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No.12, No.11, No.10, No.8, No.7, No.6, No.5[7件]
タンデム#カク
「ねえ、私も乗せてよ」
ウカの少し甘えたような声にカクはわかりやすくうんざりした顔で「嫌じゃって言っとるのに」と返した。そうすると今度はウカの方がうんざりした顔で「ケチ」と口を尖らせる。
「ルッチさんは乗せてるじゃん」
「ルッチに逆らえるわけなかろう」
「パウリーだって乗せてるのに」
「あいつは後が面倒なんじゃ」
カクはウカの追及を難なく躱していく。的確に最適解を打ち返していく様は私の質問なんてお見通し、といった具合で面白くない。
カクは少し前、念願だったという大きなバイクを手に入れて、常に乗る口実を探していた。それまでは先輩から格安で譲ってもらったというバイクに乗って練習を重ねていたのだが、ついにお金が貯まり、憧れだったバイクを購入したらしい。
私はバイクには全然詳しくないけれど、黒くて大きな熊みたいな乗り物を、細身の体で自在に操って取りまわす姿は、心底かっこよくて惚れ直していた。ヴヴヴ、と低い唸り声をあげるそれは、完全にカクに服従しているように見え、様になっている。
カクは真面目だから、ちゃんとバイクに乗るのに適した服に着替えるし、ブーツも履く。黒いバイクにあわせて、ジャケットやヘルメット、グローブなんかも黒を基調に揃えたのだと言う。カクは、普段は明るい色を好んで身に着けているから、バイクに乗るときだけ全身真っ黒に染まるのは、なんだか特別な儀式のための礼装みたいでドキドキする。髪の色だけやけに明るくみえて、それが真っ黒の中に一点、アクセントになっていいなと思った。
「ねえ、わたしも」
「あのなあ、ウカ」
カクはまるで小さな子供に言い聞かせるように言葉を切って、強調した。
「バイクは走る棺桶なんじゃ。そんなもんにウカを乗せられるわけなかろう」
「わたし、カクとなら一緒に棺桶入りたいけど」
「一緒に入れるかわからんじゃろ!」
カクは、わしだけ死ぬならまだしもウカだけをひとり死なせてしまったら生きていけん、と恥ずかしいセリフをあっけらかんと言った。あまりに事も無げに言うので、心がこもっていないようにすら思える。
「でもさ」
「ん?」
「じゃあ、なんでヘルメットが二つあるの?」
わたしの分かと思っていたのに、とウカが目を伏せるとカクが今日初めて二の句を継げなくなった。カクは視線を空に彷徨わせて、観念したように頭をかく。
「すまん。本当はウカも乗せたくて準備はしとった」
「え、そうなの?」
「じゃけど、二人乗りも練習が必要での。ルッチとパウリーに付き合ってもらっとったんじゃ」
ウカのヘルメットはちゃんと別に用意しとるよ、とカクはすべてを諦めたように教えてくれる。練習って、いつまで? とわたしがソワソワしながら尋ねるとカクは大きなため息をついて、
「行くか」
と言った。すぐ後に、少しだけ、と付け足す。
「デニムとブーツ、あと皮ジャンあったじゃろ?」
「わしの腰から絶対手を離さんようにな」
「曲がるときは怖がらずに身体を傾けるんじゃぞ」
カクが先にバイクに跨ってバイクを安定させてくれる。わたしは、カクの肩に手をかけてぐっと足を蹴る。タイヤがわたしの体重分、ぐっと凹んでバイクが沈み込んだ。ゆっくり腰を下ろすと、太陽の光で温まったシートが熱いくらいだった。カクの背中に胸をぴっとつけて抱きしめると、カクがはあ、とまたため息をつく。
「緊張する」
「な、んかごめん」
「いや、夢じゃったから」
カクが勢いよくキックペダルを踏みこむと、エンジンが震えながら目を覚まし、ドッドッドッドと鼓動を打ち始めた。
「行くか」
わたしはまだどこにも行けていないのに、長い旅をしてきたような不思議な気分になった。カクがアクセルをゆっくり捻って走りだす。わたしはカクの腰に回した腕に力を込める。狭いヘルメットの視界から「自由」が見えた気がした。おしまい
「ねえ、私も乗せてよ」
ウカの少し甘えたような声にカクはわかりやすくうんざりした顔で「嫌じゃって言っとるのに」と返した。そうすると今度はウカの方がうんざりした顔で「ケチ」と口を尖らせる。
「ルッチさんは乗せてるじゃん」
「ルッチに逆らえるわけなかろう」
「パウリーだって乗せてるのに」
「あいつは後が面倒なんじゃ」
カクはウカの追及を難なく躱していく。的確に最適解を打ち返していく様は私の質問なんてお見通し、といった具合で面白くない。
カクは少し前、念願だったという大きなバイクを手に入れて、常に乗る口実を探していた。それまでは先輩から格安で譲ってもらったというバイクに乗って練習を重ねていたのだが、ついにお金が貯まり、憧れだったバイクを購入したらしい。
私はバイクには全然詳しくないけれど、黒くて大きな熊みたいな乗り物を、細身の体で自在に操って取りまわす姿は、心底かっこよくて惚れ直していた。ヴヴヴ、と低い唸り声をあげるそれは、完全にカクに服従しているように見え、様になっている。
カクは真面目だから、ちゃんとバイクに乗るのに適した服に着替えるし、ブーツも履く。黒いバイクにあわせて、ジャケットやヘルメット、グローブなんかも黒を基調に揃えたのだと言う。カクは、普段は明るい色を好んで身に着けているから、バイクに乗るときだけ全身真っ黒に染まるのは、なんだか特別な儀式のための礼装みたいでドキドキする。髪の色だけやけに明るくみえて、それが真っ黒の中に一点、アクセントになっていいなと思った。
「ねえ、わたしも」
「あのなあ、ウカ」
カクはまるで小さな子供に言い聞かせるように言葉を切って、強調した。
「バイクは走る棺桶なんじゃ。そんなもんにウカを乗せられるわけなかろう」
「わたし、カクとなら一緒に棺桶入りたいけど」
「一緒に入れるかわからんじゃろ!」
カクは、わしだけ死ぬならまだしもウカだけをひとり死なせてしまったら生きていけん、と恥ずかしいセリフをあっけらかんと言った。あまりに事も無げに言うので、心がこもっていないようにすら思える。
「でもさ」
「ん?」
「じゃあ、なんでヘルメットが二つあるの?」
わたしの分かと思っていたのに、とウカが目を伏せるとカクが今日初めて二の句を継げなくなった。カクは視線を空に彷徨わせて、観念したように頭をかく。
「すまん。本当はウカも乗せたくて準備はしとった」
「え、そうなの?」
「じゃけど、二人乗りも練習が必要での。ルッチとパウリーに付き合ってもらっとったんじゃ」
ウカのヘルメットはちゃんと別に用意しとるよ、とカクはすべてを諦めたように教えてくれる。練習って、いつまで? とわたしがソワソワしながら尋ねるとカクは大きなため息をついて、
「行くか」
と言った。すぐ後に、少しだけ、と付け足す。
「デニムとブーツ、あと皮ジャンあったじゃろ?」
「わしの腰から絶対手を離さんようにな」
「曲がるときは怖がらずに身体を傾けるんじゃぞ」
カクが先にバイクに跨ってバイクを安定させてくれる。わたしは、カクの肩に手をかけてぐっと足を蹴る。タイヤがわたしの体重分、ぐっと凹んでバイクが沈み込んだ。ゆっくり腰を下ろすと、太陽の光で温まったシートが熱いくらいだった。カクの背中に胸をぴっとつけて抱きしめると、カクがはあ、とまたため息をつく。
「緊張する」
「な、んかごめん」
「いや、夢じゃったから」
カクが勢いよくキックペダルを踏みこむと、エンジンが震えながら目を覚まし、ドッドッドッドと鼓動を打ち始めた。
「行くか」
わたしはまだどこにも行けていないのに、長い旅をしてきたような不思議な気分になった。カクがアクセルをゆっくり捻って走りだす。わたしはカクの腰に回した腕に力を込める。狭いヘルメットの視界から「自由」が見えた気がした。おしまい
自由の代償 #カク
「それじゃあ、初めての一人暮らしがんばってね。困ったことがあったらすぐ言って」
人の好さそうな大家から受けとった部屋の鍵を鍵穴に差し込むと、鍵は難なくするりと開いてドアノブが回るようになる。ドアを開けるとそこはがらんとしたただの箱に見えた。
ウォーターセブンへの潜入任務のために政府が借り上げ、カクにあてがった部屋はよく言えばシンプル、有体に言えば簡素な造りの1DKだったがカクにとっては初めての個室、初めての一人暮らしだったので広さは十分に感じた。だが、足を踏み入れるとなんとも他人行儀な感じで、まだよそよそしく、気持ちは落ち着かない。それでもここが、今日からカクの部屋だ。
とはいえ、ここからどうしたらいいかわからない。ひとまず、前の住人がそのまま置いていったというダイニングチェアに腰かけ、グアンハオから持ってきた少ない荷物を解いてテーブルに並べてみる。荷ほどきといっても、持ってきたのは訓練に使った大工道具と取り急ぎ必要だろうと思った着古した下着くらいだ。後者はこちらで新しく揃えたらさっさと捨てるつもりだ。グアンハオの名残はすべて残らず消してしまいたい。さっさと任務に必要な「明るくて人の好い十八歳の好青年」にならねば。
好青年用の服はある程度カリファが揃えてくれていた。「好青年」に似合いそうな明るい色の服を。ここに来る前に駅で別の諜報員から受けとったバッグをひっくり返し、出てきた服をいくつか眺めてみるが、これまで着るものは黒か白かの二択だったカクにはどれがいいのかよくわからない。ひとまず一番上にあったジャケットとジーンズを着ることにして、他は備え付けのクローゼットにしまい込んだ。面白がったカリファに下着も準備されそうになったのだが、カクのした力の限りの拒絶は受け入れられたようで、下着類は入っていなかった。胸を撫でおろす。
「まずはパンツを買わんとのう」
呟いてみても一人。返事はない。物音ひとつしない部屋を眺めて、また少ない荷物に視線を落とす。さて、この部屋には他に何が必要なのか。生きていくのに必要な諸々はすでに子供の頃から仕込まれている。グアンハオでは掃除洗濯炊事は当番制だ。だが、自分で選んで揃える、ということはしたことがなかった。施設にはすでに生きるのに必要なものは揃っていたし、それ以上のものを欲しがるということは許されていない。欲しい、という気持ちもよくわからなかった。施設にあってこの部屋にないもの、をピックアップしていく。
窓からはこの島のシンボルである大噴水が見え、ああ、カーテンがいるかと思う。コーヒーでも飲むかと立ち上がろうとしてマグカップもコーヒー豆もミルもケトルもないことに気づく。気づいて、買い足していく。これが生活か、と思った。全部自分で決める。ふと、ある二文字が心に躍って、思わず口の端があがる。
「待てよ、これからはパンツの色も考えにゃならんのか?」
面倒じゃのう、と思いつつ緩む口元はそのままにした。ついでに話相手の観葉植物でも見てみるか、とカクは黒いティーシャツを脱いで「好青年」として出かける準備を始める。
仮初でも、束の間でも構わない。この程度の代償で自由が手に入るなら。おしまい
いろいろ考えたいふたりvol.01
「それじゃあ、初めての一人暮らしがんばってね。困ったことがあったらすぐ言って」
人の好さそうな大家から受けとった部屋の鍵を鍵穴に差し込むと、鍵は難なくするりと開いてドアノブが回るようになる。ドアを開けるとそこはがらんとしたただの箱に見えた。
ウォーターセブンへの潜入任務のために政府が借り上げ、カクにあてがった部屋はよく言えばシンプル、有体に言えば簡素な造りの1DKだったがカクにとっては初めての個室、初めての一人暮らしだったので広さは十分に感じた。だが、足を踏み入れるとなんとも他人行儀な感じで、まだよそよそしく、気持ちは落ち着かない。それでもここが、今日からカクの部屋だ。
とはいえ、ここからどうしたらいいかわからない。ひとまず、前の住人がそのまま置いていったというダイニングチェアに腰かけ、グアンハオから持ってきた少ない荷物を解いてテーブルに並べてみる。荷ほどきといっても、持ってきたのは訓練に使った大工道具と取り急ぎ必要だろうと思った着古した下着くらいだ。後者はこちらで新しく揃えたらさっさと捨てるつもりだ。グアンハオの名残はすべて残らず消してしまいたい。さっさと任務に必要な「明るくて人の好い十八歳の好青年」にならねば。
好青年用の服はある程度カリファが揃えてくれていた。「好青年」に似合いそうな明るい色の服を。ここに来る前に駅で別の諜報員から受けとったバッグをひっくり返し、出てきた服をいくつか眺めてみるが、これまで着るものは黒か白かの二択だったカクにはどれがいいのかよくわからない。ひとまず一番上にあったジャケットとジーンズを着ることにして、他は備え付けのクローゼットにしまい込んだ。面白がったカリファに下着も準備されそうになったのだが、カクのした力の限りの拒絶は受け入れられたようで、下着類は入っていなかった。胸を撫でおろす。
「まずはパンツを買わんとのう」
呟いてみても一人。返事はない。物音ひとつしない部屋を眺めて、また少ない荷物に視線を落とす。さて、この部屋には他に何が必要なのか。生きていくのに必要な諸々はすでに子供の頃から仕込まれている。グアンハオでは掃除洗濯炊事は当番制だ。だが、自分で選んで揃える、ということはしたことがなかった。施設にはすでに生きるのに必要なものは揃っていたし、それ以上のものを欲しがるということは許されていない。欲しい、という気持ちもよくわからなかった。施設にあってこの部屋にないもの、をピックアップしていく。
窓からはこの島のシンボルである大噴水が見え、ああ、カーテンがいるかと思う。コーヒーでも飲むかと立ち上がろうとしてマグカップもコーヒー豆もミルもケトルもないことに気づく。気づいて、買い足していく。これが生活か、と思った。全部自分で決める。ふと、ある二文字が心に躍って、思わず口の端があがる。
「待てよ、これからはパンツの色も考えにゃならんのか?」
面倒じゃのう、と思いつつ緩む口元はそのままにした。ついでに話相手の観葉植物でも見てみるか、とカクは黒いティーシャツを脱いで「好青年」として出かける準備を始める。
仮初でも、束の間でも構わない。この程度の代償で自由が手に入るなら。おしまい
いろいろ考えたいふたりvol.01
真夏の葬送 #ルフィ
いつも親切にしてくれたおじいちゃんが亡くなって、お別れの場があるとマキノさんから教えてもらった。私も行ってみてかまわないらしい。
おじいちゃんはいつも軒先の椅子に腰かけて、本を読んだり昼寝をしたり、流れる雲を見て過ごしていた。犬や猫や子供を見かけると「おなかすいていないか」と心配して、犬や猫にはよく逃げられていたが、子供はクッキーや果物を少しだけもらって喜んだ。大人には「大きくなったな」と声をかけていることが多く、私もある日「大きくなったな」と声をかけられ、ああ、もう私は大人になったのかと、こんなところで実感するなどした。そんなおじいちゃんとのお別れだ。
真夏のこうした会は初めてで、私は黒い半袖のワンピースを選ぶ。こげ茶色の地面の影は伸びることなく、すぐ足元にとどまっていた。頭のてっぺんがじりじりと灼け、髪の毛が焦げるんじゃないかと心配になる。少し歩くと、道の先に見慣れた麦わら帽子を見つけた。
「ルフィもおじいちゃんのおうち?」
挨拶もしないうちにそう声をかけたのは、ルフィが黒いシャツと黒いスラックスを身に着けていたからだ。振り向いたルフィは「おお」と短くそれだけ言った。失礼ながら、ルフィがちゃんと黒い服を着ていることに驚いてしまう。地面の影よりずっと黒いその服は、意外にもルフィによく似合っていた。不謹慎なのは重々承知の上で、おじいちゃんごめんねと心の中で謝罪しながら、ルフィったら格好いいじゃんか、とばしばし背中を叩きたくなる。
ルフィは黒い長袖のシャツを腕まくりして、シャツの裾はスラックスにしまい込み、それをこれまた黒いベルトできゅっと締めていた。麦わら帽子と草履はいつものルフィで、それもまた彼らしいなと思う。
「こういうのは“ちゃんと”だろ? マキノに教わったんだ」
ルフィはなんだかさっぱりとした笑顔でそう言った。「じいさんには、よく食いもん貰ってたからな」と呟いたルフィも、私と同じようにいつの間にか大人になっていたのかもしれない。
おじいちゃんのおうちに着くと、おじいちゃんの息子さんが時折涙を浮かべつつも、口元には柔らかな笑みをたたえながら参列者の人たちと話していた。おじいちゃんは大往生で、ご家族はみな覚悟が出来ていたのだという。おうちには、私たちのようにおじいちゃんにおなかをすかせていないか心配された元・子供も何人か来ていた。おうちに着いたルフィは家の中をぐるっと見回して棺を見つけると、大股ですたすたとまっすぐおじいちゃんに会いに行った。そして、棺の中のおじいちゃんに一言、二言声をかけて、また戻ってくる。
「よし」
ルフィは満足そうにしていて今にも帰りそうだったので、私も慌てておじいちゃんのそばにそっと足を進めた。
棺の中のおじいちゃんは真っ白で、正直びっくりした。こんな肌の色は初めて見る。このおじいちゃんに、まるで生きていた時みたいな自然さで声をかけていたルフィにも恐れ入った。今日はルフィに驚かされてばかりだ。気を取り直した私もおじいちゃんにそっと話しかけるが、おじいちゃんは何も言わない。
帰り道の空の青さは残酷なほどだった。おじいちゃんの息子さんは、この空の下で思う存分悲しみ、泣けるだろうか。私なら泣けないかもしれない。抜けるように空が青くて、忌々しいほどに晴れていて、太陽が燦々と照りつけて、吹く風は無く、黒く濃い影法師が、太く短く、足元で戯れている、こんな良き夏の日に。
ルフィは、道の真ん中で立ち止まると、軽く腰に手を当て、雲一つない青を見上げて微笑んだ。あまりに眩しい太陽に目を細めているだけかもしれないけれど、私には彼が笑っているようにしか見えない。そういえば、今日の彼はずっと笑っている。もちろん、歯を見せることはなかったけれど、口角がほころんでいた。
「ルフィ。なんで今日、あんまり悲しそうじゃないの?」
ルフィは空を仰ぎ見るのをやめて私に向き合った。なんて聞けばいいのかわからなくて、だいぶ失礼な聞き方になったが、ルフィは少し目を丸くしただけで腹を立てることはなく「じいさんが昔言ってたんだ」と前置きして教えてくれる。
「『わしは夏に死にたい。悲しむのも憚られるような夏の日に』ってよ。じいさんが死にたい日に死ねたなら良かったと思ったら」
笑っちまってたか、悪かったな。
ルフィは背伸びしながらそう言った後で、ところで「はばかられる」って何だ? と首を捻っている。
ルフィが教えてくれたおじいちゃんの言葉は、死の気配に鈍い私にもなんとなく理解できた。死にたい、はまだよくわからない。でも、今日という夏の日が、悲しみにそぐわないのはわかる気がした。おじいちゃんはみんなに悲しんでほしくなかったんだ、と思ったら、息子さんが涙ぐんでいるのを目にしても、棺の中の真っ白なおじいちゃんと対面してもこみ上げてくることのなかった涙が、急にせりあがってきた。最期まで優しいおじいちゃんだった。
「私のお葬式にもさ、今日の服で来てよ」
鼻をすすりながら私がそう言うとルフィは「当たり前だろ。ちゃんとするに決まってる」とちゃんと真面目な顔で約束してくれたので、私は安心して、生きていくことにする。
おしまい
いつも親切にしてくれたおじいちゃんが亡くなって、お別れの場があるとマキノさんから教えてもらった。私も行ってみてかまわないらしい。
おじいちゃんはいつも軒先の椅子に腰かけて、本を読んだり昼寝をしたり、流れる雲を見て過ごしていた。犬や猫や子供を見かけると「おなかすいていないか」と心配して、犬や猫にはよく逃げられていたが、子供はクッキーや果物を少しだけもらって喜んだ。大人には「大きくなったな」と声をかけていることが多く、私もある日「大きくなったな」と声をかけられ、ああ、もう私は大人になったのかと、こんなところで実感するなどした。そんなおじいちゃんとのお別れだ。
真夏のこうした会は初めてで、私は黒い半袖のワンピースを選ぶ。こげ茶色の地面の影は伸びることなく、すぐ足元にとどまっていた。頭のてっぺんがじりじりと灼け、髪の毛が焦げるんじゃないかと心配になる。少し歩くと、道の先に見慣れた麦わら帽子を見つけた。
「ルフィもおじいちゃんのおうち?」
挨拶もしないうちにそう声をかけたのは、ルフィが黒いシャツと黒いスラックスを身に着けていたからだ。振り向いたルフィは「おお」と短くそれだけ言った。失礼ながら、ルフィがちゃんと黒い服を着ていることに驚いてしまう。地面の影よりずっと黒いその服は、意外にもルフィによく似合っていた。不謹慎なのは重々承知の上で、おじいちゃんごめんねと心の中で謝罪しながら、ルフィったら格好いいじゃんか、とばしばし背中を叩きたくなる。
ルフィは黒い長袖のシャツを腕まくりして、シャツの裾はスラックスにしまい込み、それをこれまた黒いベルトできゅっと締めていた。麦わら帽子と草履はいつものルフィで、それもまた彼らしいなと思う。
「こういうのは“ちゃんと”だろ? マキノに教わったんだ」
ルフィはなんだかさっぱりとした笑顔でそう言った。「じいさんには、よく食いもん貰ってたからな」と呟いたルフィも、私と同じようにいつの間にか大人になっていたのかもしれない。
おじいちゃんのおうちに着くと、おじいちゃんの息子さんが時折涙を浮かべつつも、口元には柔らかな笑みをたたえながら参列者の人たちと話していた。おじいちゃんは大往生で、ご家族はみな覚悟が出来ていたのだという。おうちには、私たちのようにおじいちゃんにおなかをすかせていないか心配された元・子供も何人か来ていた。おうちに着いたルフィは家の中をぐるっと見回して棺を見つけると、大股ですたすたとまっすぐおじいちゃんに会いに行った。そして、棺の中のおじいちゃんに一言、二言声をかけて、また戻ってくる。
「よし」
ルフィは満足そうにしていて今にも帰りそうだったので、私も慌てておじいちゃんのそばにそっと足を進めた。
棺の中のおじいちゃんは真っ白で、正直びっくりした。こんな肌の色は初めて見る。このおじいちゃんに、まるで生きていた時みたいな自然さで声をかけていたルフィにも恐れ入った。今日はルフィに驚かされてばかりだ。気を取り直した私もおじいちゃんにそっと話しかけるが、おじいちゃんは何も言わない。
帰り道の空の青さは残酷なほどだった。おじいちゃんの息子さんは、この空の下で思う存分悲しみ、泣けるだろうか。私なら泣けないかもしれない。抜けるように空が青くて、忌々しいほどに晴れていて、太陽が燦々と照りつけて、吹く風は無く、黒く濃い影法師が、太く短く、足元で戯れている、こんな良き夏の日に。
ルフィは、道の真ん中で立ち止まると、軽く腰に手を当て、雲一つない青を見上げて微笑んだ。あまりに眩しい太陽に目を細めているだけかもしれないけれど、私には彼が笑っているようにしか見えない。そういえば、今日の彼はずっと笑っている。もちろん、歯を見せることはなかったけれど、口角がほころんでいた。
「ルフィ。なんで今日、あんまり悲しそうじゃないの?」
ルフィは空を仰ぎ見るのをやめて私に向き合った。なんて聞けばいいのかわからなくて、だいぶ失礼な聞き方になったが、ルフィは少し目を丸くしただけで腹を立てることはなく「じいさんが昔言ってたんだ」と前置きして教えてくれる。
「『わしは夏に死にたい。悲しむのも憚られるような夏の日に』ってよ。じいさんが死にたい日に死ねたなら良かったと思ったら」
笑っちまってたか、悪かったな。
ルフィは背伸びしながらそう言った後で、ところで「はばかられる」って何だ? と首を捻っている。
ルフィが教えてくれたおじいちゃんの言葉は、死の気配に鈍い私にもなんとなく理解できた。死にたい、はまだよくわからない。でも、今日という夏の日が、悲しみにそぐわないのはわかる気がした。おじいちゃんはみんなに悲しんでほしくなかったんだ、と思ったら、息子さんが涙ぐんでいるのを目にしても、棺の中の真っ白なおじいちゃんと対面してもこみ上げてくることのなかった涙が、急にせりあがってきた。最期まで優しいおじいちゃんだった。
「私のお葬式にもさ、今日の服で来てよ」
鼻をすすりながら私がそう言うとルフィは「当たり前だろ。ちゃんとするに決まってる」とちゃんと真面目な顔で約束してくれたので、私は安心して、生きていくことにする。
おしまい
やがて君はすぐに #カク
春が少し落ち着いたこの時期は新しいお客さんが多くなる。新生活を始めた人たちの気持ちと生活が少し落ち着いて、そろそろ髪でも切ろうかと思い始める頃だから。どんな新天地に来ようと、髪は否応なしに伸びる。爪と違って自分の髪を自分で切って整えられる人は少ないから、私でもなんとか食い逸れることなくこの水の都で生きている。
この島はグランドラインにある島には珍しく、他の島との行き来が比較的容易だ。それは我ら島民が全世界に誇る「海列車」のおかげ。「カーニバルの町」サン・ファルド、「春の女王の町」セント・ポプラ、「美食の町」プッチ、そして「司法の島」エニエス・ロビーには海列車で行き来することが出来る。だから、これも珍しくない。
「予約しとらんのじゃけど」
店のドアを開け身体を半分店の中に入れながら言ったその人は、新規のお客さんで、肩より長いオレンジ色の巻き毛をなびかせながらこちらの返事を待った。「大丈夫です。どうぞ」と店内に促すと、彼は「おお、良かった。助かったわい」と言いながら頭がぶつからないように屈んで、店のドアをくぐった。
その人、と思ったけれど訂正する。すらっと伸びた手足や肩の広さと逞しさ、軽やかな足取りと、何より初めての店でも物怖じしない佇まいから、働き始めた若い男性かと思ったけれど店内で見上げるようにして対峙した「その子」の顔つきには、子供らしいあどけなさが残っていた。
「こちらにどうぞ」
「よろしくどうぞ」
大人びた口調も、彼の年齢を誤認させる一つの要因かもしれない。彼は、初対面で、明らかに大人である私に対して、敬語は使わなかった。でも、生意気、とも違う。彼の言葉からは丁寧さとこちらへの敬意を十分に感じられたから不思議だった。
椅子に腰を下ろした彼の首にタオルを巻いて肩からケープをかける。鏡越しに「ご希望は?」と問うと「短くしたくて」ときっぱりとした声音で返ってきた。どれくらい短くしたいのか、重ねて質問すると「ばっさり」と一言。これ以外ない、という意志を感じる希望だった。綺麗に手入れをされてきたことが想像できる髪を手で梳くようにしながら、念のため最後の確認をする。
「本当にいいのですか? 何か理由があって伸ばしていたのでは?」
「勘が良いのう。なんでそんなことわかるんじゃ?」
「おや、当たりましたか。なんとなく、ですけど。でも、毛先まで手入れもされてるし、量も調節されていますよね? ただ伸ばしていただけ、って感じには思えませんで」
プロはさすがじゃ、と目を丸くしながら何のてらいもなく真っ向から賞賛され、いい大人のくせにうっかり照れてしまう。でも、こんなにまっすぐなのは久しぶりだ。深い森の中、差し込む太陽の光に向かってまっすぐに伸びていく若木を思わせる子だなと感動する。
指通りのいい髪の感触を確かめるようにしていると、彼が髪を切る理由をぽつぽつと話し始めた。
「まあ、その……。目指してた大人がこんな髪での。じゃからまあ、真似して伸ばしとったんじゃけど」
少し言いにくそうなのは照れているからだとわかったので、ふんふん、と詮索はせずに淡々と聞くように努める。
「もう、いいんですか?」
「この巻き毛が厄介での! 扱いが大変なんじゃ! 思ってたのとは全然違うし」
「へえ? その人はどんな感じだったんです?」
「昔は肩くらいまでの長さでまっすぐじゃったのう。伸ばしたら癖でも出たのか、今は緩くふわふわしとるけど」
「お客様も……あ、お名前を聞いても?」
「カクじゃ」
「カクさんも十分お似合いですけど、こういうのは自分で納得出来ないとだめですもんね。それに、もう『絶対切る』って決めてきているでしょう?」
お客様もといカクさんはまたしても「さすがプロじゃのう」と先ほどと全く同じ調子で感心してくれた。私はうっかりうぬぼれないよう、鋏を握りしめ、気を引き締める。
「じゃあ、切りますね。後ろとサイドは短めにして、トップは癖を生かして、束感が出るようにサイドよりは少し長さを残す感じでいいですか?」
「よろしく」
カクさんの短い返事を合図にして、ジャキン、と勢いよく鋏をいれていくと、カクさんの豊かなオレンジ色の巻き毛は呆気なく床に落ちていく。確かに髪質は柔らかくて、意外と細く、扱いは大変かもしれない。でも、とても綺麗な髪色で、せっかくここまで伸ばしていたのに惜しいなとも思った。
「髪を切りたくなったのはもう一つ理由があっての」
カクさんは私がちょっとだけ残念に思っているのに気がついたのか、髪を切りに来た二つ目の理由を教えてくれる。
「あら。二つ目。それは当てられませんでした」
「ワハハ。実はの、もう少ししたら新しい仕事に就くんじゃけど」
「まあ、それはドキドキしますね。髪が長いとそのお仕事に差し支えますか?」
「それもあるし、まあ。なんというか」
カクさんはそこで言葉を切って、わずかに間を取った後、笑顔のまま「不安で」と続けた。カクさんは、その時だけ小さな子供みたいになった。私は手を止めず、彼の顔もあまり見ないようにして「働くのは初めて?」とだけ尋ねる。
「そうじゃなあ。今までは訓練ばかりで」
「そうですか。それは確かに不安になりますねえ。誰でも初めては不安です」
「じゃろう? 髪を切れば少しは気分もさっぱりしていいかなと思っての」
「名案だと思いますよ」
「前髪は?」と問うと「短めで」と、髪形に関しては迷いなく答えが返ってくる。それならば、と私もさくさく切っていった。ある程度、長さを決めて、毛先を微調整する。鋏をカクさんの顔の前に持ってくると、カクさんは静かに目を閉じた。私も毛先に集中する。
シャキン、シャキン、一定のリズムが店に響いた。カクさんはずっと目を閉じている。
そして、目尻の方でシャキン、と最後の鋏を入れ終わるとカクさんはすっと目を開けた。先ほど、子供みたいな顔をしていたのが嘘のよう。丸い瞳がまっすぐ鏡を見つめている。
「わしに務まるじゃろうか」
カクさんは鏡の中の自分に問いかけていた。
「ええ、もちろん」
私は即答した。鏡の中のカクさんが目を丸くする。
カクさんは私の飾り気のない返事に驚きながら「そうか! プロが言うなら安心じゃな」と歯を見せて笑った。
「いかがでしょう?」
「おお!」
その一言で、カクさんが新しい髪形を気に入ってくれたのが分かり、内心ほっとする。
「カクさんはお顔が小さいから、短いのもよくお似合いです」
「おお……。新鮮じゃ。あと頭が軽い!」
「そうでしょうとも」
カクさんが珍しそうに手でわしわしと頭をかいた。
「お姉さん、ありがとう」
今日一番の笑顔で店を出ていくカクさんは、もう大人になってしまっていた。この短い時間で、あっという間に。床に落ちている、さっきまでは彼だったものを集めながら、カクさんがなりたい大人になれるといいな、と切に思う。おしまい
春が少し落ち着いたこの時期は新しいお客さんが多くなる。新生活を始めた人たちの気持ちと生活が少し落ち着いて、そろそろ髪でも切ろうかと思い始める頃だから。どんな新天地に来ようと、髪は否応なしに伸びる。爪と違って自分の髪を自分で切って整えられる人は少ないから、私でもなんとか食い逸れることなくこの水の都で生きている。
この島はグランドラインにある島には珍しく、他の島との行き来が比較的容易だ。それは我ら島民が全世界に誇る「海列車」のおかげ。「カーニバルの町」サン・ファルド、「春の女王の町」セント・ポプラ、「美食の町」プッチ、そして「司法の島」エニエス・ロビーには海列車で行き来することが出来る。だから、これも珍しくない。
「予約しとらんのじゃけど」
店のドアを開け身体を半分店の中に入れながら言ったその人は、新規のお客さんで、肩より長いオレンジ色の巻き毛をなびかせながらこちらの返事を待った。「大丈夫です。どうぞ」と店内に促すと、彼は「おお、良かった。助かったわい」と言いながら頭がぶつからないように屈んで、店のドアをくぐった。
その人、と思ったけれど訂正する。すらっと伸びた手足や肩の広さと逞しさ、軽やかな足取りと、何より初めての店でも物怖じしない佇まいから、働き始めた若い男性かと思ったけれど店内で見上げるようにして対峙した「その子」の顔つきには、子供らしいあどけなさが残っていた。
「こちらにどうぞ」
「よろしくどうぞ」
大人びた口調も、彼の年齢を誤認させる一つの要因かもしれない。彼は、初対面で、明らかに大人である私に対して、敬語は使わなかった。でも、生意気、とも違う。彼の言葉からは丁寧さとこちらへの敬意を十分に感じられたから不思議だった。
椅子に腰を下ろした彼の首にタオルを巻いて肩からケープをかける。鏡越しに「ご希望は?」と問うと「短くしたくて」ときっぱりとした声音で返ってきた。どれくらい短くしたいのか、重ねて質問すると「ばっさり」と一言。これ以外ない、という意志を感じる希望だった。綺麗に手入れをされてきたことが想像できる髪を手で梳くようにしながら、念のため最後の確認をする。
「本当にいいのですか? 何か理由があって伸ばしていたのでは?」
「勘が良いのう。なんでそんなことわかるんじゃ?」
「おや、当たりましたか。なんとなく、ですけど。でも、毛先まで手入れもされてるし、量も調節されていますよね? ただ伸ばしていただけ、って感じには思えませんで」
プロはさすがじゃ、と目を丸くしながら何のてらいもなく真っ向から賞賛され、いい大人のくせにうっかり照れてしまう。でも、こんなにまっすぐなのは久しぶりだ。深い森の中、差し込む太陽の光に向かってまっすぐに伸びていく若木を思わせる子だなと感動する。
指通りのいい髪の感触を確かめるようにしていると、彼が髪を切る理由をぽつぽつと話し始めた。
「まあ、その……。目指してた大人がこんな髪での。じゃからまあ、真似して伸ばしとったんじゃけど」
少し言いにくそうなのは照れているからだとわかったので、ふんふん、と詮索はせずに淡々と聞くように努める。
「もう、いいんですか?」
「この巻き毛が厄介での! 扱いが大変なんじゃ! 思ってたのとは全然違うし」
「へえ? その人はどんな感じだったんです?」
「昔は肩くらいまでの長さでまっすぐじゃったのう。伸ばしたら癖でも出たのか、今は緩くふわふわしとるけど」
「お客様も……あ、お名前を聞いても?」
「カクじゃ」
「カクさんも十分お似合いですけど、こういうのは自分で納得出来ないとだめですもんね。それに、もう『絶対切る』って決めてきているでしょう?」
お客様もといカクさんはまたしても「さすがプロじゃのう」と先ほどと全く同じ調子で感心してくれた。私はうっかりうぬぼれないよう、鋏を握りしめ、気を引き締める。
「じゃあ、切りますね。後ろとサイドは短めにして、トップは癖を生かして、束感が出るようにサイドよりは少し長さを残す感じでいいですか?」
「よろしく」
カクさんの短い返事を合図にして、ジャキン、と勢いよく鋏をいれていくと、カクさんの豊かなオレンジ色の巻き毛は呆気なく床に落ちていく。確かに髪質は柔らかくて、意外と細く、扱いは大変かもしれない。でも、とても綺麗な髪色で、せっかくここまで伸ばしていたのに惜しいなとも思った。
「髪を切りたくなったのはもう一つ理由があっての」
カクさんは私がちょっとだけ残念に思っているのに気がついたのか、髪を切りに来た二つ目の理由を教えてくれる。
「あら。二つ目。それは当てられませんでした」
「ワハハ。実はの、もう少ししたら新しい仕事に就くんじゃけど」
「まあ、それはドキドキしますね。髪が長いとそのお仕事に差し支えますか?」
「それもあるし、まあ。なんというか」
カクさんはそこで言葉を切って、わずかに間を取った後、笑顔のまま「不安で」と続けた。カクさんは、その時だけ小さな子供みたいになった。私は手を止めず、彼の顔もあまり見ないようにして「働くのは初めて?」とだけ尋ねる。
「そうじゃなあ。今までは訓練ばかりで」
「そうですか。それは確かに不安になりますねえ。誰でも初めては不安です」
「じゃろう? 髪を切れば少しは気分もさっぱりしていいかなと思っての」
「名案だと思いますよ」
「前髪は?」と問うと「短めで」と、髪形に関しては迷いなく答えが返ってくる。それならば、と私もさくさく切っていった。ある程度、長さを決めて、毛先を微調整する。鋏をカクさんの顔の前に持ってくると、カクさんは静かに目を閉じた。私も毛先に集中する。
シャキン、シャキン、一定のリズムが店に響いた。カクさんはずっと目を閉じている。
そして、目尻の方でシャキン、と最後の鋏を入れ終わるとカクさんはすっと目を開けた。先ほど、子供みたいな顔をしていたのが嘘のよう。丸い瞳がまっすぐ鏡を見つめている。
「わしに務まるじゃろうか」
カクさんは鏡の中の自分に問いかけていた。
「ええ、もちろん」
私は即答した。鏡の中のカクさんが目を丸くする。
カクさんは私の飾り気のない返事に驚きながら「そうか! プロが言うなら安心じゃな」と歯を見せて笑った。
「いかがでしょう?」
「おお!」
その一言で、カクさんが新しい髪形を気に入ってくれたのが分かり、内心ほっとする。
「カクさんはお顔が小さいから、短いのもよくお似合いです」
「おお……。新鮮じゃ。あと頭が軽い!」
「そうでしょうとも」
カクさんが珍しそうに手でわしわしと頭をかいた。
「お姉さん、ありがとう」
今日一番の笑顔で店を出ていくカクさんは、もう大人になってしまっていた。この短い時間で、あっという間に。床に落ちている、さっきまでは彼だったものを集めながら、カクさんがなりたい大人になれるといいな、と切に思う。おしまい
幕間の逢瀬 #カク
目の前のカクが「本当のカク」だというのなら、「私が好きだったカク」は誰だったのだろう。
私は社長の警護のために厳戒態勢となった職場に、あろうことか家の鍵を忘れてしまったので、物々しい雰囲気の職人さんたちに頭を下げ中に入れてもらい、彼らの殺気に気圧されながら、ロッカーに置き去りにしてしまったキーケースを取りに来ていた。
早く家に戻って避難の準備をしないと、と思いながらキーケースを確かに握りしめ、ロッカーを閉める。その瞬間、ドオンッ!というかなりの爆音とともに、窓ガラスがビリビリと震えた。私は心臓が止まってしまうんじゃないかと思うくらいびっくりして、ひいっ!と叫んで飛び上がった後は、怖くてそのままその場に蹲ってしまう。爆音にかき消されているけど、かすかに職人さんたちの怒号も聞こえてきた。
はやく、逃げなくちゃ……。今の爆音は、アイスバーグさんを暗殺しようとしている海賊が攻撃してきた音に違いない。なんだってよりによってこんな日に、私は家の鍵を忘れてしまったんだろう。焦れば焦るほど、足に力が入らなくて、余計に焦る。落ち着いて、落ち着いて……。
震える身体を自分でひしと抱きしめるようにして、一生懸命深呼吸をしていたら、喧噪に混じって、コツ、と小さな靴音がした。どうして私はこの混乱の最中、それを聞き取れたのか。
何気なくそちらに顔を向けると、髑髏の被り物をして、舞台衣装みたいな豪奢な衣装を纏った人が廊下の照明を背にして立っていた。明らかに異様だ。
海賊!? と私が恐怖を覚える前に、その人はもったいつけることなく、本当にあっさりと、髑髏を脱いだ。
「カク、じゃん……」
◆
髑髏を脱いだら、カクだった。
でも光を拒絶したかのように真っ黒な瞳は、私を映しているのかも危うくて、同じ人間が、こうも全くの別人みたいになるものなのかと驚く。
「なぜここに」
カクは、発していいと許されている文字数があるみたいに、本当に短く、ただ言った。
海賊じゃなくて、カクなんだから、私は安心していいはずだった。怖かった! と泣きついて、早く外に逃がしてもらえばいいのだ。頭ではそう思うのに、なぜだろう。目の前のカクが、私の知っているカクなら難なくしてくれるだろうそれを、してくれる気がしなかった。
こんなカクの目はみたことがないし、こんなカクの声は聞いたことがない。カクは私を私と認識できているのかな。なんだか道端の石ころをみるような目で私を見ている。
カクは私がなぜここにいるか、聞いたくせに興味がないようだった。ロッカールームの時計をちらりと見て、また私に視線を戻す。
「カクは、……その服、なに?」
「仕事じゃ」
「社長の護衛、ってこと?」
「いや」
「じゃあ、なに?」
「言いたくない」
「……どうして?」
「……今日だけは、嘘はつかんと決めた」
カクは答えるのに間を取ったが、その割に葛藤なぞ一切感じさせない平坦な声音だった。
今日“だけ”は? いつもあまり動かしていない頭が、今日はなんだかフル回転している。じゃあ、“今まで”は?
外は騒がしいはずなのに、私とカクだけが喧騒から遠いところにいて、なんだかぼんやりとした膜で覆われているみたいに、カクの声だけがはっきりと私に届いていた。
◆
カクは私のたった一人の同期で、瞬く間に出世したのにそれを鼻にかけることなく、いつも気さくで、付き合っても、5年経っても、初対面の「明るくて人懐っこくていい人だな」という印象は変わらなかった。
付き合ったり、5年経ったりしたら、思っていたよりずっと欠点が見えてくるものだと思うけれど、カクはあんまりそんなことがなかった。どんどんいい印象が追加されていくだけで、まあ少し、意外と子供っぽいところはあるかな? なんて思ったりもするけれど、彼の根っこにある人の好さや、温かさ、優しさなんかに比べたら、それは些末な欠点だったし、何より私はそれすら可愛いと思えて大好きだった。
それよりも、私の小さな器、すぐイライラしてしまうところ、天邪鬼で素直になれないところ、自分の欲に忠実なところ、そっちの方が問題だったはずなのに、奇特なカクはなぜだかそんな私もまるごと好きになってくれたらしい。私が度々自己嫌悪に陥り「カクだって、嫌でしょ? こんな女」と大層めんどうくさいことを聞いても「いや? 可愛いが?」と一蹴するのだ。毎回恐る恐る聞いて、毎回びっくりしていた。そんな素晴らしく人間が出来ているカクに好かれている、ということは、私を安心させ、私にとってかなりの自信となり、私という人間を少しずつ落ち着かせてくれたように思う。
頭が痛いといえば「それは辛いのう。動かすと痛いのか? じっとしていても痛いのか?」と。仕事で失敗したと言えば話を聞いてくれ「まあ確かにウカも確認不足だったところがあるかもしれんが、そもそもそれは先方の担当がアホじゃろ!? なんじゃそいつ」と。天気が良ければ「散歩にでも行かんか? 会社近くの花屋の隣に、雑貨屋が出来たんじゃと」と。雨が降れば「今度の休み、もし晴れたら一緒に海列車に乗りたいんじゃけど……」と。
こうやって毎日、重厚な木床を磨くように丁寧に、じっくり大事にされてきた。
でも、なんていうか私たちは、本当に普通だった。特別な出会いがあったわけでも、何か共通の趣味があったわけでも、私のピンチに彼が駆け付けてくれた、なんてこともなく。楽しいことも、嫌なこともある、でも死ぬほど辛いわけじゃない、そんな普通の毎日を、糸を紡ぐように淡々と、一定のリズムで過ごしてきた。
他愛ない会話の一つではあったけど、そういえば結婚の話もした。両親は亡くなっていて、孤児院のようなところで育ったというカク。その代わり、友達はたくさんいるから、カードを贈りたいと言っていた。もちろん料理はプッチで評判のお店に頼まんとな。式場はセント・ポプラで探そうか。新婚旅行はサン・ファルドかの? そんなふうに散々盛り上がったあとで、でもやっぱりお金ももったいないし、慎ましいのがいいんじゃないかなあ? あ、カードは絶対贈ろうね! と急に現実的になったりもした。
そうやって過ごしてきた私たちだ。今、目の前で起きていることは、これまでの平和な二人には起こりえないことだった。
◆
「私は家の鍵を忘れて……、取りにきたの」
「ほう」
今更の答えだったけど、カクは気にせず話を続けてくれる。
「カクは? どうしてここに?」
「ウカを見かけて追ってきた」
「仕事は大丈夫なの?」
「いや」
難なく受け答えできているけど、感情がみえない平坦な声音は、なんだか人を真似ている人形みたいだ。そこでふと、ああ、そうか。もしかしたら、誰かに操られているのかも。それなら少しだけ、納得できるかも。事情はよく分からないけれど、これはカクの意志じゃない。プログラムされた行動を忠実になぞっているだけ、なのかも。なんて思ったりもする。
「来るか?」
カクが冷たい床に蹲ったままの私を見下ろし問いかける。
「……どこに?」
「わしのそばに」
私を見下ろすカクを見上げて、そうか、もうカクは。
カクは、恐怖に蹲る私に駆け寄って、その膝を折り、優しく、でも、強く、抱きしめたりはしてくれないんだな、と唐突にすべてを理解したような気持ちになった。
ずっとカクに大事にされてきた私にとって、これはとても悲しいことだった。私が好きになったカクのいいところ、つまり、温かくて、安心できて、柔らかくて、気持ちが落ち着いてくる、そういうところが今は全く見えなくなっていた。後ろから光に照らされているカクは、ぽっかりと空いた暗くて深い、底の見えない穴のようだ。
「……私の、好きになった、カクは……いる?」
喉が張りついて、息がうまく吸えなくて、つっかえつっかえ、なんとか言う。
そしたら、それまで微動だにしなかったカクの眉が、瞳が、唇が、あっという間にぎゅっと辛そうになったから、ああこれ、操られているんじゃなかったんだって馬鹿な私でもわかってしまった。そして、なんて残酷な言葉なのかも。
カクの辛そうな顔を見た瞬間、私は、後悔の大波にざぶんと攫われ、足のつかない暗く深く冷たい大海原に身一つで投げ出された気持ちになった。
恐怖で動かなかった足が急に動くようになって、私はばね仕掛けの玩具みたいにカクに飛びついて、縋りついた。そして、溺れそうな人が助けを呼ぶみたいに必死に叫ぶ。
「違う! ごめん! カク、ごめん! 違う、違うの!」
「いや、わしが悪かった」
「違う! そうじゃなくて! 聞いて! 私はあなたをそこから──……」
慌てて謝っても、もう遅い。
カクが私の身体に意識を遠のかせる何かをしたみたいで、全然痛くないけど、瞼が下がってきて、視界が柔らかい闇に覆われていく。
違う、違うの。
今のあなたを嫌いになったんじゃない。
あなたについていけないんじゃなくて、あなたをそこから救ってあげたい。
できることなら、あなたにそんな顔をさせてしまう何かから遠ざけて、もう二度と近づけたくない。私があなたのそばにいるんじゃなくて、あなたを私のそばにおいて、辛くて怖くて悲しいものすべてから逃がして、守ってあげたい。そんな目をしなきゃいけないようなところにいてほしくない。
私が知っているカクだって、全部が嘘だったわけじゃなくて、カクの一部だったって思いたい。
私を見つけたら屈託のない笑顔で手を振りながら駆け寄ってくるあなた、美味しいものを一緒に食べて「美味しい」って嬉しそうなあなた、洗い立てのシーツを敷いたベッドに飛び込んで「太陽の匂いがする」って言いながら昼寝しちゃうあなた。死ぬまでずっと、そういうあなただけでいてほしい。
私、カクとならどこまでもいけるって思っていたけど、そうじゃなかった。今わかった。
闇に進むあなたについていく私じゃなくて、あなたをここに踏みとどまらせる私になりたかったな。
まあ、なれなかったけど……。そして、それがとても悲しくて涙が出たけど、カクが「痛かったか?」って勘違い、しないといいな。おしまい
目の前のカクが「本当のカク」だというのなら、「私が好きだったカク」は誰だったのだろう。
私は社長の警護のために厳戒態勢となった職場に、あろうことか家の鍵を忘れてしまったので、物々しい雰囲気の職人さんたちに頭を下げ中に入れてもらい、彼らの殺気に気圧されながら、ロッカーに置き去りにしてしまったキーケースを取りに来ていた。
早く家に戻って避難の準備をしないと、と思いながらキーケースを確かに握りしめ、ロッカーを閉める。その瞬間、ドオンッ!というかなりの爆音とともに、窓ガラスがビリビリと震えた。私は心臓が止まってしまうんじゃないかと思うくらいびっくりして、ひいっ!と叫んで飛び上がった後は、怖くてそのままその場に蹲ってしまう。爆音にかき消されているけど、かすかに職人さんたちの怒号も聞こえてきた。
はやく、逃げなくちゃ……。今の爆音は、アイスバーグさんを暗殺しようとしている海賊が攻撃してきた音に違いない。なんだってよりによってこんな日に、私は家の鍵を忘れてしまったんだろう。焦れば焦るほど、足に力が入らなくて、余計に焦る。落ち着いて、落ち着いて……。
震える身体を自分でひしと抱きしめるようにして、一生懸命深呼吸をしていたら、喧噪に混じって、コツ、と小さな靴音がした。どうして私はこの混乱の最中、それを聞き取れたのか。
何気なくそちらに顔を向けると、髑髏の被り物をして、舞台衣装みたいな豪奢な衣装を纏った人が廊下の照明を背にして立っていた。明らかに異様だ。
海賊!? と私が恐怖を覚える前に、その人はもったいつけることなく、本当にあっさりと、髑髏を脱いだ。
「カク、じゃん……」
◆
髑髏を脱いだら、カクだった。
でも光を拒絶したかのように真っ黒な瞳は、私を映しているのかも危うくて、同じ人間が、こうも全くの別人みたいになるものなのかと驚く。
「なぜここに」
カクは、発していいと許されている文字数があるみたいに、本当に短く、ただ言った。
海賊じゃなくて、カクなんだから、私は安心していいはずだった。怖かった! と泣きついて、早く外に逃がしてもらえばいいのだ。頭ではそう思うのに、なぜだろう。目の前のカクが、私の知っているカクなら難なくしてくれるだろうそれを、してくれる気がしなかった。
こんなカクの目はみたことがないし、こんなカクの声は聞いたことがない。カクは私を私と認識できているのかな。なんだか道端の石ころをみるような目で私を見ている。
カクは私がなぜここにいるか、聞いたくせに興味がないようだった。ロッカールームの時計をちらりと見て、また私に視線を戻す。
「カクは、……その服、なに?」
「仕事じゃ」
「社長の護衛、ってこと?」
「いや」
「じゃあ、なに?」
「言いたくない」
「……どうして?」
「……今日だけは、嘘はつかんと決めた」
カクは答えるのに間を取ったが、その割に葛藤なぞ一切感じさせない平坦な声音だった。
今日“だけ”は? いつもあまり動かしていない頭が、今日はなんだかフル回転している。じゃあ、“今まで”は?
外は騒がしいはずなのに、私とカクだけが喧騒から遠いところにいて、なんだかぼんやりとした膜で覆われているみたいに、カクの声だけがはっきりと私に届いていた。
◆
カクは私のたった一人の同期で、瞬く間に出世したのにそれを鼻にかけることなく、いつも気さくで、付き合っても、5年経っても、初対面の「明るくて人懐っこくていい人だな」という印象は変わらなかった。
付き合ったり、5年経ったりしたら、思っていたよりずっと欠点が見えてくるものだと思うけれど、カクはあんまりそんなことがなかった。どんどんいい印象が追加されていくだけで、まあ少し、意外と子供っぽいところはあるかな? なんて思ったりもするけれど、彼の根っこにある人の好さや、温かさ、優しさなんかに比べたら、それは些末な欠点だったし、何より私はそれすら可愛いと思えて大好きだった。
それよりも、私の小さな器、すぐイライラしてしまうところ、天邪鬼で素直になれないところ、自分の欲に忠実なところ、そっちの方が問題だったはずなのに、奇特なカクはなぜだかそんな私もまるごと好きになってくれたらしい。私が度々自己嫌悪に陥り「カクだって、嫌でしょ? こんな女」と大層めんどうくさいことを聞いても「いや? 可愛いが?」と一蹴するのだ。毎回恐る恐る聞いて、毎回びっくりしていた。そんな素晴らしく人間が出来ているカクに好かれている、ということは、私を安心させ、私にとってかなりの自信となり、私という人間を少しずつ落ち着かせてくれたように思う。
頭が痛いといえば「それは辛いのう。動かすと痛いのか? じっとしていても痛いのか?」と。仕事で失敗したと言えば話を聞いてくれ「まあ確かにウカも確認不足だったところがあるかもしれんが、そもそもそれは先方の担当がアホじゃろ!? なんじゃそいつ」と。天気が良ければ「散歩にでも行かんか? 会社近くの花屋の隣に、雑貨屋が出来たんじゃと」と。雨が降れば「今度の休み、もし晴れたら一緒に海列車に乗りたいんじゃけど……」と。
こうやって毎日、重厚な木床を磨くように丁寧に、じっくり大事にされてきた。
でも、なんていうか私たちは、本当に普通だった。特別な出会いがあったわけでも、何か共通の趣味があったわけでも、私のピンチに彼が駆け付けてくれた、なんてこともなく。楽しいことも、嫌なこともある、でも死ぬほど辛いわけじゃない、そんな普通の毎日を、糸を紡ぐように淡々と、一定のリズムで過ごしてきた。
他愛ない会話の一つではあったけど、そういえば結婚の話もした。両親は亡くなっていて、孤児院のようなところで育ったというカク。その代わり、友達はたくさんいるから、カードを贈りたいと言っていた。もちろん料理はプッチで評判のお店に頼まんとな。式場はセント・ポプラで探そうか。新婚旅行はサン・ファルドかの? そんなふうに散々盛り上がったあとで、でもやっぱりお金ももったいないし、慎ましいのがいいんじゃないかなあ? あ、カードは絶対贈ろうね! と急に現実的になったりもした。
そうやって過ごしてきた私たちだ。今、目の前で起きていることは、これまでの平和な二人には起こりえないことだった。
◆
「私は家の鍵を忘れて……、取りにきたの」
「ほう」
今更の答えだったけど、カクは気にせず話を続けてくれる。
「カクは? どうしてここに?」
「ウカを見かけて追ってきた」
「仕事は大丈夫なの?」
「いや」
難なく受け答えできているけど、感情がみえない平坦な声音は、なんだか人を真似ている人形みたいだ。そこでふと、ああ、そうか。もしかしたら、誰かに操られているのかも。それなら少しだけ、納得できるかも。事情はよく分からないけれど、これはカクの意志じゃない。プログラムされた行動を忠実になぞっているだけ、なのかも。なんて思ったりもする。
「来るか?」
カクが冷たい床に蹲ったままの私を見下ろし問いかける。
「……どこに?」
「わしのそばに」
私を見下ろすカクを見上げて、そうか、もうカクは。
カクは、恐怖に蹲る私に駆け寄って、その膝を折り、優しく、でも、強く、抱きしめたりはしてくれないんだな、と唐突にすべてを理解したような気持ちになった。
ずっとカクに大事にされてきた私にとって、これはとても悲しいことだった。私が好きになったカクのいいところ、つまり、温かくて、安心できて、柔らかくて、気持ちが落ち着いてくる、そういうところが今は全く見えなくなっていた。後ろから光に照らされているカクは、ぽっかりと空いた暗くて深い、底の見えない穴のようだ。
「……私の、好きになった、カクは……いる?」
喉が張りついて、息がうまく吸えなくて、つっかえつっかえ、なんとか言う。
そしたら、それまで微動だにしなかったカクの眉が、瞳が、唇が、あっという間にぎゅっと辛そうになったから、ああこれ、操られているんじゃなかったんだって馬鹿な私でもわかってしまった。そして、なんて残酷な言葉なのかも。
カクの辛そうな顔を見た瞬間、私は、後悔の大波にざぶんと攫われ、足のつかない暗く深く冷たい大海原に身一つで投げ出された気持ちになった。
恐怖で動かなかった足が急に動くようになって、私はばね仕掛けの玩具みたいにカクに飛びついて、縋りついた。そして、溺れそうな人が助けを呼ぶみたいに必死に叫ぶ。
「違う! ごめん! カク、ごめん! 違う、違うの!」
「いや、わしが悪かった」
「違う! そうじゃなくて! 聞いて! 私はあなたをそこから──……」
慌てて謝っても、もう遅い。
カクが私の身体に意識を遠のかせる何かをしたみたいで、全然痛くないけど、瞼が下がってきて、視界が柔らかい闇に覆われていく。
違う、違うの。
今のあなたを嫌いになったんじゃない。
あなたについていけないんじゃなくて、あなたをそこから救ってあげたい。
できることなら、あなたにそんな顔をさせてしまう何かから遠ざけて、もう二度と近づけたくない。私があなたのそばにいるんじゃなくて、あなたを私のそばにおいて、辛くて怖くて悲しいものすべてから逃がして、守ってあげたい。そんな目をしなきゃいけないようなところにいてほしくない。
私が知っているカクだって、全部が嘘だったわけじゃなくて、カクの一部だったって思いたい。
私を見つけたら屈託のない笑顔で手を振りながら駆け寄ってくるあなた、美味しいものを一緒に食べて「美味しい」って嬉しそうなあなた、洗い立てのシーツを敷いたベッドに飛び込んで「太陽の匂いがする」って言いながら昼寝しちゃうあなた。死ぬまでずっと、そういうあなただけでいてほしい。
私、カクとならどこまでもいけるって思っていたけど、そうじゃなかった。今わかった。
闇に進むあなたについていく私じゃなくて、あなたをここに踏みとどまらせる私になりたかったな。
まあ、なれなかったけど……。そして、それがとても悲しくて涙が出たけど、カクが「痛かったか?」って勘違い、しないといいな。おしまい
星が好きなの、嘘だけど #カク
かわいい、かわいい、かわいい!
今日もカクさんはかわいい。
ガレーラカンパニーの朝はそんなに早くないけど、私の朝はわりと早い。なぜなら、私がひそかに恋焦がれているカクさんが、始業より三十分くらい早く出勤するからだ。
カクさんは歩いて出勤することは稀で、大体空から降ってくる。だから、朝は本社の玄関先が唯一の目撃チャンスだ。今日はちょうど、本社の玄関を目指して歩いている私の数メートル先に、屋根からシュタッと降り立ってくるところを見られたからラッキー。このために早起きしたようなものだ。
カクさんは私の前を歩いていた秘書のカリファさんをめがけて着地したみたいで、カリファさんに眩しいほどの笑顔で「今日は朝から暑いのう」と話しかけている横顔が見える。ほら、かわいい。
カクさんは。お昼は余裕があれば外に出てお店で食べたり、社員食堂を利用したりしているみたいだけど、天気がいい日は職人さんたちと現場で軽食を食べていることが多いふうに思う。
だから私はわざと一番ドックを通って街に出る。さりげなくあたりを見回して、耳をそばだてて、カクさんたちがどのへんにいるかあたりをつけて、不自然じゃないくらいのルートを探して……。この動作にももう慣れた。見つけたら、遠くからなんとなく眺めて、近くを通るときは決してそちらを向かないようにする。
今日はまだ使っていない資材を椅子代わりに、パウリーさんとルッチさんと、三人でパニーニを頬張っているみたいだ。彼らの横を通り過ぎるとき、パウリーさんの「カクの食ってるやつの方が旨そうだな」という声が聞こえて、カクさんの「そうじゃろ? やらん」という楽しそうな声が続いた。ほら、顔が見えなくなってかわいい。
夕方は一番の運試しだ。そもそも毎日定時にあがっても、ほんの数分ずれるだけで見かけるのは難しくなる。工期の進捗次第では、私が帰路に着くころでも金槌の音が響いていることもあるし、私だって残業することもある。実は夕方にタイミングがあったことは一度もなかった。
今日は珍しく朝も昼も会えた(正しくは見かけた)から、さすがに帰るときまでなんて欲張りかなと思って、沈んでいく太陽で染まる空の青と赤のグラデーションを眺める。無理かもと思っていても、空に彼のシルエットが浮かび上がらないかと探してしまうのは、もはや習慣に近い。
そうやって、空を見上げながら歩を進めようとすると、
「おーい、落としたぞ」
と後ろから声をかけられて慌てて振り向いた。そしたら、
「カクさん!」
「そうじゃが」
なんでなんでなんで! いや、なんでってことはない。カクさんの手には、さっき取り出してバッグに仕舞ったと思った私のパスケースが握られていた。社員証を入れているパスケースだ。
となると、……社員証の写真、見られたかな? 採用されたときにぎこちない笑顔で撮った写真がずっと使われているから恥ずかしい。あんまり写りも良くないし……。そう思ったら、なんだか緊張してしまって、失礼なのはわかっているけど、カクさんの顔をまともに見られなくってしまう。
そもそも、仕事中にカクさんを見かけるだけで満足していたくらいの私だから、今日まで話したことなんて実はたった一度しかない。書棚の上に仕舞ってあった昔の書類を、通りかかったカクさんがひょいと取ってくれて、その時に交わした「ありがとうございます」だけだ。私は、それっぽっちの交流でまんまと射抜かれてしまったわけだけど。
今日は記念すべき二回目の会話だけど、あれ以上の接点もないし、そもそも私を私と認識しているかも疑わしいくらいなのだから、会話なんて続くわけがない。
「あ、ありがとうございます。助かりました……」
「社外じゃなくて良かったのう」
これで今回も終わり。
俯いてカクさんの顔を見られないまま、半ば震える手でパスケースを受け取る。そのままさらに深く腰を曲げてお辞儀をして、帰ろうとすると、なんとカクさんはそのまま横並びで一緒に歩いてくれるじゃないか。
あれ、これ一緒に帰る感じ? いや、全然いいけど! いいんだけど! むしろ嬉しいけど! どこまで?
カクさんの住んでいるところなんて、エリアですら知らない。どこまで一緒に歩いていいのかわからないから、曲がり角や分かれ道に来るたびに、「あ、の、私はこっちです」と小さな声で恐る恐る確認する羽目になる。
いつ、「じゃあ、ここで」と言われるかひやひやした。できることなら、もう少し。次の角まで。そう思いながら、一歩一歩、祈るように歩く。
カクさんは足が長いから、普通に歩いたら私は絶対ついていけないはずなのに、歩幅をぐっと狭めて歩いてくれているみたいで、私はカクさんに置いて行かれることもなく、とても自然にいつもの調子で歩けた。頭の斜め上の方からカクさんの声が落ちてくるのは初めてだ。
「ウカさんとこは、仕事は落ち着いたか?」
「そう、ですね。概ねは……、って、私の名前、知ってるんですか?」
「ん?」
「あ、さっきの社員証?」
「いや? 名前は前から知っとったぞ」
「え!? なんで……」
うっかり、カクさんの顔を見てしまった。カクさんは前を向いているから、目は合わない。
え、なんで私の名前を知っているんだろう? 絶対、と確信できるくらい、話したのはあの一度きりのはず。てことは、良くない噂でも耳に入ったのかな? でも、私みたいな目立たない社員が、どうやって噂の人物になれるというんだろう。全然わからなくて、縋るようにカクさんを見た。
「なんでって……、なんでじゃろうな」
カクさんはううん、と考え込むようにしたあと、「でも、ウカさんもわしの名前、知っとるじゃろう?」とぱっと花が開くように笑って、こちらを見た。
「カ、カクさんは、有名だからっ、……誰でも知ってますよ」
ちゃんと目が合ったのは初めてかもしれない。カクさんの笑顔は、まさに満面の笑みといった様子で、目は弓なりに細くなっていて、口は半月を横たえたみたいに大きく開いていて、白い歯が光る。それでも今、カクさんと私は目が合ってるな、ってわかった。
ずっと見ていたい。でも、ずっとは見ていられないからそっと前を向く。だって前を見て歩かなくちゃいけないし、顔は赤いと思うし、今気が付いたけどリップも塗り直してないから、たぶん色が落ちちゃってる。あれ? 唇ガサガサかも……。
「そうかのう。まあ、有名かはわからんが、そうか。確かによく街の子らに呼ばれるわい」
「じゃあ、……良くない、噂? とかですか? 私、何かしたでしょうか?」
「違う違う! ううん……、そんな誤解させるのも忍びない。白状するか」
「ぜひ」
「同じ部署のやつに聞いたんじゃ。あの子の名前は、って」
「え?」
またカクさんを見ちゃう。
シンプルじゃろ? カクさんは照れ臭そうに笑っているけど、私はそれどころじゃない。今度は“なんで聞いたの?”と新しい謎が増えただけだ。全然すっきりしない。
私にとってカクさんは仕事の出来る優秀な職長で、明るくて慕われているみんなの人気者で、誰にでも優しくて、気さくで、かわいくて、そういう存在だからこそ、遠くから眺めているだけでぽっと心に明かりが灯るような嬉しさがあって、出勤して帰るまでに僅かな時間でも見かけたらそれで十二分に幸せだったのだけど。
カクさんは照れついでに、といった様子で、おずおずと切り出した。
「……わしはウカさんの名前と、帰る時間以外も知りたいんじゃが」
「帰る、時間って……?」
「わしは帰るとき、よくウカさんを見かけとったよ」
後ろ姿じゃけど、と続く。
まさか後ろにいたなんて! ずっと空を見上げていたのは無駄だったのかとがっかりする気持ちと、やっぱりこれはちょっと、ひょっとして、ひょっとするかも、という気持ちとが綯交ぜになって気分の乱高下が激しい。
理由は全然わからないけど、カクさんは私の名前をわざわざ別のひとに聞いて、帰るときに私を見かけたら「ウカさんだ」と思ってくれるくらいには、私を認知しているようだ。いい方の興味、もたれてる?
「お近づきのしるしに、これから食事でもどうかのう?」
「ふふっ……、もう“お近づき”ました? これから、じゃなくて?」
「お、ちゃんと笑っとる。初めて見たかもしれん」
「んんっ、……私で、良ければ」
なんだか勝手にキラキラと憧れていた人の輪郭がくっきりとなってくる。
私も、カクさんをただ眺めて満足するだけじゃなくて、もっと色々知って、もっと好きになりたい。あれ? と思うようなこともあるかもしれないけど、きっとそれよりずっと好きなところがある気がする。
カクさんが、そうそう、と思い出したように聞いてきた。
「ウカさん、帰り道はよく空を見上げとるじゃろ? 星が好きなのか?」
あなたを探していたの、とはまだとても言えなくて、私はしばらく星が好きなふりをする羽目になる。おしまい
かわいい、かわいい、かわいい!
今日もカクさんはかわいい。
ガレーラカンパニーの朝はそんなに早くないけど、私の朝はわりと早い。なぜなら、私がひそかに恋焦がれているカクさんが、始業より三十分くらい早く出勤するからだ。
カクさんは歩いて出勤することは稀で、大体空から降ってくる。だから、朝は本社の玄関先が唯一の目撃チャンスだ。今日はちょうど、本社の玄関を目指して歩いている私の数メートル先に、屋根からシュタッと降り立ってくるところを見られたからラッキー。このために早起きしたようなものだ。
カクさんは私の前を歩いていた秘書のカリファさんをめがけて着地したみたいで、カリファさんに眩しいほどの笑顔で「今日は朝から暑いのう」と話しかけている横顔が見える。ほら、かわいい。
カクさんは。お昼は余裕があれば外に出てお店で食べたり、社員食堂を利用したりしているみたいだけど、天気がいい日は職人さんたちと現場で軽食を食べていることが多いふうに思う。
だから私はわざと一番ドックを通って街に出る。さりげなくあたりを見回して、耳をそばだてて、カクさんたちがどのへんにいるかあたりをつけて、不自然じゃないくらいのルートを探して……。この動作にももう慣れた。見つけたら、遠くからなんとなく眺めて、近くを通るときは決してそちらを向かないようにする。
今日はまだ使っていない資材を椅子代わりに、パウリーさんとルッチさんと、三人でパニーニを頬張っているみたいだ。彼らの横を通り過ぎるとき、パウリーさんの「カクの食ってるやつの方が旨そうだな」という声が聞こえて、カクさんの「そうじゃろ? やらん」という楽しそうな声が続いた。ほら、顔が見えなくなってかわいい。
夕方は一番の運試しだ。そもそも毎日定時にあがっても、ほんの数分ずれるだけで見かけるのは難しくなる。工期の進捗次第では、私が帰路に着くころでも金槌の音が響いていることもあるし、私だって残業することもある。実は夕方にタイミングがあったことは一度もなかった。
今日は珍しく朝も昼も会えた(正しくは見かけた)から、さすがに帰るときまでなんて欲張りかなと思って、沈んでいく太陽で染まる空の青と赤のグラデーションを眺める。無理かもと思っていても、空に彼のシルエットが浮かび上がらないかと探してしまうのは、もはや習慣に近い。
そうやって、空を見上げながら歩を進めようとすると、
「おーい、落としたぞ」
と後ろから声をかけられて慌てて振り向いた。そしたら、
「カクさん!」
「そうじゃが」
なんでなんでなんで! いや、なんでってことはない。カクさんの手には、さっき取り出してバッグに仕舞ったと思った私のパスケースが握られていた。社員証を入れているパスケースだ。
となると、……社員証の写真、見られたかな? 採用されたときにぎこちない笑顔で撮った写真がずっと使われているから恥ずかしい。あんまり写りも良くないし……。そう思ったら、なんだか緊張してしまって、失礼なのはわかっているけど、カクさんの顔をまともに見られなくってしまう。
そもそも、仕事中にカクさんを見かけるだけで満足していたくらいの私だから、今日まで話したことなんて実はたった一度しかない。書棚の上に仕舞ってあった昔の書類を、通りかかったカクさんがひょいと取ってくれて、その時に交わした「ありがとうございます」だけだ。私は、それっぽっちの交流でまんまと射抜かれてしまったわけだけど。
今日は記念すべき二回目の会話だけど、あれ以上の接点もないし、そもそも私を私と認識しているかも疑わしいくらいなのだから、会話なんて続くわけがない。
「あ、ありがとうございます。助かりました……」
「社外じゃなくて良かったのう」
これで今回も終わり。
俯いてカクさんの顔を見られないまま、半ば震える手でパスケースを受け取る。そのままさらに深く腰を曲げてお辞儀をして、帰ろうとすると、なんとカクさんはそのまま横並びで一緒に歩いてくれるじゃないか。
あれ、これ一緒に帰る感じ? いや、全然いいけど! いいんだけど! むしろ嬉しいけど! どこまで?
カクさんの住んでいるところなんて、エリアですら知らない。どこまで一緒に歩いていいのかわからないから、曲がり角や分かれ道に来るたびに、「あ、の、私はこっちです」と小さな声で恐る恐る確認する羽目になる。
いつ、「じゃあ、ここで」と言われるかひやひやした。できることなら、もう少し。次の角まで。そう思いながら、一歩一歩、祈るように歩く。
カクさんは足が長いから、普通に歩いたら私は絶対ついていけないはずなのに、歩幅をぐっと狭めて歩いてくれているみたいで、私はカクさんに置いて行かれることもなく、とても自然にいつもの調子で歩けた。頭の斜め上の方からカクさんの声が落ちてくるのは初めてだ。
「ウカさんとこは、仕事は落ち着いたか?」
「そう、ですね。概ねは……、って、私の名前、知ってるんですか?」
「ん?」
「あ、さっきの社員証?」
「いや? 名前は前から知っとったぞ」
「え!? なんで……」
うっかり、カクさんの顔を見てしまった。カクさんは前を向いているから、目は合わない。
え、なんで私の名前を知っているんだろう? 絶対、と確信できるくらい、話したのはあの一度きりのはず。てことは、良くない噂でも耳に入ったのかな? でも、私みたいな目立たない社員が、どうやって噂の人物になれるというんだろう。全然わからなくて、縋るようにカクさんを見た。
「なんでって……、なんでじゃろうな」
カクさんはううん、と考え込むようにしたあと、「でも、ウカさんもわしの名前、知っとるじゃろう?」とぱっと花が開くように笑って、こちらを見た。
「カ、カクさんは、有名だからっ、……誰でも知ってますよ」
ちゃんと目が合ったのは初めてかもしれない。カクさんの笑顔は、まさに満面の笑みといった様子で、目は弓なりに細くなっていて、口は半月を横たえたみたいに大きく開いていて、白い歯が光る。それでも今、カクさんと私は目が合ってるな、ってわかった。
ずっと見ていたい。でも、ずっとは見ていられないからそっと前を向く。だって前を見て歩かなくちゃいけないし、顔は赤いと思うし、今気が付いたけどリップも塗り直してないから、たぶん色が落ちちゃってる。あれ? 唇ガサガサかも……。
「そうかのう。まあ、有名かはわからんが、そうか。確かによく街の子らに呼ばれるわい」
「じゃあ、……良くない、噂? とかですか? 私、何かしたでしょうか?」
「違う違う! ううん……、そんな誤解させるのも忍びない。白状するか」
「ぜひ」
「同じ部署のやつに聞いたんじゃ。あの子の名前は、って」
「え?」
またカクさんを見ちゃう。
シンプルじゃろ? カクさんは照れ臭そうに笑っているけど、私はそれどころじゃない。今度は“なんで聞いたの?”と新しい謎が増えただけだ。全然すっきりしない。
私にとってカクさんは仕事の出来る優秀な職長で、明るくて慕われているみんなの人気者で、誰にでも優しくて、気さくで、かわいくて、そういう存在だからこそ、遠くから眺めているだけでぽっと心に明かりが灯るような嬉しさがあって、出勤して帰るまでに僅かな時間でも見かけたらそれで十二分に幸せだったのだけど。
カクさんは照れついでに、といった様子で、おずおずと切り出した。
「……わしはウカさんの名前と、帰る時間以外も知りたいんじゃが」
「帰る、時間って……?」
「わしは帰るとき、よくウカさんを見かけとったよ」
後ろ姿じゃけど、と続く。
まさか後ろにいたなんて! ずっと空を見上げていたのは無駄だったのかとがっかりする気持ちと、やっぱりこれはちょっと、ひょっとして、ひょっとするかも、という気持ちとが綯交ぜになって気分の乱高下が激しい。
理由は全然わからないけど、カクさんは私の名前をわざわざ別のひとに聞いて、帰るときに私を見かけたら「ウカさんだ」と思ってくれるくらいには、私を認知しているようだ。いい方の興味、もたれてる?
「お近づきのしるしに、これから食事でもどうかのう?」
「ふふっ……、もう“お近づき”ました? これから、じゃなくて?」
「お、ちゃんと笑っとる。初めて見たかもしれん」
「んんっ、……私で、良ければ」
なんだか勝手にキラキラと憧れていた人の輪郭がくっきりとなってくる。
私も、カクさんをただ眺めて満足するだけじゃなくて、もっと色々知って、もっと好きになりたい。あれ? と思うようなこともあるかもしれないけど、きっとそれよりずっと好きなところがある気がする。
カクさんが、そうそう、と思い出したように聞いてきた。
「ウカさん、帰り道はよく空を見上げとるじゃろ? 星が好きなのか?」
あなたを探していたの、とはまだとても言えなくて、私はしばらく星が好きなふりをする羽目になる。おしまい
「サンジさんの特別扱いは、特別扱いじゃないよね」
楽しくなるはずの夏の夜に似合わない不穏な表情で、隣の彼女が言った。海風が彼女の髪を攫っていく。彼女は鬱陶しそうにしながら、ぱらつく髪を耳にかけた。夜の海は吸い込まれそうな闇を宿していて、月の光だけでは照らし切れない。彼女の静かな怒りは、夜の海からきているように思えた。
今夜は沖合に碇を下ろして停泊している。なんでも、もう目の前に見えている島では今夜、花火が上がるらしい。それならば、障害物のない海からの方が綺麗に見えるのではというナミさんの発案だった。
島に出ているだろう屋台や出店に負けぬよう、料理を準備し、テーブルに並べて、あとは花火が上がるのを待つばかり。少しも待てない仲間たちは酒を片手にブルックの伴奏にあわせて陽気に歌っている。それに背を向け、海を、島を無言で見つめるウカちゃんに声をかけたらこれだ。
「サンジさんにとって、女の子はみんな特別でしょう? でも、それって、女の子ならみんな、だよね。特別でも何でもない」
何がトリガーになったのかわからない。
ナミさんやロビンちゃんに優しい笑顔を振りまいたのがよくなかったのか。エスコートの仕方がまずかったか。わかりやすく嫉妬に身を焦がすさまが可愛いと思えたのは、彼女のおかげだった。多くのレディ達は、おれの愛を都合よく利用するか、はたまた信用ならない男と無下にあしらうかで、それは、百パーセントおれの態度の問題だから、仕方がない。それもまた、よし。
でも、彼女は、おれの愛を真っ向から受け止めたうえで、こうもわかりやすく嫉妬してくれる。
「ならいっそ、普通にしてよ」
ドンッ! ドンッ! パチパチパチパチ……
「好きな子に普通になんて、出来ないよ」
「え? なに?」
ドンッ! ドン、ドンッ!
「好きな子に普通になんて、出来ないよ」
わざと花火の音に合わせて。彼女が諦めてくれるまで何度も。別に、嘘じゃないから聞こえても構わないけれど。聞こえたら聞こえたで、彼女はまた「嘘ばっかり」と言いながら、しぶしぶ機嫌を直してくれる気がする。
好きな子に普通になんて、出来ないよおしまい