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カテゴリ「ONEPIECE」に属する投稿[107件](4ページ目)
残り香の幽霊 #カク
突然借主がいなくなった大家さんが困っていたし、ちょうど新しい部屋を探さなきゃいけなかったところだし、家賃も払えない額じゃないし、とたくさんの言い訳をして、私はカクが住んでいた部屋に住むことにした。大家さんは本当にいいの? と心配そうだったけど、そのときの私はどうしてもそうしたかった。カクの部屋で確かめたいことがあったから。
今年のアクア・ラグナは本当にひどかった。備えはしていたがそれを上回る規模の高波で、いつもなら浸水しないエリアにあったはずの私の部屋も見事に水に浸かってしまい、住み続けるのは難しくなってしまったのだ。どうしようかと困って、ひとまずカクの部屋を訪ねてみたらカクの部屋の前で腕を組んだ女性に出くわした。母と同じくらいの歳だろうか。どうされました? と尋ねた私は大層呑気な顔をしていただろうなと思う。
女性はこの部屋の大家だといい、あなた恋人なのよね? 本当に? と何度も確認した後、とても言い辛そうに、カクの退去を告げた。タイキョ? と言葉を飲み込めない私に、大家さんは追い打ちをかける。家具の処分にでも使ってほしい、とカクからまとまったお金と手紙が届いていたのだそうだ。あなた何も知らないのよね? 本当にいいのかしら、困ったわあと額に手を当てて俯く大家さんに、私が代わりに住んでもいいですか、というまでそう長い時間はかからなかった。
大家さんは、次の部屋が見つかるまでの拠点にしたらいいわ、と私を大層気の毒がって快く承諾してくれた。アクア・ラグナで家を失い、同じタイミングで恋人も去った私はさぞ可哀相な人間だったろう。私の荷物は避難所に持ち込んだ荷物だけになったから、引っ越しはすぐに済んだ。カクの部屋にはダイニングテーブルやベッドみたいな大きな家具がそのまま残っていたけど、服や本、食器の類は大方処分されていて、しんとした佇まいだった。自分のたてる物音がやけに響く。
カクと最後に会ったのはほんの二日前。私が避難の支度を終えて避難所に向かおうとしていたときだ。数日前から、海賊が市長の命を狙っているらしく、街の人も、ガレーラカンパニーの職人たちもみんなピリピリしていた。カクは職長だったから一層忙しかっただろうに、短い時間だったけど会いに来てくれたのだ。その時は、退去のことなんてもちろん一言も言ってなかったけど、この片付きようは一朝一夕で出来るものじゃない。カクは前々から準備していて、自分の意志でいなくなったんだ、と改めて思い知らされた。
とはいえ、そもそもカクはあまり物を持っていなかった。
カクの部屋の方が高台にあって景色も良かったのに、カクは私の部屋に来たがった。今思うと、自分の部屋にあまり来てほしくなかったのかもしれない。私がカクの部屋に入ったのは通り雨に振られてびしょ濡れになったあの日だけだ。部屋に入れてほしいとは、かえって言い出せなかった。断りにくいだろうこの状況で言い出すのは卑怯な気がしたから。けれど、カクはこちらが拍子抜けするくらい呆気なく部屋に招き入れてくれた。おずおずと遠慮がちにお邪魔したカクの部屋は、なんだか生活感がなくてびっくりしたけど、それを言葉にしてはいけない雰囲気があって、結局黙って借りたタオルで頭を拭いた。タオルはちょっとごわごわしていて、でも、カクの服と同じ石鹸の香りがして、そこでようやく、カクもここで生活しているんだなと安心したのを覚えている。
ひとまず、引き出しや戸棚の類をすべて開けてみる。開けても開けても当たり前のようにからっぽで、そろそろ飽きてきたという頃にそれは姿を見せた。見つけた、というべきなんだろうけど、出てきた、というのが私の気持ちに近かった。
「なんで、これが」
春先に一緒に買った香水だった。上の方の戸棚にあったのは、カクなら難なく届くからなのか、とりあえずしまい込んでいて存在を忘れたのか、なんとも判断しづらい。落とさないようにそっと手に取ると、香水にしては素っ気ない試験管のような細身のボトルが手に馴染む。
サン・ファルドで開催される仮装カーニバルにあわせて、ウォーターセブンの商店街にも色んなグッズが並ぶ。その香水は、そんな時期に露店で見かけて、柄じゃない、というカクを、こういうの夢だったのと言いくるめて買ったもの。少量で手ごろな価格だった。ナノハナから仕入れているんですよと声をかけてきた店主は商売っ気のない品のいい紳士で、香水に馴染みがない私たちに、つける場所や量なんかを色々教えてくれた。その語り口のおかげか、最初は渋々といった様子だったカクも、二つ、三つと手に取って試してみてくれる。
『カク! これすごいよ、パンの香りだ! パンの匂いがする』
『嘘じゃろ……食べ物の匂いって……』
『……』
『パンじゃな』
『ね~? でもちゃんといい香りだね。すごいね』
最初は興味なさげだったカクも、最後には土や石、木の根や苔をベースにした香りを、私はイチジクやザクロといった果実をベースにした香りを選んだ。ほう、と店主から声が漏れる。二人できょとんとしていると、店主はにこにこしながら、こう教えてくれた。お二人がそれぞれ選んだ香りはペアフレグランスとして使えるくらい互いに相性がいい香りなんですよ、と。ペアフレグランスと言われてもぴんとこない私たちに、店主はもっとわかりやすく、互いが互いを高めあってより良い香りになる組み合わせですと説明してくれた。私はようやくそこで舞い上がったし、カクもなんだか照れ臭そうだった。
私は香りも思い出も込みで気に入り、カクに会う時は必ず使った。今回の避難でも、使えないけどお守りみたいにバッグに入れて持って行った。でも、カクの方はというと、使ってくれたんだと思えたことはなかった気がする。
だから、戸棚の隅からそっと取り出した香水が、わずかに、でも確かに減ってるように見えたとき、カクが使った? いつ? と食い気味に思った。カクがつけていたのに私が気づかなかったのか。それとも部屋でつけてみて、やっぱり違う、趣味じゃないと思ったのか。わずかにでも減るくらいには、何度か試してくれたのか。
もう何も聞けないし、わからない。
でも、聞いたところでわかるだろうか。やっぱり趣味じゃなかった香水みたいに、本当は苦手でも、カクはそれを悟らせなかったかもしれない。私はカクの何を知っていたんだろう。少なくとも、こんなふうに別れる人だなんて思っていなかった。別れる……振られたんだろうか、私は。私はまだ、カクの退去、いや、失踪に気持ちが追いついていなかった。香水のボトルを目の前に掲げて液面を揺らさないように身体を硬直させる。やっぱり、減ってる。
いい香りだと思ったことも、カクに似合っていたと思ったことも覚えていたが、どんな香りだったかはうろ覚えだった。踏み台に使った椅子に腰かけながら、何もない目の前の空間に香水をワンプッシュする。たちまち香りが広がり、そうだ、そうだ。こんな香りだった、と思い出す。華やかでも爽やかでもないけど、ちょっと地味だけど、穏やかで優しい、大地と木の香りがふわっと香る。木で船を造っている、おじいちゃんみたいなカクにぴったりだと思ったことを思い出した。カクの照れた笑顔もセットで浮かんできて、じんわり目が濡れた。慌てて、ずっ、と鼻をすする。カクは、内心無理してたのかもしれないけど笑顔ではあった。なんで、どうして。聞きたいことはたくさんあるのに、もう二度と聞けないんだと思ったら、いつまでも目はじとじとと濡れ続けた。
カクのいないこの部屋のどこに焦点を合わせていいのかわからないまま、もうワンプッシュだけ、と外したキャップをしばらくそのまま握りしめていた。
どれくらいそうしていたかわからないが、胃がぎゅうと縮んでぐうう、と音を立てたところで、ハッとしてお腹をさすった。そういえば、朝から何も食べていない。水を飲むためのコップもない。食欲はあまりないけど、とりあえず何か買ってくるかと近くの商店街へ向かった。
カクの部屋があるエリアは浸水しなかったので、ほとんどいつも通り営業していた。浸水したエリアの住民も来ているのか、いつもより人が多い。人と人との間隙を縫うように目当てのパン屋に向かう。ドアを押すと、いつものドアベルがカランカランと鳴り、いらっしゃいと声がかかる。おなかはすいていないけど、いつもの習慣でローストポークのサンドイッチを手に取ってしまった。それもふたつ。ふわふわのパンにきゅうりとレタス、やわらかいローストポークがサンドしてあって、バーベキューソースとマヨネーズのバランスがとてもいい。カクとふたりでよく食べたパンだ。余分なひとつを戻すことも出来ず、諦めて会計をする。
「今日はひとり? 珍しいね」
「ああ、ええ、まあ」
「そうか、ガレーラカンパニーの人らはしばらく忙しいよね。これおまけだよ」
サンドイッチがふたつ入った紙袋に追加で入ったのは一口サイズのクロワッサンだった。シロップが塗ってあって、ほの甘いパン。カクはコーヒーと一緒につまむのが好きでそれもよく買っていたから、このおまけは忙しいであろうガレーラカンパニーの人、つまりカクへの労いだろう。要りませんとも言えず、お礼を言って店を後にした。
そのあとも立ち寄る店々で声がかかる。内容はパン屋さんの時と似たり寄ったりだ。カクの不在をことさら強調されるようでしんどく後悔しはじめる。うんざりした気持ちで、商店街のメインストリートから一本横に入ると、急に知らない景色になりかえって安心した。それなりの荷物を抱えながらうろうろしてから、カクと来た覚えがないカフェに立ち寄った。もう隣にいないカクの話題を振られたくない。
「あれ? おひとりですか?」
入店して早々、やけに馴れ馴れしい店主に出鼻をくじかれた。ひとりですが、と訝し気に応じると、店主は、すみませんすみません、と簡単な謝罪を重ねる。
「いえね、カクさんが今度はウカさんも連れてくるって言うもんだからつい」
「カクが?」
聞くと、ここはカクがこの島に来た頃からずっと通っていたお店らしい。私のことは、カクと一緒にいるところをよく見かけており一方的に知っていたので声をかけてしまったのだと。
「ウカさんのことはカクさんからよく話を聞いていたので、勝手に知った気になってしまって。すみません」
「……カクはそんなに私の話をしてたんですか?」
「僕がウカさんと初対面ではないと勘違い出来るほどには」

その日見た夢は奇妙な夢だった。カクは見たことのない真っ黒な服を着てこの部屋のダイニングテーブルに座りテーブルの上の香水を見つめていた。ボトルに手を伸ばしたところで、やめておけ、と男性の声が響く。男性の姿は見えない。
『そんなもの、仕事に差し支えるだろ』
わかっとるわい、仕舞おうとしただけじゃ、とカクが応じた。カクと会ってないのはほんの二日程度なのに懐かしくて仕方がない。カクは香水のボトルを弄ぶように右手に左手にと持ち替えていた。
『あなたが香水なんて、どうしちゃったの?』
今度は女性の声だがやはり姿は見えず、私はただ、なんだこの女は、と眉間に皺をよせた。夢は、壁の穴から覗いているように固定された視界で、自由に見たいところを見られるわけでも、こちらの声が届くわけでもないようだった。ただ彼らのやりとりを穴から見える範囲で覗き聞き耳を立てるだけ。
『別にいいじゃろ。お洒落じゃ、お洒落』
『あの女と揃いで買ったんだと』
『……なんで知っとるんじゃ』
『隠し通せるとでも思ってたのか?』
男性の声には明らかに呆れや侮蔑の色があり、なんだこの男は、と拳に力が入る。
『素敵じゃない。使ってる?』
カクを庇うような女性の声に、私は少しだけ彼女に気を許した。
『いや』
そう言ったカクが申し訳なさそうに見えたのは、そうだったらいいのにと思う私の勘違いだろうか。
『どうして?』
『なんじゃろうな、目立つ、気がする』
カクの言い分はさっぱりわからない。女性は少し間を覆いて、賢明ね、と言った。なぜそのように評されるのかわからない、という顔で女性の声がする方を見つめるカクが見える。女性は諭すような声音だった。
『香りの記憶は色褪せないわ。あなたにその覚悟がある?』
『覚悟』
『彼女、きっとあなたのこと忘れられなくなるわよ』
その香りで、彼女はきっとあなたを思い出す。
目が覚めた私は、一瞬、どこまでが夢でどこからが現実かわからなくなった。さっきまでそのダイニングテーブルに彼らがいたような錯覚に陥り、何度も目をこする。こするほど、ついさっきまで見ていた夢なのにどんどん記憶が曖昧になっていく。カクと、知らない人が何かしゃべっていた。カクも知らない人みたいだった。思い出そうとすればするほど、まったく思い出せないことがわかって焦るのだが、取りこぼしこぼれていく記憶を自分ではどうすることもできない。
手で顔を覆いながら、指の隙間からベッドサイドに置いた香水に目を留める。なんで香水は処分せずに置いていったんだろう。いや、今となっては『置いていったのか』すらわからない。しまい込んで忘れてしまった、というのが一番自然な気がした。
私はこの部屋で確かめたかっただけだ。カクは本当にもう帰ってこないのか。実はあっさり帰ってくるんじゃないかって。ほとんど使ってない香水を見つけに来たわけじゃない。タオルケットを乱暴に引き寄せて滲んだ涙を拭うと、いつかのタオルと同じ石鹸の匂いがした。こんなに物が少ないのに、容赦なくカクの気配がするとは何事なんだと、また涙が押し寄せてくる。
そのうち目の端にちらつく香水がやけに腹立たしくなってきて、こんなもの! と手に取り振りかぶった。が、それを床に叩きつけるにはどうしても至らなかった。それもまた悔しいような、負けたような、惨めな気持ちになり、今度は、ううう、と声をあげながら泣いた。カクがいなくなってからはじめてちゃんと泣けた気がした。泣きながらいつの間にか疲れ果て眠ったようだが、もう夢は見なかった。

朝の光は偉大だ。浴びていると、ましな答えを出すのに一役買ってくれる。
カーテンのない窓からは容赦なく朝日が差し込んできて、半ば強制的に起こされる羽目になった。目が開かないのは眠いからではなく、腫れているからだろう。枕元に転がる香水に目を落とす。
ひとまず、カクの香水はしまっておこう。これは、今の私にはいい影響を与えない。かといって、今はまだ自分の手で処分する気にもなれない。とりあえず、あったところに戻すことにして、のろのろとベッドから降りた。椅子を持ってきて、戸棚を開ける。
別にどこに仕舞っても良かったのだが、どうせなら同じ場所に、と奥を覗くと隅に小さな紙切れがあるのが見えた。昨日は香水に気を取られて気づかなかった。なんだろう、と手をぐっと伸ばして指の先で捉える。爪の先でカサ、カサ、とかすってから、なんとか掴めた紙切れは、メモみたいな走り書きだった。目で追うほどでもない短い文章。理解して、え、と思ったときには、椅子から転げるように走りだして、荷物を入れたボストンバッグに飛びついた。大して多くない荷物を片っ端から取り出して、確かめて、放り投げる。ない、ない、ない。空になったボストンバッグを逆さまにして叩いて、散らかした荷物をまたかき集めて一つ一つ確かめて、バッグに入れたはずの『それ』がないことを確信した。
きっとあのときだ。避難所に向かう前、ほんの少し会ったとき。あのときしか。
「全然、意味わかんない」
カクの言葉は相変わらずさっぱりだったけど、床にへたり込んだ私はまた、私しかいない部屋にカクの香水をワンプッシュした。自然と口角が上がる。それを手でおさえた。視界が滲んでぼやけ、その分香りが一層際立つ。私は大きく息を吸い込んだ。
『すまんの。これは置いていくから、しばらくウカのを貸してくれ』
その香りで、きっとあなたを思い出す。
おしまい
突然借主がいなくなった大家さんが困っていたし、ちょうど新しい部屋を探さなきゃいけなかったところだし、家賃も払えない額じゃないし、とたくさんの言い訳をして、私はカクが住んでいた部屋に住むことにした。大家さんは本当にいいの? と心配そうだったけど、そのときの私はどうしてもそうしたかった。カクの部屋で確かめたいことがあったから。
今年のアクア・ラグナは本当にひどかった。備えはしていたがそれを上回る規模の高波で、いつもなら浸水しないエリアにあったはずの私の部屋も見事に水に浸かってしまい、住み続けるのは難しくなってしまったのだ。どうしようかと困って、ひとまずカクの部屋を訪ねてみたらカクの部屋の前で腕を組んだ女性に出くわした。母と同じくらいの歳だろうか。どうされました? と尋ねた私は大層呑気な顔をしていただろうなと思う。
女性はこの部屋の大家だといい、あなた恋人なのよね? 本当に? と何度も確認した後、とても言い辛そうに、カクの退去を告げた。タイキョ? と言葉を飲み込めない私に、大家さんは追い打ちをかける。家具の処分にでも使ってほしい、とカクからまとまったお金と手紙が届いていたのだそうだ。あなた何も知らないのよね? 本当にいいのかしら、困ったわあと額に手を当てて俯く大家さんに、私が代わりに住んでもいいですか、というまでそう長い時間はかからなかった。
大家さんは、次の部屋が見つかるまでの拠点にしたらいいわ、と私を大層気の毒がって快く承諾してくれた。アクア・ラグナで家を失い、同じタイミングで恋人も去った私はさぞ可哀相な人間だったろう。私の荷物は避難所に持ち込んだ荷物だけになったから、引っ越しはすぐに済んだ。カクの部屋にはダイニングテーブルやベッドみたいな大きな家具がそのまま残っていたけど、服や本、食器の類は大方処分されていて、しんとした佇まいだった。自分のたてる物音がやけに響く。
カクと最後に会ったのはほんの二日前。私が避難の支度を終えて避難所に向かおうとしていたときだ。数日前から、海賊が市長の命を狙っているらしく、街の人も、ガレーラカンパニーの職人たちもみんなピリピリしていた。カクは職長だったから一層忙しかっただろうに、短い時間だったけど会いに来てくれたのだ。その時は、退去のことなんてもちろん一言も言ってなかったけど、この片付きようは一朝一夕で出来るものじゃない。カクは前々から準備していて、自分の意志でいなくなったんだ、と改めて思い知らされた。
とはいえ、そもそもカクはあまり物を持っていなかった。
カクの部屋の方が高台にあって景色も良かったのに、カクは私の部屋に来たがった。今思うと、自分の部屋にあまり来てほしくなかったのかもしれない。私がカクの部屋に入ったのは通り雨に振られてびしょ濡れになったあの日だけだ。部屋に入れてほしいとは、かえって言い出せなかった。断りにくいだろうこの状況で言い出すのは卑怯な気がしたから。けれど、カクはこちらが拍子抜けするくらい呆気なく部屋に招き入れてくれた。おずおずと遠慮がちにお邪魔したカクの部屋は、なんだか生活感がなくてびっくりしたけど、それを言葉にしてはいけない雰囲気があって、結局黙って借りたタオルで頭を拭いた。タオルはちょっとごわごわしていて、でも、カクの服と同じ石鹸の香りがして、そこでようやく、カクもここで生活しているんだなと安心したのを覚えている。
ひとまず、引き出しや戸棚の類をすべて開けてみる。開けても開けても当たり前のようにからっぽで、そろそろ飽きてきたという頃にそれは姿を見せた。見つけた、というべきなんだろうけど、出てきた、というのが私の気持ちに近かった。
「なんで、これが」
春先に一緒に買った香水だった。上の方の戸棚にあったのは、カクなら難なく届くからなのか、とりあえずしまい込んでいて存在を忘れたのか、なんとも判断しづらい。落とさないようにそっと手に取ると、香水にしては素っ気ない試験管のような細身のボトルが手に馴染む。
サン・ファルドで開催される仮装カーニバルにあわせて、ウォーターセブンの商店街にも色んなグッズが並ぶ。その香水は、そんな時期に露店で見かけて、柄じゃない、というカクを、こういうの夢だったのと言いくるめて買ったもの。少量で手ごろな価格だった。ナノハナから仕入れているんですよと声をかけてきた店主は商売っ気のない品のいい紳士で、香水に馴染みがない私たちに、つける場所や量なんかを色々教えてくれた。その語り口のおかげか、最初は渋々といった様子だったカクも、二つ、三つと手に取って試してみてくれる。
『カク! これすごいよ、パンの香りだ! パンの匂いがする』
『嘘じゃろ……食べ物の匂いって……』
『……』
『パンじゃな』
『ね~? でもちゃんといい香りだね。すごいね』
最初は興味なさげだったカクも、最後には土や石、木の根や苔をベースにした香りを、私はイチジクやザクロといった果実をベースにした香りを選んだ。ほう、と店主から声が漏れる。二人できょとんとしていると、店主はにこにこしながら、こう教えてくれた。お二人がそれぞれ選んだ香りはペアフレグランスとして使えるくらい互いに相性がいい香りなんですよ、と。ペアフレグランスと言われてもぴんとこない私たちに、店主はもっとわかりやすく、互いが互いを高めあってより良い香りになる組み合わせですと説明してくれた。私はようやくそこで舞い上がったし、カクもなんだか照れ臭そうだった。
私は香りも思い出も込みで気に入り、カクに会う時は必ず使った。今回の避難でも、使えないけどお守りみたいにバッグに入れて持って行った。でも、カクの方はというと、使ってくれたんだと思えたことはなかった気がする。
だから、戸棚の隅からそっと取り出した香水が、わずかに、でも確かに減ってるように見えたとき、カクが使った? いつ? と食い気味に思った。カクがつけていたのに私が気づかなかったのか。それとも部屋でつけてみて、やっぱり違う、趣味じゃないと思ったのか。わずかにでも減るくらいには、何度か試してくれたのか。
もう何も聞けないし、わからない。
でも、聞いたところでわかるだろうか。やっぱり趣味じゃなかった香水みたいに、本当は苦手でも、カクはそれを悟らせなかったかもしれない。私はカクの何を知っていたんだろう。少なくとも、こんなふうに別れる人だなんて思っていなかった。別れる……振られたんだろうか、私は。私はまだ、カクの退去、いや、失踪に気持ちが追いついていなかった。香水のボトルを目の前に掲げて液面を揺らさないように身体を硬直させる。やっぱり、減ってる。
いい香りだと思ったことも、カクに似合っていたと思ったことも覚えていたが、どんな香りだったかはうろ覚えだった。踏み台に使った椅子に腰かけながら、何もない目の前の空間に香水をワンプッシュする。たちまち香りが広がり、そうだ、そうだ。こんな香りだった、と思い出す。華やかでも爽やかでもないけど、ちょっと地味だけど、穏やかで優しい、大地と木の香りがふわっと香る。木で船を造っている、おじいちゃんみたいなカクにぴったりだと思ったことを思い出した。カクの照れた笑顔もセットで浮かんできて、じんわり目が濡れた。慌てて、ずっ、と鼻をすする。カクは、内心無理してたのかもしれないけど笑顔ではあった。なんで、どうして。聞きたいことはたくさんあるのに、もう二度と聞けないんだと思ったら、いつまでも目はじとじとと濡れ続けた。
カクのいないこの部屋のどこに焦点を合わせていいのかわからないまま、もうワンプッシュだけ、と外したキャップをしばらくそのまま握りしめていた。
どれくらいそうしていたかわからないが、胃がぎゅうと縮んでぐうう、と音を立てたところで、ハッとしてお腹をさすった。そういえば、朝から何も食べていない。水を飲むためのコップもない。食欲はあまりないけど、とりあえず何か買ってくるかと近くの商店街へ向かった。
カクの部屋があるエリアは浸水しなかったので、ほとんどいつも通り営業していた。浸水したエリアの住民も来ているのか、いつもより人が多い。人と人との間隙を縫うように目当てのパン屋に向かう。ドアを押すと、いつものドアベルがカランカランと鳴り、いらっしゃいと声がかかる。おなかはすいていないけど、いつもの習慣でローストポークのサンドイッチを手に取ってしまった。それもふたつ。ふわふわのパンにきゅうりとレタス、やわらかいローストポークがサンドしてあって、バーベキューソースとマヨネーズのバランスがとてもいい。カクとふたりでよく食べたパンだ。余分なひとつを戻すことも出来ず、諦めて会計をする。
「今日はひとり? 珍しいね」
「ああ、ええ、まあ」
「そうか、ガレーラカンパニーの人らはしばらく忙しいよね。これおまけだよ」
サンドイッチがふたつ入った紙袋に追加で入ったのは一口サイズのクロワッサンだった。シロップが塗ってあって、ほの甘いパン。カクはコーヒーと一緒につまむのが好きでそれもよく買っていたから、このおまけは忙しいであろうガレーラカンパニーの人、つまりカクへの労いだろう。要りませんとも言えず、お礼を言って店を後にした。
そのあとも立ち寄る店々で声がかかる。内容はパン屋さんの時と似たり寄ったりだ。カクの不在をことさら強調されるようでしんどく後悔しはじめる。うんざりした気持ちで、商店街のメインストリートから一本横に入ると、急に知らない景色になりかえって安心した。それなりの荷物を抱えながらうろうろしてから、カクと来た覚えがないカフェに立ち寄った。もう隣にいないカクの話題を振られたくない。
「あれ? おひとりですか?」
入店して早々、やけに馴れ馴れしい店主に出鼻をくじかれた。ひとりですが、と訝し気に応じると、店主は、すみませんすみません、と簡単な謝罪を重ねる。
「いえね、カクさんが今度はウカさんも連れてくるって言うもんだからつい」
「カクが?」
聞くと、ここはカクがこの島に来た頃からずっと通っていたお店らしい。私のことは、カクと一緒にいるところをよく見かけており一方的に知っていたので声をかけてしまったのだと。
「ウカさんのことはカクさんからよく話を聞いていたので、勝手に知った気になってしまって。すみません」
「……カクはそんなに私の話をしてたんですか?」
「僕がウカさんと初対面ではないと勘違い出来るほどには」
その日見た夢は奇妙な夢だった。カクは見たことのない真っ黒な服を着てこの部屋のダイニングテーブルに座りテーブルの上の香水を見つめていた。ボトルに手を伸ばしたところで、やめておけ、と男性の声が響く。男性の姿は見えない。
『そんなもの、仕事に差し支えるだろ』
わかっとるわい、仕舞おうとしただけじゃ、とカクが応じた。カクと会ってないのはほんの二日程度なのに懐かしくて仕方がない。カクは香水のボトルを弄ぶように右手に左手にと持ち替えていた。
『あなたが香水なんて、どうしちゃったの?』
今度は女性の声だがやはり姿は見えず、私はただ、なんだこの女は、と眉間に皺をよせた。夢は、壁の穴から覗いているように固定された視界で、自由に見たいところを見られるわけでも、こちらの声が届くわけでもないようだった。ただ彼らのやりとりを穴から見える範囲で覗き聞き耳を立てるだけ。
『別にいいじゃろ。お洒落じゃ、お洒落』
『あの女と揃いで買ったんだと』
『……なんで知っとるんじゃ』
『隠し通せるとでも思ってたのか?』
男性の声には明らかに呆れや侮蔑の色があり、なんだこの男は、と拳に力が入る。
『素敵じゃない。使ってる?』
カクを庇うような女性の声に、私は少しだけ彼女に気を許した。
『いや』
そう言ったカクが申し訳なさそうに見えたのは、そうだったらいいのにと思う私の勘違いだろうか。
『どうして?』
『なんじゃろうな、目立つ、気がする』
カクの言い分はさっぱりわからない。女性は少し間を覆いて、賢明ね、と言った。なぜそのように評されるのかわからない、という顔で女性の声がする方を見つめるカクが見える。女性は諭すような声音だった。
『香りの記憶は色褪せないわ。あなたにその覚悟がある?』
『覚悟』
『彼女、きっとあなたのこと忘れられなくなるわよ』
その香りで、彼女はきっとあなたを思い出す。
目が覚めた私は、一瞬、どこまでが夢でどこからが現実かわからなくなった。さっきまでそのダイニングテーブルに彼らがいたような錯覚に陥り、何度も目をこする。こするほど、ついさっきまで見ていた夢なのにどんどん記憶が曖昧になっていく。カクと、知らない人が何かしゃべっていた。カクも知らない人みたいだった。思い出そうとすればするほど、まったく思い出せないことがわかって焦るのだが、取りこぼしこぼれていく記憶を自分ではどうすることもできない。
手で顔を覆いながら、指の隙間からベッドサイドに置いた香水に目を留める。なんで香水は処分せずに置いていったんだろう。いや、今となっては『置いていったのか』すらわからない。しまい込んで忘れてしまった、というのが一番自然な気がした。
私はこの部屋で確かめたかっただけだ。カクは本当にもう帰ってこないのか。実はあっさり帰ってくるんじゃないかって。ほとんど使ってない香水を見つけに来たわけじゃない。タオルケットを乱暴に引き寄せて滲んだ涙を拭うと、いつかのタオルと同じ石鹸の匂いがした。こんなに物が少ないのに、容赦なくカクの気配がするとは何事なんだと、また涙が押し寄せてくる。
そのうち目の端にちらつく香水がやけに腹立たしくなってきて、こんなもの! と手に取り振りかぶった。が、それを床に叩きつけるにはどうしても至らなかった。それもまた悔しいような、負けたような、惨めな気持ちになり、今度は、ううう、と声をあげながら泣いた。カクがいなくなってからはじめてちゃんと泣けた気がした。泣きながらいつの間にか疲れ果て眠ったようだが、もう夢は見なかった。
朝の光は偉大だ。浴びていると、ましな答えを出すのに一役買ってくれる。
カーテンのない窓からは容赦なく朝日が差し込んできて、半ば強制的に起こされる羽目になった。目が開かないのは眠いからではなく、腫れているからだろう。枕元に転がる香水に目を落とす。
ひとまず、カクの香水はしまっておこう。これは、今の私にはいい影響を与えない。かといって、今はまだ自分の手で処分する気にもなれない。とりあえず、あったところに戻すことにして、のろのろとベッドから降りた。椅子を持ってきて、戸棚を開ける。
別にどこに仕舞っても良かったのだが、どうせなら同じ場所に、と奥を覗くと隅に小さな紙切れがあるのが見えた。昨日は香水に気を取られて気づかなかった。なんだろう、と手をぐっと伸ばして指の先で捉える。爪の先でカサ、カサ、とかすってから、なんとか掴めた紙切れは、メモみたいな走り書きだった。目で追うほどでもない短い文章。理解して、え、と思ったときには、椅子から転げるように走りだして、荷物を入れたボストンバッグに飛びついた。大して多くない荷物を片っ端から取り出して、確かめて、放り投げる。ない、ない、ない。空になったボストンバッグを逆さまにして叩いて、散らかした荷物をまたかき集めて一つ一つ確かめて、バッグに入れたはずの『それ』がないことを確信した。
きっとあのときだ。避難所に向かう前、ほんの少し会ったとき。あのときしか。
「全然、意味わかんない」
カクの言葉は相変わらずさっぱりだったけど、床にへたり込んだ私はまた、私しかいない部屋にカクの香水をワンプッシュした。自然と口角が上がる。それを手でおさえた。視界が滲んでぼやけ、その分香りが一層際立つ。私は大きく息を吸い込んだ。
『すまんの。これは置いていくから、しばらくウカのを貸してくれ』
その香りで、きっとあなたを思い出す。
おしまい
三百三十六回目の太陽 #カク #パウリー #ルッチ
あと、三百六十五回。
「カクー!」
帰路につこうとしていたそのとき、この四年で聞き馴染んでしまった声に名を呼ばれた。声の調子で酒の誘いだろうとわかる程度には、馴染んだ。今日は疲れているのに、と渋々振り返ればもちろん知った顔だったし、次に続く言葉もやはり。
「飲みに行くぞ!」
だった。しかし、歯を見せ陽気な男の隣に仏頂面の長髪男がいたのは予想外だった。そいつとその肩に乗るハトは、まさか断るつもりか貴様、と表情だけで圧をかけてくる。
ああ、疲れていたのに。読みたい本があったのに。さっさとシャワーを浴びて寝るのも良いし、アルコールよりはコーヒーがよかった。洗濯だってたまっているし、明日も早い。それなのに。
「仕方ないのう」
という答えしか持ち合わせていない自分を呪った。それを聞いたパウリーが、よし! 決まりだな、歯を見せて笑い、先に立って歩く。その背中を追うように、家とは真逆の方向に重い足を引きずった。
「ところで金はあるのか?」
店は相談せずとも決まり切っていたので、三人とも同じ方向に歩を進めていた。夕陽はぐっと傾き、これから始まる夜の賑わいが顔を出し始めている。昼の騒がしさとは違う夜の浮ついた空気は実を言うと好ましく感じているが、口に出したことはない。
「おう、今日は勝ったからな!」
「今日『は』。相変わらずじゃのう」
『懲りないやつだ、ポッポー』
「うるせえな! 勝利の宴だってのに水差すんじゃねえよ」
パウリーが肩に回してくる腕の重さがやけに煩わしい。そもそも、この男は体温が高いのだ。触れている部分がじんわり熱を帯びていくのが鬱陶しくてじろりと睨むが、当の男はこちらの不機嫌さは露知らず。能天気に笑っていた。
気づかれぬように深くため息をつく。そうだ、こういう男だった。
足元から伸びた長い影は三人分くっついて一つの大きな生き物にみえた。好き勝手にくねくねと動くそれは、一部は自分の影なのに自分の意志とは違う動きをしているように見える。影は随分楽しそうだ。思ってすぐ、くだらない、と一蹴する。
「ええい、暑苦しい!」
『同感だ。さっさとこの腕を下ろせ』
「つれねェやつらだな! 今日は誰が奢ってやると思ってるんだ」
軽口をたたきあっている間に太陽は呆気なく沈んだ。あと三百六十五回。三百六十六回目の太陽はここでは見ない。だが、それまでは。きっと隣で。
おしまい
あと、三百六十五回。
「カクー!」
帰路につこうとしていたそのとき、この四年で聞き馴染んでしまった声に名を呼ばれた。声の調子で酒の誘いだろうとわかる程度には、馴染んだ。今日は疲れているのに、と渋々振り返ればもちろん知った顔だったし、次に続く言葉もやはり。
「飲みに行くぞ!」
だった。しかし、歯を見せ陽気な男の隣に仏頂面の長髪男がいたのは予想外だった。そいつとその肩に乗るハトは、まさか断るつもりか貴様、と表情だけで圧をかけてくる。
ああ、疲れていたのに。読みたい本があったのに。さっさとシャワーを浴びて寝るのも良いし、アルコールよりはコーヒーがよかった。洗濯だってたまっているし、明日も早い。それなのに。
「仕方ないのう」
という答えしか持ち合わせていない自分を呪った。それを聞いたパウリーが、よし! 決まりだな、歯を見せて笑い、先に立って歩く。その背中を追うように、家とは真逆の方向に重い足を引きずった。
「ところで金はあるのか?」
店は相談せずとも決まり切っていたので、三人とも同じ方向に歩を進めていた。夕陽はぐっと傾き、これから始まる夜の賑わいが顔を出し始めている。昼の騒がしさとは違う夜の浮ついた空気は実を言うと好ましく感じているが、口に出したことはない。
「おう、今日は勝ったからな!」
「今日『は』。相変わらずじゃのう」
『懲りないやつだ、ポッポー』
「うるせえな! 勝利の宴だってのに水差すんじゃねえよ」
パウリーが肩に回してくる腕の重さがやけに煩わしい。そもそも、この男は体温が高いのだ。触れている部分がじんわり熱を帯びていくのが鬱陶しくてじろりと睨むが、当の男はこちらの不機嫌さは露知らず。能天気に笑っていた。
気づかれぬように深くため息をつく。そうだ、こういう男だった。
足元から伸びた長い影は三人分くっついて一つの大きな生き物にみえた。好き勝手にくねくねと動くそれは、一部は自分の影なのに自分の意志とは違う動きをしているように見える。影は随分楽しそうだ。思ってすぐ、くだらない、と一蹴する。
「ええい、暑苦しい!」
『同感だ。さっさとこの腕を下ろせ』
「つれねェやつらだな! 今日は誰が奢ってやると思ってるんだ」
軽口をたたきあっている間に太陽は呆気なく沈んだ。あと三百六十五回。三百六十六回目の太陽はここでは見ない。だが、それまでは。きっと隣で。
おしまい
襲撃の幕間 #カク #ルッチ #カリファ #ブルーノ #ニコ・ロビン
カリファがコーヒーを淹れ、彼女の前に置く。彼女は黒髪をひと房揺らして、ありがとう、と口を小さく動かし礼を言った。その様子を見ていたルッチがカリファを睨むが、カリファはルッチの視線に気づかない振りをする。
「ブルーノは?」
カクは二人の気を逸らそうとこの場にいない男の名前を出した。少し遅れると連絡があった、と言いながらルッチが広げるのは我が社の見取り図だ。
「はじめるぞ」
黒髪の彼女を除く全員が、ルッチがテーブル一面にひろげた紙を見やる。ニコ・ロビンは、我関せずといった素振りで新聞を開き、コーヒーを口に運んだ。 いよいよだ。
◆
ものすごい爆音が響いた。カリファめ、やりすぎじゃろと思う間もなくルルとタイルストンが一目散に駆けていく。待て! と形式的な制止をし、やれやれ、と取り繕って椅子に腰かけた。ルッチはまだ『ロブ・ルッチ』を全うしており何も言わない。
「派手にやっとるようじゃの」
「ああ」
気を抜くなと窘められるかと思いきや、ルッチは意外にもハットリを介さず声を発した。思わずルッチに顔を向けるが、やつはまっすぐ前を向いたままだ。諦めてカクも前を向く。眼前では、社長を慕う職人たちがバタバタと右往左往しており、アイスバーグを『護衛』しているこちらは見向きもされない。信頼。これが、この五年で自分たちが周囲から勝ち取ったものだ。そして間もなく、この任務の最終目標である紙束も手に入るはず。これらが『五年』に見合うものなのか、それは考えない。
時折思い出したかのように、異常はないか? と問うてくる職人に、ない、と返答しながら、何も知らない彼らの幸せに思いを馳せる。ここまで来てしまえば何やらあっけなくも感じ、カクは周囲の喧騒とはかけ離れた呑気さで、ここ最近の自分達を振り返る。
五年と言い渡されていた任務だが、別段、今日が期限だったわけでもない。そろそろ目途をつけなければ、と終わらせ方を模索していたところに、長官から直々に珍しく具体的な指令が下った。『近日中にウォーターセブンへ入港するニコ・ロビンと接触し俺が言う条件を突きつけろ』と。
「ニコ・ロビンは本当にわしらについてくるんじゃろうか」
「さぁな」
取りつく島もない返答はまごうことなき彼のもので、とても安心する。
段々と強さを増す血の匂い。大きくなる叫び声。増える爆音。意志を持った闇がどんどん獲物を追い詰めていく。
◆
「私が行くわ」
カリファは無機質に言った。その声音は、何も感じていないゆえのものではなく、何か感じていることを悟らせないような努力を思わせるものだった。ルッチは少しだけ考えるそぶりを見せた後、わかった、と承知した。それを聞いたカリファは、以降黙ってソファの上で膝を抱え、床の一点をぼうっと見ている。なににも拘束されない長い髪が、彼女の目元を少しだけ覆っていたので、カリファを見つめるカクとカリファの視線がかち合うことはなかった。ニコ・ロビンは部屋の隅で椅子に腰かけ、静かにコーヒーを飲みながら新聞に目を通している。彼女は暇さえあれば新聞を開いて、口を噤んでいた。
それならわしらが例のものを、と提案すると、ルッチが無言で本社兼アイスバーグ宅の図面に書き込みを入れる。刹那。
ふわ、と花の香りが鼻腔を掠めて、花弁が舞った。誰も座らない椅子の背もたれから生えた女の細腕が卓上の羽ペンを取り、図面に何か書きこんだ。ルッチがあからさまに大きな舌打ちをする。それに驚いたのはどうやらカクだけらしかった。話には聞いていた能力だったが、目の当たりにするのは初めてだ。部屋の隅のニコ・ロビンはカクの動揺に気づいたのかほんの少し口の端を持ち上げた。笑われたような気がして、すぐ目を逸らす。
◆
「信用していいのか?」
本社襲撃前の最後の打ち合わせが終わったところで、ニコ・ロビンに歩み寄り問うた。街中でお尋ね者となっているニコ・ロビンはこのままこの部屋で休むという。彼女はブランケットを片手に怪訝な瞳をこちらに向けつつ即答した。
「あなたたちが協定を守る間は」
淀みない返答と揺るがない瞳にこちらがたじろぎそうになる。二の句を継げずにいると、話はそれだけ? と背を向けるニコ・ロビンを慌てて、おい、と制止する。うんざりした様子のニコ・ロビンと呆れたルッチの視線、双方が痛い。
「何が目的なんじゃ」
「質問ばかりね。調べたらいいでしょう? サイファーポール・No.9」
彼女の瞳は揺らぐことなく、ただただ深い穴のような暗さだった。
◆
暴れているカリファを仕留めようと職人たちが群がっていく。おかげで、襲撃の最中だというのに、アイスバーグの寝室前には奇妙な静けさがあった。そろそろブルーノとニコ・ロビンがアイスバーグに対峙する。
囮役はブルーノ以外なら誰でも良かった。でも、カリファが『私が行く』とそう言った。それは『アイスバーグのところには行きたくない』と同義だと思った。思ったのは自分だけだったろうか。
「時間だ」
「そうじゃな」
今夜全ての片が付く。朝になれば、すべてが終わった後になる。名残惜しい気もするが、カリファほどじゃない。
「後継者はパウリーか」
何気なく呟いた『それ』には、返事をもらえなかった。
おしまい
カリファがコーヒーを淹れ、彼女の前に置く。彼女は黒髪をひと房揺らして、ありがとう、と口を小さく動かし礼を言った。その様子を見ていたルッチがカリファを睨むが、カリファはルッチの視線に気づかない振りをする。
「ブルーノは?」
カクは二人の気を逸らそうとこの場にいない男の名前を出した。少し遅れると連絡があった、と言いながらルッチが広げるのは我が社の見取り図だ。
「はじめるぞ」
黒髪の彼女を除く全員が、ルッチがテーブル一面にひろげた紙を見やる。ニコ・ロビンは、我関せずといった素振りで新聞を開き、コーヒーを口に運んだ。 いよいよだ。
◆
ものすごい爆音が響いた。カリファめ、やりすぎじゃろと思う間もなくルルとタイルストンが一目散に駆けていく。待て! と形式的な制止をし、やれやれ、と取り繕って椅子に腰かけた。ルッチはまだ『ロブ・ルッチ』を全うしており何も言わない。
「派手にやっとるようじゃの」
「ああ」
気を抜くなと窘められるかと思いきや、ルッチは意外にもハットリを介さず声を発した。思わずルッチに顔を向けるが、やつはまっすぐ前を向いたままだ。諦めてカクも前を向く。眼前では、社長を慕う職人たちがバタバタと右往左往しており、アイスバーグを『護衛』しているこちらは見向きもされない。信頼。これが、この五年で自分たちが周囲から勝ち取ったものだ。そして間もなく、この任務の最終目標である紙束も手に入るはず。これらが『五年』に見合うものなのか、それは考えない。
時折思い出したかのように、異常はないか? と問うてくる職人に、ない、と返答しながら、何も知らない彼らの幸せに思いを馳せる。ここまで来てしまえば何やらあっけなくも感じ、カクは周囲の喧騒とはかけ離れた呑気さで、ここ最近の自分達を振り返る。
五年と言い渡されていた任務だが、別段、今日が期限だったわけでもない。そろそろ目途をつけなければ、と終わらせ方を模索していたところに、長官から直々に珍しく具体的な指令が下った。『近日中にウォーターセブンへ入港するニコ・ロビンと接触し俺が言う条件を突きつけろ』と。
「ニコ・ロビンは本当にわしらについてくるんじゃろうか」
「さぁな」
取りつく島もない返答はまごうことなき彼のもので、とても安心する。
段々と強さを増す血の匂い。大きくなる叫び声。増える爆音。意志を持った闇がどんどん獲物を追い詰めていく。
◆
「私が行くわ」
カリファは無機質に言った。その声音は、何も感じていないゆえのものではなく、何か感じていることを悟らせないような努力を思わせるものだった。ルッチは少しだけ考えるそぶりを見せた後、わかった、と承知した。それを聞いたカリファは、以降黙ってソファの上で膝を抱え、床の一点をぼうっと見ている。なににも拘束されない長い髪が、彼女の目元を少しだけ覆っていたので、カリファを見つめるカクとカリファの視線がかち合うことはなかった。ニコ・ロビンは部屋の隅で椅子に腰かけ、静かにコーヒーを飲みながら新聞に目を通している。彼女は暇さえあれば新聞を開いて、口を噤んでいた。
それならわしらが例のものを、と提案すると、ルッチが無言で本社兼アイスバーグ宅の図面に書き込みを入れる。刹那。
ふわ、と花の香りが鼻腔を掠めて、花弁が舞った。誰も座らない椅子の背もたれから生えた女の細腕が卓上の羽ペンを取り、図面に何か書きこんだ。ルッチがあからさまに大きな舌打ちをする。それに驚いたのはどうやらカクだけらしかった。話には聞いていた能力だったが、目の当たりにするのは初めてだ。部屋の隅のニコ・ロビンはカクの動揺に気づいたのかほんの少し口の端を持ち上げた。笑われたような気がして、すぐ目を逸らす。
◆
「信用していいのか?」
本社襲撃前の最後の打ち合わせが終わったところで、ニコ・ロビンに歩み寄り問うた。街中でお尋ね者となっているニコ・ロビンはこのままこの部屋で休むという。彼女はブランケットを片手に怪訝な瞳をこちらに向けつつ即答した。
「あなたたちが協定を守る間は」
淀みない返答と揺るがない瞳にこちらがたじろぎそうになる。二の句を継げずにいると、話はそれだけ? と背を向けるニコ・ロビンを慌てて、おい、と制止する。うんざりした様子のニコ・ロビンと呆れたルッチの視線、双方が痛い。
「何が目的なんじゃ」
「質問ばかりね。調べたらいいでしょう? サイファーポール・No.9」
彼女の瞳は揺らぐことなく、ただただ深い穴のような暗さだった。
◆
暴れているカリファを仕留めようと職人たちが群がっていく。おかげで、襲撃の最中だというのに、アイスバーグの寝室前には奇妙な静けさがあった。そろそろブルーノとニコ・ロビンがアイスバーグに対峙する。
囮役はブルーノ以外なら誰でも良かった。でも、カリファが『私が行く』とそう言った。それは『アイスバーグのところには行きたくない』と同義だと思った。思ったのは自分だけだったろうか。
「時間だ」
「そうじゃな」
今夜全ての片が付く。朝になれば、すべてが終わった後になる。名残惜しい気もするが、カリファほどじゃない。
「後継者はパウリーか」
何気なく呟いた『それ』には、返事をもらえなかった。
おしまい



まさかほんとに
「何しに来たの?」
「招待状を寄こしたのはそっちじゃろう?」
どの面下げて。
七年目の別れ話
二年前、私の目の前から影も形もなく、すっかり消え失せてしまった元・恋人が、ブライズルームに現れた。白いもこもこしたシルクハットと、白いコート、白いネクタイ。相変わらずハイネックがお好みのようで、それすら白かった。ドアを後ろ手で閉めて、その前に立つ。
「なにその服。ここがどういう場かわかってる? 失礼過ぎない?」
「これが今の職場の正装なもんで」
「ばっかじゃないの。礼儀知らず」
「忙しい仕事の合間を縫うてやってきたっちゅうのに。冷たいのう」
「頼んでない」
怒りで眉間に皺が寄る。なんて、なんてこと。でも──人を呼ぶ気にはなれなかった。そう、わたしはこの男と話したい。というより、罵りたい。出来れば声が枯れるまで。そのまま見つめあうことなんて出来なくて、私はすぐ鏡台の鏡に向き直った。鏡の中の私は、怒っているのか悲しんでいるのか、ひとまず笑顔でないことだけは確かな、なんとも微妙な顔をしている。鏡越しに覗き見たカクは、私の複雑な胸中なんてお構いなしと言わんばかりの、普通の顔に見えた。忌々しくて、ますます顔が強張る。
二年前、カクが失踪するまで、私は彼の恋人だったはずだ。告白された夏の夜のぬるい風も、喧嘩したときの頭に血が上る速さも、仲直りをしたときのこそばゆい妙な空気も、今でもはっきり思い出せる。もちろん最後の夜だって。
街は市長の暗殺騒ぎで騒然としていた。カクは一番ドックの職長だったからいつもよりずっと忙しかったはずなのに、私を案じて部屋まで来て、抱きしめてくれたのだ。少しでも怖くなくなるといいんじゃが、と。それがカクとの最後だった。
私たちは電伝虫を飼っていなかったけど、互いの部屋の鍵は持っていて、会いたい時には気兼ねなく互いを訪ねてよいことになっていた。いつしか互いの予定を互いのカレンダーで共有し、予定がない夜はまっすぐ自宅に帰るようになった。相手が自分の部屋で待っているかもしれない、と。いつだったか、べろべろに酔っぱらったパウリーに、お前のせいでカクは付き合いが悪くなったんだぞ! と涙目で言われたことがある。そんな小さな習慣を積み重ねた日々だった。
でも、あの日。アクア・ラグナが去っても、カクは来なかった。あの年のアクア・ラグナはかつてない規模の被害を街にもたらしていて、なぜかガレーラカンパニーも焼け落ちるほどだった。私も自分のことで手いっぱいだったし、カクも大変だろうと簡単に想像できたから、カクの不在に気づけなかったのだ。
アクア・ラグナが去って一週間。
鍵を使って彼の部屋に入ると、クローゼットや戸棚から服や小物などの中身がすっかり消えて空っぽになっていた。それなのに、ダイニングテーブルにはカクがいつも被っていた白いキャップがぽつんと残されていて、随分経ってから、それをカクの「さよなら」だと思うことにした。
そして二年が経った。
「見ての通りだけど、私、結婚するの」
「わし以外の男となァ」
「そうね。四年付き合った恋人が突然いなくなって。理由もわからず、連絡もなくて。事件に巻き込まれたんじゃないかって、随分眠れない夜を過ごしたけど。違った」
ただ捨てられただけだった。そうして荒れて、すさんで、ぼろぼろになった私を、ずっと支えてくれた素敵な人と結婚します。
少しでも傷つけばいい。あなたが私に何をしたか、思い知ればいい。
なのにカクは、私が何を言っても表情ひとつ変えなかった。その余裕じみた態度が、私の胸をまた深く突き刺してくる。
「なァ」
「なに」
「わしら、別れたのか?」
「……は?」
「わしは、別れたつもりはないんじゃが」
目の前が赤く染まるのがわかった。
「ふ、ざけないでッ!?」
「え」
「あなたを、待たなかったと!? あなたが、私を──責めるの!?」
全身が叫びに共鳴して震えた。怒りと悲しみが許容量を超え、血管が破裂して、喉が裂けて、爆ぜる。
「ちっ、違う違う違う違う!」
すまん、すまんかった。違うんじゃ、違う。
おろおろと慌てふためいて距離を詰めてくるカクをきっと睨み、近寄らないで! と一喝する。カクはぴたと足を止めた。
「すまん。失言だった。このまま、一層憎んでくれて構わんから」
怒りで人が殺せたなら、今、カクは間違いなく死んでいた。
はあはあと肩で息をしながら、こんなはずじゃなかった、こんな結末じゃ、と大声で泣きたくなる。
私はただ報せてやりたかった。
今がどんなに幸せか。あなたなしでもうんと幸せになれる。あなたがいなくても大丈夫。そして、私はとても、とってもあなたが好きだった。けど。
今はもう。あなたなんか。
カクが住んでいた部屋は二年経ってもまだ空いたままで、その郵便受けに結婚式の招待状を投函してみたのは戯れだった。カクに届くはずがない。それでも、報せてやりたかった。
「言われなくても」掠れたけどなんとか声にした。
「今日は伝えたいことがあって来たんじゃ」
まずい。私の叫びを聞きつけた彼や家族が、ぱたぱたと軽い足音をたてながら駆けつけてきた。カクが鍵をかけたドアの向こうから「何かあった?」と優しい声が響く。私はカクの肩越しにドアを見つめながら、何でもないよ、と言おうと──
「ちゃんと好きじゃったよ」
嘘だ。
その一言にすべてを攫われる。
光の速さでカクに視線を戻すと、目が合ったカクはどこまでもまっすぐな瞳で、柔らかく、でも寂し気に微笑んだ。そして
「嘘じゃない」
カクは私の心を読んだみたいに、得意げに言った。
「結婚、おめでとう。幸せにの」
私はこの言葉を聞くために。七年間、今日まであなたが好きだった。
おしまい