倒れたのだろう。サーがあの世でどう生きたか、私は知らない。
 次の世でも秘書の真似事をしたのはなぜなのか、自分でもわからない。いくつめかの派遣先でサーに会うまで、私は砂漠の国での思い出を、思い出とは呼べずにいた。黒髪を後ろに撫でつけたオールバック、顔を横断する薄い傷跡、左手の義手。ひとつひとつ、記憶のピースが嚙み合っていく中、最後に嵌まったピースは声だった。『新しい秘書というのは君か?』

「他意は、ありません」

 嘘だ、本当はいつも探している。あなたが「サー」だと確信できる何かを。好きな葉巻、好きなお酒、好きな料理、苦手なもの。雨もそのひとつ。昔のあなたは、理由はわからなかったけれど、雨が嫌いにみえた。それは晴れを好んだわけじゃなく、渇きを好んでいるようで。あなたは常に何かに飢えていて、満足しなかった。
 でも、あの日のサーは、いつになく上機嫌で、だから私は、お祝いの葉巻を。

「……雨は苦手だ」

 社長が独り言みたいに呟く。そして、「雨はおれをひどく不自由にさせる。そんな気分になるものでね」と言いながらゆっくりと振り返り、飽きもせず社長の中に「サー」を探す私を見つめた。「おれが何を言っているかわかるか?」社長は私を見つめながら、そのもっと奥を覗き込むようだった。私は「はい」とも「いいえ」とも答えられず、ただ黙るしかない。
 社長がおもむろに口を開く。

「なぜ、言いつけどおり街を出なかったんだ? お嬢さん」

 社長ではない、サーの問いに何と答えるべきか。言葉より先に零れたのは涙だった。クハハ、と呆れたように笑うサーはぼやけて見えなくて、サーの声だけがやけにすぐそばで聞こえる。

「雨は苦手だと、そう言っているだろう?」


目の前でかつて焦がれた彼みたく雨が苦手と嗤う男はおしまい

夢小説,短編,短歌,お気に入り 1462字 No.20 

悪夢 #オールマイト

 夢の中のお師匠は記憶と寸分違わず美しかった。艶やかな黒髪も、きめ細かい肌も、きらめく瞳も、たおやかな声も、すべて。そのお師匠の顔があんなふうに歪んで、悦ぶなんて、私はちっとも知らないくせに、どうやってあんなお師匠を構築するのだろうか。
 眉が悩まし気に寄せられて、瞳は潤んでこちらを縋るように見ている。乱れた黒髪がシーツに広がって、汗ばむ肌が吸いつくように私を離さない。あんな声、聞いたことがないのに、確かにお師匠の声で『俊典』と呼ばれ、心臓が跳ねた。目が覚める。

悪夢

 お師匠と、あんなことを。
 朝からひどく嫌な気分だ。敬愛しているお師匠を己が汚してしまった罪悪感に苛まれながら、ひとまず学校には来てみたものの気分は全く晴れなかった。だが、ここは雄英高校。教職員はみな忙しく、当たり前だが、朝から鬱々としたいい年の男に構っていられるほど暇ではない。みな挨拶を交わしながら、受け持つ授業のために慌ただしく職員室を出ていった。ちょうど自分一人が取り残される。
 操作せずにいたパソコンがブラックアウトして、瘦せこけ目が落ち窪んだ男がモニターにぼんやりとうつったが、ぼうっとそのままにした。

「オールマイト、なんだか元気がないですね? 朝から嫌なことでもありましたか?」

 二人分のコーヒーを手に声をかけてくれたのは、職員のウカさんだった。隣の机に少し身体を預けるようにして腰を落ち着け、私を見下ろしている。彼女は教員ではなく、学校事務の多くを担当してくれている事務職員だ。備品の在庫管理から、各省庁や機関への届け出、手続き、書類作成など、どんな雑務でも嫌な顔せず引き受けてくれる人当たりのいい彼女を、教員は頼もしく思い、そしてありがたく頼っている。自分もその一人だった。

「するどいねえ。君はそんな個性だったか?」
「いいえ、女の勘です」
「はは、そうか。それはかなわないな」

 コーヒーを受け取りながら貼りつけた笑顔を向けてみたが、彼女は満足しなかったようで「なにか、ありました?」という優しい追撃に、うっかり胸の内を吐露してしまう。

「大したことじゃないんだが、その……嫌な、夢を見てね」
「あああああ! 夢! 嫌ですよねえ!」

 彼女は我が意を得たりと言わんばかりの同調を示してくれた。自分では子供みたいな理由だと思っていたので、こうも頷かれると幾分申し訳ない気持ちにもなる。彼女はとても気遣いの出来る人だから。

「そんなに共感してもらえるとは」

 私が少しの驚きを添えて正直な気持ちを伝えると、彼女は心外だとでも言いたげに眉をひそめた。

「わかりますよお。私はよく夢を見るんです。悪夢は本当にしんどい。なんてったって、リアルですからねえ。まさに『経験』しているみたいで。心臓バクバクで目が覚めたりしますよ。回数重ねて慣れたりしませんしね。一日のスタートが台無しです」

 彼女の言は、身に迫るものがあった。余程見るのかもしれない。少なくとも私よりは多く。そうなると、しっかり眠れているのか心配になる。いい夢もありますよ、とは言うが割合はどの程度なのか。

「そうか。私はあまり夢を見ない方だから」
「それなのに悪夢ですか」

 最悪ですね、と続けた。合間に口に運ぶコーヒーは少しだけ甘い。

「悪夢。というか」

 ふと、あれを『悪夢』と称していいのか自信がなくなった。悪夢とは例えば、何か恐ろしいものに追われるだとか、大切な人を失うだとか、恐怖や絶望を味わうようなものではないか。私の夢はむしろ、いい思いをした、とカテゴライズされてもおかしくない。
 断じて一度も、欠片ほどにも、お師匠とあのような行為を望んだことはなかったが、心の奥底では、などと邪推されることほど、屈辱的なことはない。彼女がそんな風に揶揄するとは思わないが、朝から女性に、彼女に詳細を話すのは憚られた。
 私が歯切れ悪くいると、彼女はカップに口をつけながら少し思案して、からっとした調子で話し始めた。「オールマイトだから話しますけど」と前置きをして。

「私の一番嫌な夢、悪夢は、淫夢です」
「いんむ」

 咄嗟に、漢字に変換できなくてオウムのように繰り返す。彼女が仕方ないなあというように眉を少しだけ下げ、口角を少しだけ上げた。淫らな夢ですよ、と。わざと言わせたようで恐縮する。

「私の場合はですが、不思議とその時の恋人はほとんど出てこないんです。知人ならまだしも、肉親だったりしたこともあります。嫌ってるような人、例えばニュースになったヴィランと恋人みたいに触れ合っていたり。親兄弟に無理矢理、事に及ばれるような内容だったり」
「そ、それは、きついな」
「ほんっと、吐き気がしますよ。朝から死にたくなります。どうしたって自己嫌悪しちゃうし、実際にされたわけじゃなくても、夢の中では起きるまでは『現実』なんですよね。なんでこんな夢、って思います。でももう諦めました。とりあえず、夢占いはくそくらえです。夢には何の意味もないですよ。もらい事故みたいなもんです」

 力強く断言され、少し心が軽くなった。そうか、自分だけじゃないのかと。少なくとも、彼女のようないい子でも、同じような、いや、もっとひどい夢を見ているのだ。彼女のみる夢が、秘めた願望の発露などとは決して思わない。

「説得力がすごい」
「飽きるほどみましたから」

 幻滅しないでくださいね、と力なく笑いながら、か細い声で呟く彼女にあたふたと首を振る。

「決してしない! 君がみる夢と君の人間性にはなんの関連も感じない! これっぽっちもだ! むしろ、君みたいな素敵な心優しい人がそんな夢に悩まされているんだという事実は、かえって私を安心させてくれたよ。君のいうもらい事故、というのは言いえて妙だね。本当にその通りだ。言い辛かっただろうことを、私を励ますためにありがとう」

 一息で思いの丈を伝えると、彼女はカップを机に置いて、勢いがすごい、と身体をくの字に折り曲げて笑いこけた。私もつられて笑ってしまう。涙が出るほどおかしかったのか、指でそっと目尻を拭っている。

「あの、不愉快な気持ちにさせたら申し訳ないんですが」
「ん?」

 一通り笑い終え息を整えた彼女が、口元に手を添えて私の耳元に唇を寄せるので、私は前を向いたままほんのり背筋が伸びた。気がした。モニターには相変わらずいつもの自分が写っている。ほとんど息みたいな彼女の声が鼓膜をさわさわと撫でるようだ。あ、香りが。夢の中のお師匠が。『俊典』と呼ぶ声が。

「オールマイトとも、しちゃいました」

 どくん、と一回、ポンプが下半身に血を送り出した気がした。
 彼女はそれだけ言うとすぐに体を離す。どきまぎとした自分を悟られないよう、顔だけは平気なふうを装って、彼女を見た。子供っぽい茶目っ気たっぷりな光を瞳に宿らせて、でも、艶やかな大人の色をした唇で、彼女もまっすぐこちらを見つめていた。

「夢で」
「なに、を」

 愚問に彼女は答えない。

「また、してくれません?」

 夢でみたお師匠の顔が、彼女の顔に上書きされていく。

『俊典さん』おしまい


淫夢※LR18

夢小説,短編,僕のヒーローアカデミア 2968字 No.19 

なんて幸せな悲劇 #七色いんこ

「あんたって、本当に馬鹿ね」

 私がうんざりしながらそう言うと、さっきまで目の前で息を荒げていた初老の紳士は、息を整え、ふん、と怒って顔をそむけた。装いと風格に全くそぐわない品のない仕草に、私はため息をつく。
 窓の外は騒がしく、サイレンと怒号がわんわんと響いてとてもうるさかった。真剣に取り組んでいるであろう人たちにこういってはなんだが、こんなに騒いでいたら、犯人はきっとすぐ逃げおおせてしまうだろうなと思ってしまう。あっちだ! 追え! という大声が遠くなっていく。

「ははは、こんなにうるさくては『俺たちはここにいるぞ』と言っているようなものだ」

 私が言わずにそっと心に秘めた感想と同じことを、彼は面白そうに低く呟いた。サイレンの音はこの家の前をウーウーと通り過ぎて行く。カーテンの隙間からそっと外を覗くと、赤色灯があちらこちらで瞬いていたがこの家の前に集結する気配はない。部屋の明かりが、そして中の人影が、不用意に漏れないようカーテンをぴっと閉めた。

「……、はあ」

 私が彼をじっと見つめてからあからさまなため息をつくと、彼は、ため息はやめてくれ給え、といかにもな口調で不満を呈した。

「なんで」
「ため息は人を傷つけるだろう?」

 思っていた以上にまともな指摘だったので、私はうっと言葉に詰まって苦し紛れに、あんたこそその話し方やめてよ、と謝罪には程遠いことを口にしてしまう。

「ついでに、その変装も」

 今日の彼は初老の紳士を装っていた。老いてもなお、青春を謳歌するような活力に満ちていて、瞳に力があり、生き生きとしている。白髪交じりの黒髪はそれでもハリがあって、纏っていた仕立ての良いスーツは長年着ているおかげでしっくりきている雰囲気があった。眼鏡もお洒落で小粋な感じだ。だけどこれは、よくできたまやかし。
 彼はやれやれとでも言いたげに小さく肩を竦めると、大人しくいつものちょっと風変わりな服装に戻った。白いコートに、チェックのスラックス。切り揃えたボブカットのかつらに、目元を覆うアイマスク。慣れた手つきで首元にスカーフを巻いて、ものの五秒。どういう仕組みか見当もつかないが、さっきまでいた初老の紳士はいなくなり、七色いんこが目の前に現れる。

「はあ、まったく……。だからおたくはだめなんだ」
「ため息!」
「嘆いただけだ」
「嘆きたいのはこっちです。仕事に失敗した挙句、こんな夜中にレディの部屋のドアを叩く泥棒男と知り合ってしまったこの悲劇」
「まったく、劇的だねえ」
「シェイクスピアもびっくりするよ」
「きっと彼が生きていたらこれを戯曲にしたろうね」
「絶対、売れない」
「そのとおり」

 彼は良く出来ましたと言わんばかりに大仰に手を叩いて私を賞賛した。いちいち演技がかったその態度が気に食わなくて、私は思いっきり顔を顰めてみるのだが、彼は私が嫌がれば嫌がるほど楽しそうにする節があった。案の定、とっても嬉しそうに目を細める彼はピエロのようだ。

「はあ」
「おたくは本当に学習能力に乏しいねえ。ため息はだめだってさっきも言っただろうに」
「うるさいうるさい!」
「かりかりしなさんな。綺麗な顔が台無しだ」
「……」
「なんだよ」

 またついてしまいそうになったため息を寸でのところで飲み込んだ。そして下を向く。これだから、これだから役者は大嫌いだ。思ってもいないことも、さも心の底から思っていましたよ、なんて顔で言ってのけるんだもん。それを演技だなんて呼ぶんだからずるい。嘘と何が違うんだろう。
 急に黙った私に彼は何を思ったのか、さっきよりずっとずっと楽しそうに唇を歪めた。

「ははーん。俺に綺麗な顔って言われて、言葉を失っちゃうくらい嬉しかったんだ。真っ赤になっちゃって、かわいいったら」

 誰か! こいつの口を塞いで!
 屈辱に拳を震わせたところで私の叫びはもちろん誰にも届かない。いや、きっと目の前の彼には、声に出さずとも届いているのだろう。その証拠に、アイマスクの奥の瞳は実に愉快そうにきらめいている。
 誰か!

おしまい

夢小説,短編,その他 1708字 No.18 

ここが私のハビタブルゾーン #カク

 今日はもう駄目だ。
 ウカは早々に今日を良き日にしようとするあらゆる努力を手放した。
 今日を良き日にしようとする努力とは例えば、自分には全く関係ないクレームを処理することになっても「こういう日もある」と自分を慰めたり、確認のたびに違うことを言う上司のせいで余計な仕事が増えても「人間だもの」と上司を許そうと試みたり、口ばかりで手が動かない後輩二人の雑談が気になって仕方なくても「仕事に支障がでてなければ、別にね」と気にしていない振りをしてみたりする、こういうあらゆる努力のこと。体力とメンタルに余裕がある日であれば、これくらい全然へっちゃら。アルカイックスマイルで対応できる。
 でも。
 今日はもう駄目だ。
 今日は寝坊したせいで眉毛しか描いていないし、時間がなくて朝ごはんも食べられなかったし、そもそも寝坊したのは繁忙期でここのところ残業続きだからだし、曖昧な指示しかもらえない資料を仕方なく勘で作ってみたら「これは縦じゃなくて横で作って欲しかったんだよね」と根本からひっくり返されるようなことを言われるし、そしたら別書類の日付と先方の名前は間違えるし、まあとにかく。
 今日はもう、駄目だ。
 こういう日は途端に酸素が薄くなる。呼吸がしにくくて、何度深呼吸しても、酸素は取り込めないし、二酸化炭素は吐き出せない。結果、血がどろどろになって、腕も足も動かなくなって、脳にも酸素がいかないから何も考えられないし、イライラして頭が痛くて、人に全然優しくなれなくて、そんなすぐ余裕がなくなる自分も不甲斐なくて、どんどん、どんどん。息が。

「今日もだいぶ頑張ってきたみたいじゃの~」

 家に帰ってメイク(眉のみ)を落とすことすらせず、ラグの上に倒れ伏した私に、カクのゆるゆるした声が上から降ってくる。私は動くのも億劫だったが、なんとか背中を丸めて膝を引き寄せ、人間が最もリラックスすると言われている胎児姿勢に移行すると「うん、今日は大変だったの」と呟いた。
 「ほれ、ティラミス」とカクがスプーンで掬ったティラミスを口元に持ってきてくれるが、私は「今はハイになれない」と力なく首を振る。ほんの少しだけ驚きを含ませた声で「重症じゃの」と私の負傷ぶりを判断したカクは、掬ったティラミスをそのままぱくりと食べてしまった。

「ひどい……わたしのティラミス……」
「理不尽が過ぎやせんか?」

 カクは私の非道な言い分にも動じない。これくらいはもう慣れっこだと言いたげなベテラン顔で、ラグの上の胎児を寝かしつけるように横たわる。私はもぞもぞと無言でカクの懐に潜り込んでいく。まだ目も開かない産まれたての子犬や子猫が母親に擦り寄っていくように。
 カクの腕の中で大きく深呼吸するとカクの匂いがした。同じ部屋で過ごして、同じ洗剤で服を洗って、同じ石鹸で髪と体を洗うのに、カクの匂いはカクの匂いだから不思議だ。カクの匂いと一緒に酸素を取り込んで、二酸化炭素を吐く。すう、はあ。すう、はあ。繰り返すうちに身体のこわばりが解れてきて、手足が弛緩する。脳がだんだん、まともなことを考え始める。

「ここはあったかくて、いい匂い」
「そりゃよかった」
「私はここを大事にする」
「ぜひそうしてくれ」

 カクは私の背中に回していた腕にぐっと力を込めた。肺が潰れて、せっかく吸った酸素が漏れていく。カクのかたい胸板で私の鼻が潰れていって、脳が甘く麻痺していく。

「ぐるじい」
「そりゃ失礼」

 少しだけ緩められた腕の中で、私は、ぷは、と息継ぎした。そして思い出す。生命居住可能領域、通称ハビタブルゾーン。生き物が生きていくために必要な要素が揃った領域のこと。私が見つけたハビタブルゾーンは、ここ、カクの腕の中だった。
 ここで大きく息をして、灼熱の乾いた砂漠や、凍てつく氷の大地、光の届かない真っ暗な深海、酸素の薄い高い山のような社会に挑み、疲弊したら、また息を吸いにここに戻ってくる。

「でも、もう少し甘えさせて」
「そりゃいくらでも、いつまでも」

 ここが私のハビタブルゾーン(生命居住可能領域)。おしまい

夢小説,短編,ONEPIECE 1714字 No.17 

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