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No.114, No.113, No.112, No.111, No.110, No.109, No.1087件]

ハッピー・バッドエンド 猛獣たちの躾け方 #カク #はな誕

「今日は何の日か知っとるか?」

ウカに呼び出され、多少胸をざわつかせながら開けた執務室のドアの先では、無表情の彼女から淡々と今後の任務の説明を受けた。やれ危険だの、困難極まるだの、正直肩透かしもいいところだ。ウカの、大声ではないけれど部屋にぴんと通るその声を右から左に聞き流し、ようやく発せられた問い──何か質問は?──に返した問いが冒頭のそれだ。

「八月七日が? さて、何の日だったか──」

肩肘をつきながら視線を明後日の方向に漂わせ発したその顔は明らかに見当がついている、といった表情で気に食わない。が、仕方ない。

「部下の誕生日くらい覚えてないわけないじゃろう? 副長官ともあろうお方が」
「ああ、そうかそうか。そうだった。で、誰かの誕生日が何か?」
「まさか『知っているだけ』で済ます気か?」

部下を労わろうっちゅう気はないんか、と重ねると、ウカは大きく息を吐きながら腕を組んでようやくこちらを見据え、すぐ顎に手をやり小首をかしげる。細い首がカラーの隙間からちらと覗いた。ふむ、とも、んん、とも聞こえる、言葉にならない声が薄く開いた唇から漏れ出てくるのがやたらと耳に障る。大した時間ではなかったはずだが、ウカからのはっきりした返答はなく、無意識のうちにつま先が上下に揺れていた。苛立ちを伝えるはずの音は足が沈み込むほどの重厚なカーペットに吸収され、部屋には一切の音が響かなかった。ただ、それを愉快そうに眺めてくる視線だけが鬱陶しい。
カクは負けた。

「祝いの言葉くらいくれても良かろう? 減るもんじゃなし」
「ふ、はは。言葉? そんなものでいいのか」

ウカは上体を反らしながら肩を揺らして笑い、目尻の涙を指でそっと拭いながら、てっきりまた身体でも要求されるのかと思ったよ、と事も無げに言った。瞬間、先日の行為が、温度が、質感が、声が。一気にカクの脳内でリフレインされ下半身にずくずくと熱が籠るのがわかった。逸らしそうになる顔を気合で真正面に保つ。ここで目を逸らしたら負けだ。

「わしは年嵩の上官への労わりは忘れん殊勝な部下じゃもんで。先日はちいとばかし荒々しい趣向じゃったからの。休む時間も必要じゃろう?」
「へえ? お優しい部下をもって私は幸せだ」

次は同意のうえで及んで欲しい行為だけどね。
ウカが呆れたように言い放ち、部屋にはまた静寂が訪れた。沈黙は短いようでいて妙に重たかった。先に動いた方が負けのような空気が漂う。
そう思ったのも束の間、動いたのはウカだった。人差し指をくいと曲げ、口の形だけで『おいで』と指図する。カクが無言でエグゼクティブデスクのぎりぎりまで詰め寄っても指示は変わらない。仕方なく腰を折り、ウカの顔まで頬を寄せると耳たぶを摘ままれびくりとするが鋼の意志で平静を装った。どうせ耳元で艶を纏わせながら、おめでとう、とでも宣うのだろう。聞いてやろうじゃないかと待ち構えていたカクの耳に飛び込んできたのは──。

「ッぅああ?!」

ずちゅ──という水音が脳内にいっぱいになった瞬間、慌てて身体を後ろに引く。耳を這ったのは、ぬるりとしたウカの柔らかな舌だった。全身が足元から総毛だつ。カクは睨みつけることすら忘れ、間抜けな顔でウカを見る。

「なん、ちゅう上官じゃ」
「おいおい、こちらは何を突っ込まれたと思ってるんだ。舌なんて可愛いもんじゃなかったぞ」

ウカがこれ見よがしに舌を出す。子供っぽい仕草は相当不釣り合いだった。

「最ッ悪の誕生日じゃ」
「残念。君は気に入ると思ったんだが。それなら──」

ウカがデスクの引き出しから何かを取り出し、それを机上に置く。パチ、と軽い音がした。ウカが手をどけ、まみえたそれはただの鍵に見えた。意味が分からず、視線だけでウカに意図を問うとウカは、私室の鍵だよ、と口角を上げた。明日には変えてしまうけど、とも。

「はあ!?」
「祝いの言葉はそこで聞かせてあげよう」

まただ。ウカが先ほどと同じ仕草を見せた。人差し指をくいと曲げ、口の形だけで。

『おいで』

カクは机の上の鍵を一瞥し、一度だけ天を仰ぐ。

「……『最ッ悪』の更新じゃ」
おしまい

夢小説,長編・連作,猛獣たちの躾け方 1748字 No.114 

先輩 それすらわたしのひどい嘘 #カク

「今更だけどよォ」

 ジャブラさんがテーブルに足を乗せ、椅子を後ろに大きく傾かせながら、私の書きあげる報告書を待っていた。何の変哲もないただの椅子でその傾きを維持できるのはジャブラさんしかいないだろうなというくらいの傾きで見ているだけでひやひやする。
 司法の島には夜がない。時計の針は午後十時二十分を指していた。ジャブラさんが、悪ぃこれもだった、と白紙の報告書をひらひらさせながら私の席にやってきたのが午後十時ちょうど。私は帰宅しようと立ち上がったところだった。

「はい、今更」

 つい適当な返事をしてしまうが、ジャブラさんは気にも留めない。

ウカちゃんはカクと同期じゃねえか? なんで『カク先輩』なんだ」
「ああ、ええと」

 報告書を書きながら出来る話ではなく、私は黙るしかなかった。

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 カク先輩と私は実は同い年。それなのに私が彼をカク先輩と呼ぶのは子供の頃の戯れの延長だ。カク先輩はもしかしたら呼び名を改めさせる機会を失っているだけかもしれないが、私は本人から明確にやめろと言われるまではこのまま呼び続けるつもりでいた。私にとっては大事な思い出だから。

 自分がいつからグアンハオにいたのかは思い出せない。一番古い記憶はグアンハオの森でオニに見つからないようにそっと息をひそめていたかくれんぼ。両親の顔は覚えていないし、たぶん知らないんだろう。悪人でなければ嬉しいし、私を失ったと悲しんだりしていなければいいと思う。
 ジャブラさんは、私が物心ついた頃にはグアンハオではもう過ごしておらず、たまに島を訪れてはルッチさんやカクにちょっかいを出していた記憶しかない。私も今と同じくらい良くしてもらった。
 私のこの体質は幼い頃からだ。訓練では私と組みたがる子達で喧嘩が始まり、食堂にいけば私だけよくおまけをしてもらうのに誰もそれを妬まない。こっちの服の方が綺麗だと交換を申し出てくる子がいたり、肌寒い夜は隣の子が自分の毛布を知らぬ間に私にかけ本人が風邪をひいていた。特定の子ではない。『私の近くにいる子』がだ。その子たちは文字通り私から離れると、ふっと我にかえるようで、私はよく遠くから不思議そうな目つきで見つめられた。物理的に私の近くにいる子、がそのようになるし、大人たちも私には好意的だったから、誰も私の体質には気がつかなかったらしい。
 カクとは同い年だったから同じ訓練を受けることも多かったが、あまり接点はなかった。カクは人当たりのいい子ではあったが、ひとりでいることも多く、対して私の側には常に誰かがいた。それに、カクはこの頃から優秀だったので年上の子達との訓練にも混ざることもあったし、彼の老成した口調はこの頃から仕上がっていたので、同い年の子供たちはちょっとだけ遠巻きにしていたのだ。
 うんと幼い頃はまだ良かった。トラブルといえばせいぜい子供同士の喧嘩で済むものばかりだったし、力にもあまり差がなかったから。だが、十歳を過ぎたあたりでトラブルが少しずつ複雑になっていった。喧嘩に怪我が伴うようになったり、男女問わず身体への直接的な接触が増えてきたのだ。急に手をつながれたり、腕を組まれたり、抱きつかれたり。肌の露出を少なくすると効果が弱まる、と発見できたのもこの頃だ。そのことに気づいてからの夏は地獄だった。
 グアンハオでは、特に、子供達に大した自由はない。服は古着を適当にあてがわれるだけだ。夏でも涼しい長袖のシャツなんてものが手に入るはずがなく、この発見をしてからは半袖のTシャツの上に、長袖のカーディガンを羽織って過ごすようにした。おかげでトラブルは大分減ったが、体力は相当削られることになり、ついにそれが起きた。

 その日の訓練は持久走だった。施設の周りの森の中を何周も走るというもので、私はすぐビリになり、仲間たちの背中はすぐに見えなくなった。その日は気温はそう高くないが湿度が高かった。当時の自分には熱中症なんてものの知識がなかったのだ。周りの大人たちも私が「この服を着たい」と言えば無理矢理脱がせることはしなかった。そう、彼らの好意は、決して私を守るものではない。当たり前だが、私は眩暈に襲われあっけなく森の中で膝をついた。這うようにして移動し、手ごろな木を背に座り込みうずくまる。くらくらする頭に響いてきたのはリズミカルな足音だった。それが止まって、声がする。

「辛そうじゃの」

 頑張って頭を持ち上げると、スタートと同時に一番手で颯爽と走り抜けていったカクが眉を下げた心配そうな顔でこちらを覗き込んでいた。私はあっという間に追いつかれたのだろう。彼は、返事をしない私の額に手を当て、うわ、という顔をした。

「おぬし、まずいぞ。ひとまずその上着は早く脱ぐんじゃ」
「あ、いや、でも」
「いいから早く」

 回らない頭で必死に考えた。服を脱いだら、きっとこの子もみんなと同じになる。脱ぐのはまずい。でも、脱がない言い訳も考えられない。何より暑い。でもどうしよう。脱ぎたくない。まずい。どうしよう。もうわかんない──。
 黙ったまま動かない私に、カクは実力行使に出た。私から無理矢理カーディガンをはぎ取ったのだ。

「あ……っ、はな、れて!」

 抵抗する力も残っていない私は必死にそれだけ言った。だがカクは私の言葉を無視し、はぎ取ったその上着で力いっぱい私をあおぐ。ばさばさという音に合わせてふいてくる森の涼やかな風を受けた私の身体はどんどん冷えていった。息が整い、体温が正常に戻り、思考が追いつくのにあわせて、私の不安はぐんと増していく。無表情で私に風を送っているカクが、いつ、みんなのようになるかわからない。私から距離を取れるようにしたいが、優秀なカクを前にそれが出来るだろうか。そう思い始めたら変に緊張してくる。その時、風が止んだ。

「ひとまず大丈夫そうじゃの。じゃあの」

 カクは風を送るのに使っていた私の上着を差し出し、私に背を向け始めていた。え? うそ──。

「ま、まって」

 思わず出たのは引き留める言葉。さっきまで、どうやって離れようかと思っていたくせに。
 カクは、私の声に素直に反応してまた身体をこちらに向けた。けれど、カクから歩み寄ってくることはない。確かめたい。なんとしても。これまで誰にも聞けなかった。聞いてしまったら決定的になる気がして。でも。彼は、私を。私のことを──。

「わ、私のこと──好き?」

 一瞬の間。
 カクは思いっきり顔をしかめて、はあ? と呆れた声で返事をしてくれた。決まりだ。カクは私を好きにならない。私は嬉しくて嬉しくてぼろぼろと涙が出て、またカクを呆れさせた。カクは呆れ顔のまま私が泣き止むまでそこから離れなかった。

 遠くからザッザッザッという足音が近づいてきて、カクは涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっている私の手を引き、森の奥深くにコースアウトした。ひらけた場所にふたりで腰を落ち着ける。私はハンカチで鼻をかんで、ようやくお礼が言えるようになった。

「助けてくれてありがとう。あと、変なこと聞いた上に泣いちゃってごめん。カクの返事に傷ついたわけじゃないから」

 我ながら何の説明にもなっていないと思ったが、カクは、そうか、と頷くとそれ以上追及してこなかった。それをいいことに、ああいうときの対処はいつ覚えたのかと問うと、年上の子供達との訓練中に似たような症状で倒れた子供がいたのだと返ってくる。

「そうなんだ。カクはすごいね。年上の人たちと訓練してるだけでもすごいのに、あんなふうにすぐ対応できるなんて。同い年なのに先輩みたい」
「別にすごくないわい。この暑いのにあんな服で走り込みなんて、そっちのほうがすごいじゃろ。悪い意味で」
「うん。そうだよね。そうなんだけど──」

 私はまたしても口を噤んだ。自分の周囲にいる人間が無条件で自分を好きになる、肌の露出をおさえるとそれが少しましになる気がする、なんてあまりに馬鹿げている。なにより目の前のカクには、それがあてはまらないのだ。何と説明すればいいのか迷っているうちに、カクはこの話題への興味を失ったようで、そろそろ戻るかと立ち上がって訓練に戻っていた。

 数日後。カクは私に薄手のカーディガンをくれた。薄手で、さらさらとした肌触りが気持ち良い。風がとおり、汗ではりついたりしない。夏場でも着ていられそうなそれは、古着には見えなかった。驚きながら、どうやって手に入れたのか問えば、訓練で知り合った政府筋の家の子に融通してもらったという。

「わしは先輩じゃからのう。これくらい朝飯前じゃ」

 カクはにっと笑って続けた。

「気休めでもなんでも、ウカには上着が必要なんじゃろう?」
「──、うん。そう。そうなの」

 それ以上は言葉にならなくて、私はただただ薄いカーディガンをぎゅっと抱きしめた。彼がくれたそのカーディガンは、他の子供たちがくれた服や食べ物や毛布とは明らかに違う。間違いなく、彼自身の思いやりと気遣いが形になったものだった。

「やっぱり『先輩』だ」
「そう呼びたきゃ、呼べばええわい」

 私を守ってくれたのは『先輩』だけ。
 私を好きにならないカク先輩。私はそんなカク先輩が好きだ。

おしまい

夢小説,長編・連作,ONEPIECE,それすらわたしのひどい嘘 3839字 No.113 

目の覚める悪夢 #ブラック・ジャック

 夜も更け、ピノコもとうに寝静まり、波の音しか聞こえなくなった頃。ようやく書類に目を通し終えた。凝った肩をほぐすようにぐるぐると腕を回し、伸び、疲れた目をこする。時刻は午前二時を少し回ったところだ。少し水を飲んでから寝よう、と書斎のドアをゆっくりと慎重に開ける。この自宅兼診療所を建ててもう何年にもなるがドアがギイギイと古臭い音を立てるようなことは幸いまだない。とはいえ、真夜中だ。物音でピノコが起きても困る。

 廊下に出てみると、病室から明かりが漏れているのが分かった。ベッドサイドのナイトライトだ。こんな時間に、と眉を寄せる。今あの部屋にいるのは。
 小さいノックを二回。はい、と応じたのはウカだった。

「寝付けないのか?」廊下から声をかけた。
「先生……」

 彼女は質問に答えない。入っても? と問うと、どうぞ、と返事があった。こんな夜更けに女性の寝所に入る気が引けたが彼女の声には放っておいてはいけない何かがあった。
ウカは春用の薄いパジャマを着て震えていた。気温はそう低くないはずだが、汗が冷えたのかもしれない。応急処置として隣のベッドから毛布をはぎ取って肩からかけてやる。ウカの身体がびくりと跳ねたことで、自分の手が彼女の肩に触れたことに気づいた。すまない、と謝るとウカは、私こそすみません、とさらに小さくなった。

「真っ青で──まるで病人じゃないか。一体どうしたんだ」

 彼女は患者としてここにいるわけではない。
 彼女はピノコの遊び相手で、相談者で、教師だった。今日はたまたま私の帰りが遅く、彼女を家まで送り届けることができなかったため泊まってもらったのだ。ピノコは大層喜んで夕飯がステーキになった。当然、私の分の肉はない。

「先生」
「なんだ」
「先生が病気になったら──、どうなりますか?」
「はあ?」

 彼女の質問は突飛で私は間抜けな声しか出せなかった。私のぽかんとした様子に、彼女はむきになり、大事なことです、と続けた。
 彼女はふざけているわけではなさそうだ。窓の外から見える今夜の月は細く、ベッドサイドのナイトライトがなければ彼女の表情は窺えなかっただろう。安っぽい光に照らされるウカの顔は今にも泣き出しそうだった。
 これが患者ならいくらでも対応の仕方がある──といっても大抵「甘えるな」と怒鳴るくらいな──のだが彼女は患者ではない。

「私が病気に?」仕方がないので復唱する。
「それは、医者の不養生ってやつだ」
「いいえ先生。そういうことではないんです」
「じゃあ何だっていうんだ」
「……」
「どうしたんだ?」

 私が今日何度目かのどうしたんだを口にすると、ウカはようやく話し始めた。彼女の目にはいつの間にか涙が滲んでおり、潤んだ瞳にはナイトライトの明かりが反射してキラキラ揺らめいていた。

「先生は世界一の名医です」
「ああ、その通りだ」
「日本だけじゃない。世界中の人が、先生に診てもらいたくてやってきます」
「ああ、そうだな」
「でも先生──」

 ウカはそこで一旦言葉を区切って手の甲で涙を拭った。

「先生が病気になったら、誰が先生を治すんですか?」

 私にとっては愚問と言わざるを得ず即答する。

「自分でやるさ」
「手術も? 動けなくなったら? 誰が先生を助けられるっていうんですか?」

 こんなに感情的なウカは初めて見る。彼女も自覚しているのか、そこまで言い切ると、ごめんなさい、と結んで黙り込んでしまった。そしてナイトライトをそっと消す。いきなり変わった光の量に私の瞳孔は追いつけない。少しして、ようやく暗闇に慣れた私の目がとらえたのは、あふれる涙を拭おうともせず、ぼろぼろと零しっぱなしにただただ泣くウカの姿だった。

「先生、死なないで」

 ほとほと困り果てた私は、ウカの頭をただただ撫でてやることしか出来なかった。

目の覚める悪夢
それは想像を絶する恐怖だった

おしまい

夢小説,短編,その他 1645字 No.112 

俺の友達 #ハン・ジュンギ

 酒の勢いは怖い。
 昨夜、ひとり酒を飲んで暇を持て余していた俺はうっかり前々から秘めていた野望を友人にメッセージアプリで語ってしまった。いや、正確に言えば、肝心のところは明日のお楽しみ、と適当にぼかし、そして煽って、今日の約束を取り付けてしまったのだ。いつもなら忙しくしていてなかなか捕まらないはずの友人が、昨夜に限っては即レスという悲劇。加えて今日も珍しく時間があるからと、悠々とした態度でアイスミルクをストローで吸っている。こんなこと、今まで一度だってなかったのに。

「カルシウムは骨にいいですから。たまにはいいものですね」

 ハン・ジュンギはいつの間にか無音でアイスミルクを飲み終えていた。俺のコーヒーもそろそろカップの底が見えてくる。飲み干すのをためらって、まだほんの少しのコーヒーが残っているカップをソーサーに置いたタイミングで、ハン・ジュンギが待ってましたとばかりに口を開いた。

「で? 今日は何を買うのに付き合わされるんですか?」

 つい目を逸らし、だが逸らしているにも限度があり、諦めてもう一度ハン・ジュンギを見ると、彼は柔らかい笑みをたたえたままだ。かえって血の気が引く。

「いやあ、やっぱりいいかなあって」

 酒の勢いだったことは黙っておこう。そんな軽薄な誘いは、忙しい友人の時間を奪う理由にはとてもならない。だが、それを聞いたハン・ジュンギはあからさまに眉を下げた。

「何を恐縮しているのか知りませんが、私は別に怒ってないですよ。突然で一方的な約束には驚きましたが、おかげさまで久しぶりにこうして会えましたし」

 いつも忙しなくて申し訳なく思っているんですから、とハン・ジュンギはストローでグラスの中の氷をくるくると弄ぶ。溶けた水のおかげでまだ残っている氷は勢いよく回った。ハン・ジュンギはそこでも音を立てなかった。

「そ、そう? じゃあ、やっぱ付き合ってもらおうかな」

 百八十度反転させた答えは彼を満足させたらしい。それではさあ続きを、と目で促してくる。そんな大した話ではなかったのに、己で放った矢がブーメランのごとく急旋回し刺さるような心地だった。だが、ハン・ジュンギの期待のこもった眼差しにすぐ屈した。

「そのコート、俺も欲しい」
「コート? 今、私が着ているコートですか?」
「そうだよ。それ。どこのやつ? ……結構、する?」

 ハン・ジュンギは、わかりやすく頭の上に大きなクエスチョンマークを浮かべ、首を傾げた。

「大した服ではないですよ。汚れたらすぐ処分できるようなものですし」
「そうなのか。てっきり、どっかのいい服かと思ってた」

 お前が着るとユニクロでもブランド物に見えそうだもんな、とそっぽを向いてぼやくと、ハン・ジュンギが手を口元に添え、ふ、と小さな笑いをこぼした。

「あなただって手足も長いし、顔も小さい。あなたも似合いますよ、ユニクロ」
「顔の良し悪しにもコメントしろよ」
「顔なんてどうとでもなりますから」

 事も無げにそう言ったハン・ジュンギは、本当に心の底からそう思っているようで不思議だった。顔なんてどうとでもなる、というのが整形のことを言っているのだとしたら、俺とは世界が違い過ぎるんだろう。違い過ぎるが、それでもこいつは普通で平凡な俺ともこうして会って話して遊んでくれる。世界の違いを感じさせずに。

「それに手足を伸ばす方が難しいでしょう」
「まあそれもそうか。じゃあいいか」
「言葉を言葉通りに受け取れるのはあなたの美点ですね」
「え? やっぱり似合わないって意味?」
「いいえ。そんなにこれが気に入ったのなら一着差し上げます。今度会う時持ってきますよ」

 まじで!? と身を乗り出した俺を見て、ハン・ジュンギは珍しく大きな口と声で高らかに笑った。目尻に涙が滲んだようでそれを指でついと拭いながら、まだ肩を揺らしている。
 本当に愉快ですね、と言いながら呼吸を整えたハン・ジュンギがたくらみ顔でこちらを覗き込む。

「今度、それを着て一緒に異人町を歩きましょう」

 また身を乗り出す羽目になる。

おしまい

夢小説,短編,その他 1716字 No.111 

指絡む それすらわたしのひどい嘘 #カク

 尋問せずにうっかり息の根を止めてしまった男に関する報告書は、ばれずにうまく上まで通ったらしく、なんのお咎めもなかった。ジャブラさんは、完璧! と太鼓判を押してくれていたが、正直不安しかなかったのでひとり胸を撫でおろす。

「どんな手違いがあればお前さんがCP9に配属されるんじゃ」

 ホテルのフロントまでカク先輩を見送った際に言われた言葉だ。
 カク先輩はあのあとすぐに、政府が用意した船で潜入先のウォーターセブンに戻っていった。カク先輩の顔は、苦虫を嚙み潰したような顔、のお手本みたいな顔だった。すみません、と小さくなるしか術がない。

「へましたお主の尻ぬぐいも、今日みたいな始末もごめんじゃ。そうなる前に元いた部署に戻れるようかけあってやるわい。感謝せい」

 カク先輩はそう言って、一寸先は闇、という感じの夜に溶け込んでいく。見送れたのはコンマ何秒、という程度の時間だった。
今日みたいな始末──そういえばカク先輩は、なぜ事前の打ち合わせとは違う行動をとったのだろう。あと数メートルで打ち合わせ通りの状況となるはずだった。時間にして恐らく数秒程度。その数秒を待ってもらえなかったのはなぜだろう。
 色々思いを巡らせて考えてはみるけど、結局、CP1ですら荷が重い私にはとても思い至らない理由なのだろうと結論づけ、部屋に戻る。壁越しでも聞こえるジャブラさんのいびきを聞きながら、私も気を張って疲れていたのか、そのまま、すこん、と眠りに落ちた。

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「ま、またですか?」

 翌朝。早速、次の任務に関する命令書がジャブラさんに届いていた。つい驚いたのは、昨夜ウォーターセブンに戻っていったばかりのカク先輩との任務を再び命じられたからだ。何でも、今日から三日後、ウォーターセブンからほど近いリゾート向けの離島をほぼ貸切るような形でアンダーグランドなパーティーが催されるらしい。客層は若く、年齢の近い私たちが選ばれたとのこと。ブリーフィングは当日カク先輩と落ち合って実施せよとのことだ。

「あとこれ大事なポイントな」
「なんでしょう?」
「いちゃつけ」
「え?」
「恋人として振舞え、だとよ」

 カクばっかりずりぃなあ! と吠えるジャブラさんを尻目に私は言葉を失って固まるしかなかった。

 任務当日。離島入りする船内で落ち合ったカク先輩は明らかに機嫌が悪かった。理由は片手じゃ足りないほど想像できる。ひとつ、任務の集中。ふたつ、休みなし。みっつ、よって寝不足。よっつ、私と一緒。いつつ、恋人設定──。
 カク先輩はアロハシャツにハーフパンツといったリゾート地に似合いの装いで船に乗っていた。私もリゾートの雰囲気は損なわないようにマキシ丈のワンピースにしたが、なるべく肌の露出が少なくなるようにカーディガンを羽織る。パーティーは夜からで、カップル限定のイベントらしい。参加者は各々で用意した仮面をつけることになっているのだという。

「そろそろはじまるのう」

 いくか、と仮面をつけて立ち上がるカク先輩に私も黙って後をついていく。ブリーフィングではターゲットとパートナーの最終確認、二人の行動予測、そして聞き出す情報の確認に終始してしまい、ジャブラさんが『大事なポイント』と強調した、恋人としての正しい振る舞いについては何も確認できなかった。
 どうしよう。せめて隣を歩かないと、と貧弱な知識を総動員し、歩幅を大きくしたところでカク先輩が振り向いた。

「て」
「て?」
「とりあえず手でも繋いでおけばわかりやすくていいじゃろ」

 カク先輩はうんざり、といった声音でため息交じりに言葉を尽くし説明してくれた。そしてそのまま、私の身体の横でだらんと垂れていただけの手を掴み、指先までしっかり絡める。

「ひ」
「仕事なんじゃから、ちゃんとせんか」
「す、すみません」

 カク先輩はシャワーに持っていくタオルくらいの気安さで私の手を握った。さらに言えば、シャワーのタオルと一緒で、必要だから、以外の理由がなさそうな握り方だった。私は力をいれてもいれなくても変な気がして、結局一ミクロンも動かせない。カク先輩は何も言わない。

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 任務は順調だ。ターゲットへの接触は容易で、お酒の力も借りながら、難なく情報収集が進んでいく。

「それにしてもお前のその仮面! その鼻! 良いセンスしてんなあ!」
「ワハハ、そうじゃろ~?」

 さすがカク先輩。この怪しいパーティーを心から楽しんでいるようにしか見えない。ターゲットはさっきからこの調子で、ぼろぼろと情報を落としていた。

「爺ちゃんの彼女ちゃんも、ちゃんと飲んでる?」
「飲んでる飲んでる! 気にしてくれてありがと~!」
「俺ら、なんか食うもんとってきてやるよ。待ってな」

 ターゲットがパートナーを連れて場を離れた。あからさまにならないよう細心の注意を払って、そっと息をつく。良かった。今回の二人は、触れてこようとするタイプの人間ではなかった。本当に安堵した。

「相変わらず、好かれとるのう」

 カク先輩が独り言みたいに言うから、返事をするべきか迷った。私じゃなくてカク先輩が、と答えようとしたのに、カク先輩は私の言葉を待たずに言葉を続ける。

「まんざらでもなさそうじゃし」
「それはッ!」

 大きな声が出て、カク先輩がこちらに顔を向けるので、うっとたじろいだ。目が合うわけではないが、見つめられている気がする。きっと、あの人を殺せそうな目だ。
 ちがいます、と辛うじて音にするが、フロアに鳴り響く爆音であっけなくかき消えている可能性の方が高い。
 カク先輩の表情はもちろん仮面で隠れていてわからない。わからないけど、そうか、とそれだけが聞こえてきて、私は、ああよかったと心から思った。
 ターゲットカップルが皿を両手に戻ってきた。見かけによらず律義なやつらじゃのう、と笑う。そしてまた手を──。

「カク先輩?」
「まだ仕事中じゃろ」

 カク先輩は空いている方の手を軽くあげ、ターゲットに礼を言いながらお酒を受け取っている。
 私の手を握る力はさっきより強い気もするのだが、そうだとしても理由がわからず、私は結局またどうすればいいのかわからないままカク先輩と触れ合う肌が少なくなるように、とそれだけに気をつけていた。
 恋人のフリ、絡む指、繋ぎなおした手と手。なにかもがわからないまま、夜が更けていく。
おしまい


 

夢小説,長編・連作,ONEPIECE,それすらわたしのひどい嘘 2729字 No.110 

全部内緒の初体験 #カク

 カウンターでご飯を食べながら飲んでいたら。いや正確には、飲みながら、ご飯ということにして肴をちびちびつまんでいたら。お店のドアベルが鳴って、同時に冷たい夜風がぴゅうと店内に吹き込んだ。日中は春めいて暖かくても、夜はまだまだ冷え込む。せっかくお酒で温めた身体が一気にぞわりとして、己を抱きしめるようにして両手で肩をさする。早く閉めてよね、と眉を顰めながら風の吹き込むドアを睨むとそこに立っていたのは見知った顔だった。

「あれ? カクくん?」

 うっかり出た酔っ払い特有の大きな声は、他の酔っ払いたちの声には負けずにカクくんに届いたらしい。カクくんは私の声のした方に顔を向け、目が合うと、にぱっと笑った。そのままテーブルとテーブルの狭い間を縫うようにして、大股でずんずんとこちらに向かってくる。え、なんだ、なんだ? カクくんの脚は長いから、あっという間に私のところまで辿り着いた。

「こんばんは、いい夜じゃの」

 カクくんは当然のように空いていた私の右隣りに座って、それうまそうじゃな、と言った。カクくんも酔っぱらっているのか、いつもより人懐っこいし、砕けた感じだし、笑顔がまろやかだ。仕事の時も感じのいい子だとは思っているけど、こんなに緩んだ顔は見たことがない。初めての顔と声と態度に、なんだかびっくりして私の酔いが醒めそうになる。

「おいしいよ、同じの頼む?」言いながらメニューを手に取るが、カクくんは、かたじけないが、と首を振った。かたじけない、て。
「ひとり? 珍しいね。いつもはパウリーとかルッチさんとつるんでるじゃない」
「さっきまで一緒じゃったよ」
「ああ、どおりで。随分飲んだんだね」
「いや、まあ」

 カクくんは本当に酔っぱらっているらしい。ふにゃふにゃと語尾を濁し、それ以上は何も言わなかった。意外と、お酒に身を委ねるタイプだったのか。仕事をしているカクくんしか知らないからちょっと新鮮だ。でも、いや、まって。そもそも。

「カクくん、どうしたの?」

 なんでここにいるの? とはさすがに言わないが、口の中はその言葉でいっぱいだ。うっかり漏れ出ないように、お酒を煽ってお腹まで流し込んでおく。カクくんの答えは、工房のボスに聞いたんじゃ、というもので全く要領を得ない。
 工房、というのは私が配属されている部署のことだ。船のあらゆる装飾を主に担当していて、人数は私を入れても三人ぽっち。文字通り工房に籠っての作業が多くて、あまり他部署と一緒んに作業することはない。

ウカさん、ヤガラ飼っとるんじゃろ?」カクくんの話題は唐突だった。
「ああ、うん。元々実家で飼ってたヤガラちゃんだけど」

 両親が知り合いから若いヤガラを譲り受けたというので、私が昔から飼っていたヤガラを引き取ったのだ。おじいちゃん、というほどではないけど、おじさん、くらいではあるかもしれない。子供の頃から一緒に育ったヤガラだ。

「わし、実はヤガラには乗ったことがなくてのう」
「ええ、そうなの!? 意外だね」
「わしはほれ、みなさんの屋根が足場じゃから」
「ああ、そうか。カクくんは水路なんて関係ないのか」

 カクくんが造船島から軽やかに下町へダイブするのをもう何度も見てきた。落ちているはずなのに浮いているように見えるのがいつも不思議だ。

「そう、だから」
「ん?」
「明日、ウカさんとこのヤガラに乗せてくれんかの?」

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 よくわからないまま、朝がきてしまった。なんで断り切れなかったんだろう。ベッド脇の窓からはレースのカーテン越しに朝日が燦々と降り注いでいて、今日が快晴であることを物語っている。窓下の水路にいる当のヤガラちゃんはまだ眠っているようだ。
 え、なんでうちのヤガラに乗るの? 他に飼ってる人たくさんいるよね? 頼める人いないのかな……。あれ? パウリーってヤガラ飼ってなかったっけ? よく乗って怖い人たちから逃げ回ってるイメージがあるんだけど。
 昨夜カクくんにぶつけられなかった疑問が次から次へと沸いてくる。湧いてくるがもう遅い。今からカクくんに断りの連絡を入れる術はないのだから、少なくとも、待ち合わせ場所には行かなくては。そうだ、ただ貸すだけだ。何か事情があるのかもしれないし、カクくんに限って、パウリーみたく良からぬことにうちのヤガラを巻き込むなんてことはないだろう。
 ベッドからのろのろと起き上がり、ひとまずクローゼットを開けてみた。
 どうしよう。気合が入りすぎても恥ずかしいし、かといって、適当すぎる格好もなんだかそれは、ちょっと嫌。
 右手をクローゼットの端から端まで散々往ったり来たりさせて最終的に私が手に取ったのはボートネックのニットとワイドチノパン。足元は迷って迷ってたくさんの言い訳をしながら、ストラップ付のミュールにした。顔を洗って、眉を描いて、メイクは最小限。ヘアオイルで髪を整えて、ピアスを……と手を伸ばしたところで、いやいやいや、デートじゃないって!
 外に出ると、ヤガラちゃんがニイニイと鳴きながら円を描くように水路を行ったり来たりした。久しぶりのおめかしを面白がられているような気もする。耳にはピアスが揺れる。

 カクくんが待ち合わせに指定したのは、昨日飲んでいたお店のすぐ近くにあるカフェだった。造船島には何店舗もある人気店だ。時間より早めについてしまったので、お店の窓ガラスに映る自分を何度も確認してしまう。うちのヤガラを見せるだけ、それに乗ってもらうだけ。それなのに気合入りすぎだろうか? やっぱりミュールはやめておいた方が良かったか? ピアス外しちゃおうかな。全然自信が持てない。
 まだ待ち合わせまで十五分もある。やっぱりピアスは取ろうかな、と耳たぶを触りながらミュールのつま先を見つめていたら、

「すまんすまん、待たせたのう」

 慌てて声がした方に顔を向け耳から手を離す。

「いや全然! 待ってないよ」

 思ったよりずっと大きい声が出て恥ずかしくなるが、カクくんは、それなら良かったとただ微笑むだけだった。
 休日のカクくんは大きめのTシャツに細身のパンツを合わせていて、手足が長くて顔が小さいから、それだけでも十分お洒落に見えた。仕事着しか見たことがなかったから新鮮だ。そんなお洒落なカクくんは私のおめかしには無関心のようで、着いて早々、水路ではしゃぐうちのヤガラに気づき、しゃがんで声をかけている。

「水水肉を持ってきたんじゃ。あげてもいいじゃろうか」
「わあ、ありがとう。好物だから喜ぶよ」

 ヤガラは喜びを全身で示したいのか、水路をくるくると回って大はしゃぎだ。カクくんにもそれが伝わるのか、ワハハ、喜んどる喜んどる、と嬉しそうだ。当たり前だけど、本当にヤガラに乗りに来たんだな。勝手にちょっと緊張して、勝手にちょっとおめかししてみて、これはこれで楽しかったけど、この分だと用事はさくっと済みそうだ。しゃがんだままのカクくんを見下ろす形で一気に説明する。

「ええと、じゃあ改めて。そこにいるのがうちのヤガラちゃん。船はカップルシートで大きめだけど、一人でも乗れるしその分荷物も積みやすいと思うよ。用事が済んだところでもう大丈夫って言えば、勝手にうちに帰ってくるから。あ、空腹になると煩いから、お昼頃に水水肉あげてね」

 街の人なら誰でも知ってるようなことだったけど、乗ったことがない、というカクくんにはひとまず言っておくことにした。一度にたくさん捲くし立てたせいか、カクくんは元々丸い目をさらに丸くして、二度三度、瞬きをした。

「他に何か聞きたいことある?」
ウカさんも乗るじゃろ?」
「え? 私?」

 ヤガラだけが無邪気にニイニイと鳴いて、肉はもっとないのか? と水路をうろうろしていた。

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「一緒に乗らん選択肢があったことに驚きなんじゃが」
「え、だって昨日、ヤガラに乗ったことがないから乗せて欲しい、って」
「初心者に大事なヤガラを預けて放り出すつもりじゃったんか!」

 言われてみれば。
 休日にカクくんに会わなきゃいけない、ということで頭がいっぱいになってしまって、色々考えが足りてなかった。カクくんは、さすがウカさん、とお腹を抱えて笑っている。
いやでも、私は。

「いや、それは、確かに。そう、なんだけど」
「なんじゃ? 今日は都合でも悪いんか?」

 笑いすぎて目尻に滲んだ涙を拭いながらカクくんは気を遣うようなこと言った。
 言うか、言うまいか。言わずに帰ることだってできる。でも。

「……、内緒にしてくれる?」
「そう頼まれれば」

 カクくんに茶化すような雰囲気はまるでなく至極真面目な顔をしてくれたから、胸の中でぐるぐると右往左往していた思いが、すっと言葉になって出てくる気がした。

「実は私も乗ったことがないの」
「へ?」
「水が、怖くて」

 カクくんはやっぱりまた丸い目をぱちぱちさせた。
 そしてすっと立ち上がって腕を組んで、ちょっと考え込むような素振りをした。言葉を選んでいるようだった。

「どれくらいなんじゃ? 例えば水に近づくと足がすくむとか、怖くて水路に近づけないとか」
「あっ、そんなひどくはない。小さい頃、水路に落ちて溺れかけて。それ以来、ヤガラには一度も乗らずにここまで大人になってしまったの。水路に落ちる人もやっぱりゼロじゃないし……だから、怖い気持ちを抑えて、今更チャレンジする理由もなくて」
「わしは理由にならんか?」
「カクくんが?」
「そう。カクくんと一緒に乗るためにちょっとチャレンジしてみてくれんかの」

 真面目な顔して言うものだから思わず吹き出してしまう。

「──カクくんが一緒なら、ちょっとだけ」
「水には絶対落とさんから」

 カクくんがそう言うならそうなんだろう。なんだか、ふっと心が緩む。
 生まれて初めて乗るヤガラの背はミュールでは覚束なかったけど、カクくんの手を取る口実にはなった。

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 もしかしたらうんと小さい頃は両親に抱えられて乗ったことがあるのかもしれない。記憶の限りでは初めて乗るヤガラの背中は思っていたよりずっと安定感があった。先にカクくんが乗ってバランスを取ってくれたし、当のヤガラちゃんも、まさかお前ついに乗るのか!? と驚きつつ、何やらいつもよりきりっとした顔つきで背に乗る私を見守っていた。
 恐る恐る及び腰で船に乗りすぐ座る。カップルシートは通常の二人乗り用の船と違って、前後ではなく二人が横並びで座れるよう、背もたれがなく広々としている。進行方向に対して横向きで座ることになるけど、スピードを出す必要がなければ賢いヤガラちゃんにすべて任せておけばいいので十分だ、と両親は言っていた。でも私が聞くべきはそこじゃなかったはず。

「で、なんでカップルシートなんじゃ?」
「両親の趣味! それだけ!」

 誤解されては困るので即答する。
 カクくんは、へえ、片眉をあげてそれ以上何も言わなかった。私も初めての水の上で余裕がなかったし、あれこれ言うとかえって信じてもらえなさそうだからそのまま黙る。ヤガラちゃんは気を遣ったのか、観光客の多い大きな水路を避けて、地元の人しか使わなさそうな静かな水路を選び、ゆっくりと泳いでくれた。家と家の間に張り巡らされている水路は少し薄暗い。でも、家と家で切り取られた空から差し込んでくる光が水面に反射してきらきらと眩しく、その光景は私の恐怖心をあおらなかった。それよりも、さっきからずっと左肩がカクくんとぶつかっている。そちらの方が私の心臓を混乱させていた。

「どうじゃ? 降りるか?」私の内臓がどうなってるか知らないカクくんが心配そうに尋ねてくる。
「ん、まだ、大丈夫」
「お、そりゃ重畳」
「カ、カクくんは、ヤガラに乗って何かしたいことがあったんじゃないの? 買い物とか」

 早鐘を打つ心臓を誤魔化したくて、話題を振る。この鼓動はどちらのせいか自分でもわからない。水の上だから? それとも──カクくんの隣だから?
 カクくんのヤガラに乗りたい、は、ヤガラを借りたい、だとも思っていた。ヤガラちゃんは力持ちだから、家具を買って運んでもらう人もいる。この街は、水に物を浮かせて運ぶ方がずっと楽だ。

「ちょっとだけなら付き合えるよ。どこか行きたいところがあった?」
「ん、その、まあ、なんていうか」
「なに?」
「女の人は何をもらったら喜ぶんかのう」

 カクくんはまっすぐ前を、つまり私とは目を合わさずに、キャップを深くかぶり直してから、耳と頬を染めて言った。
 さっきまで熱いくらいに感じていた左肩が急速に冷えていく。何か言わなきゃ。何か。

「ええ、なんだろう。でもそれなら造船島の中心街に行った方がお店もあるよね。ヤガラちゃん、ありがとう。造船島に戻ってくれる? ……なるべく揺れない感じで」

 びっくりしすぎて早口になってしまったが、ヤガラちゃんはちゃんと聞き取って、ニイ! と元気よく鳴いた。カクくんは、そうじゃな、と小さく応じるだけだ。もっと深堀した方がいいのかな、と思ったけど、そんな気になれなくて、つい『まだ水が怖いんです』という振りで私も黙ることにする。あーはいはい、そういうことですか。別にカクくんが女性にプレゼントをあげたって、そのアドバイスを私に聞いたって、なんの問題もないはずなのに。ちょっと、面白くない。

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 ぼうっと水面を眺めていたら、あっという間に水門エレベーターの前まで来ていた。もちろん、中に入るのは生まれて初めてだ。ヤガラちゃんは、お急ぎくださいというエレベーターガールのアナウンスにも動じず、優雅に門へと泳いでいく。タイミングが良いのか悪いのか、利用者は私たちだけだった。狭くもないが広くもない縦穴の門が閉まると塔内に水が満たされていき、上の造船島に移動できる。
 初めて入った水門エレベーターは想像していたよりずっと暗かった。門が閉まると、光が入ってくるのは上部の開放部だけになる。首が痛くなるくらい曲げて見上げても、切り取られた空は随分小さい。注水が始まると轟音が石造りの塔内で一層反響した。

「おお、結構迫力があるのう」

 カクくんはアトラクションを楽しむような軽快さで言った。私は妙な緊張を覚えながら曖昧に頷く。
 早く上に着いて欲しい。水位は結構なスピードでどんどん上昇した。同時に、注水されている水の量にちょっとぞっとする。結構なスピードで上昇していて、半分くらいまできたかな、もう少しの辛抱かな、と思ったあたりで急に上昇しなくなった。カクくんと顔を見合わせていると上の方から水音にかき消されそうなアナウンスが辛うじて聞こえた。

『大変申し訳ございません。トラブルのためしばし上昇を停止します』

 ごうごうと水が流れ込んでくる音は止まないが、アナウンスの通り、水位の上昇はぴたりと止まった。カクくんも私も、水門エレベーターは初めてだからこういうことはよくあることなのかわからない。ひとまず二人で顔を見合わせて、どうしたんじゃろうな、そうだね、と言い合った。
 揺れはほとんどない。だが下には大量の水がある。自分が上昇してきた高さ、つまり、深さに思い至って血の気が引いた。街に張り巡らされている水路とはわけが違う。塔内の壁には突起も何もない。もし水に落ちた時、この場で縋れるのはヤガラちゃんだけ。でもヤガラちゃんだってパニックになるかもしれない。
 思いついてしまったらもう駄目だ。手が冷たく汗ばみ、身体の震えが止まらない。奥歯がガチガチと音を立て、その音を聞いて、また恐ろしくなった。

ウカさん?」
「ご、ごめ。こわ、こわく、て」

 膝を抱え身体を小さく縮こませてやりすごそうとするが、私が震えるとヤガラちゃんも揺れるような気がして、恐怖が増していく。
 カクくんの顔つきが変わった。

「この船はヤガラから外しても浮くじゃろ?」
「ふ、ふね、だから、うく」声がどうにも震えて情けない。
「よし」

 カクくんは初めてとは思えない手つきでヤガラと船の連結を外した。ヤガラちゃんの背から外れて船だけで浮くと、途端、揺れが大きくなり恐怖がさらに増す。ヤガラちゃんも、ほんとにいいのか? と不安そうで、ニィ……、と小さく鳴きながら私たちの乗った船のそばを行ったり来たりする。

ウカさん、飛ぶぞ」
「え、」
「ヤガラちゃん、すまん。造船島で待っとるからの」
「ニイ!」
「え、いや、ちょ」

 っと待って、と言い切らないうちにカクくんが私の腰あたりに腕を回し自分の方へぐっと引き寄せた。ぎゃッ! と叫ぶ間もなく、そのまま飛ぶ。慌ててカクくんの肩に腕を回して落ちないようにしがみついた。足場にした船が、どぷんっ、と深く水の中に沈んだのが目の端で見えた気がするけど、カクくんはその前に宙に浮いている。

「うわうわうわうわッ!」

 風が顔にびゅんびゅんあたる。髪がぐしゃぐしゃになる。耳のそばでごうごう聞こえる。目を開けているのも一苦労。でも、下から見上げた時はあんなに小さかった空が薄目でもどんどん近づいて明るくなっていくのがわかった。
 それは一瞬。
 縦穴から解放された瞬間、視界三百六十度が全部、造船島の街並みになる。カクくんは水門エレベーターの縁にとす、と着地すると、そこを足場にもうワンジャンプして、エレベーターと繋がっている水路の脇に着地した。街の人たちは最初、エレベーターの縦穴からぴょんと飛び出た私たちを凝視していたけど、飛び出してきたのがカクくんだと分かった途端、なんだカクか、と自分たちの日常に戻っていった。下の方から『お客様、申し訳ございませんでした。ただいま復旧いたしました』とエレベーターガールの声が聞こえる。

「び、っくりした」
「怖かったか?」
「え、あ」

 怖がっていたことを忘れていた。足元の感覚はまだおぼつかないが、いつの間にか体温が戻り、体の震えも止まっている。
 復旧したエレベーターからヤガラちゃんもびゅんと泳いで寄ってきた。先ほど背から外した船も引いてきてくれたが、カクくんが足場にして一度水に沈んだからびしょびしょだ。

「すまんの。せっかくのカップルシートを駄目にしてしもうた」
「だ、大丈夫。私こそ大袈裟に怖がっちゃってごめんなさい」
「そんなことないじゃろ! 怖いもんは怖い!」

 カクくんが眉毛を吊り上げて、口をへの字にして、怒ってくれるのが嬉しかった。ヤガラちゃんも、ニイニイ鳴いて同意してくれているようだ。こうなってしまえば、ヤガラちゃんにはこのままびしょ濡れのカップルシートを引いて一旦、家に帰ってもらうしかない。でも、このままカクくんと別れるのはちょっと寂しかった。誰のプレゼントだろうが、カクくんと同じ時間を過ごすことに変わりはない。恐る恐る、といった雰囲気が出ないよう努めて明るく尋ねてみる。

「この後どうしようか? ヤガラちゃんにはもう乗れないけど……プレゼント、探してるんだよね?」
「や、まあ、そういえばそうじゃったな」
「徒歩で良ければお礼もかねて付き合うよ。どんな人なんだっけ?」

 カクくんが、鼻をかきながらちらりとこちらを見る。

「……きわ」
「え?」
「浮き輪が、いいかもしれん」
「う、浮き輪? なんで──」

 そのあと続いた言葉は『まさか』としか言いようがなくて、私はどんどん火照る頬を両手で隠すほかなかった。

『水が怖いって人じゃから』

おしまい

夢小説,短編,ONEPIECE,水の都で暮らしたら 8095字 No.109 

光差す #カク

 そのたばこ屋は商店街の片隅、角にあった。たばこ屋、とは昔の名残で、今は食べ物や雑貨も扱っている。カウンターも併設しているこの島では珍しい形だ。店は用がなければ立ち入らないだろう路地に面していて、市場の喧騒はすっと遠ざかる。話し声も足元も届きにくい。だからなのか、客は常連ばかりで、祖母が店を閉めよう、と言い出すのも最もだとウカは思っていた。
 店を継ぐ、と張り切ってやってきたわけではない。ちょうど職を失ってどうしようかと思案していた時に親族から、暇をしているならしばらくやってやれ、と言われただけだ。それを聞いた祖母は、どうせ閉めようと思っていた店だ、潰してもいい、とからから笑った。ウォーターセブンは水路が張り巡らされた美しい島でありながら、工業が盛んで活気のある島。一度くらいは住んでみたかったから、渡りに船だと気軽な気持ちで引き受けた。まあ、ほんの少しだけ「何か変われば」なんて期待もした。ほんの少し。
 客は意外にも老若男女、幅広い。近所の住人が、ちょっとしたものを買うのにやってくるからだ。幅広い、が、頻度は高くない。朝早く、初老の男性が新聞を買ったかと思うと、閉店間際にふくよかな女性が、洗剤が切れた、と駆け込んできたりする。
「いつもの」
 彼も常連の一人だった。葉巻が切れるとやってきて、ついでにヤガラレースのチケットも買い求めていく。その男がガレーラカンパニーの一番ドック職長でパウリーという名だというのは、サン・ファルドからやってきたウカでも知り得る情報だった。
 雑談はしない。先代の祖母はしていたのかもしれないが、ウカは求められなければ声はかけなかった。ただカウンターに座り、往来の人──といっても近所の住人ばかりだが──を日がな一日眺める。カウンターで用が済めば立ち上がりさえしない。ドアを開けて入ってくれば、いらっしゃい、くらいは声をかけ微笑むことだけは気をつけていた。
 葉巻の彼にはツレがいることが多かった。ツレの男も、この島では知らぬ者はいないだろうという有名人。名前はカクというらしい。彼らは気が合うらしく、二人で笑いながらやってくることが多かった。ただ、商品を買い求めるのはもっぱらパウリーの方で、カクは毎回物珍しそうに色々眺めるわりに、パウリーの会計が終わるとすべての興味を失うようだ。パウリーの買い物は路地に面したカウンターで済むことが多く、彼らが店内に足を踏み入れることはない。でも、カウンター越しに彼らの話がちょっと聞こえるのは、結構いい時間だった。賑やかだけどうるさくない。そんな感じ。
「また懲りずに……」「おれの金だ」「借金しとるやつの台詞じゃないじゃろ」「これで一発当てて返すんだよ」「お主、まさかそこまで……」「お前、『アホかこいつ』って顔に書いてあんだよ!」
 ウカはこういうとき、レジ作業でもする振りをして、彼らの背景であろうと努めていた。会話には決して加わらない。吹き出したりもしない。でもそっと、彼らを盗み見るようにする。ときたま、カクとだけちらりと目が合い、瞬間、ばつが悪い気持ちになるが、謝るのも違う気がして結局言葉を交わすことはない。そういう日々だった。

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 『パウリー』が店に来なくなって二週間が過ぎた。もちろんツレの彼も。理由は、近所の店の店員でしかないウカには知る術もない。常連の客がふっと顔を見せなくなるのはよくあることだ、と祖母も言っていた。客を無理矢理引っ張っては来れない、待つしかないね、と。わかってはいるが、来ないとなんだか拍子抜けだ。無駄かもしれないのに葉巻の在庫を確認してしまう。『パウリー』が来なければ、『カク』も来ない。当たり前のことだ。肩肘をつきカウンターから眺める往来は、店内の暗さも相まってスローシネマの風情がある。そのため睡魔に襲われやすい──……。
「いつもの」
 声というより音に反応して、ウカははっと顔をあげる。店の外、つまりカウンター前ではない。声がしたのは店内だ。椅子をガタつかせながら急いで振り向くと、そこにいたのはカクの方だった。
「い、いらっしゃいませ。すみません」
 カクはウカのうたた寝には触れず、商品棚をざっと見回し、煙草が並ぶ列に視線を止めた。
「パウリーの使いでの。パウリー、知っとるか?あいつの『いつもの』はこれ、かの?」
 カクはウカに顔を向けることなく、左手をポケットに入れたまま右手の人差し指で商品棚の煙草を指差した。ぎこちない手つきで示すそれは生憎違う銘柄だ。
「ただいまお持ちします」
 彼らはここのところ顔を見せないから、と奥にしまっていたのだ。奥からパウリーがいつも吸う葉巻を取って戻ってくる。カクはこの店で唯一光が差し込むドアを背にしており、ウカのほうを向いていたが、逆光で表情がわかりづらかった。ありがとう、の声音でなんだか安心した。値段を告げ、紙幣を受け取り、釣りを渡す。すべてが初めてのことだったが、それももう終わる。
「ありがとうございました」
 カクは葉巻を片手に、店のドアを押した。店の入口は長身のカクには少しだけ低く、屈むように腰を曲げた。カクはそこでちらりと、ウカを振り返る。
「……を」
 店内には外の喧騒が届かず、いつも静かなはずなのに、その声はウカに届かなかった。ウカは迷って、聞き返す。
「なにか……?」
「名前を」
 なまえ、を。
「聞いてもいいじゃろうか?」
 私の?
 カクは自らの畏まった問いに照れているようで、音のしない店内でそのままかき消えてもおかしくなかったが、ウカの耳は今度はしっかりとその問いをとらえた。ウカは戸惑いながらも、わずかに頬が緩む自分に気づく。
「──ウカ、です」
ウカ。そうか。パウリーに尋ねても、知らんというから」
 あの役立たずめ、とカクは肩を竦め店を後にする。あっという間だった。滅多に鳴らないドアベルの音だけが残る。
 彼はまた一人でも来るだろうか。名前を聞かれた、ただそれだけのことだったが、なんとなく彼はまた来るような気がして、ふと気になってドアのガラスを磨いてみる。
 今度は私も彼の名前を呼んでみようか、と思いながら。磨いたガラスは一層──。

おしまい

夢小説,短編,ONEPIECE,水の都で暮らしたら 2567字 No.108 

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