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No.108, No.107, No.106, No.105, No.104, No.103, No.102[7件]
赤を足していく #カク #パウリー
「お前、これ意味あるか?」
「意味?」
休日、暇を持て余してカクの部屋を訪れたおれは、物の少なさに驚きつつも、これでこそこいつの部屋だ、と納得した。自分の部屋と間取りはそう変わらないはずなのに、がらん、という音すら聞こえそうなほど広く見える。物が少ないせいか、ちょっとした音がやけに反響してデカく聞こえるような気さえする。
そんな部屋の壁にかかっているカレンダーはかなり目立ち、かつ意外だった。
「納期しか書いてねェ」
「納期は忘れたら困るじゃろ」
カレンダーはあるくせに、東側の窓には薄いカーテンすらない。朝日は眩しくないのか、と訊けば、別に明るくても寝ていられる、と些か不思議そうだ。カクにはたまにこういうことがある。浮世離れ、とでも言うのか、単に少々変わり者というだけか。
休日だというのに仕事でもしていたのか、テーブルの上には今手掛けている船の図面が広げられていた。所々、赤鉛筆で書き込みがしてある。
「カレンダーにはこういうのを書いとくんだよ」
テーブルに転がっていた赤鉛筆で今日の日付に赤く丸をつけた。赤鉛筆が、シュッ、とカレンダーに走る音が気持ちいい。そのまま『PM20:00 ブルーノの店』と書き入れていくと、訳が分からないという顔で黙って見ていた部屋の主が、それは忘れとらんし忘れても困らんじゃろ、と不服そうだ。
忘れてねェんだな、とは言わなかった。前半にはただ笑って、後半にだけ、おれが困るんだよ、と返事をする。カクもそうか、と笑った。静かな部屋に響く笑い声は、そう悪いものでもないだろう。約束の二十時までこのまま居座ってくだらない話をしてやろうと決め、おれの椅子はどこだ? とカクに尋ねる。
おしまい
「お前、これ意味あるか?」
「意味?」
休日、暇を持て余してカクの部屋を訪れたおれは、物の少なさに驚きつつも、これでこそこいつの部屋だ、と納得した。自分の部屋と間取りはそう変わらないはずなのに、がらん、という音すら聞こえそうなほど広く見える。物が少ないせいか、ちょっとした音がやけに反響してデカく聞こえるような気さえする。
そんな部屋の壁にかかっているカレンダーはかなり目立ち、かつ意外だった。
「納期しか書いてねェ」
「納期は忘れたら困るじゃろ」
カレンダーはあるくせに、東側の窓には薄いカーテンすらない。朝日は眩しくないのか、と訊けば、別に明るくても寝ていられる、と些か不思議そうだ。カクにはたまにこういうことがある。浮世離れ、とでも言うのか、単に少々変わり者というだけか。
休日だというのに仕事でもしていたのか、テーブルの上には今手掛けている船の図面が広げられていた。所々、赤鉛筆で書き込みがしてある。
「カレンダーにはこういうのを書いとくんだよ」
テーブルに転がっていた赤鉛筆で今日の日付に赤く丸をつけた。赤鉛筆が、シュッ、とカレンダーに走る音が気持ちいい。そのまま『PM20:00 ブルーノの店』と書き入れていくと、訳が分からないという顔で黙って見ていた部屋の主が、それは忘れとらんし忘れても困らんじゃろ、と不服そうだ。
忘れてねェんだな、とは言わなかった。前半にはただ笑って、後半にだけ、おれが困るんだよ、と返事をする。カクもそうか、と笑った。静かな部屋に響く笑い声は、そう悪いものでもないだろう。約束の二十時までこのまま居座ってくだらない話をしてやろうと決め、おれの椅子はどこだ? とカクに尋ねる。
おしまい
ミラクルスコールパニック #カク
これは偶然に偶然が重なった奇跡で多分もう二度と私の人生に同じことは起こらない。
ミラクルスコールパニック
まずいまずいまずい。
ウカはさっきから強制終了したがっている脳みそを、あと少し、あと少しだけ、となんとかなだめすかしているものの、なだめすかしている司令塔には実のところ何のゴールも見えておらず、とにかく途方に暮れており、目下倒れないことだけを目標にしていた。
ウカの部屋はアクア・ラグナの浸水予想エリアに位置しており、もちろん今夜は避難が必要なのだが、先ほどの急な通り雨で避難のためまとめた荷物はおろか本人も漏れなくびしょ濡れ、おまけに本人は発熱中ときている。びしょ濡れのまま冷たい床の上で一晩過ごすことを考えると、身体の芯からぞっとした。かといって、これから部屋に戻って大家さんが整えてくれた鉄戸を外し、着替え、荷物をまとめなおし、また鉄戸をはめて麻を詰める? 絶対に無理だ。その間に無情にもアクア・ラグナはやってくる。仲の良い同僚ももうみんな避難してしまっているだろう。第一、互いの家を知るほど仲の良い同僚はそれほど多くない。かくなるうえは。
「いやわからん」
もう無理。もう、無理だった。濡れた荷物は重いし、頭はぼうっとするし、身体は熱いのに寒気はすごいし、肌にはりつく髪も服も気持ちが悪い。誰か。
「おいッ! ウカさん、しっかりせい!」
意識が遠のく直前に脳に響いた声は、一方的に良く知る有名人のものだった。気がする。

「お願いじゃから起きとくれ~」
気を失っていたらしい。ウカは今にも泣きだしそうな懇願で一時覚醒し、自身がおぶわれていることに気づく。うわっ、と身体を離そうとするがあまり力が入らず、自分の驚きと身体の反応が食い違うことにまた驚いた。
「おお、良かった良かった。気づいたんじゃな」
背中で大荷物と化していた人間が動き出したことに気づいたカクは、いかにもほっとした、といった風情で大きく息を吐いた。びしょ濡れじゃし着替えさせんと、と思っとったから本当に助かった、と続く。カクはドアの前で鍵を探していた。ここは、どこだ。
部屋に入ると右手側にシンクやコンロのキッチンスペースがあり、そのままこじんまりとしたリビングダイニングが広がっていた。キッチンカウンターにはバナナや買い置きのパン、コーヒーミルが置かれている。
「ほれ、椅子。座っとれ」
ダイニングチェアにウカを座らせ、カクは奥の部屋へと消えた。ウカは何が起こっているのかわからないまま、ただひたすらに、倒れてしまわないことだけに集中した。
「よし、立てるか?」
いつの間にか目の前にいたカクの言葉は、疲れと熱と寒さでぐずぐずになったウカの脳に簡単に届いた。言われるがまま立ち、カクに手を引かれ、ふらふらと奥の部屋へと歩いていく。
奥の部屋は寝室だった。ベッドの上に、タオルと服が置いてある。カクがダイニングチェアを運び入れながら言った。
「ひとまず濡れた服は着替えんと。貸せそうなのはそれしかないが、乾いてるだけましじゃろ。脱いで、身体を拭いて、それを着る。わかったか?」
ウカの力ない首が、こくこく、と上下に揺れた。そのままカクの目の前で濡れた服の裾に手をかけるとカクが慌てて、わしが出てからじゃ! と叫ぶ。ウカはぼんやりした頭で、それもそうかと思いつつ、また、こくこく、と首を振った。
濡れた服は重く、床に落ちると、びしゃ、と音を立てた。椅子に座りながら、朦朧としつつ、もたもたと着替えていく。ブラウスと下着を脱ぎ、乾いたタオルで髪と上半身を拭くと、それだけで随分さっぱりする。だが、下半身の不快さもより際立つことになった。一刻も早く、乾いた布に包まれたい。はやる気持ちで、残りも同じように脱いで、拭いて、着る。乾いた服に包まれる心地よさと言ったらなかった。
扉の向こうから、着替え終わったか? とカクに呼びかけられる。はい、と答えると、随分間があったあと、ドアが恐る恐るといった雰囲気で開いた。
「おお、ちゃんと着替えられたんじゃな。服はこれに。わしが触るわけにもいかんじゃろうから、すまんが明日にでも自分でなんとかしてくれ」
洗面器を差し出しながらカクが言う。ウカは一刻も早く横になりたくて、また適当に頷いた。その様子があまりにもわかりやすかったのか、カクが苦笑する。
「わかったわかった。もうじき雨と風も強くなる。さっさと寝よう。わしはこっちの部屋で寝るからの。ほれ、これ水。おやすみ」
カクは必要事項だけ淡々と述べて、ドアを閉めた。ウカはもぞもぞとベッドにもぐりこんだ。使ったタオルは椅子の背にかけ、使わなかったタオルは枕に敷いて顔をうずめる。知らない家のにおいだが不快ではない。むしろ安心するにおいだ。深く息を吸いながら、薄手のコットンブランケットと毛布にくるまって、ウカはこんこんと眠った。

「ほんっっっっっとうに! すみませんでしたっ!!」
翌日目を覚ましたウカは、熱も下がり血の気も引いていた。途切れ途切れになっている自身の記憶をつなぎ合わせても、いま目の前に広がる光景も、すべてが『意識がもうろうとする中カクさんの部屋に泊めてもらった』以外何物でもなかったからだ。アクア・ラグナは夜中のうちにすっかり通り過ぎており、空は憎らしいほどの快晴だった。
そうっと寝室のドアを開けると、カクはすでに起きて身支度を済ませており、顔をまともに見れないウカに気がつくと、随分顔色がましになって良かった、と笑った。
「服もタオルも洗って会社で返しますので、どうか今日はこのまま持ち帰らせてください」
着て帰れる服もないですし。ウカが下を向いてそれだけいうと、カクはもう一枚羽織るものを、と大きめのシャツも貸してくれた。ノーブラ・ノーパンに気づかれているからなのか、確かめる勇気はないし、カクさんの笑顔は純度百パーセント善意に思えるので、私も黙って笑顔で借りた。ほんとすみません。
会社の、街の、島の、有名人の! 服を借りて! 部屋に泊めてもらうなんて!
これは偶然に偶然が重なった奇跡で多分もう二度と私の人生に同じことは起こらない。それが死ぬほど悔しかった。せめて意識がはっきりしていたら、と思うが、意識がはっきりしていたらそもそもこんなことにはなっていなかっただろうから難しい。
「本当にありがとうございました。お世話になりました」
「おう、お大事にの」
玄関で見送ってくれるカクさんにぺこりと頭を下げる。朝日に照らされキラキラしている濡れた石畳を、はああああ、と大きなため息をつきながら踏んでいく。
「今度は元気な時に来るんじゃぞ」
「へっ!?」
素っ頓狂な声をあげた私を、カクさんが堪えきれずに笑っている。
これは偶然に偶然が重なった奇跡で多分もう二度と私の人生に同じことは起こらない。はずだった。また熱が上がりそうだ。
おしまい
これは偶然に偶然が重なった奇跡で多分もう二度と私の人生に同じことは起こらない。
ミラクルスコールパニック
まずいまずいまずい。
ウカはさっきから強制終了したがっている脳みそを、あと少し、あと少しだけ、となんとかなだめすかしているものの、なだめすかしている司令塔には実のところ何のゴールも見えておらず、とにかく途方に暮れており、目下倒れないことだけを目標にしていた。
ウカの部屋はアクア・ラグナの浸水予想エリアに位置しており、もちろん今夜は避難が必要なのだが、先ほどの急な通り雨で避難のためまとめた荷物はおろか本人も漏れなくびしょ濡れ、おまけに本人は発熱中ときている。びしょ濡れのまま冷たい床の上で一晩過ごすことを考えると、身体の芯からぞっとした。かといって、これから部屋に戻って大家さんが整えてくれた鉄戸を外し、着替え、荷物をまとめなおし、また鉄戸をはめて麻を詰める? 絶対に無理だ。その間に無情にもアクア・ラグナはやってくる。仲の良い同僚ももうみんな避難してしまっているだろう。第一、互いの家を知るほど仲の良い同僚はそれほど多くない。かくなるうえは。
「いやわからん」
もう無理。もう、無理だった。濡れた荷物は重いし、頭はぼうっとするし、身体は熱いのに寒気はすごいし、肌にはりつく髪も服も気持ちが悪い。誰か。
「おいッ! ウカさん、しっかりせい!」
意識が遠のく直前に脳に響いた声は、一方的に良く知る有名人のものだった。気がする。
「お願いじゃから起きとくれ~」
気を失っていたらしい。ウカは今にも泣きだしそうな懇願で一時覚醒し、自身がおぶわれていることに気づく。うわっ、と身体を離そうとするがあまり力が入らず、自分の驚きと身体の反応が食い違うことにまた驚いた。
「おお、良かった良かった。気づいたんじゃな」
背中で大荷物と化していた人間が動き出したことに気づいたカクは、いかにもほっとした、といった風情で大きく息を吐いた。びしょ濡れじゃし着替えさせんと、と思っとったから本当に助かった、と続く。カクはドアの前で鍵を探していた。ここは、どこだ。
部屋に入ると右手側にシンクやコンロのキッチンスペースがあり、そのままこじんまりとしたリビングダイニングが広がっていた。キッチンカウンターにはバナナや買い置きのパン、コーヒーミルが置かれている。
「ほれ、椅子。座っとれ」
ダイニングチェアにウカを座らせ、カクは奥の部屋へと消えた。ウカは何が起こっているのかわからないまま、ただひたすらに、倒れてしまわないことだけに集中した。
「よし、立てるか?」
いつの間にか目の前にいたカクの言葉は、疲れと熱と寒さでぐずぐずになったウカの脳に簡単に届いた。言われるがまま立ち、カクに手を引かれ、ふらふらと奥の部屋へと歩いていく。
奥の部屋は寝室だった。ベッドの上に、タオルと服が置いてある。カクがダイニングチェアを運び入れながら言った。
「ひとまず濡れた服は着替えんと。貸せそうなのはそれしかないが、乾いてるだけましじゃろ。脱いで、身体を拭いて、それを着る。わかったか?」
ウカの力ない首が、こくこく、と上下に揺れた。そのままカクの目の前で濡れた服の裾に手をかけるとカクが慌てて、わしが出てからじゃ! と叫ぶ。ウカはぼんやりした頭で、それもそうかと思いつつ、また、こくこく、と首を振った。
濡れた服は重く、床に落ちると、びしゃ、と音を立てた。椅子に座りながら、朦朧としつつ、もたもたと着替えていく。ブラウスと下着を脱ぎ、乾いたタオルで髪と上半身を拭くと、それだけで随分さっぱりする。だが、下半身の不快さもより際立つことになった。一刻も早く、乾いた布に包まれたい。はやる気持ちで、残りも同じように脱いで、拭いて、着る。乾いた服に包まれる心地よさと言ったらなかった。
扉の向こうから、着替え終わったか? とカクに呼びかけられる。はい、と答えると、随分間があったあと、ドアが恐る恐るといった雰囲気で開いた。
「おお、ちゃんと着替えられたんじゃな。服はこれに。わしが触るわけにもいかんじゃろうから、すまんが明日にでも自分でなんとかしてくれ」
洗面器を差し出しながらカクが言う。ウカは一刻も早く横になりたくて、また適当に頷いた。その様子があまりにもわかりやすかったのか、カクが苦笑する。
「わかったわかった。もうじき雨と風も強くなる。さっさと寝よう。わしはこっちの部屋で寝るからの。ほれ、これ水。おやすみ」
カクは必要事項だけ淡々と述べて、ドアを閉めた。ウカはもぞもぞとベッドにもぐりこんだ。使ったタオルは椅子の背にかけ、使わなかったタオルは枕に敷いて顔をうずめる。知らない家のにおいだが不快ではない。むしろ安心するにおいだ。深く息を吸いながら、薄手のコットンブランケットと毛布にくるまって、ウカはこんこんと眠った。
「ほんっっっっっとうに! すみませんでしたっ!!」
翌日目を覚ましたウカは、熱も下がり血の気も引いていた。途切れ途切れになっている自身の記憶をつなぎ合わせても、いま目の前に広がる光景も、すべてが『意識がもうろうとする中カクさんの部屋に泊めてもらった』以外何物でもなかったからだ。アクア・ラグナは夜中のうちにすっかり通り過ぎており、空は憎らしいほどの快晴だった。
そうっと寝室のドアを開けると、カクはすでに起きて身支度を済ませており、顔をまともに見れないウカに気がつくと、随分顔色がましになって良かった、と笑った。
「服もタオルも洗って会社で返しますので、どうか今日はこのまま持ち帰らせてください」
着て帰れる服もないですし。ウカが下を向いてそれだけいうと、カクはもう一枚羽織るものを、と大きめのシャツも貸してくれた。ノーブラ・ノーパンに気づかれているからなのか、確かめる勇気はないし、カクさんの笑顔は純度百パーセント善意に思えるので、私も黙って笑顔で借りた。ほんとすみません。
会社の、街の、島の、有名人の! 服を借りて! 部屋に泊めてもらうなんて!
これは偶然に偶然が重なった奇跡で多分もう二度と私の人生に同じことは起こらない。それが死ぬほど悔しかった。せめて意識がはっきりしていたら、と思うが、意識がはっきりしていたらそもそもこんなことにはなっていなかっただろうから難しい。
「本当にありがとうございました。お世話になりました」
「おう、お大事にの」
玄関で見送ってくれるカクさんにぺこりと頭を下げる。朝日に照らされキラキラしている濡れた石畳を、はああああ、と大きなため息をつきながら踏んでいく。
「今度は元気な時に来るんじゃぞ」
「へっ!?」
素っ頓狂な声をあげた私を、カクさんが堪えきれずに笑っている。
これは偶然に偶然が重なった奇跡で多分もう二度と私の人生に同じことは起こらない。はずだった。また熱が上がりそうだ。
おしまい
空欄に泣く#カク
それはカクが私をずっと前から監視していたことを示す証拠にしか見えなかった。
空欄に泣く
別れよう。
そのカードがポストに入っていることに気づいたのは、前代未聞の被害をもたらしたアクア・ラグナが去って数日後だった。幸い自宅は浸水しなかったけど、実家や会社はまあまあ被害が大きかったのでバタバタしていて、ポストを確認するのを忘れていたのだ。そもそも郵便配達はまだ復旧していなかったし、その状況でたまたまポストを開けたのは普段の習慣に他ならない。
それには切手も貼られてなかったから、カクが自分でこのポストに入れに来たんだろうとわかった。タイミングからいって恐らく、私がアクア・ラグナから避難している最中だ。外道、以外何があるだろう。
え、『別れよう』ってなに? 普段はおじいちゃんみたいな話し方してるくせに。なに手紙だと改まってんの? そこは貫いてよ。いや、手紙って言えるほどのものじゃないけどね? これ。いや、そうじゃなくて、なに。ほんと、これ。なに?
瞬間、カードをぐしゃりと握りしめ駆け出していた。なんなの? カクが書いたの? 本当に? なんで? こんなふうに別れることってあるの? 手紙ではいさよなら、って。一年! 一年付き合ってこの程度? だって、なんで? なんで? 色んなハテナが浮かんで消えて、また浮かぶ。迫りくるたくさんの『なんで』に押しつぶされてしまいそうで、振り切るような気持ちでガレーラカンパニーへ続く石畳を蹴り飛ばし続けた。
辿り着いた一番ドックの大扉前では、腰回りに何本もの工具をぶら下げた数名の職人が、紙束を片手にあれこれ相談を重ねているようだった。まだ午前中だというのに服は泥だらけだ。街にはまだ瓦礫が多く残っている。復旧作業の段取りをつけているのだろう。ぜえはあと肩で息をしながら、吸えた少しの息で出せるだけの大声を出す。
「カクッ、はどこ!」
「おわっ! ウカさん!? え、カクさん?」
声に驚いた職人は私とカクの名を呼び、え? なんで? どうした? と問うだけで、肝心の答えがもらえない。そんなのこっちが聞きたいのに。もう一度カクの居場所を問おうと息を吸ったその時──
「カクは里帰りだ」
パウリーが包帯だらけの姿で現れた。パウリーさん! 寝ててください! と職人たちが慌てふためき、うるせえ! とパウリーが一喝する。普段なら彼の包帯の理由を根掘り葉掘り問いただすところだが、今日はそれどころではない。
「さと、がえり?」
職人たちがほんの一瞬、顔を見合わせるが、睨み続けると沈黙に耐え切れなくなった職人の一人が口を開く。
「そ、そうらしいですよ。おれらも詳しいことは知らなくて」
ウカさんが知らねえってことも知らなくて、と言葉尻はどんどん萎んでいった。
「つまり、カクは。もうここにいないの?」
「ええ、そうです」
「この島にも、いない?」
「おそらく」
なんだそれ。
拳をぎりぎりと握りしめると、カードがこれ以上はもう無理というところまで圧縮されさらに細くなった。爪が手のひらに食い込む。
怒りの発散どころはまるで見つからず、怒りは募り膨らむばかりだ。
「あ、パウリーさん! ちょうどよかった。カクさんの私物、どうします?」
ドックの奥からパウリーを見つけた職人がそう声をかけてきた。
「お前ッ! ばか!」
「カクの私物?」
私が聞き返すと、ばか、と怒鳴られた若い職人は、それを自分への罵倒と受け取らなかったのか、状況が良くわからなかったのか、とにかくすらすらと説明を始めた。
「ああ。会社のロッカーとかデスクに置いてたやつです。つっても、カクさん、そんなに私物置くタイプじゃなかったし、もう箱に詰めてあったんですけどね。火事で焼けちゃったかと思ってましたけど、残ってたんですよねえ」
彼の抱えていた箱は彼の言うとおり小さかった。パウリーはちっと舌打ちして、私の方は見ないようにしながら、後で指示するからひとまず戻れと職人を手で追い返す。
「まって」
パウリーの業務命令に待ったをかけたのは私だ。
「私が引き取るよ。処分しておく」
「おい、そりゃあ」
「いいよ。大丈夫。カクが面倒かけてごめんね」
「助かります」
パウリーは何も言わなかった。言わないでくれた。
空気の読めない職人から受け取った箱は想像よりずっと軽くて、なんだかそれは、カクの残していった思いの量にも思え、やっぱり腹が立った。
カクの部屋への道中、箱の中身は箱に何度もぶつかりガタガタと音を立てる。荷物をまとめた職人が言うように、大した量ではないのだろう。今歩いているこの道は、カクと並んでよく歩いた。今はまだ水が引いていないところもあり、気をつけないと水たまりを踏むことになる。抱えていた箱のせいで視界が悪く、私は何度も水たまりを踏んだ。断じて涙で滲んだ視界のせいではない。
見慣れたドアの前で取り出した鍵はやけに冷たく感じた。開けて、薄暗い部屋に入ること思うとしんどい。それでも開けるしかない。ちょっと押すだけでドアは簡単に開いた。微かにギィ、と音がしただけで、あとはしんとしている。
いつもなら、ダイニングテーブルには何枚もの設計図が広がっていたし、キッチンにはりんごとかバナナとかの果物とか買い置きのパンが置いてあった。椅子にはカクの上着がかかってたりしたし、ベッドの上にはとりあえず取り込んだ洗濯物が詰まれてたりした。
もう、違う。
ダイニングテーブルの上にもキッチンにも何もない。カクの上着も洗濯物も全部。小脇に抱えていた箱をダイニングテーブルの上に置いて、目についた食器棚を開ける。ぽつんと残っていたのは、マグカップだった。カクとおそろいで買ったマグカップ。心臓が潰れるかと思った。
二人で選んだ形。色は真っ白じゃない、乳白色。カクの部屋で過ごすときは、水も白湯も、コーヒーも紅茶も牛乳も全部それで飲んだ。同じマグカップだったけど、上から見るとちょっとだけ丸がいびつな方があって、まん丸の方が私の。そう決めていた。
わざわざこんなふうに置いていくくらいなら、捨てればよかったのに。唇をぎりぎりと噛む。他にも、と思い棚を片っ端から開けると、私の着古したTシャツや貸しっぱなしになっていた本などがマグカップと同じように律義に置いていかれていた。
部屋の物は徹底的に処分しておきながら、会社に置きっぱなしの私物はどうして処分しなかったのだろう。整理はしていたようなのに。このまま怒りに任せて、中を改めず箱ごと処分しても良かったのだが、どうしてもそうはできなかった。だって、中に何が。
箱を開けながらダイニングチェアに腰かけて、あ、と思う。がたついていた椅子。以前私が座って、ぐらつきに驚いて、変な声が出て──。今日はぐらつかない。いつの間にか直したんだ。この部屋では、どうあがいても思い出が付きまとう。
箱を開けると、気のせいか焦げたような匂いがした。焼けずに済んだ、と言っていたが、焼けかけたのかもしれない。中には使い込まれた腰道具一式や皮手袋、メモ帳と赤鉛筆が数本。それから──紙束と写真? なんだろうと箱の底から引き抜いたそれは創立三周年記念に社員全員で撮った集合写真だった。私の顔に丸がつけてあり、写真の裏には走り書きでこう書いてあった。──No.9 ウカ。
目を疑った。背筋がじわりと冷え、汗がつう、と伝う。足先からぶるっと震えが伝わってくる。これは、なに。一緒に束ねてあった紙束を慌てて引っ掴み、上から順に捲っていく。
そのメモには、日付とあわせて私の短い行動記録のようなものが綴られていた。去年の三月から始まっている。主に平日の朝と夜、そして休日。メモは何かの下書きみたいで、赤でチェックが入っていたり、線が引いてあったりした。
──三月九日、調査開始。自宅を出るのは朝八時頃。昼食を買ってから出勤。勤務終了後はまっすぐ自宅に帰ることが多い。交際相手なし。報告済み。
──三月十五日。休日はタオルケットとシーツを洗うのがルーティーンのよう。自宅近くの商店街が行きつけ。頻度は多め。一日おき。報告済み。
──三月二十八日。勤務終了後、同僚と会食へ。送別会。女性三人。報告済み。
──四月一日。花屋に立ち寄り花を一輪買い求めていた。店員は女性。報告済み。
──四月七日。職場で出入りの業者と親し気に話していた。業者は男性。既婚者。愛妻家と評判。報告済み。
私とカクが付き合い始めたのは、去年の夏。その少し前から、ちょいちょい話しかけられるようになって、ある時、一番ドック内で顧客の海賊に絡まれそうになったところをカクが助けてくれて、それで。お礼にクッキーをあげて。そしたら、カクから告白されて、付き合った。つい二日前まで。
けどこれは? これは、明らかに『たまたま私を見かけたからメモした』の域を超えている。カクは私に告白するずっと前から、私を観察してたってこと? 調査? 報告? なんのために? 急に怖くなって、箱の中身を全部ひっくり返した。部屋に残っている物も全部かき集めてダイニングテーブルに集める。似たようなメモがまだあるんじゃないか。何か、このメモを説明してくれる他の何かが。
でも部屋は、磨き上げられたように埃ひとつ残っていない。マグカップやTシャツや本は、そんな部屋に取り残されていたのだ。これら以外、この部屋からは何も見つからなかった。どうしよう、どうしよう。これ以上、知らないカクを知るのは怖い。今朝知ったばかりだが、『別れ話を一行で済ませようとする男』だって、私の知らなかったカクなのだ。これだけで精いっぱいだったのに。
カクは──よくわからないけど、私に近づく必要があったのかもしれない。これはその下調べに見える。そして、これは絶対にガレーラカンパニーの仕事じゃない。探偵とか、そういう、別の。
私は私の知っているカクを探して、さらにメモをめくった。
──四月十八日。金曜は家を出るのが遅れがち。疲れが出るのか?
──四月二十二日。今日は浮かない顔で帰宅していた。上司のミスのしりぬぐいに追われたらしい。気の毒。
──五月一日。酒場で友人の愚痴を聞いてやっていた。泣き出す友人の背中をそっと擦っていた。報告済み。
──五月十三日。新人を連れてミスを謝りに来た。倉庫脇で新人を励まし、慰めていた。部下思い。報告済み。
──五月十六日。珍しく専門店でチョコレートを買って帰った。高そうでうまそう。
──五月十七日。まだ寝ていた。新人の世話はやはり負担が大きいのかもしれない。
あれ? なんか。
メモをめくれば捲るほど『報告済み』という言葉が少しずつ無くなり、代わりにカクの感想みたいな記述が増えてきた。
──五月二十一日。急な高温。熱中症気味になり医務室に運ばれたらしい。様子を見に行くか迷い、やめる。
──六月二日。帰宅時間ちょうどに豪雨。傘を持っていなかったようでびしょ濡れになりながら走って帰っていった。
──六月三日。風邪をひいて寝込んでいた。何も出来ず。
──六月五日。回復したらしく出勤していた。良かった。
──六月六日。デスクに菓子を置く。快気祝い。
これ、覚えてる。
私がいない間にデスクにお菓子があって、隣の新人さんに聞いたら、職人さんがたくさんあるからお裾分けだって持ってきてくれましたって言ってたやつ。あのとき、誰から、とは聞かなかった。
──六月十六日。声をかけてみる。怪しまれてはいない。多分。
──六月二十五日。夜分、男性が家を訪ねてきた。至急確認。
──六月二十八日。親族だった(六月二十五日追記)
──七月八日。海賊に絡まれそうになっていたので慌てて引き離す。騒ぎがおさまった後、しこたま礼を言われた。
──七月十四日。この前のお礼だとチョコレートをもらう。前も買っていた専門店のもの。うまい。
続きはなかった。この後、カクに告白されたんだ、と気づく。私と付き合ってからの記録は一切なかった。捲っても捲っても白紙が続く。
いつだったか、カクに聞いたことがある。『いつから私のこと好きだったの?』。私がカクを好きになったのは、ベタだけど海賊から助けてもらったあの日だったから私はすぐ答えられた。でもカクは、いつじゃろうなあ、とそれ以上言わなかった。
今わかった。少なくともカクは、私が意識するよりずっと前から私を気にかけていた。初めは絶対恋じゃなかった。でも、いつからか──。
どうしよう、全然わかんないよ。
カクに会いたい。カクに話を聞きたかった。この紙束を突きつけて。説明してって、泣きわめきたい。『別れよう』の前に、まず先に。
でも無理だ。里帰りなんて、私はカクの故郷も知らない。正確には、教えてもらえなかった。親御さんはずいぶん昔に亡くなってる、それしか教えてもらえなかった。紙束が零れる涙でどんどんふやけていく。文字が滲んでもどうでも良かった。もう、どうでも。
ダイニングテーブルに広げた物を、どさどさと箱に投げ入れる。腰道具も、皮手袋も、鉛筆も、紙束も。ついでに私のTシャツや本も突っ込んだ。どうせ持って帰ったって思い出すだけだ。それならいっそ。全部捨ててやるんだ。
こんな時でも、マグカップはさすがに割れる、と一瞬冷静になってしまった私は、それを手にとって呆けてしまった。
あれ。
このマグカップ。私のじゃない。
上から見るとちょっとだけ丸がいびつな方──カクのだ。なにそれ。間違えた? まさか。だってあんなに。カクは一回も間違えなかった。
「わっかんないなあ」
私は愚かでちょろくて、これだけでまだ少しカクを信じてしまう。まだ少し。ほんの少しだけ。
おしまい
それはカクが私をずっと前から監視していたことを示す証拠にしか見えなかった。
空欄に泣く
別れよう。
そのカードがポストに入っていることに気づいたのは、前代未聞の被害をもたらしたアクア・ラグナが去って数日後だった。幸い自宅は浸水しなかったけど、実家や会社はまあまあ被害が大きかったのでバタバタしていて、ポストを確認するのを忘れていたのだ。そもそも郵便配達はまだ復旧していなかったし、その状況でたまたまポストを開けたのは普段の習慣に他ならない。
それには切手も貼られてなかったから、カクが自分でこのポストに入れに来たんだろうとわかった。タイミングからいって恐らく、私がアクア・ラグナから避難している最中だ。外道、以外何があるだろう。
え、『別れよう』ってなに? 普段はおじいちゃんみたいな話し方してるくせに。なに手紙だと改まってんの? そこは貫いてよ。いや、手紙って言えるほどのものじゃないけどね? これ。いや、そうじゃなくて、なに。ほんと、これ。なに?
瞬間、カードをぐしゃりと握りしめ駆け出していた。なんなの? カクが書いたの? 本当に? なんで? こんなふうに別れることってあるの? 手紙ではいさよなら、って。一年! 一年付き合ってこの程度? だって、なんで? なんで? 色んなハテナが浮かんで消えて、また浮かぶ。迫りくるたくさんの『なんで』に押しつぶされてしまいそうで、振り切るような気持ちでガレーラカンパニーへ続く石畳を蹴り飛ばし続けた。
辿り着いた一番ドックの大扉前では、腰回りに何本もの工具をぶら下げた数名の職人が、紙束を片手にあれこれ相談を重ねているようだった。まだ午前中だというのに服は泥だらけだ。街にはまだ瓦礫が多く残っている。復旧作業の段取りをつけているのだろう。ぜえはあと肩で息をしながら、吸えた少しの息で出せるだけの大声を出す。
「カクッ、はどこ!」
「おわっ! ウカさん!? え、カクさん?」
声に驚いた職人は私とカクの名を呼び、え? なんで? どうした? と問うだけで、肝心の答えがもらえない。そんなのこっちが聞きたいのに。もう一度カクの居場所を問おうと息を吸ったその時──
「カクは里帰りだ」
パウリーが包帯だらけの姿で現れた。パウリーさん! 寝ててください! と職人たちが慌てふためき、うるせえ! とパウリーが一喝する。普段なら彼の包帯の理由を根掘り葉掘り問いただすところだが、今日はそれどころではない。
「さと、がえり?」
職人たちがほんの一瞬、顔を見合わせるが、睨み続けると沈黙に耐え切れなくなった職人の一人が口を開く。
「そ、そうらしいですよ。おれらも詳しいことは知らなくて」
ウカさんが知らねえってことも知らなくて、と言葉尻はどんどん萎んでいった。
「つまり、カクは。もうここにいないの?」
「ええ、そうです」
「この島にも、いない?」
「おそらく」
なんだそれ。
拳をぎりぎりと握りしめると、カードがこれ以上はもう無理というところまで圧縮されさらに細くなった。爪が手のひらに食い込む。
怒りの発散どころはまるで見つからず、怒りは募り膨らむばかりだ。
「あ、パウリーさん! ちょうどよかった。カクさんの私物、どうします?」
ドックの奥からパウリーを見つけた職人がそう声をかけてきた。
「お前ッ! ばか!」
「カクの私物?」
私が聞き返すと、ばか、と怒鳴られた若い職人は、それを自分への罵倒と受け取らなかったのか、状況が良くわからなかったのか、とにかくすらすらと説明を始めた。
「ああ。会社のロッカーとかデスクに置いてたやつです。つっても、カクさん、そんなに私物置くタイプじゃなかったし、もう箱に詰めてあったんですけどね。火事で焼けちゃったかと思ってましたけど、残ってたんですよねえ」
彼の抱えていた箱は彼の言うとおり小さかった。パウリーはちっと舌打ちして、私の方は見ないようにしながら、後で指示するからひとまず戻れと職人を手で追い返す。
「まって」
パウリーの業務命令に待ったをかけたのは私だ。
「私が引き取るよ。処分しておく」
「おい、そりゃあ」
「いいよ。大丈夫。カクが面倒かけてごめんね」
「助かります」
パウリーは何も言わなかった。言わないでくれた。
空気の読めない職人から受け取った箱は想像よりずっと軽くて、なんだかそれは、カクの残していった思いの量にも思え、やっぱり腹が立った。
カクの部屋への道中、箱の中身は箱に何度もぶつかりガタガタと音を立てる。荷物をまとめた職人が言うように、大した量ではないのだろう。今歩いているこの道は、カクと並んでよく歩いた。今はまだ水が引いていないところもあり、気をつけないと水たまりを踏むことになる。抱えていた箱のせいで視界が悪く、私は何度も水たまりを踏んだ。断じて涙で滲んだ視界のせいではない。
見慣れたドアの前で取り出した鍵はやけに冷たく感じた。開けて、薄暗い部屋に入ること思うとしんどい。それでも開けるしかない。ちょっと押すだけでドアは簡単に開いた。微かにギィ、と音がしただけで、あとはしんとしている。
いつもなら、ダイニングテーブルには何枚もの設計図が広がっていたし、キッチンにはりんごとかバナナとかの果物とか買い置きのパンが置いてあった。椅子にはカクの上着がかかってたりしたし、ベッドの上にはとりあえず取り込んだ洗濯物が詰まれてたりした。
もう、違う。
ダイニングテーブルの上にもキッチンにも何もない。カクの上着も洗濯物も全部。小脇に抱えていた箱をダイニングテーブルの上に置いて、目についた食器棚を開ける。ぽつんと残っていたのは、マグカップだった。カクとおそろいで買ったマグカップ。心臓が潰れるかと思った。
二人で選んだ形。色は真っ白じゃない、乳白色。カクの部屋で過ごすときは、水も白湯も、コーヒーも紅茶も牛乳も全部それで飲んだ。同じマグカップだったけど、上から見るとちょっとだけ丸がいびつな方があって、まん丸の方が私の。そう決めていた。
わざわざこんなふうに置いていくくらいなら、捨てればよかったのに。唇をぎりぎりと噛む。他にも、と思い棚を片っ端から開けると、私の着古したTシャツや貸しっぱなしになっていた本などがマグカップと同じように律義に置いていかれていた。
部屋の物は徹底的に処分しておきながら、会社に置きっぱなしの私物はどうして処分しなかったのだろう。整理はしていたようなのに。このまま怒りに任せて、中を改めず箱ごと処分しても良かったのだが、どうしてもそうはできなかった。だって、中に何が。
箱を開けながらダイニングチェアに腰かけて、あ、と思う。がたついていた椅子。以前私が座って、ぐらつきに驚いて、変な声が出て──。今日はぐらつかない。いつの間にか直したんだ。この部屋では、どうあがいても思い出が付きまとう。
箱を開けると、気のせいか焦げたような匂いがした。焼けずに済んだ、と言っていたが、焼けかけたのかもしれない。中には使い込まれた腰道具一式や皮手袋、メモ帳と赤鉛筆が数本。それから──紙束と写真? なんだろうと箱の底から引き抜いたそれは創立三周年記念に社員全員で撮った集合写真だった。私の顔に丸がつけてあり、写真の裏には走り書きでこう書いてあった。──No.9 ウカ。
目を疑った。背筋がじわりと冷え、汗がつう、と伝う。足先からぶるっと震えが伝わってくる。これは、なに。一緒に束ねてあった紙束を慌てて引っ掴み、上から順に捲っていく。
そのメモには、日付とあわせて私の短い行動記録のようなものが綴られていた。去年の三月から始まっている。主に平日の朝と夜、そして休日。メモは何かの下書きみたいで、赤でチェックが入っていたり、線が引いてあったりした。
──三月九日、調査開始。自宅を出るのは朝八時頃。昼食を買ってから出勤。勤務終了後はまっすぐ自宅に帰ることが多い。交際相手なし。報告済み。
──三月十五日。休日はタオルケットとシーツを洗うのがルーティーンのよう。自宅近くの商店街が行きつけ。頻度は多め。一日おき。報告済み。
──三月二十八日。勤務終了後、同僚と会食へ。送別会。女性三人。報告済み。
──四月一日。花屋に立ち寄り花を一輪買い求めていた。店員は女性。報告済み。
──四月七日。職場で出入りの業者と親し気に話していた。業者は男性。既婚者。愛妻家と評判。報告済み。
私とカクが付き合い始めたのは、去年の夏。その少し前から、ちょいちょい話しかけられるようになって、ある時、一番ドック内で顧客の海賊に絡まれそうになったところをカクが助けてくれて、それで。お礼にクッキーをあげて。そしたら、カクから告白されて、付き合った。つい二日前まで。
けどこれは? これは、明らかに『たまたま私を見かけたからメモした』の域を超えている。カクは私に告白するずっと前から、私を観察してたってこと? 調査? 報告? なんのために? 急に怖くなって、箱の中身を全部ひっくり返した。部屋に残っている物も全部かき集めてダイニングテーブルに集める。似たようなメモがまだあるんじゃないか。何か、このメモを説明してくれる他の何かが。
でも部屋は、磨き上げられたように埃ひとつ残っていない。マグカップやTシャツや本は、そんな部屋に取り残されていたのだ。これら以外、この部屋からは何も見つからなかった。どうしよう、どうしよう。これ以上、知らないカクを知るのは怖い。今朝知ったばかりだが、『別れ話を一行で済ませようとする男』だって、私の知らなかったカクなのだ。これだけで精いっぱいだったのに。
カクは──よくわからないけど、私に近づく必要があったのかもしれない。これはその下調べに見える。そして、これは絶対にガレーラカンパニーの仕事じゃない。探偵とか、そういう、別の。
私は私の知っているカクを探して、さらにメモをめくった。
──四月十八日。金曜は家を出るのが遅れがち。疲れが出るのか?
──四月二十二日。今日は浮かない顔で帰宅していた。上司のミスのしりぬぐいに追われたらしい。気の毒。
──五月一日。酒場で友人の愚痴を聞いてやっていた。泣き出す友人の背中をそっと擦っていた。報告済み。
──五月十三日。新人を連れてミスを謝りに来た。倉庫脇で新人を励まし、慰めていた。部下思い。報告済み。
──五月十六日。珍しく専門店でチョコレートを買って帰った。高そうでうまそう。
──五月十七日。まだ寝ていた。新人の世話はやはり負担が大きいのかもしれない。
あれ? なんか。
メモをめくれば捲るほど『報告済み』という言葉が少しずつ無くなり、代わりにカクの感想みたいな記述が増えてきた。
──五月二十一日。急な高温。熱中症気味になり医務室に運ばれたらしい。様子を見に行くか迷い、やめる。
──六月二日。帰宅時間ちょうどに豪雨。傘を持っていなかったようでびしょ濡れになりながら走って帰っていった。
──六月三日。風邪をひいて寝込んでいた。何も出来ず。
──六月五日。回復したらしく出勤していた。良かった。
──六月六日。デスクに菓子を置く。快気祝い。
これ、覚えてる。
私がいない間にデスクにお菓子があって、隣の新人さんに聞いたら、職人さんがたくさんあるからお裾分けだって持ってきてくれましたって言ってたやつ。あのとき、誰から、とは聞かなかった。
──六月十六日。声をかけてみる。怪しまれてはいない。多分。
──六月二十五日。夜分、男性が家を訪ねてきた。至急確認。
──六月二十八日。親族だった(六月二十五日追記)
──七月八日。海賊に絡まれそうになっていたので慌てて引き離す。騒ぎがおさまった後、しこたま礼を言われた。
──七月十四日。この前のお礼だとチョコレートをもらう。前も買っていた専門店のもの。うまい。
続きはなかった。この後、カクに告白されたんだ、と気づく。私と付き合ってからの記録は一切なかった。捲っても捲っても白紙が続く。
いつだったか、カクに聞いたことがある。『いつから私のこと好きだったの?』。私がカクを好きになったのは、ベタだけど海賊から助けてもらったあの日だったから私はすぐ答えられた。でもカクは、いつじゃろうなあ、とそれ以上言わなかった。
今わかった。少なくともカクは、私が意識するよりずっと前から私を気にかけていた。初めは絶対恋じゃなかった。でも、いつからか──。
どうしよう、全然わかんないよ。
カクに会いたい。カクに話を聞きたかった。この紙束を突きつけて。説明してって、泣きわめきたい。『別れよう』の前に、まず先に。
でも無理だ。里帰りなんて、私はカクの故郷も知らない。正確には、教えてもらえなかった。親御さんはずいぶん昔に亡くなってる、それしか教えてもらえなかった。紙束が零れる涙でどんどんふやけていく。文字が滲んでもどうでも良かった。もう、どうでも。
ダイニングテーブルに広げた物を、どさどさと箱に投げ入れる。腰道具も、皮手袋も、鉛筆も、紙束も。ついでに私のTシャツや本も突っ込んだ。どうせ持って帰ったって思い出すだけだ。それならいっそ。全部捨ててやるんだ。
こんな時でも、マグカップはさすがに割れる、と一瞬冷静になってしまった私は、それを手にとって呆けてしまった。
あれ。
このマグカップ。私のじゃない。
上から見るとちょっとだけ丸がいびつな方──カクのだ。なにそれ。間違えた? まさか。だってあんなに。カクは一回も間違えなかった。
「わっかんないなあ」
私は愚かでちょろくて、これだけでまだ少しカクを信じてしまう。まだ少し。ほんの少しだけ。
おしまい
殺せない殺し屋 それすらわたしのひどい噓 #カク #長編第1話
カク先輩の人が殺せそうな目つきは初めて見る。それが自分に向けられているとなると、とても受け止めきれず、私はすぐ目を逸らして、カク先輩のずっと後ろにある会議室の扉に焦点を合わせた。それでも頬にピリピリとしたプレッシャーをひしと感じ、さすがだなあ、と呑気な感想を持つ。同時に、これだから私は駄目なんだろうなあ、とこれまた呑気に思う。
十八を過ぎてもグアンハオで後輩たちの世話をし、二十歳を過ぎてようやくCP1に配属され、諸先輩方の小間使いじみた雑務をこなしていた私が突如、闇の正義として『殺人』を許可されているCP9に配属されたのはもちろん、異例中の異例だった。異例すぎて様々な噂が飛び交ったのも知っている。カネか、コネか、イロか。もちろんどれでもないのだが、大別すればイロになってしまうのかもしれない。私は長年の経験から、ひとまず黙って受け入れることにした。大抵は時間が解決してくれる。問題は私がこの異動でいつまで生きていられるか、ということだけ。
カク先輩は現在、長期任務の真っ最中だというのにわざわざ呼び出され、こちらの任務に駆り出されているらしい。先ほどの鋭い目つきはそのせいもあるのだろう。スパンダム長官は気づいていないのか、気づいておられてなお無視しているのか、とにかく淡々と任務を説明した。
「ターゲットはこいつだ。元CP3。現在逃亡中」
「こいつの始末のためにわざわざわしをウォーターセブンから呼び戻したのか?」
「『殺し』が許可されてるのはお前らだけだろうが」
「ま、たまにはいいじゃねえか! どうせそっちの任務はまだ何も進展なんてねぇんだろ?」
瞬間、カク先輩は隣に並んでいたジャブラさんの足を無言で踏んだようだ。ジャブラさんが、踏まれた足をさすりながら、暴力に訴えてんじゃねえ、と至極まともな主張をしている。
「ったく、これは命令だ! お前ら、自分の意志で仕事を選べると思うなよ! 元とはいえ、こいつもサイファーポール。気ぃ抜くんじゃねぇぞ」
「言われなくともわかっとるわい」
「で、新入り。お前は囮だ。得意なんだろ? こういうの」
カク先輩とジャブラさんが訝し気な視線をこちらに寄こす。私は新入りにあるまじきことではあるが、無言で小さく頷くにとどめた。
ターゲットは、うまく追っ手をかわしたと勘違いし、今は場末のバーで一息ついているらしい。
先ほど一時だけ降った雨がそこらで水たまりをつくり、私たちの足元を濡らした。三人で連れ立って歩いていても、足音は私の分だけ。だがこれで何の支障もない。私はターゲットに近づき、彼らのいる場所まで誘導してくる。それだけだから。
カク先輩とジャブラさんがすっと裏路地に入り、私はそのまままっすぐ歩いて件のバーに向かう。カク先輩が路地の奥から声を放る。
「余計なことはするな。できんじゃろうがな」
前を向いたまま首肯した。

『こんばんは。おひとり?』
バーの奥のテーブルでひとりスコッチを煽っていた男性に声をかける。
普通なら警戒されるべきシチュエーションだが、私の場合、大抵の人間は不思議とこれで済む。私は昔からなぜか人に好かれやすいのだ。特に体温が高かったり肌の露出が多いと顕著だということに随分経ってから気づいた。老若男女の誰もが一瞬、私を好きになる。でも、人によって影響が大きかったり小さかったりするし、離れると効果は弱まる。だから、私には『向けられている気持ちは本物ではない』ということがすぐわかった。好かれるそのたび、私はそっと一歩引く。
この力は自分で加減出来るわけではないから、今でも塩梅が難しい。今回は、ただ話しかけるだけで済みそうだ。こうして私は『ターゲットに声をかけて、指定された場所に連れていく』という任務に限ってなら、必ず成功させてきた。それでいまここに、CP9にいる。
案の定、男は私を気に入り、河岸を変えようと店を出る。あとは先輩たちのいる裏路地に連れていくだけだ。それでも油断はしない。なぜなら──
「なあ、あんた。なんか、」
好意は、触れたい、という欲求につながりやすい。
カク先輩とジャブラさんがいる裏路地まであと数メートル、というところで、男が私の肩に手を回してくる。でも、男の手は『まだ』肩の上だ。エスカレートすれば、このあとは──。いや、あと数メートルならいける。
思ってそのまま歩を進めようとした途端、耳元で、ひゅっ、と男が息を呑む音がして、そのまま前にずしゃりと倒れ込んだ。後ろにはいつの間にかカク先輩が立っており、光のない目で土に伏した男を見下ろしている。男の息はなさそうだ。
「おいおいおいおい、打ち合わせと違うだろうが! 尋問するっつー手筈じゃなかったか?」
暗い裏路地からジャブラさんが出てきて囃し立てるとカク先輩が吐き捨てるように言った。
「追っ手もまけずにバーで飲んだくれてるような男、尋問したって時間の無駄じゃ」
「……まあ、それもそうか。ウカちゃん。いい感じの報告書、頼むぜえ」
「はい、それはもちろん」
「あれだけ油断させても、その体たらくか。おぬし、何も変わっとらんのじゃな」
カク先輩の言葉は完全に、昔からなにも成長していない私への呆れからくるものだった。
男の亡骸を別の諜報員に託して、私たちの任務は終わった。道すがら、報告書の素案をまとめながら帰投する。用意されていた拠点は安ホテルで、着替えが終わったらカク先輩とジャブラさんの部屋を訪ねるようにと言われていた。
着替えながら、男に触れられた肩回りを念入りに拭う。直に触れられたわけではなかったが、それでも、男の腕の重さ、特に、事切れた瞬間にのしかかってきたあの重さを振り払いたかった。
『何も変わっとらんのじゃな』
カク先輩の言葉は本当にその通りだ。私はカク先輩やジャブラさんのように実力でCP9に配属されたわけではない。この体質のせいで──いや、おかげでグアンハオから続くこの世界から逃れられなかった。だから力の伴わない私が、カク先輩の近くをうろちょろするのはさぞ腹が立つだろう。あんな風に呆れるのもよくわかる。
私はカク先輩とジャブラさんの部屋の前でもう一度息を整えた。ジャブラさんはともかく、カク先輩に会うのはいつでも緊張する。意を決してノックをすると、ジャブラさんの、入れ入れ、という気さくな応答があった。
「よしよし、よくきた。で、報告書だけどよ」
「あ、まだ下書き程度ですか、簡単にまとめてきました」
「本当か!? いやあ、ウカちゃんはこんなに優秀だってのに、なあんでカクはそんなに冷てぇんだよ!」
ジャブラさんがカク先輩をなじるので慌てて、冷たくないですよ、とフォローする。
「別に普通じゃろ」
「ええ、そうです。カク先輩は普通です」
昔から、とは言わない。おかしいのはジャブラさん。今だけ、きっと私のせいで。
「そうかあ? なんかピリついてんだよな。ウカちゃんは囮専門なんだろ? 誰が殺そうがいいじゃねえか! なあ? ウカちゃん」
「い、いえ。カク先輩のお怒りはごもっともかと」
カク先輩がまたあの目で私を見る。今にも私を殺してしまいそうな目で。
私は人が殺せないのにここにいる。いつか私もCP9に──この居場所にふさわしい人間になれるだろうか。
おしまい
→
カク先輩の人が殺せそうな目つきは初めて見る。それが自分に向けられているとなると、とても受け止めきれず、私はすぐ目を逸らして、カク先輩のずっと後ろにある会議室の扉に焦点を合わせた。それでも頬にピリピリとしたプレッシャーをひしと感じ、さすがだなあ、と呑気な感想を持つ。同時に、これだから私は駄目なんだろうなあ、とこれまた呑気に思う。
十八を過ぎてもグアンハオで後輩たちの世話をし、二十歳を過ぎてようやくCP1に配属され、諸先輩方の小間使いじみた雑務をこなしていた私が突如、闇の正義として『殺人』を許可されているCP9に配属されたのはもちろん、異例中の異例だった。異例すぎて様々な噂が飛び交ったのも知っている。カネか、コネか、イロか。もちろんどれでもないのだが、大別すればイロになってしまうのかもしれない。私は長年の経験から、ひとまず黙って受け入れることにした。大抵は時間が解決してくれる。問題は私がこの異動でいつまで生きていられるか、ということだけ。
カク先輩は現在、長期任務の真っ最中だというのにわざわざ呼び出され、こちらの任務に駆り出されているらしい。先ほどの鋭い目つきはそのせいもあるのだろう。スパンダム長官は気づいていないのか、気づいておられてなお無視しているのか、とにかく淡々と任務を説明した。
「ターゲットはこいつだ。元CP3。現在逃亡中」
「こいつの始末のためにわざわざわしをウォーターセブンから呼び戻したのか?」
「『殺し』が許可されてるのはお前らだけだろうが」
「ま、たまにはいいじゃねえか! どうせそっちの任務はまだ何も進展なんてねぇんだろ?」
瞬間、カク先輩は隣に並んでいたジャブラさんの足を無言で踏んだようだ。ジャブラさんが、踏まれた足をさすりながら、暴力に訴えてんじゃねえ、と至極まともな主張をしている。
「ったく、これは命令だ! お前ら、自分の意志で仕事を選べると思うなよ! 元とはいえ、こいつもサイファーポール。気ぃ抜くんじゃねぇぞ」
「言われなくともわかっとるわい」
「で、新入り。お前は囮だ。得意なんだろ? こういうの」
カク先輩とジャブラさんが訝し気な視線をこちらに寄こす。私は新入りにあるまじきことではあるが、無言で小さく頷くにとどめた。
ターゲットは、うまく追っ手をかわしたと勘違いし、今は場末のバーで一息ついているらしい。
先ほど一時だけ降った雨がそこらで水たまりをつくり、私たちの足元を濡らした。三人で連れ立って歩いていても、足音は私の分だけ。だがこれで何の支障もない。私はターゲットに近づき、彼らのいる場所まで誘導してくる。それだけだから。
カク先輩とジャブラさんがすっと裏路地に入り、私はそのまままっすぐ歩いて件のバーに向かう。カク先輩が路地の奥から声を放る。
「余計なことはするな。できんじゃろうがな」
前を向いたまま首肯した。
『こんばんは。おひとり?』
バーの奥のテーブルでひとりスコッチを煽っていた男性に声をかける。
普通なら警戒されるべきシチュエーションだが、私の場合、大抵の人間は不思議とこれで済む。私は昔からなぜか人に好かれやすいのだ。特に体温が高かったり肌の露出が多いと顕著だということに随分経ってから気づいた。老若男女の誰もが一瞬、私を好きになる。でも、人によって影響が大きかったり小さかったりするし、離れると効果は弱まる。だから、私には『向けられている気持ちは本物ではない』ということがすぐわかった。好かれるそのたび、私はそっと一歩引く。
この力は自分で加減出来るわけではないから、今でも塩梅が難しい。今回は、ただ話しかけるだけで済みそうだ。こうして私は『ターゲットに声をかけて、指定された場所に連れていく』という任務に限ってなら、必ず成功させてきた。それでいまここに、CP9にいる。
案の定、男は私を気に入り、河岸を変えようと店を出る。あとは先輩たちのいる裏路地に連れていくだけだ。それでも油断はしない。なぜなら──
「なあ、あんた。なんか、」
好意は、触れたい、という欲求につながりやすい。
カク先輩とジャブラさんがいる裏路地まであと数メートル、というところで、男が私の肩に手を回してくる。でも、男の手は『まだ』肩の上だ。エスカレートすれば、このあとは──。いや、あと数メートルならいける。
思ってそのまま歩を進めようとした途端、耳元で、ひゅっ、と男が息を呑む音がして、そのまま前にずしゃりと倒れ込んだ。後ろにはいつの間にかカク先輩が立っており、光のない目で土に伏した男を見下ろしている。男の息はなさそうだ。
「おいおいおいおい、打ち合わせと違うだろうが! 尋問するっつー手筈じゃなかったか?」
暗い裏路地からジャブラさんが出てきて囃し立てるとカク先輩が吐き捨てるように言った。
「追っ手もまけずにバーで飲んだくれてるような男、尋問したって時間の無駄じゃ」
「……まあ、それもそうか。ウカちゃん。いい感じの報告書、頼むぜえ」
「はい、それはもちろん」
「あれだけ油断させても、その体たらくか。おぬし、何も変わっとらんのじゃな」
カク先輩の言葉は完全に、昔からなにも成長していない私への呆れからくるものだった。
男の亡骸を別の諜報員に託して、私たちの任務は終わった。道すがら、報告書の素案をまとめながら帰投する。用意されていた拠点は安ホテルで、着替えが終わったらカク先輩とジャブラさんの部屋を訪ねるようにと言われていた。
着替えながら、男に触れられた肩回りを念入りに拭う。直に触れられたわけではなかったが、それでも、男の腕の重さ、特に、事切れた瞬間にのしかかってきたあの重さを振り払いたかった。
『何も変わっとらんのじゃな』
カク先輩の言葉は本当にその通りだ。私はカク先輩やジャブラさんのように実力でCP9に配属されたわけではない。この体質のせいで──いや、おかげでグアンハオから続くこの世界から逃れられなかった。だから力の伴わない私が、カク先輩の近くをうろちょろするのはさぞ腹が立つだろう。あんな風に呆れるのもよくわかる。
私はカク先輩とジャブラさんの部屋の前でもう一度息を整えた。ジャブラさんはともかく、カク先輩に会うのはいつでも緊張する。意を決してノックをすると、ジャブラさんの、入れ入れ、という気さくな応答があった。
「よしよし、よくきた。で、報告書だけどよ」
「あ、まだ下書き程度ですか、簡単にまとめてきました」
「本当か!? いやあ、ウカちゃんはこんなに優秀だってのに、なあんでカクはそんなに冷てぇんだよ!」
ジャブラさんがカク先輩をなじるので慌てて、冷たくないですよ、とフォローする。
「別に普通じゃろ」
「ええ、そうです。カク先輩は普通です」
昔から、とは言わない。おかしいのはジャブラさん。今だけ、きっと私のせいで。
「そうかあ? なんかピリついてんだよな。ウカちゃんは囮専門なんだろ? 誰が殺そうがいいじゃねえか! なあ? ウカちゃん」
「い、いえ。カク先輩のお怒りはごもっともかと」
カク先輩がまたあの目で私を見る。今にも私を殺してしまいそうな目で。
私は人が殺せないのにここにいる。いつか私もCP9に──この居場所にふさわしい人間になれるだろうか。
おしまい
→
夢小説,長編・連作,ONEPIECE,それすらわたしのひどい嘘 3088字 No.104
七年目の別れ話 #カク
まさかほんとに
「何しに来たの?」
「招待状を寄こしたのはそっちじゃろう?」
どの面下げて。
七年目の別れ話
二年前、私の目の前から影も形もなく、すっかり消え失せてしまった元・恋人が、ブライズルームに現れた。白いもこもこしたシルクハットと、白いコート、白いネクタイ。相変わらずハイネックがお好みのようで、それすら白かった。ドアを後ろ手で閉めて、その前に立つ。
「なにその服。ここがどういう場かわかってる? 失礼過ぎない?」
「これが今の職場の正装なもんで」
「ばっかじゃないの。礼儀知らず」
「忙しい仕事の合間を縫うてやってきたっちゅうのに。冷たいのう」
「頼んでない」
怒りで眉間に皺が寄る。なんて、なんてこと。でも──人を呼ぶ気にはなれなかった。そう、わたしはこの男と話したい。というより、罵りたい。出来れば声が枯れるまで。そのまま見つめあうことなんて出来なくて、私はすぐ鏡台の鏡に向き直った。鏡の中の私は、怒っているのか悲しんでいるのか、ひとまず笑顔でないことだけは確かな、なんとも微妙な顔をしている。鏡越しに覗き見たカクは、私の複雑な胸中なんてお構いなしと言わんばかりの、普通の顔に見えた。忌々しくて、ますます顔が強張る。
二年前、カクが失踪するまで、私は彼の恋人だったはずだ。告白された夏の夜のぬるい風も、喧嘩したときの頭に血が上る速さも、仲直りをしたときのこそばゆい妙な空気も、今でもはっきり思い出せる。もちろん最後の夜だって。
街は市長の暗殺騒ぎで騒然としていた。カクは一番ドックの職長だったからいつもよりずっと忙しかったはずなのに、私を案じて部屋まで来て、抱きしめてくれたのだ。少しでも怖くなくなるといいんじゃが、と。それがカクとの最後だった。
私たちは電伝虫を飼っていなかったけど、互いの部屋の鍵は持っていて、会いたい時には気兼ねなく互いを訪ねてよいことになっていた。いつしか互いの予定を互いのカレンダーで共有し、予定がない夜はまっすぐ自宅に帰るようになった。相手が自分の部屋で待っているかもしれない、と。いつだったか、べろべろに酔っぱらったパウリーに、お前のせいでカクは付き合いが悪くなったんだぞ! と涙目で言われたことがある。そんな小さな習慣を積み重ねた日々だった。
でも、あの日。アクア・ラグナが去っても、カクは来なかった。あの年のアクア・ラグナはかつてない規模の被害を街にもたらしていて、なぜかガレーラカンパニーも焼け落ちるほどだった。私も自分のことで手いっぱいだったし、カクも大変だろうと簡単に想像できたから、カクの不在に気づけなかったのだ。
アクア・ラグナが去って一週間。
鍵を使って彼の部屋に入ると、クローゼットや戸棚から服や小物などの中身がすっかり消えて空っぽになっていた。それなのに、ダイニングテーブルにはカクがいつも被っていた白いキャップがぽつんと残されていて、随分経ってから、それをカクの「さよなら」だと思うことにした。
そして二年が経った。
「見ての通りだけど、私、結婚するの」
「わし以外の男となァ」
「そうね。四年付き合った恋人が突然いなくなって。理由もわからず、連絡もなくて。事件に巻き込まれたんじゃないかって、随分眠れない夜を過ごしたけど。違った」
ただ捨てられただけだった。そうして荒れて、すさんで、ぼろぼろになった私を、ずっと支えてくれた素敵な人と結婚します。
少しでも傷つけばいい。あなたが私に何をしたか、思い知ればいい。
なのにカクは、私が何を言っても表情ひとつ変えなかった。その余裕じみた態度が、私の胸をまた深く突き刺してくる。
「なァ」
「なに」
「わしら、別れたのか?」
「……は?」
「わしは、別れたつもりはないんじゃが」
目の前が赤く染まるのがわかった。
「ふ、ざけないでッ!?」
「え」
「あなたを、待たなかったと!? あなたが、私を──責めるの!?」
全身が叫びに共鳴して震えた。怒りと悲しみが許容量を超え、血管が破裂して、喉が裂けて、爆ぜる。
「ちっ、違う違う違う違う!」
すまん、すまんかった。違うんじゃ、違う。
おろおろと慌てふためいて距離を詰めてくるカクをきっと睨み、近寄らないで! と一喝する。カクはぴたと足を止めた。
「すまん。失言だった。このまま、一層憎んでくれて構わんから」
怒りで人が殺せたなら、今、カクは間違いなく死んでいた。
はあはあと肩で息をしながら、こんなはずじゃなかった、こんな結末じゃ、と大声で泣きたくなる。
私はただ報せてやりたかった。
今がどんなに幸せか。あなたなしでもうんと幸せになれる。あなたがいなくても大丈夫。そして、私はとても、とってもあなたが好きだった。けど。
今はもう。あなたなんか。
カクが住んでいた部屋は二年経ってもまだ空いたままで、その郵便受けに結婚式の招待状を投函してみたのは戯れだった。カクに届くはずがない。それでも、報せてやりたかった。
「言われなくても」掠れたけどなんとか声にした。
「今日は伝えたいことがあって来たんじゃ」
まずい。私の叫びを聞きつけた彼や家族が、ぱたぱたと軽い足音をたてながら駆けつけてきた。カクが鍵をかけたドアの向こうから「何かあった?」と優しい声が響く。私はカクの肩越しにドアを見つめながら、何でもないよ、と言おうと──
「ちゃんと好きじゃったよ」
嘘だ。
その一言にすべてを攫われる。
光の速さでカクに視線を戻すと、目が合ったカクはどこまでもまっすぐな瞳で、柔らかく、でも寂し気に微笑んだ。そして
「嘘じゃない」
カクは私の心を読んだみたいに、得意げに言った。
「結婚、おめでとう。幸せにの」
私はこの言葉を聞くために。七年間、今日まであなたが好きだった。
おしまい
まさかほんとに
「何しに来たの?」
「招待状を寄こしたのはそっちじゃろう?」
どの面下げて。
七年目の別れ話
二年前、私の目の前から影も形もなく、すっかり消え失せてしまった元・恋人が、ブライズルームに現れた。白いもこもこしたシルクハットと、白いコート、白いネクタイ。相変わらずハイネックがお好みのようで、それすら白かった。ドアを後ろ手で閉めて、その前に立つ。
「なにその服。ここがどういう場かわかってる? 失礼過ぎない?」
「これが今の職場の正装なもんで」
「ばっかじゃないの。礼儀知らず」
「忙しい仕事の合間を縫うてやってきたっちゅうのに。冷たいのう」
「頼んでない」
怒りで眉間に皺が寄る。なんて、なんてこと。でも──人を呼ぶ気にはなれなかった。そう、わたしはこの男と話したい。というより、罵りたい。出来れば声が枯れるまで。そのまま見つめあうことなんて出来なくて、私はすぐ鏡台の鏡に向き直った。鏡の中の私は、怒っているのか悲しんでいるのか、ひとまず笑顔でないことだけは確かな、なんとも微妙な顔をしている。鏡越しに覗き見たカクは、私の複雑な胸中なんてお構いなしと言わんばかりの、普通の顔に見えた。忌々しくて、ますます顔が強張る。
二年前、カクが失踪するまで、私は彼の恋人だったはずだ。告白された夏の夜のぬるい風も、喧嘩したときの頭に血が上る速さも、仲直りをしたときのこそばゆい妙な空気も、今でもはっきり思い出せる。もちろん最後の夜だって。
街は市長の暗殺騒ぎで騒然としていた。カクは一番ドックの職長だったからいつもよりずっと忙しかったはずなのに、私を案じて部屋まで来て、抱きしめてくれたのだ。少しでも怖くなくなるといいんじゃが、と。それがカクとの最後だった。
私たちは電伝虫を飼っていなかったけど、互いの部屋の鍵は持っていて、会いたい時には気兼ねなく互いを訪ねてよいことになっていた。いつしか互いの予定を互いのカレンダーで共有し、予定がない夜はまっすぐ自宅に帰るようになった。相手が自分の部屋で待っているかもしれない、と。いつだったか、べろべろに酔っぱらったパウリーに、お前のせいでカクは付き合いが悪くなったんだぞ! と涙目で言われたことがある。そんな小さな習慣を積み重ねた日々だった。
でも、あの日。アクア・ラグナが去っても、カクは来なかった。あの年のアクア・ラグナはかつてない規模の被害を街にもたらしていて、なぜかガレーラカンパニーも焼け落ちるほどだった。私も自分のことで手いっぱいだったし、カクも大変だろうと簡単に想像できたから、カクの不在に気づけなかったのだ。
アクア・ラグナが去って一週間。
鍵を使って彼の部屋に入ると、クローゼットや戸棚から服や小物などの中身がすっかり消えて空っぽになっていた。それなのに、ダイニングテーブルにはカクがいつも被っていた白いキャップがぽつんと残されていて、随分経ってから、それをカクの「さよなら」だと思うことにした。
そして二年が経った。
「見ての通りだけど、私、結婚するの」
「わし以外の男となァ」
「そうね。四年付き合った恋人が突然いなくなって。理由もわからず、連絡もなくて。事件に巻き込まれたんじゃないかって、随分眠れない夜を過ごしたけど。違った」
ただ捨てられただけだった。そうして荒れて、すさんで、ぼろぼろになった私を、ずっと支えてくれた素敵な人と結婚します。
少しでも傷つけばいい。あなたが私に何をしたか、思い知ればいい。
なのにカクは、私が何を言っても表情ひとつ変えなかった。その余裕じみた態度が、私の胸をまた深く突き刺してくる。
「なァ」
「なに」
「わしら、別れたのか?」
「……は?」
「わしは、別れたつもりはないんじゃが」
目の前が赤く染まるのがわかった。
「ふ、ざけないでッ!?」
「え」
「あなたを、待たなかったと!? あなたが、私を──責めるの!?」
全身が叫びに共鳴して震えた。怒りと悲しみが許容量を超え、血管が破裂して、喉が裂けて、爆ぜる。
「ちっ、違う違う違う違う!」
すまん、すまんかった。違うんじゃ、違う。
おろおろと慌てふためいて距離を詰めてくるカクをきっと睨み、近寄らないで! と一喝する。カクはぴたと足を止めた。
「すまん。失言だった。このまま、一層憎んでくれて構わんから」
怒りで人が殺せたなら、今、カクは間違いなく死んでいた。
はあはあと肩で息をしながら、こんなはずじゃなかった、こんな結末じゃ、と大声で泣きたくなる。
私はただ報せてやりたかった。
今がどんなに幸せか。あなたなしでもうんと幸せになれる。あなたがいなくても大丈夫。そして、私はとても、とってもあなたが好きだった。けど。
今はもう。あなたなんか。
カクが住んでいた部屋は二年経ってもまだ空いたままで、その郵便受けに結婚式の招待状を投函してみたのは戯れだった。カクに届くはずがない。それでも、報せてやりたかった。
「言われなくても」掠れたけどなんとか声にした。
「今日は伝えたいことがあって来たんじゃ」
まずい。私の叫びを聞きつけた彼や家族が、ぱたぱたと軽い足音をたてながら駆けつけてきた。カクが鍵をかけたドアの向こうから「何かあった?」と優しい声が響く。私はカクの肩越しにドアを見つめながら、何でもないよ、と言おうと──
「ちゃんと好きじゃったよ」
嘘だ。
その一言にすべてを攫われる。
光の速さでカクに視線を戻すと、目が合ったカクはどこまでもまっすぐな瞳で、柔らかく、でも寂し気に微笑んだ。そして
「嘘じゃない」
カクは私の心を読んだみたいに、得意げに言った。
「結婚、おめでとう。幸せにの」
私はこの言葉を聞くために。七年間、今日まであなたが好きだった。
おしまい
残り香の幽霊 #カク
突然借主がいなくなった大家さんが困っていたし、ちょうど新しい部屋を探さなきゃいけなかったところだし、家賃も払えない額じゃないし、とたくさんの言い訳をして、私はカクが住んでいた部屋に住むことにした。大家さんは本当にいいの? と心配そうだったけど、そのときの私はどうしてもそうしたかった。カクの部屋で確かめたいことがあったから。
今年のアクア・ラグナは本当にひどかった。備えはしていたがそれを上回る規模の高波で、いつもなら浸水しないエリアにあったはずの私の部屋も見事に水に浸かってしまい、住み続けるのは難しくなってしまったのだ。どうしようかと困って、ひとまずカクの部屋を訪ねてみたらカクの部屋の前で腕を組んだ女性に出くわした。母と同じくらいの歳だろうか。どうされました? と尋ねた私は大層呑気な顔をしていただろうなと思う。
女性はこの部屋の大家だといい、あなた恋人なのよね? 本当に? と何度も確認した後、とても言い辛そうに、カクの退去を告げた。タイキョ? と言葉を飲み込めない私に、大家さんは追い打ちをかける。家具の処分にでも使ってほしい、とカクからまとまったお金と手紙が届いていたのだそうだ。あなた何も知らないのよね? 本当にいいのかしら、困ったわあと額に手を当てて俯く大家さんに、私が代わりに住んでもいいですか、というまでそう長い時間はかからなかった。
大家さんは、次の部屋が見つかるまでの拠点にしたらいいわ、と私を大層気の毒がって快く承諾してくれた。アクア・ラグナで家を失い、同じタイミングで恋人も去った私はさぞ可哀相な人間だったろう。私の荷物は避難所に持ち込んだ荷物だけになったから、引っ越しはすぐに済んだ。カクの部屋にはダイニングテーブルやベッドみたいな大きな家具がそのまま残っていたけど、服や本、食器の類は大方処分されていて、しんとした佇まいだった。自分のたてる物音がやけに響く。
カクと最後に会ったのはほんの二日前。私が避難の支度を終えて避難所に向かおうとしていたときだ。数日前から、海賊が市長の命を狙っているらしく、街の人も、ガレーラカンパニーの職人たちもみんなピリピリしていた。カクは職長だったから一層忙しかっただろうに、短い時間だったけど会いに来てくれたのだ。その時は、退去のことなんてもちろん一言も言ってなかったけど、この片付きようは一朝一夕で出来るものじゃない。カクは前々から準備していて、自分の意志でいなくなったんだ、と改めて思い知らされた。
とはいえ、そもそもカクはあまり物を持っていなかった。
カクの部屋の方が高台にあって景色も良かったのに、カクは私の部屋に来たがった。今思うと、自分の部屋にあまり来てほしくなかったのかもしれない。私がカクの部屋に入ったのは通り雨に振られてびしょ濡れになったあの日だけだ。部屋に入れてほしいとは、かえって言い出せなかった。断りにくいだろうこの状況で言い出すのは卑怯な気がしたから。けれど、カクはこちらが拍子抜けするくらい呆気なく部屋に招き入れてくれた。おずおずと遠慮がちにお邪魔したカクの部屋は、なんだか生活感がなくてびっくりしたけど、それを言葉にしてはいけない雰囲気があって、結局黙って借りたタオルで頭を拭いた。タオルはちょっとごわごわしていて、でも、カクの服と同じ石鹸の香りがして、そこでようやく、カクもここで生活しているんだなと安心したのを覚えている。
ひとまず、引き出しや戸棚の類をすべて開けてみる。開けても開けても当たり前のようにからっぽで、そろそろ飽きてきたという頃にそれは姿を見せた。見つけた、というべきなんだろうけど、出てきた、というのが私の気持ちに近かった。
「なんで、これが」
春先に一緒に買った香水だった。上の方の戸棚にあったのは、カクなら難なく届くからなのか、とりあえずしまい込んでいて存在を忘れたのか、なんとも判断しづらい。落とさないようにそっと手に取ると、香水にしては素っ気ない試験管のような細身のボトルが手に馴染む。
サン・ファルドで開催される仮装カーニバルにあわせて、ウォーターセブンの商店街にも色んなグッズが並ぶ。その香水は、そんな時期に露店で見かけて、柄じゃない、というカクを、こういうの夢だったのと言いくるめて買ったもの。少量で手ごろな価格だった。ナノハナから仕入れているんですよと声をかけてきた店主は商売っ気のない品のいい紳士で、香水に馴染みがない私たちに、つける場所や量なんかを色々教えてくれた。その語り口のおかげか、最初は渋々といった様子だったカクも、二つ、三つと手に取って試してみてくれる。
『カク! これすごいよ、パンの香りだ! パンの匂いがする』
『嘘じゃろ……食べ物の匂いって……』
『……』
『パンじゃな』
『ね~? でもちゃんといい香りだね。すごいね』
最初は興味なさげだったカクも、最後には土や石、木の根や苔をベースにした香りを、私はイチジクやザクロといった果実をベースにした香りを選んだ。ほう、と店主から声が漏れる。二人できょとんとしていると、店主はにこにこしながら、こう教えてくれた。お二人がそれぞれ選んだ香りはペアフレグランスとして使えるくらい互いに相性がいい香りなんですよ、と。ペアフレグランスと言われてもぴんとこない私たちに、店主はもっとわかりやすく、互いが互いを高めあってより良い香りになる組み合わせですと説明してくれた。私はようやくそこで舞い上がったし、カクもなんだか照れ臭そうだった。
私は香りも思い出も込みで気に入り、カクに会う時は必ず使った。今回の避難でも、使えないけどお守りみたいにバッグに入れて持って行った。でも、カクの方はというと、使ってくれたんだと思えたことはなかった気がする。
だから、戸棚の隅からそっと取り出した香水が、わずかに、でも確かに減ってるように見えたとき、カクが使った? いつ? と食い気味に思った。カクがつけていたのに私が気づかなかったのか。それとも部屋でつけてみて、やっぱり違う、趣味じゃないと思ったのか。わずかにでも減るくらいには、何度か試してくれたのか。
もう何も聞けないし、わからない。
でも、聞いたところでわかるだろうか。やっぱり趣味じゃなかった香水みたいに、本当は苦手でも、カクはそれを悟らせなかったかもしれない。私はカクの何を知っていたんだろう。少なくとも、こんなふうに別れる人だなんて思っていなかった。別れる……振られたんだろうか、私は。私はまだ、カクの退去、いや、失踪に気持ちが追いついていなかった。香水のボトルを目の前に掲げて液面を揺らさないように身体を硬直させる。やっぱり、減ってる。
いい香りだと思ったことも、カクに似合っていたと思ったことも覚えていたが、どんな香りだったかはうろ覚えだった。踏み台に使った椅子に腰かけながら、何もない目の前の空間に香水をワンプッシュする。たちまち香りが広がり、そうだ、そうだ。こんな香りだった、と思い出す。華やかでも爽やかでもないけど、ちょっと地味だけど、穏やかで優しい、大地と木の香りがふわっと香る。木で船を造っている、おじいちゃんみたいなカクにぴったりだと思ったことを思い出した。カクの照れた笑顔もセットで浮かんできて、じんわり目が濡れた。慌てて、ずっ、と鼻をすする。カクは、内心無理してたのかもしれないけど笑顔ではあった。なんで、どうして。聞きたいことはたくさんあるのに、もう二度と聞けないんだと思ったら、いつまでも目はじとじとと濡れ続けた。
カクのいないこの部屋のどこに焦点を合わせていいのかわからないまま、もうワンプッシュだけ、と外したキャップをしばらくそのまま握りしめていた。
どれくらいそうしていたかわからないが、胃がぎゅうと縮んでぐうう、と音を立てたところで、ハッとしてお腹をさすった。そういえば、朝から何も食べていない。水を飲むためのコップもない。食欲はあまりないけど、とりあえず何か買ってくるかと近くの商店街へ向かった。
カクの部屋があるエリアは浸水しなかったので、ほとんどいつも通り営業していた。浸水したエリアの住民も来ているのか、いつもより人が多い。人と人との間隙を縫うように目当てのパン屋に向かう。ドアを押すと、いつものドアベルがカランカランと鳴り、いらっしゃいと声がかかる。おなかはすいていないけど、いつもの習慣でローストポークのサンドイッチを手に取ってしまった。それもふたつ。ふわふわのパンにきゅうりとレタス、やわらかいローストポークがサンドしてあって、バーベキューソースとマヨネーズのバランスがとてもいい。カクとふたりでよく食べたパンだ。余分なひとつを戻すことも出来ず、諦めて会計をする。
「今日はひとり? 珍しいね」
「ああ、ええ、まあ」
「そうか、ガレーラカンパニーの人らはしばらく忙しいよね。これおまけだよ」
サンドイッチがふたつ入った紙袋に追加で入ったのは一口サイズのクロワッサンだった。シロップが塗ってあって、ほの甘いパン。カクはコーヒーと一緒につまむのが好きでそれもよく買っていたから、このおまけは忙しいであろうガレーラカンパニーの人、つまりカクへの労いだろう。要りませんとも言えず、お礼を言って店を後にした。
そのあとも立ち寄る店々で声がかかる。内容はパン屋さんの時と似たり寄ったりだ。カクの不在をことさら強調されるようでしんどく後悔しはじめる。うんざりした気持ちで、商店街のメインストリートから一本横に入ると、急に知らない景色になりかえって安心した。それなりの荷物を抱えながらうろうろしてから、カクと来た覚えがないカフェに立ち寄った。もう隣にいないカクの話題を振られたくない。
「あれ? おひとりですか?」
入店して早々、やけに馴れ馴れしい店主に出鼻をくじかれた。ひとりですが、と訝し気に応じると、店主は、すみませんすみません、と簡単な謝罪を重ねる。
「いえね、カクさんが今度はウカさんも連れてくるって言うもんだからつい」
「カクが?」
聞くと、ここはカクがこの島に来た頃からずっと通っていたお店らしい。私のことは、カクと一緒にいるところをよく見かけており一方的に知っていたので声をかけてしまったのだと。
「ウカさんのことはカクさんからよく話を聞いていたので、勝手に知った気になってしまって。すみません」
「……カクはそんなに私の話をしてたんですか?」
「僕がウカさんと初対面ではないと勘違い出来るほどには」

その日見た夢は奇妙な夢だった。カクは見たことのない真っ黒な服を着てこの部屋のダイニングテーブルに座りテーブルの上の香水を見つめていた。ボトルに手を伸ばしたところで、やめておけ、と男性の声が響く。男性の姿は見えない。
『そんなもの、仕事に差し支えるだろ』
わかっとるわい、仕舞おうとしただけじゃ、とカクが応じた。カクと会ってないのはほんの二日程度なのに懐かしくて仕方がない。カクは香水のボトルを弄ぶように右手に左手にと持ち替えていた。
『あなたが香水なんて、どうしちゃったの?』
今度は女性の声だがやはり姿は見えず、私はただ、なんだこの女は、と眉間に皺をよせた。夢は、壁の穴から覗いているように固定された視界で、自由に見たいところを見られるわけでも、こちらの声が届くわけでもないようだった。ただ彼らのやりとりを穴から見える範囲で覗き聞き耳を立てるだけ。
『別にいいじゃろ。お洒落じゃ、お洒落』
『あの女と揃いで買ったんだと』
『……なんで知っとるんじゃ』
『隠し通せるとでも思ってたのか?』
男性の声には明らかに呆れや侮蔑の色があり、なんだこの男は、と拳に力が入る。
『素敵じゃない。使ってる?』
カクを庇うような女性の声に、私は少しだけ彼女に気を許した。
『いや』
そう言ったカクが申し訳なさそうに見えたのは、そうだったらいいのにと思う私の勘違いだろうか。
『どうして?』
『なんじゃろうな、目立つ、気がする』
カクの言い分はさっぱりわからない。女性は少し間を覆いて、賢明ね、と言った。なぜそのように評されるのかわからない、という顔で女性の声がする方を見つめるカクが見える。女性は諭すような声音だった。
『香りの記憶は色褪せないわ。あなたにその覚悟がある?』
『覚悟』
『彼女、きっとあなたのこと忘れられなくなるわよ』
その香りで、彼女はきっとあなたを思い出す。
目が覚めた私は、一瞬、どこまでが夢でどこからが現実かわからなくなった。さっきまでそのダイニングテーブルに彼らがいたような錯覚に陥り、何度も目をこする。こするほど、ついさっきまで見ていた夢なのにどんどん記憶が曖昧になっていく。カクと、知らない人が何かしゃべっていた。カクも知らない人みたいだった。思い出そうとすればするほど、まったく思い出せないことがわかって焦るのだが、取りこぼしこぼれていく記憶を自分ではどうすることもできない。
手で顔を覆いながら、指の隙間からベッドサイドに置いた香水に目を留める。なんで香水は処分せずに置いていったんだろう。いや、今となっては『置いていったのか』すらわからない。しまい込んで忘れてしまった、というのが一番自然な気がした。
私はこの部屋で確かめたかっただけだ。カクは本当にもう帰ってこないのか。実はあっさり帰ってくるんじゃないかって。ほとんど使ってない香水を見つけに来たわけじゃない。タオルケットを乱暴に引き寄せて滲んだ涙を拭うと、いつかのタオルと同じ石鹸の匂いがした。こんなに物が少ないのに、容赦なくカクの気配がするとは何事なんだと、また涙が押し寄せてくる。
そのうち目の端にちらつく香水がやけに腹立たしくなってきて、こんなもの! と手に取り振りかぶった。が、それを床に叩きつけるにはどうしても至らなかった。それもまた悔しいような、負けたような、惨めな気持ちになり、今度は、ううう、と声をあげながら泣いた。カクがいなくなってからはじめてちゃんと泣けた気がした。泣きながらいつの間にか疲れ果て眠ったようだが、もう夢は見なかった。

朝の光は偉大だ。浴びていると、ましな答えを出すのに一役買ってくれる。
カーテンのない窓からは容赦なく朝日が差し込んできて、半ば強制的に起こされる羽目になった。目が開かないのは眠いからではなく、腫れているからだろう。枕元に転がる香水に目を落とす。
ひとまず、カクの香水はしまっておこう。これは、今の私にはいい影響を与えない。かといって、今はまだ自分の手で処分する気にもなれない。とりあえず、あったところに戻すことにして、のろのろとベッドから降りた。椅子を持ってきて、戸棚を開ける。
別にどこに仕舞っても良かったのだが、どうせなら同じ場所に、と奥を覗くと隅に小さな紙切れがあるのが見えた。昨日は香水に気を取られて気づかなかった。なんだろう、と手をぐっと伸ばして指の先で捉える。爪の先でカサ、カサ、とかすってから、なんとか掴めた紙切れは、メモみたいな走り書きだった。目で追うほどでもない短い文章。理解して、え、と思ったときには、椅子から転げるように走りだして、荷物を入れたボストンバッグに飛びついた。大して多くない荷物を片っ端から取り出して、確かめて、放り投げる。ない、ない、ない。空になったボストンバッグを逆さまにして叩いて、散らかした荷物をまたかき集めて一つ一つ確かめて、バッグに入れたはずの『それ』がないことを確信した。
きっとあのときだ。避難所に向かう前、ほんの少し会ったとき。あのときしか。
「全然、意味わかんない」
カクの言葉は相変わらずさっぱりだったけど、床にへたり込んだ私はまた、私しかいない部屋にカクの香水をワンプッシュした。自然と口角が上がる。それを手でおさえた。視界が滲んでぼやけ、その分香りが一層際立つ。私は大きく息を吸い込んだ。
『すまんの。これは置いていくから、しばらくウカのを貸してくれ』
その香りで、きっとあなたを思い出す。
おしまい
突然借主がいなくなった大家さんが困っていたし、ちょうど新しい部屋を探さなきゃいけなかったところだし、家賃も払えない額じゃないし、とたくさんの言い訳をして、私はカクが住んでいた部屋に住むことにした。大家さんは本当にいいの? と心配そうだったけど、そのときの私はどうしてもそうしたかった。カクの部屋で確かめたいことがあったから。
今年のアクア・ラグナは本当にひどかった。備えはしていたがそれを上回る規模の高波で、いつもなら浸水しないエリアにあったはずの私の部屋も見事に水に浸かってしまい、住み続けるのは難しくなってしまったのだ。どうしようかと困って、ひとまずカクの部屋を訪ねてみたらカクの部屋の前で腕を組んだ女性に出くわした。母と同じくらいの歳だろうか。どうされました? と尋ねた私は大層呑気な顔をしていただろうなと思う。
女性はこの部屋の大家だといい、あなた恋人なのよね? 本当に? と何度も確認した後、とても言い辛そうに、カクの退去を告げた。タイキョ? と言葉を飲み込めない私に、大家さんは追い打ちをかける。家具の処分にでも使ってほしい、とカクからまとまったお金と手紙が届いていたのだそうだ。あなた何も知らないのよね? 本当にいいのかしら、困ったわあと額に手を当てて俯く大家さんに、私が代わりに住んでもいいですか、というまでそう長い時間はかからなかった。
大家さんは、次の部屋が見つかるまでの拠点にしたらいいわ、と私を大層気の毒がって快く承諾してくれた。アクア・ラグナで家を失い、同じタイミングで恋人も去った私はさぞ可哀相な人間だったろう。私の荷物は避難所に持ち込んだ荷物だけになったから、引っ越しはすぐに済んだ。カクの部屋にはダイニングテーブルやベッドみたいな大きな家具がそのまま残っていたけど、服や本、食器の類は大方処分されていて、しんとした佇まいだった。自分のたてる物音がやけに響く。
カクと最後に会ったのはほんの二日前。私が避難の支度を終えて避難所に向かおうとしていたときだ。数日前から、海賊が市長の命を狙っているらしく、街の人も、ガレーラカンパニーの職人たちもみんなピリピリしていた。カクは職長だったから一層忙しかっただろうに、短い時間だったけど会いに来てくれたのだ。その時は、退去のことなんてもちろん一言も言ってなかったけど、この片付きようは一朝一夕で出来るものじゃない。カクは前々から準備していて、自分の意志でいなくなったんだ、と改めて思い知らされた。
とはいえ、そもそもカクはあまり物を持っていなかった。
カクの部屋の方が高台にあって景色も良かったのに、カクは私の部屋に来たがった。今思うと、自分の部屋にあまり来てほしくなかったのかもしれない。私がカクの部屋に入ったのは通り雨に振られてびしょ濡れになったあの日だけだ。部屋に入れてほしいとは、かえって言い出せなかった。断りにくいだろうこの状況で言い出すのは卑怯な気がしたから。けれど、カクはこちらが拍子抜けするくらい呆気なく部屋に招き入れてくれた。おずおずと遠慮がちにお邪魔したカクの部屋は、なんだか生活感がなくてびっくりしたけど、それを言葉にしてはいけない雰囲気があって、結局黙って借りたタオルで頭を拭いた。タオルはちょっとごわごわしていて、でも、カクの服と同じ石鹸の香りがして、そこでようやく、カクもここで生活しているんだなと安心したのを覚えている。
ひとまず、引き出しや戸棚の類をすべて開けてみる。開けても開けても当たり前のようにからっぽで、そろそろ飽きてきたという頃にそれは姿を見せた。見つけた、というべきなんだろうけど、出てきた、というのが私の気持ちに近かった。
「なんで、これが」
春先に一緒に買った香水だった。上の方の戸棚にあったのは、カクなら難なく届くからなのか、とりあえずしまい込んでいて存在を忘れたのか、なんとも判断しづらい。落とさないようにそっと手に取ると、香水にしては素っ気ない試験管のような細身のボトルが手に馴染む。
サン・ファルドで開催される仮装カーニバルにあわせて、ウォーターセブンの商店街にも色んなグッズが並ぶ。その香水は、そんな時期に露店で見かけて、柄じゃない、というカクを、こういうの夢だったのと言いくるめて買ったもの。少量で手ごろな価格だった。ナノハナから仕入れているんですよと声をかけてきた店主は商売っ気のない品のいい紳士で、香水に馴染みがない私たちに、つける場所や量なんかを色々教えてくれた。その語り口のおかげか、最初は渋々といった様子だったカクも、二つ、三つと手に取って試してみてくれる。
『カク! これすごいよ、パンの香りだ! パンの匂いがする』
『嘘じゃろ……食べ物の匂いって……』
『……』
『パンじゃな』
『ね~? でもちゃんといい香りだね。すごいね』
最初は興味なさげだったカクも、最後には土や石、木の根や苔をベースにした香りを、私はイチジクやザクロといった果実をベースにした香りを選んだ。ほう、と店主から声が漏れる。二人できょとんとしていると、店主はにこにこしながら、こう教えてくれた。お二人がそれぞれ選んだ香りはペアフレグランスとして使えるくらい互いに相性がいい香りなんですよ、と。ペアフレグランスと言われてもぴんとこない私たちに、店主はもっとわかりやすく、互いが互いを高めあってより良い香りになる組み合わせですと説明してくれた。私はようやくそこで舞い上がったし、カクもなんだか照れ臭そうだった。
私は香りも思い出も込みで気に入り、カクに会う時は必ず使った。今回の避難でも、使えないけどお守りみたいにバッグに入れて持って行った。でも、カクの方はというと、使ってくれたんだと思えたことはなかった気がする。
だから、戸棚の隅からそっと取り出した香水が、わずかに、でも確かに減ってるように見えたとき、カクが使った? いつ? と食い気味に思った。カクがつけていたのに私が気づかなかったのか。それとも部屋でつけてみて、やっぱり違う、趣味じゃないと思ったのか。わずかにでも減るくらいには、何度か試してくれたのか。
もう何も聞けないし、わからない。
でも、聞いたところでわかるだろうか。やっぱり趣味じゃなかった香水みたいに、本当は苦手でも、カクはそれを悟らせなかったかもしれない。私はカクの何を知っていたんだろう。少なくとも、こんなふうに別れる人だなんて思っていなかった。別れる……振られたんだろうか、私は。私はまだ、カクの退去、いや、失踪に気持ちが追いついていなかった。香水のボトルを目の前に掲げて液面を揺らさないように身体を硬直させる。やっぱり、減ってる。
いい香りだと思ったことも、カクに似合っていたと思ったことも覚えていたが、どんな香りだったかはうろ覚えだった。踏み台に使った椅子に腰かけながら、何もない目の前の空間に香水をワンプッシュする。たちまち香りが広がり、そうだ、そうだ。こんな香りだった、と思い出す。華やかでも爽やかでもないけど、ちょっと地味だけど、穏やかで優しい、大地と木の香りがふわっと香る。木で船を造っている、おじいちゃんみたいなカクにぴったりだと思ったことを思い出した。カクの照れた笑顔もセットで浮かんできて、じんわり目が濡れた。慌てて、ずっ、と鼻をすする。カクは、内心無理してたのかもしれないけど笑顔ではあった。なんで、どうして。聞きたいことはたくさんあるのに、もう二度と聞けないんだと思ったら、いつまでも目はじとじとと濡れ続けた。
カクのいないこの部屋のどこに焦点を合わせていいのかわからないまま、もうワンプッシュだけ、と外したキャップをしばらくそのまま握りしめていた。
どれくらいそうしていたかわからないが、胃がぎゅうと縮んでぐうう、と音を立てたところで、ハッとしてお腹をさすった。そういえば、朝から何も食べていない。水を飲むためのコップもない。食欲はあまりないけど、とりあえず何か買ってくるかと近くの商店街へ向かった。
カクの部屋があるエリアは浸水しなかったので、ほとんどいつも通り営業していた。浸水したエリアの住民も来ているのか、いつもより人が多い。人と人との間隙を縫うように目当てのパン屋に向かう。ドアを押すと、いつものドアベルがカランカランと鳴り、いらっしゃいと声がかかる。おなかはすいていないけど、いつもの習慣でローストポークのサンドイッチを手に取ってしまった。それもふたつ。ふわふわのパンにきゅうりとレタス、やわらかいローストポークがサンドしてあって、バーベキューソースとマヨネーズのバランスがとてもいい。カクとふたりでよく食べたパンだ。余分なひとつを戻すことも出来ず、諦めて会計をする。
「今日はひとり? 珍しいね」
「ああ、ええ、まあ」
「そうか、ガレーラカンパニーの人らはしばらく忙しいよね。これおまけだよ」
サンドイッチがふたつ入った紙袋に追加で入ったのは一口サイズのクロワッサンだった。シロップが塗ってあって、ほの甘いパン。カクはコーヒーと一緒につまむのが好きでそれもよく買っていたから、このおまけは忙しいであろうガレーラカンパニーの人、つまりカクへの労いだろう。要りませんとも言えず、お礼を言って店を後にした。
そのあとも立ち寄る店々で声がかかる。内容はパン屋さんの時と似たり寄ったりだ。カクの不在をことさら強調されるようでしんどく後悔しはじめる。うんざりした気持ちで、商店街のメインストリートから一本横に入ると、急に知らない景色になりかえって安心した。それなりの荷物を抱えながらうろうろしてから、カクと来た覚えがないカフェに立ち寄った。もう隣にいないカクの話題を振られたくない。
「あれ? おひとりですか?」
入店して早々、やけに馴れ馴れしい店主に出鼻をくじかれた。ひとりですが、と訝し気に応じると、店主は、すみませんすみません、と簡単な謝罪を重ねる。
「いえね、カクさんが今度はウカさんも連れてくるって言うもんだからつい」
「カクが?」
聞くと、ここはカクがこの島に来た頃からずっと通っていたお店らしい。私のことは、カクと一緒にいるところをよく見かけており一方的に知っていたので声をかけてしまったのだと。
「ウカさんのことはカクさんからよく話を聞いていたので、勝手に知った気になってしまって。すみません」
「……カクはそんなに私の話をしてたんですか?」
「僕がウカさんと初対面ではないと勘違い出来るほどには」
その日見た夢は奇妙な夢だった。カクは見たことのない真っ黒な服を着てこの部屋のダイニングテーブルに座りテーブルの上の香水を見つめていた。ボトルに手を伸ばしたところで、やめておけ、と男性の声が響く。男性の姿は見えない。
『そんなもの、仕事に差し支えるだろ』
わかっとるわい、仕舞おうとしただけじゃ、とカクが応じた。カクと会ってないのはほんの二日程度なのに懐かしくて仕方がない。カクは香水のボトルを弄ぶように右手に左手にと持ち替えていた。
『あなたが香水なんて、どうしちゃったの?』
今度は女性の声だがやはり姿は見えず、私はただ、なんだこの女は、と眉間に皺をよせた。夢は、壁の穴から覗いているように固定された視界で、自由に見たいところを見られるわけでも、こちらの声が届くわけでもないようだった。ただ彼らのやりとりを穴から見える範囲で覗き聞き耳を立てるだけ。
『別にいいじゃろ。お洒落じゃ、お洒落』
『あの女と揃いで買ったんだと』
『……なんで知っとるんじゃ』
『隠し通せるとでも思ってたのか?』
男性の声には明らかに呆れや侮蔑の色があり、なんだこの男は、と拳に力が入る。
『素敵じゃない。使ってる?』
カクを庇うような女性の声に、私は少しだけ彼女に気を許した。
『いや』
そう言ったカクが申し訳なさそうに見えたのは、そうだったらいいのにと思う私の勘違いだろうか。
『どうして?』
『なんじゃろうな、目立つ、気がする』
カクの言い分はさっぱりわからない。女性は少し間を覆いて、賢明ね、と言った。なぜそのように評されるのかわからない、という顔で女性の声がする方を見つめるカクが見える。女性は諭すような声音だった。
『香りの記憶は色褪せないわ。あなたにその覚悟がある?』
『覚悟』
『彼女、きっとあなたのこと忘れられなくなるわよ』
その香りで、彼女はきっとあなたを思い出す。
目が覚めた私は、一瞬、どこまでが夢でどこからが現実かわからなくなった。さっきまでそのダイニングテーブルに彼らがいたような錯覚に陥り、何度も目をこする。こするほど、ついさっきまで見ていた夢なのにどんどん記憶が曖昧になっていく。カクと、知らない人が何かしゃべっていた。カクも知らない人みたいだった。思い出そうとすればするほど、まったく思い出せないことがわかって焦るのだが、取りこぼしこぼれていく記憶を自分ではどうすることもできない。
手で顔を覆いながら、指の隙間からベッドサイドに置いた香水に目を留める。なんで香水は処分せずに置いていったんだろう。いや、今となっては『置いていったのか』すらわからない。しまい込んで忘れてしまった、というのが一番自然な気がした。
私はこの部屋で確かめたかっただけだ。カクは本当にもう帰ってこないのか。実はあっさり帰ってくるんじゃないかって。ほとんど使ってない香水を見つけに来たわけじゃない。タオルケットを乱暴に引き寄せて滲んだ涙を拭うと、いつかのタオルと同じ石鹸の匂いがした。こんなに物が少ないのに、容赦なくカクの気配がするとは何事なんだと、また涙が押し寄せてくる。
そのうち目の端にちらつく香水がやけに腹立たしくなってきて、こんなもの! と手に取り振りかぶった。が、それを床に叩きつけるにはどうしても至らなかった。それもまた悔しいような、負けたような、惨めな気持ちになり、今度は、ううう、と声をあげながら泣いた。カクがいなくなってからはじめてちゃんと泣けた気がした。泣きながらいつの間にか疲れ果て眠ったようだが、もう夢は見なかった。
朝の光は偉大だ。浴びていると、ましな答えを出すのに一役買ってくれる。
カーテンのない窓からは容赦なく朝日が差し込んできて、半ば強制的に起こされる羽目になった。目が開かないのは眠いからではなく、腫れているからだろう。枕元に転がる香水に目を落とす。
ひとまず、カクの香水はしまっておこう。これは、今の私にはいい影響を与えない。かといって、今はまだ自分の手で処分する気にもなれない。とりあえず、あったところに戻すことにして、のろのろとベッドから降りた。椅子を持ってきて、戸棚を開ける。
別にどこに仕舞っても良かったのだが、どうせなら同じ場所に、と奥を覗くと隅に小さな紙切れがあるのが見えた。昨日は香水に気を取られて気づかなかった。なんだろう、と手をぐっと伸ばして指の先で捉える。爪の先でカサ、カサ、とかすってから、なんとか掴めた紙切れは、メモみたいな走り書きだった。目で追うほどでもない短い文章。理解して、え、と思ったときには、椅子から転げるように走りだして、荷物を入れたボストンバッグに飛びついた。大して多くない荷物を片っ端から取り出して、確かめて、放り投げる。ない、ない、ない。空になったボストンバッグを逆さまにして叩いて、散らかした荷物をまたかき集めて一つ一つ確かめて、バッグに入れたはずの『それ』がないことを確信した。
きっとあのときだ。避難所に向かう前、ほんの少し会ったとき。あのときしか。
「全然、意味わかんない」
カクの言葉は相変わらずさっぱりだったけど、床にへたり込んだ私はまた、私しかいない部屋にカクの香水をワンプッシュした。自然と口角が上がる。それを手でおさえた。視界が滲んでぼやけ、その分香りが一層際立つ。私は大きく息を吸い込んだ。
『すまんの。これは置いていくから、しばらくウカのを貸してくれ』
その香りで、きっとあなたを思い出す。
おしまい
そのたばこ屋は商店街の片隅、角にあった。たばこ屋、とは昔の名残で、今は食べ物や雑貨も扱っている。カウンターも併設しているこの島では珍しい形だ。店は用がなければ立ち入らないだろう路地に面していて、市場の喧騒はすっと遠ざかる。話し声も足元も届きにくい。だからなのか、客は常連ばかりで、祖母が店を閉めよう、と言い出すのも最もだとウカは思っていた。
店を継ぐ、と張り切ってやってきたわけではない。ちょうど職を失ってどうしようかと思案していた時に親族から、暇をしているならしばらくやってやれ、と言われただけだ。それを聞いた祖母は、どうせ閉めようと思っていた店だ、潰してもいい、とからから笑った。ウォーターセブンは水路が張り巡らされた美しい島でありながら、工業が盛んで活気のある島。一度くらいは住んでみたかったから、渡りに船だと気軽な気持ちで引き受けた。まあ、ほんの少しだけ「何か変われば」なんて期待もした。ほんの少し。
客は意外にも老若男女、幅広い。近所の住人が、ちょっとしたものを買うのにやってくるからだ。幅広い、が、頻度は高くない。朝早く、初老の男性が新聞を買ったかと思うと、閉店間際にふくよかな女性が、洗剤が切れた、と駆け込んできたりする。
「いつもの」
彼も常連の一人だった。葉巻が切れるとやってきて、ついでにヤガラレースのチケットも買い求めていく。その男がガレーラカンパニーの一番ドック職長でパウリーという名だというのは、サン・ファルドからやってきたウカでも知り得る情報だった。
雑談はしない。先代の祖母はしていたのかもしれないが、ウカは求められなければ声はかけなかった。ただカウンターに座り、往来の人──といっても近所の住人ばかりだが──を日がな一日眺める。カウンターで用が済めば立ち上がりさえしない。ドアを開けて入ってくれば、いらっしゃい、くらいは声をかけ微笑むことだけは気をつけていた。
葉巻の彼にはツレがいることが多かった。ツレの男も、この島では知らぬ者はいないだろうという有名人。名前はカクというらしい。彼らは気が合うらしく、二人で笑いながらやってくることが多かった。ただ、商品を買い求めるのはもっぱらパウリーの方で、カクは毎回物珍しそうに色々眺めるわりに、パウリーの会計が終わるとすべての興味を失うようだ。パウリーの買い物は路地に面したカウンターで済むことが多く、彼らが店内に足を踏み入れることはない。でも、カウンター越しに彼らの話がちょっと聞こえるのは、結構いい時間だった。賑やかだけどうるさくない。そんな感じ。
「また懲りずに……」「おれの金だ」「借金しとるやつの台詞じゃないじゃろ」「これで一発当てて返すんだよ」「お主、まさかそこまで……」「お前、『アホかこいつ』って顔に書いてあんだよ!」
ウカはこういうとき、レジ作業でもする振りをして、彼らの背景であろうと努めていた。会話には決して加わらない。吹き出したりもしない。でもそっと、彼らを盗み見るようにする。ときたま、カクとだけちらりと目が合い、瞬間、ばつが悪い気持ちになるが、謝るのも違う気がして結局言葉を交わすことはない。そういう日々だった。
『パウリー』が店に来なくなって二週間が過ぎた。もちろんツレの彼も。理由は、近所の店の店員でしかないウカには知る術もない。常連の客がふっと顔を見せなくなるのはよくあることだ、と祖母も言っていた。客を無理矢理引っ張っては来れない、待つしかないね、と。わかってはいるが、来ないとなんだか拍子抜けだ。無駄かもしれないのに葉巻の在庫を確認してしまう。『パウリー』が来なければ、『カク』も来ない。当たり前のことだ。肩肘をつきカウンターから眺める往来は、店内の暗さも相まってスローシネマの風情がある。そのため睡魔に襲われやすい──……。
「いつもの」
声というより音に反応して、ウカははっと顔をあげる。店の外、つまりカウンター前ではない。声がしたのは店内だ。椅子をガタつかせながら急いで振り向くと、そこにいたのはカクの方だった。
「い、いらっしゃいませ。すみません」
カクはウカのうたた寝には触れず、商品棚をざっと見回し、煙草が並ぶ列に視線を止めた。
「パウリーの使いでの。パウリー、知っとるか?あいつの『いつもの』はこれ、かの?」
カクはウカに顔を向けることなく、左手をポケットに入れたまま右手の人差し指で商品棚の煙草を指差した。ぎこちない手つきで示すそれは生憎違う銘柄だ。
「ただいまお持ちします」
彼らはここのところ顔を見せないから、と奥にしまっていたのだ。奥からパウリーがいつも吸う葉巻を取って戻ってくる。カクはこの店で唯一光が差し込むドアを背にしており、ウカのほうを向いていたが、逆光で表情がわかりづらかった。ありがとう、の声音でなんだか安心した。値段を告げ、紙幣を受け取り、釣りを渡す。すべてが初めてのことだったが、それももう終わる。
「ありがとうございました」
カクは葉巻を片手に、店のドアを押した。店の入口は長身のカクには少しだけ低く、屈むように腰を曲げた。カクはそこでちらりと、ウカを振り返る。
「……を」
店内には外の喧騒が届かず、いつも静かなはずなのに、その声はウカに届かなかった。ウカは迷って、聞き返す。
「なにか……?」
「名前を」
なまえ、を。
「聞いてもいいじゃろうか?」
私の?
カクは自らの畏まった問いに照れているようで、音のしない店内でそのままかき消えてもおかしくなかったが、ウカの耳は今度はしっかりとその問いをとらえた。ウカは戸惑いながらも、わずかに頬が緩む自分に気づく。
「──ウカ、です」
「ウカ。そうか。パウリーに尋ねても、知らんというから」
あの役立たずめ、とカクは肩を竦め店を後にする。あっという間だった。滅多に鳴らないドアベルの音だけが残る。
彼はまた一人でも来るだろうか。名前を聞かれた、ただそれだけのことだったが、なんとなく彼はまた来るような気がして、ふと気になってドアのガラスを磨いてみる。
今度は私も彼の名前を呼んでみようか、と思いながら。磨いたガラスは一層──。
おしまい