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No.16, No.15, No.14, No.13, No.12, No.11, No.10[7件]
IrishKiss #アイスバーグ
望みがないのは知っていたし、不毛な恋だというのも知っていました。それでも好きになってしまったから、私はせめて、この気持ちがこれ以上大きくならないように、育たないように、念には念を。慎重に。過ごしていたのに。
「おはよう、ウカ」
「おはようございます、社長。今日もお早いですね」
「ンマー、今日はいい天気だったから、空気が気持ち良くて、な」
アイスバーグ社長はそう言いながら、玄関をゆっくり、大きく全開にして、社に朝の空気と光を入れた。
アイスバーグ社長は、社員の顔と名前を全て記憶していて、会えば必ず一言二言かけてくれるような人だったけれど、社長は私が眠い目をこすりながらもなんとか起きて、会社に一番に出勤する理由までは知らないだろう。
私は、社長が、アイスバーグさんが、好きだ。
私は船を造れるわけでも、製図が書けるわけでも、秘書として社長のそばで力になることもできない。誰にでも出来る仕事を任されて一日のほとんどを事務室で過ごしている。私の代わりはいくらでもいる。社長にしてみれば、何百人もいる社員のうちの一人にすぎないはずだ。私にとっては、社長はただ一人でも。
その事実は私を時々悲しませることはあったけど、これくらいがいいのだとも思っていた。だってこれ以上好きになってしまったら。辛い。
どこに惹かれたのかと問われれば参ってしまう。別段きっかけがあったわけではなかったと思う。入社した当時、確かに社長は「社長」でしかなかったはずなのに、いつのまにか心の中で「アイスバーグさん」と呼ぶようになった。職人のみなさんがそう呼ぶからだろうか。
アイスバーグさん、アイスバーグさん
届かないのを知っていて、私は社長の背中に声にしない息を吐く。社長は腰に手をあてて空を仰いでいる。私は彼の後ろで秘密の呪文を唱える。
アイスバーグさん、アイスバーグさん
こうやって愛しい人の名を呟けば、わたしの中でくすぶって、 わたしを可笑しくさせる「恋」と呼ばれる魔物を外へ追い出せる気がしたのだ。 どんどんこうやって追い出していけばそのうち、私はもっと望みのある恋を探せる。 そうやって信じて、どんどん、どんどん。なのに、
「ウカ」
突然振り向いた貴方が、
「なんでしょう?」
「ンマー…」
髪切ったんだなァ、なんて言うからおしまい
望みがないのは知っていたし、不毛な恋だというのも知っていました。それでも好きになってしまったから、私はせめて、この気持ちがこれ以上大きくならないように、育たないように、念には念を。慎重に。過ごしていたのに。
「おはよう、ウカ」
「おはようございます、社長。今日もお早いですね」
「ンマー、今日はいい天気だったから、空気が気持ち良くて、な」
アイスバーグ社長はそう言いながら、玄関をゆっくり、大きく全開にして、社に朝の空気と光を入れた。
アイスバーグ社長は、社員の顔と名前を全て記憶していて、会えば必ず一言二言かけてくれるような人だったけれど、社長は私が眠い目をこすりながらもなんとか起きて、会社に一番に出勤する理由までは知らないだろう。
私は、社長が、アイスバーグさんが、好きだ。
私は船を造れるわけでも、製図が書けるわけでも、秘書として社長のそばで力になることもできない。誰にでも出来る仕事を任されて一日のほとんどを事務室で過ごしている。私の代わりはいくらでもいる。社長にしてみれば、何百人もいる社員のうちの一人にすぎないはずだ。私にとっては、社長はただ一人でも。
その事実は私を時々悲しませることはあったけど、これくらいがいいのだとも思っていた。だってこれ以上好きになってしまったら。辛い。
どこに惹かれたのかと問われれば参ってしまう。別段きっかけがあったわけではなかったと思う。入社した当時、確かに社長は「社長」でしかなかったはずなのに、いつのまにか心の中で「アイスバーグさん」と呼ぶようになった。職人のみなさんがそう呼ぶからだろうか。
アイスバーグさん、アイスバーグさん
届かないのを知っていて、私は社長の背中に声にしない息を吐く。社長は腰に手をあてて空を仰いでいる。私は彼の後ろで秘密の呪文を唱える。
アイスバーグさん、アイスバーグさん
こうやって愛しい人の名を呟けば、わたしの中でくすぶって、 わたしを可笑しくさせる「恋」と呼ばれる魔物を外へ追い出せる気がしたのだ。 どんどんこうやって追い出していけばそのうち、私はもっと望みのある恋を探せる。 そうやって信じて、どんどん、どんどん。なのに、
「ウカ」
突然振り向いた貴方が、
「なんでしょう?」
「ンマー…」
髪切ったんだなァ、なんて言うからおしまい
美少年に殺されたい #ルッチ
美少年に殺されたい。
司法の塔の冷たい廊下で、立派な大人たちを引き連れて王のように歩いていた彼とすれ違っただけで、私はすっかり心奪われてしまった。明日も知れぬ我が身。どうせ死ぬなら、彼に、この子に殺されたい。そう願ってから早十五年。私は死ぬことなく生き延びて、美少年はただの憎らしい上司になっただけだった。今となっては彼の手にかかるのだけはごめんだと思う。絶対に楽に死なせてくれないだろう。
若さくらいしか取り柄がなかったその頃の私は、雑に配されたチームでターゲットにハニートラップを仕掛けるよう命じられ、心底疲弊していた。ターゲットと肌を重ねるに至るほどではなかったが、それでも意に沿わない相手と密な時間を過ごすのはただただ苦痛で、このような仕事しか任せてもらえないことにも傷ついたし、悔しかった。
「あなたには、まだ早いのではないですか?」
「え?」
「その香り。あなたらしいとは言い難い」
いつもは立派な大人たちを引き連れて王のように歩いている彼は、その時珍しく一人だった。ただすれ違うだけかと思ったのに、私の足を彼の問いが引き留めた。私より年若いはずの彼が、私を小娘のように扱うのは不愉快ではなく、なんだかとてもしっくりくる。
「仕事で、必要で」
「……色仕掛け?」
「まあ、有体に言えば」
ルッチさんは少しだけ目を見開いた後、ミスマッチですね、と軽く笑った。そして、止めた足をまた踏み出しながら片手をあげ、失礼なことを言いましたね、と廊下の奥に去っていく。私だけがその場に立ち止まって、遠くなる彼の背中を見つめていた。彼は一度も振り向かなかった。
それから少したってチームと現場から外され、事務官に回されたのは偶然だっただろうか。
「あのときは死にそうな顔をしていたな」
ただの憎らしい上司になったルッチさんが、急に思い出話を始めるので驚いた。しかもどうやら私のことらしい。何の話ですか、と思ったまま問うと、鼻をすんとさせてあからさまに不満げな顔をする。いつまで同じ香りで過ごすつもりなんだ、と。
「覚えて、いらっしゃるんですか」
「記憶力はいい方だ。あなたと違って」
美少年はもういない。仕方がないけど諦めて、かつての美少年に仕えてもう少し生きることにする。
ガーデニア いつの間にやらチュベローズ 肌に馴染んでポムグラネイトおしまい
美少年に殺されたい。
司法の塔の冷たい廊下で、立派な大人たちを引き連れて王のように歩いていた彼とすれ違っただけで、私はすっかり心奪われてしまった。明日も知れぬ我が身。どうせ死ぬなら、彼に、この子に殺されたい。そう願ってから早十五年。私は死ぬことなく生き延びて、美少年はただの憎らしい上司になっただけだった。今となっては彼の手にかかるのだけはごめんだと思う。絶対に楽に死なせてくれないだろう。
若さくらいしか取り柄がなかったその頃の私は、雑に配されたチームでターゲットにハニートラップを仕掛けるよう命じられ、心底疲弊していた。ターゲットと肌を重ねるに至るほどではなかったが、それでも意に沿わない相手と密な時間を過ごすのはただただ苦痛で、このような仕事しか任せてもらえないことにも傷ついたし、悔しかった。
「あなたには、まだ早いのではないですか?」
「え?」
「その香り。あなたらしいとは言い難い」
いつもは立派な大人たちを引き連れて王のように歩いている彼は、その時珍しく一人だった。ただすれ違うだけかと思ったのに、私の足を彼の問いが引き留めた。私より年若いはずの彼が、私を小娘のように扱うのは不愉快ではなく、なんだかとてもしっくりくる。
「仕事で、必要で」
「……色仕掛け?」
「まあ、有体に言えば」
ルッチさんは少しだけ目を見開いた後、ミスマッチですね、と軽く笑った。そして、止めた足をまた踏み出しながら片手をあげ、失礼なことを言いましたね、と廊下の奥に去っていく。私だけがその場に立ち止まって、遠くなる彼の背中を見つめていた。彼は一度も振り向かなかった。
それから少したってチームと現場から外され、事務官に回されたのは偶然だっただろうか。
「あのときは死にそうな顔をしていたな」
ただの憎らしい上司になったルッチさんが、急に思い出話を始めるので驚いた。しかもどうやら私のことらしい。何の話ですか、と思ったまま問うと、鼻をすんとさせてあからさまに不満げな顔をする。いつまで同じ香りで過ごすつもりなんだ、と。
「覚えて、いらっしゃるんですか」
「記憶力はいい方だ。あなたと違って」
美少年はもういない。仕方がないけど諦めて、かつての美少年に仕えてもう少し生きることにする。
ガーデニア いつの間にやらチュベローズ 肌に馴染んでポムグラネイトおしまい
プレゼント・フォー・ユー #カク #はな誕
カクはいつも部屋に鍵をかけない。うっかり忘れちゃうらしい。その度に危ないよって言うけど、盗まれて困るようなものはないって開き直る。もし、泥棒や海賊が入ってきたら返り討ちにしちゃる、って得意げだけどそういう問題じゃない。部屋に誰かが忍び込んでるかもしれないじゃないって心配すると、長くて目立つ鼻で軽く笑って「わしの部屋に隠れられるはずがない」となぜか自信満々だ。
まあ確かに、カクの部屋は家具もだけど物も少なくて、本当にここに住んでるのかなと疑いたくなるくらいだし、クローゼットもすかすかだから、カクの言う通りこの部屋に隠れられる場所はないかもしれないと思い直して、私は何も言えなくなる。
今日はそんなカクの誕生日だ。カクの部屋でご飯を一緒に食べよう、と約束だけしてある。
プレゼントは迷ったけれど、パウリーやルッチさん、ルルさん、タイルストンさんにもリサーチ済みだからこれで大丈夫なはず。本当はカリファさんにも聞きたかったけど、タイミングが合わなくて聞けなかった。仕方ない。
カクの待つ部屋に、準備した料理とケーキを抱えて遊びに行った。
鍵はかかっていないと知っているけど、私は一応呼び鈴を鳴らして、カクがドアを開けてくれるのを待つことにしている。今日は生憎両手が塞がっていて呼び鈴まで手が届かなかったので「カクー! 来たよー!」とドアの外から声をかけた。ガチャ、と開いたドアがまだすべて開かぬうちに「カク、お誕生日おめでとう!」と待ちきれずに祝う。
「おお! ありがとう。そうか、覚えとってくれたんじゃな」
「当たり前じゃん。準備万端です」
私の荷物を引き受けて部屋へ向かうカクの背中に、もう少ししたらピザも来るよと声をかけながら、カクに気づかれぬようそっと部屋を見回すと、相変わらずカクの部屋に物は増えていなくて、誕生日プレゼントとは言え、ここに物を増やすのは気が引ける。
さして大きくないダイニングテーブルは私の持ってきた料理ですぐいっぱいになった。パズルみたいに料理を並べているうちに、ピザも届いて、パズルはさらに困難を極めたがなんとか隙間なく配置することで事なきを得る。
「はい、これケーキ! 私、チョコ好きだからチョコバナナのにしちゃった」
「おお、しっかりしとるのう」
カクは唇の端でだけ笑った。テーブルに乗らないケーキの箱を、シンクに置くカクの背中に、私は一生懸命言い訳する。
「だって、ケーキってやっぱり特別じゃん。食べられる機会は逃さないようにしないと」
「ちょっと前にダイエット宣言を聞いた気がするんじゃが」
「なにそれ、覚えてないな。今日はお祝いだもん。カロリーなんか気にしないよ! 料理はオリーブオイルとチーズたっぷりじゃないと美味しくないでしょう。ピザも三種類頼んじゃったし。マルゲリータと、クアトロフォルマッジ、オルトラーナ」
カクがいよいよ堪えきれずに噴き出した。何事にも息抜きは必要じゃな、と。
「わしのために、ダイエットを捨て置いてくれるなんて嬉しいのう」
「もう、しつこいなあ」
「まさかプレゼントまであるなんて言わんじゃろう? もう十分じゃぞ」
「ふふふ……。プレゼントはなんと!」
「あるのか」
「わ・た・し、だよ!」
「え?」
「ほら、ちゃんとリボンも巻いてきた」
カクに見せつけるように頭と手首を振る。頭にはヘアアレンジに見えるようにリボンを、ついでに手首にもささやかながら巻いていたのだ。本当はド派手にラッピングしても良かったが、ぎりぎり外を歩けるラインはこれが限界だった。
カクの大笑いを待つ数秒が長い。というより、いつまでもおとずれない。沈黙がどかっと胡坐をかいて鎮座しているかのよう。
やばい。はずした? カクがわかりやすく見事に固まっている
もちろん、他にもちゃんと準備している。だからこれはおまけ、余興、ちょっとした冗談のつもりだったんだけど。
「わ・た・し、ってなんじゃ? どこまで?」
ようやく(といっても多分ほんの数秒だったのだけど)カクが口を開いた。余興でそこまで設定を作りこんだつもりはない。なに? ってなに? どこまで? ってどこ?
「え、ぜ、んぶ?」
「へえ」
カクはすっと立ち上がって、玄関に向かった。何をするかと思えば、がちゃりという音がだけが聞こえる。ずっと聞きたかった音。この部屋の鍵を閉める音だ。でも。
「なんで、鍵、しめたの?」
「開けておいた方がよかったか? 上級者じゃのう」
「え、待って待って。何の話?」
「待てるわけなかろ。料理もケーキも後じゃ、後」
「何の後⁉」
「リボンまで準備して。さすが。準備万端じゃな」
あっという間に抱きかかえられた私はなすすべもなく、冷めていく料理を横目に、寝室に連れていかれる。おしまい
カクはいつも部屋に鍵をかけない。うっかり忘れちゃうらしい。その度に危ないよって言うけど、盗まれて困るようなものはないって開き直る。もし、泥棒や海賊が入ってきたら返り討ちにしちゃる、って得意げだけどそういう問題じゃない。部屋に誰かが忍び込んでるかもしれないじゃないって心配すると、長くて目立つ鼻で軽く笑って「わしの部屋に隠れられるはずがない」となぜか自信満々だ。
まあ確かに、カクの部屋は家具もだけど物も少なくて、本当にここに住んでるのかなと疑いたくなるくらいだし、クローゼットもすかすかだから、カクの言う通りこの部屋に隠れられる場所はないかもしれないと思い直して、私は何も言えなくなる。
今日はそんなカクの誕生日だ。カクの部屋でご飯を一緒に食べよう、と約束だけしてある。
プレゼントは迷ったけれど、パウリーやルッチさん、ルルさん、タイルストンさんにもリサーチ済みだからこれで大丈夫なはず。本当はカリファさんにも聞きたかったけど、タイミングが合わなくて聞けなかった。仕方ない。
カクの待つ部屋に、準備した料理とケーキを抱えて遊びに行った。
鍵はかかっていないと知っているけど、私は一応呼び鈴を鳴らして、カクがドアを開けてくれるのを待つことにしている。今日は生憎両手が塞がっていて呼び鈴まで手が届かなかったので「カクー! 来たよー!」とドアの外から声をかけた。ガチャ、と開いたドアがまだすべて開かぬうちに「カク、お誕生日おめでとう!」と待ちきれずに祝う。
「おお! ありがとう。そうか、覚えとってくれたんじゃな」
「当たり前じゃん。準備万端です」
私の荷物を引き受けて部屋へ向かうカクの背中に、もう少ししたらピザも来るよと声をかけながら、カクに気づかれぬようそっと部屋を見回すと、相変わらずカクの部屋に物は増えていなくて、誕生日プレゼントとは言え、ここに物を増やすのは気が引ける。
さして大きくないダイニングテーブルは私の持ってきた料理ですぐいっぱいになった。パズルみたいに料理を並べているうちに、ピザも届いて、パズルはさらに困難を極めたがなんとか隙間なく配置することで事なきを得る。
「はい、これケーキ! 私、チョコ好きだからチョコバナナのにしちゃった」
「おお、しっかりしとるのう」
カクは唇の端でだけ笑った。テーブルに乗らないケーキの箱を、シンクに置くカクの背中に、私は一生懸命言い訳する。
「だって、ケーキってやっぱり特別じゃん。食べられる機会は逃さないようにしないと」
「ちょっと前にダイエット宣言を聞いた気がするんじゃが」
「なにそれ、覚えてないな。今日はお祝いだもん。カロリーなんか気にしないよ! 料理はオリーブオイルとチーズたっぷりじゃないと美味しくないでしょう。ピザも三種類頼んじゃったし。マルゲリータと、クアトロフォルマッジ、オルトラーナ」
カクがいよいよ堪えきれずに噴き出した。何事にも息抜きは必要じゃな、と。
「わしのために、ダイエットを捨て置いてくれるなんて嬉しいのう」
「もう、しつこいなあ」
「まさかプレゼントまであるなんて言わんじゃろう? もう十分じゃぞ」
「ふふふ……。プレゼントはなんと!」
「あるのか」
「わ・た・し、だよ!」
「え?」
「ほら、ちゃんとリボンも巻いてきた」
カクに見せつけるように頭と手首を振る。頭にはヘアアレンジに見えるようにリボンを、ついでに手首にもささやかながら巻いていたのだ。本当はド派手にラッピングしても良かったが、ぎりぎり外を歩けるラインはこれが限界だった。
カクの大笑いを待つ数秒が長い。というより、いつまでもおとずれない。沈黙がどかっと胡坐をかいて鎮座しているかのよう。
やばい。はずした? カクがわかりやすく見事に固まっている
もちろん、他にもちゃんと準備している。だからこれはおまけ、余興、ちょっとした冗談のつもりだったんだけど。
「わ・た・し、ってなんじゃ? どこまで?」
ようやく(といっても多分ほんの数秒だったのだけど)カクが口を開いた。余興でそこまで設定を作りこんだつもりはない。なに? ってなに? どこまで? ってどこ?
「え、ぜ、んぶ?」
「へえ」
カクはすっと立ち上がって、玄関に向かった。何をするかと思えば、がちゃりという音がだけが聞こえる。ずっと聞きたかった音。この部屋の鍵を閉める音だ。でも。
「なんで、鍵、しめたの?」
「開けておいた方がよかったか? 上級者じゃのう」
「え、待って待って。何の話?」
「待てるわけなかろ。料理もケーキも後じゃ、後」
「何の後⁉」
「リボンまで準備して。さすが。準備万端じゃな」
あっという間に抱きかかえられた私はなすすべもなく、冷めていく料理を横目に、寝室に連れていかれる。おしまい
君は特別 #サンジ
「サンジさんの特別扱いは、特別扱いじゃないよね」
楽しくなるはずの夏の夜に似合わない不穏な表情で、隣の彼女が言った。海風が彼女の髪を攫っていく。彼女は鬱陶しそうにしながら、ぱらつく髪を耳にかけた。夜の海は吸い込まれそうな闇を宿していて、月の光だけでは照らし切れない。彼女の静かな怒りは、夜の海からきているように思えた。
今夜は沖合に碇を下ろして停泊している。なんでも、もう目の前に見えている島では今夜、花火が上がるらしい。それならば、障害物のない海からの方が綺麗に見えるのではというナミさんの発案だった。
島に出ているだろう屋台や出店に負けぬよう、料理を準備し、テーブルに並べて、あとは花火が上がるのを待つばかり。少しも待てない仲間たちは酒を片手にブルックの伴奏にあわせて陽気に歌っている。それに背を向け、海を、島を無言で見つめるウカちゃんに声をかけたらこれだ。
「サンジさんにとって、女の子はみんな特別でしょう? でも、それって、女の子ならみんな、だよね。特別でも何でもない」
何がトリガーになったのかわからない。
ナミさんやロビンちゃんに優しい笑顔を振りまいたのがよくなかったのか。エスコートの仕方がまずかったか。わかりやすく嫉妬に身を焦がすさまが可愛いと思えたのは、彼女のおかげだった。多くのレディ達は、おれの愛を都合よく利用するか、はたまた信用ならない男と無下にあしらうかで、それは、百パーセントおれの態度の問題だから、仕方がない。それもまた、よし。
でも、彼女は、おれの愛を真っ向から受け止めたうえで、こうもわかりやすく嫉妬してくれる。
「ならいっそ、普通にしてよ」
ドンッ! ドンッ! パチパチパチパチ……
「好きな子に普通になんて、出来ないよ」
「え? なに?」
ドンッ! ドン、ドンッ!
「好きな子に普通になんて、出来ないよ」
わざと花火の音に合わせて。彼女が諦めてくれるまで何度も。別に、嘘じゃないから聞こえても構わないけれど。聞こえたら聞こえたで、彼女はまた「嘘ばっかり」と言いながら、しぶしぶ機嫌を直してくれる気がする。
好きな子に普通になんて、出来ないよおしまい
「サンジさんの特別扱いは、特別扱いじゃないよね」
楽しくなるはずの夏の夜に似合わない不穏な表情で、隣の彼女が言った。海風が彼女の髪を攫っていく。彼女は鬱陶しそうにしながら、ぱらつく髪を耳にかけた。夜の海は吸い込まれそうな闇を宿していて、月の光だけでは照らし切れない。彼女の静かな怒りは、夜の海からきているように思えた。
今夜は沖合に碇を下ろして停泊している。なんでも、もう目の前に見えている島では今夜、花火が上がるらしい。それならば、障害物のない海からの方が綺麗に見えるのではというナミさんの発案だった。
島に出ているだろう屋台や出店に負けぬよう、料理を準備し、テーブルに並べて、あとは花火が上がるのを待つばかり。少しも待てない仲間たちは酒を片手にブルックの伴奏にあわせて陽気に歌っている。それに背を向け、海を、島を無言で見つめるウカちゃんに声をかけたらこれだ。
「サンジさんにとって、女の子はみんな特別でしょう? でも、それって、女の子ならみんな、だよね。特別でも何でもない」
何がトリガーになったのかわからない。
ナミさんやロビンちゃんに優しい笑顔を振りまいたのがよくなかったのか。エスコートの仕方がまずかったか。わかりやすく嫉妬に身を焦がすさまが可愛いと思えたのは、彼女のおかげだった。多くのレディ達は、おれの愛を都合よく利用するか、はたまた信用ならない男と無下にあしらうかで、それは、百パーセントおれの態度の問題だから、仕方がない。それもまた、よし。
でも、彼女は、おれの愛を真っ向から受け止めたうえで、こうもわかりやすく嫉妬してくれる。
「ならいっそ、普通にしてよ」
ドンッ! ドンッ! パチパチパチパチ……
「好きな子に普通になんて、出来ないよ」
「え? なに?」
ドンッ! ドン、ドンッ!
「好きな子に普通になんて、出来ないよ」
わざと花火の音に合わせて。彼女が諦めてくれるまで何度も。別に、嘘じゃないから聞こえても構わないけれど。聞こえたら聞こえたで、彼女はまた「嘘ばっかり」と言いながら、しぶしぶ機嫌を直してくれる気がする。
好きな子に普通になんて、出来ないよおしまい
タンデム#カク
「ねえ、私も乗せてよ」
ウカの少し甘えたような声にカクはわかりやすくうんざりした顔で「嫌じゃって言っとるのに」と返した。そうすると今度はウカの方がうんざりした顔で「ケチ」と口を尖らせる。
「ルッチさんは乗せてるじゃん」
「ルッチに逆らえるわけなかろう」
「パウリーだって乗せてるのに」
「あいつは後が面倒なんじゃ」
カクはウカの追及を難なく躱していく。的確に最適解を打ち返していく様は私の質問なんてお見通し、といった具合で面白くない。
カクは少し前、念願だったという大きなバイクを手に入れて、常に乗る口実を探していた。それまでは先輩から格安で譲ってもらったというバイクに乗って練習を重ねていたのだが、ついにお金が貯まり、憧れだったバイクを購入したらしい。
私はバイクには全然詳しくないけれど、黒くて大きな熊みたいな乗り物を、細身の体で自在に操って取りまわす姿は、心底かっこよくて惚れ直していた。ヴヴヴ、と低い唸り声をあげるそれは、完全にカクに服従しているように見え、様になっている。
カクは真面目だから、ちゃんとバイクに乗るのに適した服に着替えるし、ブーツも履く。黒いバイクにあわせて、ジャケットやヘルメット、グローブなんかも黒を基調に揃えたのだと言う。カクは、普段は明るい色を好んで身に着けているから、バイクに乗るときだけ全身真っ黒に染まるのは、なんだか特別な儀式のための礼装みたいでドキドキする。髪の色だけやけに明るくみえて、それが真っ黒の中に一点、アクセントになっていいなと思った。
「ねえ、わたしも」
「あのなあ、ウカ」
カクはまるで小さな子供に言い聞かせるように言葉を切って、強調した。
「バイクは走る棺桶なんじゃ。そんなもんにウカを乗せられるわけなかろう」
「わたし、カクとなら一緒に棺桶入りたいけど」
「一緒に入れるかわからんじゃろ!」
カクは、わしだけ死ぬならまだしもウカだけをひとり死なせてしまったら生きていけん、と恥ずかしいセリフをあっけらかんと言った。あまりに事も無げに言うので、心がこもっていないようにすら思える。
「でもさ」
「ん?」
「じゃあ、なんでヘルメットが二つあるの?」
わたしの分かと思っていたのに、とウカが目を伏せるとカクが今日初めて二の句を継げなくなった。カクは視線を空に彷徨わせて、観念したように頭をかく。
「すまん。本当はウカも乗せたくて準備はしとった」
「え、そうなの?」
「じゃけど、二人乗りも練習が必要での。ルッチとパウリーに付き合ってもらっとったんじゃ」
ウカのヘルメットはちゃんと別に用意しとるよ、とカクはすべてを諦めたように教えてくれる。練習って、いつまで? とわたしがソワソワしながら尋ねるとカクは大きなため息をついて、
「行くか」
と言った。すぐ後に、少しだけ、と付け足す。
「デニムとブーツ、あと皮ジャンあったじゃろ?」
「わしの腰から絶対手を離さんようにな」
「曲がるときは怖がらずに身体を傾けるんじゃぞ」
カクが先にバイクに跨ってバイクを安定させてくれる。わたしは、カクの肩に手をかけてぐっと足を蹴る。タイヤがわたしの体重分、ぐっと凹んでバイクが沈み込んだ。ゆっくり腰を下ろすと、太陽の光で温まったシートが熱いくらいだった。カクの背中に胸をぴっとつけて抱きしめると、カクがはあ、とまたため息をつく。
「緊張する」
「な、んかごめん」
「いや、夢じゃったから」
カクが勢いよくキックペダルを踏みこむと、エンジンが震えながら目を覚まし、ドッドッドッドと鼓動を打ち始めた。
「行くか」
わたしはまだどこにも行けていないのに、長い旅をしてきたような不思議な気分になった。カクがアクセルをゆっくり捻って走りだす。わたしはカクの腰に回した腕に力を込める。狭いヘルメットの視界から「自由」が見えた気がした。おしまい
「ねえ、私も乗せてよ」
ウカの少し甘えたような声にカクはわかりやすくうんざりした顔で「嫌じゃって言っとるのに」と返した。そうすると今度はウカの方がうんざりした顔で「ケチ」と口を尖らせる。
「ルッチさんは乗せてるじゃん」
「ルッチに逆らえるわけなかろう」
「パウリーだって乗せてるのに」
「あいつは後が面倒なんじゃ」
カクはウカの追及を難なく躱していく。的確に最適解を打ち返していく様は私の質問なんてお見通し、といった具合で面白くない。
カクは少し前、念願だったという大きなバイクを手に入れて、常に乗る口実を探していた。それまでは先輩から格安で譲ってもらったというバイクに乗って練習を重ねていたのだが、ついにお金が貯まり、憧れだったバイクを購入したらしい。
私はバイクには全然詳しくないけれど、黒くて大きな熊みたいな乗り物を、細身の体で自在に操って取りまわす姿は、心底かっこよくて惚れ直していた。ヴヴヴ、と低い唸り声をあげるそれは、完全にカクに服従しているように見え、様になっている。
カクは真面目だから、ちゃんとバイクに乗るのに適した服に着替えるし、ブーツも履く。黒いバイクにあわせて、ジャケットやヘルメット、グローブなんかも黒を基調に揃えたのだと言う。カクは、普段は明るい色を好んで身に着けているから、バイクに乗るときだけ全身真っ黒に染まるのは、なんだか特別な儀式のための礼装みたいでドキドキする。髪の色だけやけに明るくみえて、それが真っ黒の中に一点、アクセントになっていいなと思った。
「ねえ、わたしも」
「あのなあ、ウカ」
カクはまるで小さな子供に言い聞かせるように言葉を切って、強調した。
「バイクは走る棺桶なんじゃ。そんなもんにウカを乗せられるわけなかろう」
「わたし、カクとなら一緒に棺桶入りたいけど」
「一緒に入れるかわからんじゃろ!」
カクは、わしだけ死ぬならまだしもウカだけをひとり死なせてしまったら生きていけん、と恥ずかしいセリフをあっけらかんと言った。あまりに事も無げに言うので、心がこもっていないようにすら思える。
「でもさ」
「ん?」
「じゃあ、なんでヘルメットが二つあるの?」
わたしの分かと思っていたのに、とウカが目を伏せるとカクが今日初めて二の句を継げなくなった。カクは視線を空に彷徨わせて、観念したように頭をかく。
「すまん。本当はウカも乗せたくて準備はしとった」
「え、そうなの?」
「じゃけど、二人乗りも練習が必要での。ルッチとパウリーに付き合ってもらっとったんじゃ」
ウカのヘルメットはちゃんと別に用意しとるよ、とカクはすべてを諦めたように教えてくれる。練習って、いつまで? とわたしがソワソワしながら尋ねるとカクは大きなため息をついて、
「行くか」
と言った。すぐ後に、少しだけ、と付け足す。
「デニムとブーツ、あと皮ジャンあったじゃろ?」
「わしの腰から絶対手を離さんようにな」
「曲がるときは怖がらずに身体を傾けるんじゃぞ」
カクが先にバイクに跨ってバイクを安定させてくれる。わたしは、カクの肩に手をかけてぐっと足を蹴る。タイヤがわたしの体重分、ぐっと凹んでバイクが沈み込んだ。ゆっくり腰を下ろすと、太陽の光で温まったシートが熱いくらいだった。カクの背中に胸をぴっとつけて抱きしめると、カクがはあ、とまたため息をつく。
「緊張する」
「な、んかごめん」
「いや、夢じゃったから」
カクが勢いよくキックペダルを踏みこむと、エンジンが震えながら目を覚まし、ドッドッドッドと鼓動を打ち始めた。
「行くか」
わたしはまだどこにも行けていないのに、長い旅をしてきたような不思議な気分になった。カクがアクセルをゆっくり捻って走りだす。わたしはカクの腰に回した腕に力を込める。狭いヘルメットの視界から「自由」が見えた気がした。おしまい
自由の代償 #カク
「それじゃあ、初めての一人暮らしがんばってね。困ったことがあったらすぐ言って」
人の好さそうな大家から受けとった部屋の鍵を鍵穴に差し込むと、鍵は難なくするりと開いてドアノブが回るようになる。ドアを開けるとそこはがらんとしたただの箱に見えた。
ウォーターセブンへの潜入任務のために政府が借り上げ、カクにあてがった部屋はよく言えばシンプル、有体に言えば簡素な造りの1DKだったがカクにとっては初めての個室、初めての一人暮らしだったので広さは十分に感じた。だが、足を踏み入れるとなんとも他人行儀な感じで、まだよそよそしく、気持ちは落ち着かない。それでもここが、今日からカクの部屋だ。
とはいえ、ここからどうしたらいいかわからない。ひとまず、前の住人がそのまま置いていったというダイニングチェアに腰かけ、グアンハオから持ってきた少ない荷物を解いてテーブルに並べてみる。荷ほどきといっても、持ってきたのは訓練に使った大工道具と取り急ぎ必要だろうと思った着古した下着くらいだ。後者はこちらで新しく揃えたらさっさと捨てるつもりだ。グアンハオの名残はすべて残らず消してしまいたい。さっさと任務に必要な「明るくて人の好い十八歳の好青年」にならねば。
好青年用の服はある程度カリファが揃えてくれていた。「好青年」に似合いそうな明るい色の服を。ここに来る前に駅で別の諜報員から受けとったバッグをひっくり返し、出てきた服をいくつか眺めてみるが、これまで着るものは黒か白かの二択だったカクにはどれがいいのかよくわからない。ひとまず一番上にあったジャケットとジーンズを着ることにして、他は備え付けのクローゼットにしまい込んだ。面白がったカリファに下着も準備されそうになったのだが、カクのした力の限りの拒絶は受け入れられたようで、下着類は入っていなかった。胸を撫でおろす。
「まずはパンツを買わんとのう」
呟いてみても一人。返事はない。物音ひとつしない部屋を眺めて、また少ない荷物に視線を落とす。さて、この部屋には他に何が必要なのか。生きていくのに必要な諸々はすでに子供の頃から仕込まれている。グアンハオでは掃除洗濯炊事は当番制だ。だが、自分で選んで揃える、ということはしたことがなかった。施設にはすでに生きるのに必要なものは揃っていたし、それ以上のものを欲しがるということは許されていない。欲しい、という気持ちもよくわからなかった。施設にあってこの部屋にないもの、をピックアップしていく。
窓からはこの島のシンボルである大噴水が見え、ああ、カーテンがいるかと思う。コーヒーでも飲むかと立ち上がろうとしてマグカップもコーヒー豆もミルもケトルもないことに気づく。気づいて、買い足していく。これが生活か、と思った。全部自分で決める。ふと、ある二文字が心に躍って、思わず口の端があがる。
「待てよ、これからはパンツの色も考えにゃならんのか?」
面倒じゃのう、と思いつつ緩む口元はそのままにした。ついでに話相手の観葉植物でも見てみるか、とカクは黒いティーシャツを脱いで「好青年」として出かける準備を始める。
仮初でも、束の間でも構わない。この程度の代償で自由が手に入るなら。おしまい
いろいろ考えたいふたりvol.01
「それじゃあ、初めての一人暮らしがんばってね。困ったことがあったらすぐ言って」
人の好さそうな大家から受けとった部屋の鍵を鍵穴に差し込むと、鍵は難なくするりと開いてドアノブが回るようになる。ドアを開けるとそこはがらんとしたただの箱に見えた。
ウォーターセブンへの潜入任務のために政府が借り上げ、カクにあてがった部屋はよく言えばシンプル、有体に言えば簡素な造りの1DKだったがカクにとっては初めての個室、初めての一人暮らしだったので広さは十分に感じた。だが、足を踏み入れるとなんとも他人行儀な感じで、まだよそよそしく、気持ちは落ち着かない。それでもここが、今日からカクの部屋だ。
とはいえ、ここからどうしたらいいかわからない。ひとまず、前の住人がそのまま置いていったというダイニングチェアに腰かけ、グアンハオから持ってきた少ない荷物を解いてテーブルに並べてみる。荷ほどきといっても、持ってきたのは訓練に使った大工道具と取り急ぎ必要だろうと思った着古した下着くらいだ。後者はこちらで新しく揃えたらさっさと捨てるつもりだ。グアンハオの名残はすべて残らず消してしまいたい。さっさと任務に必要な「明るくて人の好い十八歳の好青年」にならねば。
好青年用の服はある程度カリファが揃えてくれていた。「好青年」に似合いそうな明るい色の服を。ここに来る前に駅で別の諜報員から受けとったバッグをひっくり返し、出てきた服をいくつか眺めてみるが、これまで着るものは黒か白かの二択だったカクにはどれがいいのかよくわからない。ひとまず一番上にあったジャケットとジーンズを着ることにして、他は備え付けのクローゼットにしまい込んだ。面白がったカリファに下着も準備されそうになったのだが、カクのした力の限りの拒絶は受け入れられたようで、下着類は入っていなかった。胸を撫でおろす。
「まずはパンツを買わんとのう」
呟いてみても一人。返事はない。物音ひとつしない部屋を眺めて、また少ない荷物に視線を落とす。さて、この部屋には他に何が必要なのか。生きていくのに必要な諸々はすでに子供の頃から仕込まれている。グアンハオでは掃除洗濯炊事は当番制だ。だが、自分で選んで揃える、ということはしたことがなかった。施設にはすでに生きるのに必要なものは揃っていたし、それ以上のものを欲しがるということは許されていない。欲しい、という気持ちもよくわからなかった。施設にあってこの部屋にないもの、をピックアップしていく。
窓からはこの島のシンボルである大噴水が見え、ああ、カーテンがいるかと思う。コーヒーでも飲むかと立ち上がろうとしてマグカップもコーヒー豆もミルもケトルもないことに気づく。気づいて、買い足していく。これが生活か、と思った。全部自分で決める。ふと、ある二文字が心に躍って、思わず口の端があがる。
「待てよ、これからはパンツの色も考えにゃならんのか?」
面倒じゃのう、と思いつつ緩む口元はそのままにした。ついでに話相手の観葉植物でも見てみるか、とカクは黒いティーシャツを脱いで「好青年」として出かける準備を始める。
仮初でも、束の間でも構わない。この程度の代償で自由が手に入るなら。おしまい
いろいろ考えたいふたりvol.01
カクとウカには、お気に入りの革靴を磨くように、贔屓のパン屋に足繁く通うように、着古したスウェットの袖口を繕うように、二人で大事に育んできたものがたくさんある。
例えば、休日でも平日と同じ時間に起きて朝ごはんをゆっくり食べる。目玉焼きは半熟。ウカはトマトケチャップで、カクは岩塩とミルで挽いたブラックペッパーをぱらり。並んで歩く時はカクが右側で、お風呂に入るのはウカが先。相手が買ってきた本は勝手に読まない。シャンプーが切れたら次に使うシャンプーを相談すること。アスパラの穂先はカクが食べていい。ジェラートの最後の一口はウカに食べる権利がある。コーヒーを淹れるときは相手にも欲しいか聞く。寝るときはウカが右側。相手の鼻歌は邪魔しない。
そしてこれも、育んできたもののひとつ。
「カク」
「ん?」
ソファに身体を預けコーヒーを片手に本を読んでいたカクは、目の前に立つウカに呼ばれて、本から視線を外した。ソファに座ろうとしないウカを上目遣いで不思議そうに見つめる。
ウカは、お酒の席で酔っぱらった悪友に茶化されたことを思い出した。『で、どうやってキスするの?』。下世話な好奇心を隠そうともしない悪友はいっそ清々しい。 ウカはカクの頬にそっと両手を添えた。指先でそっと頬を撫ぜる。カクはウカのその仕草で彼女が何をしたいかすぐに察して「なんじゃ、昼間からやらしいのう?」とおどけたが、ウカはそんなカクの戯言なんて気にもとめずに、カクとの距離を詰めていく。
互いの唇が指三本分まで近づいたところで、カクが小首をかしげて薄く唇を開けた。赤い舌先がちろちろと動いているのが見え、ウカはつい生唾を飲み込む。それに気づいたカクは声を出さずに笑った。ウカは催した春情を悟られたのを悔しく思いつつも、目を閉じる。
二人で育んできたキスするための秘密の角度。これは誰にも教えない。
おそろいのスウェットがやわくなるほどに肌も馴染んでいいようになる
ふと気づく 自分の皿にいつからかもらえるようになったアスパラおしまい