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カテゴリ「水の都で過ごした」に属する投稿[14件](3ページ目)
薄氷の日々 #フランキー #ブルーノ
いつの頃からか、この街の朝の空気にもだいぶ慣れた。自分の店は夜ににぎわう酒場なのだから、こんな時間から起きだす必要もないように思うが、目覚めてしまうものは仕方ない。
ブルーノは大きく伸び、あくびを噛み殺しながら、店の窓をあけた。流れる風がすでに活気づいた街の空気を運んでくる。職人の街はただでさえ朝が早い。もう街にはエンジンがかかっている。
そのせいか、店を開ける時間もどんどん早くなってしまった。いっそ酒場ではなく大衆レストラン、くらいにして店を閉める時間を早めてしまおうか。このまま睡眠時間が削られていき、かつ、任務が長引けば体が持たない。だが、そんな泣き言は聞きいれてもらえる気がしなかった。エスプレッソとビスケットを手早くを口に運びながら、なにかいい案がないかと考えはする。しかし、仕事は待ってくれない。咀嚼を終える前に席を立って、カウンターへ足を運んだ。今日はいつもより起きるのが遅かったから、さっさと支度をせねば。
酒瓶は毎日磨くようにしている。埃を被った瓶で注ぐ酒なんて、と酒場の店主がすっかり板についてしまったが、それを悪くないと思う自分もいる。一本ずつ手に取って、埃をぬぐっていく作業はなかなか性に合っていた。誰にも言えやしない。
「よう! ブルーノ!」
酒瓶を磨く、という密かな気に入りの時間は、聞き覚えのある声に邪魔をされた。店の扉には「クローズ」と札をかけておいたはずだが、鍵はかけていない。それは以前、いま目の前にいるこの男がドアを叩いておれを叩き起こし、ついでに叩いていたドアまで壊してくれたからだ。
「ああ、フランキー。おはよう」
忌々しさが露ほども顔に出ぬよう、ゆったりとした口調で応えると、フランキーは、いい朝だな! とこの島の裏町を仕切る男とは思えぬ快活さで返した。この男がなにをもって「いい朝」と評したのかはわからない。今朝は天気も上々で、からりとした青空だったからかもしれないし、もしかしたら真新しいサングラスのためかもしれない。客商売で身に着けた目聡さで、後者だろうと見当をつけて、いいサングラスじゃないか、と声をかけた。
「さっすが、ブルーノ! よくぞ気づいた!」
ブルーノの言葉をそのまま受け取り、嬉しそうに笑うフランキーは子供のようだった。いや、普段から子供のような奴だとは思っていたが、今日はそれに拍車がかかっている。いつもの「悪ガキ」ではない。今日の彼は無邪気なただの子供だった。
「嬉しそうだね。そのサングラスと関係が?」
「大有りだ、大有り!」
フランキーはそう言ってサングラスを外し、恭しくカウンターに置いた。細身の、センスあるデザインだ。こういったものには興味も知識も乏しかったが、フランキーによく似合っていることだけはわかる。
「今日は俺の誕生日らしいぜ」
「そりゃめでたいが、“らしい”?」
フランキーに奢ってやるコーラを準備しながら彼の返事を待った。彼はもったいぶるように、知りたいか? と聞いておきながら、ブルーノが答える前に、教えてやろう、と言った。相変わらず子供っぽい言い草だが、口にはしない。ぜひに、と応じながらコーラを差し出した。フランキーは、悪ぃな、とジョッキを受け取り豪快に半分ほど煽ったところで、おれァ、誕生日なんて知らねえんだと切り出す。
「そりゃ、どういうことだ?」
言いながら考える。自然か、不自然か。いつもこの自問自答の繰り返しだ。だが、この男に関する情報は少なすぎる。このチャンスを逃すのはあまりにも惜しい。話を続けさせ、少しでも多くのの情報を引き出したい。「素性が知れない」ということは、表立つことのなかった何かに関わっている可能性が高いのだ。知っていて損はない。
それなのにフランキーは、その辺はめんどくせーんで省略するがよ、と多くを語ろうとはしなかった。カウンターの下で拳を握る。愛想よく相槌を打ってはいるが、内心舌打ちでもしたい気分だった。この男はこうやっていつも誤魔化して肝心なところは語らない。
「とにかく俺ァ、誕生日なんて知らねえんだ。それなのに、今朝起きてみたらどうだ。ハッピーバースデー、アニキ!とくらぁ。さすがのおれもびっくりよ」
「キウイちゃんとモズちゃんがかい?」
「ああ、そうだ。野郎どもにはそんなかわいらしい気遣いなんてねぇからな」
フランキーは本当に混じりけなく嬉しそうだった。普段の彼からは想像しがたい表情で、窓から垣間見える活気づいた朝の街を眺めている。その表情はどこか追想しているような顔に見えた。思い起こしているのは今朝か、それとももっと昔の、別の朝か。そうやって少しだけ沈黙が流れた。窓から流れ込んでくる街の賑わいはどこか遠くに聞こえる。
「それで?」
なかなか話し出さないフランキーにそっと次を促す。フランキーはほんのわずか、はっとしたような表情を見せて、すぐに話し始めた。
「おう。それでおれが言うわけだ。『おれには誕生日なんかねぇよ。誰と勘違いしてんだ?』ってな」
「へへへ……」
「そしたらあいつら、なんて言ったと思う?」
『そんなこと百も承知だわいな』
『けどそんなの寂しすぎるわいな』
『そこで! アニキは覚えてないかもしれないけど、今日は私たちとアニキが初めて出会った日!』
『だから、今日が誕生日ってことでお祝いさせて欲しいんだわいな!』
『プレゼントは、アニキに似合うサングラス!』
『来年も、再来年も! これからもずっとお祝いさせて欲しいんだわいな』
話し終えたフランキーはジョッキに残ったコーラを一気に飲み干した。カウンターに勢いよく置かれたジョッキが、カタカタッ、とサングラスを揺らす。
「ずっと、か。相変わらず、仲睦まじいね」
まだ磨いていない酒瓶を手に取って、埃を拭う作業を再開する。フランキーは、飲み終わっても席を立たなかった。それどころか、カウンターに肘をつき、目を閉じて手を顔の前で組んでいる。それはなぜか、彼には到底似つかわしくない祈りの所作に思えた。
彼はいつまでも何かに祈っていた。
踏み絵など歯を見せ足蹴にする彼がふるう得物は蟷螂の斧
おしまい
いつの頃からか、この街の朝の空気にもだいぶ慣れた。自分の店は夜ににぎわう酒場なのだから、こんな時間から起きだす必要もないように思うが、目覚めてしまうものは仕方ない。
ブルーノは大きく伸び、あくびを噛み殺しながら、店の窓をあけた。流れる風がすでに活気づいた街の空気を運んでくる。職人の街はただでさえ朝が早い。もう街にはエンジンがかかっている。
そのせいか、店を開ける時間もどんどん早くなってしまった。いっそ酒場ではなく大衆レストラン、くらいにして店を閉める時間を早めてしまおうか。このまま睡眠時間が削られていき、かつ、任務が長引けば体が持たない。だが、そんな泣き言は聞きいれてもらえる気がしなかった。エスプレッソとビスケットを手早くを口に運びながら、なにかいい案がないかと考えはする。しかし、仕事は待ってくれない。咀嚼を終える前に席を立って、カウンターへ足を運んだ。今日はいつもより起きるのが遅かったから、さっさと支度をせねば。
酒瓶は毎日磨くようにしている。埃を被った瓶で注ぐ酒なんて、と酒場の店主がすっかり板についてしまったが、それを悪くないと思う自分もいる。一本ずつ手に取って、埃をぬぐっていく作業はなかなか性に合っていた。誰にも言えやしない。
「よう! ブルーノ!」
酒瓶を磨く、という密かな気に入りの時間は、聞き覚えのある声に邪魔をされた。店の扉には「クローズ」と札をかけておいたはずだが、鍵はかけていない。それは以前、いま目の前にいるこの男がドアを叩いておれを叩き起こし、ついでに叩いていたドアまで壊してくれたからだ。
「ああ、フランキー。おはよう」
忌々しさが露ほども顔に出ぬよう、ゆったりとした口調で応えると、フランキーは、いい朝だな! とこの島の裏町を仕切る男とは思えぬ快活さで返した。この男がなにをもって「いい朝」と評したのかはわからない。今朝は天気も上々で、からりとした青空だったからかもしれないし、もしかしたら真新しいサングラスのためかもしれない。客商売で身に着けた目聡さで、後者だろうと見当をつけて、いいサングラスじゃないか、と声をかけた。
「さっすが、ブルーノ! よくぞ気づいた!」
ブルーノの言葉をそのまま受け取り、嬉しそうに笑うフランキーは子供のようだった。いや、普段から子供のような奴だとは思っていたが、今日はそれに拍車がかかっている。いつもの「悪ガキ」ではない。今日の彼は無邪気なただの子供だった。
「嬉しそうだね。そのサングラスと関係が?」
「大有りだ、大有り!」
フランキーはそう言ってサングラスを外し、恭しくカウンターに置いた。細身の、センスあるデザインだ。こういったものには興味も知識も乏しかったが、フランキーによく似合っていることだけはわかる。
「今日は俺の誕生日らしいぜ」
「そりゃめでたいが、“らしい”?」
フランキーに奢ってやるコーラを準備しながら彼の返事を待った。彼はもったいぶるように、知りたいか? と聞いておきながら、ブルーノが答える前に、教えてやろう、と言った。相変わらず子供っぽい言い草だが、口にはしない。ぜひに、と応じながらコーラを差し出した。フランキーは、悪ぃな、とジョッキを受け取り豪快に半分ほど煽ったところで、おれァ、誕生日なんて知らねえんだと切り出す。
「そりゃ、どういうことだ?」
言いながら考える。自然か、不自然か。いつもこの自問自答の繰り返しだ。だが、この男に関する情報は少なすぎる。このチャンスを逃すのはあまりにも惜しい。話を続けさせ、少しでも多くのの情報を引き出したい。「素性が知れない」ということは、表立つことのなかった何かに関わっている可能性が高いのだ。知っていて損はない。
それなのにフランキーは、その辺はめんどくせーんで省略するがよ、と多くを語ろうとはしなかった。カウンターの下で拳を握る。愛想よく相槌を打ってはいるが、内心舌打ちでもしたい気分だった。この男はこうやっていつも誤魔化して肝心なところは語らない。
「とにかく俺ァ、誕生日なんて知らねえんだ。それなのに、今朝起きてみたらどうだ。ハッピーバースデー、アニキ!とくらぁ。さすがのおれもびっくりよ」
「キウイちゃんとモズちゃんがかい?」
「ああ、そうだ。野郎どもにはそんなかわいらしい気遣いなんてねぇからな」
フランキーは本当に混じりけなく嬉しそうだった。普段の彼からは想像しがたい表情で、窓から垣間見える活気づいた朝の街を眺めている。その表情はどこか追想しているような顔に見えた。思い起こしているのは今朝か、それとももっと昔の、別の朝か。そうやって少しだけ沈黙が流れた。窓から流れ込んでくる街の賑わいはどこか遠くに聞こえる。
「それで?」
なかなか話し出さないフランキーにそっと次を促す。フランキーはほんのわずか、はっとしたような表情を見せて、すぐに話し始めた。
「おう。それでおれが言うわけだ。『おれには誕生日なんかねぇよ。誰と勘違いしてんだ?』ってな」
「へへへ……」
「そしたらあいつら、なんて言ったと思う?」
『そんなこと百も承知だわいな』
『けどそんなの寂しすぎるわいな』
『そこで! アニキは覚えてないかもしれないけど、今日は私たちとアニキが初めて出会った日!』
『だから、今日が誕生日ってことでお祝いさせて欲しいんだわいな!』
『プレゼントは、アニキに似合うサングラス!』
『来年も、再来年も! これからもずっとお祝いさせて欲しいんだわいな』
話し終えたフランキーはジョッキに残ったコーラを一気に飲み干した。カウンターに勢いよく置かれたジョッキが、カタカタッ、とサングラスを揺らす。
「ずっと、か。相変わらず、仲睦まじいね」
まだ磨いていない酒瓶を手に取って、埃を拭う作業を再開する。フランキーは、飲み終わっても席を立たなかった。それどころか、カウンターに肘をつき、目を閉じて手を顔の前で組んでいる。それはなぜか、彼には到底似つかわしくない祈りの所作に思えた。
彼はいつまでも何かに祈っていた。
踏み絵など歯を見せ足蹴にする彼がふるう得物は蟷螂の斧
おしまい
降水確率ゼロパーセント 快晴 #カク #パウリー #アイスバーグ
その日は朝からひどい頭痛に悩まされていた。ずきずきと脳を絞られるような痛みで目が覚め、思わず顔をしかめるほどのそれは、カクをそのままベッドに縫い付けた。許されるならこのまま寝ていたい。けれど、壁にかけていた日付だけのシンプルなカレンダーについている赤丸が、いま請け負っている巨大なガレオン船の納期をこれみよがしに主張していた。
タオルケットの隙間から薄目で窓を見やる。カーテンのない窓が切り取る空は霞んだ目でもわかる、恨めしいほどの青だった。光が目に刺さり、一層痛みが増していく。タオルケットを被り直したカクは、その膜の中で大きなため息をついた。そして、もう一度ため息をつくと、こめかみを手のひらで抑えるようにしながら、ひとまず水を飲むためだけにベッドから体を起こした。まずは水だ、と自分に言い聞かせる。
結局、頭痛は痛み止めを飲んでもおさまらなかったが、仕方なく出勤したカクはとにかく笑顔でいるように努めた。それがこの職場、この街での自分の役割だと思っていたし、何よりカクが笑っていないときっと周囲は「大丈夫か?」なんて言葉をかけてくる。そんなのは正直好まない。「大丈夫じゃ」なんて取り繕うのも面倒だし、心配されたところでこの頭痛はおさまるのか? と、かえってイラつくだろう。余裕がないからこそ、余計なやりとりなどせず、さっさと仕事を終えてしまいたかった。
常に頭にまとわりついてくるような痛みから逃れようと、目の前の仕事に集中する。自分はいつも通り笑えているか、声音に、表情に、痛みからくる苛立ちが現れてはいやしないか。常に意識して職人たちに指示を出していくと、誰もがカクの指示に小気味よい返事を返してくる。よかった、この痛みは誰にも気づかれない。
「カク」
「……アイスバーグ、さん?」
造りかけの船の甲板にいたカクは声をかけてきたアイスバーグを見下ろす形になった。多忙な彼は、彼自身が望むほどには現場に顔を出せない。だが、今回の仕事は天下のガレーラカンパニーであっても、なかなかに手ごたえのある船だった。社長として、そしてなにより、船大工として、少しでも自身の目で確かめたい何かがあるのかもしれない。
「ちょっと降りてこられるか?」
「ああ、いますぐ」
話題になるとしたら、まずは進捗か。カクは痛む頭でそれぞれの進み具合を今一度思い起こした。実は少し予定より作業が遅れている。別に誰のせいでもない。天候や、それに伴う資材の調達が思うようにならなかっただけだ。だが、アイスバーグはどう評価するだろう。彼は飄々としていて、掴みどころのない男だった。気に入らない仕事はドタキャンも辞さないが、当たり前にプロ意識も持ち合わせている。そうでなければ、社長と市長と、駅の管理まで兼任し、それに加えて時には図面も引くなんて真似、出来るはずがない。
パウリー相手なら簡単なのに、とふと思った。きっとあの男なら「納期までに完成させりゃあいいだけだろ」と事も無げに言ってのけるだろう。それに対してルッチが『なんのための工程表だ』と眉間に皺を寄せることも容易に想像がつく。思わず頬が緩んだのと同時に、ずきと脳が握られたような痛みが走った。振り払うように甲板を蹴って空に浮かぶ。着地の衝撃が頭に響かないよう、軽い羽のようにふわりと着地した。
「忙しいだろうになんじゃ? 珍しいの」
「ああ、ちょっとな」
アイスバーグはそれだけ言うと、カクの顔をまっすぐに見据えて、ふむ、と腕組みした。見定めるような間にカクがたじろぐと、アイスバーグは満足した様子で、白い紙きれを開いてカクに見せる。そこには「早退届」とう文字がでかでかと踊っていた。もちろん総務が作っている様式ではなく、手書きで、乱暴な字で、しかも走り書きだった。この字には見覚えがある。同じ職長で、さっきも思い浮かべたあの男。顔をしかめたのは痛みのせいではない。なんじゃこれは、と笑顔も忘れて問うた。
「なにって、書いてあるだろう」
「汚すぎて読めんわい」
「まあ、よく読んでみろ」
しぶしぶ受け取って、目を通す。早退届、早退理由、……ひどい頭痛または腹痛または体調不良。申請者は。
「申請者はパウリーじゃけど」
「そうだな」
「でもそのパウリーはさっきそのへんでぴんぴんしとったじゃろ」
「間違えたんだ、あいつは」
お前の早退届を代筆してやったらしい。
言葉少なに説明するアイスバーグはこの状況を確実に面白がっていて、カクはそれが不愉快だった。頭の痛みが増していく。
「さっきパウリーがそいつを持ってきてな。聞けばお前が辛そうだ、ときた」
『カクのやつ、朝から機嫌悪いっつーか、なんか具合悪そうなんですよね。でもあいつそういうの全然言わないじゃないですか。知ってます? あいつの部屋にあるカレンダー、納期のことしか書いてないんですよ! そういうやつなんです。だからここはひとつ、俺の勘を信じて、あいつの早退届にサインしてくれませんかね?』
「っつーわけで、承認した早退届がそれだ」
「とんだ社長じゃな。総務が泣くぞ。生憎、あいつの勘違いじゃ」
「パウリーを信じねえわけじゃねぇが、おれも一応社長なんでな。だからこうして会いに来たんだ」
アイスバーグは、もう一度カクを真正面からまじまじと見つめ、カクが目を逸らす前に、ふ、と息を漏らした。そして『診断』を下す。
「パウリーの勘は正しかったな。今日はもう帰って休め」
「な、」
「これは社長命令だ。早く良くなるといいな」
アイスバーグはカクの反論なぞ聞く気もないようで、さっと踵を返し、そのまま別の仕事に戻っていく。事の次第を把握した職人たちはあっという間にカクを両脇から抱えると、引きずるようにしてドックから放り出してしまった。所用でその場を外していたパウリーが戻ってきて、引きずられていくカクをしたり顔で見送る。すれ違いざまに見せたカクの睨み顔など、まるで堪えていない様子だ。
仕方なく帰路についたカクは俯きながらぐっと唇を噛む。アイスバーグにならまだしも、まさかパウリーにすら気づかれるとは。訓練が足りない、と己を責める。完璧だと思った演技が所詮こんなものかと、恥ずかしいほどだ。怒りのままに拳を握りしめると、うっかり受け取ってそのままだった忌々しい早退届が、くしゃりとあっけなく潰れていく。どうせこのままでは受理されない。そのまま捨ててしまってよかったのに、カクは皺を伸ばして、もう一度それに目を滑らせた。
パウリーの粗野で豪快な字と、アイスバーグの流れるようなサイン。早退届、早退理由、……ひどい頭痛または腹痛または体調不良。先ほど確認したときは不愉快なだけだったのに、今はあまりにくだらなくて、心なしか口許が緩む気がした。はっとして手で覆った時にはもう遅い。もう頭痛は消えていた。かわりに痛むのは胸。
新しい痛みが、まるで何かを戒めるように増していく。顔が歪み、目尻には少しだけ涙が滲んだ。いますぐ雨が降ればいいのに。思って、天を仰ぐ。
晴れた日に笑う理由はわからない わからないけどおれはさみしい
おしまい
その日は朝からひどい頭痛に悩まされていた。ずきずきと脳を絞られるような痛みで目が覚め、思わず顔をしかめるほどのそれは、カクをそのままベッドに縫い付けた。許されるならこのまま寝ていたい。けれど、壁にかけていた日付だけのシンプルなカレンダーについている赤丸が、いま請け負っている巨大なガレオン船の納期をこれみよがしに主張していた。
タオルケットの隙間から薄目で窓を見やる。カーテンのない窓が切り取る空は霞んだ目でもわかる、恨めしいほどの青だった。光が目に刺さり、一層痛みが増していく。タオルケットを被り直したカクは、その膜の中で大きなため息をついた。そして、もう一度ため息をつくと、こめかみを手のひらで抑えるようにしながら、ひとまず水を飲むためだけにベッドから体を起こした。まずは水だ、と自分に言い聞かせる。
結局、頭痛は痛み止めを飲んでもおさまらなかったが、仕方なく出勤したカクはとにかく笑顔でいるように努めた。それがこの職場、この街での自分の役割だと思っていたし、何よりカクが笑っていないときっと周囲は「大丈夫か?」なんて言葉をかけてくる。そんなのは正直好まない。「大丈夫じゃ」なんて取り繕うのも面倒だし、心配されたところでこの頭痛はおさまるのか? と、かえってイラつくだろう。余裕がないからこそ、余計なやりとりなどせず、さっさと仕事を終えてしまいたかった。
常に頭にまとわりついてくるような痛みから逃れようと、目の前の仕事に集中する。自分はいつも通り笑えているか、声音に、表情に、痛みからくる苛立ちが現れてはいやしないか。常に意識して職人たちに指示を出していくと、誰もがカクの指示に小気味よい返事を返してくる。よかった、この痛みは誰にも気づかれない。
「カク」
「……アイスバーグ、さん?」
造りかけの船の甲板にいたカクは声をかけてきたアイスバーグを見下ろす形になった。多忙な彼は、彼自身が望むほどには現場に顔を出せない。だが、今回の仕事は天下のガレーラカンパニーであっても、なかなかに手ごたえのある船だった。社長として、そしてなにより、船大工として、少しでも自身の目で確かめたい何かがあるのかもしれない。
「ちょっと降りてこられるか?」
「ああ、いますぐ」
話題になるとしたら、まずは進捗か。カクは痛む頭でそれぞれの進み具合を今一度思い起こした。実は少し予定より作業が遅れている。別に誰のせいでもない。天候や、それに伴う資材の調達が思うようにならなかっただけだ。だが、アイスバーグはどう評価するだろう。彼は飄々としていて、掴みどころのない男だった。気に入らない仕事はドタキャンも辞さないが、当たり前にプロ意識も持ち合わせている。そうでなければ、社長と市長と、駅の管理まで兼任し、それに加えて時には図面も引くなんて真似、出来るはずがない。
パウリー相手なら簡単なのに、とふと思った。きっとあの男なら「納期までに完成させりゃあいいだけだろ」と事も無げに言ってのけるだろう。それに対してルッチが『なんのための工程表だ』と眉間に皺を寄せることも容易に想像がつく。思わず頬が緩んだのと同時に、ずきと脳が握られたような痛みが走った。振り払うように甲板を蹴って空に浮かぶ。着地の衝撃が頭に響かないよう、軽い羽のようにふわりと着地した。
「忙しいだろうになんじゃ? 珍しいの」
「ああ、ちょっとな」
アイスバーグはそれだけ言うと、カクの顔をまっすぐに見据えて、ふむ、と腕組みした。見定めるような間にカクがたじろぐと、アイスバーグは満足した様子で、白い紙きれを開いてカクに見せる。そこには「早退届」とう文字がでかでかと踊っていた。もちろん総務が作っている様式ではなく、手書きで、乱暴な字で、しかも走り書きだった。この字には見覚えがある。同じ職長で、さっきも思い浮かべたあの男。顔をしかめたのは痛みのせいではない。なんじゃこれは、と笑顔も忘れて問うた。
「なにって、書いてあるだろう」
「汚すぎて読めんわい」
「まあ、よく読んでみろ」
しぶしぶ受け取って、目を通す。早退届、早退理由、……ひどい頭痛または腹痛または体調不良。申請者は。
「申請者はパウリーじゃけど」
「そうだな」
「でもそのパウリーはさっきそのへんでぴんぴんしとったじゃろ」
「間違えたんだ、あいつは」
お前の早退届を代筆してやったらしい。
言葉少なに説明するアイスバーグはこの状況を確実に面白がっていて、カクはそれが不愉快だった。頭の痛みが増していく。
「さっきパウリーがそいつを持ってきてな。聞けばお前が辛そうだ、ときた」
『カクのやつ、朝から機嫌悪いっつーか、なんか具合悪そうなんですよね。でもあいつそういうの全然言わないじゃないですか。知ってます? あいつの部屋にあるカレンダー、納期のことしか書いてないんですよ! そういうやつなんです。だからここはひとつ、俺の勘を信じて、あいつの早退届にサインしてくれませんかね?』
「っつーわけで、承認した早退届がそれだ」
「とんだ社長じゃな。総務が泣くぞ。生憎、あいつの勘違いじゃ」
「パウリーを信じねえわけじゃねぇが、おれも一応社長なんでな。だからこうして会いに来たんだ」
アイスバーグは、もう一度カクを真正面からまじまじと見つめ、カクが目を逸らす前に、ふ、と息を漏らした。そして『診断』を下す。
「パウリーの勘は正しかったな。今日はもう帰って休め」
「な、」
「これは社長命令だ。早く良くなるといいな」
アイスバーグはカクの反論なぞ聞く気もないようで、さっと踵を返し、そのまま別の仕事に戻っていく。事の次第を把握した職人たちはあっという間にカクを両脇から抱えると、引きずるようにしてドックから放り出してしまった。所用でその場を外していたパウリーが戻ってきて、引きずられていくカクをしたり顔で見送る。すれ違いざまに見せたカクの睨み顔など、まるで堪えていない様子だ。
仕方なく帰路についたカクは俯きながらぐっと唇を噛む。アイスバーグにならまだしも、まさかパウリーにすら気づかれるとは。訓練が足りない、と己を責める。完璧だと思った演技が所詮こんなものかと、恥ずかしいほどだ。怒りのままに拳を握りしめると、うっかり受け取ってそのままだった忌々しい早退届が、くしゃりとあっけなく潰れていく。どうせこのままでは受理されない。そのまま捨ててしまってよかったのに、カクは皺を伸ばして、もう一度それに目を滑らせた。
パウリーの粗野で豪快な字と、アイスバーグの流れるようなサイン。早退届、早退理由、……ひどい頭痛または腹痛または体調不良。先ほど確認したときは不愉快なだけだったのに、今はあまりにくだらなくて、心なしか口許が緩む気がした。はっとして手で覆った時にはもう遅い。もう頭痛は消えていた。かわりに痛むのは胸。
新しい痛みが、まるで何かを戒めるように増していく。顔が歪み、目尻には少しだけ涙が滲んだ。いますぐ雨が降ればいいのに。思って、天を仰ぐ。
晴れた日に笑う理由はわからない わからないけどおれはさみしい
おしまい
今はまだ仲間 だから殺さないでおく #ルッチ #カリファ
俺の名を呼ぶ耳障りな声が頭から離れない。お願いだからこれ以上その口を開いてくれるなと叫びたい。頼むからもう。
「ルッチ」「ルッチ」「頼むよ」「ルッチ」「さすがだな」「ルッチ」「ルッチ」「相変わらずしけたツラだな」「ルッチ」「ルッチ」「ルッチ」「たまにはなんとか言えよ」「ルッチ」「ルッチ」
「ルッチ」「なァ、金貸してくれよ」「ルッチ」「ルッチ」「飲みに行こうぜ」「ルッチ「ルッチ」「ルッチ」
殺してしまいそうになるだろ。
「ルッチ?」
馴染んだ女の声は頭の上からふってきた。瞼を開けながらそちらを見やれば、怪訝そうにおれを見下ろす彼女と視線がかち合った。右手にはカップを、左手にはポットを。窓から差し込む月明りに照らされたカリファは青白く、生気が感じられないマネキンのようだ。
後ろにある窓の外には水の都と呼ばれる街が広がっている。街中にまるで血管のごとく走る水路は、それぞれが空に浮かぶ月を自らに宿すものだから、月は数を増していく。そのせいか、この町の夜は幾分明るかった。それを美しいと思う自分と、何かと邪魔だと思う自分とがいて、実は些か戸惑っている。ぼうっと、そんな雑感に囚われるおれが面白いのか珍しいのか、彼女はふふ、と形のいい唇を少しだけ動かして笑った。
「紅茶でも?」
「紅茶か……」
「あいにくコーヒーは切らしているの。わがまま言わないで」
カリファは持っていたカップをテーブルに置き、いるとも言っていない紅茶を勝手に注ぎはじめる。コポコポと平和な音を立てながらカップを満たしていく紅茶を断る時間はなかった。
どうぞ、と手渡されたそれを無言で受け取る。口をつけようとカップに顔を近づければ、紅茶はゆらりゆらりと揺らめいて、映った自分の顔が奇妙に歪んだ。その顔はまるで笑っているみたいだ。己の笑顔など吐き気がして、流し込むように一気に飲む。その品のない行為は、カリファが自分の紅茶を用意していたおかげで見咎められずに済んだ。
「疲れてる?」
「おれが?」
「違うならいいの」
言いながらカップを口に運んだ彼女の眼鏡が湯気で白く曇る。カリファは、肩を竦めて一旦カップをテーブルに置き、面倒そうに曇った眼鏡をハンカチで拭った。そしてそのまま手を止めず、こちらを見ようともせず、でも辛そうね、と呟いた。
「冗談も程々にしろ」
きつく睨みつけたが、彼女は一向にこちらを見ようとしなかったので意味がなかった。それは失礼、と心のこもらない謝罪をしてから、でも辛そう、と繰り返した。そしてやっと紅茶に口をつける。眼鏡はもうかけていなかった。
「もう、そろそろ」
「ああ」
やっと終わる。耳障りな声も止むだろう。
あと少しで、この街に住んで五年が経つ。
おしまい
俺の名を呼ぶ耳障りな声が頭から離れない。お願いだからこれ以上その口を開いてくれるなと叫びたい。頼むからもう。
「ルッチ」「ルッチ」「頼むよ」「ルッチ」「さすがだな」「ルッチ」「ルッチ」「相変わらずしけたツラだな」「ルッチ」「ルッチ」「ルッチ」「たまにはなんとか言えよ」「ルッチ」「ルッチ」
「ルッチ」「なァ、金貸してくれよ」「ルッチ」「ルッチ」「飲みに行こうぜ」「ルッチ「ルッチ」「ルッチ」
殺してしまいそうになるだろ。
「ルッチ?」
馴染んだ女の声は頭の上からふってきた。瞼を開けながらそちらを見やれば、怪訝そうにおれを見下ろす彼女と視線がかち合った。右手にはカップを、左手にはポットを。窓から差し込む月明りに照らされたカリファは青白く、生気が感じられないマネキンのようだ。
後ろにある窓の外には水の都と呼ばれる街が広がっている。街中にまるで血管のごとく走る水路は、それぞれが空に浮かぶ月を自らに宿すものだから、月は数を増していく。そのせいか、この町の夜は幾分明るかった。それを美しいと思う自分と、何かと邪魔だと思う自分とがいて、実は些か戸惑っている。ぼうっと、そんな雑感に囚われるおれが面白いのか珍しいのか、彼女はふふ、と形のいい唇を少しだけ動かして笑った。
「紅茶でも?」
「紅茶か……」
「あいにくコーヒーは切らしているの。わがまま言わないで」
カリファは持っていたカップをテーブルに置き、いるとも言っていない紅茶を勝手に注ぎはじめる。コポコポと平和な音を立てながらカップを満たしていく紅茶を断る時間はなかった。
どうぞ、と手渡されたそれを無言で受け取る。口をつけようとカップに顔を近づければ、紅茶はゆらりゆらりと揺らめいて、映った自分の顔が奇妙に歪んだ。その顔はまるで笑っているみたいだ。己の笑顔など吐き気がして、流し込むように一気に飲む。その品のない行為は、カリファが自分の紅茶を用意していたおかげで見咎められずに済んだ。
「疲れてる?」
「おれが?」
「違うならいいの」
言いながらカップを口に運んだ彼女の眼鏡が湯気で白く曇る。カリファは、肩を竦めて一旦カップをテーブルに置き、面倒そうに曇った眼鏡をハンカチで拭った。そしてそのまま手を止めず、こちらを見ようともせず、でも辛そうね、と呟いた。
「冗談も程々にしろ」
きつく睨みつけたが、彼女は一向にこちらを見ようとしなかったので意味がなかった。それは失礼、と心のこもらない謝罪をしてから、でも辛そう、と繰り返した。そしてやっと紅茶に口をつける。眼鏡はもうかけていなかった。
「もう、そろそろ」
「ああ」
やっと終わる。耳障りな声も止むだろう。
あと少しで、この街に住んで五年が経つ。
おしまい
「感情」は往々にして間違いを招く。失敗を、過ちを。ミスを、エラーを。そしてそれは、必ず誰かの不幸を招く。おれたちがしているのはそういう仕事だ。わかりきっていることなのに、何度も何度も確認する羽目になる、くだらないそれ。まるで、物わかりの悪い子供にでもなったようで腹立たしい。
任務遂行のために犠牲は厭わない。どこにでも行って、どんな存在にでもなろう。親にでも、息子にでも、兄にも弟にも、友達にだって。仲間でもいいし、恋人でもいい。ライバルでも敵でも味方でも。お望みならばなんにだってなってやろう。どんな軽蔑も、どんな賞賛も、喜んで浴びよう。
だがしかし、これは正義のために払う犠牲。失敗は許されない。もちろん、挫けることも、転び、そのまま地に伏したままでいることも。
今回の潜入先は、水の都と呼ばれる造船業の盛んな街らしい。任務の内容は、船大工として島一番の造船会社で働き、市長でもあり社長でもあるアイスバーグという男から、ある設計図を奪うこと。それは代々、船大工の間で受け継がれているものだという。それならば、自分たちがその後継者として選ばれるのが、一番面倒が少なくて「平和的」だ。
カクも同じく船大工として、カリファはアイスバーグの秘書として、ブルーノは島の酒場の主人として、同じ目的のためにその水の都で任務に従事することとなった。与えられた猶予は五年。早く終わるに越したことはないが、その年月の長さが任務の困難さを物語っているように思った。
「ブルーノはもう発ったそうじゃの」
潜入前、最後の打ち合わせと鍛錬を兼ねて、カクを訓練場に呼んだ。カクは訓練場に入るなり、鑿をくるくると手元で弄んだかと思えば、しゅっと軽い音をさせて、壁に投げた。瞬間、矢か光線のようにまっすぐ壁に刺さったそれは、止まっていたハエを壁に縫い付けた。
「命中じゃ」
「ガキじゃねェんだ。はしゃぐな」
相変わらずつまらんやつじゃのう、と両手を腰にあてたカクがぼやく。相変わらず、とは聞き捨てならんと思ったものの、カクの軽口は聞き飽きているから咎める気にもならない。
カクもおれも必要な訓練は受けた。あとは五年の間に、さらに技術を磨いてのし上がり、アイスバーグの信頼を勝ち得て、設計図にもっとも近い存在となればいい。在り処がわかればそれもよし。さっさと奪ってしまってもいいだろう。長くて五年。大した年数ではないが、一般市民から紙束を奪うのがそんなに困難なことかとも思う。諜報員を四人も費やして。
「面倒な任務じゃのう」
四人で五年、四人で五年じゃぞ? カクは韻を踏むような調子で言った。口には出さなかった内心を見事に見透かされたようで、気に障る。ただでさえおどけたような顔をしているカクの真意はよくわからない。同意を求めているのか、いつものように窘められたいのか。
「そう思うならさっさと済ませればいい」
吐き捨てるよう言うと、カクは、やっぱりなというような顔で肩を竦めた。そうして「やっぱりつまらんやつじゃ」と呆れたような物言いだ。その日は結局、それ以上は大した言葉も交わさず、手合わせに終始した。
とうとう、カクが水の都へ赴く日となった。Galleyと描かれた白いキャップを被り、普段よりずっと明るめの服を着こみ、腰に鑿を引っさげたカクは、まあまあさまになっていた。少なくとも「人殺し」には見えない。
「どうじゃ? なかなか決まっておろう?」
癪だが、にっと笑って白い歯を見せるカクは言うとおり「決まって」いた。ブルーノもカリファも、少しずつ時期をずらしながら、すでに任務を始めている。おれもそろそろだろう。
おれたちは正義を背負うもの、正義を語るもの、正義を信じ、正義に集い、正義を体現するもの。どんなに汚れていようと掲げる言葉は「正義」の二文字だ。散々払う犠牲は決して無駄にしない。
「じゃあの」
「ああ。せいぜいへまするなよ」
何年、地を這おうとも、最後には必ず。
おしまい