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No.98, No.97, No.96, No.95, No.94, No.93, No.92[7件]
彼はヒーローなのに #パウリー #カリファ
じりじりと太陽の照りつける季節となった。見上げれば広がる空はいっそう青く、海との境界がひどく曖昧だ。でも、はるか遠くにそびえるがごとく立ち上る積乱雲がその二つを明白にする。色は洗い立てのシャツなんかよりもずっと白い。足元の影は濃く短く、太陽が高い位置にあるのだとわかる。街に血管のごとく張り巡らされた水路を満たす水は豊かに流れながら、太陽の光を四方に乱反射させるものだから、街はきらきらと光をまとい、一段と美しくなる。これがこの島の夏だった。
そんな島で、ぐんぐん上昇する気温に比例し、肌の露出が多くなるのは必然というもの。今日は昨日より風があるが、それでも気温は高い。薄い青色のノースリーブシャツとタイトな白いミニスカート。そこに、あまりヒールの高くないパンプスを合わせた。これくらいの格好をした女性ならこの島にあふれかえっているし、なんなら職人のみんなの方がよっぽど薄着だ。それなのに、出社した途端パウリーは相変わらずうるさくって、やっぱり今日も、カリファ! と顔を真っ赤にしながら怒鳴り散らされた。今度から気をつけるわ、と笑顔で言いながら、気をつけた試しは一度もない。
たまりにたまった書類の山。今日こそは、彼がいくら嫌だとごねても、片づけてもらわねばならない。彼が目を通し、判断し、許可をし、指示するための書類ばかりなのだ。複数部署からかき集めたそれを社長室へ一度に運んでしまおうと、カリファはそれらを高く積み上げ、慎重に持ち上げる。よろよろと歩き、苦労して執務室のドアを閉めた。
いくつかの角を曲がり、階段を上り、道中の部署に寄り、時折落ちそうになる書類を慌てて押さえる。そんなことを何回か繰り返したところで、長い廊下の向こうから大声が響いた。
「カリファ! お前は何度言ったらわかんだよ! このハレンチめが!」
「パウリー!」
「あ?」
私の明るい声音に、パウリーが怪訝そうな顔をしたのが見なくてもわかった。
「半分、持ってちょうだい」
書類で埋まっていた視界がすぐに開けたのが彼の返事だった。心底面倒そうに眉と口を歪めてはいたが、それでも彼は、頼んだ半分よりもはるかに多い量の書類を引き受けて、私と並んで歩いてくれる。
「ったく、何度言わせんだ! 腕と足と首を布で隠せ!」
「好きな服くらい好きに着させてほしいわ。大体、タイルストンはどうなのよ」
「あいつは男だろうが」
「差別だわ」
カツカツと細い足音と、ドスドスという鈍い足音が、長い廊下でこだまして帰返ってくる。合間にパウリーの低い声と私の声が行き交った。本社は広く、廊下は長いが、社長室はもうすぐだ。
コンコン、と軽いノックのあとに続くはずだった、入れという許可はついぞ下りなかった。アイスバーグさん? とパウリーも声をかけるが返事はない。
「失礼します」
そう断ってゆっくりドアを開けるが、そこにいるはずの彼の姿はなく。カーテンがはたはたと揺れているから窓が開いているのだと分かった。主の不在は明確だ。共犯はカクだな、と面白がるパウリーに残りの書類を全部預け、慌てて社長のデスクに駆け寄ると、デスクの上には‟外にいる”という走り書きのメモだけが残されている。パウリーが他人事のように、一足遅かったなとまた笑った。
恨めしそうにパウリーを睨んでから、深く、大きく、一度だけため息をつく。大抵のことは先回りできるのに、彼のことだけはなかなか予測できない。頭の中でもう一度スケジュールを組み直した。目障りなメモをくしゃりと握りつぶしながら、カクへの文句も考える。
おい、この書類──……パウリーの言葉は、急に吹いた風の音でかき消された。書類がバサバサと音を立てて吹き飛んでいく。一瞬、風の名を持つ弟分が社長を連れて戻ってきたのかと思ったが、そんなことはなかった。ただの風で、書類が舞うだけだ。
「こらカリファ! ぼさっとしてんなよ!」
とパウリーが書類をかき集めながら怒鳴る。でも風はすぐおさまって、書類は絨毯の代わりみたいに床に落ち着いた。パウリーがうんざりした様子で拾い集めながら、カリファ! とぼうっと立ったままの私の名を呼んだ。
足元の書類から拾っていき、足の踏み場をつくりながらパウリーのそばで落ちた書類を手に取っていたら、彼は珍しく私の足を凝視していた。無遠慮すぎて清々しいくらいに。そして、さっきから気になってたんだがよ、とはじまって、右足怪我してねえか? と続いた。
「え?」
『ルッチ? ちょっと相手をしてくれない?』
『……おれが?』
『カクやブルーノは私を気遣ってくれるのよ』
『おれに気遣いがないとでも?』
気に入らない客でも蹴り飛ばしたのか!? とパウリーが見当違いなことを叫んで、私は心が冷えた。まさか。そんな。この怪我は。
「そんな人聞きの悪い。慣れない靴でちょっと挫いただけよ」
嘘をついた私を責めるみたいに、また風が吹く。また書類を飛ばされるのはごめんだと、パウリーが慌てて窓を閉めたのに、風はしつこく窓をガタガタと揺らした。
『ッ──!』
『おいおい、おれはガードしただけだぞ。鍛え方が足りないんじゃないか』
『……』
『今日が‟任務最後の日”でなくて良かったな』
ったく、手のかかる秘書だ、と言い捨てたパウリーは、書類を拾うのもそっちのけで社長室から出て行ってしまった。なによ、と思いながら書類を拾い集めるついでに、ぼんやりと昨日の夜のことを思い出す。ルッチに掴まれ、砕かれそうになった右足首をそっと撫でると、じんと痛んだ。ルッチの言葉とそのときの表情を思い出すと悔しさで奥歯が軋む。実のところ、足首の痛みはどんどん増している。でも、これみよがしに包帯を巻くのは癪で、冷やす程度の手当てしかしなかったのだ。
「おし、そこ座れ」
「どこ行ってたの」
「要りそうなもの全部持ってきたんだよ」
包帯やら湿布やら氷やら、いろいろなものを抱えるようにして社長室に戻ってきたパウリーは、ドクターのやつ、また二番ドックだと、とぼやいた。そして、来客用の黒光りするソファに私を座らせると、段取り悪く手当の準備を始める。
「挫いたのか?」
「え、ええ。痛めたというか」
ルッチに骨から砕かれそうになったのだとは言えない。パウリーは私の言わなかったことには気づかず、じゃあ冷やせばいいんだよな、とぶつぶつ手当の確認をして、氷水に手拭いを浸して絞ると、私の右足首にあてがった。鈍痛が冷たい手拭いに吸われていくようだ。
「嫁入り前の大事な体だろうが。もっと大事にしろよ」
「そうね。気をつけるわ」
「思ってないだろ。じゃじゃ馬め」
「ひどい! 父親みたいなこと言わないでよ」
「おれがお前の親父ならこんなハレンチな服は着せねえよ」
軽口をたたくパウリーのつむじを見下ろしながら、彼がこんなふうに私に跪くのは初めてだなと不謹慎なことを考えた。
そんな私を見透かしたわけではないだろうに、パウリーは不意にこちらを見上げた。ばつが悪いが、目を逸らせば不自然だ。視線はそらさない。
「ちゃんと、大事にしろ」
子供に言い聞かせるようだった。
パウリーの真剣な眼差しに鼻の奥がつん、としてくる。だって、パウリー。この怪我は。あなたを。あなたたちを。
私がうんと言うまで、パウリーは私を見つめていて、私が首をこくんと動かすと、ふっと下を向いて笑った。風はいつの間にか凪いでいた。
『おい』
『なに?』
『おれを責めてるつもりか?』
『あら? 気づいてもらえて嬉しいわ』
『……悪かった』
包帯が取れたら。私はまた、あなたを倒す練習をする。
包帯が緩んできたら私またあなたを弑す練習をする
おしまい
じりじりと太陽の照りつける季節となった。見上げれば広がる空はいっそう青く、海との境界がひどく曖昧だ。でも、はるか遠くにそびえるがごとく立ち上る積乱雲がその二つを明白にする。色は洗い立てのシャツなんかよりもずっと白い。足元の影は濃く短く、太陽が高い位置にあるのだとわかる。街に血管のごとく張り巡らされた水路を満たす水は豊かに流れながら、太陽の光を四方に乱反射させるものだから、街はきらきらと光をまとい、一段と美しくなる。これがこの島の夏だった。
そんな島で、ぐんぐん上昇する気温に比例し、肌の露出が多くなるのは必然というもの。今日は昨日より風があるが、それでも気温は高い。薄い青色のノースリーブシャツとタイトな白いミニスカート。そこに、あまりヒールの高くないパンプスを合わせた。これくらいの格好をした女性ならこの島にあふれかえっているし、なんなら職人のみんなの方がよっぽど薄着だ。それなのに、出社した途端パウリーは相変わらずうるさくって、やっぱり今日も、カリファ! と顔を真っ赤にしながら怒鳴り散らされた。今度から気をつけるわ、と笑顔で言いながら、気をつけた試しは一度もない。
たまりにたまった書類の山。今日こそは、彼がいくら嫌だとごねても、片づけてもらわねばならない。彼が目を通し、判断し、許可をし、指示するための書類ばかりなのだ。複数部署からかき集めたそれを社長室へ一度に運んでしまおうと、カリファはそれらを高く積み上げ、慎重に持ち上げる。よろよろと歩き、苦労して執務室のドアを閉めた。
いくつかの角を曲がり、階段を上り、道中の部署に寄り、時折落ちそうになる書類を慌てて押さえる。そんなことを何回か繰り返したところで、長い廊下の向こうから大声が響いた。
「カリファ! お前は何度言ったらわかんだよ! このハレンチめが!」
「パウリー!」
「あ?」
私の明るい声音に、パウリーが怪訝そうな顔をしたのが見なくてもわかった。
「半分、持ってちょうだい」
書類で埋まっていた視界がすぐに開けたのが彼の返事だった。心底面倒そうに眉と口を歪めてはいたが、それでも彼は、頼んだ半分よりもはるかに多い量の書類を引き受けて、私と並んで歩いてくれる。
「ったく、何度言わせんだ! 腕と足と首を布で隠せ!」
「好きな服くらい好きに着させてほしいわ。大体、タイルストンはどうなのよ」
「あいつは男だろうが」
「差別だわ」
カツカツと細い足音と、ドスドスという鈍い足音が、長い廊下でこだまして帰返ってくる。合間にパウリーの低い声と私の声が行き交った。本社は広く、廊下は長いが、社長室はもうすぐだ。
コンコン、と軽いノックのあとに続くはずだった、入れという許可はついぞ下りなかった。アイスバーグさん? とパウリーも声をかけるが返事はない。
「失礼します」
そう断ってゆっくりドアを開けるが、そこにいるはずの彼の姿はなく。カーテンがはたはたと揺れているから窓が開いているのだと分かった。主の不在は明確だ。共犯はカクだな、と面白がるパウリーに残りの書類を全部預け、慌てて社長のデスクに駆け寄ると、デスクの上には‟外にいる”という走り書きのメモだけが残されている。パウリーが他人事のように、一足遅かったなとまた笑った。
恨めしそうにパウリーを睨んでから、深く、大きく、一度だけため息をつく。大抵のことは先回りできるのに、彼のことだけはなかなか予測できない。頭の中でもう一度スケジュールを組み直した。目障りなメモをくしゃりと握りつぶしながら、カクへの文句も考える。
おい、この書類──……パウリーの言葉は、急に吹いた風の音でかき消された。書類がバサバサと音を立てて吹き飛んでいく。一瞬、風の名を持つ弟分が社長を連れて戻ってきたのかと思ったが、そんなことはなかった。ただの風で、書類が舞うだけだ。
「こらカリファ! ぼさっとしてんなよ!」
とパウリーが書類をかき集めながら怒鳴る。でも風はすぐおさまって、書類は絨毯の代わりみたいに床に落ち着いた。パウリーがうんざりした様子で拾い集めながら、カリファ! とぼうっと立ったままの私の名を呼んだ。
足元の書類から拾っていき、足の踏み場をつくりながらパウリーのそばで落ちた書類を手に取っていたら、彼は珍しく私の足を凝視していた。無遠慮すぎて清々しいくらいに。そして、さっきから気になってたんだがよ、とはじまって、右足怪我してねえか? と続いた。
「え?」
『ルッチ? ちょっと相手をしてくれない?』
『……おれが?』
『カクやブルーノは私を気遣ってくれるのよ』
『おれに気遣いがないとでも?』
気に入らない客でも蹴り飛ばしたのか!? とパウリーが見当違いなことを叫んで、私は心が冷えた。まさか。そんな。この怪我は。
「そんな人聞きの悪い。慣れない靴でちょっと挫いただけよ」
嘘をついた私を責めるみたいに、また風が吹く。また書類を飛ばされるのはごめんだと、パウリーが慌てて窓を閉めたのに、風はしつこく窓をガタガタと揺らした。
『ッ──!』
『おいおい、おれはガードしただけだぞ。鍛え方が足りないんじゃないか』
『……』
『今日が‟任務最後の日”でなくて良かったな』
ったく、手のかかる秘書だ、と言い捨てたパウリーは、書類を拾うのもそっちのけで社長室から出て行ってしまった。なによ、と思いながら書類を拾い集めるついでに、ぼんやりと昨日の夜のことを思い出す。ルッチに掴まれ、砕かれそうになった右足首をそっと撫でると、じんと痛んだ。ルッチの言葉とそのときの表情を思い出すと悔しさで奥歯が軋む。実のところ、足首の痛みはどんどん増している。でも、これみよがしに包帯を巻くのは癪で、冷やす程度の手当てしかしなかったのだ。
「おし、そこ座れ」
「どこ行ってたの」
「要りそうなもの全部持ってきたんだよ」
包帯やら湿布やら氷やら、いろいろなものを抱えるようにして社長室に戻ってきたパウリーは、ドクターのやつ、また二番ドックだと、とぼやいた。そして、来客用の黒光りするソファに私を座らせると、段取り悪く手当の準備を始める。
「挫いたのか?」
「え、ええ。痛めたというか」
ルッチに骨から砕かれそうになったのだとは言えない。パウリーは私の言わなかったことには気づかず、じゃあ冷やせばいいんだよな、とぶつぶつ手当の確認をして、氷水に手拭いを浸して絞ると、私の右足首にあてがった。鈍痛が冷たい手拭いに吸われていくようだ。
「嫁入り前の大事な体だろうが。もっと大事にしろよ」
「そうね。気をつけるわ」
「思ってないだろ。じゃじゃ馬め」
「ひどい! 父親みたいなこと言わないでよ」
「おれがお前の親父ならこんなハレンチな服は着せねえよ」
軽口をたたくパウリーのつむじを見下ろしながら、彼がこんなふうに私に跪くのは初めてだなと不謹慎なことを考えた。
そんな私を見透かしたわけではないだろうに、パウリーは不意にこちらを見上げた。ばつが悪いが、目を逸らせば不自然だ。視線はそらさない。
「ちゃんと、大事にしろ」
子供に言い聞かせるようだった。
パウリーの真剣な眼差しに鼻の奥がつん、としてくる。だって、パウリー。この怪我は。あなたを。あなたたちを。
私がうんと言うまで、パウリーは私を見つめていて、私が首をこくんと動かすと、ふっと下を向いて笑った。風はいつの間にか凪いでいた。
『おい』
『なに?』
『おれを責めてるつもりか?』
『あら? 気づいてもらえて嬉しいわ』
『……悪かった』
包帯が取れたら。私はまた、あなたを倒す練習をする。
包帯が緩んできたら私またあなたを弑す練習をする
おしまい
あのとき泣きたかった もう今更 #カク #カリファ
震える身体を両の手でひしと抱き、押さえた。大声をあげてしまいそうになるから唇を噛んだ。何も見たくない、と目を閉じた。それからゆるゆると膝を折ってへたり込む。
自分の周りは、真っ赤で生温かく生臭く。まずは肺から侵されていく。息もしたくなかった。生きたくなかった。
最近、夢見が悪い。誰が出てくるでも、何が出てくるでもなく、ただ真っ赤なのだ。声どころか音すらしない。何の姿も見えず、でもそこに『恐怖』だけがいる。こんな夢は初めてだ。ストーリーもなにもない。視界がすべて赤一色で、飛び起きる頃には言いようのない恐怖に苛まれているのだった。
「癪に障るのう……!」
部屋で一人、そう呟いて毛布を引きはがす。いやな汗が肌にまとわりつき、シーツがじっとりと濡れ、気持ちが悪い。張り付くような喉を潤したくて、コップに水をなみなみと注いだ。一気に飲み干して、ぷはと息を吐く。さすが、と言っていいのか、水の都の水は妙にうまかった。いま飲んだ透きとおった綺麗な水が、身体に救う怯えをすべて拭い去ってくれればいいのにと心から願った。
「ッ……!」
らしくないミスと痛みにカクは顔を歪めた。
金槌を自分の指に振り下ろすなぞ、職長らしからぬミスだし、カクらしくもなかった。側にいた若い職人も、珍しいですね、と驚きで目を丸くしている。
金槌を持っていて無事だった方の手で、照れたふりをして頭をかいた。笑い話にしたくとも、釘と間違えた指はずきずきと断続的な痛みを脳に送ってくる。つい顔をしかめると、若いその職人は医務室に行くよう言ってきた。大したことない、と首を横に振るが、見てる方が痛いんで、と泣きそうな顔で言われると自分のせいである手前、強く出られない。
追い立てられるようにやってきた医務室には生憎、医者も看護師もいなかった。ひどくがらんとした清潔感の漂う白さは、無性に圧迫感がある。さっさと手当てを済ませて戻ろう。無事だった利き手で救急箱を開け、湿布やら包帯やらを準備するが、やはり片手では思うようにいかなかった。
「くそ」
つい悪態が口をついて出る。
どれもこれも、全部夢のせいだ。イライラするのも、ぼうっとするのも、らしくないミスも、この痛みも全部。ここ最近、熟睡した覚えがない。二時間もしないうちに目が覚め、朝まで寝付けずにベッドの中で芋虫のように転がっている。朝方ようやく寝付けるかと思っても、もう遅い。
ようやく見つけた氷を洗面器に張った水にぼちゃぼちゃと落としていく。氷はおそらくゆっくり水に戻っている。少しずつ増えているであろう洗面器の水をただ眺めた。
怖い夢を見るから眠れないだなんて信じたくなかった。こんなこと仲間には、特にルッチに気づかれてはいけない。万一気づかれようものなら、ルッチのことだ。ゴミくずを見るような目でこちらを一瞥して、無言で自分を任務から外そうとするかもしれない。
大体、怖いなど、そんな馬鹿な話があるものか。怖いものならこの目でたくさん見てきた。おぞましい声ならこの耳で。目を塞ぎたくなるような惨状も、耳を塞ぎたくなるような絶叫も。全部、たくさん。ありったけ。
「カク? どうしたの?」
「カリファ」
珍しくパタパタと駆け込んできた彼女は、ドクターもナースも今は二番ドックに駆けつけてるから、と医務室の留守番を頼まれたらしい。彼女に呼ばれた自分の名は、懐かしく響いた。不思議と強張っていた口角が緩む。
「救急箱に、洗面器に氷に、包帯? 怪我でもしたの?」
珍しいわね、と若い職人と同じ言葉を続けた。怪訝そうなカリファを安心させようと、赤く腫れあがった指をひらひらと振って、しょうもないミスをしたのだと説明する。彼女は目を吊り上げて
「そんなに動かしちゃだめよ。貸して」
と氷を張った洗面器に布巾を沈め、ぎゅっと絞る。ようやくカクが準備したかった冷湿布が完成した。脈打つように痛む患部にあてがうと少し痛みが和らぎ、思わず安堵の息を吐いた。
「パウリーじゃあるまいし」
「あやつは忙しないからのう」
言いながら彼の仕事ぶりを思い出すと、自然と口角が上がる。書類仕事はさっぱりで、しょっちゅう総務に小言を言われているが、やつの造る船は。
「そんなふうに笑わないで」
「え?」
「そんな、諦めたみたいな。ひとりぼっちみたいな」
「なんじゃそれ」
「だって、あのときみたいで」
「あのとき」
「初めての、後」
言い淀んだカリファの言葉には、特定に必要な情報は何も含まれていなかったのに、カクは即座に思い至った。初めて、人を。
記憶が再構築されていく。
震える身体を両の手でひしと抱き、押さえた。大声をあげてしまいそうになるから唇を噛んだ。何も見たくない、と目を閉じた。それからゆるゆると膝を折ってへたり込む。
自分の周りは、真っ赤で生温かく生臭く。まずは肺から侵されていく。息もしたくなかった。生きたくな──。
ふわ、と香った柔らかくてほのか甘い香りと、両肩にそっと、でも確かに添えられた手の感触に、ぎゅっときつく閉じていた目を開けると、床に膝をついたカリファが目の前にいた。座り込んだ自分と同じ目の高さで自分を見つめている。カリファの瞳にうつる自分は、カリファに見つめられて呆けている。
「さすがに、もう泣かないわね」
「はあ?」
「だって、あのときのあなたは泣いたの。辛そうなのにずっと笑っているから見ていられなかった。でもあるとき、急に座り込んで動かなくなってしまって。どうしていいかわからなくて思わず抱きしめたら、わって泣き出して」
さすがにもう大人だし、前みたいに抱きしめるのはどうかと思って様子を見ていたのよ、と言いながら立ち上がったカリファに、さっぱり覚えてないのう、と座ったまま答えておいた。
「その方がいいわ」
カリファが新しい冷湿布を準備しているのを横目に、カクはゆるゆると立ち上がった。
覚えていないのは半分本当だ。本当に記憶になかった。が、思い出した。あのとき、カリファにひしと抱きしめられて、真っ赤だった色が少し暗くなって、そして柔らかくなって、ただの瞼の裏の色になったのを。少女だったカリファの高い体温で、強張った身体がほぐれ、噛んでいた唇から力が抜けていったのを。
カクはゆっくり息を吐く。
止まっていた血液が、また流れ出した気がした。
おしまい
震える身体を両の手でひしと抱き、押さえた。大声をあげてしまいそうになるから唇を噛んだ。何も見たくない、と目を閉じた。それからゆるゆると膝を折ってへたり込む。
自分の周りは、真っ赤で生温かく生臭く。まずは肺から侵されていく。息もしたくなかった。生きたくなかった。
最近、夢見が悪い。誰が出てくるでも、何が出てくるでもなく、ただ真っ赤なのだ。声どころか音すらしない。何の姿も見えず、でもそこに『恐怖』だけがいる。こんな夢は初めてだ。ストーリーもなにもない。視界がすべて赤一色で、飛び起きる頃には言いようのない恐怖に苛まれているのだった。
「癪に障るのう……!」
部屋で一人、そう呟いて毛布を引きはがす。いやな汗が肌にまとわりつき、シーツがじっとりと濡れ、気持ちが悪い。張り付くような喉を潤したくて、コップに水をなみなみと注いだ。一気に飲み干して、ぷはと息を吐く。さすが、と言っていいのか、水の都の水は妙にうまかった。いま飲んだ透きとおった綺麗な水が、身体に救う怯えをすべて拭い去ってくれればいいのにと心から願った。
「ッ……!」
らしくないミスと痛みにカクは顔を歪めた。
金槌を自分の指に振り下ろすなぞ、職長らしからぬミスだし、カクらしくもなかった。側にいた若い職人も、珍しいですね、と驚きで目を丸くしている。
金槌を持っていて無事だった方の手で、照れたふりをして頭をかいた。笑い話にしたくとも、釘と間違えた指はずきずきと断続的な痛みを脳に送ってくる。つい顔をしかめると、若いその職人は医務室に行くよう言ってきた。大したことない、と首を横に振るが、見てる方が痛いんで、と泣きそうな顔で言われると自分のせいである手前、強く出られない。
追い立てられるようにやってきた医務室には生憎、医者も看護師もいなかった。ひどくがらんとした清潔感の漂う白さは、無性に圧迫感がある。さっさと手当てを済ませて戻ろう。無事だった利き手で救急箱を開け、湿布やら包帯やらを準備するが、やはり片手では思うようにいかなかった。
「くそ」
つい悪態が口をついて出る。
どれもこれも、全部夢のせいだ。イライラするのも、ぼうっとするのも、らしくないミスも、この痛みも全部。ここ最近、熟睡した覚えがない。二時間もしないうちに目が覚め、朝まで寝付けずにベッドの中で芋虫のように転がっている。朝方ようやく寝付けるかと思っても、もう遅い。
ようやく見つけた氷を洗面器に張った水にぼちゃぼちゃと落としていく。氷はおそらくゆっくり水に戻っている。少しずつ増えているであろう洗面器の水をただ眺めた。
怖い夢を見るから眠れないだなんて信じたくなかった。こんなこと仲間には、特にルッチに気づかれてはいけない。万一気づかれようものなら、ルッチのことだ。ゴミくずを見るような目でこちらを一瞥して、無言で自分を任務から外そうとするかもしれない。
大体、怖いなど、そんな馬鹿な話があるものか。怖いものならこの目でたくさん見てきた。おぞましい声ならこの耳で。目を塞ぎたくなるような惨状も、耳を塞ぎたくなるような絶叫も。全部、たくさん。ありったけ。
「カク? どうしたの?」
「カリファ」
珍しくパタパタと駆け込んできた彼女は、ドクターもナースも今は二番ドックに駆けつけてるから、と医務室の留守番を頼まれたらしい。彼女に呼ばれた自分の名は、懐かしく響いた。不思議と強張っていた口角が緩む。
「救急箱に、洗面器に氷に、包帯? 怪我でもしたの?」
珍しいわね、と若い職人と同じ言葉を続けた。怪訝そうなカリファを安心させようと、赤く腫れあがった指をひらひらと振って、しょうもないミスをしたのだと説明する。彼女は目を吊り上げて
「そんなに動かしちゃだめよ。貸して」
と氷を張った洗面器に布巾を沈め、ぎゅっと絞る。ようやくカクが準備したかった冷湿布が完成した。脈打つように痛む患部にあてがうと少し痛みが和らぎ、思わず安堵の息を吐いた。
「パウリーじゃあるまいし」
「あやつは忙しないからのう」
言いながら彼の仕事ぶりを思い出すと、自然と口角が上がる。書類仕事はさっぱりで、しょっちゅう総務に小言を言われているが、やつの造る船は。
「そんなふうに笑わないで」
「え?」
「そんな、諦めたみたいな。ひとりぼっちみたいな」
「なんじゃそれ」
「だって、あのときみたいで」
「あのとき」
「初めての、後」
言い淀んだカリファの言葉には、特定に必要な情報は何も含まれていなかったのに、カクは即座に思い至った。初めて、人を。
記憶が再構築されていく。
震える身体を両の手でひしと抱き、押さえた。大声をあげてしまいそうになるから唇を噛んだ。何も見たくない、と目を閉じた。それからゆるゆると膝を折ってへたり込む。
自分の周りは、真っ赤で生温かく生臭く。まずは肺から侵されていく。息もしたくなかった。生きたくな──。
ふわ、と香った柔らかくてほのか甘い香りと、両肩にそっと、でも確かに添えられた手の感触に、ぎゅっときつく閉じていた目を開けると、床に膝をついたカリファが目の前にいた。座り込んだ自分と同じ目の高さで自分を見つめている。カリファの瞳にうつる自分は、カリファに見つめられて呆けている。
「さすがに、もう泣かないわね」
「はあ?」
「だって、あのときのあなたは泣いたの。辛そうなのにずっと笑っているから見ていられなかった。でもあるとき、急に座り込んで動かなくなってしまって。どうしていいかわからなくて思わず抱きしめたら、わって泣き出して」
さすがにもう大人だし、前みたいに抱きしめるのはどうかと思って様子を見ていたのよ、と言いながら立ち上がったカリファに、さっぱり覚えてないのう、と座ったまま答えておいた。
「その方がいいわ」
カリファが新しい冷湿布を準備しているのを横目に、カクはゆるゆると立ち上がった。
覚えていないのは半分本当だ。本当に記憶になかった。が、思い出した。あのとき、カリファにひしと抱きしめられて、真っ赤だった色が少し暗くなって、そして柔らかくなって、ただの瞼の裏の色になったのを。少女だったカリファの高い体温で、強張った身体がほぐれ、噛んでいた唇から力が抜けていったのを。
カクはゆっくり息を吐く。
止まっていた血液が、また流れ出した気がした。
おしまい
鬼火 #カク #ルッチ #カリファ #ブルーノ
彼はとても厳しい。彼はとても冷たい。彼はとても美しい。彼はとても激しい。彼はとても恐ろしい。彼はとても正しい。
「もううんざり」
潜入任務の拠点として使っている空き家の一室は、膨大な調査書と資料とに埋もれている。以前集まったときよりさらに増えている、と心底うんざりしたカリファは、それが誰の耳にも届かないことを知ってなお、いや、だからこそ呟いた。船大工二人は残業のはず。酒場の店主は確か団体の予約が入ったとか言っていたっけ。だから当分まだ一人きり。
下線と付箋ばかりの紙切れたちにいくら目を通してみても、『例のもの』の在り処がわかるどころか、アイスバーグがどれだけ優秀で人望のある船大工か、ということしかわからない。そんなこと、調査書なんてなくとも秘書として側にいるだけですぐにわかることだ。そこかしこに積みあがる紙束を見る気も失せる。
この調子だと、長官はたとえ確証がなくとも、強硬手段に打って出るかもしれない。思って、胸に小さなとげが刺さる気がした。痛みの正体はわかりきっている。罪悪感だ。こんな気持ち、ルッチにばれでもしたら一笑に付されるか、もしくは。
不甲斐ない、と両手で顔を覆って目を瞑る。疲れているのかもしれない。網膜の色が透けた赤みがかった闇はカリファの心を少しだけ穏やかにした。アイスバーグが真に潔白なら、CP9である私たちが四人も送り込まれて、五年もの時間を与えられるはずがない。なにかある。まるで子供に言い聞かせるみたいだ。
「遅れてすまない」
突然耳に届いた低い男の声にカリファは驚くでもなく「大丈夫よ」と答えた。特別なドアを使う彼は、急に目の前に現れても不思議ではない。二人は? との問いに、今日は残業のようだから遅くなると思うわと応じ、付け加える。
「ガレーラの方のね」
「そうか。精が出るな」
「あなたも、今日は団体の予約が入ってるって言ってなかった?」
「ああ、その件は数日前にキャンセルになったんだ。だから店はそのまま閉めてきた」
「それは……お気の毒、かしら?」
「まあ、店が潰れても本業に支障が出るからな。うまくやるさ」
ブルーノとはここでしか会話らしい会話をしないから、つい話し込んでしまう。彼は、酒場の店主。私は社長秘書。接点はせいぜい、社員の行きつけの店の主人と言う程度。親密感を出さないように気をつけている。
「政府に頼んでいた資料がまた積んであったわ。アイスバーグ個人の資産に関するものよ」
「……目を通してみるか」
ブルーノは大人だから口には出さないようだが、顔には大きく「面倒くさい」と書いてある。口の端だけで笑ったのだが、目聡いブルーノにはすぐばれる。
「ちゃんと見てるぞ」
「何も」
「すまん、遅くなった」
「何も言ってないわ」と言い終わる前に、くたびれた顔のカクが入ってきて、そっと胸を撫でおろす。カクはそのままソファにうつ伏せで倒れこみ、やっと聞き取れるくらいの小さな声で「疲れたわい」と口にした。ブルーノは無言でキッチンへ向かい、私は仮眠室と呼んでいる寝室へ向かう。示し合わせたわけではないのに、ブルーノはコーヒーを、私はブランケットを手に同じタイミングで戻ってきて、それぞれをカクへ差し出すタイミングも、見事に合ってしまった。
「至れり尽くせりじゃのう」
カクがのんびり、だが当然のように、それらを享受する。私たちはつい彼を甘やかしてしまうのだ。ルッチは? と問うと、カクはにやりと笑って、残業の労をねぎらうのだというパウリーに捕まったと教えてくれる。
「それは」
「お気の毒、だな」
ルッチの肩を組んで酒場に消えていく笑顔のパウリーと眉間に皺を寄せているだろうルッチが簡単に想像できて、つい笑い声が漏れた。最初は控えめだったそれも、だんだんと伝染して終いには三人ともくつくつと笑う羽目になる。夜が更けていく。
「成果はあったか?」
部屋に入るなりそう言ったルッチはあからさまに機嫌が悪かった。ソファを独占し寝転ぶカクを見て、整った眉をさらに吊り上げる。カクは目を閉じてそんなルッチに気づかない振りをしている。私は座っていた一人用のソファから黙って立ち上がり、ついでに彼用のブランケットを取ってこようとした。
「気遣いは無用だ。とっとと座って報告を」
それは明らかに私に向けられた言葉だった。ルッチは近くにあった背もたれすらない簡素な椅子に腰を下ろして、額に手を当てる。それは、いらだった彼がよくやる昔からの仕草だった。刺激しないようにそっと口を開く。
「アイスバーグの資産に関する資料を精査したわ」
「それで」
言うか迷って、結局言ってしまう。
「……資料上は、善良な市民にしかみえない」
「お前の感想は聞いていない」
「でも」
ブルーノが二人の間に割って入るように、コーヒーをルッチに差し出した。はずだったが、ルッチはカップを受け取り損ねた。ガシャン、と色気のない音を立てて、カップが割れ、コーヒーが床に広がっていく。ルッチは、くそ、と吐き捨てまた額に手をやった。
寝た方がいい、とブルーノが彼を諭す。ちらりとカクを見やると、まさかとは思ったが、こんな空気の中、寝てしまっている。それにはルッチも気づいたようで大きなため息をついた後、地獄の底から響くような声音で「今日は終いだ」と宣言した。
先ほどまで私が座っていたソファに、腕を組んで寝息をたてるルッチがいる。眉間には相変わらず皺が寄っており、こんな険しい顔で彼が見る夢はいったいどんなものなのだろうと想像する。きっと、平和へ続く道を歩いているに違いない。
私たちは闇に生きるもの。仮面を被り、黒衣を纏い、沈黙を言葉とし、悪を食べるもの。闇の中で「正義」という名の青い焔が消えないよう、せっせと薪をくべている。世間が私たちを何と呼ぶのか知らないが、少なくとも。
私たちは「狂気」じゃない。
集めた紙屑の海に溺れてもあなたを焼くまで燃ゆる鬼火
おしまい
彼はとても厳しい。彼はとても冷たい。彼はとても美しい。彼はとても激しい。彼はとても恐ろしい。彼はとても正しい。
「もううんざり」
潜入任務の拠点として使っている空き家の一室は、膨大な調査書と資料とに埋もれている。以前集まったときよりさらに増えている、と心底うんざりしたカリファは、それが誰の耳にも届かないことを知ってなお、いや、だからこそ呟いた。船大工二人は残業のはず。酒場の店主は確か団体の予約が入ったとか言っていたっけ。だから当分まだ一人きり。
下線と付箋ばかりの紙切れたちにいくら目を通してみても、『例のもの』の在り処がわかるどころか、アイスバーグがどれだけ優秀で人望のある船大工か、ということしかわからない。そんなこと、調査書なんてなくとも秘書として側にいるだけですぐにわかることだ。そこかしこに積みあがる紙束を見る気も失せる。
この調子だと、長官はたとえ確証がなくとも、強硬手段に打って出るかもしれない。思って、胸に小さなとげが刺さる気がした。痛みの正体はわかりきっている。罪悪感だ。こんな気持ち、ルッチにばれでもしたら一笑に付されるか、もしくは。
不甲斐ない、と両手で顔を覆って目を瞑る。疲れているのかもしれない。網膜の色が透けた赤みがかった闇はカリファの心を少しだけ穏やかにした。アイスバーグが真に潔白なら、CP9である私たちが四人も送り込まれて、五年もの時間を与えられるはずがない。なにかある。まるで子供に言い聞かせるみたいだ。
「遅れてすまない」
突然耳に届いた低い男の声にカリファは驚くでもなく「大丈夫よ」と答えた。特別なドアを使う彼は、急に目の前に現れても不思議ではない。二人は? との問いに、今日は残業のようだから遅くなると思うわと応じ、付け加える。
「ガレーラの方のね」
「そうか。精が出るな」
「あなたも、今日は団体の予約が入ってるって言ってなかった?」
「ああ、その件は数日前にキャンセルになったんだ。だから店はそのまま閉めてきた」
「それは……お気の毒、かしら?」
「まあ、店が潰れても本業に支障が出るからな。うまくやるさ」
ブルーノとはここでしか会話らしい会話をしないから、つい話し込んでしまう。彼は、酒場の店主。私は社長秘書。接点はせいぜい、社員の行きつけの店の主人と言う程度。親密感を出さないように気をつけている。
「政府に頼んでいた資料がまた積んであったわ。アイスバーグ個人の資産に関するものよ」
「……目を通してみるか」
ブルーノは大人だから口には出さないようだが、顔には大きく「面倒くさい」と書いてある。口の端だけで笑ったのだが、目聡いブルーノにはすぐばれる。
「ちゃんと見てるぞ」
「何も」
「すまん、遅くなった」
「何も言ってないわ」と言い終わる前に、くたびれた顔のカクが入ってきて、そっと胸を撫でおろす。カクはそのままソファにうつ伏せで倒れこみ、やっと聞き取れるくらいの小さな声で「疲れたわい」と口にした。ブルーノは無言でキッチンへ向かい、私は仮眠室と呼んでいる寝室へ向かう。示し合わせたわけではないのに、ブルーノはコーヒーを、私はブランケットを手に同じタイミングで戻ってきて、それぞれをカクへ差し出すタイミングも、見事に合ってしまった。
「至れり尽くせりじゃのう」
カクがのんびり、だが当然のように、それらを享受する。私たちはつい彼を甘やかしてしまうのだ。ルッチは? と問うと、カクはにやりと笑って、残業の労をねぎらうのだというパウリーに捕まったと教えてくれる。
「それは」
「お気の毒、だな」
ルッチの肩を組んで酒場に消えていく笑顔のパウリーと眉間に皺を寄せているだろうルッチが簡単に想像できて、つい笑い声が漏れた。最初は控えめだったそれも、だんだんと伝染して終いには三人ともくつくつと笑う羽目になる。夜が更けていく。
「成果はあったか?」
部屋に入るなりそう言ったルッチはあからさまに機嫌が悪かった。ソファを独占し寝転ぶカクを見て、整った眉をさらに吊り上げる。カクは目を閉じてそんなルッチに気づかない振りをしている。私は座っていた一人用のソファから黙って立ち上がり、ついでに彼用のブランケットを取ってこようとした。
「気遣いは無用だ。とっとと座って報告を」
それは明らかに私に向けられた言葉だった。ルッチは近くにあった背もたれすらない簡素な椅子に腰を下ろして、額に手を当てる。それは、いらだった彼がよくやる昔からの仕草だった。刺激しないようにそっと口を開く。
「アイスバーグの資産に関する資料を精査したわ」
「それで」
言うか迷って、結局言ってしまう。
「……資料上は、善良な市民にしかみえない」
「お前の感想は聞いていない」
「でも」
ブルーノが二人の間に割って入るように、コーヒーをルッチに差し出した。はずだったが、ルッチはカップを受け取り損ねた。ガシャン、と色気のない音を立てて、カップが割れ、コーヒーが床に広がっていく。ルッチは、くそ、と吐き捨てまた額に手をやった。
寝た方がいい、とブルーノが彼を諭す。ちらりとカクを見やると、まさかとは思ったが、こんな空気の中、寝てしまっている。それにはルッチも気づいたようで大きなため息をついた後、地獄の底から響くような声音で「今日は終いだ」と宣言した。
先ほどまで私が座っていたソファに、腕を組んで寝息をたてるルッチがいる。眉間には相変わらず皺が寄っており、こんな険しい顔で彼が見る夢はいったいどんなものなのだろうと想像する。きっと、平和へ続く道を歩いているに違いない。
私たちは闇に生きるもの。仮面を被り、黒衣を纏い、沈黙を言葉とし、悪を食べるもの。闇の中で「正義」という名の青い焔が消えないよう、せっせと薪をくべている。世間が私たちを何と呼ぶのか知らないが、少なくとも。
私たちは「狂気」じゃない。
集めた紙屑の海に溺れてもあなたを焼くまで燃ゆる鬼火
おしまい
おれたちは厭わない #カク #ルッチ
「感情」は往々にして間違いを招く。失敗を、過ちを。ミスを、エラーを。そしてそれは、必ず誰かの不幸を招く。おれたちがしているのはそういう仕事だ。わかりきっていることなのに、何度も何度も確認する羽目になる、くだらないそれ。まるで、物わかりの悪い子供にでもなったようで腹立たしい。
任務遂行のために犠牲は厭わない。どこにでも行って、どんな存在にでもなろう。親にでも、息子にでも、兄にも弟にも、友達にだって。仲間でもいいし、恋人でもいい。ライバルでも敵でも味方でも。お望みならばなんにだってなってやろう。どんな軽蔑も、どんな賞賛も、喜んで浴びよう。
だがしかし、これは正義のために払う犠牲。失敗は許されない。もちろん、挫けることも、転び、そのまま地に伏したままでいることも。
今回の潜入先は、水の都と呼ばれる造船業の盛んな街らしい。任務の内容は、船大工として島一番の造船会社で働き、市長でもあり社長でもあるアイスバーグという男から、ある設計図を奪うこと。それは代々、船大工の間で受け継がれているものだという。それならば、自分たちがその後継者として選ばれるのが、一番面倒が少なくて「平和的」だ。
カクも同じく船大工として、カリファはアイスバーグの秘書として、ブルーノは島の酒場の主人として、同じ目的のためにその水の都で任務に従事することとなった。与えられた猶予は五年。早く終わるに越したことはないが、その年月の長さが任務の困難さを物語っているように思った。
「ブルーノはもう発ったそうじゃの」
潜入前、最後の打ち合わせと鍛錬を兼ねて、カクを訓練場に呼んだ。カクは訓練場に入るなり、鑿をくるくると手元で弄んだかと思えば、しゅっと軽い音をさせて、壁に投げた。瞬間、矢か光線のようにまっすぐ壁に刺さったそれは、止まっていたハエを壁に縫い付けた。
「命中じゃ」
「ガキじゃねェんだ。はしゃぐな」
相変わらずつまらんやつじゃのう、と両手を腰にあてたカクがぼやく。相変わらず、とは聞き捨てならんと思ったものの、カクの軽口は聞き飽きているから咎める気にもならない。
カクもおれも必要な訓練は受けた。あとは五年の間に、さらに技術を磨いてのし上がり、アイスバーグの信頼を勝ち得て、設計図にもっとも近い存在となればいい。在り処がわかればそれもよし。さっさと奪ってしまってもいいだろう。長くて五年。大した年数ではないが、一般市民から紙束を奪うのがそんなに困難なことかとも思う。諜報員を四人も費やして。
「面倒な任務じゃのう」
四人で五年、四人で五年じゃぞ? カクは韻を踏むような調子で言った。口には出さなかった内心を見事に見透かされたようで、気に障る。ただでさえおどけたような顔をしているカクの真意はよくわからない。同意を求めているのか、いつものように窘められたいのか。
「そう思うならさっさと済ませればいい」
吐き捨てるよう言うと、カクは、やっぱりなというような顔で肩を竦めた。そうして「やっぱりつまらんやつじゃ」と呆れたような物言いだ。その日は結局、それ以上は大した言葉も交わさず、手合わせに終始した。
とうとう、カクが水の都へ赴く日となった。Galleyと描かれた白いキャップを被り、普段よりずっと明るめの服を着こみ、腰に鑿を引っさげたカクは、まあまあさまになっていた。少なくとも「人殺し」には見えない。
「どうじゃ? なかなか決まっておろう?」
癪だが、にっと笑って白い歯を見せるカクは言うとおり「決まって」いた。ブルーノもカリファも、少しずつ時期をずらしながら、すでに任務を始めている。おれもそろそろだろう。
おれたちは正義を背負うもの、正義を語るもの、正義を信じ、正義に集い、正義を体現するもの。どんなに汚れていようと掲げる言葉は「正義」の二文字だ。散々払う犠牲は決して無駄にしない。
「じゃあの」
「ああ。せいぜいへまするなよ」
何年、地を這おうとも、最後には必ず。
おしまい
「感情」は往々にして間違いを招く。失敗を、過ちを。ミスを、エラーを。そしてそれは、必ず誰かの不幸を招く。おれたちがしているのはそういう仕事だ。わかりきっていることなのに、何度も何度も確認する羽目になる、くだらないそれ。まるで、物わかりの悪い子供にでもなったようで腹立たしい。
任務遂行のために犠牲は厭わない。どこにでも行って、どんな存在にでもなろう。親にでも、息子にでも、兄にも弟にも、友達にだって。仲間でもいいし、恋人でもいい。ライバルでも敵でも味方でも。お望みならばなんにだってなってやろう。どんな軽蔑も、どんな賞賛も、喜んで浴びよう。
だがしかし、これは正義のために払う犠牲。失敗は許されない。もちろん、挫けることも、転び、そのまま地に伏したままでいることも。
今回の潜入先は、水の都と呼ばれる造船業の盛んな街らしい。任務の内容は、船大工として島一番の造船会社で働き、市長でもあり社長でもあるアイスバーグという男から、ある設計図を奪うこと。それは代々、船大工の間で受け継がれているものだという。それならば、自分たちがその後継者として選ばれるのが、一番面倒が少なくて「平和的」だ。
カクも同じく船大工として、カリファはアイスバーグの秘書として、ブルーノは島の酒場の主人として、同じ目的のためにその水の都で任務に従事することとなった。与えられた猶予は五年。早く終わるに越したことはないが、その年月の長さが任務の困難さを物語っているように思った。
「ブルーノはもう発ったそうじゃの」
潜入前、最後の打ち合わせと鍛錬を兼ねて、カクを訓練場に呼んだ。カクは訓練場に入るなり、鑿をくるくると手元で弄んだかと思えば、しゅっと軽い音をさせて、壁に投げた。瞬間、矢か光線のようにまっすぐ壁に刺さったそれは、止まっていたハエを壁に縫い付けた。
「命中じゃ」
「ガキじゃねェんだ。はしゃぐな」
相変わらずつまらんやつじゃのう、と両手を腰にあてたカクがぼやく。相変わらず、とは聞き捨てならんと思ったものの、カクの軽口は聞き飽きているから咎める気にもならない。
カクもおれも必要な訓練は受けた。あとは五年の間に、さらに技術を磨いてのし上がり、アイスバーグの信頼を勝ち得て、設計図にもっとも近い存在となればいい。在り処がわかればそれもよし。さっさと奪ってしまってもいいだろう。長くて五年。大した年数ではないが、一般市民から紙束を奪うのがそんなに困難なことかとも思う。諜報員を四人も費やして。
「面倒な任務じゃのう」
四人で五年、四人で五年じゃぞ? カクは韻を踏むような調子で言った。口には出さなかった内心を見事に見透かされたようで、気に障る。ただでさえおどけたような顔をしているカクの真意はよくわからない。同意を求めているのか、いつものように窘められたいのか。
「そう思うならさっさと済ませればいい」
吐き捨てるよう言うと、カクは、やっぱりなというような顔で肩を竦めた。そうして「やっぱりつまらんやつじゃ」と呆れたような物言いだ。その日は結局、それ以上は大した言葉も交わさず、手合わせに終始した。
とうとう、カクが水の都へ赴く日となった。Galleyと描かれた白いキャップを被り、普段よりずっと明るめの服を着こみ、腰に鑿を引っさげたカクは、まあまあさまになっていた。少なくとも「人殺し」には見えない。
「どうじゃ? なかなか決まっておろう?」
癪だが、にっと笑って白い歯を見せるカクは言うとおり「決まって」いた。ブルーノもカリファも、少しずつ時期をずらしながら、すでに任務を始めている。おれもそろそろだろう。
おれたちは正義を背負うもの、正義を語るもの、正義を信じ、正義に集い、正義を体現するもの。どんなに汚れていようと掲げる言葉は「正義」の二文字だ。散々払う犠牲は決して無駄にしない。
「じゃあの」
「ああ。せいぜいへまするなよ」
何年、地を這おうとも、最後には必ず。
おしまい
薄氷の日々 #フランキー #ブルーノ
いつの頃からか、この街の朝の空気にもだいぶ慣れた。自分の店は夜ににぎわう酒場なのだから、こんな時間から起きだす必要もないように思うが、目覚めてしまうものは仕方ない。
ブルーノは大きく伸び、あくびを噛み殺しながら、店の窓をあけた。流れる風がすでに活気づいた街の空気を運んでくる。職人の街はただでさえ朝が早い。もう街にはエンジンがかかっている。
そのせいか、店を開ける時間もどんどん早くなってしまった。いっそ酒場ではなく大衆レストラン、くらいにして店を閉める時間を早めてしまおうか。このまま睡眠時間が削られていき、かつ、任務が長引けば体が持たない。だが、そんな泣き言は聞きいれてもらえる気がしなかった。エスプレッソとビスケットを手早くを口に運びながら、なにかいい案がないかと考えはする。しかし、仕事は待ってくれない。咀嚼を終える前に席を立って、カウンターへ足を運んだ。今日はいつもより起きるのが遅かったから、さっさと支度をせねば。
酒瓶は毎日磨くようにしている。埃を被った瓶で注ぐ酒なんて、と酒場の店主がすっかり板についてしまったが、それを悪くないと思う自分もいる。一本ずつ手に取って、埃をぬぐっていく作業はなかなか性に合っていた。誰にも言えやしない。
「よう! ブルーノ!」
酒瓶を磨く、という密かな気に入りの時間は、聞き覚えのある声に邪魔をされた。店の扉には「クローズ」と札をかけておいたはずだが、鍵はかけていない。それは以前、いま目の前にいるこの男がドアを叩いておれを叩き起こし、ついでに叩いていたドアまで壊してくれたからだ。
「ああ、フランキー。おはよう」
忌々しさが露ほども顔に出ぬよう、ゆったりとした口調で応えると、フランキーは、いい朝だな! とこの島の裏町を仕切る男とは思えぬ快活さで返した。この男がなにをもって「いい朝」と評したのかはわからない。今朝は天気も上々で、からりとした青空だったからかもしれないし、もしかしたら真新しいサングラスのためかもしれない。客商売で身に着けた目聡さで、後者だろうと見当をつけて、いいサングラスじゃないか、と声をかけた。
「さっすが、ブルーノ! よくぞ気づいた!」
ブルーノの言葉をそのまま受け取り、嬉しそうに笑うフランキーは子供のようだった。いや、普段から子供のような奴だとは思っていたが、今日はそれに拍車がかかっている。いつもの「悪ガキ」ではない。今日の彼は無邪気なただの子供だった。
「嬉しそうだね。そのサングラスと関係が?」
「大有りだ、大有り!」
フランキーはそう言ってサングラスを外し、恭しくカウンターに置いた。細身の、センスあるデザインだ。こういったものには興味も知識も乏しかったが、フランキーによく似合っていることだけはわかる。
「今日は俺の誕生日らしいぜ」
「そりゃめでたいが、“らしい”?」
フランキーに奢ってやるコーラを準備しながら彼の返事を待った。彼はもったいぶるように、知りたいか? と聞いておきながら、ブルーノが答える前に、教えてやろう、と言った。相変わらず子供っぽい言い草だが、口にはしない。ぜひに、と応じながらコーラを差し出した。フランキーは、悪ぃな、とジョッキを受け取り豪快に半分ほど煽ったところで、おれァ、誕生日なんて知らねえんだと切り出す。
「そりゃ、どういうことだ?」
言いながら考える。自然か、不自然か。いつもこの自問自答の繰り返しだ。だが、この男に関する情報は少なすぎる。このチャンスを逃すのはあまりにも惜しい。話を続けさせ、少しでも多くのの情報を引き出したい。「素性が知れない」ということは、表立つことのなかった何かに関わっている可能性が高いのだ。知っていて損はない。
それなのにフランキーは、その辺はめんどくせーんで省略するがよ、と多くを語ろうとはしなかった。カウンターの下で拳を握る。愛想よく相槌を打ってはいるが、内心舌打ちでもしたい気分だった。この男はこうやっていつも誤魔化して肝心なところは語らない。
「とにかく俺ァ、誕生日なんて知らねえんだ。それなのに、今朝起きてみたらどうだ。ハッピーバースデー、アニキ!とくらぁ。さすがのおれもびっくりよ」
「キウイちゃんとモズちゃんがかい?」
「ああ、そうだ。野郎どもにはそんなかわいらしい気遣いなんてねぇからな」
フランキーは本当に混じりけなく嬉しそうだった。普段の彼からは想像しがたい表情で、窓から垣間見える活気づいた朝の街を眺めている。その表情はどこか追想しているような顔に見えた。思い起こしているのは今朝か、それとももっと昔の、別の朝か。そうやって少しだけ沈黙が流れた。窓から流れ込んでくる街の賑わいはどこか遠くに聞こえる。
「それで?」
なかなか話し出さないフランキーにそっと次を促す。フランキーはほんのわずか、はっとしたような表情を見せて、すぐに話し始めた。
「おう。それでおれが言うわけだ。『おれには誕生日なんかねぇよ。誰と勘違いしてんだ?』ってな」
「へへへ……」
「そしたらあいつら、なんて言ったと思う?」
『そんなこと百も承知だわいな』
『けどそんなの寂しすぎるわいな』
『そこで! アニキは覚えてないかもしれないけど、今日は私たちとアニキが初めて出会った日!』
『だから、今日が誕生日ってことでお祝いさせて欲しいんだわいな!』
『プレゼントは、アニキに似合うサングラス!』
『来年も、再来年も! これからもずっとお祝いさせて欲しいんだわいな』
話し終えたフランキーはジョッキに残ったコーラを一気に飲み干した。カウンターに勢いよく置かれたジョッキが、カタカタッ、とサングラスを揺らす。
「ずっと、か。相変わらず、仲睦まじいね」
まだ磨いていない酒瓶を手に取って、埃を拭う作業を再開する。フランキーは、飲み終わっても席を立たなかった。それどころか、カウンターに肘をつき、目を閉じて手を顔の前で組んでいる。それはなぜか、彼には到底似つかわしくない祈りの所作に思えた。
彼はいつまでも何かに祈っていた。
踏み絵など歯を見せ足蹴にする彼がふるう得物は蟷螂の斧
おしまい
いつの頃からか、この街の朝の空気にもだいぶ慣れた。自分の店は夜ににぎわう酒場なのだから、こんな時間から起きだす必要もないように思うが、目覚めてしまうものは仕方ない。
ブルーノは大きく伸び、あくびを噛み殺しながら、店の窓をあけた。流れる風がすでに活気づいた街の空気を運んでくる。職人の街はただでさえ朝が早い。もう街にはエンジンがかかっている。
そのせいか、店を開ける時間もどんどん早くなってしまった。いっそ酒場ではなく大衆レストラン、くらいにして店を閉める時間を早めてしまおうか。このまま睡眠時間が削られていき、かつ、任務が長引けば体が持たない。だが、そんな泣き言は聞きいれてもらえる気がしなかった。エスプレッソとビスケットを手早くを口に運びながら、なにかいい案がないかと考えはする。しかし、仕事は待ってくれない。咀嚼を終える前に席を立って、カウンターへ足を運んだ。今日はいつもより起きるのが遅かったから、さっさと支度をせねば。
酒瓶は毎日磨くようにしている。埃を被った瓶で注ぐ酒なんて、と酒場の店主がすっかり板についてしまったが、それを悪くないと思う自分もいる。一本ずつ手に取って、埃をぬぐっていく作業はなかなか性に合っていた。誰にも言えやしない。
「よう! ブルーノ!」
酒瓶を磨く、という密かな気に入りの時間は、聞き覚えのある声に邪魔をされた。店の扉には「クローズ」と札をかけておいたはずだが、鍵はかけていない。それは以前、いま目の前にいるこの男がドアを叩いておれを叩き起こし、ついでに叩いていたドアまで壊してくれたからだ。
「ああ、フランキー。おはよう」
忌々しさが露ほども顔に出ぬよう、ゆったりとした口調で応えると、フランキーは、いい朝だな! とこの島の裏町を仕切る男とは思えぬ快活さで返した。この男がなにをもって「いい朝」と評したのかはわからない。今朝は天気も上々で、からりとした青空だったからかもしれないし、もしかしたら真新しいサングラスのためかもしれない。客商売で身に着けた目聡さで、後者だろうと見当をつけて、いいサングラスじゃないか、と声をかけた。
「さっすが、ブルーノ! よくぞ気づいた!」
ブルーノの言葉をそのまま受け取り、嬉しそうに笑うフランキーは子供のようだった。いや、普段から子供のような奴だとは思っていたが、今日はそれに拍車がかかっている。いつもの「悪ガキ」ではない。今日の彼は無邪気なただの子供だった。
「嬉しそうだね。そのサングラスと関係が?」
「大有りだ、大有り!」
フランキーはそう言ってサングラスを外し、恭しくカウンターに置いた。細身の、センスあるデザインだ。こういったものには興味も知識も乏しかったが、フランキーによく似合っていることだけはわかる。
「今日は俺の誕生日らしいぜ」
「そりゃめでたいが、“らしい”?」
フランキーに奢ってやるコーラを準備しながら彼の返事を待った。彼はもったいぶるように、知りたいか? と聞いておきながら、ブルーノが答える前に、教えてやろう、と言った。相変わらず子供っぽい言い草だが、口にはしない。ぜひに、と応じながらコーラを差し出した。フランキーは、悪ぃな、とジョッキを受け取り豪快に半分ほど煽ったところで、おれァ、誕生日なんて知らねえんだと切り出す。
「そりゃ、どういうことだ?」
言いながら考える。自然か、不自然か。いつもこの自問自答の繰り返しだ。だが、この男に関する情報は少なすぎる。このチャンスを逃すのはあまりにも惜しい。話を続けさせ、少しでも多くのの情報を引き出したい。「素性が知れない」ということは、表立つことのなかった何かに関わっている可能性が高いのだ。知っていて損はない。
それなのにフランキーは、その辺はめんどくせーんで省略するがよ、と多くを語ろうとはしなかった。カウンターの下で拳を握る。愛想よく相槌を打ってはいるが、内心舌打ちでもしたい気分だった。この男はこうやっていつも誤魔化して肝心なところは語らない。
「とにかく俺ァ、誕生日なんて知らねえんだ。それなのに、今朝起きてみたらどうだ。ハッピーバースデー、アニキ!とくらぁ。さすがのおれもびっくりよ」
「キウイちゃんとモズちゃんがかい?」
「ああ、そうだ。野郎どもにはそんなかわいらしい気遣いなんてねぇからな」
フランキーは本当に混じりけなく嬉しそうだった。普段の彼からは想像しがたい表情で、窓から垣間見える活気づいた朝の街を眺めている。その表情はどこか追想しているような顔に見えた。思い起こしているのは今朝か、それとももっと昔の、別の朝か。そうやって少しだけ沈黙が流れた。窓から流れ込んでくる街の賑わいはどこか遠くに聞こえる。
「それで?」
なかなか話し出さないフランキーにそっと次を促す。フランキーはほんのわずか、はっとしたような表情を見せて、すぐに話し始めた。
「おう。それでおれが言うわけだ。『おれには誕生日なんかねぇよ。誰と勘違いしてんだ?』ってな」
「へへへ……」
「そしたらあいつら、なんて言ったと思う?」
『そんなこと百も承知だわいな』
『けどそんなの寂しすぎるわいな』
『そこで! アニキは覚えてないかもしれないけど、今日は私たちとアニキが初めて出会った日!』
『だから、今日が誕生日ってことでお祝いさせて欲しいんだわいな!』
『プレゼントは、アニキに似合うサングラス!』
『来年も、再来年も! これからもずっとお祝いさせて欲しいんだわいな』
話し終えたフランキーはジョッキに残ったコーラを一気に飲み干した。カウンターに勢いよく置かれたジョッキが、カタカタッ、とサングラスを揺らす。
「ずっと、か。相変わらず、仲睦まじいね」
まだ磨いていない酒瓶を手に取って、埃を拭う作業を再開する。フランキーは、飲み終わっても席を立たなかった。それどころか、カウンターに肘をつき、目を閉じて手を顔の前で組んでいる。それはなぜか、彼には到底似つかわしくない祈りの所作に思えた。
彼はいつまでも何かに祈っていた。
踏み絵など歯を見せ足蹴にする彼がふるう得物は蟷螂の斧
おしまい
降水確率ゼロパーセント 快晴 #カク #パウリー #アイスバーグ
その日は朝からひどい頭痛に悩まされていた。ずきずきと脳を絞られるような痛みで目が覚め、思わず顔をしかめるほどのそれは、カクをそのままベッドに縫い付けた。許されるならこのまま寝ていたい。けれど、壁にかけていた日付だけのシンプルなカレンダーについている赤丸が、いま請け負っている巨大なガレオン船の納期をこれみよがしに主張していた。
タオルケットの隙間から薄目で窓を見やる。カーテンのない窓が切り取る空は霞んだ目でもわかる、恨めしいほどの青だった。光が目に刺さり、一層痛みが増していく。タオルケットを被り直したカクは、その膜の中で大きなため息をついた。そして、もう一度ため息をつくと、こめかみを手のひらで抑えるようにしながら、ひとまず水を飲むためだけにベッドから体を起こした。まずは水だ、と自分に言い聞かせる。
結局、頭痛は痛み止めを飲んでもおさまらなかったが、仕方なく出勤したカクはとにかく笑顔でいるように努めた。それがこの職場、この街での自分の役割だと思っていたし、何よりカクが笑っていないときっと周囲は「大丈夫か?」なんて言葉をかけてくる。そんなのは正直好まない。「大丈夫じゃ」なんて取り繕うのも面倒だし、心配されたところでこの頭痛はおさまるのか? と、かえってイラつくだろう。余裕がないからこそ、余計なやりとりなどせず、さっさと仕事を終えてしまいたかった。
常に頭にまとわりついてくるような痛みから逃れようと、目の前の仕事に集中する。自分はいつも通り笑えているか、声音に、表情に、痛みからくる苛立ちが現れてはいやしないか。常に意識して職人たちに指示を出していくと、誰もがカクの指示に小気味よい返事を返してくる。よかった、この痛みは誰にも気づかれない。
「カク」
「……アイスバーグ、さん?」
造りかけの船の甲板にいたカクは声をかけてきたアイスバーグを見下ろす形になった。多忙な彼は、彼自身が望むほどには現場に顔を出せない。だが、今回の仕事は天下のガレーラカンパニーであっても、なかなかに手ごたえのある船だった。社長として、そしてなにより、船大工として、少しでも自身の目で確かめたい何かがあるのかもしれない。
「ちょっと降りてこられるか?」
「ああ、いますぐ」
話題になるとしたら、まずは進捗か。カクは痛む頭でそれぞれの進み具合を今一度思い起こした。実は少し予定より作業が遅れている。別に誰のせいでもない。天候や、それに伴う資材の調達が思うようにならなかっただけだ。だが、アイスバーグはどう評価するだろう。彼は飄々としていて、掴みどころのない男だった。気に入らない仕事はドタキャンも辞さないが、当たり前にプロ意識も持ち合わせている。そうでなければ、社長と市長と、駅の管理まで兼任し、それに加えて時には図面も引くなんて真似、出来るはずがない。
パウリー相手なら簡単なのに、とふと思った。きっとあの男なら「納期までに完成させりゃあいいだけだろ」と事も無げに言ってのけるだろう。それに対してルッチが『なんのための工程表だ』と眉間に皺を寄せることも容易に想像がつく。思わず頬が緩んだのと同時に、ずきと脳が握られたような痛みが走った。振り払うように甲板を蹴って空に浮かぶ。着地の衝撃が頭に響かないよう、軽い羽のようにふわりと着地した。
「忙しいだろうになんじゃ? 珍しいの」
「ああ、ちょっとな」
アイスバーグはそれだけ言うと、カクの顔をまっすぐに見据えて、ふむ、と腕組みした。見定めるような間にカクがたじろぐと、アイスバーグは満足した様子で、白い紙きれを開いてカクに見せる。そこには「早退届」とう文字がでかでかと踊っていた。もちろん総務が作っている様式ではなく、手書きで、乱暴な字で、しかも走り書きだった。この字には見覚えがある。同じ職長で、さっきも思い浮かべたあの男。顔をしかめたのは痛みのせいではない。なんじゃこれは、と笑顔も忘れて問うた。
「なにって、書いてあるだろう」
「汚すぎて読めんわい」
「まあ、よく読んでみろ」
しぶしぶ受け取って、目を通す。早退届、早退理由、……ひどい頭痛または腹痛または体調不良。申請者は。
「申請者はパウリーじゃけど」
「そうだな」
「でもそのパウリーはさっきそのへんでぴんぴんしとったじゃろ」
「間違えたんだ、あいつは」
お前の早退届を代筆してやったらしい。
言葉少なに説明するアイスバーグはこの状況を確実に面白がっていて、カクはそれが不愉快だった。頭の痛みが増していく。
「さっきパウリーがそいつを持ってきてな。聞けばお前が辛そうだ、ときた」
『カクのやつ、朝から機嫌悪いっつーか、なんか具合悪そうなんですよね。でもあいつそういうの全然言わないじゃないですか。知ってます? あいつの部屋にあるカレンダー、納期のことしか書いてないんですよ! そういうやつなんです。だからここはひとつ、俺の勘を信じて、あいつの早退届にサインしてくれませんかね?』
「っつーわけで、承認した早退届がそれだ」
「とんだ社長じゃな。総務が泣くぞ。生憎、あいつの勘違いじゃ」
「パウリーを信じねえわけじゃねぇが、おれも一応社長なんでな。だからこうして会いに来たんだ」
アイスバーグは、もう一度カクを真正面からまじまじと見つめ、カクが目を逸らす前に、ふ、と息を漏らした。そして『診断』を下す。
「パウリーの勘は正しかったな。今日はもう帰って休め」
「な、」
「これは社長命令だ。早く良くなるといいな」
アイスバーグはカクの反論なぞ聞く気もないようで、さっと踵を返し、そのまま別の仕事に戻っていく。事の次第を把握した職人たちはあっという間にカクを両脇から抱えると、引きずるようにしてドックから放り出してしまった。所用でその場を外していたパウリーが戻ってきて、引きずられていくカクをしたり顔で見送る。すれ違いざまに見せたカクの睨み顔など、まるで堪えていない様子だ。
仕方なく帰路についたカクは俯きながらぐっと唇を噛む。アイスバーグにならまだしも、まさかパウリーにすら気づかれるとは。訓練が足りない、と己を責める。完璧だと思った演技が所詮こんなものかと、恥ずかしいほどだ。怒りのままに拳を握りしめると、うっかり受け取ってそのままだった忌々しい早退届が、くしゃりとあっけなく潰れていく。どうせこのままでは受理されない。そのまま捨ててしまってよかったのに、カクは皺を伸ばして、もう一度それに目を滑らせた。
パウリーの粗野で豪快な字と、アイスバーグの流れるようなサイン。早退届、早退理由、……ひどい頭痛または腹痛または体調不良。先ほど確認したときは不愉快なだけだったのに、今はあまりにくだらなくて、心なしか口許が緩む気がした。はっとして手で覆った時にはもう遅い。もう頭痛は消えていた。かわりに痛むのは胸。
新しい痛みが、まるで何かを戒めるように増していく。顔が歪み、目尻には少しだけ涙が滲んだ。いますぐ雨が降ればいいのに。思って、天を仰ぐ。
晴れた日に笑う理由はわからない わからないけどおれはさみしい
おしまい
その日は朝からひどい頭痛に悩まされていた。ずきずきと脳を絞られるような痛みで目が覚め、思わず顔をしかめるほどのそれは、カクをそのままベッドに縫い付けた。許されるならこのまま寝ていたい。けれど、壁にかけていた日付だけのシンプルなカレンダーについている赤丸が、いま請け負っている巨大なガレオン船の納期をこれみよがしに主張していた。
タオルケットの隙間から薄目で窓を見やる。カーテンのない窓が切り取る空は霞んだ目でもわかる、恨めしいほどの青だった。光が目に刺さり、一層痛みが増していく。タオルケットを被り直したカクは、その膜の中で大きなため息をついた。そして、もう一度ため息をつくと、こめかみを手のひらで抑えるようにしながら、ひとまず水を飲むためだけにベッドから体を起こした。まずは水だ、と自分に言い聞かせる。
結局、頭痛は痛み止めを飲んでもおさまらなかったが、仕方なく出勤したカクはとにかく笑顔でいるように努めた。それがこの職場、この街での自分の役割だと思っていたし、何よりカクが笑っていないときっと周囲は「大丈夫か?」なんて言葉をかけてくる。そんなのは正直好まない。「大丈夫じゃ」なんて取り繕うのも面倒だし、心配されたところでこの頭痛はおさまるのか? と、かえってイラつくだろう。余裕がないからこそ、余計なやりとりなどせず、さっさと仕事を終えてしまいたかった。
常に頭にまとわりついてくるような痛みから逃れようと、目の前の仕事に集中する。自分はいつも通り笑えているか、声音に、表情に、痛みからくる苛立ちが現れてはいやしないか。常に意識して職人たちに指示を出していくと、誰もがカクの指示に小気味よい返事を返してくる。よかった、この痛みは誰にも気づかれない。
「カク」
「……アイスバーグ、さん?」
造りかけの船の甲板にいたカクは声をかけてきたアイスバーグを見下ろす形になった。多忙な彼は、彼自身が望むほどには現場に顔を出せない。だが、今回の仕事は天下のガレーラカンパニーであっても、なかなかに手ごたえのある船だった。社長として、そしてなにより、船大工として、少しでも自身の目で確かめたい何かがあるのかもしれない。
「ちょっと降りてこられるか?」
「ああ、いますぐ」
話題になるとしたら、まずは進捗か。カクは痛む頭でそれぞれの進み具合を今一度思い起こした。実は少し予定より作業が遅れている。別に誰のせいでもない。天候や、それに伴う資材の調達が思うようにならなかっただけだ。だが、アイスバーグはどう評価するだろう。彼は飄々としていて、掴みどころのない男だった。気に入らない仕事はドタキャンも辞さないが、当たり前にプロ意識も持ち合わせている。そうでなければ、社長と市長と、駅の管理まで兼任し、それに加えて時には図面も引くなんて真似、出来るはずがない。
パウリー相手なら簡単なのに、とふと思った。きっとあの男なら「納期までに完成させりゃあいいだけだろ」と事も無げに言ってのけるだろう。それに対してルッチが『なんのための工程表だ』と眉間に皺を寄せることも容易に想像がつく。思わず頬が緩んだのと同時に、ずきと脳が握られたような痛みが走った。振り払うように甲板を蹴って空に浮かぶ。着地の衝撃が頭に響かないよう、軽い羽のようにふわりと着地した。
「忙しいだろうになんじゃ? 珍しいの」
「ああ、ちょっとな」
アイスバーグはそれだけ言うと、カクの顔をまっすぐに見据えて、ふむ、と腕組みした。見定めるような間にカクがたじろぐと、アイスバーグは満足した様子で、白い紙きれを開いてカクに見せる。そこには「早退届」とう文字がでかでかと踊っていた。もちろん総務が作っている様式ではなく、手書きで、乱暴な字で、しかも走り書きだった。この字には見覚えがある。同じ職長で、さっきも思い浮かべたあの男。顔をしかめたのは痛みのせいではない。なんじゃこれは、と笑顔も忘れて問うた。
「なにって、書いてあるだろう」
「汚すぎて読めんわい」
「まあ、よく読んでみろ」
しぶしぶ受け取って、目を通す。早退届、早退理由、……ひどい頭痛または腹痛または体調不良。申請者は。
「申請者はパウリーじゃけど」
「そうだな」
「でもそのパウリーはさっきそのへんでぴんぴんしとったじゃろ」
「間違えたんだ、あいつは」
お前の早退届を代筆してやったらしい。
言葉少なに説明するアイスバーグはこの状況を確実に面白がっていて、カクはそれが不愉快だった。頭の痛みが増していく。
「さっきパウリーがそいつを持ってきてな。聞けばお前が辛そうだ、ときた」
『カクのやつ、朝から機嫌悪いっつーか、なんか具合悪そうなんですよね。でもあいつそういうの全然言わないじゃないですか。知ってます? あいつの部屋にあるカレンダー、納期のことしか書いてないんですよ! そういうやつなんです。だからここはひとつ、俺の勘を信じて、あいつの早退届にサインしてくれませんかね?』
「っつーわけで、承認した早退届がそれだ」
「とんだ社長じゃな。総務が泣くぞ。生憎、あいつの勘違いじゃ」
「パウリーを信じねえわけじゃねぇが、おれも一応社長なんでな。だからこうして会いに来たんだ」
アイスバーグは、もう一度カクを真正面からまじまじと見つめ、カクが目を逸らす前に、ふ、と息を漏らした。そして『診断』を下す。
「パウリーの勘は正しかったな。今日はもう帰って休め」
「な、」
「これは社長命令だ。早く良くなるといいな」
アイスバーグはカクの反論なぞ聞く気もないようで、さっと踵を返し、そのまま別の仕事に戻っていく。事の次第を把握した職人たちはあっという間にカクを両脇から抱えると、引きずるようにしてドックから放り出してしまった。所用でその場を外していたパウリーが戻ってきて、引きずられていくカクをしたり顔で見送る。すれ違いざまに見せたカクの睨み顔など、まるで堪えていない様子だ。
仕方なく帰路についたカクは俯きながらぐっと唇を噛む。アイスバーグにならまだしも、まさかパウリーにすら気づかれるとは。訓練が足りない、と己を責める。完璧だと思った演技が所詮こんなものかと、恥ずかしいほどだ。怒りのままに拳を握りしめると、うっかり受け取ってそのままだった忌々しい早退届が、くしゃりとあっけなく潰れていく。どうせこのままでは受理されない。そのまま捨ててしまってよかったのに、カクは皺を伸ばして、もう一度それに目を滑らせた。
パウリーの粗野で豪快な字と、アイスバーグの流れるようなサイン。早退届、早退理由、……ひどい頭痛または腹痛または体調不良。先ほど確認したときは不愉快なだけだったのに、今はあまりにくだらなくて、心なしか口許が緩む気がした。はっとして手で覆った時にはもう遅い。もう頭痛は消えていた。かわりに痛むのは胸。
新しい痛みが、まるで何かを戒めるように増していく。顔が歪み、目尻には少しだけ涙が滲んだ。いますぐ雨が降ればいいのに。思って、天を仰ぐ。
晴れた日に笑う理由はわからない わからないけどおれはさみしい
おしまい
ニコ・ロビンは想像していた以上に大人しく、実に従順に政府に与した。そのことについてカクが「逃げ続けて二十年。今さらなんじゃろうな」などと口にしていたが、はっきりいっておれにはそんなことはどうでも良かった。どんな理由であれ、今、『悪魔の子』は我らの手中にある。大体、犯罪者の、賞金首の理由など、くだらないものだ。
ただ、本音を言わせてもらえれば少々つまらなかった。拍子抜けしたと言ってもいい。当初は、おれたちに捕まえたと思わせて、出し抜くつもりかと内心警戒していたものだが、ニコ・ロビンは本当にただただ従順だった。
ウォーターセブンでの潜入任務も五年が経とうかというある日。ブルーノに連れられてきたニコ・ロビンは、笑顔こそ見せなかったが、敵意を向けるわけでも、瞳を揺らすこともなく、そっと簡素な円卓についた。それは、ニコ・ロビンがこの計画に参加することを承諾したという、裏切りと服従の証。今まで捕らえ、もしくは葬ってきた罪人たちとは少々毛色が違うようだ。それが第一印象。
「あなたのことは」
そのとき部屋には二人きりだった。資料に目を通すおれと、新聞を開くニコ・ロビン。言葉を発したのはおれではない。ニコ・ロビンはふてぶてしいほどの優雅さで新聞に目を通しながら、続けた。
「なんと呼べばいいかしら?」
「何とでも。世界政府のクソ野郎でも、極悪非道な殺戮兵器でも」
「……長いわ」
円卓を挟んで対面にいるニコ・ロビンは、おれから答えを得るのは諦めたようだ。折れそうな細い指でゆっくり新聞をめくり始め、紙がこすれる音だけがする。別にこの会話で何かを期待したわけではないが、ニコ・ロビンから大した反応も得られず、些か腹立たしく思った。
「あなたは理由を問わないのね」
「興味がない」
「私にはわかる」
ニコ・ロビンは相変わらず新聞から目を離さずに声だけをこちらに放った。切り揃えられた黒髪はまるでベールのようにニコ・ロビンの表情を覆って、こちらに何も悟らせない。作為的に思えて、それがまたおれを苛立たせる。さっきからおれは何を、とは考えない。
「あなたが理由を問わないは、理由を問うて生まれる何かが怖いからだわ」
「なんだと?」
「怖がりなのね」
「口を慎め。貴様がどういう状況にあるか思い知らせてやろうか?」
「遠慮するわ。自分の置かれている状況くらい、理解しているから」
ニコ・ロビンはこちらを見ない。円卓の向こうの、女が遠い。
ガタッ、と椅子が床を大きく鳴らすと、ニコ・ロビンはようやくこちらに瞳を向けた。少し見開く切れ長の瞳。歪む己の口元。ニコ・ロビンも薄く笑みを浮かべている。邪魔な新聞ごと女の細い首に豹の爪が届くその少し前。整った黒髪がてんでばらばらに踊って、幾本もの手が花弁を伴い咲き乱れる。手首と頸動脈に冷たい指先を感じたのは、ほんの刹那。
「テーブルの上に載るなんて、お行儀が悪いわね」
おれの爪は何を掴むこともなく空をかき、ニコ・ロビンの喉はつつがなく震えた。
くそ。この感情にも理由なんて。
君の目を奪うニュースが邪魔で爪立てて「見ろよ」と花に咆哮
おしまい