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カテゴリ「ONEPIECE」に属する投稿[107件](2ページ目)
サーカスナイト水の都で過ごした#カク #パウリー #ルッチ #フランキー

賑やかな夜のこと。
ブルーノの店の前は、今日も人通りが絶えない。
太陽からの支配を逃れた水の都は休む間もなく月の光と瞬く星に覆われる。だが産業都市として、そして世界一の船大工を擁する島として名を馳せるウォーターセブンの夜はさらに眩い。この島は朝も早いが夜も遅い。煌びやかな店々の灯りは、仕事を終えた者たちの頬をつややかに照らし、夜風は酔いのまわった人々の身体をそっと冷やしながら次の店へを誘っていく。あちこちの店から今日の自分を称え、ねぎらう乾杯の音が聞こえてくる。そんないつもと変わらぬ夜のこと。
ブルーノの店の前で、金髪の男と女の子二人組がぶつかり、双方尻もちをついた。
「「どこ見てんだわいな!?」」
「どこ見てんだてめぇ!」
「「「あ」」」
互いにそれはまったく予期せぬことで。
「ああっ! ケーキが!」
「弁償! 弁償だわいな!」
「あァ!? 被害者はこっちだ! 葉巻が全部パーになったぞ!」
「そんな安物……」
「高かったんだよこれは!」
地べたに座り込んだままいい年をした大人たちの子供みたいなやりとりに、一緒にいたルッチとカクは、彼彼女らを見下ろしながら頭を抱えたが、すぐに背を向け他人の振りをした。しかしながら、通り過ぎていく町の人々はそんな『職長三人』を微笑ましく思いながら思い思いに声をかける。
「はは、パウリーのやつまた何かやらかしてるぞ」
「珍しい。相手は女の子だ」
「職長も女の子には頭が上がらないか」
町の人らの適当、いや、的確な物言いにカクはキャップを目深に被り、ルッチはシルクハットを正した。ハットリは何を思ってか、クルッポーと鳴く。
今日は賑やかな夜だった。月は穏やかに微笑み、星はからからと笑い声をあげている。
「キウイちゃんもモズちゃんも、相変わらずセクシーだねえ」
喧噪のどこからか聞こえてきた声に二人は、ありがとうだわいな! と素直にお礼を言った。野次でようやく二人のファッションに気が向いたパウリーが、なんちゅう格好だ!と今さら嚙みついた。肌を出し過ぎだと顔を真っ赤にして怒鳴り散らすパウリーをからかうように、二人は綺麗な長い足を、くびれた腰を、なだらかな肩のラインを、形のいい胸を見せつけながらすっと立ち上がる。いつの間にか集まった野次馬から歓声が上がり、パウリーは地面に尻をつけたままさらに声を荒げた。
「ちょっと待つんだわな、モズ」
女の子の一方が金髪の顔をじっと見つめてはたと何かに気づいたように、もうひとりの女の子に声をかけた。モズと呼ばれた彼女は不思議そうに、自分によく似た女の子の顔を覗き込む。視線がかち合ったのを合図に、ずれた眼鏡を直しながらどうしたんだわいな? と問う。
「この男、よく借金取りに追われてる」
「ああ、ガレーラの破廉恥一文無し」
「おかしな通り名で呼ぶな!」
言いながら立ち上がり二人に歩み寄るパウリーだが、彼女たちは全く怯まない。
「こんな永遠の一文無しから弁償されるなんて、フランキー一家の恥だわいな」
「確かに……危ないところだったわいな」
「人の話を聞け!」
女の子二人にいいように翻弄されているパウリーに呆れ果てていたカクとルッチも、そろそろいいだろうとパウリーを宥めにかかる。
「まあまあパウリー、こんな若い嬢ちゃんたちにそんなに食って掛かるな」
『どっちが年上なんだか』
「あ、山ザル!」
「あ、ハト男!」

「だれがじいさんじゃ! わしは二十三じゃ!」
「説得力はまるで皆無なんだわいな」
「ねえ、キウイ。これ、ハトがいなくなったら喋れなくなるんだわいな?」
『や、やめろ!』
「図星なんだわいな! やっちまうんだわいな!」
今日は賑やかな夜だった。溶けた喧騒が漂い、周囲に霧散した。カーニバル、サーカス、ダンスパーティー。世界中の楽しいものがここに集っていたかのような夜だった。笑い声が零れ、笑顔があふれる。
「ちくしょう! あいつら何やってんだ……」
開いたブルーノの店のドア。聞き馴染んだ声に振り向いたのはモズとキウイの二人だった。
「「アニキ!」」
店の賑わいを背負って出てきた男にキウイとモズが駆け寄る。
「なんだお前ら、ここまで来ておいて……店の目の前で何やってんだ」
「実はあのガレーラの破廉恥と」
「一文無しと」
「店の前でぶつかってしまったんだわいな」
「なんだと!? 怪我はねぇのか?」
「あたしらは大丈夫だけど」
「ケーキが」
アニキと呼ばれた男はサングラスを額までくい、とあげ、キウイが持っていた箱の中のケーキを見やる。ケーキは些か無残な姿ではあった。
「なあに、お前らが悪くねえのは百も千も万も承知! 甘くてうまそうじゃねえか! さあ、さっさと入りな」
「さすが」
「アニキなんだわいな!」
女の子たちはもう、職長たちのことはそっちのけだ。拳をつくり、わなわなと震えているパウリーに男はこうも言った。
「うちのが世話かけたな。一文無しなんだろ? 奢ってやるからお前らも入りな」
拳が解けた。パウリーはさっきまでの勢いをにわかに失い、そこまで言うなら、と店に入っていこうとする。カクとルッチは、プライドはないのかと肩に手をかけそれを止めたがパウリーが振り向いてこう言う。
「飲むんなら人数が多い方が楽しいに決まってるだろう!?」
それを聞いた二人は顔を見合わせ、ふっと笑った。
仕方がないと三人で入店する。
賑やかな夜のことだった。
おしまい

賑やかな夜のこと。
ブルーノの店の前は、今日も人通りが絶えない。
太陽からの支配を逃れた水の都は休む間もなく月の光と瞬く星に覆われる。だが産業都市として、そして世界一の船大工を擁する島として名を馳せるウォーターセブンの夜はさらに眩い。この島は朝も早いが夜も遅い。煌びやかな店々の灯りは、仕事を終えた者たちの頬をつややかに照らし、夜風は酔いのまわった人々の身体をそっと冷やしながら次の店へを誘っていく。あちこちの店から今日の自分を称え、ねぎらう乾杯の音が聞こえてくる。そんないつもと変わらぬ夜のこと。
ブルーノの店の前で、金髪の男と女の子二人組がぶつかり、双方尻もちをついた。
「「どこ見てんだわいな!?」」
「どこ見てんだてめぇ!」
「「「あ」」」
互いにそれはまったく予期せぬことで。
「ああっ! ケーキが!」
「弁償! 弁償だわいな!」
「あァ!? 被害者はこっちだ! 葉巻が全部パーになったぞ!」
「そんな安物……」
「高かったんだよこれは!」
地べたに座り込んだままいい年をした大人たちの子供みたいなやりとりに、一緒にいたルッチとカクは、彼彼女らを見下ろしながら頭を抱えたが、すぐに背を向け他人の振りをした。しかしながら、通り過ぎていく町の人々はそんな『職長三人』を微笑ましく思いながら思い思いに声をかける。
「はは、パウリーのやつまた何かやらかしてるぞ」
「珍しい。相手は女の子だ」
「職長も女の子には頭が上がらないか」
町の人らの適当、いや、的確な物言いにカクはキャップを目深に被り、ルッチはシルクハットを正した。ハットリは何を思ってか、クルッポーと鳴く。
今日は賑やかな夜だった。月は穏やかに微笑み、星はからからと笑い声をあげている。
「キウイちゃんもモズちゃんも、相変わらずセクシーだねえ」
喧噪のどこからか聞こえてきた声に二人は、ありがとうだわいな! と素直にお礼を言った。野次でようやく二人のファッションに気が向いたパウリーが、なんちゅう格好だ!と今さら嚙みついた。肌を出し過ぎだと顔を真っ赤にして怒鳴り散らすパウリーをからかうように、二人は綺麗な長い足を、くびれた腰を、なだらかな肩のラインを、形のいい胸を見せつけながらすっと立ち上がる。いつの間にか集まった野次馬から歓声が上がり、パウリーは地面に尻をつけたままさらに声を荒げた。
「ちょっと待つんだわな、モズ」
女の子の一方が金髪の顔をじっと見つめてはたと何かに気づいたように、もうひとりの女の子に声をかけた。モズと呼ばれた彼女は不思議そうに、自分によく似た女の子の顔を覗き込む。視線がかち合ったのを合図に、ずれた眼鏡を直しながらどうしたんだわいな? と問う。
「この男、よく借金取りに追われてる」
「ああ、ガレーラの破廉恥一文無し」
「おかしな通り名で呼ぶな!」
言いながら立ち上がり二人に歩み寄るパウリーだが、彼女たちは全く怯まない。
「こんな永遠の一文無しから弁償されるなんて、フランキー一家の恥だわいな」
「確かに……危ないところだったわいな」
「人の話を聞け!」
女の子二人にいいように翻弄されているパウリーに呆れ果てていたカクとルッチも、そろそろいいだろうとパウリーを宥めにかかる。
「まあまあパウリー、こんな若い嬢ちゃんたちにそんなに食って掛かるな」
『どっちが年上なんだか』
「あ、山ザル!」
「あ、ハト男!」
「だれがじいさんじゃ! わしは二十三じゃ!」
「説得力はまるで皆無なんだわいな」
「ねえ、キウイ。これ、ハトがいなくなったら喋れなくなるんだわいな?」
『や、やめろ!』
「図星なんだわいな! やっちまうんだわいな!」
今日は賑やかな夜だった。溶けた喧騒が漂い、周囲に霧散した。カーニバル、サーカス、ダンスパーティー。世界中の楽しいものがここに集っていたかのような夜だった。笑い声が零れ、笑顔があふれる。
「ちくしょう! あいつら何やってんだ……」
開いたブルーノの店のドア。聞き馴染んだ声に振り向いたのはモズとキウイの二人だった。
「「アニキ!」」
店の賑わいを背負って出てきた男にキウイとモズが駆け寄る。
「なんだお前ら、ここまで来ておいて……店の目の前で何やってんだ」
「実はあのガレーラの破廉恥と」
「一文無しと」
「店の前でぶつかってしまったんだわいな」
「なんだと!? 怪我はねぇのか?」
「あたしらは大丈夫だけど」
「ケーキが」
アニキと呼ばれた男はサングラスを額までくい、とあげ、キウイが持っていた箱の中のケーキを見やる。ケーキは些か無残な姿ではあった。
「なあに、お前らが悪くねえのは百も千も万も承知! 甘くてうまそうじゃねえか! さあ、さっさと入りな」
「さすが」
「アニキなんだわいな!」
女の子たちはもう、職長たちのことはそっちのけだ。拳をつくり、わなわなと震えているパウリーに男はこうも言った。
「うちのが世話かけたな。一文無しなんだろ? 奢ってやるからお前らも入りな」
拳が解けた。パウリーはさっきまでの勢いをにわかに失い、そこまで言うなら、と店に入っていこうとする。カクとルッチは、プライドはないのかと肩に手をかけそれを止めたがパウリーが振り向いてこう言う。
「飲むんなら人数が多い方が楽しいに決まってるだろう!?」
それを聞いた二人は顔を見合わせ、ふっと笑った。
仕方がないと三人で入店する。
賑やかな夜のことだった。
おしまい
先輩 それすらわたしのひどい嘘 #カク
「今更だけどよォ」
ジャブラさんがテーブルに足を乗せ、椅子を後ろに大きく傾かせながら、私の書きあげる報告書を待っていた。何の変哲もないただの椅子でその傾きを維持できるのはジャブラさんしかいないだろうなというくらいの傾きで見ているだけでひやひやする。
司法の島には夜がない。時計の針は午後十時二十分を指していた。ジャブラさんが、悪ぃこれもだった、と白紙の報告書をひらひらさせながら私の席にやってきたのが午後十時ちょうど。私は帰宅しようと立ち上がったところだった。
「はい、今更」
つい適当な返事をしてしまうが、ジャブラさんは気にも留めない。
「ウカちゃんはカクと同期じゃねえか? なんで『カク先輩』なんだ」
「ああ、ええと」
報告書を書きながら出来る話ではなく、私は黙るしかなかった。

カク先輩と私は実は同い年。それなのに私が彼をカク先輩と呼ぶのは子供の頃の戯れの延長だ。カク先輩はもしかしたら呼び名を改めさせる機会を失っているだけかもしれないが、私は本人から明確にやめろと言われるまではこのまま呼び続けるつもりでいた。私にとっては大事な思い出だから。
自分がいつからグアンハオにいたのかは思い出せない。一番古い記憶はグアンハオの森でオニに見つからないようにそっと息をひそめていたかくれんぼ。両親の顔は覚えていないし、たぶん知らないんだろう。悪人でなければ嬉しいし、私を失ったと悲しんだりしていなければいいと思う。
ジャブラさんは、私が物心ついた頃にはグアンハオではもう過ごしておらず、たまに島を訪れてはルッチさんやカクにちょっかいを出していた記憶しかない。私も今と同じくらい良くしてもらった。
私のこの体質は幼い頃からだ。訓練では私と組みたがる子達で喧嘩が始まり、食堂にいけば私だけよくおまけをしてもらうのに誰もそれを妬まない。こっちの服の方が綺麗だと交換を申し出てくる子がいたり、肌寒い夜は隣の子が自分の毛布を知らぬ間に私にかけ本人が風邪をひいていた。特定の子ではない。『私の近くにいる子』がだ。その子たちは文字通り私から離れると、ふっと我にかえるようで、私はよく遠くから不思議そうな目つきで見つめられた。物理的に私の近くにいる子、がそのようになるし、大人たちも私には好意的だったから、誰も私の体質には気がつかなかったらしい。
カクとは同い年だったから同じ訓練を受けることも多かったが、あまり接点はなかった。カクは人当たりのいい子ではあったが、ひとりでいることも多く、対して私の側には常に誰かがいた。それに、カクはこの頃から優秀だったので年上の子達との訓練にも混ざることもあったし、彼の老成した口調はこの頃から仕上がっていたので、同い年の子供たちはちょっとだけ遠巻きにしていたのだ。
うんと幼い頃はまだ良かった。トラブルといえばせいぜい子供同士の喧嘩で済むものばかりだったし、力にもあまり差がなかったから。だが、十歳を過ぎたあたりでトラブルが少しずつ複雑になっていった。喧嘩に怪我が伴うようになったり、男女問わず身体への直接的な接触が増えてきたのだ。急に手をつながれたり、腕を組まれたり、抱きつかれたり。肌の露出を少なくすると効果が弱まる、と発見できたのもこの頃だ。そのことに気づいてからの夏は地獄だった。
グアンハオでは、特に、子供達に大した自由はない。服は古着を適当にあてがわれるだけだ。夏でも涼しい長袖のシャツなんてものが手に入るはずがなく、この発見をしてからは半袖のTシャツの上に、長袖のカーディガンを羽織って過ごすようにした。おかげでトラブルは大分減ったが、体力は相当削られることになり、ついにそれが起きた。
その日の訓練は持久走だった。施設の周りの森の中を何周も走るというもので、私はすぐビリになり、仲間たちの背中はすぐに見えなくなった。その日は気温はそう高くないが湿度が高かった。当時の自分には熱中症なんてものの知識がなかったのだ。周りの大人たちも私が「この服を着たい」と言えば無理矢理脱がせることはしなかった。そう、彼らの好意は、決して私を守るものではない。当たり前だが、私は眩暈に襲われあっけなく森の中で膝をついた。這うようにして移動し、手ごろな木を背に座り込みうずくまる。くらくらする頭に響いてきたのはリズミカルな足音だった。それが止まって、声がする。
「辛そうじゃの」
頑張って頭を持ち上げると、スタートと同時に一番手で颯爽と走り抜けていったカクが眉を下げた心配そうな顔でこちらを覗き込んでいた。私はあっという間に追いつかれたのだろう。彼は、返事をしない私の額に手を当て、うわ、という顔をした。
「おぬし、まずいぞ。ひとまずその上着は早く脱ぐんじゃ」
「あ、いや、でも」
「いいから早く」
回らない頭で必死に考えた。服を脱いだら、きっとこの子もみんなと同じになる。脱ぐのはまずい。でも、脱がない言い訳も考えられない。何より暑い。でもどうしよう。脱ぎたくない。まずい。どうしよう。もうわかんない──。
黙ったまま動かない私に、カクは実力行使に出た。私から無理矢理カーディガンをはぎ取ったのだ。
「あ……っ、はな、れて!」
抵抗する力も残っていない私は必死にそれだけ言った。だがカクは私の言葉を無視し、はぎ取ったその上着で力いっぱい私をあおぐ。ばさばさという音に合わせてふいてくる森の涼やかな風を受けた私の身体はどんどん冷えていった。息が整い、体温が正常に戻り、思考が追いつくのにあわせて、私の不安はぐんと増していく。無表情で私に風を送っているカクが、いつ、みんなのようになるかわからない。私から距離を取れるようにしたいが、優秀なカクを前にそれが出来るだろうか。そう思い始めたら変に緊張してくる。その時、風が止んだ。
「ひとまず大丈夫そうじゃの。じゃあの」
カクは風を送るのに使っていた私の上着を差し出し、私に背を向け始めていた。え? うそ──。
「ま、まって」
思わず出たのは引き留める言葉。さっきまで、どうやって離れようかと思っていたくせに。
カクは、私の声に素直に反応してまた身体をこちらに向けた。けれど、カクから歩み寄ってくることはない。確かめたい。なんとしても。これまで誰にも聞けなかった。聞いてしまったら決定的になる気がして。でも。彼は、私を。私のことを──。
「わ、私のこと──好き?」
一瞬の間。
カクは思いっきり顔をしかめて、はあ? と呆れた声で返事をしてくれた。決まりだ。カクは私を好きにならない。私は嬉しくて嬉しくてぼろぼろと涙が出て、またカクを呆れさせた。カクは呆れ顔のまま私が泣き止むまでそこから離れなかった。
遠くからザッザッザッという足音が近づいてきて、カクは涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっている私の手を引き、森の奥深くにコースアウトした。ひらけた場所にふたりで腰を落ち着ける。私はハンカチで鼻をかんで、ようやくお礼が言えるようになった。
「助けてくれてありがとう。あと、変なこと聞いた上に泣いちゃってごめん。カクの返事に傷ついたわけじゃないから」
我ながら何の説明にもなっていないと思ったが、カクは、そうか、と頷くとそれ以上追及してこなかった。それをいいことに、ああいうときの対処はいつ覚えたのかと問うと、年上の子供達との訓練中に似たような症状で倒れた子供がいたのだと返ってくる。
「そうなんだ。カクはすごいね。年上の人たちと訓練してるだけでもすごいのに、あんなふうにすぐ対応できるなんて。同い年なのに先輩みたい」
「別にすごくないわい。この暑いのにあんな服で走り込みなんて、そっちのほうがすごいじゃろ。悪い意味で」
「うん。そうだよね。そうなんだけど──」
私はまたしても口を噤んだ。自分の周囲にいる人間が無条件で自分を好きになる、肌の露出をおさえるとそれが少しましになる気がする、なんてあまりに馬鹿げている。なにより目の前のカクには、それがあてはまらないのだ。何と説明すればいいのか迷っているうちに、カクはこの話題への興味を失ったようで、そろそろ戻るかと立ち上がって訓練に戻っていた。
数日後。カクは私に薄手のカーディガンをくれた。薄手で、さらさらとした肌触りが気持ち良い。風がとおり、汗ではりついたりしない。夏場でも着ていられそうなそれは、古着には見えなかった。驚きながら、どうやって手に入れたのか問えば、訓練で知り合った政府筋の家の子に融通してもらったという。
「わしは先輩じゃからのう。これくらい朝飯前じゃ」
カクはにっと笑って続けた。
「気休めでもなんでも、ウカには上着が必要なんじゃろう?」
「──、うん。そう。そうなの」
それ以上は言葉にならなくて、私はただただ薄いカーディガンをぎゅっと抱きしめた。彼がくれたそのカーディガンは、他の子供たちがくれた服や食べ物や毛布とは明らかに違う。間違いなく、彼自身の思いやりと気遣いが形になったものだった。
「やっぱり『先輩』だ」
「そう呼びたきゃ、呼べばええわい」
私を守ってくれたのは『先輩』だけ。
私を好きにならないカク先輩。私はそんなカク先輩が好きだ。
おしまい
←
「今更だけどよォ」
ジャブラさんがテーブルに足を乗せ、椅子を後ろに大きく傾かせながら、私の書きあげる報告書を待っていた。何の変哲もないただの椅子でその傾きを維持できるのはジャブラさんしかいないだろうなというくらいの傾きで見ているだけでひやひやする。
司法の島には夜がない。時計の針は午後十時二十分を指していた。ジャブラさんが、悪ぃこれもだった、と白紙の報告書をひらひらさせながら私の席にやってきたのが午後十時ちょうど。私は帰宅しようと立ち上がったところだった。
「はい、今更」
つい適当な返事をしてしまうが、ジャブラさんは気にも留めない。
「ウカちゃんはカクと同期じゃねえか? なんで『カク先輩』なんだ」
「ああ、ええと」
報告書を書きながら出来る話ではなく、私は黙るしかなかった。
カク先輩と私は実は同い年。それなのに私が彼をカク先輩と呼ぶのは子供の頃の戯れの延長だ。カク先輩はもしかしたら呼び名を改めさせる機会を失っているだけかもしれないが、私は本人から明確にやめろと言われるまではこのまま呼び続けるつもりでいた。私にとっては大事な思い出だから。
自分がいつからグアンハオにいたのかは思い出せない。一番古い記憶はグアンハオの森でオニに見つからないようにそっと息をひそめていたかくれんぼ。両親の顔は覚えていないし、たぶん知らないんだろう。悪人でなければ嬉しいし、私を失ったと悲しんだりしていなければいいと思う。
ジャブラさんは、私が物心ついた頃にはグアンハオではもう過ごしておらず、たまに島を訪れてはルッチさんやカクにちょっかいを出していた記憶しかない。私も今と同じくらい良くしてもらった。
私のこの体質は幼い頃からだ。訓練では私と組みたがる子達で喧嘩が始まり、食堂にいけば私だけよくおまけをしてもらうのに誰もそれを妬まない。こっちの服の方が綺麗だと交換を申し出てくる子がいたり、肌寒い夜は隣の子が自分の毛布を知らぬ間に私にかけ本人が風邪をひいていた。特定の子ではない。『私の近くにいる子』がだ。その子たちは文字通り私から離れると、ふっと我にかえるようで、私はよく遠くから不思議そうな目つきで見つめられた。物理的に私の近くにいる子、がそのようになるし、大人たちも私には好意的だったから、誰も私の体質には気がつかなかったらしい。
カクとは同い年だったから同じ訓練を受けることも多かったが、あまり接点はなかった。カクは人当たりのいい子ではあったが、ひとりでいることも多く、対して私の側には常に誰かがいた。それに、カクはこの頃から優秀だったので年上の子達との訓練にも混ざることもあったし、彼の老成した口調はこの頃から仕上がっていたので、同い年の子供たちはちょっとだけ遠巻きにしていたのだ。
うんと幼い頃はまだ良かった。トラブルといえばせいぜい子供同士の喧嘩で済むものばかりだったし、力にもあまり差がなかったから。だが、十歳を過ぎたあたりでトラブルが少しずつ複雑になっていった。喧嘩に怪我が伴うようになったり、男女問わず身体への直接的な接触が増えてきたのだ。急に手をつながれたり、腕を組まれたり、抱きつかれたり。肌の露出を少なくすると効果が弱まる、と発見できたのもこの頃だ。そのことに気づいてからの夏は地獄だった。
グアンハオでは、特に、子供達に大した自由はない。服は古着を適当にあてがわれるだけだ。夏でも涼しい長袖のシャツなんてものが手に入るはずがなく、この発見をしてからは半袖のTシャツの上に、長袖のカーディガンを羽織って過ごすようにした。おかげでトラブルは大分減ったが、体力は相当削られることになり、ついにそれが起きた。
その日の訓練は持久走だった。施設の周りの森の中を何周も走るというもので、私はすぐビリになり、仲間たちの背中はすぐに見えなくなった。その日は気温はそう高くないが湿度が高かった。当時の自分には熱中症なんてものの知識がなかったのだ。周りの大人たちも私が「この服を着たい」と言えば無理矢理脱がせることはしなかった。そう、彼らの好意は、決して私を守るものではない。当たり前だが、私は眩暈に襲われあっけなく森の中で膝をついた。這うようにして移動し、手ごろな木を背に座り込みうずくまる。くらくらする頭に響いてきたのはリズミカルな足音だった。それが止まって、声がする。
「辛そうじゃの」
頑張って頭を持ち上げると、スタートと同時に一番手で颯爽と走り抜けていったカクが眉を下げた心配そうな顔でこちらを覗き込んでいた。私はあっという間に追いつかれたのだろう。彼は、返事をしない私の額に手を当て、うわ、という顔をした。
「おぬし、まずいぞ。ひとまずその上着は早く脱ぐんじゃ」
「あ、いや、でも」
「いいから早く」
回らない頭で必死に考えた。服を脱いだら、きっとこの子もみんなと同じになる。脱ぐのはまずい。でも、脱がない言い訳も考えられない。何より暑い。でもどうしよう。脱ぎたくない。まずい。どうしよう。もうわかんない──。
黙ったまま動かない私に、カクは実力行使に出た。私から無理矢理カーディガンをはぎ取ったのだ。
「あ……っ、はな、れて!」
抵抗する力も残っていない私は必死にそれだけ言った。だがカクは私の言葉を無視し、はぎ取ったその上着で力いっぱい私をあおぐ。ばさばさという音に合わせてふいてくる森の涼やかな風を受けた私の身体はどんどん冷えていった。息が整い、体温が正常に戻り、思考が追いつくのにあわせて、私の不安はぐんと増していく。無表情で私に風を送っているカクが、いつ、みんなのようになるかわからない。私から距離を取れるようにしたいが、優秀なカクを前にそれが出来るだろうか。そう思い始めたら変に緊張してくる。その時、風が止んだ。
「ひとまず大丈夫そうじゃの。じゃあの」
カクは風を送るのに使っていた私の上着を差し出し、私に背を向け始めていた。え? うそ──。
「ま、まって」
思わず出たのは引き留める言葉。さっきまで、どうやって離れようかと思っていたくせに。
カクは、私の声に素直に反応してまた身体をこちらに向けた。けれど、カクから歩み寄ってくることはない。確かめたい。なんとしても。これまで誰にも聞けなかった。聞いてしまったら決定的になる気がして。でも。彼は、私を。私のことを──。
「わ、私のこと──好き?」
一瞬の間。
カクは思いっきり顔をしかめて、はあ? と呆れた声で返事をしてくれた。決まりだ。カクは私を好きにならない。私は嬉しくて嬉しくてぼろぼろと涙が出て、またカクを呆れさせた。カクは呆れ顔のまま私が泣き止むまでそこから離れなかった。
遠くからザッザッザッという足音が近づいてきて、カクは涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっている私の手を引き、森の奥深くにコースアウトした。ひらけた場所にふたりで腰を落ち着ける。私はハンカチで鼻をかんで、ようやくお礼が言えるようになった。
「助けてくれてありがとう。あと、変なこと聞いた上に泣いちゃってごめん。カクの返事に傷ついたわけじゃないから」
我ながら何の説明にもなっていないと思ったが、カクは、そうか、と頷くとそれ以上追及してこなかった。それをいいことに、ああいうときの対処はいつ覚えたのかと問うと、年上の子供達との訓練中に似たような症状で倒れた子供がいたのだと返ってくる。
「そうなんだ。カクはすごいね。年上の人たちと訓練してるだけでもすごいのに、あんなふうにすぐ対応できるなんて。同い年なのに先輩みたい」
「別にすごくないわい。この暑いのにあんな服で走り込みなんて、そっちのほうがすごいじゃろ。悪い意味で」
「うん。そうだよね。そうなんだけど──」
私はまたしても口を噤んだ。自分の周囲にいる人間が無条件で自分を好きになる、肌の露出をおさえるとそれが少しましになる気がする、なんてあまりに馬鹿げている。なにより目の前のカクには、それがあてはまらないのだ。何と説明すればいいのか迷っているうちに、カクはこの話題への興味を失ったようで、そろそろ戻るかと立ち上がって訓練に戻っていた。
数日後。カクは私に薄手のカーディガンをくれた。薄手で、さらさらとした肌触りが気持ち良い。風がとおり、汗ではりついたりしない。夏場でも着ていられそうなそれは、古着には見えなかった。驚きながら、どうやって手に入れたのか問えば、訓練で知り合った政府筋の家の子に融通してもらったという。
「わしは先輩じゃからのう。これくらい朝飯前じゃ」
カクはにっと笑って続けた。
「気休めでもなんでも、ウカには上着が必要なんじゃろう?」
「──、うん。そう。そうなの」
それ以上は言葉にならなくて、私はただただ薄いカーディガンをぎゅっと抱きしめた。彼がくれたそのカーディガンは、他の子供たちがくれた服や食べ物や毛布とは明らかに違う。間違いなく、彼自身の思いやりと気遣いが形になったものだった。
「やっぱり『先輩』だ」
「そう呼びたきゃ、呼べばええわい」
私を守ってくれたのは『先輩』だけ。
私を好きにならないカク先輩。私はそんなカク先輩が好きだ。
おしまい
←
夢小説,長編・連作,ONEPIECE,それすらわたしのひどい嘘 3839字 No.113
指絡む それすらわたしのひどい嘘 #カク
尋問せずにうっかり息の根を止めてしまった男に関する報告書は、ばれずにうまく上まで通ったらしく、なんのお咎めもなかった。ジャブラさんは、完璧! と太鼓判を押してくれていたが、正直不安しかなかったのでひとり胸を撫でおろす。
「どんな手違いがあればお前さんがCP9に配属されるんじゃ」
ホテルのフロントまでカク先輩を見送った際に言われた言葉だ。
カク先輩はあのあとすぐに、政府が用意した船で潜入先のウォーターセブンに戻っていった。カク先輩の顔は、苦虫を嚙み潰したような顔、のお手本みたいな顔だった。すみません、と小さくなるしか術がない。
「へましたお主の尻ぬぐいも、今日みたいな始末もごめんじゃ。そうなる前に元いた部署に戻れるようかけあってやるわい。感謝せい」
カク先輩はそう言って、一寸先は闇、という感じの夜に溶け込んでいく。見送れたのはコンマ何秒、という程度の時間だった。
今日みたいな始末──そういえばカク先輩は、なぜ事前の打ち合わせとは違う行動をとったのだろう。あと数メートルで打ち合わせ通りの状況となるはずだった。時間にして恐らく数秒程度。その数秒を待ってもらえなかったのはなぜだろう。
色々思いを巡らせて考えてはみるけど、結局、CP1ですら荷が重い私にはとても思い至らない理由なのだろうと結論づけ、部屋に戻る。壁越しでも聞こえるジャブラさんのいびきを聞きながら、私も気を張って疲れていたのか、そのまま、すこん、と眠りに落ちた。

「ま、またですか?」
翌朝。早速、次の任務に関する命令書がジャブラさんに届いていた。つい驚いたのは、昨夜ウォーターセブンに戻っていったばかりのカク先輩との任務を再び命じられたからだ。何でも、今日から三日後、ウォーターセブンからほど近いリゾート向けの離島をほぼ貸切るような形でアンダーグランドなパーティーが催されるらしい。客層は若く、年齢の近い私たちが選ばれたとのこと。ブリーフィングは当日カク先輩と落ち合って実施せよとのことだ。
「あとこれ大事なポイントな」
「なんでしょう?」
「いちゃつけ」
「え?」
「恋人として振舞え、だとよ」
カクばっかりずりぃなあ! と吠えるジャブラさんを尻目に私は言葉を失って固まるしかなかった。
任務当日。離島入りする船内で落ち合ったカク先輩は明らかに機嫌が悪かった。理由は片手じゃ足りないほど想像できる。ひとつ、任務の集中。ふたつ、休みなし。みっつ、よって寝不足。よっつ、私と一緒。いつつ、恋人設定──。
カク先輩はアロハシャツにハーフパンツといったリゾート地に似合いの装いで船に乗っていた。私もリゾートの雰囲気は損なわないようにマキシ丈のワンピースにしたが、なるべく肌の露出が少なくなるようにカーディガンを羽織る。パーティーは夜からで、カップル限定のイベントらしい。参加者は各々で用意した仮面をつけることになっているのだという。
「そろそろはじまるのう」
いくか、と仮面をつけて立ち上がるカク先輩に私も黙って後をついていく。ブリーフィングではターゲットとパートナーの最終確認、二人の行動予測、そして聞き出す情報の確認に終始してしまい、ジャブラさんが『大事なポイント』と強調した、恋人としての正しい振る舞いについては何も確認できなかった。
どうしよう。せめて隣を歩かないと、と貧弱な知識を総動員し、歩幅を大きくしたところでカク先輩が振り向いた。
「て」
「て?」
「とりあえず手でも繋いでおけばわかりやすくていいじゃろ」
カク先輩はうんざり、といった声音でため息交じりに言葉を尽くし説明してくれた。そしてそのまま、私の身体の横でだらんと垂れていただけの手を掴み、指先までしっかり絡める。
「ひ」
「仕事なんじゃから、ちゃんとせんか」
「す、すみません」
カク先輩はシャワーに持っていくタオルくらいの気安さで私の手を握った。さらに言えば、シャワーのタオルと一緒で、必要だから、以外の理由がなさそうな握り方だった。私は力をいれてもいれなくても変な気がして、結局一ミクロンも動かせない。カク先輩は何も言わない。

任務は順調だ。ターゲットへの接触は容易で、お酒の力も借りながら、難なく情報収集が進んでいく。
「それにしてもお前のその仮面! その鼻! 良いセンスしてんなあ!」
「ワハハ、そうじゃろ~?」
さすがカク先輩。この怪しいパーティーを心から楽しんでいるようにしか見えない。ターゲットはさっきからこの調子で、ぼろぼろと情報を落としていた。
「爺ちゃんの彼女ちゃんも、ちゃんと飲んでる?」
「飲んでる飲んでる! 気にしてくれてありがと~!」
「俺ら、なんか食うもんとってきてやるよ。待ってな」
ターゲットがパートナーを連れて場を離れた。あからさまにならないよう細心の注意を払って、そっと息をつく。良かった。今回の二人は、触れてこようとするタイプの人間ではなかった。本当に安堵した。
「相変わらず、好かれとるのう」
カク先輩が独り言みたいに言うから、返事をするべきか迷った。私じゃなくてカク先輩が、と答えようとしたのに、カク先輩は私の言葉を待たずに言葉を続ける。
「まんざらでもなさそうじゃし」
「それはッ!」
大きな声が出て、カク先輩がこちらに顔を向けるので、うっとたじろいだ。目が合うわけではないが、見つめられている気がする。きっと、あの人を殺せそうな目だ。
ちがいます、と辛うじて音にするが、フロアに鳴り響く爆音であっけなくかき消えている可能性の方が高い。
カク先輩の表情はもちろん仮面で隠れていてわからない。わからないけど、そうか、とそれだけが聞こえてきて、私は、ああよかったと心から思った。
ターゲットカップルが皿を両手に戻ってきた。見かけによらず律義なやつらじゃのう、と笑う。そしてまた手を──。
「カク先輩?」
「まだ仕事中じゃろ」
カク先輩は空いている方の手を軽くあげ、ターゲットに礼を言いながらお酒を受け取っている。
私の手を握る力はさっきより強い気もするのだが、そうだとしても理由がわからず、私は結局またどうすればいいのかわからないままカク先輩と触れ合う肌が少なくなるように、とそれだけに気をつけていた。
恋人のフリ、絡む指、繋ぎなおした手と手。なにかもがわからないまま、夜が更けていく。
おしまい
← →
尋問せずにうっかり息の根を止めてしまった男に関する報告書は、ばれずにうまく上まで通ったらしく、なんのお咎めもなかった。ジャブラさんは、完璧! と太鼓判を押してくれていたが、正直不安しかなかったのでひとり胸を撫でおろす。
「どんな手違いがあればお前さんがCP9に配属されるんじゃ」
ホテルのフロントまでカク先輩を見送った際に言われた言葉だ。
カク先輩はあのあとすぐに、政府が用意した船で潜入先のウォーターセブンに戻っていった。カク先輩の顔は、苦虫を嚙み潰したような顔、のお手本みたいな顔だった。すみません、と小さくなるしか術がない。
「へましたお主の尻ぬぐいも、今日みたいな始末もごめんじゃ。そうなる前に元いた部署に戻れるようかけあってやるわい。感謝せい」
カク先輩はそう言って、一寸先は闇、という感じの夜に溶け込んでいく。見送れたのはコンマ何秒、という程度の時間だった。
今日みたいな始末──そういえばカク先輩は、なぜ事前の打ち合わせとは違う行動をとったのだろう。あと数メートルで打ち合わせ通りの状況となるはずだった。時間にして恐らく数秒程度。その数秒を待ってもらえなかったのはなぜだろう。
色々思いを巡らせて考えてはみるけど、結局、CP1ですら荷が重い私にはとても思い至らない理由なのだろうと結論づけ、部屋に戻る。壁越しでも聞こえるジャブラさんのいびきを聞きながら、私も気を張って疲れていたのか、そのまま、すこん、と眠りに落ちた。
「ま、またですか?」
翌朝。早速、次の任務に関する命令書がジャブラさんに届いていた。つい驚いたのは、昨夜ウォーターセブンに戻っていったばかりのカク先輩との任務を再び命じられたからだ。何でも、今日から三日後、ウォーターセブンからほど近いリゾート向けの離島をほぼ貸切るような形でアンダーグランドなパーティーが催されるらしい。客層は若く、年齢の近い私たちが選ばれたとのこと。ブリーフィングは当日カク先輩と落ち合って実施せよとのことだ。
「あとこれ大事なポイントな」
「なんでしょう?」
「いちゃつけ」
「え?」
「恋人として振舞え、だとよ」
カクばっかりずりぃなあ! と吠えるジャブラさんを尻目に私は言葉を失って固まるしかなかった。
任務当日。離島入りする船内で落ち合ったカク先輩は明らかに機嫌が悪かった。理由は片手じゃ足りないほど想像できる。ひとつ、任務の集中。ふたつ、休みなし。みっつ、よって寝不足。よっつ、私と一緒。いつつ、恋人設定──。
カク先輩はアロハシャツにハーフパンツといったリゾート地に似合いの装いで船に乗っていた。私もリゾートの雰囲気は損なわないようにマキシ丈のワンピースにしたが、なるべく肌の露出が少なくなるようにカーディガンを羽織る。パーティーは夜からで、カップル限定のイベントらしい。参加者は各々で用意した仮面をつけることになっているのだという。
「そろそろはじまるのう」
いくか、と仮面をつけて立ち上がるカク先輩に私も黙って後をついていく。ブリーフィングではターゲットとパートナーの最終確認、二人の行動予測、そして聞き出す情報の確認に終始してしまい、ジャブラさんが『大事なポイント』と強調した、恋人としての正しい振る舞いについては何も確認できなかった。
どうしよう。せめて隣を歩かないと、と貧弱な知識を総動員し、歩幅を大きくしたところでカク先輩が振り向いた。
「て」
「て?」
「とりあえず手でも繋いでおけばわかりやすくていいじゃろ」
カク先輩はうんざり、といった声音でため息交じりに言葉を尽くし説明してくれた。そしてそのまま、私の身体の横でだらんと垂れていただけの手を掴み、指先までしっかり絡める。
「ひ」
「仕事なんじゃから、ちゃんとせんか」
「す、すみません」
カク先輩はシャワーに持っていくタオルくらいの気安さで私の手を握った。さらに言えば、シャワーのタオルと一緒で、必要だから、以外の理由がなさそうな握り方だった。私は力をいれてもいれなくても変な気がして、結局一ミクロンも動かせない。カク先輩は何も言わない。
任務は順調だ。ターゲットへの接触は容易で、お酒の力も借りながら、難なく情報収集が進んでいく。
「それにしてもお前のその仮面! その鼻! 良いセンスしてんなあ!」
「ワハハ、そうじゃろ~?」
さすがカク先輩。この怪しいパーティーを心から楽しんでいるようにしか見えない。ターゲットはさっきからこの調子で、ぼろぼろと情報を落としていた。
「爺ちゃんの彼女ちゃんも、ちゃんと飲んでる?」
「飲んでる飲んでる! 気にしてくれてありがと~!」
「俺ら、なんか食うもんとってきてやるよ。待ってな」
ターゲットがパートナーを連れて場を離れた。あからさまにならないよう細心の注意を払って、そっと息をつく。良かった。今回の二人は、触れてこようとするタイプの人間ではなかった。本当に安堵した。
「相変わらず、好かれとるのう」
カク先輩が独り言みたいに言うから、返事をするべきか迷った。私じゃなくてカク先輩が、と答えようとしたのに、カク先輩は私の言葉を待たずに言葉を続ける。
「まんざらでもなさそうじゃし」
「それはッ!」
大きな声が出て、カク先輩がこちらに顔を向けるので、うっとたじろいだ。目が合うわけではないが、見つめられている気がする。きっと、あの人を殺せそうな目だ。
ちがいます、と辛うじて音にするが、フロアに鳴り響く爆音であっけなくかき消えている可能性の方が高い。
カク先輩の表情はもちろん仮面で隠れていてわからない。わからないけど、そうか、とそれだけが聞こえてきて、私は、ああよかったと心から思った。
ターゲットカップルが皿を両手に戻ってきた。見かけによらず律義なやつらじゃのう、と笑う。そしてまた手を──。
「カク先輩?」
「まだ仕事中じゃろ」
カク先輩は空いている方の手を軽くあげ、ターゲットに礼を言いながらお酒を受け取っている。
私の手を握る力はさっきより強い気もするのだが、そうだとしても理由がわからず、私は結局またどうすればいいのかわからないままカク先輩と触れ合う肌が少なくなるように、とそれだけに気をつけていた。
恋人のフリ、絡む指、繋ぎなおした手と手。なにかもがわからないまま、夜が更けていく。
おしまい
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夢小説,長編・連作,ONEPIECE,それすらわたしのひどい嘘 2729字 No.110
全部内緒の初体験 #カク
カウンターでご飯を食べながら飲んでいたら。いや正確には、飲みながら、ご飯ということにして肴をちびちびつまんでいたら。お店のドアベルが鳴って、同時に冷たい夜風がぴゅうと店内に吹き込んだ。日中は春めいて暖かくても、夜はまだまだ冷え込む。せっかくお酒で温めた身体が一気にぞわりとして、己を抱きしめるようにして両手で肩をさする。早く閉めてよね、と眉を顰めながら風の吹き込むドアを睨むとそこに立っていたのは見知った顔だった。
「あれ? カクくん?」
うっかり出た酔っ払い特有の大きな声は、他の酔っ払いたちの声には負けずにカクくんに届いたらしい。カクくんは私の声のした方に顔を向け、目が合うと、にぱっと笑った。そのままテーブルとテーブルの狭い間を縫うようにして、大股でずんずんとこちらに向かってくる。え、なんだ、なんだ? カクくんの脚は長いから、あっという間に私のところまで辿り着いた。
「こんばんは、いい夜じゃの」
カクくんは当然のように空いていた私の右隣りに座って、それうまそうじゃな、と言った。カクくんも酔っぱらっているのか、いつもより人懐っこいし、砕けた感じだし、笑顔がまろやかだ。仕事の時も感じのいい子だとは思っているけど、こんなに緩んだ顔は見たことがない。初めての顔と声と態度に、なんだかびっくりして私の酔いが醒めそうになる。
「おいしいよ、同じの頼む?」言いながらメニューを手に取るが、カクくんは、かたじけないが、と首を振った。かたじけない、て。
「ひとり? 珍しいね。いつもはパウリーとかルッチさんとつるんでるじゃない」
「さっきまで一緒じゃったよ」
「ああ、どおりで。随分飲んだんだね」
「いや、まあ」
カクくんは本当に酔っぱらっているらしい。ふにゃふにゃと語尾を濁し、それ以上は何も言わなかった。意外と、お酒に身を委ねるタイプだったのか。仕事をしているカクくんしか知らないからちょっと新鮮だ。でも、いや、まって。そもそも。
「カクくん、どうしたの?」
なんでここにいるの? とはさすがに言わないが、口の中はその言葉でいっぱいだ。うっかり漏れ出ないように、お酒を煽ってお腹まで流し込んでおく。カクくんの答えは、工房のボスに聞いたんじゃ、というもので全く要領を得ない。
工房、というのは私が配属されている部署のことだ。船のあらゆる装飾を主に担当していて、人数は私を入れても三人ぽっち。文字通り工房に籠っての作業が多くて、あまり他部署と一緒んに作業することはない。
「ウカさん、ヤガラ飼っとるんじゃろ?」カクくんの話題は唐突だった。
「ああ、うん。元々実家で飼ってたヤガラちゃんだけど」
両親が知り合いから若いヤガラを譲り受けたというので、私が昔から飼っていたヤガラを引き取ったのだ。おじいちゃん、というほどではないけど、おじさん、くらいではあるかもしれない。子供の頃から一緒に育ったヤガラだ。
「わし、実はヤガラには乗ったことがなくてのう」
「ええ、そうなの!? 意外だね」
「わしはほれ、みなさんの屋根が足場じゃから」
「ああ、そうか。カクくんは水路なんて関係ないのか」
カクくんが造船島から軽やかに下町へダイブするのをもう何度も見てきた。落ちているはずなのに浮いているように見えるのがいつも不思議だ。
「そう、だから」
「ん?」
「明日、ウカさんとこのヤガラに乗せてくれんかの?」

よくわからないまま、朝がきてしまった。なんで断り切れなかったんだろう。ベッド脇の窓からはレースのカーテン越しに朝日が燦々と降り注いでいて、今日が快晴であることを物語っている。窓下の水路にいる当のヤガラちゃんはまだ眠っているようだ。
え、なんでうちのヤガラに乗るの? 他に飼ってる人たくさんいるよね? 頼める人いないのかな……。あれ? パウリーってヤガラ飼ってなかったっけ? よく乗って怖い人たちから逃げ回ってるイメージがあるんだけど。
昨夜カクくんにぶつけられなかった疑問が次から次へと沸いてくる。湧いてくるがもう遅い。今からカクくんに断りの連絡を入れる術はないのだから、少なくとも、待ち合わせ場所には行かなくては。そうだ、ただ貸すだけだ。何か事情があるのかもしれないし、カクくんに限って、パウリーみたく良からぬことにうちのヤガラを巻き込むなんてことはないだろう。
ベッドからのろのろと起き上がり、ひとまずクローゼットを開けてみた。
どうしよう。気合が入りすぎても恥ずかしいし、かといって、適当すぎる格好もなんだかそれは、ちょっと嫌。
右手をクローゼットの端から端まで散々往ったり来たりさせて最終的に私が手に取ったのはボートネックのニットとワイドチノパン。足元は迷って迷ってたくさんの言い訳をしながら、ストラップ付のミュールにした。顔を洗って、眉を描いて、メイクは最小限。ヘアオイルで髪を整えて、ピアスを……と手を伸ばしたところで、いやいやいや、デートじゃないって!
外に出ると、ヤガラちゃんがニイニイと鳴きながら円を描くように水路を行ったり来たりした。久しぶりのおめかしを面白がられているような気もする。耳にはピアスが揺れる。
カクくんが待ち合わせに指定したのは、昨日飲んでいたお店のすぐ近くにあるカフェだった。造船島には何店舗もある人気店だ。時間より早めについてしまったので、お店の窓ガラスに映る自分を何度も確認してしまう。うちのヤガラを見せるだけ、それに乗ってもらうだけ。それなのに気合入りすぎだろうか? やっぱりミュールはやめておいた方が良かったか? ピアス外しちゃおうかな。全然自信が持てない。
まだ待ち合わせまで十五分もある。やっぱりピアスは取ろうかな、と耳たぶを触りながらミュールのつま先を見つめていたら、
「すまんすまん、待たせたのう」
慌てて声がした方に顔を向け耳から手を離す。
「いや全然! 待ってないよ」
思ったよりずっと大きい声が出て恥ずかしくなるが、カクくんは、それなら良かったとただ微笑むだけだった。
休日のカクくんは大きめのTシャツに細身のパンツを合わせていて、手足が長くて顔が小さいから、それだけでも十分お洒落に見えた。仕事着しか見たことがなかったから新鮮だ。そんなお洒落なカクくんは私のおめかしには無関心のようで、着いて早々、水路ではしゃぐうちのヤガラに気づき、しゃがんで声をかけている。
「水水肉を持ってきたんじゃ。あげてもいいじゃろうか」
「わあ、ありがとう。好物だから喜ぶよ」
ヤガラは喜びを全身で示したいのか、水路をくるくると回って大はしゃぎだ。カクくんにもそれが伝わるのか、ワハハ、喜んどる喜んどる、と嬉しそうだ。当たり前だけど、本当にヤガラに乗りに来たんだな。勝手にちょっと緊張して、勝手にちょっとおめかししてみて、これはこれで楽しかったけど、この分だと用事はさくっと済みそうだ。しゃがんだままのカクくんを見下ろす形で一気に説明する。
「ええと、じゃあ改めて。そこにいるのがうちのヤガラちゃん。船はカップルシートで大きめだけど、一人でも乗れるしその分荷物も積みやすいと思うよ。用事が済んだところでもう大丈夫って言えば、勝手にうちに帰ってくるから。あ、空腹になると煩いから、お昼頃に水水肉あげてね」
街の人なら誰でも知ってるようなことだったけど、乗ったことがない、というカクくんにはひとまず言っておくことにした。一度にたくさん捲くし立てたせいか、カクくんは元々丸い目をさらに丸くして、二度三度、瞬きをした。
「他に何か聞きたいことある?」
「ウカさんも乗るじゃろ?」
「え? 私?」
ヤガラだけが無邪気にニイニイと鳴いて、肉はもっとないのか? と水路をうろうろしていた。

「一緒に乗らん選択肢があったことに驚きなんじゃが」
「え、だって昨日、ヤガラに乗ったことがないから乗せて欲しい、って」
「初心者に大事なヤガラを預けて放り出すつもりじゃったんか!」
言われてみれば。
休日にカクくんに会わなきゃいけない、ということで頭がいっぱいになってしまって、色々考えが足りてなかった。カクくんは、さすがウカさん、とお腹を抱えて笑っている。
いやでも、私は。
「いや、それは、確かに。そう、なんだけど」
「なんじゃ? 今日は都合でも悪いんか?」
笑いすぎて目尻に滲んだ涙を拭いながらカクくんは気を遣うようなこと言った。
言うか、言うまいか。言わずに帰ることだってできる。でも。
「……、内緒にしてくれる?」
「そう頼まれれば」
カクくんに茶化すような雰囲気はまるでなく至極真面目な顔をしてくれたから、胸の中でぐるぐると右往左往していた思いが、すっと言葉になって出てくる気がした。
「実は私も乗ったことがないの」
「へ?」
「水が、怖くて」
カクくんはやっぱりまた丸い目をぱちぱちさせた。
そしてすっと立ち上がって腕を組んで、ちょっと考え込むような素振りをした。言葉を選んでいるようだった。
「どれくらいなんじゃ? 例えば水に近づくと足がすくむとか、怖くて水路に近づけないとか」
「あっ、そんなひどくはない。小さい頃、水路に落ちて溺れかけて。それ以来、ヤガラには一度も乗らずにここまで大人になってしまったの。水路に落ちる人もやっぱりゼロじゃないし……だから、怖い気持ちを抑えて、今更チャレンジする理由もなくて」
「わしは理由にならんか?」
「カクくんが?」
「そう。カクくんと一緒に乗るためにちょっとチャレンジしてみてくれんかの」
真面目な顔して言うものだから思わず吹き出してしまう。
「──カクくんが一緒なら、ちょっとだけ」
「水には絶対落とさんから」
カクくんがそう言うならそうなんだろう。なんだか、ふっと心が緩む。
生まれて初めて乗るヤガラの背はミュールでは覚束なかったけど、カクくんの手を取る口実にはなった。

もしかしたらうんと小さい頃は両親に抱えられて乗ったことがあるのかもしれない。記憶の限りでは初めて乗るヤガラの背中は思っていたよりずっと安定感があった。先にカクくんが乗ってバランスを取ってくれたし、当のヤガラちゃんも、まさかお前ついに乗るのか!? と驚きつつ、何やらいつもよりきりっとした顔つきで背に乗る私を見守っていた。
恐る恐る及び腰で船に乗りすぐ座る。カップルシートは通常の二人乗り用の船と違って、前後ではなく二人が横並びで座れるよう、背もたれがなく広々としている。進行方向に対して横向きで座ることになるけど、スピードを出す必要がなければ賢いヤガラちゃんにすべて任せておけばいいので十分だ、と両親は言っていた。でも私が聞くべきはそこじゃなかったはず。
「で、なんでカップルシートなんじゃ?」
「両親の趣味! それだけ!」
誤解されては困るので即答する。
カクくんは、へえ、片眉をあげてそれ以上何も言わなかった。私も初めての水の上で余裕がなかったし、あれこれ言うとかえって信じてもらえなさそうだからそのまま黙る。ヤガラちゃんは気を遣ったのか、観光客の多い大きな水路を避けて、地元の人しか使わなさそうな静かな水路を選び、ゆっくりと泳いでくれた。家と家の間に張り巡らされている水路は少し薄暗い。でも、家と家で切り取られた空から差し込んでくる光が水面に反射してきらきらと眩しく、その光景は私の恐怖心をあおらなかった。それよりも、さっきからずっと左肩がカクくんとぶつかっている。そちらの方が私の心臓を混乱させていた。
「どうじゃ? 降りるか?」私の内臓がどうなってるか知らないカクくんが心配そうに尋ねてくる。
「ん、まだ、大丈夫」
「お、そりゃ重畳」
「カ、カクくんは、ヤガラに乗って何かしたいことがあったんじゃないの? 買い物とか」
早鐘を打つ心臓を誤魔化したくて、話題を振る。この鼓動はどちらのせいか自分でもわからない。水の上だから? それとも──カクくんの隣だから?
カクくんのヤガラに乗りたい、は、ヤガラを借りたい、だとも思っていた。ヤガラちゃんは力持ちだから、家具を買って運んでもらう人もいる。この街は、水に物を浮かせて運ぶ方がずっと楽だ。
「ちょっとだけなら付き合えるよ。どこか行きたいところがあった?」
「ん、その、まあ、なんていうか」
「なに?」
「女の人は何をもらったら喜ぶんかのう」
カクくんはまっすぐ前を、つまり私とは目を合わさずに、キャップを深くかぶり直してから、耳と頬を染めて言った。
さっきまで熱いくらいに感じていた左肩が急速に冷えていく。何か言わなきゃ。何か。
「ええ、なんだろう。でもそれなら造船島の中心街に行った方がお店もあるよね。ヤガラちゃん、ありがとう。造船島に戻ってくれる? ……なるべく揺れない感じで」
びっくりしすぎて早口になってしまったが、ヤガラちゃんはちゃんと聞き取って、ニイ! と元気よく鳴いた。カクくんは、そうじゃな、と小さく応じるだけだ。もっと深堀した方がいいのかな、と思ったけど、そんな気になれなくて、つい『まだ水が怖いんです』という振りで私も黙ることにする。あーはいはい、そういうことですか。別にカクくんが女性にプレゼントをあげたって、そのアドバイスを私に聞いたって、なんの問題もないはずなのに。ちょっと、面白くない。

ぼうっと水面を眺めていたら、あっという間に水門エレベーターの前まで来ていた。もちろん、中に入るのは生まれて初めてだ。ヤガラちゃんは、お急ぎくださいというエレベーターガールのアナウンスにも動じず、優雅に門へと泳いでいく。タイミングが良いのか悪いのか、利用者は私たちだけだった。狭くもないが広くもない縦穴の門が閉まると塔内に水が満たされていき、上の造船島に移動できる。
初めて入った水門エレベーターは想像していたよりずっと暗かった。門が閉まると、光が入ってくるのは上部の開放部だけになる。首が痛くなるくらい曲げて見上げても、切り取られた空は随分小さい。注水が始まると轟音が石造りの塔内で一層反響した。
「おお、結構迫力があるのう」
カクくんはアトラクションを楽しむような軽快さで言った。私は妙な緊張を覚えながら曖昧に頷く。
早く上に着いて欲しい。水位は結構なスピードでどんどん上昇した。同時に、注水されている水の量にちょっとぞっとする。結構なスピードで上昇していて、半分くらいまできたかな、もう少しの辛抱かな、と思ったあたりで急に上昇しなくなった。カクくんと顔を見合わせていると上の方から水音にかき消されそうなアナウンスが辛うじて聞こえた。
『大変申し訳ございません。トラブルのためしばし上昇を停止します』
ごうごうと水が流れ込んでくる音は止まないが、アナウンスの通り、水位の上昇はぴたりと止まった。カクくんも私も、水門エレベーターは初めてだからこういうことはよくあることなのかわからない。ひとまず二人で顔を見合わせて、どうしたんじゃろうな、そうだね、と言い合った。
揺れはほとんどない。だが下には大量の水がある。自分が上昇してきた高さ、つまり、深さに思い至って血の気が引いた。街に張り巡らされている水路とはわけが違う。塔内の壁には突起も何もない。もし水に落ちた時、この場で縋れるのはヤガラちゃんだけ。でもヤガラちゃんだってパニックになるかもしれない。
思いついてしまったらもう駄目だ。手が冷たく汗ばみ、身体の震えが止まらない。奥歯がガチガチと音を立て、その音を聞いて、また恐ろしくなった。
「ウカさん?」
「ご、ごめ。こわ、こわく、て」
膝を抱え身体を小さく縮こませてやりすごそうとするが、私が震えるとヤガラちゃんも揺れるような気がして、恐怖が増していく。
カクくんの顔つきが変わった。
「この船はヤガラから外しても浮くじゃろ?」
「ふ、ふね、だから、うく」声がどうにも震えて情けない。
「よし」
カクくんは初めてとは思えない手つきでヤガラと船の連結を外した。ヤガラちゃんの背から外れて船だけで浮くと、途端、揺れが大きくなり恐怖がさらに増す。ヤガラちゃんも、ほんとにいいのか? と不安そうで、ニィ……、と小さく鳴きながら私たちの乗った船のそばを行ったり来たりする。
「ウカさん、飛ぶぞ」
「え、」
「ヤガラちゃん、すまん。造船島で待っとるからの」
「ニイ!」
「え、いや、ちょ」
っと待って、と言い切らないうちにカクくんが私の腰あたりに腕を回し自分の方へぐっと引き寄せた。ぎゃッ! と叫ぶ間もなく、そのまま飛ぶ。慌ててカクくんの肩に腕を回して落ちないようにしがみついた。足場にした船が、どぷんっ、と深く水の中に沈んだのが目の端で見えた気がするけど、カクくんはその前に宙に浮いている。
「うわうわうわうわッ!」
風が顔にびゅんびゅんあたる。髪がぐしゃぐしゃになる。耳のそばでごうごう聞こえる。目を開けているのも一苦労。でも、下から見上げた時はあんなに小さかった空が薄目でもどんどん近づいて明るくなっていくのがわかった。
それは一瞬。
縦穴から解放された瞬間、視界三百六十度が全部、造船島の街並みになる。カクくんは水門エレベーターの縁にとす、と着地すると、そこを足場にもうワンジャンプして、エレベーターと繋がっている水路の脇に着地した。街の人たちは最初、エレベーターの縦穴からぴょんと飛び出た私たちを凝視していたけど、飛び出してきたのがカクくんだと分かった途端、なんだカクか、と自分たちの日常に戻っていった。下の方から『お客様、申し訳ございませんでした。ただいま復旧いたしました』とエレベーターガールの声が聞こえる。
「び、っくりした」
「怖かったか?」
「え、あ」
怖がっていたことを忘れていた。足元の感覚はまだおぼつかないが、いつの間にか体温が戻り、体の震えも止まっている。
復旧したエレベーターからヤガラちゃんもびゅんと泳いで寄ってきた。先ほど背から外した船も引いてきてくれたが、カクくんが足場にして一度水に沈んだからびしょびしょだ。
「すまんの。せっかくのカップルシートを駄目にしてしもうた」
「だ、大丈夫。私こそ大袈裟に怖がっちゃってごめんなさい」
「そんなことないじゃろ! 怖いもんは怖い!」
カクくんが眉毛を吊り上げて、口をへの字にして、怒ってくれるのが嬉しかった。ヤガラちゃんも、ニイニイ鳴いて同意してくれているようだ。こうなってしまえば、ヤガラちゃんにはこのままびしょ濡れのカップルシートを引いて一旦、家に帰ってもらうしかない。でも、このままカクくんと別れるのはちょっと寂しかった。誰のプレゼントだろうが、カクくんと同じ時間を過ごすことに変わりはない。恐る恐る、といった雰囲気が出ないよう努めて明るく尋ねてみる。
「この後どうしようか? ヤガラちゃんにはもう乗れないけど……プレゼント、探してるんだよね?」
「や、まあ、そういえばそうじゃったな」
「徒歩で良ければお礼もかねて付き合うよ。どんな人なんだっけ?」
カクくんが、鼻をかきながらちらりとこちらを見る。
「……きわ」
「え?」
「浮き輪が、いいかもしれん」
「う、浮き輪? なんで──」
そのあと続いた言葉は『まさか』としか言いようがなくて、私はどんどん火照る頬を両手で隠すほかなかった。
『水が怖いって人じゃから』
おしまい
カウンターでご飯を食べながら飲んでいたら。いや正確には、飲みながら、ご飯ということにして肴をちびちびつまんでいたら。お店のドアベルが鳴って、同時に冷たい夜風がぴゅうと店内に吹き込んだ。日中は春めいて暖かくても、夜はまだまだ冷え込む。せっかくお酒で温めた身体が一気にぞわりとして、己を抱きしめるようにして両手で肩をさする。早く閉めてよね、と眉を顰めながら風の吹き込むドアを睨むとそこに立っていたのは見知った顔だった。
「あれ? カクくん?」
うっかり出た酔っ払い特有の大きな声は、他の酔っ払いたちの声には負けずにカクくんに届いたらしい。カクくんは私の声のした方に顔を向け、目が合うと、にぱっと笑った。そのままテーブルとテーブルの狭い間を縫うようにして、大股でずんずんとこちらに向かってくる。え、なんだ、なんだ? カクくんの脚は長いから、あっという間に私のところまで辿り着いた。
「こんばんは、いい夜じゃの」
カクくんは当然のように空いていた私の右隣りに座って、それうまそうじゃな、と言った。カクくんも酔っぱらっているのか、いつもより人懐っこいし、砕けた感じだし、笑顔がまろやかだ。仕事の時も感じのいい子だとは思っているけど、こんなに緩んだ顔は見たことがない。初めての顔と声と態度に、なんだかびっくりして私の酔いが醒めそうになる。
「おいしいよ、同じの頼む?」言いながらメニューを手に取るが、カクくんは、かたじけないが、と首を振った。かたじけない、て。
「ひとり? 珍しいね。いつもはパウリーとかルッチさんとつるんでるじゃない」
「さっきまで一緒じゃったよ」
「ああ、どおりで。随分飲んだんだね」
「いや、まあ」
カクくんは本当に酔っぱらっているらしい。ふにゃふにゃと語尾を濁し、それ以上は何も言わなかった。意外と、お酒に身を委ねるタイプだったのか。仕事をしているカクくんしか知らないからちょっと新鮮だ。でも、いや、まって。そもそも。
「カクくん、どうしたの?」
なんでここにいるの? とはさすがに言わないが、口の中はその言葉でいっぱいだ。うっかり漏れ出ないように、お酒を煽ってお腹まで流し込んでおく。カクくんの答えは、工房のボスに聞いたんじゃ、というもので全く要領を得ない。
工房、というのは私が配属されている部署のことだ。船のあらゆる装飾を主に担当していて、人数は私を入れても三人ぽっち。文字通り工房に籠っての作業が多くて、あまり他部署と一緒んに作業することはない。
「ウカさん、ヤガラ飼っとるんじゃろ?」カクくんの話題は唐突だった。
「ああ、うん。元々実家で飼ってたヤガラちゃんだけど」
両親が知り合いから若いヤガラを譲り受けたというので、私が昔から飼っていたヤガラを引き取ったのだ。おじいちゃん、というほどではないけど、おじさん、くらいではあるかもしれない。子供の頃から一緒に育ったヤガラだ。
「わし、実はヤガラには乗ったことがなくてのう」
「ええ、そうなの!? 意外だね」
「わしはほれ、みなさんの屋根が足場じゃから」
「ああ、そうか。カクくんは水路なんて関係ないのか」
カクくんが造船島から軽やかに下町へダイブするのをもう何度も見てきた。落ちているはずなのに浮いているように見えるのがいつも不思議だ。
「そう、だから」
「ん?」
「明日、ウカさんとこのヤガラに乗せてくれんかの?」
よくわからないまま、朝がきてしまった。なんで断り切れなかったんだろう。ベッド脇の窓からはレースのカーテン越しに朝日が燦々と降り注いでいて、今日が快晴であることを物語っている。窓下の水路にいる当のヤガラちゃんはまだ眠っているようだ。
え、なんでうちのヤガラに乗るの? 他に飼ってる人たくさんいるよね? 頼める人いないのかな……。あれ? パウリーってヤガラ飼ってなかったっけ? よく乗って怖い人たちから逃げ回ってるイメージがあるんだけど。
昨夜カクくんにぶつけられなかった疑問が次から次へと沸いてくる。湧いてくるがもう遅い。今からカクくんに断りの連絡を入れる術はないのだから、少なくとも、待ち合わせ場所には行かなくては。そうだ、ただ貸すだけだ。何か事情があるのかもしれないし、カクくんに限って、パウリーみたく良からぬことにうちのヤガラを巻き込むなんてことはないだろう。
ベッドからのろのろと起き上がり、ひとまずクローゼットを開けてみた。
どうしよう。気合が入りすぎても恥ずかしいし、かといって、適当すぎる格好もなんだかそれは、ちょっと嫌。
右手をクローゼットの端から端まで散々往ったり来たりさせて最終的に私が手に取ったのはボートネックのニットとワイドチノパン。足元は迷って迷ってたくさんの言い訳をしながら、ストラップ付のミュールにした。顔を洗って、眉を描いて、メイクは最小限。ヘアオイルで髪を整えて、ピアスを……と手を伸ばしたところで、いやいやいや、デートじゃないって!
外に出ると、ヤガラちゃんがニイニイと鳴きながら円を描くように水路を行ったり来たりした。久しぶりのおめかしを面白がられているような気もする。耳にはピアスが揺れる。
カクくんが待ち合わせに指定したのは、昨日飲んでいたお店のすぐ近くにあるカフェだった。造船島には何店舗もある人気店だ。時間より早めについてしまったので、お店の窓ガラスに映る自分を何度も確認してしまう。うちのヤガラを見せるだけ、それに乗ってもらうだけ。それなのに気合入りすぎだろうか? やっぱりミュールはやめておいた方が良かったか? ピアス外しちゃおうかな。全然自信が持てない。
まだ待ち合わせまで十五分もある。やっぱりピアスは取ろうかな、と耳たぶを触りながらミュールのつま先を見つめていたら、
「すまんすまん、待たせたのう」
慌てて声がした方に顔を向け耳から手を離す。
「いや全然! 待ってないよ」
思ったよりずっと大きい声が出て恥ずかしくなるが、カクくんは、それなら良かったとただ微笑むだけだった。
休日のカクくんは大きめのTシャツに細身のパンツを合わせていて、手足が長くて顔が小さいから、それだけでも十分お洒落に見えた。仕事着しか見たことがなかったから新鮮だ。そんなお洒落なカクくんは私のおめかしには無関心のようで、着いて早々、水路ではしゃぐうちのヤガラに気づき、しゃがんで声をかけている。
「水水肉を持ってきたんじゃ。あげてもいいじゃろうか」
「わあ、ありがとう。好物だから喜ぶよ」
ヤガラは喜びを全身で示したいのか、水路をくるくると回って大はしゃぎだ。カクくんにもそれが伝わるのか、ワハハ、喜んどる喜んどる、と嬉しそうだ。当たり前だけど、本当にヤガラに乗りに来たんだな。勝手にちょっと緊張して、勝手にちょっとおめかししてみて、これはこれで楽しかったけど、この分だと用事はさくっと済みそうだ。しゃがんだままのカクくんを見下ろす形で一気に説明する。
「ええと、じゃあ改めて。そこにいるのがうちのヤガラちゃん。船はカップルシートで大きめだけど、一人でも乗れるしその分荷物も積みやすいと思うよ。用事が済んだところでもう大丈夫って言えば、勝手にうちに帰ってくるから。あ、空腹になると煩いから、お昼頃に水水肉あげてね」
街の人なら誰でも知ってるようなことだったけど、乗ったことがない、というカクくんにはひとまず言っておくことにした。一度にたくさん捲くし立てたせいか、カクくんは元々丸い目をさらに丸くして、二度三度、瞬きをした。
「他に何か聞きたいことある?」
「ウカさんも乗るじゃろ?」
「え? 私?」
ヤガラだけが無邪気にニイニイと鳴いて、肉はもっとないのか? と水路をうろうろしていた。
「一緒に乗らん選択肢があったことに驚きなんじゃが」
「え、だって昨日、ヤガラに乗ったことがないから乗せて欲しい、って」
「初心者に大事なヤガラを預けて放り出すつもりじゃったんか!」
言われてみれば。
休日にカクくんに会わなきゃいけない、ということで頭がいっぱいになってしまって、色々考えが足りてなかった。カクくんは、さすがウカさん、とお腹を抱えて笑っている。
いやでも、私は。
「いや、それは、確かに。そう、なんだけど」
「なんじゃ? 今日は都合でも悪いんか?」
笑いすぎて目尻に滲んだ涙を拭いながらカクくんは気を遣うようなこと言った。
言うか、言うまいか。言わずに帰ることだってできる。でも。
「……、内緒にしてくれる?」
「そう頼まれれば」
カクくんに茶化すような雰囲気はまるでなく至極真面目な顔をしてくれたから、胸の中でぐるぐると右往左往していた思いが、すっと言葉になって出てくる気がした。
「実は私も乗ったことがないの」
「へ?」
「水が、怖くて」
カクくんはやっぱりまた丸い目をぱちぱちさせた。
そしてすっと立ち上がって腕を組んで、ちょっと考え込むような素振りをした。言葉を選んでいるようだった。
「どれくらいなんじゃ? 例えば水に近づくと足がすくむとか、怖くて水路に近づけないとか」
「あっ、そんなひどくはない。小さい頃、水路に落ちて溺れかけて。それ以来、ヤガラには一度も乗らずにここまで大人になってしまったの。水路に落ちる人もやっぱりゼロじゃないし……だから、怖い気持ちを抑えて、今更チャレンジする理由もなくて」
「わしは理由にならんか?」
「カクくんが?」
「そう。カクくんと一緒に乗るためにちょっとチャレンジしてみてくれんかの」
真面目な顔して言うものだから思わず吹き出してしまう。
「──カクくんが一緒なら、ちょっとだけ」
「水には絶対落とさんから」
カクくんがそう言うならそうなんだろう。なんだか、ふっと心が緩む。
生まれて初めて乗るヤガラの背はミュールでは覚束なかったけど、カクくんの手を取る口実にはなった。
もしかしたらうんと小さい頃は両親に抱えられて乗ったことがあるのかもしれない。記憶の限りでは初めて乗るヤガラの背中は思っていたよりずっと安定感があった。先にカクくんが乗ってバランスを取ってくれたし、当のヤガラちゃんも、まさかお前ついに乗るのか!? と驚きつつ、何やらいつもよりきりっとした顔つきで背に乗る私を見守っていた。
恐る恐る及び腰で船に乗りすぐ座る。カップルシートは通常の二人乗り用の船と違って、前後ではなく二人が横並びで座れるよう、背もたれがなく広々としている。進行方向に対して横向きで座ることになるけど、スピードを出す必要がなければ賢いヤガラちゃんにすべて任せておけばいいので十分だ、と両親は言っていた。でも私が聞くべきはそこじゃなかったはず。
「で、なんでカップルシートなんじゃ?」
「両親の趣味! それだけ!」
誤解されては困るので即答する。
カクくんは、へえ、片眉をあげてそれ以上何も言わなかった。私も初めての水の上で余裕がなかったし、あれこれ言うとかえって信じてもらえなさそうだからそのまま黙る。ヤガラちゃんは気を遣ったのか、観光客の多い大きな水路を避けて、地元の人しか使わなさそうな静かな水路を選び、ゆっくりと泳いでくれた。家と家の間に張り巡らされている水路は少し薄暗い。でも、家と家で切り取られた空から差し込んでくる光が水面に反射してきらきらと眩しく、その光景は私の恐怖心をあおらなかった。それよりも、さっきからずっと左肩がカクくんとぶつかっている。そちらの方が私の心臓を混乱させていた。
「どうじゃ? 降りるか?」私の内臓がどうなってるか知らないカクくんが心配そうに尋ねてくる。
「ん、まだ、大丈夫」
「お、そりゃ重畳」
「カ、カクくんは、ヤガラに乗って何かしたいことがあったんじゃないの? 買い物とか」
早鐘を打つ心臓を誤魔化したくて、話題を振る。この鼓動はどちらのせいか自分でもわからない。水の上だから? それとも──カクくんの隣だから?
カクくんのヤガラに乗りたい、は、ヤガラを借りたい、だとも思っていた。ヤガラちゃんは力持ちだから、家具を買って運んでもらう人もいる。この街は、水に物を浮かせて運ぶ方がずっと楽だ。
「ちょっとだけなら付き合えるよ。どこか行きたいところがあった?」
「ん、その、まあ、なんていうか」
「なに?」
「女の人は何をもらったら喜ぶんかのう」
カクくんはまっすぐ前を、つまり私とは目を合わさずに、キャップを深くかぶり直してから、耳と頬を染めて言った。
さっきまで熱いくらいに感じていた左肩が急速に冷えていく。何か言わなきゃ。何か。
「ええ、なんだろう。でもそれなら造船島の中心街に行った方がお店もあるよね。ヤガラちゃん、ありがとう。造船島に戻ってくれる? ……なるべく揺れない感じで」
びっくりしすぎて早口になってしまったが、ヤガラちゃんはちゃんと聞き取って、ニイ! と元気よく鳴いた。カクくんは、そうじゃな、と小さく応じるだけだ。もっと深堀した方がいいのかな、と思ったけど、そんな気になれなくて、つい『まだ水が怖いんです』という振りで私も黙ることにする。あーはいはい、そういうことですか。別にカクくんが女性にプレゼントをあげたって、そのアドバイスを私に聞いたって、なんの問題もないはずなのに。ちょっと、面白くない。
ぼうっと水面を眺めていたら、あっという間に水門エレベーターの前まで来ていた。もちろん、中に入るのは生まれて初めてだ。ヤガラちゃんは、お急ぎくださいというエレベーターガールのアナウンスにも動じず、優雅に門へと泳いでいく。タイミングが良いのか悪いのか、利用者は私たちだけだった。狭くもないが広くもない縦穴の門が閉まると塔内に水が満たされていき、上の造船島に移動できる。
初めて入った水門エレベーターは想像していたよりずっと暗かった。門が閉まると、光が入ってくるのは上部の開放部だけになる。首が痛くなるくらい曲げて見上げても、切り取られた空は随分小さい。注水が始まると轟音が石造りの塔内で一層反響した。
「おお、結構迫力があるのう」
カクくんはアトラクションを楽しむような軽快さで言った。私は妙な緊張を覚えながら曖昧に頷く。
早く上に着いて欲しい。水位は結構なスピードでどんどん上昇した。同時に、注水されている水の量にちょっとぞっとする。結構なスピードで上昇していて、半分くらいまできたかな、もう少しの辛抱かな、と思ったあたりで急に上昇しなくなった。カクくんと顔を見合わせていると上の方から水音にかき消されそうなアナウンスが辛うじて聞こえた。
『大変申し訳ございません。トラブルのためしばし上昇を停止します』
ごうごうと水が流れ込んでくる音は止まないが、アナウンスの通り、水位の上昇はぴたりと止まった。カクくんも私も、水門エレベーターは初めてだからこういうことはよくあることなのかわからない。ひとまず二人で顔を見合わせて、どうしたんじゃろうな、そうだね、と言い合った。
揺れはほとんどない。だが下には大量の水がある。自分が上昇してきた高さ、つまり、深さに思い至って血の気が引いた。街に張り巡らされている水路とはわけが違う。塔内の壁には突起も何もない。もし水に落ちた時、この場で縋れるのはヤガラちゃんだけ。でもヤガラちゃんだってパニックになるかもしれない。
思いついてしまったらもう駄目だ。手が冷たく汗ばみ、身体の震えが止まらない。奥歯がガチガチと音を立て、その音を聞いて、また恐ろしくなった。
「ウカさん?」
「ご、ごめ。こわ、こわく、て」
膝を抱え身体を小さく縮こませてやりすごそうとするが、私が震えるとヤガラちゃんも揺れるような気がして、恐怖が増していく。
カクくんの顔つきが変わった。
「この船はヤガラから外しても浮くじゃろ?」
「ふ、ふね、だから、うく」声がどうにも震えて情けない。
「よし」
カクくんは初めてとは思えない手つきでヤガラと船の連結を外した。ヤガラちゃんの背から外れて船だけで浮くと、途端、揺れが大きくなり恐怖がさらに増す。ヤガラちゃんも、ほんとにいいのか? と不安そうで、ニィ……、と小さく鳴きながら私たちの乗った船のそばを行ったり来たりする。
「ウカさん、飛ぶぞ」
「え、」
「ヤガラちゃん、すまん。造船島で待っとるからの」
「ニイ!」
「え、いや、ちょ」
っと待って、と言い切らないうちにカクくんが私の腰あたりに腕を回し自分の方へぐっと引き寄せた。ぎゃッ! と叫ぶ間もなく、そのまま飛ぶ。慌ててカクくんの肩に腕を回して落ちないようにしがみついた。足場にした船が、どぷんっ、と深く水の中に沈んだのが目の端で見えた気がするけど、カクくんはその前に宙に浮いている。
「うわうわうわうわッ!」
風が顔にびゅんびゅんあたる。髪がぐしゃぐしゃになる。耳のそばでごうごう聞こえる。目を開けているのも一苦労。でも、下から見上げた時はあんなに小さかった空が薄目でもどんどん近づいて明るくなっていくのがわかった。
それは一瞬。
縦穴から解放された瞬間、視界三百六十度が全部、造船島の街並みになる。カクくんは水門エレベーターの縁にとす、と着地すると、そこを足場にもうワンジャンプして、エレベーターと繋がっている水路の脇に着地した。街の人たちは最初、エレベーターの縦穴からぴょんと飛び出た私たちを凝視していたけど、飛び出してきたのがカクくんだと分かった途端、なんだカクか、と自分たちの日常に戻っていった。下の方から『お客様、申し訳ございませんでした。ただいま復旧いたしました』とエレベーターガールの声が聞こえる。
「び、っくりした」
「怖かったか?」
「え、あ」
怖がっていたことを忘れていた。足元の感覚はまだおぼつかないが、いつの間にか体温が戻り、体の震えも止まっている。
復旧したエレベーターからヤガラちゃんもびゅんと泳いで寄ってきた。先ほど背から外した船も引いてきてくれたが、カクくんが足場にして一度水に沈んだからびしょびしょだ。
「すまんの。せっかくのカップルシートを駄目にしてしもうた」
「だ、大丈夫。私こそ大袈裟に怖がっちゃってごめんなさい」
「そんなことないじゃろ! 怖いもんは怖い!」
カクくんが眉毛を吊り上げて、口をへの字にして、怒ってくれるのが嬉しかった。ヤガラちゃんも、ニイニイ鳴いて同意してくれているようだ。こうなってしまえば、ヤガラちゃんにはこのままびしょ濡れのカップルシートを引いて一旦、家に帰ってもらうしかない。でも、このままカクくんと別れるのはちょっと寂しかった。誰のプレゼントだろうが、カクくんと同じ時間を過ごすことに変わりはない。恐る恐る、といった雰囲気が出ないよう努めて明るく尋ねてみる。
「この後どうしようか? ヤガラちゃんにはもう乗れないけど……プレゼント、探してるんだよね?」
「や、まあ、そういえばそうじゃったな」
「徒歩で良ければお礼もかねて付き合うよ。どんな人なんだっけ?」
カクくんが、鼻をかきながらちらりとこちらを見る。
「……きわ」
「え?」
「浮き輪が、いいかもしれん」
「う、浮き輪? なんで──」
そのあと続いた言葉は『まさか』としか言いようがなくて、私はどんどん火照る頬を両手で隠すほかなかった。
『水が怖いって人じゃから』
おしまい
朝の光をまんべんなくうけた町はそれだけで美しい。外に出ると遠くで朝の七時を告げる音楽が鳴り始め、朝の調べと一緒に潮の匂いが風に乗って運ばれてくる。ストレッチと軽い朝食はすでに済ませた。いちに、いちに、と心のなかで反復しながら屈伸をしてから地面を蹴ると、たちまち空に近づけることを知っていた。いつもの屋根に見当をつけて、住民を驚かせないように、軽い軽い音を心がけて着地する。高所に行けば行くほど朝の空気は澄んでおり、自分を洗ってくれるような気がしている。海王類ほどに見える白い大きな雲が空を悠然と泳いでいた。
カク、と呼ばれ下を見やれば、笑顔の眩しい彼が片手をあげた。金髪が朝日にキラキラと溶けていきそうだった。おはようさん、と言いながら、カクは登ったばかりの屋根から飛び降りた。こんな朝早くから珍しいこともあるもんじゃ、とからかう。
「今日はあいつらが家まで押しかけてきそうだからな」
これも作戦のうちよ、と誇らしげなパウリーの言葉にカクは思わず吹き出した。『あいつら』とは金を借りている男たちのことだろう。金を返さずに悪びれぬ彼だが、どこか憎めないのをカクは知っている。朝飯は? と問うと、いやそれがよう、と口をもごもごさせるので、食べ物もとい金が無いのだとわかった。
「仕方のないやつじゃのう」
「さすがカク様! ありがてえ、ありがてえ!」
「まだ奢るなんて言っとらんじゃろ……」
「なに!? 奢ってくれんのか?」
というパウリーの言葉に、しまったと口に手を当てるがもう遅い。カクはため息をつきながら、朝からやっているいくつかのカフェのうち、一番安く済みそうなカフェの名を口にした。
日差しが肌をじりじりと焼くのも、首筋を伝う汗がタンクトップを湿らせていくのもいとわず、黙々と作業に没頭する。昼の十二時を知らせるチャイムが鳴ってもパウリーの手は止まらなかった。咥えた葉巻はもう大分短い。今日は風がなかったので、葉巻からの煙はゆらゆらと彼の周囲に停滞し香りだけを残してゆっくりと消えていく。手元を見る彼の視線はまるで光線のよう。今日の強い日差しと相まって、見つめるその一点を焦がしそうなほどだった。
それを阻止したのは一枚の濡れたタオル。顔面にぶつけられたそれは、さすがに彼の手を止めた。ぶわっ、という声とともに短くなった葉巻がじゅっと音を立てて消える。煙も吹き飛び、心なしか彼の輪郭がくっきりとする。
「おいこら! なにすんだ!」顔を覆ったタオルを取り開けた視界の先にいたのはルッチだった。
『お前のその集中力は唯一称賛に値する点……だと思うこともなくはないが、度が過ぎる。もう昼だ。生産性が落ちるから休憩しろ』
「素直に褒めらんねェのか、お前は」
言いながらカクの姿を探す。いつもならルッチの隣で早くしろと飯をせっつかれるのだが。
「カクは?」
『今日は食いたいものがあるからと一人でどこかに行った』
逃げたな。カクの奢りで朝食を頬張ったパウリーにはカク不在の理由がピンときて、何気ない風を装いながらルッチに探りをいれる。
「へえ、珍しいな。じゃあ今日は二人か。どうする?」
『何か食いたいものがあるのか?』
「今日は外に食いに行こうぜ」
社員食堂では、給料から天引きされる。外の店で腹いっぱい食べたあと、ルッチに泣きつけば、ルッチも奢らざるを得ないだろう。
『わかった。いいだろう』
カクからは何も聞いていないらしい。あいつのことだ、ルッチも同じ目に遭えばいいと思っているに違いない。パウリーはカクの期待に応えるべく、ルッチと肩を並べ会社近くの食堂に向かう。
彼は今日は何を所望するだろう。コーヒーか、そろそろ紅茶か──。カリファの熟考を三時のチャイムと電伝虫の呼び出し音が砕いた。受付からの用件を聞きながらそっと窓の外に目をやる。
「アイスバーグさん」
「ンマー、なんだ?」
「また、あのお客様です」
カリファがそう告げると、アイスバーグはカーテンの隙間から自分がさっきしたのと同じように窓の外を盗み見た。玄関先にコーギーの部下たちがたむろしているのをみて、あからさまにげんなりしている。
そんなに辛いのなら、さっさと手放せばいいものを──この人は社長でかつ市長でもあるのに、実に表情が豊かだった。だが、壁に貼った手配書走らせた一瞬の視線は険しい。それが何を意味するのかまでは決して悟らせない。そういう人だ。
持っているならはやく手放して。心に思うだけで決して言わない言葉が、カリファの胸に澱のようにたまっていく。傷つけたいわけではない。目当てのものが手に入れば私達は黙って姿を消すだけ。だから、はやく。
そこまで考えて、軽く首を振る。彼はたとえ私が正体を明かして説得したところで態度を変えないだろう。どんな忠告も懇願も彼には届かない。それなら。
「コーギー氏とお会いする前に、何かお飲み物でもいかがですか?」
「それもそうだな。今日は紅茶に」
「淹れてきました」
さすがだな! という称賛を得て、顔がほころぶのに気づいたカリファは、そっと眼鏡をかけ直した。
最後まで優秀な秘書を全うするまでだ。
細い細い月が水の都をそっと照らしている夜のこと。海を帯びた生ぬるい夜風が、月明かりも届かぬその場所を通り抜けていく。
誰にも知られていない四人は、誰にも知られてはならない会話を続ける。
「準備はいいか?」誰かが問う。
「問題ない」低い声が響く。
「天気も上々」少し若さの残る声で返答がある。
「ちょうど新月」しっとりした声が提案を後押しした。
「それならば──」最初の声が言う。
「明日、頂こうか」
湿った黒い風がごうと吹き、車両基地に戻る海列車の汽笛がのどかに鳴った。なんでもなかった、いつもと変わらぬ一日だったはずの今日が、この瞬間からたちまち襲撃前日に、そして潜入任務最終日となる。
ある晴れた日のことだった。
おしまい