名前変換登録:苗字 名前
苗字:
名前:
カテゴリ「夏という月日」に属する投稿[20件](3ページ目)
忘れてもらって大丈夫 #カク
きっとわしは、彼女に酷いことをする。
だから全部、
忘れてもらって大丈夫
パウリーの誕生日会は大変に盛り上がった。会の序盤は「パウリーお誕生日おめでとう」の空気が濃かったが、ガレオン船の納期が迫っていることと、暑気払いを兼ねていたこともあって、後半はただの宴会と化した。当の本人に不満の色はちっともなさそうだ。「本日の主役」と書かれたタスキはすでに外されていて、テーブルの隅で雑に丸まっている。
会にはウカも参加していた。ルッチが事前に声をかけていたらしい。あの、ルッチが。
ルッチのことは昔からよくわからない。けれど、最近のルッチは輪をかけてわからない。昔は「人の血が流れているのか」と本気で疑ったものだ。どんな時でもぶれないその背中は、恐ろしくもあり、頼もしくもあった。もちろん、今でも信頼は揺らがない。が、どうしたのだ、と肩を揺すりたくなることはある。パウリーのせいだ。勝手にそう思っている。
パウリーは不思議な男だった。何か任務の足しにならないかと、周囲を探ってみたものの、意外と交友関係が狭かった。いや、もっと的確な言葉を選ぶなら「薄かった」。もちろん会社以外のコミュニティ、馴染みの店や賭場はあったが、やつはあくまで「場」に顔を出しているにすぎず、「人」にこだわっているようにはみえなかった。結局、調べた範囲では自分たちが一番の友人、と言えそうだ。自分たちの優秀さに、カクは眩暈を覚える。
任務にかけられるコストは五年、と決まっていた。そしてすでに五年が経った。どんな終わりになるかは、長官とルッチ、ブルーノあたりが決めるのだろう。自分に口をはさむ機会があるかはわからないが、終わりは確実に迫っている。
そんなタイミングでひょっこり現れたのがウカだった。
女が苦手なパウリーの、一番近くに長くいた女。もしかしたら、パウリーの女嫌いの原因か? と訝しんだこともあったが、調べれば調べるほど、彼と彼女は昔から今の今まで、れっきとした幼馴染で友達だった。
「ウカちゃん、来とったのか?」
店の隅で、パウリーを見つめながらのんびりグラスを傾けていたウカに声をかけ、彼女の目の前の椅子を引く。来ていたことなんて百も承知で、我ながら白々しいなと思ったが、ウカは気にしなかった。ウカの顔が、ぱあっと明るくなる。
「カクさん。こんばんは。そうなの、ルッチさんが呼んでくれてね。最初はちょっと申し訳ないしと思って、お店を手伝ってたんだけど、ブルーノさんがもういいよって。だから飲んでた。楽しいねえ。パウリーも楽しそう。呼んでくれてありがとう」
ウカは酔っぱらっているのか、いつも以上に饒舌だった。楽しそう、というウカの言葉に、どれどれと身体を捻る。
パウリーは店の中央のテーブルで、べろんべろんになっていた。アイスバーグさんと、カリファ、ルッチ、ルルやタイルストンが相手をしている。ちょうどパウリーが「パウリー! 飲みます! おめでとう、おれ!」と宣言して立ち上がり、グラスを高々と突き上げているところだった。ルッチが『それでこそおれたちのパウリーだ』と適当なことを言い、タイルストンが「そうだパウリー! その意気だ!」と囃し立てる。ルルとカリファは、パウリーの飲みすぎを咎めるでもなく、心配をするでもなく、ただ肩を揺らしている。アイスバーグさんはやれやれ、とヤンチャな兄弟を見守る兄のような目つきで微笑んでいた。
いつもなら自分もそちらにいるのだが。なんとなく今は、ルッチのそばにいたくない。
「誕生日を祝ってくれるお友達が、パウリーにたくさん出来てよかった」
ウカの言葉に向き直る。ウカは急にどこか遠くを見るような眼差しで、しみじみと言った。視線の先がパウリーなのは間違いない。
「まるで母親みたいな言い方じゃのう」
カクの揶揄するような返答に、ウカは意外そうに少しだけ目を丸くして、でも気を悪くするでもなく「ううん……」とグラスをもてあそび、中の氷と酒をくるくると回した。そして「ふふ、確かにちょっとお母さんみたいだったねえ」と同意する。
「子供の頃ってあんまり……大っぴらに楽しいことが出来なかったから、誕生日も家族とこっそり祝ってたんだ。だから、こんなに盛大にお祝い出来るなんて、素晴らしいなあって思ったら感動しちゃって。それに、大人になったら友達が増えるなんて、想像できた? 私は出来なかったなあ。」
わしらは「友達」じゃあ、ないんじゃが。
思って、存外、カクは胸が痛い。
言葉を継げずにいると「カクさんはどうだった?」と興味深そうにこちらを見つめてくるウカと目が合った。思わず目をそらしてしまう。ウカは質問が曖昧過ぎると思ったのか、「カクさんはお誕生日、何かお祝いした?」と焦点を絞った問いに変えた。
「わしも……似たようなもんじゃったなあ」
不要な嘘はつかないことにしている。カクは、誕生日にまつわる子供の頃のエピソードで、話せそうなことがあるか頭を巡らせたが、もちろんそんなものはなかったので、これ以上は語らないことにした。ウカは、語らないことを根掘り葉掘り詮索するような人ではない。カクはそれを知っていた。
「ちなみに、カクさんのお誕生日はいつ? 教えてもらったっけ?」
面倒だと思ったのが本音だが、これくらいはいいか、と判断して「来月じゃな」と答える。「ウカは?」と一応聞いてみたが「秘密」と口元で人差し指を立てられた。くそ、それがありならわしだって馬鹿正直に答えんかったわ。ペースを乱される気がして悔しいが、後の祭りだ。
「なら、お祝いさせて! ルッチさんも」
「いらん、いらん」
言ってから、あまりに強く拒絶するような物言いだったと反省する。案の定、ウカは眉を下げ、少し悲しそうに笑っていた。母親が子供の癇癪に付き合うような顔にも見え、ますます調子が狂う。いつもは子供みたいな顔で笑うくせに。頬杖をつきながら、気まずさを持て余していると、ウカがカクの気持ちを知ってか知らずか、勝手に話し始めた。
「島を出てる間、パウリーが一回だけカードを送ってくれたんだけど」
「一回! 五年で一回か? 薄情なやつじゃのう」
ここぞとばかりにパウリーを責めると、ウカは、あはは、と口を大きく開けて笑った。「ううん。これくらいなの、私たちは。私も一回しか送らなかったし」とパウリーを庇うのも忘れない。いつもの子供みたいな笑顔に、こっそりほっとする。
ウカは目を細めながら続けた。
「そのカードにはさ、ちゃんと帰って来いってそれだけ書いてあって、それだけで十分嬉しかったんだけど『追伸』が」
P.S 誕生日おめでとう
「そのカードは大事に持って帰ってきて、入居してすぐ、部屋の壁に貼ったよ」
嬉しかったことは、忘れないように毎日思い出したいから。
朝起きて、いい気分でも、そうでなくても、毎日の習慣みたいに壁のカードに目を留めて、嬉しくなったり、ほっとしたり、仕方ないかと自分を慰めたり、そんなウカが目に浮かぶ。
自分も、誰かに祝ってほしいと思ってしまった。今日みたいに、盛大でなくていい。カードに一行、おめでとうと添えてある。走り書きでいい。ふと思い出して、慌てて店でカードを準備して、何食わぬ顔で渡してくれる。そんな程度の祝いで十分だった。
「……八月、七日」
こぼしてしまってから、しまった、と口を噤んでももう遅い。
「七日ね。わかった」
ウカはきっと、あたたかく祝ってくれる。パウリーにもらったものを、今度はわしに。
でも、わしらは遠くない未来、必ず姿を消す。どんなふうに終わるのかは定かではないが、適当な理由をつけての円満退職なんて、できるとは思っていない。
きっと、酷いことをする。だから、
「全部……、忘れてもらって大丈夫じゃから」
「忘れたりしないよ? ちゃんと壁に貼っておく」
顔の横でピースサインをつくるウカ。
やめてくれ! 叫びたいほどの衝動を、なんとかこらえて、唇を緩やかな笑みの形にした。痙攣して引き攣りそうになる口角を必死でおさえる。
きっとわしは、彼女に酷いことをする。
楽しかったことだけ覚えていてくれなんて傲慢なことは言わない。全部忘れてくれて構わない。笑いあった日々も、わしらがする、非道も全部。
忘れてもらって大丈夫。
おしまい
← →
きっとわしは、彼女に酷いことをする。
だから全部、
忘れてもらって大丈夫
パウリーの誕生日会は大変に盛り上がった。会の序盤は「パウリーお誕生日おめでとう」の空気が濃かったが、ガレオン船の納期が迫っていることと、暑気払いを兼ねていたこともあって、後半はただの宴会と化した。当の本人に不満の色はちっともなさそうだ。「本日の主役」と書かれたタスキはすでに外されていて、テーブルの隅で雑に丸まっている。
会にはウカも参加していた。ルッチが事前に声をかけていたらしい。あの、ルッチが。
ルッチのことは昔からよくわからない。けれど、最近のルッチは輪をかけてわからない。昔は「人の血が流れているのか」と本気で疑ったものだ。どんな時でもぶれないその背中は、恐ろしくもあり、頼もしくもあった。もちろん、今でも信頼は揺らがない。が、どうしたのだ、と肩を揺すりたくなることはある。パウリーのせいだ。勝手にそう思っている。
パウリーは不思議な男だった。何か任務の足しにならないかと、周囲を探ってみたものの、意外と交友関係が狭かった。いや、もっと的確な言葉を選ぶなら「薄かった」。もちろん会社以外のコミュニティ、馴染みの店や賭場はあったが、やつはあくまで「場」に顔を出しているにすぎず、「人」にこだわっているようにはみえなかった。結局、調べた範囲では自分たちが一番の友人、と言えそうだ。自分たちの優秀さに、カクは眩暈を覚える。
任務にかけられるコストは五年、と決まっていた。そしてすでに五年が経った。どんな終わりになるかは、長官とルッチ、ブルーノあたりが決めるのだろう。自分に口をはさむ機会があるかはわからないが、終わりは確実に迫っている。
そんなタイミングでひょっこり現れたのがウカだった。
女が苦手なパウリーの、一番近くに長くいた女。もしかしたら、パウリーの女嫌いの原因か? と訝しんだこともあったが、調べれば調べるほど、彼と彼女は昔から今の今まで、れっきとした幼馴染で友達だった。
「ウカちゃん、来とったのか?」
店の隅で、パウリーを見つめながらのんびりグラスを傾けていたウカに声をかけ、彼女の目の前の椅子を引く。来ていたことなんて百も承知で、我ながら白々しいなと思ったが、ウカは気にしなかった。ウカの顔が、ぱあっと明るくなる。
「カクさん。こんばんは。そうなの、ルッチさんが呼んでくれてね。最初はちょっと申し訳ないしと思って、お店を手伝ってたんだけど、ブルーノさんがもういいよって。だから飲んでた。楽しいねえ。パウリーも楽しそう。呼んでくれてありがとう」
ウカは酔っぱらっているのか、いつも以上に饒舌だった。楽しそう、というウカの言葉に、どれどれと身体を捻る。
パウリーは店の中央のテーブルで、べろんべろんになっていた。アイスバーグさんと、カリファ、ルッチ、ルルやタイルストンが相手をしている。ちょうどパウリーが「パウリー! 飲みます! おめでとう、おれ!」と宣言して立ち上がり、グラスを高々と突き上げているところだった。ルッチが『それでこそおれたちのパウリーだ』と適当なことを言い、タイルストンが「そうだパウリー! その意気だ!」と囃し立てる。ルルとカリファは、パウリーの飲みすぎを咎めるでもなく、心配をするでもなく、ただ肩を揺らしている。アイスバーグさんはやれやれ、とヤンチャな兄弟を見守る兄のような目つきで微笑んでいた。
いつもなら自分もそちらにいるのだが。なんとなく今は、ルッチのそばにいたくない。
「誕生日を祝ってくれるお友達が、パウリーにたくさん出来てよかった」
ウカの言葉に向き直る。ウカは急にどこか遠くを見るような眼差しで、しみじみと言った。視線の先がパウリーなのは間違いない。
「まるで母親みたいな言い方じゃのう」
カクの揶揄するような返答に、ウカは意外そうに少しだけ目を丸くして、でも気を悪くするでもなく「ううん……」とグラスをもてあそび、中の氷と酒をくるくると回した。そして「ふふ、確かにちょっとお母さんみたいだったねえ」と同意する。
「子供の頃ってあんまり……大っぴらに楽しいことが出来なかったから、誕生日も家族とこっそり祝ってたんだ。だから、こんなに盛大にお祝い出来るなんて、素晴らしいなあって思ったら感動しちゃって。それに、大人になったら友達が増えるなんて、想像できた? 私は出来なかったなあ。」
わしらは「友達」じゃあ、ないんじゃが。
思って、存外、カクは胸が痛い。
言葉を継げずにいると「カクさんはどうだった?」と興味深そうにこちらを見つめてくるウカと目が合った。思わず目をそらしてしまう。ウカは質問が曖昧過ぎると思ったのか、「カクさんはお誕生日、何かお祝いした?」と焦点を絞った問いに変えた。
「わしも……似たようなもんじゃったなあ」
不要な嘘はつかないことにしている。カクは、誕生日にまつわる子供の頃のエピソードで、話せそうなことがあるか頭を巡らせたが、もちろんそんなものはなかったので、これ以上は語らないことにした。ウカは、語らないことを根掘り葉掘り詮索するような人ではない。カクはそれを知っていた。
「ちなみに、カクさんのお誕生日はいつ? 教えてもらったっけ?」
面倒だと思ったのが本音だが、これくらいはいいか、と判断して「来月じゃな」と答える。「ウカは?」と一応聞いてみたが「秘密」と口元で人差し指を立てられた。くそ、それがありならわしだって馬鹿正直に答えんかったわ。ペースを乱される気がして悔しいが、後の祭りだ。
「なら、お祝いさせて! ルッチさんも」
「いらん、いらん」
言ってから、あまりに強く拒絶するような物言いだったと反省する。案の定、ウカは眉を下げ、少し悲しそうに笑っていた。母親が子供の癇癪に付き合うような顔にも見え、ますます調子が狂う。いつもは子供みたいな顔で笑うくせに。頬杖をつきながら、気まずさを持て余していると、ウカがカクの気持ちを知ってか知らずか、勝手に話し始めた。
「島を出てる間、パウリーが一回だけカードを送ってくれたんだけど」
「一回! 五年で一回か? 薄情なやつじゃのう」
ここぞとばかりにパウリーを責めると、ウカは、あはは、と口を大きく開けて笑った。「ううん。これくらいなの、私たちは。私も一回しか送らなかったし」とパウリーを庇うのも忘れない。いつもの子供みたいな笑顔に、こっそりほっとする。
ウカは目を細めながら続けた。
「そのカードにはさ、ちゃんと帰って来いってそれだけ書いてあって、それだけで十分嬉しかったんだけど『追伸』が」
P.S 誕生日おめでとう
「そのカードは大事に持って帰ってきて、入居してすぐ、部屋の壁に貼ったよ」
嬉しかったことは、忘れないように毎日思い出したいから。
朝起きて、いい気分でも、そうでなくても、毎日の習慣みたいに壁のカードに目を留めて、嬉しくなったり、ほっとしたり、仕方ないかと自分を慰めたり、そんなウカが目に浮かぶ。
自分も、誰かに祝ってほしいと思ってしまった。今日みたいに、盛大でなくていい。カードに一行、おめでとうと添えてある。走り書きでいい。ふと思い出して、慌てて店でカードを準備して、何食わぬ顔で渡してくれる。そんな程度の祝いで十分だった。
「……八月、七日」
こぼしてしまってから、しまった、と口を噤んでももう遅い。
「七日ね。わかった」
ウカはきっと、あたたかく祝ってくれる。パウリーにもらったものを、今度はわしに。
でも、わしらは遠くない未来、必ず姿を消す。どんなふうに終わるのかは定かではないが、適当な理由をつけての円満退職なんて、できるとは思っていない。
きっと、酷いことをする。だから、
「全部……、忘れてもらって大丈夫じゃから」
「忘れたりしないよ? ちゃんと壁に貼っておく」
顔の横でピースサインをつくるウカ。
やめてくれ! 叫びたいほどの衝動を、なんとかこらえて、唇を緩やかな笑みの形にした。痙攣して引き攣りそうになる口角を必死でおさえる。
きっとわしは、彼女に酷いことをする。
楽しかったことだけ覚えていてくれなんて傲慢なことは言わない。全部忘れてくれて構わない。笑いあった日々も、わしらがする、非道も全部。
忘れてもらって大丈夫。
おしまい
← →
幻想 #カク #パウリー #ルッチ
ウォーターセブンの夏は暑い。ましてパウリーの部屋ときたらなおさら暑い。パウリーは「まあ飲めよ」と言って律儀に麦茶を差し出してくれたが、グラスの氷はみるみるうちに溶け、麦茶をただただ薄めるだけで、カクの手にしたグラスはすぐに汗をかいた。
パウリーの部屋が異様に暑いのは、この大きな窓のせいだ。特に夕方のこの時間は西日ばかりが入ってきて、間取りのせいか風が通りにくい。それでも革張りのソファはいくらか冷たいのか、家主を差し置いて、暑さに弱いルッチがそれを占領して寝転んでいる。当の家主は別にそれを咎めるでもなく黙って木製の椅子に腰かけた。カクはパウリーのベッドをソファ代わりにして、気休めに腕まくりをする。家主はこの暑さにはすっかり慣れっこなのか、一人いつもと変わらぬ快活さだ。
「そういえば、ハットリは連れてこなかったのか?」
『こんなクソ暑いところに居たら死ぬ……というのは冗談で、お前には見えないところで羽を休めているだけだ。ポッポー……』
「俺には見えませんけどいるんですね、ハットリも」
パウリーはそう言って椅子から立ち上がるとキッチンに向かった。戻ってくると、ルッチのグラスに氷をぽちゃんと追加する。ソファから動けないルッチがそれを横目で恨めしそうに見ていた。
「今日はまた一段と暑いのう」
カクは首元のジッパーを下げて、胸元を摘まみ、パタパタと風を送った。こもった熱が少しだけ逃げていく。
窓からは島のシンボルとなっている巨大な噴水も見えた。夕日を浴びてオレンジ色に染まっている。いつも勢いよく水を持ち上げ、空に打ち上げている噴水がカクは好きだった。それをパウリーの部屋から眺めるのも好きだ。海列車に乗るのも好きだったし、船大工の仕事も気に入っている。思っていたよりずっと、好きなものができたなと思う。
ルッチは暑さにうなだれ屍のようにうつ伏せでソファに横たわっていた。見かねたパウリーが「お前、何しに来たんだよ……おれんちが暑いって知ってんだろうが」と怪訝そうに腕と足を組む。ルッチは『別に、暇だったんだ』とぶっきらぼうに答えた。言い終わるや、カラン、と氷が溶ける音がした。ルッチにはまるで拷問のような音に聞こえているだろうな、とカクはルッチを不憫に思う。
「で? カク、お前はどうしたんだ?」
「なんじゃ。せっかくきてやったのに。休日に友人が訪ねてきたんじゃぞ。もっと喜ばんか」
カクは「まあ買い出しのついでじゃけど」と続けながら、 “友人”という言葉にちくりと胸を痛めた。ルッチの顔は見ないようにする。嘘ではない。嘘ではないのだが。いずれ、というほどでもない「もうすぐ」。パウリーが知らないだけで、別れはすぐそこまで迫っている。
「買い出しって、買ったものは?」
「……家に置いてきた」
「はあ? それ、ついでって言うか?」
ルッチが目だけで『馬鹿か』と言っているが、ルッチの方を見ようとしないカクには伝わらない。「なんでもいいじゃろ!」と雑に誤魔化すと、パウリーもそれ以上の詮索はやめた。
「なあ、少し早いけど飯食いに行かねえか? 暑いしよ。飲んでりゃいい時間になるだろ」
「だめじゃ」
『だめだ』
「あァ!?」
『まだそんな気分じゃない』
「まだ腹が空いとらん」
「お前ら……ほんと、何しに来たんだ?」
おれだって好きでこんなクソ暑いところに居るわけじゃない。ルッチの心の声がカクには聞こえた気がした。
◆
「おい! いい加減、もういいだろう? 俺は限界だ! 身体がアルコールを欲している!」
「わかった、わかった。そろそろ行くかのう」
『行くから黙れ』
太陽はようやく沈み、夜に支配権を明け渡す。パウリーの部屋の温度も多少下がり、ルッチが身体を起こして座れるようになり、言葉も取り戻してきたところだった。結局何をしに来たのかわからないままでも、いつものようにくだらない話をしていたらあっという間に日が傾いているのでカクは驚く。そうはいっても、まだ風はぬるく、夏の夜の匂いがする。そんななか、パウリーは意気揚々と酒場を目指した。その足取りを見たカクは、ああ、やっぱりパウリーは夏に生まれた男なんだなと妙に納得する。パウリーは纏う空気がすでに夏だ。
「ブルーノの酒場でいいよな?」
「おう」
『むしろ好都合だ』
「好都合?」
パウリーがいきなり足を止めたので、数歩分しかなかったパウリーとの間の距離が急にゼロになったルッチは、パウリーの後頭部に鼻をしたたかぶつけた。カクは幸いにして免れたが、ルッチは鼻を手でおさえて顔をしかめている。
「好都合ってなんだよ」
パウリーが振り向きざまに食って掛かってきた。カクとルッチは二人で顔を見合わせる。
『パウリーにしては上出来だ』
「百点満点じゃな。花丸もやろう」
ルッチは鼻声で、カクは子供を褒めるように言った。当のパウリーは「二人して何を企んでるんだ? さっさと吐け!」とルッチの胸倉をつかんでゆする。パウリーにされるがままのルッチをカクが笑いながら見守る。ブルーノの酒場まではあと十歩ばかりだ。
『おめでとう』
「はあ?」
「お? もうネタばらしか?」
『これ以上揺すられると吐く』ルッチが表情を変えずに言うので、パウリーが慌てて手を離した。ルッチは掴まれたタンクトップの襟ぐりが伸びていないか確かめている。
「誕生日おめでとう。今日じゃないのは知っとるが」
カクがそう言うとパウリーは案の定、口をだらしなく開けて呆けた。さっきまでルッチの胸倉を掴んでいた両の手も、だらりと身体の脇に垂れ下がる。カクはその開いた口に、リボンのついた上等な葉巻を突っ込んだ。パウリーが「うわあ」と声を上げて後ずさる。あと九歩。
「な、な、な、……」
パウリーがうろたえながら、後ろ向きにブルーノの酒場に近づいていく。あと四歩。
『種明かしが欲しいか? なら教えてやろう。おれ達がなんのためにあんなクソ暑い部屋にいたのか。今の今まで外に出なかったのは何故か。答えは簡単。お前がどこにも行かないように見張ってたんだ。もっと言えば、ブルーノの酒場に行かないように。お前に知られたくないことがあったんでな』
ルッチが一気にまくしたてるとパウリーは徐々に覚醒していくが、相変わらずリボンのついた葉巻は咥えたままだった。ルッチが一歩近づくと、パウリーは一歩後ずさる。そうしているうちにあと三歩。
「あいにく当日は船の納期が迫ってるじゃろ? それを知ったアイスバーグさんが、少し早いが今日、暑気払いもかねて祝おうじゃないかとブルーノの店を貸し切ってくれたんじゃ。……信じられん、って顔じゃな? じゃあ店に飛び込んだらいい。あと三歩じゃぞ」
カクが言い終わらないうちに、店のドアが開いた。待ちきれなくなったタイルストンの仕業に決まっている。そこから漏れ出る喧騒とエールの泡と笑顔。つられてそちらを振り向いたパウリーの表情は、もう窺えない。けれど、駆けだしたパウリーの足取りはまるで宙に浮くかのよう!
三、二、一、〇!
パン、パン、パン。クラッカーが鳴り響いた。うおお、という雄叫びや、きゃあ、という黄色い声が聞こえてきて、カクは自分の役目は無事に果たしたと胸を撫でおろした。そして、隣の男を盗み見る。
「まさかルッチがこんな企画にのるとはのう」
「……“友人”として自然な対応を選んだだけだ」
「そうじゃな。完璧じゃった」
誕生日おめでとう、パウリー。
おしまい
← →
ウォーターセブンの夏は暑い。ましてパウリーの部屋ときたらなおさら暑い。パウリーは「まあ飲めよ」と言って律儀に麦茶を差し出してくれたが、グラスの氷はみるみるうちに溶け、麦茶をただただ薄めるだけで、カクの手にしたグラスはすぐに汗をかいた。
パウリーの部屋が異様に暑いのは、この大きな窓のせいだ。特に夕方のこの時間は西日ばかりが入ってきて、間取りのせいか風が通りにくい。それでも革張りのソファはいくらか冷たいのか、家主を差し置いて、暑さに弱いルッチがそれを占領して寝転んでいる。当の家主は別にそれを咎めるでもなく黙って木製の椅子に腰かけた。カクはパウリーのベッドをソファ代わりにして、気休めに腕まくりをする。家主はこの暑さにはすっかり慣れっこなのか、一人いつもと変わらぬ快活さだ。
「そういえば、ハットリは連れてこなかったのか?」
『こんなクソ暑いところに居たら死ぬ……というのは冗談で、お前には見えないところで羽を休めているだけだ。ポッポー……』
「俺には見えませんけどいるんですね、ハットリも」
パウリーはそう言って椅子から立ち上がるとキッチンに向かった。戻ってくると、ルッチのグラスに氷をぽちゃんと追加する。ソファから動けないルッチがそれを横目で恨めしそうに見ていた。
「今日はまた一段と暑いのう」
カクは首元のジッパーを下げて、胸元を摘まみ、パタパタと風を送った。こもった熱が少しだけ逃げていく。
窓からは島のシンボルとなっている巨大な噴水も見えた。夕日を浴びてオレンジ色に染まっている。いつも勢いよく水を持ち上げ、空に打ち上げている噴水がカクは好きだった。それをパウリーの部屋から眺めるのも好きだ。海列車に乗るのも好きだったし、船大工の仕事も気に入っている。思っていたよりずっと、好きなものができたなと思う。
ルッチは暑さにうなだれ屍のようにうつ伏せでソファに横たわっていた。見かねたパウリーが「お前、何しに来たんだよ……おれんちが暑いって知ってんだろうが」と怪訝そうに腕と足を組む。ルッチは『別に、暇だったんだ』とぶっきらぼうに答えた。言い終わるや、カラン、と氷が溶ける音がした。ルッチにはまるで拷問のような音に聞こえているだろうな、とカクはルッチを不憫に思う。
「で? カク、お前はどうしたんだ?」
「なんじゃ。せっかくきてやったのに。休日に友人が訪ねてきたんじゃぞ。もっと喜ばんか」
カクは「まあ買い出しのついでじゃけど」と続けながら、 “友人”という言葉にちくりと胸を痛めた。ルッチの顔は見ないようにする。嘘ではない。嘘ではないのだが。いずれ、というほどでもない「もうすぐ」。パウリーが知らないだけで、別れはすぐそこまで迫っている。
「買い出しって、買ったものは?」
「……家に置いてきた」
「はあ? それ、ついでって言うか?」
ルッチが目だけで『馬鹿か』と言っているが、ルッチの方を見ようとしないカクには伝わらない。「なんでもいいじゃろ!」と雑に誤魔化すと、パウリーもそれ以上の詮索はやめた。
「なあ、少し早いけど飯食いに行かねえか? 暑いしよ。飲んでりゃいい時間になるだろ」
「だめじゃ」
『だめだ』
「あァ!?」
『まだそんな気分じゃない』
「まだ腹が空いとらん」
「お前ら……ほんと、何しに来たんだ?」
おれだって好きでこんなクソ暑いところに居るわけじゃない。ルッチの心の声がカクには聞こえた気がした。
◆
「おい! いい加減、もういいだろう? 俺は限界だ! 身体がアルコールを欲している!」
「わかった、わかった。そろそろ行くかのう」
『行くから黙れ』
太陽はようやく沈み、夜に支配権を明け渡す。パウリーの部屋の温度も多少下がり、ルッチが身体を起こして座れるようになり、言葉も取り戻してきたところだった。結局何をしに来たのかわからないままでも、いつものようにくだらない話をしていたらあっという間に日が傾いているのでカクは驚く。そうはいっても、まだ風はぬるく、夏の夜の匂いがする。そんななか、パウリーは意気揚々と酒場を目指した。その足取りを見たカクは、ああ、やっぱりパウリーは夏に生まれた男なんだなと妙に納得する。パウリーは纏う空気がすでに夏だ。
「ブルーノの酒場でいいよな?」
「おう」
『むしろ好都合だ』
「好都合?」
パウリーがいきなり足を止めたので、数歩分しかなかったパウリーとの間の距離が急にゼロになったルッチは、パウリーの後頭部に鼻をしたたかぶつけた。カクは幸いにして免れたが、ルッチは鼻を手でおさえて顔をしかめている。
「好都合ってなんだよ」
パウリーが振り向きざまに食って掛かってきた。カクとルッチは二人で顔を見合わせる。
『パウリーにしては上出来だ』
「百点満点じゃな。花丸もやろう」
ルッチは鼻声で、カクは子供を褒めるように言った。当のパウリーは「二人して何を企んでるんだ? さっさと吐け!」とルッチの胸倉をつかんでゆする。パウリーにされるがままのルッチをカクが笑いながら見守る。ブルーノの酒場まではあと十歩ばかりだ。
『おめでとう』
「はあ?」
「お? もうネタばらしか?」
『これ以上揺すられると吐く』ルッチが表情を変えずに言うので、パウリーが慌てて手を離した。ルッチは掴まれたタンクトップの襟ぐりが伸びていないか確かめている。
「誕生日おめでとう。今日じゃないのは知っとるが」
カクがそう言うとパウリーは案の定、口をだらしなく開けて呆けた。さっきまでルッチの胸倉を掴んでいた両の手も、だらりと身体の脇に垂れ下がる。カクはその開いた口に、リボンのついた上等な葉巻を突っ込んだ。パウリーが「うわあ」と声を上げて後ずさる。あと九歩。
「な、な、な、……」
パウリーがうろたえながら、後ろ向きにブルーノの酒場に近づいていく。あと四歩。
『種明かしが欲しいか? なら教えてやろう。おれ達がなんのためにあんなクソ暑い部屋にいたのか。今の今まで外に出なかったのは何故か。答えは簡単。お前がどこにも行かないように見張ってたんだ。もっと言えば、ブルーノの酒場に行かないように。お前に知られたくないことがあったんでな』
ルッチが一気にまくしたてるとパウリーは徐々に覚醒していくが、相変わらずリボンのついた葉巻は咥えたままだった。ルッチが一歩近づくと、パウリーは一歩後ずさる。そうしているうちにあと三歩。
「あいにく当日は船の納期が迫ってるじゃろ? それを知ったアイスバーグさんが、少し早いが今日、暑気払いもかねて祝おうじゃないかとブルーノの店を貸し切ってくれたんじゃ。……信じられん、って顔じゃな? じゃあ店に飛び込んだらいい。あと三歩じゃぞ」
カクが言い終わらないうちに、店のドアが開いた。待ちきれなくなったタイルストンの仕業に決まっている。そこから漏れ出る喧騒とエールの泡と笑顔。つられてそちらを振り向いたパウリーの表情は、もう窺えない。けれど、駆けだしたパウリーの足取りはまるで宙に浮くかのよう!
三、二、一、〇!
パン、パン、パン。クラッカーが鳴り響いた。うおお、という雄叫びや、きゃあ、という黄色い声が聞こえてきて、カクは自分の役目は無事に果たしたと胸を撫でおろした。そして、隣の男を盗み見る。
「まさかルッチがこんな企画にのるとはのう」
「……“友人”として自然な対応を選んだだけだ」
「そうじゃな。完璧じゃった」
誕生日おめでとう、パウリー。
おしまい
← →
告解 #ルッチ #ブルーノ #カク #パウリー
「まだ開店前なんだが」
『うるさい、黙って注げ』
「ハットリはいないぞ?」
「お前は本当にうるさい」
ルッチはそう言ってブルーノの店のカウンターに突っ伏した。ブルーノが店内を見回すと、ハットリが西日の入る窓際のテーブルで、オレには関係ないとでもいうふうに、せっせと羽繕いをしている。
ブルーノが氷の入ったグラスをカウンターに置いてボトルを傾けると、琥珀色の液体がととと、とリズムよく流れ落ちてグラスにおさまった。ルッチは頬をカウンターに乗せてその様を見た。戯れにグラスを指ではじくと、チン、と冷たい音がして中のブランデーが少し揺れる。それにあわせて、ほのかに甘い香りがルッチの鼻腔をくすぐった。
酒をゆっくり楽しむ気分にはなれないルッチは、むくりと起き上がると一気にグラスを煽る。喉が灼け、鼻から酒の香りが抜けていく。胃がかっと熱くなったところで、再びカウンターに突っ伏した。酒がまわる。ブルーノは黙ってまた酒を注ぎ、一緒にチェイサーも置いた。分厚い木のカウンターがそれをコトリ、と優しく受け止める。
さっきまでざあざあと降っていた雨はいつのまにかやんでいた。どこか、窓か裏口でも開いているのか、ぬるい空気がルッチの肌を撫でていく。雨が止んで通りに賑わいが戻ってきたのか、「CLOSE」の札がかかっているウェスタンドアの向こうから「すごい雨だったな」「やんでくれて良かった」と雑談が聞こえてくる。ブルーノはそろそろ札を「OPEN」にしたいのだが、目の前の男がそれを許そうとしない。
ブルーノは静かに息を吐くと、黙って棚のボトルを手に取って拭きだした。こんな姿、カクやカリファには絶対に見せないだろうな、と思って言わずにおく。ただの独り言だし、感想だ。ブルーノは、ルッチが自分に気を許している、というわけではないことを知っていた。ルッチはカクやカリファにはこんな弱みを見せたくないだけだ。ルッチは常に彼らが求める「絶対」を彼らに見せようとしている。だから、消去法でおれが選ばれている。
蒸し暑いからとオンザロックにしたのがいけなかった。ぼうっと考え事をしているうちに、二杯目は氷がとけて、ぬるく、薄く、つまらないものに成り下がった。ルッチがグラスを手に取っておもむろに床に傾けると、薄まったブランデーがびちゃびちゃと下品な音を立てて緩慢に広がっていく。零したブランデーに、いつの間にか点いていた店の明かりと自分のシルエットが安っぽく、惨めに映り込む。ブルーノは黙って見ているだけで何も言わない。
「子供みたいなことをするんだな」
ルッチがグラスの中身をすっかり床に全部こぼしてから、あきれた様子のブルーノがたしなめる。
「もったいないだろう。安酒を出してるつもりはないぞ」
ブルーノは氷が入った新しいグラスを用意して、また注いだ。今度ばかりは、さすがのルッチも大人しく口をつけた。ゆっくり、舐めるように、少しだけ。
「全部こぼれてから言うな。そもそもおれの酒だ」
「片づけるのはおれじゃないか」
「おれがやってやる。気が向いたら」
「それはどうも。期待しているよ」
床を拭く雑巾を手にブルーノがそう言ったので、ブルーノが思ってもいないことを言ったのがルッチにはわかった。ルッチも片づける気なんてさらさらなかったから、くく、と声を殺して笑う。こんなことで笑いたくなるなんて、少し酔ったのかもしれない。
「一体なんだっていうんだ。あとほんの数か月だろう」
「なんだ? 何が言いたい」
「カクなんか楽しそうにうまくやってるじゃないか。ルッチが同じようにしたところで、カクもカリファも、咎めたりしないだろう?」
「おい。遠慮か何か知らないが、奥歯にものが挟まったような言い方はやめろ。何が言いたいのかさっぱりわからん」
なんて、本当は嘘だ。おれはブルーノが言わんとすることがわかる。認めたくないだけだ。認めればすべてが終わってしまうのではという恐怖が心の奥底にある。だが、そんなこと知覚したくない。辛い。そんなふうにも思いたくない。嫌だ、なんてもってのほかだ。
ブルーノはすでに床を拭き終わっていた。ブルーノが無表情で雑巾を絞る。ブランデーの香りが鼻についた。先ほどまで楽しんでいた香り。ブルーノはルッチを見ず、何の感情も込めずに言った。
「おれは別にいいと思うが」
「だから、なんだ」
「寂しいと思っても、悲しいと思っても」
「おい、いつになく気色が悪いぞ。やめろ」
「別に、無理をするなってだけだ。最後の最後、大詰めだぞ。下手に無理されて、台無しにされたらたまったもんじゃない。こんなふうになるくらいなら、素直になったらどうだ?」
「ふざけるなよ」
ルッチはとても静かにカウンターに脚を乗せ、その向こう側に身体を乗り出すと、ブルーノの胸倉をつかんだ。カラン。音を立てたのはグラスの中の氷だけだ。店内が静まりかえっている分、外の喧騒がやけに耳に刺さる。
視線はどちらもそらさなかった。お互いの瞳にお互いが映って、お互いが自分を睨む。ブルーノの瞳の中のルッチはあまりに無様で、あまりに滑稽で、ルッチは心の中でそっとため息をついた。目をそらさないブルーノが、ルッチにしか聞こえないくらいの小さな声で呟く。まるで内緒話をするかのよう。
「何も大声で言って回れって話じゃない。ただ、自分にだけは、嘘をつかないほうがいいんじゃないか」
「……」
「泣いても喚いても、彼の誕生日はあと一回きりだ。この任務が終われば、一生会わない」
「本当にお前はうるさい」
言われなくても、そんなことは任務が終わる日を指折り数えている自分が誰よりも重々承知している。寂しい。悲しい。辛い。嫌だ。全部違う、とルッチはすぐに否定した。今日は久しぶりの休日だったのに朝から土砂降りで、明日からの仕事を思うと気が滅入って、だから飲みたくなっただけ。こんなふうにいつだって自分を欺いているのに、今さらどうして本音が言える? そもそも、本音なんてもう、自分でもわからない。ただ。
ルッチはブルーノの胸倉からそっと手を離して、大人しくまた椅子に腰を下ろした。ブルーノが襟元を直す。
「本当に、そんなんじゃないんだ。寂しいなんて寒気がする」
「そうか」
「ただ」
「ただ?」
「少し、むなしい」
そうか、むなしい、か。ブルーノは、聞いたことのない言葉を「あそこに咲いている花の名前だよ」と教えてもらった時のように納得する。
「ああ、むなしい。それだけだ」
「そうだな」
寂しいんじゃない。
ただもう少し時間があったなら。違う出会いがあったなら。そんな、らしくないことを思うのは、酔っているから。これが悪夢の中だから。こんな夢、はやく醒めればいいのに。ルッチは唇を噛む。
「おーい! まだ開けねえのかー?」
店のドアをドンドンと叩く音と一緒に聞こえてきたのは、馴染みの声だった。何も言わずともハットリが飛んできて、ルッチの肩にとまる。「はいはい、今開けるよ」とブルーノが裏口から表へと出ていった。
店主より先にパウリーがどかどかと入ってきて、カウンターに座るルッチを見つけ「うわ」と眉をひそめた。
『うわ、とはなんだ』
「うわ、以外にあるかよ。なんで開店前の店でそんなに酔ってるんだ、お前は!」
『酔ってるだと?』
「酔っとるのう」
パウリーの後ろに続いてやってきたカクも、パウリーと同じ顔をしていた。ほんの少しだけパウリーにはない怪訝な色が混じった顔だった。ルッチはなんとなくばつが悪い気がして、目をそらす。
「真面目なお前が、明るいうちから開店前の店に押し掛けて飲むなんて珍しいな」とパウリーがルッチの横に座った。カクはその隣だ。ブルーノが二人に「エールでいいのか?」と注文を確認する。目が据わっているルッチにパウリーが「部屋に寄ったんだぞ」と口を尖らせる。
『そりゃ悪かったな』
ルッチが素っ気なく返すと、パウリーは視線を空に彷徨わせて少し間を取ってから真面目な声音で「なあ、何かあったのか?」と心配した。嘘の気配に敏感なルッチとカク、ブルーノには、悲しい哉、その心配に嘘がまったくないのがわかる。こういう男を騙しているんだった、とルッチは改めて自覚した。そんな男をおれは今日も騙す。
「あれじゃろ? 失恋」
ルッチが適当な嘘で誤魔化そうと口を開いた瞬間、それより早く、カクがとんでもないことを言い出した。パウリーがさっきまでの神妙な顔つきから途端、笑顔になって「おいおいおいおい! 聞いてないぞ!」と騒ぎだす。ルッチは、パウリーの向こうで涼しい顔をしてエールを煽るカクを殺さんばかりの視線で睨むが、カクはどこ吹く風だ。
「失恋じゃあしょうがねえよな! よし、飲め! 奢ってやる!」
「なんで楽しそうなんじゃ。ひどいやつじゃのう。最初くらいもっと静かに寄り添ってやらんか」
「いやあ、ルッチも人の子だったんだなあと思ってよ」
悪い悪い、と悪びれもせず謝るパウリーと、面白がるカクとをルッチは見る。仕方がない、まだもう少しだけ悪夢をみていよう。ルッチはそう決めて、カクのありがた迷惑な助け舟に乗ることにして、架空の思い人を急いで構築する。
おしまい
← →
「まだ開店前なんだが」
『うるさい、黙って注げ』
「ハットリはいないぞ?」
「お前は本当にうるさい」
ルッチはそう言ってブルーノの店のカウンターに突っ伏した。ブルーノが店内を見回すと、ハットリが西日の入る窓際のテーブルで、オレには関係ないとでもいうふうに、せっせと羽繕いをしている。
ブルーノが氷の入ったグラスをカウンターに置いてボトルを傾けると、琥珀色の液体がととと、とリズムよく流れ落ちてグラスにおさまった。ルッチは頬をカウンターに乗せてその様を見た。戯れにグラスを指ではじくと、チン、と冷たい音がして中のブランデーが少し揺れる。それにあわせて、ほのかに甘い香りがルッチの鼻腔をくすぐった。
酒をゆっくり楽しむ気分にはなれないルッチは、むくりと起き上がると一気にグラスを煽る。喉が灼け、鼻から酒の香りが抜けていく。胃がかっと熱くなったところで、再びカウンターに突っ伏した。酒がまわる。ブルーノは黙ってまた酒を注ぎ、一緒にチェイサーも置いた。分厚い木のカウンターがそれをコトリ、と優しく受け止める。
さっきまでざあざあと降っていた雨はいつのまにかやんでいた。どこか、窓か裏口でも開いているのか、ぬるい空気がルッチの肌を撫でていく。雨が止んで通りに賑わいが戻ってきたのか、「CLOSE」の札がかかっているウェスタンドアの向こうから「すごい雨だったな」「やんでくれて良かった」と雑談が聞こえてくる。ブルーノはそろそろ札を「OPEN」にしたいのだが、目の前の男がそれを許そうとしない。
ブルーノは静かに息を吐くと、黙って棚のボトルを手に取って拭きだした。こんな姿、カクやカリファには絶対に見せないだろうな、と思って言わずにおく。ただの独り言だし、感想だ。ブルーノは、ルッチが自分に気を許している、というわけではないことを知っていた。ルッチはカクやカリファにはこんな弱みを見せたくないだけだ。ルッチは常に彼らが求める「絶対」を彼らに見せようとしている。だから、消去法でおれが選ばれている。
蒸し暑いからとオンザロックにしたのがいけなかった。ぼうっと考え事をしているうちに、二杯目は氷がとけて、ぬるく、薄く、つまらないものに成り下がった。ルッチがグラスを手に取っておもむろに床に傾けると、薄まったブランデーがびちゃびちゃと下品な音を立てて緩慢に広がっていく。零したブランデーに、いつの間にか点いていた店の明かりと自分のシルエットが安っぽく、惨めに映り込む。ブルーノは黙って見ているだけで何も言わない。
「子供みたいなことをするんだな」
ルッチがグラスの中身をすっかり床に全部こぼしてから、あきれた様子のブルーノがたしなめる。
「もったいないだろう。安酒を出してるつもりはないぞ」
ブルーノは氷が入った新しいグラスを用意して、また注いだ。今度ばかりは、さすがのルッチも大人しく口をつけた。ゆっくり、舐めるように、少しだけ。
「全部こぼれてから言うな。そもそもおれの酒だ」
「片づけるのはおれじゃないか」
「おれがやってやる。気が向いたら」
「それはどうも。期待しているよ」
床を拭く雑巾を手にブルーノがそう言ったので、ブルーノが思ってもいないことを言ったのがルッチにはわかった。ルッチも片づける気なんてさらさらなかったから、くく、と声を殺して笑う。こんなことで笑いたくなるなんて、少し酔ったのかもしれない。
「一体なんだっていうんだ。あとほんの数か月だろう」
「なんだ? 何が言いたい」
「カクなんか楽しそうにうまくやってるじゃないか。ルッチが同じようにしたところで、カクもカリファも、咎めたりしないだろう?」
「おい。遠慮か何か知らないが、奥歯にものが挟まったような言い方はやめろ。何が言いたいのかさっぱりわからん」
なんて、本当は嘘だ。おれはブルーノが言わんとすることがわかる。認めたくないだけだ。認めればすべてが終わってしまうのではという恐怖が心の奥底にある。だが、そんなこと知覚したくない。辛い。そんなふうにも思いたくない。嫌だ、なんてもってのほかだ。
ブルーノはすでに床を拭き終わっていた。ブルーノが無表情で雑巾を絞る。ブランデーの香りが鼻についた。先ほどまで楽しんでいた香り。ブルーノはルッチを見ず、何の感情も込めずに言った。
「おれは別にいいと思うが」
「だから、なんだ」
「寂しいと思っても、悲しいと思っても」
「おい、いつになく気色が悪いぞ。やめろ」
「別に、無理をするなってだけだ。最後の最後、大詰めだぞ。下手に無理されて、台無しにされたらたまったもんじゃない。こんなふうになるくらいなら、素直になったらどうだ?」
「ふざけるなよ」
ルッチはとても静かにカウンターに脚を乗せ、その向こう側に身体を乗り出すと、ブルーノの胸倉をつかんだ。カラン。音を立てたのはグラスの中の氷だけだ。店内が静まりかえっている分、外の喧騒がやけに耳に刺さる。
視線はどちらもそらさなかった。お互いの瞳にお互いが映って、お互いが自分を睨む。ブルーノの瞳の中のルッチはあまりに無様で、あまりに滑稽で、ルッチは心の中でそっとため息をついた。目をそらさないブルーノが、ルッチにしか聞こえないくらいの小さな声で呟く。まるで内緒話をするかのよう。
「何も大声で言って回れって話じゃない。ただ、自分にだけは、嘘をつかないほうがいいんじゃないか」
「……」
「泣いても喚いても、彼の誕生日はあと一回きりだ。この任務が終われば、一生会わない」
「本当にお前はうるさい」
言われなくても、そんなことは任務が終わる日を指折り数えている自分が誰よりも重々承知している。寂しい。悲しい。辛い。嫌だ。全部違う、とルッチはすぐに否定した。今日は久しぶりの休日だったのに朝から土砂降りで、明日からの仕事を思うと気が滅入って、だから飲みたくなっただけ。こんなふうにいつだって自分を欺いているのに、今さらどうして本音が言える? そもそも、本音なんてもう、自分でもわからない。ただ。
ルッチはブルーノの胸倉からそっと手を離して、大人しくまた椅子に腰を下ろした。ブルーノが襟元を直す。
「本当に、そんなんじゃないんだ。寂しいなんて寒気がする」
「そうか」
「ただ」
「ただ?」
「少し、むなしい」
そうか、むなしい、か。ブルーノは、聞いたことのない言葉を「あそこに咲いている花の名前だよ」と教えてもらった時のように納得する。
「ああ、むなしい。それだけだ」
「そうだな」
寂しいんじゃない。
ただもう少し時間があったなら。違う出会いがあったなら。そんな、らしくないことを思うのは、酔っているから。これが悪夢の中だから。こんな夢、はやく醒めればいいのに。ルッチは唇を噛む。
「おーい! まだ開けねえのかー?」
店のドアをドンドンと叩く音と一緒に聞こえてきたのは、馴染みの声だった。何も言わずともハットリが飛んできて、ルッチの肩にとまる。「はいはい、今開けるよ」とブルーノが裏口から表へと出ていった。
店主より先にパウリーがどかどかと入ってきて、カウンターに座るルッチを見つけ「うわ」と眉をひそめた。
『うわ、とはなんだ』
「うわ、以外にあるかよ。なんで開店前の店でそんなに酔ってるんだ、お前は!」
『酔ってるだと?』
「酔っとるのう」
パウリーの後ろに続いてやってきたカクも、パウリーと同じ顔をしていた。ほんの少しだけパウリーにはない怪訝な色が混じった顔だった。ルッチはなんとなくばつが悪い気がして、目をそらす。
「真面目なお前が、明るいうちから開店前の店に押し掛けて飲むなんて珍しいな」とパウリーがルッチの横に座った。カクはその隣だ。ブルーノが二人に「エールでいいのか?」と注文を確認する。目が据わっているルッチにパウリーが「部屋に寄ったんだぞ」と口を尖らせる。
『そりゃ悪かったな』
ルッチが素っ気なく返すと、パウリーは視線を空に彷徨わせて少し間を取ってから真面目な声音で「なあ、何かあったのか?」と心配した。嘘の気配に敏感なルッチとカク、ブルーノには、悲しい哉、その心配に嘘がまったくないのがわかる。こういう男を騙しているんだった、とルッチは改めて自覚した。そんな男をおれは今日も騙す。
「あれじゃろ? 失恋」
ルッチが適当な嘘で誤魔化そうと口を開いた瞬間、それより早く、カクがとんでもないことを言い出した。パウリーがさっきまでの神妙な顔つきから途端、笑顔になって「おいおいおいおい! 聞いてないぞ!」と騒ぎだす。ルッチは、パウリーの向こうで涼しい顔をしてエールを煽るカクを殺さんばかりの視線で睨むが、カクはどこ吹く風だ。
「失恋じゃあしょうがねえよな! よし、飲め! 奢ってやる!」
「なんで楽しそうなんじゃ。ひどいやつじゃのう。最初くらいもっと静かに寄り添ってやらんか」
「いやあ、ルッチも人の子だったんだなあと思ってよ」
悪い悪い、と悪びれもせず謝るパウリーと、面白がるカクとをルッチは見る。仕方がない、まだもう少しだけ悪夢をみていよう。ルッチはそう決めて、カクのありがた迷惑な助け舟に乗ることにして、架空の思い人を急いで構築する。
おしまい
← →
雲間 #カク #パウリー
あいにくの雨だった。
朝からの急な土砂降りで島のシンボルである噴水も雨でかすむ。こんな天気だ、葉巻さえ切らしていなければ外には出なかったのだが、葉巻には代えられない。パウリーは、舌打ちしながら部屋のドアを開けた。外から漏れ聞こえてくる雨音はやはり激しく、その中へこれから一歩踏み出していくのは気が滅入るが明日からの葉巻を思えば仕方がない。はあ、とため息をつきながらパウリーは最後の一本となった葉巻を咥えた。
強い雨足のせいか商店街は普段と違って静かなものだった。まばらに道行く人はみな、出来るだけ濡れないようにと体を縮めて、おのおのの傘におさまろうとしている。合羽を着た子供だけが、濡れてもへっちゃらだ、と明るい声をあげながら、こんな天気でも、いや、こんな天気だからだろうか、元気にはしゃいでパウリーの横をすり抜けていく。後ろから、そんな子供を諫める母親の声が聞こえた。
パウリーは角の煙草屋で手に入れた葉巻が雨に濡れぬよう、細心の注意をはらって、そっと胸ポケットにしまい込んだ。
もうすっかり濡れたジーンズの裾は、じっとりとして気持ちが悪く、せっかく雨のなか外出したのだからすこしぶらぶらするか、という気もすぐに失せる。パウリーは踵を返し、足早に自宅へと戻ろうとした。
「パウリー」
名を呼ばれパウリーが振り向くと、そこにいたのは器用に傘におさまりながら両手で紙袋を抱えたカクだった。この時間に商店街で買い物が出来るということは、カクも今日はオフだったらしい。この土砂降りだ。もしかしたら急なオフだったのかもしれない。いつもの作業着よりずっとラフなティーシャツ姿は、生ぬるくて湿った空気が停滞している今日にはぴったりに思えた。
ここ最近、仕事が急に増え、それなのにこうして天気が悪くなったり、そのせいで予定していた資材が届かなかったりと、普段通りに作業していたのでは納期に間に合わないため、休日返上で仕上げる、ということが続いていた。カクも買い物に行けていなかったのだろう。チーズやハム、果物といった戦利品で膨らんだ紙袋は、カクの顔をすっぽりと隠すほどだった。カクは「買いすぎたわい」とぼやきながら、紙袋を落とさぬよう抱え直している。
「さっきの子供、パウリーみたいじゃったの」
大きな紙袋のせいで顔は見えず、声しか聞こえなかったが、その声だけでもからかわれているのだとパウリーにはわかった。表情なんて見なくとも、カクの目はいたずらっぽく輝いているに違いない。「パウリーも雨なんかへっちゃらじゃろう?」と追い打ちをかけてくる。
「俺はシャイで……物静かな子供だったな」
「嘘が下手じゃのう。声が震えとるぞ」
カクの笑い声にあわせて、紙袋がガサガサと揺れた。雨はまだ降り続けている。けれど、雨足はだいぶ弱まった。傘を叩く雨がさきほどよりずっと優しい。荷物で手一杯に見えるカクに「おれの傘に入るか?」とパウリーが申し出てみるが「相合傘なんぞごめんじゃ」と袖にされてしまった。
帰路が同じだった二人は、自然と隣り合って歩いた。ぶつかる傘の分だけいつもよりわずかに距離が空いて、二人の間をぬるい風が吹き抜けていく。
「今日はルッチも休みなんじゃと」
「へえ? 三人とも休みが被るのは久しぶりだな」
「きっと来週から大口の仕事でも入るんじゃろ。ああまた忙しくなる……」
パウリーがカクを見やると、カクはあからさまにうんざりといった様子で、眉間に皺をよせていた。それは誰が見ても子供っぽい表情で、口調とのギャップにパウリーは笑ってしまう。カクの「なんじゃ」という怪訝な瞳を「なんでもない」と手を振って誤魔化す。
大人びた、いや、大人すら通り越して、もはや老成している口ぶりについ騙されて、いつも頼りたくなってしまうが、考えてみればカクはパウリーの一つ下のはずだった。この島に来たのも二、三年ほど前。
人懐っこいカクは、入社してすぐに「わしはカク。お前さんはパウリーじゃろ、よろしく」と短く簡潔にわかりやすく声をかけてきた。最初は「……おう」と人見知りをして素っ気なかったパウリーだったが、歳も近く大らかで気のいいカクとはすぐに打ち解けてつるむようになった。ルッチに声をかけにいこう、と誘ってきたのもカクだ。「仲良くなったら面白そうじゃろ? 肩にハトじゃぞ?」今となっては、カクの言葉に乗ってみてよかったなと思っている。
パウリーはカクの誘い文句を思い出して、うっかり噴き出した。カクがじろりとパウリーを睨む。
「何がおかしいんじゃ?」
「……いや、別に? 大したことじゃない」
「なんじゃ、さっきから。いけ好かん態度じゃのう! 罰としてこれを持っとれ!」
カクは抱えていた紙袋をいきなりパウリーに押し付けた。中身を落とさぬよう慌てるパウリーを尻目に、カクはそのまま傘を片手に地を蹴って跳ぶ。いや、飛んだ。パウリーがそれを目で追う。
カクは重力に縛られることなく、軽やかに飛んで、屋根の上に音もたてずに着地した。パウリーはカクに重さがあるのかと毎度疑っている。カクは屋根の上で足を大きく広げてしゃがみ、パウリーとの距離を少しでも近くすると「ワハハ! しっかり運ぶんじゃぞ、パウリー」と混じりけのない笑顔で言った。
パウリーは傘を使ったら宙に浮けるのではないかと、傘を広げて坂を駆けたずっと昔の、あやふやないつかを思い出した。何度挑戦しても自分には出来なかったそれを、目の前の男が難なくやってのける。
「こらカク! それは反則だろう! 降りてこい」
パウリーは抗議しかできない自分がもどかしく、悔しい思いだ。こうして声を張り上げて、カクを地に下ろすことしかできない。自分もそこに行けたらいいのに。
「仕方ないのう」
カクは全然仕方なくなさそうに、いったん地に降りてきた。そして「荷物を落としたら、お前さんも落とすからの」と物騒な台詞を口にしたかと思えば、パウリーを抱えて先ほどと同じように地を蹴った。パウリーは命綱と化した紙袋をひしと抱くのに精いっぱいで、傘は落としてしまう。
高度は先ほどより若干劣るが、軽やかさは変わらないのがパウリーは不思議だった。ひゅう、と耳の近くで風の音がする。後ろに撫でつけた金髪が風に靡いて乱れ、頬や目にかかるのでパウリーは顔をしかめる羽目になる。「パウリー。お前、重い」と睨んでくるカクを「お前、なんかそれ気持ち悪ぃぞ!」とどやせば、カクは少し考えて「確かに」と笑った。
飛んでいるのか、浮いているのか、ゆっくり落ちているのか、パウリーにはわからない。わからないまま、手ごろな家の屋根に着地すると、カクが「おお、雨がやむぞ」と傘をたたんで、海の方を指差した。
水平線の上、雨雲の切れ間から太陽がのぞいている。雨雲がゆっくり流れていき、青の面積が増えていく。パウリーはふと横に並び立つカクを見る。カクの黒い瞳に太陽の光が吸い込まれていくのを見る。すると、カクが急にパウリーの方に顔を向けた。パウリーは自分がカクの横顔を見ていたことに気づかれたのではと、内心ぎくりとする。カクは気づいているのかいないのか、特にそれを話題にすることはなかったが、話題にされる前にとパウリーが慌てて取り繕う。
「ルッチも休みなんだろ? 誘って飯でも行かねえか?」
「どうせ明日には仕事で会うじゃろうに」
「誘わないと明日拗ねるだろう?」
「それもそうか」
パウリーは、まだ誘っていないカクが、すでにこのまま自分と食事するつもりになっているのに気づいて、気づかれないように口の端だけで笑った。気づかれると、またカクが怒るから本当にそっと。
「夏がくるのう。そういえばパウリーの誕生日もそろそろじゃな」
「ああ、そうだな……」
「何か欲しいものは」というカクの言葉にパウリーが「金」と即答すると、呆れた顔のカクに睨まれた。
「絶対にやらん。お前にやるくらいなら海に捨てたほうがマシじゃ」
「そこまで言うか!?」
「少しは胸に手を当てて考えてみい!」
「ひでえな。それが友達の言い草か?」
「まあ、それはさておき。何かあるか? 給料日のすぐあとなら奮発するぞ」
「そうだな……」
◆
目を、開ける。
パウリーは徐々に覚醒してきた頭を振って時計を見た。朝の五時少し前。窓から差し込むのは鋭い日差し。昨日脱ぎ捨てたままの服。
ああ今のは。幸か不幸か、おれはこれが夢だと知っている。遠い昔の夢だと知っている。あの後に続く言葉は。
『これからずっと、じいさんになっても、お前らと騒げたらそれで十分だ』
『なんじゃ、それなら簡単じゃな!』
幸せな夢だった。
「簡単だって、言ったじゃねえかよ。あいつ」
なにが本当だったのか、もうパウリーにはわからない。
おしまい
← →
あいにくの雨だった。
朝からの急な土砂降りで島のシンボルである噴水も雨でかすむ。こんな天気だ、葉巻さえ切らしていなければ外には出なかったのだが、葉巻には代えられない。パウリーは、舌打ちしながら部屋のドアを開けた。外から漏れ聞こえてくる雨音はやはり激しく、その中へこれから一歩踏み出していくのは気が滅入るが明日からの葉巻を思えば仕方がない。はあ、とため息をつきながらパウリーは最後の一本となった葉巻を咥えた。
強い雨足のせいか商店街は普段と違って静かなものだった。まばらに道行く人はみな、出来るだけ濡れないようにと体を縮めて、おのおのの傘におさまろうとしている。合羽を着た子供だけが、濡れてもへっちゃらだ、と明るい声をあげながら、こんな天気でも、いや、こんな天気だからだろうか、元気にはしゃいでパウリーの横をすり抜けていく。後ろから、そんな子供を諫める母親の声が聞こえた。
パウリーは角の煙草屋で手に入れた葉巻が雨に濡れぬよう、細心の注意をはらって、そっと胸ポケットにしまい込んだ。
もうすっかり濡れたジーンズの裾は、じっとりとして気持ちが悪く、せっかく雨のなか外出したのだからすこしぶらぶらするか、という気もすぐに失せる。パウリーは踵を返し、足早に自宅へと戻ろうとした。
「パウリー」
名を呼ばれパウリーが振り向くと、そこにいたのは器用に傘におさまりながら両手で紙袋を抱えたカクだった。この時間に商店街で買い物が出来るということは、カクも今日はオフだったらしい。この土砂降りだ。もしかしたら急なオフだったのかもしれない。いつもの作業着よりずっとラフなティーシャツ姿は、生ぬるくて湿った空気が停滞している今日にはぴったりに思えた。
ここ最近、仕事が急に増え、それなのにこうして天気が悪くなったり、そのせいで予定していた資材が届かなかったりと、普段通りに作業していたのでは納期に間に合わないため、休日返上で仕上げる、ということが続いていた。カクも買い物に行けていなかったのだろう。チーズやハム、果物といった戦利品で膨らんだ紙袋は、カクの顔をすっぽりと隠すほどだった。カクは「買いすぎたわい」とぼやきながら、紙袋を落とさぬよう抱え直している。
「さっきの子供、パウリーみたいじゃったの」
大きな紙袋のせいで顔は見えず、声しか聞こえなかったが、その声だけでもからかわれているのだとパウリーにはわかった。表情なんて見なくとも、カクの目はいたずらっぽく輝いているに違いない。「パウリーも雨なんかへっちゃらじゃろう?」と追い打ちをかけてくる。
「俺はシャイで……物静かな子供だったな」
「嘘が下手じゃのう。声が震えとるぞ」
カクの笑い声にあわせて、紙袋がガサガサと揺れた。雨はまだ降り続けている。けれど、雨足はだいぶ弱まった。傘を叩く雨がさきほどよりずっと優しい。荷物で手一杯に見えるカクに「おれの傘に入るか?」とパウリーが申し出てみるが「相合傘なんぞごめんじゃ」と袖にされてしまった。
帰路が同じだった二人は、自然と隣り合って歩いた。ぶつかる傘の分だけいつもよりわずかに距離が空いて、二人の間をぬるい風が吹き抜けていく。
「今日はルッチも休みなんじゃと」
「へえ? 三人とも休みが被るのは久しぶりだな」
「きっと来週から大口の仕事でも入るんじゃろ。ああまた忙しくなる……」
パウリーがカクを見やると、カクはあからさまにうんざりといった様子で、眉間に皺をよせていた。それは誰が見ても子供っぽい表情で、口調とのギャップにパウリーは笑ってしまう。カクの「なんじゃ」という怪訝な瞳を「なんでもない」と手を振って誤魔化す。
大人びた、いや、大人すら通り越して、もはや老成している口ぶりについ騙されて、いつも頼りたくなってしまうが、考えてみればカクはパウリーの一つ下のはずだった。この島に来たのも二、三年ほど前。
人懐っこいカクは、入社してすぐに「わしはカク。お前さんはパウリーじゃろ、よろしく」と短く簡潔にわかりやすく声をかけてきた。最初は「……おう」と人見知りをして素っ気なかったパウリーだったが、歳も近く大らかで気のいいカクとはすぐに打ち解けてつるむようになった。ルッチに声をかけにいこう、と誘ってきたのもカクだ。「仲良くなったら面白そうじゃろ? 肩にハトじゃぞ?」今となっては、カクの言葉に乗ってみてよかったなと思っている。
パウリーはカクの誘い文句を思い出して、うっかり噴き出した。カクがじろりとパウリーを睨む。
「何がおかしいんじゃ?」
「……いや、別に? 大したことじゃない」
「なんじゃ、さっきから。いけ好かん態度じゃのう! 罰としてこれを持っとれ!」
カクは抱えていた紙袋をいきなりパウリーに押し付けた。中身を落とさぬよう慌てるパウリーを尻目に、カクはそのまま傘を片手に地を蹴って跳ぶ。いや、飛んだ。パウリーがそれを目で追う。
カクは重力に縛られることなく、軽やかに飛んで、屋根の上に音もたてずに着地した。パウリーはカクに重さがあるのかと毎度疑っている。カクは屋根の上で足を大きく広げてしゃがみ、パウリーとの距離を少しでも近くすると「ワハハ! しっかり運ぶんじゃぞ、パウリー」と混じりけのない笑顔で言った。
パウリーは傘を使ったら宙に浮けるのではないかと、傘を広げて坂を駆けたずっと昔の、あやふやないつかを思い出した。何度挑戦しても自分には出来なかったそれを、目の前の男が難なくやってのける。
「こらカク! それは反則だろう! 降りてこい」
パウリーは抗議しかできない自分がもどかしく、悔しい思いだ。こうして声を張り上げて、カクを地に下ろすことしかできない。自分もそこに行けたらいいのに。
「仕方ないのう」
カクは全然仕方なくなさそうに、いったん地に降りてきた。そして「荷物を落としたら、お前さんも落とすからの」と物騒な台詞を口にしたかと思えば、パウリーを抱えて先ほどと同じように地を蹴った。パウリーは命綱と化した紙袋をひしと抱くのに精いっぱいで、傘は落としてしまう。
高度は先ほどより若干劣るが、軽やかさは変わらないのがパウリーは不思議だった。ひゅう、と耳の近くで風の音がする。後ろに撫でつけた金髪が風に靡いて乱れ、頬や目にかかるのでパウリーは顔をしかめる羽目になる。「パウリー。お前、重い」と睨んでくるカクを「お前、なんかそれ気持ち悪ぃぞ!」とどやせば、カクは少し考えて「確かに」と笑った。
飛んでいるのか、浮いているのか、ゆっくり落ちているのか、パウリーにはわからない。わからないまま、手ごろな家の屋根に着地すると、カクが「おお、雨がやむぞ」と傘をたたんで、海の方を指差した。
水平線の上、雨雲の切れ間から太陽がのぞいている。雨雲がゆっくり流れていき、青の面積が増えていく。パウリーはふと横に並び立つカクを見る。カクの黒い瞳に太陽の光が吸い込まれていくのを見る。すると、カクが急にパウリーの方に顔を向けた。パウリーは自分がカクの横顔を見ていたことに気づかれたのではと、内心ぎくりとする。カクは気づいているのかいないのか、特にそれを話題にすることはなかったが、話題にされる前にとパウリーが慌てて取り繕う。
「ルッチも休みなんだろ? 誘って飯でも行かねえか?」
「どうせ明日には仕事で会うじゃろうに」
「誘わないと明日拗ねるだろう?」
「それもそうか」
パウリーは、まだ誘っていないカクが、すでにこのまま自分と食事するつもりになっているのに気づいて、気づかれないように口の端だけで笑った。気づかれると、またカクが怒るから本当にそっと。
「夏がくるのう。そういえばパウリーの誕生日もそろそろじゃな」
「ああ、そうだな……」
「何か欲しいものは」というカクの言葉にパウリーが「金」と即答すると、呆れた顔のカクに睨まれた。
「絶対にやらん。お前にやるくらいなら海に捨てたほうがマシじゃ」
「そこまで言うか!?」
「少しは胸に手を当てて考えてみい!」
「ひでえな。それが友達の言い草か?」
「まあ、それはさておき。何かあるか? 給料日のすぐあとなら奮発するぞ」
「そうだな……」
◆
目を、開ける。
パウリーは徐々に覚醒してきた頭を振って時計を見た。朝の五時少し前。窓から差し込むのは鋭い日差し。昨日脱ぎ捨てたままの服。
ああ今のは。幸か不幸か、おれはこれが夢だと知っている。遠い昔の夢だと知っている。あの後に続く言葉は。
『これからずっと、じいさんになっても、お前らと騒げたらそれで十分だ』
『なんじゃ、それなら簡単じゃな!』
幸せな夢だった。
「簡単だって、言ったじゃねえかよ。あいつ」
なにが本当だったのか、もうパウリーにはわからない。
おしまい
← →
初めて耳元で響いた言葉は思いもよらぬ言葉で、私は急接近を喜ぶ暇もなく、なんで、とただそれだけ思った。
豪雨
風が強くなるのに比例して、コンコン、コンコン、という音も町中から響くようになってきた。家のドアに鉄戸をはめ、隙間に麻を詰めていく音だ。これを聞くと、アクア・ラグナがくるんだなと実感する。
私の部屋の避難準備は、大家さんが請け負ってくれることになった。アクア・ラグナからの避難自体は歳の数からマイナス五回はしているが、五年ぶりの避難だったし、「家」に対する避難準備を一人でやったことはなく、正直きちんと部屋を守れるか内心とても不安だったから、とてもありがたい申し出だ。
本当はパウリーを頼ろうかと思っていたのだが、このタイミングの『暗殺海賊』。市長が暗殺されかけたというニュースが島を騒がすこの日に、市長、もとい、社長を慕っているパウリーを頼ることはやめておきたかったし、そもそもできない相談だったろう。大家さんには感謝が尽きない。
大家さんからは、お昼前には荷物をまとめて、避難所に行くように言われていた。お昼過ぎには鉄戸をはめてしまうからと。それまでに荷物をまとめねば。春先に越してきたばかりだったから、物はそう多くないが、避難準備の勝手を忘れてしまっていて、何があれば便利だったっけ? などともたもたしているうちにもう約束の時間だ。
壁に貼っていたカードを外して、折れないよう大事に鞄に詰め込む。最後にもう一度だけ部屋を見回して、ドアを閉めた。
◆
造船工場のどのドックに避難しても変わらないのだろうけど、なんとなく、馴染みの一番ドックを選んでしまったのが間違いだったかもしれない。一番ドックは避難所としても人気なのか、もうほとんどのスペースが埋まっていて、私は仕方なく入口近くに空いていたスペースに落ち着くことにした。人の出入りが多いために空いていたのだろうが、避難が終わり、扉が閉ざされればそこまで気になることもないだろう。
周りは家族連れやご夫婦が多い。もしかしたら、年代とか、一人暮らしだとか、住んでいるそれぞれの町や区画かなんかで、避難するドックがなんとなく決まっているのかも、と今更ながらの気づきがある。場違いだったかな、と気になり、子供の頃はどこに避難していたっけ、と思い返してみる。
これまでの避難といえば呑気なものだった。時間帯にもよるけれど、大抵は避難所に一泊することになるので、ちょっと非日常的なイベント、お泊り会、みたいな感じで、子供の頃は不謹慎だがワクワクしたのを思い出す。パウリーの家族と連れ立っていくことがほとんどだったから、おのずとパウリーが一緒にいるのが常だった。
祖母とパウリーのご両親、パウリーがそばにいて、避難所だったけどそこにはいつもの日常に近いものがあった。おばさんは、いつも私と祖母の分のパニーニも作ってくれて、ピクニックのように過ごしたのを思い出す。みんなでカードゲームをして、パウリーはよく無茶な勝負に出ては負けていた。悔しそうにするパウリーをなだめ、明かりが落ちるのに合わせて、続きはまた明日とタオルケットにくるまる。暗くなると一転、馴染みのない天井と知らない人の息遣い、衣擦れの音。なかなか寝付けなくて、朝方にようやくうとうとした。毎回、寝付いたくらいに起こされる羽目になり、外に出ると決まってからりと晴れた空だったから、眩しさが恨めしかった。快晴の下、カードゲームの続きをすることはない。そうしてまた次のアクア・ラグナがくる。
十代後半ともなると、特に男の子たちは、さすがに家族、両親と一緒に寝る、なんてことはなく。辛うじてご飯は一緒に食べていたが、食べ終わると、ふらりと避難所の隅に集まってたむろしていた。そんな光景は珍しいものではなかった。
でも、前回の避難は、久しぶりにパウリーが隣にいてくれた。祖母がいなかったからだ。
そうか。一人でする避難は、生まれて初めてだ。
はた、と気づいて、不安がじわじわと募る。
ここまで水が流れ込んでくることは、きっとない。でも、部屋は裏町だから確実に水に浸かるだろう。避難準備は大家さんがやってくれたから大丈夫。とはいえ、アクラ・ラグナの規模によっては……。大事なものは全部持ってきた。母と祖母の写真。パウリーからもらったカード。それから。
大丈夫、大丈夫。島全体が水に浸かるわけじゃない。万一、ここにまで水が迫るようなら、その前にちゃんと避難指示が出る。部屋だって、もし浸かって駄目になってもまた探せばいい。買い直せないものは全部持ってきている。持ってきているはずだ。
どっどっどっど。思えば思うほど制御できない自分の心臓の音で、さらに焦っていく。大丈夫、大丈夫。先ほどから飽きるほど言い聞かせているのに、身体は言うことを聞かない。心細さが限界に達し、膝を身体に引き寄せてぎゅっと抱えた。
自分のつま先を見つめていたら、縮こまる私を人影がさっと覆って、上から知った声が降ってきた。
「地元っ子じゃろ? そんなに震えてどうしたんじゃ」
◆
「なんでいるの!?」
「パウリーが心配しとっての」
突然現れたカクさんは何でもないふうにさらっと言った。私をまっすぐ見下ろす丸い瞳と目が合って、心臓が別の意味で跳ねる。おかげで、先ほどまでの嫌な動悸が一瞬でおさまった。息を整えるために、長く吐く。
「事件は……。今日は……、職長が会社を離れてたらまずいんじゃ」
「そうそう。じゃからパウリーはどうしても外せんくてのう。わしが代わりに」
抜けてきた、と歯を見せるカクさんに、肩の力が抜けていく。こわばりがほぐれ、あたたかい血がじわっと身体をめぐっていくような気がした。カクさんは「ったく、海賊どもめ」と悪態をつきながら私の隣に腰を下ろす。元々、手狭なスペースだったので身を寄せ合うようになり、長い手足を一生懸命おさめて座るカクさんは新鮮だった。「もっとこっちに寄っていいよ」とは下心があるせいで、とても言えない。
「大変な時に申し訳ないけど……嬉しい。ありがとう。一人の避難は初めてで不安だったの」
「やっぱりのう。ウカちゃんは怖がりじゃなあ。寝るまで側にいてやらんと」
からかい混じりの、でもどきりとする発言に、元気が戻ってきた私はちゃんと受けて立つ。
「寝るまでって……! カクさんって、ちょいちょい私を小さい子供みたいに扱うよね? 私、カクさんよりお姉さんなんですけど?」
唇を尖らせ、頬を膨らますとカクさんは「ぷっ」と吹き出し、口元を手で覆った。明らかに馬鹿にされている。
「お姉さんって。ウカちゃん、パウリーと同い年じゃろう? あの、パウリーと」
「ちょっと待って、聞き捨てならないんだけど。私って、パウリーと同じくくり?」
「違うのか?」
下から覗き込まれるように見つめられて、私は二の句が継げなくなる。
「さっきも震えとったじゃろ。小さい子供みたいに」
とどめだ。
仰るとおりです、としぶしぶ負けを認めると「素直でよろしい」と飴をもらった。間をあけずに口に放り込んだらバナナミルク味で、ころころと口の中で転がし優しい甘さを楽しんでいると「やっぱり子供みたいじゃのう」と大人の微笑を向けられる。
気恥ずかしさを紛らわせるように、奥歯でがり、と飴玉を砕きながら話題を探した。
「カクさんは避難したことある?」
「わしは造船島に部屋を借りとるからのう。あ、でも島に来たばかりの頃、一回だけパウリーに付き合ってしてみたな」
何事も経験じゃし、と続けたカクさんの言いぶりが少し寂しかった。なぜだろう、カクさんの言葉には、どこか根無し草のような風情があった。ここは船大工にとって憧れの島かもしれないが、腕を磨いて故郷に帰る人だっているのだから、仕方ないのかもしれない。
遅まきながらようやく気付いた。カクさんは、いつかこの島からいなくなるのかもしれない、と。思いついたら途端に、それが身に迫るような気持ちになって、もどかしくなる。
「カクさん、あの、私ね」
カクさんのこと、好きになっちゃったんだけど。
言ってしまおうと息を吸った瞬間、不意に明かりが消えて、吸った息は「わっ」というちょっとした悲鳴に変わった。なんだ、どうしたと周りもざわつく。挫かれた心を立て直してもう一回、息を。
「──ッ⁉」
告白は失敗に終わった。
隣に座っていたカクさんが私の肩を抱くように両腕を回し、首に、耳に、息がかかる距離まで顔が近づいているのが分かったからだ。カクさんが静かに息をしているのが肌で分かった。
心臓が体全部を揺らしているんじゃないかと心配になる。触れている肩から、胸の高鳴りがばれてしまうのではと。下手に動くと、触れ合う場所が増えたり減ったりしそうで、結局ただ身体を強張らせることしかできなかった。
でも、嬉しかった。
「か、カクさん……?」
やっとの思いで名を呼ぶ。長い沈黙に感じたけど、おそらく一瞬だった。
私はたぶん頬を染めていた。暗闇でなければ、緩む口元を手で覆って隠していたに違いない。好いていた人から暗闇で抱きすくめられて、私は初恋が実ったのだと無邪気に喜びながら、暗闇で良かったと心から思った。
「すまんの」
だから、カクさんが何を言っているのかわからなくて、目を見開くだけに終わった。
「パウリーを、よろしく」
カクさんが言い終わるや否や、すぐに明かりがついて、そしたらもうカクさんはいなくて、私の隣がただぽっかり空いていた。ぬくもりも残っておらず、カクさんは本当にいたのか、それすら疑わしい。でも、私の手の中には飴の包み紙がくしゃりと丸まっていた。
脳内でカクさんの言葉がリフレインする。
『すまんの。パウリーを、よろしく』
私のことはどうやらこれっぽっちも、気にしてないみたいだ。
「さよなら」と言われたわけではないのに、そうとしか聞こえなくて、私の初恋は完全に行き場を失った。
さよなら、初恋。
おしまい
← →