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No.10, No.8, No.7, No.6, No.5, No.4, No.3[7件]
真夏の葬送 #ルフィ
いつも親切にしてくれたおじいちゃんが亡くなって、お別れの場があるとマキノさんから教えてもらった。私も行ってみてかまわないらしい。
おじいちゃんはいつも軒先の椅子に腰かけて、本を読んだり昼寝をしたり、流れる雲を見て過ごしていた。犬や猫や子供を見かけると「おなかすいていないか」と心配して、犬や猫にはよく逃げられていたが、子供はクッキーや果物を少しだけもらって喜んだ。大人には「大きくなったな」と声をかけていることが多く、私もある日「大きくなったな」と声をかけられ、ああ、もう私は大人になったのかと、こんなところで実感するなどした。そんなおじいちゃんとのお別れだ。
真夏のこうした会は初めてで、私は黒い半袖のワンピースを選ぶ。こげ茶色の地面の影は伸びることなく、すぐ足元にとどまっていた。頭のてっぺんがじりじりと灼け、髪の毛が焦げるんじゃないかと心配になる。少し歩くと、道の先に見慣れた麦わら帽子を見つけた。
「ルフィもおじいちゃんのおうち?」
挨拶もしないうちにそう声をかけたのは、ルフィが黒いシャツと黒いスラックスを身に着けていたからだ。振り向いたルフィは「おお」と短くそれだけ言った。失礼ながら、ルフィがちゃんと黒い服を着ていることに驚いてしまう。地面の影よりずっと黒いその服は、意外にもルフィによく似合っていた。不謹慎なのは重々承知の上で、おじいちゃんごめんねと心の中で謝罪しながら、ルフィったら格好いいじゃんか、とばしばし背中を叩きたくなる。
ルフィは黒い長袖のシャツを腕まくりして、シャツの裾はスラックスにしまい込み、それをこれまた黒いベルトできゅっと締めていた。麦わら帽子と草履はいつものルフィで、それもまた彼らしいなと思う。
「こういうのは“ちゃんと”だろ? マキノに教わったんだ」
ルフィはなんだかさっぱりとした笑顔でそう言った。「じいさんには、よく食いもん貰ってたからな」と呟いたルフィも、私と同じようにいつの間にか大人になっていたのかもしれない。
おじいちゃんのおうちに着くと、おじいちゃんの息子さんが時折涙を浮かべつつも、口元には柔らかな笑みをたたえながら参列者の人たちと話していた。おじいちゃんは大往生で、ご家族はみな覚悟が出来ていたのだという。おうちには、私たちのようにおじいちゃんにおなかをすかせていないか心配された元・子供も何人か来ていた。おうちに着いたルフィは家の中をぐるっと見回して棺を見つけると、大股ですたすたとまっすぐおじいちゃんに会いに行った。そして、棺の中のおじいちゃんに一言、二言声をかけて、また戻ってくる。
「よし」
ルフィは満足そうにしていて今にも帰りそうだったので、私も慌てておじいちゃんのそばにそっと足を進めた。
棺の中のおじいちゃんは真っ白で、正直びっくりした。こんな肌の色は初めて見る。このおじいちゃんに、まるで生きていた時みたいな自然さで声をかけていたルフィにも恐れ入った。今日はルフィに驚かされてばかりだ。気を取り直した私もおじいちゃんにそっと話しかけるが、おじいちゃんは何も言わない。
帰り道の空の青さは残酷なほどだった。おじいちゃんの息子さんは、この空の下で思う存分悲しみ、泣けるだろうか。私なら泣けないかもしれない。抜けるように空が青くて、忌々しいほどに晴れていて、太陽が燦々と照りつけて、吹く風は無く、黒く濃い影法師が、太く短く、足元で戯れている、こんな良き夏の日に。
ルフィは、道の真ん中で立ち止まると、軽く腰に手を当て、雲一つない青を見上げて微笑んだ。あまりに眩しい太陽に目を細めているだけかもしれないけれど、私には彼が笑っているようにしか見えない。そういえば、今日の彼はずっと笑っている。もちろん、歯を見せることはなかったけれど、口角がほころんでいた。
「ルフィ。なんで今日、あんまり悲しそうじゃないの?」
ルフィは空を仰ぎ見るのをやめて私に向き合った。なんて聞けばいいのかわからなくて、だいぶ失礼な聞き方になったが、ルフィは少し目を丸くしただけで腹を立てることはなく「じいさんが昔言ってたんだ」と前置きして教えてくれる。
「『わしは夏に死にたい。悲しむのも憚られるような夏の日に』ってよ。じいさんが死にたい日に死ねたなら良かったと思ったら」
笑っちまってたか、悪かったな。
ルフィは背伸びしながらそう言った後で、ところで「はばかられる」って何だ? と首を捻っている。
ルフィが教えてくれたおじいちゃんの言葉は、死の気配に鈍い私にもなんとなく理解できた。死にたい、はまだよくわからない。でも、今日という夏の日が、悲しみにそぐわないのはわかる気がした。おじいちゃんはみんなに悲しんでほしくなかったんだ、と思ったら、息子さんが涙ぐんでいるのを目にしても、棺の中の真っ白なおじいちゃんと対面してもこみ上げてくることのなかった涙が、急にせりあがってきた。最期まで優しいおじいちゃんだった。
「私のお葬式にもさ、今日の服で来てよ」
鼻をすすりながら私がそう言うとルフィは「当たり前だろ。ちゃんとするに決まってる」とちゃんと真面目な顔で約束してくれたので、私は安心して、生きていくことにする。
おしまい
いつも親切にしてくれたおじいちゃんが亡くなって、お別れの場があるとマキノさんから教えてもらった。私も行ってみてかまわないらしい。
おじいちゃんはいつも軒先の椅子に腰かけて、本を読んだり昼寝をしたり、流れる雲を見て過ごしていた。犬や猫や子供を見かけると「おなかすいていないか」と心配して、犬や猫にはよく逃げられていたが、子供はクッキーや果物を少しだけもらって喜んだ。大人には「大きくなったな」と声をかけていることが多く、私もある日「大きくなったな」と声をかけられ、ああ、もう私は大人になったのかと、こんなところで実感するなどした。そんなおじいちゃんとのお別れだ。
真夏のこうした会は初めてで、私は黒い半袖のワンピースを選ぶ。こげ茶色の地面の影は伸びることなく、すぐ足元にとどまっていた。頭のてっぺんがじりじりと灼け、髪の毛が焦げるんじゃないかと心配になる。少し歩くと、道の先に見慣れた麦わら帽子を見つけた。
「ルフィもおじいちゃんのおうち?」
挨拶もしないうちにそう声をかけたのは、ルフィが黒いシャツと黒いスラックスを身に着けていたからだ。振り向いたルフィは「おお」と短くそれだけ言った。失礼ながら、ルフィがちゃんと黒い服を着ていることに驚いてしまう。地面の影よりずっと黒いその服は、意外にもルフィによく似合っていた。不謹慎なのは重々承知の上で、おじいちゃんごめんねと心の中で謝罪しながら、ルフィったら格好いいじゃんか、とばしばし背中を叩きたくなる。
ルフィは黒い長袖のシャツを腕まくりして、シャツの裾はスラックスにしまい込み、それをこれまた黒いベルトできゅっと締めていた。麦わら帽子と草履はいつものルフィで、それもまた彼らしいなと思う。
「こういうのは“ちゃんと”だろ? マキノに教わったんだ」
ルフィはなんだかさっぱりとした笑顔でそう言った。「じいさんには、よく食いもん貰ってたからな」と呟いたルフィも、私と同じようにいつの間にか大人になっていたのかもしれない。
おじいちゃんのおうちに着くと、おじいちゃんの息子さんが時折涙を浮かべつつも、口元には柔らかな笑みをたたえながら参列者の人たちと話していた。おじいちゃんは大往生で、ご家族はみな覚悟が出来ていたのだという。おうちには、私たちのようにおじいちゃんにおなかをすかせていないか心配された元・子供も何人か来ていた。おうちに着いたルフィは家の中をぐるっと見回して棺を見つけると、大股ですたすたとまっすぐおじいちゃんに会いに行った。そして、棺の中のおじいちゃんに一言、二言声をかけて、また戻ってくる。
「よし」
ルフィは満足そうにしていて今にも帰りそうだったので、私も慌てておじいちゃんのそばにそっと足を進めた。
棺の中のおじいちゃんは真っ白で、正直びっくりした。こんな肌の色は初めて見る。このおじいちゃんに、まるで生きていた時みたいな自然さで声をかけていたルフィにも恐れ入った。今日はルフィに驚かされてばかりだ。気を取り直した私もおじいちゃんにそっと話しかけるが、おじいちゃんは何も言わない。
帰り道の空の青さは残酷なほどだった。おじいちゃんの息子さんは、この空の下で思う存分悲しみ、泣けるだろうか。私なら泣けないかもしれない。抜けるように空が青くて、忌々しいほどに晴れていて、太陽が燦々と照りつけて、吹く風は無く、黒く濃い影法師が、太く短く、足元で戯れている、こんな良き夏の日に。
ルフィは、道の真ん中で立ち止まると、軽く腰に手を当て、雲一つない青を見上げて微笑んだ。あまりに眩しい太陽に目を細めているだけかもしれないけれど、私には彼が笑っているようにしか見えない。そういえば、今日の彼はずっと笑っている。もちろん、歯を見せることはなかったけれど、口角がほころんでいた。
「ルフィ。なんで今日、あんまり悲しそうじゃないの?」
ルフィは空を仰ぎ見るのをやめて私に向き合った。なんて聞けばいいのかわからなくて、だいぶ失礼な聞き方になったが、ルフィは少し目を丸くしただけで腹を立てることはなく「じいさんが昔言ってたんだ」と前置きして教えてくれる。
「『わしは夏に死にたい。悲しむのも憚られるような夏の日に』ってよ。じいさんが死にたい日に死ねたなら良かったと思ったら」
笑っちまってたか、悪かったな。
ルフィは背伸びしながらそう言った後で、ところで「はばかられる」って何だ? と首を捻っている。
ルフィが教えてくれたおじいちゃんの言葉は、死の気配に鈍い私にもなんとなく理解できた。死にたい、はまだよくわからない。でも、今日という夏の日が、悲しみにそぐわないのはわかる気がした。おじいちゃんはみんなに悲しんでほしくなかったんだ、と思ったら、息子さんが涙ぐんでいるのを目にしても、棺の中の真っ白なおじいちゃんと対面してもこみ上げてくることのなかった涙が、急にせりあがってきた。最期まで優しいおじいちゃんだった。
「私のお葬式にもさ、今日の服で来てよ」
鼻をすすりながら私がそう言うとルフィは「当たり前だろ。ちゃんとするに決まってる」とちゃんと真面目な顔で約束してくれたので、私は安心して、生きていくことにする。
おしまい
やがて君はすぐに #カク
春が少し落ち着いたこの時期は新しいお客さんが多くなる。新生活を始めた人たちの気持ちと生活が少し落ち着いて、そろそろ髪でも切ろうかと思い始める頃だから。どんな新天地に来ようと、髪は否応なしに伸びる。爪と違って自分の髪を自分で切って整えられる人は少ないから、私でもなんとか食い逸れることなくこの水の都で生きている。
この島はグランドラインにある島には珍しく、他の島との行き来が比較的容易だ。それは我ら島民が全世界に誇る「海列車」のおかげ。「カーニバルの町」サン・ファルド、「春の女王の町」セント・ポプラ、「美食の町」プッチ、そして「司法の島」エニエス・ロビーには海列車で行き来することが出来る。だから、これも珍しくない。
「予約しとらんのじゃけど」
店のドアを開け身体を半分店の中に入れながら言ったその人は、新規のお客さんで、肩より長いオレンジ色の巻き毛をなびかせながらこちらの返事を待った。「大丈夫です。どうぞ」と店内に促すと、彼は「おお、良かった。助かったわい」と言いながら頭がぶつからないように屈んで、店のドアをくぐった。
その人、と思ったけれど訂正する。すらっと伸びた手足や肩の広さと逞しさ、軽やかな足取りと、何より初めての店でも物怖じしない佇まいから、働き始めた若い男性かと思ったけれど店内で見上げるようにして対峙した「その子」の顔つきには、子供らしいあどけなさが残っていた。
「こちらにどうぞ」
「よろしくどうぞ」
大人びた口調も、彼の年齢を誤認させる一つの要因かもしれない。彼は、初対面で、明らかに大人である私に対して、敬語は使わなかった。でも、生意気、とも違う。彼の言葉からは丁寧さとこちらへの敬意を十分に感じられたから不思議だった。
椅子に腰を下ろした彼の首にタオルを巻いて肩からケープをかける。鏡越しに「ご希望は?」と問うと「短くしたくて」ときっぱりとした声音で返ってきた。どれくらい短くしたいのか、重ねて質問すると「ばっさり」と一言。これ以外ない、という意志を感じる希望だった。綺麗に手入れをされてきたことが想像できる髪を手で梳くようにしながら、念のため最後の確認をする。
「本当にいいのですか? 何か理由があって伸ばしていたのでは?」
「勘が良いのう。なんでそんなことわかるんじゃ?」
「おや、当たりましたか。なんとなく、ですけど。でも、毛先まで手入れもされてるし、量も調節されていますよね? ただ伸ばしていただけ、って感じには思えませんで」
プロはさすがじゃ、と目を丸くしながら何のてらいもなく真っ向から賞賛され、いい大人のくせにうっかり照れてしまう。でも、こんなにまっすぐなのは久しぶりだ。深い森の中、差し込む太陽の光に向かってまっすぐに伸びていく若木を思わせる子だなと感動する。
指通りのいい髪の感触を確かめるようにしていると、彼が髪を切る理由をぽつぽつと話し始めた。
「まあ、その……。目指してた大人がこんな髪での。じゃからまあ、真似して伸ばしとったんじゃけど」
少し言いにくそうなのは照れているからだとわかったので、ふんふん、と詮索はせずに淡々と聞くように努める。
「もう、いいんですか?」
「この巻き毛が厄介での! 扱いが大変なんじゃ! 思ってたのとは全然違うし」
「へえ? その人はどんな感じだったんです?」
「昔は肩くらいまでの長さでまっすぐじゃったのう。伸ばしたら癖でも出たのか、今は緩くふわふわしとるけど」
「お客様も……あ、お名前を聞いても?」
「カクじゃ」
「カクさんも十分お似合いですけど、こういうのは自分で納得出来ないとだめですもんね。それに、もう『絶対切る』って決めてきているでしょう?」
お客様もといカクさんはまたしても「さすがプロじゃのう」と先ほどと全く同じ調子で感心してくれた。私はうっかりうぬぼれないよう、鋏を握りしめ、気を引き締める。
「じゃあ、切りますね。後ろとサイドは短めにして、トップは癖を生かして、束感が出るようにサイドよりは少し長さを残す感じでいいですか?」
「よろしく」
カクさんの短い返事を合図にして、ジャキン、と勢いよく鋏をいれていくと、カクさんの豊かなオレンジ色の巻き毛は呆気なく床に落ちていく。確かに髪質は柔らかくて、意外と細く、扱いは大変かもしれない。でも、とても綺麗な髪色で、せっかくここまで伸ばしていたのに惜しいなとも思った。
「髪を切りたくなったのはもう一つ理由があっての」
カクさんは私がちょっとだけ残念に思っているのに気がついたのか、髪を切りに来た二つ目の理由を教えてくれる。
「あら。二つ目。それは当てられませんでした」
「ワハハ。実はの、もう少ししたら新しい仕事に就くんじゃけど」
「まあ、それはドキドキしますね。髪が長いとそのお仕事に差し支えますか?」
「それもあるし、まあ。なんというか」
カクさんはそこで言葉を切って、わずかに間を取った後、笑顔のまま「不安で」と続けた。カクさんは、その時だけ小さな子供みたいになった。私は手を止めず、彼の顔もあまり見ないようにして「働くのは初めて?」とだけ尋ねる。
「そうじゃなあ。今までは訓練ばかりで」
「そうですか。それは確かに不安になりますねえ。誰でも初めては不安です」
「じゃろう? 髪を切れば少しは気分もさっぱりしていいかなと思っての」
「名案だと思いますよ」
「前髪は?」と問うと「短めで」と、髪形に関しては迷いなく答えが返ってくる。それならば、と私もさくさく切っていった。ある程度、長さを決めて、毛先を微調整する。鋏をカクさんの顔の前に持ってくると、カクさんは静かに目を閉じた。私も毛先に集中する。
シャキン、シャキン、一定のリズムが店に響いた。カクさんはずっと目を閉じている。
そして、目尻の方でシャキン、と最後の鋏を入れ終わるとカクさんはすっと目を開けた。先ほど、子供みたいな顔をしていたのが嘘のよう。丸い瞳がまっすぐ鏡を見つめている。
「わしに務まるじゃろうか」
カクさんは鏡の中の自分に問いかけていた。
「ええ、もちろん」
私は即答した。鏡の中のカクさんが目を丸くする。
カクさんは私の飾り気のない返事に驚きながら「そうか! プロが言うなら安心じゃな」と歯を見せて笑った。
「いかがでしょう?」
「おお!」
その一言で、カクさんが新しい髪形を気に入ってくれたのが分かり、内心ほっとする。
「カクさんはお顔が小さいから、短いのもよくお似合いです」
「おお……。新鮮じゃ。あと頭が軽い!」
「そうでしょうとも」
カクさんが珍しそうに手でわしわしと頭をかいた。
「お姉さん、ありがとう」
今日一番の笑顔で店を出ていくカクさんは、もう大人になってしまっていた。この短い時間で、あっという間に。床に落ちている、さっきまでは彼だったものを集めながら、カクさんがなりたい大人になれるといいな、と切に思う。おしまい
春が少し落ち着いたこの時期は新しいお客さんが多くなる。新生活を始めた人たちの気持ちと生活が少し落ち着いて、そろそろ髪でも切ろうかと思い始める頃だから。どんな新天地に来ようと、髪は否応なしに伸びる。爪と違って自分の髪を自分で切って整えられる人は少ないから、私でもなんとか食い逸れることなくこの水の都で生きている。
この島はグランドラインにある島には珍しく、他の島との行き来が比較的容易だ。それは我ら島民が全世界に誇る「海列車」のおかげ。「カーニバルの町」サン・ファルド、「春の女王の町」セント・ポプラ、「美食の町」プッチ、そして「司法の島」エニエス・ロビーには海列車で行き来することが出来る。だから、これも珍しくない。
「予約しとらんのじゃけど」
店のドアを開け身体を半分店の中に入れながら言ったその人は、新規のお客さんで、肩より長いオレンジ色の巻き毛をなびかせながらこちらの返事を待った。「大丈夫です。どうぞ」と店内に促すと、彼は「おお、良かった。助かったわい」と言いながら頭がぶつからないように屈んで、店のドアをくぐった。
その人、と思ったけれど訂正する。すらっと伸びた手足や肩の広さと逞しさ、軽やかな足取りと、何より初めての店でも物怖じしない佇まいから、働き始めた若い男性かと思ったけれど店内で見上げるようにして対峙した「その子」の顔つきには、子供らしいあどけなさが残っていた。
「こちらにどうぞ」
「よろしくどうぞ」
大人びた口調も、彼の年齢を誤認させる一つの要因かもしれない。彼は、初対面で、明らかに大人である私に対して、敬語は使わなかった。でも、生意気、とも違う。彼の言葉からは丁寧さとこちらへの敬意を十分に感じられたから不思議だった。
椅子に腰を下ろした彼の首にタオルを巻いて肩からケープをかける。鏡越しに「ご希望は?」と問うと「短くしたくて」ときっぱりとした声音で返ってきた。どれくらい短くしたいのか、重ねて質問すると「ばっさり」と一言。これ以外ない、という意志を感じる希望だった。綺麗に手入れをされてきたことが想像できる髪を手で梳くようにしながら、念のため最後の確認をする。
「本当にいいのですか? 何か理由があって伸ばしていたのでは?」
「勘が良いのう。なんでそんなことわかるんじゃ?」
「おや、当たりましたか。なんとなく、ですけど。でも、毛先まで手入れもされてるし、量も調節されていますよね? ただ伸ばしていただけ、って感じには思えませんで」
プロはさすがじゃ、と目を丸くしながら何のてらいもなく真っ向から賞賛され、いい大人のくせにうっかり照れてしまう。でも、こんなにまっすぐなのは久しぶりだ。深い森の中、差し込む太陽の光に向かってまっすぐに伸びていく若木を思わせる子だなと感動する。
指通りのいい髪の感触を確かめるようにしていると、彼が髪を切る理由をぽつぽつと話し始めた。
「まあ、その……。目指してた大人がこんな髪での。じゃからまあ、真似して伸ばしとったんじゃけど」
少し言いにくそうなのは照れているからだとわかったので、ふんふん、と詮索はせずに淡々と聞くように努める。
「もう、いいんですか?」
「この巻き毛が厄介での! 扱いが大変なんじゃ! 思ってたのとは全然違うし」
「へえ? その人はどんな感じだったんです?」
「昔は肩くらいまでの長さでまっすぐじゃったのう。伸ばしたら癖でも出たのか、今は緩くふわふわしとるけど」
「お客様も……あ、お名前を聞いても?」
「カクじゃ」
「カクさんも十分お似合いですけど、こういうのは自分で納得出来ないとだめですもんね。それに、もう『絶対切る』って決めてきているでしょう?」
お客様もといカクさんはまたしても「さすがプロじゃのう」と先ほどと全く同じ調子で感心してくれた。私はうっかりうぬぼれないよう、鋏を握りしめ、気を引き締める。
「じゃあ、切りますね。後ろとサイドは短めにして、トップは癖を生かして、束感が出るようにサイドよりは少し長さを残す感じでいいですか?」
「よろしく」
カクさんの短い返事を合図にして、ジャキン、と勢いよく鋏をいれていくと、カクさんの豊かなオレンジ色の巻き毛は呆気なく床に落ちていく。確かに髪質は柔らかくて、意外と細く、扱いは大変かもしれない。でも、とても綺麗な髪色で、せっかくここまで伸ばしていたのに惜しいなとも思った。
「髪を切りたくなったのはもう一つ理由があっての」
カクさんは私がちょっとだけ残念に思っているのに気がついたのか、髪を切りに来た二つ目の理由を教えてくれる。
「あら。二つ目。それは当てられませんでした」
「ワハハ。実はの、もう少ししたら新しい仕事に就くんじゃけど」
「まあ、それはドキドキしますね。髪が長いとそのお仕事に差し支えますか?」
「それもあるし、まあ。なんというか」
カクさんはそこで言葉を切って、わずかに間を取った後、笑顔のまま「不安で」と続けた。カクさんは、その時だけ小さな子供みたいになった。私は手を止めず、彼の顔もあまり見ないようにして「働くのは初めて?」とだけ尋ねる。
「そうじゃなあ。今までは訓練ばかりで」
「そうですか。それは確かに不安になりますねえ。誰でも初めては不安です」
「じゃろう? 髪を切れば少しは気分もさっぱりしていいかなと思っての」
「名案だと思いますよ」
「前髪は?」と問うと「短めで」と、髪形に関しては迷いなく答えが返ってくる。それならば、と私もさくさく切っていった。ある程度、長さを決めて、毛先を微調整する。鋏をカクさんの顔の前に持ってくると、カクさんは静かに目を閉じた。私も毛先に集中する。
シャキン、シャキン、一定のリズムが店に響いた。カクさんはずっと目を閉じている。
そして、目尻の方でシャキン、と最後の鋏を入れ終わるとカクさんはすっと目を開けた。先ほど、子供みたいな顔をしていたのが嘘のよう。丸い瞳がまっすぐ鏡を見つめている。
「わしに務まるじゃろうか」
カクさんは鏡の中の自分に問いかけていた。
「ええ、もちろん」
私は即答した。鏡の中のカクさんが目を丸くする。
カクさんは私の飾り気のない返事に驚きながら「そうか! プロが言うなら安心じゃな」と歯を見せて笑った。
「いかがでしょう?」
「おお!」
その一言で、カクさんが新しい髪形を気に入ってくれたのが分かり、内心ほっとする。
「カクさんはお顔が小さいから、短いのもよくお似合いです」
「おお……。新鮮じゃ。あと頭が軽い!」
「そうでしょうとも」
カクさんが珍しそうに手でわしわしと頭をかいた。
「お姉さん、ありがとう」
今日一番の笑顔で店を出ていくカクさんは、もう大人になってしまっていた。この短い時間で、あっという間に。床に落ちている、さっきまでは彼だったものを集めながら、カクさんがなりたい大人になれるといいな、と切に思う。おしまい
幕間の逢瀬 #カク
目の前のカクが「本当のカク」だというのなら、「私が好きだったカク」は誰だったのだろう。
私は社長の警護のために厳戒態勢となった職場に、あろうことか家の鍵を忘れてしまったので、物々しい雰囲気の職人さんたちに頭を下げ中に入れてもらい、彼らの殺気に気圧されながら、ロッカーに置き去りにしてしまったキーケースを取りに来ていた。
早く家に戻って避難の準備をしないと、と思いながらキーケースを確かに握りしめ、ロッカーを閉める。その瞬間、ドオンッ!というかなりの爆音とともに、窓ガラスがビリビリと震えた。私は心臓が止まってしまうんじゃないかと思うくらいびっくりして、ひいっ!と叫んで飛び上がった後は、怖くてそのままその場に蹲ってしまう。爆音にかき消されているけど、かすかに職人さんたちの怒号も聞こえてきた。
はやく、逃げなくちゃ……。今の爆音は、アイスバーグさんを暗殺しようとしている海賊が攻撃してきた音に違いない。なんだってよりによってこんな日に、私は家の鍵を忘れてしまったんだろう。焦れば焦るほど、足に力が入らなくて、余計に焦る。落ち着いて、落ち着いて……。
震える身体を自分でひしと抱きしめるようにして、一生懸命深呼吸をしていたら、喧噪に混じって、コツ、と小さな靴音がした。どうして私はこの混乱の最中、それを聞き取れたのか。
何気なくそちらに顔を向けると、髑髏の被り物をして、舞台衣装みたいな豪奢な衣装を纏った人が廊下の照明を背にして立っていた。明らかに異様だ。
海賊!? と私が恐怖を覚える前に、その人はもったいつけることなく、本当にあっさりと、髑髏を脱いだ。
「カク、じゃん……」
◆
髑髏を脱いだら、カクだった。
でも光を拒絶したかのように真っ黒な瞳は、私を映しているのかも危うくて、同じ人間が、こうも全くの別人みたいになるものなのかと驚く。
「なぜここに」
カクは、発していいと許されている文字数があるみたいに、本当に短く、ただ言った。
海賊じゃなくて、カクなんだから、私は安心していいはずだった。怖かった! と泣きついて、早く外に逃がしてもらえばいいのだ。頭ではそう思うのに、なぜだろう。目の前のカクが、私の知っているカクなら難なくしてくれるだろうそれを、してくれる気がしなかった。
こんなカクの目はみたことがないし、こんなカクの声は聞いたことがない。カクは私を私と認識できているのかな。なんだか道端の石ころをみるような目で私を見ている。
カクは私がなぜここにいるか、聞いたくせに興味がないようだった。ロッカールームの時計をちらりと見て、また私に視線を戻す。
「カクは、……その服、なに?」
「仕事じゃ」
「社長の護衛、ってこと?」
「いや」
「じゃあ、なに?」
「言いたくない」
「……どうして?」
「……今日だけは、嘘はつかんと決めた」
カクは答えるのに間を取ったが、その割に葛藤なぞ一切感じさせない平坦な声音だった。
今日“だけ”は? いつもあまり動かしていない頭が、今日はなんだかフル回転している。じゃあ、“今まで”は?
外は騒がしいはずなのに、私とカクだけが喧騒から遠いところにいて、なんだかぼんやりとした膜で覆われているみたいに、カクの声だけがはっきりと私に届いていた。
◆
カクは私のたった一人の同期で、瞬く間に出世したのにそれを鼻にかけることなく、いつも気さくで、付き合っても、5年経っても、初対面の「明るくて人懐っこくていい人だな」という印象は変わらなかった。
付き合ったり、5年経ったりしたら、思っていたよりずっと欠点が見えてくるものだと思うけれど、カクはあんまりそんなことがなかった。どんどんいい印象が追加されていくだけで、まあ少し、意外と子供っぽいところはあるかな? なんて思ったりもするけれど、彼の根っこにある人の好さや、温かさ、優しさなんかに比べたら、それは些末な欠点だったし、何より私はそれすら可愛いと思えて大好きだった。
それよりも、私の小さな器、すぐイライラしてしまうところ、天邪鬼で素直になれないところ、自分の欲に忠実なところ、そっちの方が問題だったはずなのに、奇特なカクはなぜだかそんな私もまるごと好きになってくれたらしい。私が度々自己嫌悪に陥り「カクだって、嫌でしょ? こんな女」と大層めんどうくさいことを聞いても「いや? 可愛いが?」と一蹴するのだ。毎回恐る恐る聞いて、毎回びっくりしていた。そんな素晴らしく人間が出来ているカクに好かれている、ということは、私を安心させ、私にとってかなりの自信となり、私という人間を少しずつ落ち着かせてくれたように思う。
頭が痛いといえば「それは辛いのう。動かすと痛いのか? じっとしていても痛いのか?」と。仕事で失敗したと言えば話を聞いてくれ「まあ確かにウカも確認不足だったところがあるかもしれんが、そもそもそれは先方の担当がアホじゃろ!? なんじゃそいつ」と。天気が良ければ「散歩にでも行かんか? 会社近くの花屋の隣に、雑貨屋が出来たんじゃと」と。雨が降れば「今度の休み、もし晴れたら一緒に海列車に乗りたいんじゃけど……」と。
こうやって毎日、重厚な木床を磨くように丁寧に、じっくり大事にされてきた。
でも、なんていうか私たちは、本当に普通だった。特別な出会いがあったわけでも、何か共通の趣味があったわけでも、私のピンチに彼が駆け付けてくれた、なんてこともなく。楽しいことも、嫌なこともある、でも死ぬほど辛いわけじゃない、そんな普通の毎日を、糸を紡ぐように淡々と、一定のリズムで過ごしてきた。
他愛ない会話の一つではあったけど、そういえば結婚の話もした。両親は亡くなっていて、孤児院のようなところで育ったというカク。その代わり、友達はたくさんいるから、カードを贈りたいと言っていた。もちろん料理はプッチで評判のお店に頼まんとな。式場はセント・ポプラで探そうか。新婚旅行はサン・ファルドかの? そんなふうに散々盛り上がったあとで、でもやっぱりお金ももったいないし、慎ましいのがいいんじゃないかなあ? あ、カードは絶対贈ろうね! と急に現実的になったりもした。
そうやって過ごしてきた私たちだ。今、目の前で起きていることは、これまでの平和な二人には起こりえないことだった。
◆
「私は家の鍵を忘れて……、取りにきたの」
「ほう」
今更の答えだったけど、カクは気にせず話を続けてくれる。
「カクは? どうしてここに?」
「ウカを見かけて追ってきた」
「仕事は大丈夫なの?」
「いや」
難なく受け答えできているけど、感情がみえない平坦な声音は、なんだか人を真似ている人形みたいだ。そこでふと、ああ、そうか。もしかしたら、誰かに操られているのかも。それなら少しだけ、納得できるかも。事情はよく分からないけれど、これはカクの意志じゃない。プログラムされた行動を忠実になぞっているだけ、なのかも。なんて思ったりもする。
「来るか?」
カクが冷たい床に蹲ったままの私を見下ろし問いかける。
「……どこに?」
「わしのそばに」
私を見下ろすカクを見上げて、そうか、もうカクは。
カクは、恐怖に蹲る私に駆け寄って、その膝を折り、優しく、でも、強く、抱きしめたりはしてくれないんだな、と唐突にすべてを理解したような気持ちになった。
ずっとカクに大事にされてきた私にとって、これはとても悲しいことだった。私が好きになったカクのいいところ、つまり、温かくて、安心できて、柔らかくて、気持ちが落ち着いてくる、そういうところが今は全く見えなくなっていた。後ろから光に照らされているカクは、ぽっかりと空いた暗くて深い、底の見えない穴のようだ。
「……私の、好きになった、カクは……いる?」
喉が張りついて、息がうまく吸えなくて、つっかえつっかえ、なんとか言う。
そしたら、それまで微動だにしなかったカクの眉が、瞳が、唇が、あっという間にぎゅっと辛そうになったから、ああこれ、操られているんじゃなかったんだって馬鹿な私でもわかってしまった。そして、なんて残酷な言葉なのかも。
カクの辛そうな顔を見た瞬間、私は、後悔の大波にざぶんと攫われ、足のつかない暗く深く冷たい大海原に身一つで投げ出された気持ちになった。
恐怖で動かなかった足が急に動くようになって、私はばね仕掛けの玩具みたいにカクに飛びついて、縋りついた。そして、溺れそうな人が助けを呼ぶみたいに必死に叫ぶ。
「違う! ごめん! カク、ごめん! 違う、違うの!」
「いや、わしが悪かった」
「違う! そうじゃなくて! 聞いて! 私はあなたをそこから──……」
慌てて謝っても、もう遅い。
カクが私の身体に意識を遠のかせる何かをしたみたいで、全然痛くないけど、瞼が下がってきて、視界が柔らかい闇に覆われていく。
違う、違うの。
今のあなたを嫌いになったんじゃない。
あなたについていけないんじゃなくて、あなたをそこから救ってあげたい。
できることなら、あなたにそんな顔をさせてしまう何かから遠ざけて、もう二度と近づけたくない。私があなたのそばにいるんじゃなくて、あなたを私のそばにおいて、辛くて怖くて悲しいものすべてから逃がして、守ってあげたい。そんな目をしなきゃいけないようなところにいてほしくない。
私が知っているカクだって、全部が嘘だったわけじゃなくて、カクの一部だったって思いたい。
私を見つけたら屈託のない笑顔で手を振りながら駆け寄ってくるあなた、美味しいものを一緒に食べて「美味しい」って嬉しそうなあなた、洗い立てのシーツを敷いたベッドに飛び込んで「太陽の匂いがする」って言いながら昼寝しちゃうあなた。死ぬまでずっと、そういうあなただけでいてほしい。
私、カクとならどこまでもいけるって思っていたけど、そうじゃなかった。今わかった。
闇に進むあなたについていく私じゃなくて、あなたをここに踏みとどまらせる私になりたかったな。
まあ、なれなかったけど……。そして、それがとても悲しくて涙が出たけど、カクが「痛かったか?」って勘違い、しないといいな。おしまい
目の前のカクが「本当のカク」だというのなら、「私が好きだったカク」は誰だったのだろう。
私は社長の警護のために厳戒態勢となった職場に、あろうことか家の鍵を忘れてしまったので、物々しい雰囲気の職人さんたちに頭を下げ中に入れてもらい、彼らの殺気に気圧されながら、ロッカーに置き去りにしてしまったキーケースを取りに来ていた。
早く家に戻って避難の準備をしないと、と思いながらキーケースを確かに握りしめ、ロッカーを閉める。その瞬間、ドオンッ!というかなりの爆音とともに、窓ガラスがビリビリと震えた。私は心臓が止まってしまうんじゃないかと思うくらいびっくりして、ひいっ!と叫んで飛び上がった後は、怖くてそのままその場に蹲ってしまう。爆音にかき消されているけど、かすかに職人さんたちの怒号も聞こえてきた。
はやく、逃げなくちゃ……。今の爆音は、アイスバーグさんを暗殺しようとしている海賊が攻撃してきた音に違いない。なんだってよりによってこんな日に、私は家の鍵を忘れてしまったんだろう。焦れば焦るほど、足に力が入らなくて、余計に焦る。落ち着いて、落ち着いて……。
震える身体を自分でひしと抱きしめるようにして、一生懸命深呼吸をしていたら、喧噪に混じって、コツ、と小さな靴音がした。どうして私はこの混乱の最中、それを聞き取れたのか。
何気なくそちらに顔を向けると、髑髏の被り物をして、舞台衣装みたいな豪奢な衣装を纏った人が廊下の照明を背にして立っていた。明らかに異様だ。
海賊!? と私が恐怖を覚える前に、その人はもったいつけることなく、本当にあっさりと、髑髏を脱いだ。
「カク、じゃん……」
◆
髑髏を脱いだら、カクだった。
でも光を拒絶したかのように真っ黒な瞳は、私を映しているのかも危うくて、同じ人間が、こうも全くの別人みたいになるものなのかと驚く。
「なぜここに」
カクは、発していいと許されている文字数があるみたいに、本当に短く、ただ言った。
海賊じゃなくて、カクなんだから、私は安心していいはずだった。怖かった! と泣きついて、早く外に逃がしてもらえばいいのだ。頭ではそう思うのに、なぜだろう。目の前のカクが、私の知っているカクなら難なくしてくれるだろうそれを、してくれる気がしなかった。
こんなカクの目はみたことがないし、こんなカクの声は聞いたことがない。カクは私を私と認識できているのかな。なんだか道端の石ころをみるような目で私を見ている。
カクは私がなぜここにいるか、聞いたくせに興味がないようだった。ロッカールームの時計をちらりと見て、また私に視線を戻す。
「カクは、……その服、なに?」
「仕事じゃ」
「社長の護衛、ってこと?」
「いや」
「じゃあ、なに?」
「言いたくない」
「……どうして?」
「……今日だけは、嘘はつかんと決めた」
カクは答えるのに間を取ったが、その割に葛藤なぞ一切感じさせない平坦な声音だった。
今日“だけ”は? いつもあまり動かしていない頭が、今日はなんだかフル回転している。じゃあ、“今まで”は?
外は騒がしいはずなのに、私とカクだけが喧騒から遠いところにいて、なんだかぼんやりとした膜で覆われているみたいに、カクの声だけがはっきりと私に届いていた。
◆
カクは私のたった一人の同期で、瞬く間に出世したのにそれを鼻にかけることなく、いつも気さくで、付き合っても、5年経っても、初対面の「明るくて人懐っこくていい人だな」という印象は変わらなかった。
付き合ったり、5年経ったりしたら、思っていたよりずっと欠点が見えてくるものだと思うけれど、カクはあんまりそんなことがなかった。どんどんいい印象が追加されていくだけで、まあ少し、意外と子供っぽいところはあるかな? なんて思ったりもするけれど、彼の根っこにある人の好さや、温かさ、優しさなんかに比べたら、それは些末な欠点だったし、何より私はそれすら可愛いと思えて大好きだった。
それよりも、私の小さな器、すぐイライラしてしまうところ、天邪鬼で素直になれないところ、自分の欲に忠実なところ、そっちの方が問題だったはずなのに、奇特なカクはなぜだかそんな私もまるごと好きになってくれたらしい。私が度々自己嫌悪に陥り「カクだって、嫌でしょ? こんな女」と大層めんどうくさいことを聞いても「いや? 可愛いが?」と一蹴するのだ。毎回恐る恐る聞いて、毎回びっくりしていた。そんな素晴らしく人間が出来ているカクに好かれている、ということは、私を安心させ、私にとってかなりの自信となり、私という人間を少しずつ落ち着かせてくれたように思う。
頭が痛いといえば「それは辛いのう。動かすと痛いのか? じっとしていても痛いのか?」と。仕事で失敗したと言えば話を聞いてくれ「まあ確かにウカも確認不足だったところがあるかもしれんが、そもそもそれは先方の担当がアホじゃろ!? なんじゃそいつ」と。天気が良ければ「散歩にでも行かんか? 会社近くの花屋の隣に、雑貨屋が出来たんじゃと」と。雨が降れば「今度の休み、もし晴れたら一緒に海列車に乗りたいんじゃけど……」と。
こうやって毎日、重厚な木床を磨くように丁寧に、じっくり大事にされてきた。
でも、なんていうか私たちは、本当に普通だった。特別な出会いがあったわけでも、何か共通の趣味があったわけでも、私のピンチに彼が駆け付けてくれた、なんてこともなく。楽しいことも、嫌なこともある、でも死ぬほど辛いわけじゃない、そんな普通の毎日を、糸を紡ぐように淡々と、一定のリズムで過ごしてきた。
他愛ない会話の一つではあったけど、そういえば結婚の話もした。両親は亡くなっていて、孤児院のようなところで育ったというカク。その代わり、友達はたくさんいるから、カードを贈りたいと言っていた。もちろん料理はプッチで評判のお店に頼まんとな。式場はセント・ポプラで探そうか。新婚旅行はサン・ファルドかの? そんなふうに散々盛り上がったあとで、でもやっぱりお金ももったいないし、慎ましいのがいいんじゃないかなあ? あ、カードは絶対贈ろうね! と急に現実的になったりもした。
そうやって過ごしてきた私たちだ。今、目の前で起きていることは、これまでの平和な二人には起こりえないことだった。
◆
「私は家の鍵を忘れて……、取りにきたの」
「ほう」
今更の答えだったけど、カクは気にせず話を続けてくれる。
「カクは? どうしてここに?」
「ウカを見かけて追ってきた」
「仕事は大丈夫なの?」
「いや」
難なく受け答えできているけど、感情がみえない平坦な声音は、なんだか人を真似ている人形みたいだ。そこでふと、ああ、そうか。もしかしたら、誰かに操られているのかも。それなら少しだけ、納得できるかも。事情はよく分からないけれど、これはカクの意志じゃない。プログラムされた行動を忠実になぞっているだけ、なのかも。なんて思ったりもする。
「来るか?」
カクが冷たい床に蹲ったままの私を見下ろし問いかける。
「……どこに?」
「わしのそばに」
私を見下ろすカクを見上げて、そうか、もうカクは。
カクは、恐怖に蹲る私に駆け寄って、その膝を折り、優しく、でも、強く、抱きしめたりはしてくれないんだな、と唐突にすべてを理解したような気持ちになった。
ずっとカクに大事にされてきた私にとって、これはとても悲しいことだった。私が好きになったカクのいいところ、つまり、温かくて、安心できて、柔らかくて、気持ちが落ち着いてくる、そういうところが今は全く見えなくなっていた。後ろから光に照らされているカクは、ぽっかりと空いた暗くて深い、底の見えない穴のようだ。
「……私の、好きになった、カクは……いる?」
喉が張りついて、息がうまく吸えなくて、つっかえつっかえ、なんとか言う。
そしたら、それまで微動だにしなかったカクの眉が、瞳が、唇が、あっという間にぎゅっと辛そうになったから、ああこれ、操られているんじゃなかったんだって馬鹿な私でもわかってしまった。そして、なんて残酷な言葉なのかも。
カクの辛そうな顔を見た瞬間、私は、後悔の大波にざぶんと攫われ、足のつかない暗く深く冷たい大海原に身一つで投げ出された気持ちになった。
恐怖で動かなかった足が急に動くようになって、私はばね仕掛けの玩具みたいにカクに飛びついて、縋りついた。そして、溺れそうな人が助けを呼ぶみたいに必死に叫ぶ。
「違う! ごめん! カク、ごめん! 違う、違うの!」
「いや、わしが悪かった」
「違う! そうじゃなくて! 聞いて! 私はあなたをそこから──……」
慌てて謝っても、もう遅い。
カクが私の身体に意識を遠のかせる何かをしたみたいで、全然痛くないけど、瞼が下がってきて、視界が柔らかい闇に覆われていく。
違う、違うの。
今のあなたを嫌いになったんじゃない。
あなたについていけないんじゃなくて、あなたをそこから救ってあげたい。
できることなら、あなたにそんな顔をさせてしまう何かから遠ざけて、もう二度と近づけたくない。私があなたのそばにいるんじゃなくて、あなたを私のそばにおいて、辛くて怖くて悲しいものすべてから逃がして、守ってあげたい。そんな目をしなきゃいけないようなところにいてほしくない。
私が知っているカクだって、全部が嘘だったわけじゃなくて、カクの一部だったって思いたい。
私を見つけたら屈託のない笑顔で手を振りながら駆け寄ってくるあなた、美味しいものを一緒に食べて「美味しい」って嬉しそうなあなた、洗い立てのシーツを敷いたベッドに飛び込んで「太陽の匂いがする」って言いながら昼寝しちゃうあなた。死ぬまでずっと、そういうあなただけでいてほしい。
私、カクとならどこまでもいけるって思っていたけど、そうじゃなかった。今わかった。
闇に進むあなたについていく私じゃなくて、あなたをここに踏みとどまらせる私になりたかったな。
まあ、なれなかったけど……。そして、それがとても悲しくて涙が出たけど、カクが「痛かったか?」って勘違い、しないといいな。おしまい
星が好きなの、嘘だけど #カク
かわいい、かわいい、かわいい!
今日もカクさんはかわいい。
ガレーラカンパニーの朝はそんなに早くないけど、私の朝はわりと早い。なぜなら、私がひそかに恋焦がれているカクさんが、始業より三十分くらい早く出勤するからだ。
カクさんは歩いて出勤することは稀で、大体空から降ってくる。だから、朝は本社の玄関先が唯一の目撃チャンスだ。今日はちょうど、本社の玄関を目指して歩いている私の数メートル先に、屋根からシュタッと降り立ってくるところを見られたからラッキー。このために早起きしたようなものだ。
カクさんは私の前を歩いていた秘書のカリファさんをめがけて着地したみたいで、カリファさんに眩しいほどの笑顔で「今日は朝から暑いのう」と話しかけている横顔が見える。ほら、かわいい。
カクさんは。お昼は余裕があれば外に出てお店で食べたり、社員食堂を利用したりしているみたいだけど、天気がいい日は職人さんたちと現場で軽食を食べていることが多いふうに思う。
だから私はわざと一番ドックを通って街に出る。さりげなくあたりを見回して、耳をそばだてて、カクさんたちがどのへんにいるかあたりをつけて、不自然じゃないくらいのルートを探して……。この動作にももう慣れた。見つけたら、遠くからなんとなく眺めて、近くを通るときは決してそちらを向かないようにする。
今日はまだ使っていない資材を椅子代わりに、パウリーさんとルッチさんと、三人でパニーニを頬張っているみたいだ。彼らの横を通り過ぎるとき、パウリーさんの「カクの食ってるやつの方が旨そうだな」という声が聞こえて、カクさんの「そうじゃろ? やらん」という楽しそうな声が続いた。ほら、顔が見えなくなってかわいい。
夕方は一番の運試しだ。そもそも毎日定時にあがっても、ほんの数分ずれるだけで見かけるのは難しくなる。工期の進捗次第では、私が帰路に着くころでも金槌の音が響いていることもあるし、私だって残業することもある。実は夕方にタイミングがあったことは一度もなかった。
今日は珍しく朝も昼も会えた(正しくは見かけた)から、さすがに帰るときまでなんて欲張りかなと思って、沈んでいく太陽で染まる空の青と赤のグラデーションを眺める。無理かもと思っていても、空に彼のシルエットが浮かび上がらないかと探してしまうのは、もはや習慣に近い。
そうやって、空を見上げながら歩を進めようとすると、
「おーい、落としたぞ」
と後ろから声をかけられて慌てて振り向いた。そしたら、
「カクさん!」
「そうじゃが」
なんでなんでなんで! いや、なんでってことはない。カクさんの手には、さっき取り出してバッグに仕舞ったと思った私のパスケースが握られていた。社員証を入れているパスケースだ。
となると、……社員証の写真、見られたかな? 採用されたときにぎこちない笑顔で撮った写真がずっと使われているから恥ずかしい。あんまり写りも良くないし……。そう思ったら、なんだか緊張してしまって、失礼なのはわかっているけど、カクさんの顔をまともに見られなくってしまう。
そもそも、仕事中にカクさんを見かけるだけで満足していたくらいの私だから、今日まで話したことなんて実はたった一度しかない。書棚の上に仕舞ってあった昔の書類を、通りかかったカクさんがひょいと取ってくれて、その時に交わした「ありがとうございます」だけだ。私は、それっぽっちの交流でまんまと射抜かれてしまったわけだけど。
今日は記念すべき二回目の会話だけど、あれ以上の接点もないし、そもそも私を私と認識しているかも疑わしいくらいなのだから、会話なんて続くわけがない。
「あ、ありがとうございます。助かりました……」
「社外じゃなくて良かったのう」
これで今回も終わり。
俯いてカクさんの顔を見られないまま、半ば震える手でパスケースを受け取る。そのままさらに深く腰を曲げてお辞儀をして、帰ろうとすると、なんとカクさんはそのまま横並びで一緒に歩いてくれるじゃないか。
あれ、これ一緒に帰る感じ? いや、全然いいけど! いいんだけど! むしろ嬉しいけど! どこまで?
カクさんの住んでいるところなんて、エリアですら知らない。どこまで一緒に歩いていいのかわからないから、曲がり角や分かれ道に来るたびに、「あ、の、私はこっちです」と小さな声で恐る恐る確認する羽目になる。
いつ、「じゃあ、ここで」と言われるかひやひやした。できることなら、もう少し。次の角まで。そう思いながら、一歩一歩、祈るように歩く。
カクさんは足が長いから、普通に歩いたら私は絶対ついていけないはずなのに、歩幅をぐっと狭めて歩いてくれているみたいで、私はカクさんに置いて行かれることもなく、とても自然にいつもの調子で歩けた。頭の斜め上の方からカクさんの声が落ちてくるのは初めてだ。
「ウカさんとこは、仕事は落ち着いたか?」
「そう、ですね。概ねは……、って、私の名前、知ってるんですか?」
「ん?」
「あ、さっきの社員証?」
「いや? 名前は前から知っとったぞ」
「え!? なんで……」
うっかり、カクさんの顔を見てしまった。カクさんは前を向いているから、目は合わない。
え、なんで私の名前を知っているんだろう? 絶対、と確信できるくらい、話したのはあの一度きりのはず。てことは、良くない噂でも耳に入ったのかな? でも、私みたいな目立たない社員が、どうやって噂の人物になれるというんだろう。全然わからなくて、縋るようにカクさんを見た。
「なんでって……、なんでじゃろうな」
カクさんはううん、と考え込むようにしたあと、「でも、ウカさんもわしの名前、知っとるじゃろう?」とぱっと花が開くように笑って、こちらを見た。
「カ、カクさんは、有名だからっ、……誰でも知ってますよ」
ちゃんと目が合ったのは初めてかもしれない。カクさんの笑顔は、まさに満面の笑みといった様子で、目は弓なりに細くなっていて、口は半月を横たえたみたいに大きく開いていて、白い歯が光る。それでも今、カクさんと私は目が合ってるな、ってわかった。
ずっと見ていたい。でも、ずっとは見ていられないからそっと前を向く。だって前を見て歩かなくちゃいけないし、顔は赤いと思うし、今気が付いたけどリップも塗り直してないから、たぶん色が落ちちゃってる。あれ? 唇ガサガサかも……。
「そうかのう。まあ、有名かはわからんが、そうか。確かによく街の子らに呼ばれるわい」
「じゃあ、……良くない、噂? とかですか? 私、何かしたでしょうか?」
「違う違う! ううん……、そんな誤解させるのも忍びない。白状するか」
「ぜひ」
「同じ部署のやつに聞いたんじゃ。あの子の名前は、って」
「え?」
またカクさんを見ちゃう。
シンプルじゃろ? カクさんは照れ臭そうに笑っているけど、私はそれどころじゃない。今度は“なんで聞いたの?”と新しい謎が増えただけだ。全然すっきりしない。
私にとってカクさんは仕事の出来る優秀な職長で、明るくて慕われているみんなの人気者で、誰にでも優しくて、気さくで、かわいくて、そういう存在だからこそ、遠くから眺めているだけでぽっと心に明かりが灯るような嬉しさがあって、出勤して帰るまでに僅かな時間でも見かけたらそれで十二分に幸せだったのだけど。
カクさんは照れついでに、といった様子で、おずおずと切り出した。
「……わしはウカさんの名前と、帰る時間以外も知りたいんじゃが」
「帰る、時間って……?」
「わしは帰るとき、よくウカさんを見かけとったよ」
後ろ姿じゃけど、と続く。
まさか後ろにいたなんて! ずっと空を見上げていたのは無駄だったのかとがっかりする気持ちと、やっぱりこれはちょっと、ひょっとして、ひょっとするかも、という気持ちとが綯交ぜになって気分の乱高下が激しい。
理由は全然わからないけど、カクさんは私の名前をわざわざ別のひとに聞いて、帰るときに私を見かけたら「ウカさんだ」と思ってくれるくらいには、私を認知しているようだ。いい方の興味、もたれてる?
「お近づきのしるしに、これから食事でもどうかのう?」
「ふふっ……、もう“お近づき”ました? これから、じゃなくて?」
「お、ちゃんと笑っとる。初めて見たかもしれん」
「んんっ、……私で、良ければ」
なんだか勝手にキラキラと憧れていた人の輪郭がくっきりとなってくる。
私も、カクさんをただ眺めて満足するだけじゃなくて、もっと色々知って、もっと好きになりたい。あれ? と思うようなこともあるかもしれないけど、きっとそれよりずっと好きなところがある気がする。
カクさんが、そうそう、と思い出したように聞いてきた。
「ウカさん、帰り道はよく空を見上げとるじゃろ? 星が好きなのか?」
あなたを探していたの、とはまだとても言えなくて、私はしばらく星が好きなふりをする羽目になる。おしまい
かわいい、かわいい、かわいい!
今日もカクさんはかわいい。
ガレーラカンパニーの朝はそんなに早くないけど、私の朝はわりと早い。なぜなら、私がひそかに恋焦がれているカクさんが、始業より三十分くらい早く出勤するからだ。
カクさんは歩いて出勤することは稀で、大体空から降ってくる。だから、朝は本社の玄関先が唯一の目撃チャンスだ。今日はちょうど、本社の玄関を目指して歩いている私の数メートル先に、屋根からシュタッと降り立ってくるところを見られたからラッキー。このために早起きしたようなものだ。
カクさんは私の前を歩いていた秘書のカリファさんをめがけて着地したみたいで、カリファさんに眩しいほどの笑顔で「今日は朝から暑いのう」と話しかけている横顔が見える。ほら、かわいい。
カクさんは。お昼は余裕があれば外に出てお店で食べたり、社員食堂を利用したりしているみたいだけど、天気がいい日は職人さんたちと現場で軽食を食べていることが多いふうに思う。
だから私はわざと一番ドックを通って街に出る。さりげなくあたりを見回して、耳をそばだてて、カクさんたちがどのへんにいるかあたりをつけて、不自然じゃないくらいのルートを探して……。この動作にももう慣れた。見つけたら、遠くからなんとなく眺めて、近くを通るときは決してそちらを向かないようにする。
今日はまだ使っていない資材を椅子代わりに、パウリーさんとルッチさんと、三人でパニーニを頬張っているみたいだ。彼らの横を通り過ぎるとき、パウリーさんの「カクの食ってるやつの方が旨そうだな」という声が聞こえて、カクさんの「そうじゃろ? やらん」という楽しそうな声が続いた。ほら、顔が見えなくなってかわいい。
夕方は一番の運試しだ。そもそも毎日定時にあがっても、ほんの数分ずれるだけで見かけるのは難しくなる。工期の進捗次第では、私が帰路に着くころでも金槌の音が響いていることもあるし、私だって残業することもある。実は夕方にタイミングがあったことは一度もなかった。
今日は珍しく朝も昼も会えた(正しくは見かけた)から、さすがに帰るときまでなんて欲張りかなと思って、沈んでいく太陽で染まる空の青と赤のグラデーションを眺める。無理かもと思っていても、空に彼のシルエットが浮かび上がらないかと探してしまうのは、もはや習慣に近い。
そうやって、空を見上げながら歩を進めようとすると、
「おーい、落としたぞ」
と後ろから声をかけられて慌てて振り向いた。そしたら、
「カクさん!」
「そうじゃが」
なんでなんでなんで! いや、なんでってことはない。カクさんの手には、さっき取り出してバッグに仕舞ったと思った私のパスケースが握られていた。社員証を入れているパスケースだ。
となると、……社員証の写真、見られたかな? 採用されたときにぎこちない笑顔で撮った写真がずっと使われているから恥ずかしい。あんまり写りも良くないし……。そう思ったら、なんだか緊張してしまって、失礼なのはわかっているけど、カクさんの顔をまともに見られなくってしまう。
そもそも、仕事中にカクさんを見かけるだけで満足していたくらいの私だから、今日まで話したことなんて実はたった一度しかない。書棚の上に仕舞ってあった昔の書類を、通りかかったカクさんがひょいと取ってくれて、その時に交わした「ありがとうございます」だけだ。私は、それっぽっちの交流でまんまと射抜かれてしまったわけだけど。
今日は記念すべき二回目の会話だけど、あれ以上の接点もないし、そもそも私を私と認識しているかも疑わしいくらいなのだから、会話なんて続くわけがない。
「あ、ありがとうございます。助かりました……」
「社外じゃなくて良かったのう」
これで今回も終わり。
俯いてカクさんの顔を見られないまま、半ば震える手でパスケースを受け取る。そのままさらに深く腰を曲げてお辞儀をして、帰ろうとすると、なんとカクさんはそのまま横並びで一緒に歩いてくれるじゃないか。
あれ、これ一緒に帰る感じ? いや、全然いいけど! いいんだけど! むしろ嬉しいけど! どこまで?
カクさんの住んでいるところなんて、エリアですら知らない。どこまで一緒に歩いていいのかわからないから、曲がり角や分かれ道に来るたびに、「あ、の、私はこっちです」と小さな声で恐る恐る確認する羽目になる。
いつ、「じゃあ、ここで」と言われるかひやひやした。できることなら、もう少し。次の角まで。そう思いながら、一歩一歩、祈るように歩く。
カクさんは足が長いから、普通に歩いたら私は絶対ついていけないはずなのに、歩幅をぐっと狭めて歩いてくれているみたいで、私はカクさんに置いて行かれることもなく、とても自然にいつもの調子で歩けた。頭の斜め上の方からカクさんの声が落ちてくるのは初めてだ。
「ウカさんとこは、仕事は落ち着いたか?」
「そう、ですね。概ねは……、って、私の名前、知ってるんですか?」
「ん?」
「あ、さっきの社員証?」
「いや? 名前は前から知っとったぞ」
「え!? なんで……」
うっかり、カクさんの顔を見てしまった。カクさんは前を向いているから、目は合わない。
え、なんで私の名前を知っているんだろう? 絶対、と確信できるくらい、話したのはあの一度きりのはず。てことは、良くない噂でも耳に入ったのかな? でも、私みたいな目立たない社員が、どうやって噂の人物になれるというんだろう。全然わからなくて、縋るようにカクさんを見た。
「なんでって……、なんでじゃろうな」
カクさんはううん、と考え込むようにしたあと、「でも、ウカさんもわしの名前、知っとるじゃろう?」とぱっと花が開くように笑って、こちらを見た。
「カ、カクさんは、有名だからっ、……誰でも知ってますよ」
ちゃんと目が合ったのは初めてかもしれない。カクさんの笑顔は、まさに満面の笑みといった様子で、目は弓なりに細くなっていて、口は半月を横たえたみたいに大きく開いていて、白い歯が光る。それでも今、カクさんと私は目が合ってるな、ってわかった。
ずっと見ていたい。でも、ずっとは見ていられないからそっと前を向く。だって前を見て歩かなくちゃいけないし、顔は赤いと思うし、今気が付いたけどリップも塗り直してないから、たぶん色が落ちちゃってる。あれ? 唇ガサガサかも……。
「そうかのう。まあ、有名かはわからんが、そうか。確かによく街の子らに呼ばれるわい」
「じゃあ、……良くない、噂? とかですか? 私、何かしたでしょうか?」
「違う違う! ううん……、そんな誤解させるのも忍びない。白状するか」
「ぜひ」
「同じ部署のやつに聞いたんじゃ。あの子の名前は、って」
「え?」
またカクさんを見ちゃう。
シンプルじゃろ? カクさんは照れ臭そうに笑っているけど、私はそれどころじゃない。今度は“なんで聞いたの?”と新しい謎が増えただけだ。全然すっきりしない。
私にとってカクさんは仕事の出来る優秀な職長で、明るくて慕われているみんなの人気者で、誰にでも優しくて、気さくで、かわいくて、そういう存在だからこそ、遠くから眺めているだけでぽっと心に明かりが灯るような嬉しさがあって、出勤して帰るまでに僅かな時間でも見かけたらそれで十二分に幸せだったのだけど。
カクさんは照れついでに、といった様子で、おずおずと切り出した。
「……わしはウカさんの名前と、帰る時間以外も知りたいんじゃが」
「帰る、時間って……?」
「わしは帰るとき、よくウカさんを見かけとったよ」
後ろ姿じゃけど、と続く。
まさか後ろにいたなんて! ずっと空を見上げていたのは無駄だったのかとがっかりする気持ちと、やっぱりこれはちょっと、ひょっとして、ひょっとするかも、という気持ちとが綯交ぜになって気分の乱高下が激しい。
理由は全然わからないけど、カクさんは私の名前をわざわざ別のひとに聞いて、帰るときに私を見かけたら「ウカさんだ」と思ってくれるくらいには、私を認知しているようだ。いい方の興味、もたれてる?
「お近づきのしるしに、これから食事でもどうかのう?」
「ふふっ……、もう“お近づき”ました? これから、じゃなくて?」
「お、ちゃんと笑っとる。初めて見たかもしれん」
「んんっ、……私で、良ければ」
なんだか勝手にキラキラと憧れていた人の輪郭がくっきりとなってくる。
私も、カクさんをただ眺めて満足するだけじゃなくて、もっと色々知って、もっと好きになりたい。あれ? と思うようなこともあるかもしれないけど、きっとそれよりずっと好きなところがある気がする。
カクさんが、そうそう、と思い出したように聞いてきた。
「ウカさん、帰り道はよく空を見上げとるじゃろ? 星が好きなのか?」
あなたを探していたの、とはまだとても言えなくて、私はしばらく星が好きなふりをする羽目になる。おしまい
甘い罠VS恋人 #カク #パウリー
パウリーさんと付き合い始めて二か月が経とうかというところで、カク先輩から呼び出された。
指定された待ち合わせ場所は造船島の空き倉庫で、時間も深夜だったので、忍んで来い、ということなのだなと察した。まさか、昼間からカフェでお茶ができるなどと期待していたわけではないが、それでも、三年ぶりの再会がこれかと人並みに寂しい気持ちにはなる。
甘い罠VS恋人
造船を主産業にしているウォーターセブンで一番有名な造船会社、ガレーラカンパニーの若き職長「パウリー」という男性と恋仲になるよう指示されたのは、今から半年ほど前のことだった。「半年以内に恋人となり、以降、指示があるまで付き合い続けること」以外は何も指示されず、自分がなぜ彼の恋人になる必要があるのか、恋人になってどうすればいいのか、などは特段知らされなかった。上層部がそう判断したのなら、私も従う以外の術はない。とにかく「半年以内に付き合って、指示があるまで別れない」ことだけに注力することにした。
「パウリー」の資料に目を通す。まだ若く、自分より二つ上なだけだったが、それでももう職長なのかと驚く。ただ、そのすぐ後に、ギャンブルに目がない、借金を重ねている、そのため金にがめつい、などマイナスの情報が並んでいて、先ほどの驚きが失望と相殺されていく。とどめは、特記事項の「女性に慣れていない模様」という文字列。相変わらず、あまり役に立たない資料だなとデスクに放り投げて、未来の恋人「パウリー」に思いを馳せる。
◆
ウォーターセブンに着いてすぐ、街の人が「また海賊だ」「ガレーラで暴れているらしい」と騒ぎながら一方向に駆けていくのを見かけて、私もついていってみることにした。
ガレーラカンパニーに着くと、事態はもう収束していて、縛られた海賊が転がっているだけだったが、「今回の海賊はことさら張り合いがなかったな」などと野次馬の男性たちが、まるで試合をみるかのように感想を述べあっているのが面白い。
野次馬に混ざって、「パウリー」をそれとなく探していると、懐かしい顔が目に飛び込んできて、口を開けたままその人に釘付けになってしまった。
「カク先輩……」
カク先輩はこちらに気づいた様子はない。とはいえ、カク先輩が私に「お前に気が付いたぞ」と悟らせるわけがないので、本当のところはよくわからない。周りの野次馬に倣って、そのままじろじろと見ていると、資料で見た「パウリー」とカク先輩が親し気に話し始めた。そのうち「パウリー」がゆでだこみたいに真っ赤になったかと思うと、如何にもオフィスレディといった佇まいの女性に「足を出すな!」と叫び始める。女性に慣れていない、とはこれか、と膝を打つ。
ひとまず「パウリー」には会えた。ただそれよりも、知らされていなかったカク先輩のことで頭がいっぱいだった。
「パウリー」とカク先輩は仲が良さそうだった。わたしはカク先輩の前で、あの人の恋人として振舞わなければならない場面があるだろうか。考えただけで気が重いがひとまず新居へ、と踵を返そうとしたところで、急に、さっきまで野次馬なんか気も留めていなかったように見えていたカク先輩が、野次馬の中の私を射抜くように見つめてきた。視線の鋭さに体が硬直する。だが、視線の意味はさっぱりわからない。何か伝えたいことでもあるのかと思い、背筋を伸ばして待っていたが「パウリー」から声をかけられ、そのまま背を向けて行ってしまった。
◆
それが半年前のこと。
パウリーさんへの接触は、可能な限りパウリーさんが一人の時が良いだろうと判断して事を進めていたので、結果、この半年間、カク先輩と相対することはなかった。パウリーさんからはよく「カクってやつが面白くてよ、知ってるか? 山風? あぁ、そういやそんな風に呼ばれてんな」「あいつは俺より年下のくせに生意気なんだよな。まァ、仕事は文句ねぇけど」「またカクのやつに逃げられた」と聞かされていたので、カク先輩の近況めいたものはパウリーさんを通して把握していた。
深夜の造船島空き倉庫は、当たり前だが暗く、海の音しか聞こえない。カク先輩は全身黒い服を着ていて闇に溶けそうだ。月明りだけが辛うじて彼を映し出す。帽子まで黒くて徹底してるなあと、他人事のように緊張感のないことを考えていると、カク先輩が先に口を開いた。
「久しぶりじゃな、ウカ。元気にしとったか?」
「ご無沙汰してます」
「おいおい、なんじゃ。随分、他人行儀じゃの~」
私の知っている三年前までのカク先輩と同じ調子で少しだけほっとする。ただ、自分はこの件についてどこまで話していいのかわからない。私にされている指示はいまだに「半年以内にパウリーの恋人となり、以降、指示があるまで付き合い続けること」のみなのだ。
カク先輩から「ほれ」と言われて封筒を受け取る。月明りでなんとか読み取ると、信じられない追加の指示が書いてあった。
「な、んで……」
「『なぜ?』じゃと? ウカ、お前さんが発していい言葉はただ一つ……」
「失礼しました。心得ました」
「……よし」
封筒に書いてあった追加の指示は「以後、カクの指示に従うこと」だった。これでもう、カク先輩を避けては通れない。私はこれから「別れろ」という指示があるまでは、この人の前で、パウリーさんの恋人として振舞うのだ。別れろ、という指示もカク先輩から下されるのだろうか。
「とりあえず、ウカの任務は? パウリーと付き合って、指示があるまで別れるな、じゃったか?」
「その通りです」
「で、進展は?」
「二か月前から付き合っています」
「ほう……パウリーからは何も聞いとらんが、確かに浮かれとったの」
「パウリーさんは、その……恥ずかしいから、と言っていました」
「パウリー、さん……」
「あっ、はい。年上なのでそう呼んでいます」
「違う違う」
手を大きく横に振りながら否定の言葉を口にするカク先輩の「違う」がよくわからない。こういう時、下手に言葉を重ねると余計に事態が悪くなることを私は経験から学んでいたので「あ、えっと……」などと言いながら時間を稼ぐ。
カク先輩はそんな私の浅はかな知恵に気づいているのかいないのか、「まあいい」と俯いた。そのタイミングでこっそり息を吐く。
「で、パウリーのやつ、どんな様子じゃ?」
どんな、と言われても正直困る。繰り返すようだが私は「半年以内にパウリーの恋人となり、以降、指示があるまで付き合い続けること」以上の命は受けていないのだ。しかし、たった今「カク先輩の指示に従うこと」という命が追加で下された以上、カク先輩の質問にはなるべく正確に答える必要があるだろう。
「は、はあ……。そう、ですね……。主観で恐縮ですが、少なくとも私と過ごしている時は、楽しそう、ではあります。ああ、あとは、大事にしてくれるつもりのようです。私と付き合うからと、ギャンブルも止めてくれましたし、借金も返済していると聞きました」
「はあああ!? パウリーが!? 嘘じゃろ……」
「う、嘘ではないですが……まあ、パウリーさんが私に本当のことを言っているともまだわかりませんので……」
「……ウカ、お前、本当に「パウリー」と付き合っとるのか? 違う男じゃなかろうな」
「そんなはずは! ……彼がギャンブルをやめるだとかは、そんなに信じ難いことですか?」
「ああ! あいつの賭け狂いはもう、依存症じゃと思っとったからの」
呆れ顔でそう言ってのけるカク先輩を見て、ふと、パウリーさんを思い出す。
『いや別に……。こんくれぇ、大した手間じゃねぇんで』
『ウカ! 肩を出すな、肩を! 毎日言わせんなッ!』
『おっ、れに言ってんのか? それ……。……おれに?』
『おれァよお……なんでウカが、おれなんかを……す、好いてんだか、知らねェけど……、ちゃ、ちゃんとすっから』
『なんつーか、暇だったんだよな、単純に。……今は、……他に面白ぇことがあるからよ』
『も、もう少ししたら、あいつらにも紹介すっから!』
「ウカ、なんちゅー顔しとるんじゃ」
「えっ?」
カク先輩の冷たい叱責で我に返る。カク先輩は、パウリーさんが賭け狂いだと呆れたよりも、さらに呆れた顔で、「にやにやと……、癪に障る」と呟いた。面目ない。
「情が移ったりしとらんじゃろうな?」
「そ……れは……」
あるわけないじゃないですかと続けたかったのだが、その瞬間、失敗した、と悟った。この質問には短く即答「まさか!」が正解だった。
カク先輩は一瞬で距離を詰めてきて、私の首に右手をかけた。私に取り繕う暇も与えない一瞬の動作だった。優しく、壊れ物を扱うかのように、力が入っていないのが却って怖い。
「目を離すとすぐこれじゃ。お前さんは『殺し』が出来ん。だからこうして色仕掛けしてるのを忘れたか?」
「……対象を愛おしく思わないと……、対象からも好かれませんので」
「人選ミスが過ぎるの……。お前さんじゃパウリーが気の毒すぎる。もう終いじゃ、さっさと円満に別れてこい」
「そんな……私はもうこんなに好きになのに……」
「嘘じゃないのが余計に腹立つのう……」
パウリーが海にでも飛び込んだらどうしてくれるつもりじゃ、と言いながら、カク先輩は私の首筋、鎖骨、胸、とゆっくり指を滑らせていく。私はカク先輩が何かぶつぶつ言っているのもそっちのけで、その動きを目で追った。カク先輩の指が胸の頂点にたどり着き、ぴくりと体が緊張する。
「ウカ」
「はい」
急に名前を呼ばれたので指から目を離し、顔を上げてカク先輩を見ると、カク先輩は私を見つめながら、そのタイミングで指をくいと折り曲げた。
「あっ……」
「下着くらい着けてこんか」
「ッ、……しない、ですか……?」
カク先輩が、今日一番の大きなため息をついた。
「わし、明日は朝早いんじゃけど」
「ああ、パウリーさんもそう言ってました」
お仕事大変ですね、と続けると、恋人の血管が切れる音が聞こえた気がした。おしまい
パウリーさんと付き合い始めて二か月が経とうかというところで、カク先輩から呼び出された。
指定された待ち合わせ場所は造船島の空き倉庫で、時間も深夜だったので、忍んで来い、ということなのだなと察した。まさか、昼間からカフェでお茶ができるなどと期待していたわけではないが、それでも、三年ぶりの再会がこれかと人並みに寂しい気持ちにはなる。
甘い罠VS恋人
造船を主産業にしているウォーターセブンで一番有名な造船会社、ガレーラカンパニーの若き職長「パウリー」という男性と恋仲になるよう指示されたのは、今から半年ほど前のことだった。「半年以内に恋人となり、以降、指示があるまで付き合い続けること」以外は何も指示されず、自分がなぜ彼の恋人になる必要があるのか、恋人になってどうすればいいのか、などは特段知らされなかった。上層部がそう判断したのなら、私も従う以外の術はない。とにかく「半年以内に付き合って、指示があるまで別れない」ことだけに注力することにした。
「パウリー」の資料に目を通す。まだ若く、自分より二つ上なだけだったが、それでももう職長なのかと驚く。ただ、そのすぐ後に、ギャンブルに目がない、借金を重ねている、そのため金にがめつい、などマイナスの情報が並んでいて、先ほどの驚きが失望と相殺されていく。とどめは、特記事項の「女性に慣れていない模様」という文字列。相変わらず、あまり役に立たない資料だなとデスクに放り投げて、未来の恋人「パウリー」に思いを馳せる。
◆
ウォーターセブンに着いてすぐ、街の人が「また海賊だ」「ガレーラで暴れているらしい」と騒ぎながら一方向に駆けていくのを見かけて、私もついていってみることにした。
ガレーラカンパニーに着くと、事態はもう収束していて、縛られた海賊が転がっているだけだったが、「今回の海賊はことさら張り合いがなかったな」などと野次馬の男性たちが、まるで試合をみるかのように感想を述べあっているのが面白い。
野次馬に混ざって、「パウリー」をそれとなく探していると、懐かしい顔が目に飛び込んできて、口を開けたままその人に釘付けになってしまった。
「カク先輩……」
カク先輩はこちらに気づいた様子はない。とはいえ、カク先輩が私に「お前に気が付いたぞ」と悟らせるわけがないので、本当のところはよくわからない。周りの野次馬に倣って、そのままじろじろと見ていると、資料で見た「パウリー」とカク先輩が親し気に話し始めた。そのうち「パウリー」がゆでだこみたいに真っ赤になったかと思うと、如何にもオフィスレディといった佇まいの女性に「足を出すな!」と叫び始める。女性に慣れていない、とはこれか、と膝を打つ。
ひとまず「パウリー」には会えた。ただそれよりも、知らされていなかったカク先輩のことで頭がいっぱいだった。
「パウリー」とカク先輩は仲が良さそうだった。わたしはカク先輩の前で、あの人の恋人として振舞わなければならない場面があるだろうか。考えただけで気が重いがひとまず新居へ、と踵を返そうとしたところで、急に、さっきまで野次馬なんか気も留めていなかったように見えていたカク先輩が、野次馬の中の私を射抜くように見つめてきた。視線の鋭さに体が硬直する。だが、視線の意味はさっぱりわからない。何か伝えたいことでもあるのかと思い、背筋を伸ばして待っていたが「パウリー」から声をかけられ、そのまま背を向けて行ってしまった。
◆
それが半年前のこと。
パウリーさんへの接触は、可能な限りパウリーさんが一人の時が良いだろうと判断して事を進めていたので、結果、この半年間、カク先輩と相対することはなかった。パウリーさんからはよく「カクってやつが面白くてよ、知ってるか? 山風? あぁ、そういやそんな風に呼ばれてんな」「あいつは俺より年下のくせに生意気なんだよな。まァ、仕事は文句ねぇけど」「またカクのやつに逃げられた」と聞かされていたので、カク先輩の近況めいたものはパウリーさんを通して把握していた。
深夜の造船島空き倉庫は、当たり前だが暗く、海の音しか聞こえない。カク先輩は全身黒い服を着ていて闇に溶けそうだ。月明りだけが辛うじて彼を映し出す。帽子まで黒くて徹底してるなあと、他人事のように緊張感のないことを考えていると、カク先輩が先に口を開いた。
「久しぶりじゃな、ウカ。元気にしとったか?」
「ご無沙汰してます」
「おいおい、なんじゃ。随分、他人行儀じゃの~」
私の知っている三年前までのカク先輩と同じ調子で少しだけほっとする。ただ、自分はこの件についてどこまで話していいのかわからない。私にされている指示はいまだに「半年以内にパウリーの恋人となり、以降、指示があるまで付き合い続けること」のみなのだ。
カク先輩から「ほれ」と言われて封筒を受け取る。月明りでなんとか読み取ると、信じられない追加の指示が書いてあった。
「な、んで……」
「『なぜ?』じゃと? ウカ、お前さんが発していい言葉はただ一つ……」
「失礼しました。心得ました」
「……よし」
封筒に書いてあった追加の指示は「以後、カクの指示に従うこと」だった。これでもう、カク先輩を避けては通れない。私はこれから「別れろ」という指示があるまでは、この人の前で、パウリーさんの恋人として振舞うのだ。別れろ、という指示もカク先輩から下されるのだろうか。
「とりあえず、ウカの任務は? パウリーと付き合って、指示があるまで別れるな、じゃったか?」
「その通りです」
「で、進展は?」
「二か月前から付き合っています」
「ほう……パウリーからは何も聞いとらんが、確かに浮かれとったの」
「パウリーさんは、その……恥ずかしいから、と言っていました」
「パウリー、さん……」
「あっ、はい。年上なのでそう呼んでいます」
「違う違う」
手を大きく横に振りながら否定の言葉を口にするカク先輩の「違う」がよくわからない。こういう時、下手に言葉を重ねると余計に事態が悪くなることを私は経験から学んでいたので「あ、えっと……」などと言いながら時間を稼ぐ。
カク先輩はそんな私の浅はかな知恵に気づいているのかいないのか、「まあいい」と俯いた。そのタイミングでこっそり息を吐く。
「で、パウリーのやつ、どんな様子じゃ?」
どんな、と言われても正直困る。繰り返すようだが私は「半年以内にパウリーの恋人となり、以降、指示があるまで付き合い続けること」以上の命は受けていないのだ。しかし、たった今「カク先輩の指示に従うこと」という命が追加で下された以上、カク先輩の質問にはなるべく正確に答える必要があるだろう。
「は、はあ……。そう、ですね……。主観で恐縮ですが、少なくとも私と過ごしている時は、楽しそう、ではあります。ああ、あとは、大事にしてくれるつもりのようです。私と付き合うからと、ギャンブルも止めてくれましたし、借金も返済していると聞きました」
「はあああ!? パウリーが!? 嘘じゃろ……」
「う、嘘ではないですが……まあ、パウリーさんが私に本当のことを言っているともまだわかりませんので……」
「……ウカ、お前、本当に「パウリー」と付き合っとるのか? 違う男じゃなかろうな」
「そんなはずは! ……彼がギャンブルをやめるだとかは、そんなに信じ難いことですか?」
「ああ! あいつの賭け狂いはもう、依存症じゃと思っとったからの」
呆れ顔でそう言ってのけるカク先輩を見て、ふと、パウリーさんを思い出す。
『いや別に……。こんくれぇ、大した手間じゃねぇんで』
『ウカ! 肩を出すな、肩を! 毎日言わせんなッ!』
『おっ、れに言ってんのか? それ……。……おれに?』
『おれァよお……なんでウカが、おれなんかを……す、好いてんだか、知らねェけど……、ちゃ、ちゃんとすっから』
『なんつーか、暇だったんだよな、単純に。……今は、……他に面白ぇことがあるからよ』
『も、もう少ししたら、あいつらにも紹介すっから!』
「ウカ、なんちゅー顔しとるんじゃ」
「えっ?」
カク先輩の冷たい叱責で我に返る。カク先輩は、パウリーさんが賭け狂いだと呆れたよりも、さらに呆れた顔で、「にやにやと……、癪に障る」と呟いた。面目ない。
「情が移ったりしとらんじゃろうな?」
「そ……れは……」
あるわけないじゃないですかと続けたかったのだが、その瞬間、失敗した、と悟った。この質問には短く即答「まさか!」が正解だった。
カク先輩は一瞬で距離を詰めてきて、私の首に右手をかけた。私に取り繕う暇も与えない一瞬の動作だった。優しく、壊れ物を扱うかのように、力が入っていないのが却って怖い。
「目を離すとすぐこれじゃ。お前さんは『殺し』が出来ん。だからこうして色仕掛けしてるのを忘れたか?」
「……対象を愛おしく思わないと……、対象からも好かれませんので」
「人選ミスが過ぎるの……。お前さんじゃパウリーが気の毒すぎる。もう終いじゃ、さっさと円満に別れてこい」
「そんな……私はもうこんなに好きになのに……」
「嘘じゃないのが余計に腹立つのう……」
パウリーが海にでも飛び込んだらどうしてくれるつもりじゃ、と言いながら、カク先輩は私の首筋、鎖骨、胸、とゆっくり指を滑らせていく。私はカク先輩が何かぶつぶつ言っているのもそっちのけで、その動きを目で追った。カク先輩の指が胸の頂点にたどり着き、ぴくりと体が緊張する。
「ウカ」
「はい」
急に名前を呼ばれたので指から目を離し、顔を上げてカク先輩を見ると、カク先輩は私を見つめながら、そのタイミングで指をくいと折り曲げた。
「あっ……」
「下着くらい着けてこんか」
「ッ、……しない、ですか……?」
カク先輩が、今日一番の大きなため息をついた。
「わし、明日は朝早いんじゃけど」
「ああ、パウリーさんもそう言ってました」
お仕事大変ですね、と続けると、恋人の血管が切れる音が聞こえた気がした。おしまい
あなたのお気に召すまま #パウリー
パウリーはなんというか、女性が苦手というか、免疫がないというか、妙に古臭いというか、はたまたただ単に極度の照屋さんというやつなのか、判断はし難いが、要するに女性、特に肌の露出が多い女性に対して「なんてハレンチな格好をしているんだ!」と怒鳴るような男だった。肌を露出する、つまり、肩や臍や脚を出すだけで、顔を真っ赤にして、手でその目を覆って、何でもいいから早く服を着ろと喚くのだ。服はもう着ているのに。
世界にはこんな女の子がそこかしこに溢れているというのに、パウリーはそんな女の子たちをみんな天敵としてしまっている。こんな調子でどうやって生きていくというのだろう。だから私のこれは慈善事業、ボランティア。そして彼の言葉を借りれば嫌がらせ、セクシャルハラスメントとなる。
「またお前はッ! なんで俺が来ると脱ぐんだよ! 腹を出すな!」
「最近同じことばっかり……いい加減、諦めるか、慣れるかしないの? そんなんじゃ、生きていけないでしょう」
「余計なお世話だ!」
私は造船島、よりは裏町寄りにある酒場で給仕と接客を勤める一店員なのだが、ある夜のこと、ガレーラカンパニーの職長と名高いパウリーがふらっと入ってきて、ヤケ酒と思しきものをあおっていた。多分、ギャンブルで負けが込んだのだろう。ちくしょう絶対くると思ったのに、とギャンブルに弱い人がよくいう台詞が聞こえてくる。
その様子がなんだか不憫に思えて、なんとなく声をかけ、お酒だけだと身体に障ると賄いの一皿を出してあげたのだが、それが妙に気に入ったらしく、酔って焦点が定まらないようなぼうっとしていたパウリーの目が、ぱっと見開いた。
ふらふらと危なっかしい足取りで店のドアを開けて帰路につくパウリーを見送った、次の夜。パウリーは会社の職人仲間を大勢引き連れてやってきたのだ。その時期は、どうしても店の売り上げが落ちる時期だったので、不意の売り上げに店長も喜んでいた。今はそれも落ち着いて、パウリーとカクさん、ルッチさんあたりがたまに連れ立ってやってくるだけになっている。元々、常連さんがのんびりと過ごすような店だったので、これはこれでありがたい。
「ほら、お兄さん。あっちの子もなかなかに煽情的じゃなくて?」
「やめろ! 人のことよりもまずはお前だ!」
「……なんだか、すごく真っ当なことを言ってるように聞こえるね?」
「真っ当なことだろ!」
新しいグラスと空いたグラスを交換しながら、適当なおしゃべりに興じられるくらいにはパウリー達は通ってくれた。そんな中でカクさんから教えてもらったのが「パウリーは女の肌に弱い」だった。
◆
その日は、仕事が早く片付いたとカクさんだけが先にお店にやってきた。グラスを傾けながら、わしはどうも優秀すぎてのう、と冗談に聞こえないジョークで笑いを誘ったそのあとのことだ。
「肌? 露出ってこと?」
「社内では結構有名じゃぞ? 社長の秘書が毎日喚かれていて気の毒じゃ」
「そうなんだ……。私なんかでも、何か言ってくれるかな?」
「“なんか”なんぞ言うもんじゃない。ウカちゃんならパウリーのやつ、叫ぶぞ」
カクさんにそう言われて、少し試してみたくなってしまった。暑いからと言い訳して、カクさんに唆されたのだと言い訳して、今日羽織ってるシャツの下は、たまたまタンクトップだった。
「……絶対ないし、聞くのも恥ずかしいけど、カクさんが見たいとかじゃ、……」
「いや、わしはウカちゃんなら大歓迎じゃけど」
「~~ッ!」
「でもまあ、風邪ひかんようにほどほどにの」
その言い方は、お爺ちゃんが孫娘に向ける言葉くらいの安心感があって、やっぱり聞いたのが恥ずかしくなったけど、私は単純なので大歓迎と言われて嬉しい気持ちの方が勝った。今日は暑いよね、とカクさんに問うと、カクさんが、おうおう暑すぎて死にそうじゃ、と悪巧みの笑顔で答えてくれる。そうだよね、と羽織っていたシャツを脱いで腰に巻いた。
ちょうどその時、店のドアがチリンチリンと鳴って「カクのやつ、うまいことやりやがって」と言いながらどやどやと大股で店に入ってきたパウリーと目が合った。
「いらっしゃい……」
「なななななんて格好してるんだお前はッ!! シャツを羽織れシャツをー!!」
ほらの、言った通りじゃろ? という顔をしたカクさんと目が合う。
◆
「パウリーはさ、あの子には、言わないの?」あの子、に聞こえないように声を潜める。
「あ゛ァ…? 何を?」
今日のパウリーは一段と機嫌が悪いようで、それはもしかしたら私のせいかも、と自分の格好を顧みる。今日は丈が短めのタンクトップに、ショートパンツ、あとサンダル。いつもより肌色が多いかもしれない。全部乗せって感じだ。これは確かに、ちょっと調子に乗ってやりすぎたかも。
「服を着ろって、言わないのかな? って」
「……知るかっ」
パウリーはこれ以上話すことはない、と言わなかったが、代わりに態度で示した。そっぽを向いて、グラスを豪快にあおって空にすると、ゴトンとテーブルに置いて「同じの」と一言。
やりすぎた、とは思っても、今更またシャツを羽織るのは、それはそれできまりが悪い。だってそれじゃあまるで、パウリーのためだけに脱いでたと言うようなものじゃないか。
私は全然気にしていません、という笑顔で「はーい」と返事をして、カウンターの方へ戻る。お酒を準備していると、カクさんがカウンターに腰かけた。たまらず縋りたくなってしまう。
「カクさーん……、私のせい? だよね?」
「いい、いい。ありゃあ、拗ねとるだけじゃから」
「拗ねてる?」
「仕掛けたわしにも責任があるからの、種明かしを一つ」
「え?」
カクさんが、ちょいちょい、と手招きするのでパウリーのお酒を持ってホール側に回って、カウンターに座ったカクさんのそばに行く。カクさんがパウリーから口元を隠すように内緒話のポーズをとるので、つられて耳を寄せると、こちらを睨んでいるように見えるパウリーと目が合って気まずい。
「パウリーはな、気心知れた……仲良しにしか、言わんのじゃ」
「え?」
「服じゃ、服。道行く全員を捕まえて「服を着ろ」なんて叫んどったら、それは頭のおかしいやつじゃろう?」
「た、確かにそうだけど…」
そこまで言うとカクさんは内緒話をやめて、パウリーの方を向いた。今度はパウリーが、ぎくりときまずそうにしている。
「じゃからの、パウリーはウカちゃんを仲良しと、そう思っとるっちゅーことじゃな」
「おいカク!! お前何をッ!!」
「今日のウカちゃんはちょーっと刺激的すぎたのう、パウリー?」
図星だったのかわからないが、パウリーが顔を真っ赤にして言葉を失っている間に、カクさんが私を見つめて一言。
「そういうのはな、パウリーにだけ見せてやってくれんか?」
わしは大歓迎じゃけども! と力強く言うカクさんがおかしくて、涙が出るくらい笑った後、ひとまず拗ねているらしいパウリーのためにシャツを羽織った。パウリーはというと、せめて長ぇスカートはねェのか? とこの期に及んでまだ私に服を着せようとする。おしまい
パウリーはなんというか、女性が苦手というか、免疫がないというか、妙に古臭いというか、はたまたただ単に極度の照屋さんというやつなのか、判断はし難いが、要するに女性、特に肌の露出が多い女性に対して「なんてハレンチな格好をしているんだ!」と怒鳴るような男だった。肌を露出する、つまり、肩や臍や脚を出すだけで、顔を真っ赤にして、手でその目を覆って、何でもいいから早く服を着ろと喚くのだ。服はもう着ているのに。
世界にはこんな女の子がそこかしこに溢れているというのに、パウリーはそんな女の子たちをみんな天敵としてしまっている。こんな調子でどうやって生きていくというのだろう。だから私のこれは慈善事業、ボランティア。そして彼の言葉を借りれば嫌がらせ、セクシャルハラスメントとなる。
「またお前はッ! なんで俺が来ると脱ぐんだよ! 腹を出すな!」
「最近同じことばっかり……いい加減、諦めるか、慣れるかしないの? そんなんじゃ、生きていけないでしょう」
「余計なお世話だ!」
私は造船島、よりは裏町寄りにある酒場で給仕と接客を勤める一店員なのだが、ある夜のこと、ガレーラカンパニーの職長と名高いパウリーがふらっと入ってきて、ヤケ酒と思しきものをあおっていた。多分、ギャンブルで負けが込んだのだろう。ちくしょう絶対くると思ったのに、とギャンブルに弱い人がよくいう台詞が聞こえてくる。
その様子がなんだか不憫に思えて、なんとなく声をかけ、お酒だけだと身体に障ると賄いの一皿を出してあげたのだが、それが妙に気に入ったらしく、酔って焦点が定まらないようなぼうっとしていたパウリーの目が、ぱっと見開いた。
ふらふらと危なっかしい足取りで店のドアを開けて帰路につくパウリーを見送った、次の夜。パウリーは会社の職人仲間を大勢引き連れてやってきたのだ。その時期は、どうしても店の売り上げが落ちる時期だったので、不意の売り上げに店長も喜んでいた。今はそれも落ち着いて、パウリーとカクさん、ルッチさんあたりがたまに連れ立ってやってくるだけになっている。元々、常連さんがのんびりと過ごすような店だったので、これはこれでありがたい。
「ほら、お兄さん。あっちの子もなかなかに煽情的じゃなくて?」
「やめろ! 人のことよりもまずはお前だ!」
「……なんだか、すごく真っ当なことを言ってるように聞こえるね?」
「真っ当なことだろ!」
新しいグラスと空いたグラスを交換しながら、適当なおしゃべりに興じられるくらいにはパウリー達は通ってくれた。そんな中でカクさんから教えてもらったのが「パウリーは女の肌に弱い」だった。
◆
その日は、仕事が早く片付いたとカクさんだけが先にお店にやってきた。グラスを傾けながら、わしはどうも優秀すぎてのう、と冗談に聞こえないジョークで笑いを誘ったそのあとのことだ。
「肌? 露出ってこと?」
「社内では結構有名じゃぞ? 社長の秘書が毎日喚かれていて気の毒じゃ」
「そうなんだ……。私なんかでも、何か言ってくれるかな?」
「“なんか”なんぞ言うもんじゃない。ウカちゃんならパウリーのやつ、叫ぶぞ」
カクさんにそう言われて、少し試してみたくなってしまった。暑いからと言い訳して、カクさんに唆されたのだと言い訳して、今日羽織ってるシャツの下は、たまたまタンクトップだった。
「……絶対ないし、聞くのも恥ずかしいけど、カクさんが見たいとかじゃ、……」
「いや、わしはウカちゃんなら大歓迎じゃけど」
「~~ッ!」
「でもまあ、風邪ひかんようにほどほどにの」
その言い方は、お爺ちゃんが孫娘に向ける言葉くらいの安心感があって、やっぱり聞いたのが恥ずかしくなったけど、私は単純なので大歓迎と言われて嬉しい気持ちの方が勝った。今日は暑いよね、とカクさんに問うと、カクさんが、おうおう暑すぎて死にそうじゃ、と悪巧みの笑顔で答えてくれる。そうだよね、と羽織っていたシャツを脱いで腰に巻いた。
ちょうどその時、店のドアがチリンチリンと鳴って「カクのやつ、うまいことやりやがって」と言いながらどやどやと大股で店に入ってきたパウリーと目が合った。
「いらっしゃい……」
「なななななんて格好してるんだお前はッ!! シャツを羽織れシャツをー!!」
ほらの、言った通りじゃろ? という顔をしたカクさんと目が合う。
◆
「パウリーはさ、あの子には、言わないの?」あの子、に聞こえないように声を潜める。
「あ゛ァ…? 何を?」
今日のパウリーは一段と機嫌が悪いようで、それはもしかしたら私のせいかも、と自分の格好を顧みる。今日は丈が短めのタンクトップに、ショートパンツ、あとサンダル。いつもより肌色が多いかもしれない。全部乗せって感じだ。これは確かに、ちょっと調子に乗ってやりすぎたかも。
「服を着ろって、言わないのかな? って」
「……知るかっ」
パウリーはこれ以上話すことはない、と言わなかったが、代わりに態度で示した。そっぽを向いて、グラスを豪快にあおって空にすると、ゴトンとテーブルに置いて「同じの」と一言。
やりすぎた、とは思っても、今更またシャツを羽織るのは、それはそれできまりが悪い。だってそれじゃあまるで、パウリーのためだけに脱いでたと言うようなものじゃないか。
私は全然気にしていません、という笑顔で「はーい」と返事をして、カウンターの方へ戻る。お酒を準備していると、カクさんがカウンターに腰かけた。たまらず縋りたくなってしまう。
「カクさーん……、私のせい? だよね?」
「いい、いい。ありゃあ、拗ねとるだけじゃから」
「拗ねてる?」
「仕掛けたわしにも責任があるからの、種明かしを一つ」
「え?」
カクさんが、ちょいちょい、と手招きするのでパウリーのお酒を持ってホール側に回って、カウンターに座ったカクさんのそばに行く。カクさんがパウリーから口元を隠すように内緒話のポーズをとるので、つられて耳を寄せると、こちらを睨んでいるように見えるパウリーと目が合って気まずい。
「パウリーはな、気心知れた……仲良しにしか、言わんのじゃ」
「え?」
「服じゃ、服。道行く全員を捕まえて「服を着ろ」なんて叫んどったら、それは頭のおかしいやつじゃろう?」
「た、確かにそうだけど…」
そこまで言うとカクさんは内緒話をやめて、パウリーの方を向いた。今度はパウリーが、ぎくりときまずそうにしている。
「じゃからの、パウリーはウカちゃんを仲良しと、そう思っとるっちゅーことじゃな」
「おいカク!! お前何をッ!!」
「今日のウカちゃんはちょーっと刺激的すぎたのう、パウリー?」
図星だったのかわからないが、パウリーが顔を真っ赤にして言葉を失っている間に、カクさんが私を見つめて一言。
「そういうのはな、パウリーにだけ見せてやってくれんか?」
わしは大歓迎じゃけども! と力強く言うカクさんがおかしくて、涙が出るくらい笑った後、ひとまず拗ねているらしいパウリーのためにシャツを羽織った。パウリーはというと、せめて長ぇスカートはねェのか? とこの期に及んでまだ私に服を着せようとする。おしまい
「それじゃあ、初めての一人暮らしがんばってね。困ったことがあったらすぐ言って」
人の好さそうな大家から受けとった部屋の鍵を鍵穴に差し込むと、鍵は難なくするりと開いてドアノブが回るようになる。ドアを開けるとそこはがらんとしたただの箱に見えた。
ウォーターセブンへの潜入任務のために政府が借り上げ、カクにあてがった部屋はよく言えばシンプル、有体に言えば簡素な造りの1DKだったがカクにとっては初めての個室、初めての一人暮らしだったので広さは十分に感じた。だが、足を踏み入れるとなんとも他人行儀な感じで、まだよそよそしく、気持ちは落ち着かない。それでもここが、今日からカクの部屋だ。
とはいえ、ここからどうしたらいいかわからない。ひとまず、前の住人がそのまま置いていったというダイニングチェアに腰かけ、グアンハオから持ってきた少ない荷物を解いてテーブルに並べてみる。荷ほどきといっても、持ってきたのは訓練に使った大工道具と取り急ぎ必要だろうと思った着古した下着くらいだ。後者はこちらで新しく揃えたらさっさと捨てるつもりだ。グアンハオの名残はすべて残らず消してしまいたい。さっさと任務に必要な「明るくて人の好い十八歳の好青年」にならねば。
好青年用の服はある程度カリファが揃えてくれていた。「好青年」に似合いそうな明るい色の服を。ここに来る前に駅で別の諜報員から受けとったバッグをひっくり返し、出てきた服をいくつか眺めてみるが、これまで着るものは黒か白かの二択だったカクにはどれがいいのかよくわからない。ひとまず一番上にあったジャケットとジーンズを着ることにして、他は備え付けのクローゼットにしまい込んだ。面白がったカリファに下着も準備されそうになったのだが、カクのした力の限りの拒絶は受け入れられたようで、下着類は入っていなかった。胸を撫でおろす。
「まずはパンツを買わんとのう」
呟いてみても一人。返事はない。物音ひとつしない部屋を眺めて、また少ない荷物に視線を落とす。さて、この部屋には他に何が必要なのか。生きていくのに必要な諸々はすでに子供の頃から仕込まれている。グアンハオでは掃除洗濯炊事は当番制だ。だが、自分で選んで揃える、ということはしたことがなかった。施設にはすでに生きるのに必要なものは揃っていたし、それ以上のものを欲しがるということは許されていない。欲しい、という気持ちもよくわからなかった。施設にあってこの部屋にないもの、をピックアップしていく。
窓からはこの島のシンボルである大噴水が見え、ああ、カーテンがいるかと思う。コーヒーでも飲むかと立ち上がろうとしてマグカップもコーヒー豆もミルもケトルもないことに気づく。気づいて、買い足していく。これが生活か、と思った。全部自分で決める。ふと、ある二文字が心に躍って、思わず口の端があがる。
「待てよ、これからはパンツの色も考えにゃならんのか?」
面倒じゃのう、と思いつつ緩む口元はそのままにした。ついでに話相手の観葉植物でも見てみるか、とカクは黒いティーシャツを脱いで「好青年」として出かける準備を始める。
仮初でも、束の間でも構わない。この程度の代償で自由が手に入るなら。おしまい
いろいろ考えたいふたりvol.01