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告解 #ルッチ #ブルーノ #カク #パウリー
「まだ開店前なんだが」
『うるさい、黙って注げ』
「ハットリはいないぞ?」
「お前は本当にうるさい」
ルッチはそう言ってブルーノの店のカウンターに突っ伏した。ブルーノが店内を見回すと、ハットリが西日の入る窓際のテーブルで、オレには関係ないとでもいうふうに、せっせと羽繕いをしている。
ブルーノが氷の入ったグラスをカウンターに置いてボトルを傾けると、琥珀色の液体がととと、とリズムよく流れ落ちてグラスにおさまった。ルッチは頬をカウンターに乗せてその様を見た。戯れにグラスを指ではじくと、チン、と冷たい音がして中のブランデーが少し揺れる。それにあわせて、ほのかに甘い香りがルッチの鼻腔をくすぐった。
酒をゆっくり楽しむ気分にはなれないルッチは、むくりと起き上がると一気にグラスを煽る。喉が灼け、鼻から酒の香りが抜けていく。胃がかっと熱くなったところで、再びカウンターに突っ伏した。酒がまわる。ブルーノは黙ってまた酒を注ぎ、一緒にチェイサーも置いた。分厚い木のカウンターがそれをコトリ、と優しく受け止める。
さっきまでざあざあと降っていた雨はいつのまにかやんでいた。どこか、窓か裏口でも開いているのか、ぬるい空気がルッチの肌を撫でていく。雨が止んで通りに賑わいが戻ってきたのか、「CLOSE」の札がかかっているウェスタンドアの向こうから「すごい雨だったな」「やんでくれて良かった」と雑談が聞こえてくる。ブルーノはそろそろ札を「OPEN」にしたいのだが、目の前の男がそれを許そうとしない。
ブルーノは静かに息を吐くと、黙って棚のボトルを手に取って拭きだした。こんな姿、カクやカリファには絶対に見せないだろうな、と思って言わずにおく。ただの独り言だし、感想だ。ブルーノは、ルッチが自分に気を許している、というわけではないことを知っていた。ルッチはカクやカリファにはこんな弱みを見せたくないだけだ。ルッチは常に彼らが求める「絶対」を彼らに見せようとしている。だから、消去法でおれが選ばれている。
蒸し暑いからとオンザロックにしたのがいけなかった。ぼうっと考え事をしているうちに、二杯目は氷がとけて、ぬるく、薄く、つまらないものに成り下がった。ルッチがグラスを手に取っておもむろに床に傾けると、薄まったブランデーがびちゃびちゃと下品な音を立てて緩慢に広がっていく。零したブランデーに、いつの間にか点いていた店の明かりと自分のシルエットが安っぽく、惨めに映り込む。ブルーノは黙って見ているだけで何も言わない。
「子供みたいなことをするんだな」
ルッチがグラスの中身をすっかり床に全部こぼしてから、あきれた様子のブルーノがたしなめる。
「もったいないだろう。安酒を出してるつもりはないぞ」
ブルーノは氷が入った新しいグラスを用意して、また注いだ。今度ばかりは、さすがのルッチも大人しく口をつけた。ゆっくり、舐めるように、少しだけ。
「全部こぼれてから言うな。そもそもおれの酒だ」
「片づけるのはおれじゃないか」
「おれがやってやる。気が向いたら」
「それはどうも。期待しているよ」
床を拭く雑巾を手にブルーノがそう言ったので、ブルーノが思ってもいないことを言ったのがルッチにはわかった。ルッチも片づける気なんてさらさらなかったから、くく、と声を殺して笑う。こんなことで笑いたくなるなんて、少し酔ったのかもしれない。
「一体なんだっていうんだ。あとほんの数か月だろう」
「なんだ? 何が言いたい」
「カクなんか楽しそうにうまくやってるじゃないか。ルッチが同じようにしたところで、カクもカリファも、咎めたりしないだろう?」
「おい。遠慮か何か知らないが、奥歯にものが挟まったような言い方はやめろ。何が言いたいのかさっぱりわからん」
なんて、本当は嘘だ。おれはブルーノが言わんとすることがわかる。認めたくないだけだ。認めればすべてが終わってしまうのではという恐怖が心の奥底にある。だが、そんなこと知覚したくない。辛い。そんなふうにも思いたくない。嫌だ、なんてもってのほかだ。
ブルーノはすでに床を拭き終わっていた。ブルーノが無表情で雑巾を絞る。ブランデーの香りが鼻についた。先ほどまで楽しんでいた香り。ブルーノはルッチを見ず、何の感情も込めずに言った。
「おれは別にいいと思うが」
「だから、なんだ」
「寂しいと思っても、悲しいと思っても」
「おい、いつになく気色が悪いぞ。やめろ」
「別に、無理をするなってだけだ。最後の最後、大詰めだぞ。下手に無理されて、台無しにされたらたまったもんじゃない。こんなふうになるくらいなら、素直になったらどうだ?」
「ふざけるなよ」
ルッチはとても静かにカウンターに脚を乗せ、その向こう側に身体を乗り出すと、ブルーノの胸倉をつかんだ。カラン。音を立てたのはグラスの中の氷だけだ。店内が静まりかえっている分、外の喧騒がやけに耳に刺さる。
視線はどちらもそらさなかった。お互いの瞳にお互いが映って、お互いが自分を睨む。ブルーノの瞳の中のルッチはあまりに無様で、あまりに滑稽で、ルッチは心の中でそっとため息をついた。目をそらさないブルーノが、ルッチにしか聞こえないくらいの小さな声で呟く。まるで内緒話をするかのよう。
「何も大声で言って回れって話じゃない。ただ、自分にだけは、嘘をつかないほうがいいんじゃないか」
「……」
「泣いても喚いても、彼の誕生日はあと一回きりだ。この任務が終われば、一生会わない」
「本当にお前はうるさい」
言われなくても、そんなことは任務が終わる日を指折り数えている自分が誰よりも重々承知している。寂しい。悲しい。辛い。嫌だ。全部違う、とルッチはすぐに否定した。今日は久しぶりの休日だったのに朝から土砂降りで、明日からの仕事を思うと気が滅入って、だから飲みたくなっただけ。こんなふうにいつだって自分を欺いているのに、今さらどうして本音が言える? そもそも、本音なんてもう、自分でもわからない。ただ。
ルッチはブルーノの胸倉からそっと手を離して、大人しくまた椅子に腰を下ろした。ブルーノが襟元を直す。
「本当に、そんなんじゃないんだ。寂しいなんて寒気がする」
「そうか」
「ただ」
「ただ?」
「少し、むなしい」
そうか、むなしい、か。ブルーノは、聞いたことのない言葉を「あそこに咲いている花の名前だよ」と教えてもらった時のように納得する。
「ああ、むなしい。それだけだ」
「そうだな」
寂しいんじゃない。
ただもう少し時間があったなら。違う出会いがあったなら。そんな、らしくないことを思うのは、酔っているから。これが悪夢の中だから。こんな夢、はやく醒めればいいのに。ルッチは唇を噛む。
「おーい! まだ開けねえのかー?」
店のドアをドンドンと叩く音と一緒に聞こえてきたのは、馴染みの声だった。何も言わずともハットリが飛んできて、ルッチの肩にとまる。「はいはい、今開けるよ」とブルーノが裏口から表へと出ていった。
店主より先にパウリーがどかどかと入ってきて、カウンターに座るルッチを見つけ「うわ」と眉をひそめた。
『うわ、とはなんだ』
「うわ、以外にあるかよ。なんで開店前の店でそんなに酔ってるんだ、お前は!」
『酔ってるだと?』
「酔っとるのう」
パウリーの後ろに続いてやってきたカクも、パウリーと同じ顔をしていた。ほんの少しだけパウリーにはない怪訝な色が混じった顔だった。ルッチはなんとなくばつが悪い気がして、目をそらす。
「真面目なお前が、明るいうちから開店前の店に押し掛けて飲むなんて珍しいな」とパウリーがルッチの横に座った。カクはその隣だ。ブルーノが二人に「エールでいいのか?」と注文を確認する。目が据わっているルッチにパウリーが「部屋に寄ったんだぞ」と口を尖らせる。
『そりゃ悪かったな』
ルッチが素っ気なく返すと、パウリーは視線を空に彷徨わせて少し間を取ってから真面目な声音で「なあ、何かあったのか?」と心配した。嘘の気配に敏感なルッチとカク、ブルーノには、悲しい哉、その心配に嘘がまったくないのがわかる。こういう男を騙しているんだった、とルッチは改めて自覚した。そんな男をおれは今日も騙す。
「あれじゃろ? 失恋」
ルッチが適当な嘘で誤魔化そうと口を開いた瞬間、それより早く、カクがとんでもないことを言い出した。パウリーがさっきまでの神妙な顔つきから途端、笑顔になって「おいおいおいおい! 聞いてないぞ!」と騒ぎだす。ルッチは、パウリーの向こうで涼しい顔をしてエールを煽るカクを殺さんばかりの視線で睨むが、カクはどこ吹く風だ。
「失恋じゃあしょうがねえよな! よし、飲め! 奢ってやる!」
「なんで楽しそうなんじゃ。ひどいやつじゃのう。最初くらいもっと静かに寄り添ってやらんか」
「いやあ、ルッチも人の子だったんだなあと思ってよ」
悪い悪い、と悪びれもせず謝るパウリーと、面白がるカクとをルッチは見る。仕方がない、まだもう少しだけ悪夢をみていよう。ルッチはそう決めて、カクのありがた迷惑な助け舟に乗ることにして、架空の思い人を急いで構築する。
おしまい
← →
「まだ開店前なんだが」
『うるさい、黙って注げ』
「ハットリはいないぞ?」
「お前は本当にうるさい」
ルッチはそう言ってブルーノの店のカウンターに突っ伏した。ブルーノが店内を見回すと、ハットリが西日の入る窓際のテーブルで、オレには関係ないとでもいうふうに、せっせと羽繕いをしている。
ブルーノが氷の入ったグラスをカウンターに置いてボトルを傾けると、琥珀色の液体がととと、とリズムよく流れ落ちてグラスにおさまった。ルッチは頬をカウンターに乗せてその様を見た。戯れにグラスを指ではじくと、チン、と冷たい音がして中のブランデーが少し揺れる。それにあわせて、ほのかに甘い香りがルッチの鼻腔をくすぐった。
酒をゆっくり楽しむ気分にはなれないルッチは、むくりと起き上がると一気にグラスを煽る。喉が灼け、鼻から酒の香りが抜けていく。胃がかっと熱くなったところで、再びカウンターに突っ伏した。酒がまわる。ブルーノは黙ってまた酒を注ぎ、一緒にチェイサーも置いた。分厚い木のカウンターがそれをコトリ、と優しく受け止める。
さっきまでざあざあと降っていた雨はいつのまにかやんでいた。どこか、窓か裏口でも開いているのか、ぬるい空気がルッチの肌を撫でていく。雨が止んで通りに賑わいが戻ってきたのか、「CLOSE」の札がかかっているウェスタンドアの向こうから「すごい雨だったな」「やんでくれて良かった」と雑談が聞こえてくる。ブルーノはそろそろ札を「OPEN」にしたいのだが、目の前の男がそれを許そうとしない。
ブルーノは静かに息を吐くと、黙って棚のボトルを手に取って拭きだした。こんな姿、カクやカリファには絶対に見せないだろうな、と思って言わずにおく。ただの独り言だし、感想だ。ブルーノは、ルッチが自分に気を許している、というわけではないことを知っていた。ルッチはカクやカリファにはこんな弱みを見せたくないだけだ。ルッチは常に彼らが求める「絶対」を彼らに見せようとしている。だから、消去法でおれが選ばれている。
蒸し暑いからとオンザロックにしたのがいけなかった。ぼうっと考え事をしているうちに、二杯目は氷がとけて、ぬるく、薄く、つまらないものに成り下がった。ルッチがグラスを手に取っておもむろに床に傾けると、薄まったブランデーがびちゃびちゃと下品な音を立てて緩慢に広がっていく。零したブランデーに、いつの間にか点いていた店の明かりと自分のシルエットが安っぽく、惨めに映り込む。ブルーノは黙って見ているだけで何も言わない。
「子供みたいなことをするんだな」
ルッチがグラスの中身をすっかり床に全部こぼしてから、あきれた様子のブルーノがたしなめる。
「もったいないだろう。安酒を出してるつもりはないぞ」
ブルーノは氷が入った新しいグラスを用意して、また注いだ。今度ばかりは、さすがのルッチも大人しく口をつけた。ゆっくり、舐めるように、少しだけ。
「全部こぼれてから言うな。そもそもおれの酒だ」
「片づけるのはおれじゃないか」
「おれがやってやる。気が向いたら」
「それはどうも。期待しているよ」
床を拭く雑巾を手にブルーノがそう言ったので、ブルーノが思ってもいないことを言ったのがルッチにはわかった。ルッチも片づける気なんてさらさらなかったから、くく、と声を殺して笑う。こんなことで笑いたくなるなんて、少し酔ったのかもしれない。
「一体なんだっていうんだ。あとほんの数か月だろう」
「なんだ? 何が言いたい」
「カクなんか楽しそうにうまくやってるじゃないか。ルッチが同じようにしたところで、カクもカリファも、咎めたりしないだろう?」
「おい。遠慮か何か知らないが、奥歯にものが挟まったような言い方はやめろ。何が言いたいのかさっぱりわからん」
なんて、本当は嘘だ。おれはブルーノが言わんとすることがわかる。認めたくないだけだ。認めればすべてが終わってしまうのではという恐怖が心の奥底にある。だが、そんなこと知覚したくない。辛い。そんなふうにも思いたくない。嫌だ、なんてもってのほかだ。
ブルーノはすでに床を拭き終わっていた。ブルーノが無表情で雑巾を絞る。ブランデーの香りが鼻についた。先ほどまで楽しんでいた香り。ブルーノはルッチを見ず、何の感情も込めずに言った。
「おれは別にいいと思うが」
「だから、なんだ」
「寂しいと思っても、悲しいと思っても」
「おい、いつになく気色が悪いぞ。やめろ」
「別に、無理をするなってだけだ。最後の最後、大詰めだぞ。下手に無理されて、台無しにされたらたまったもんじゃない。こんなふうになるくらいなら、素直になったらどうだ?」
「ふざけるなよ」
ルッチはとても静かにカウンターに脚を乗せ、その向こう側に身体を乗り出すと、ブルーノの胸倉をつかんだ。カラン。音を立てたのはグラスの中の氷だけだ。店内が静まりかえっている分、外の喧騒がやけに耳に刺さる。
視線はどちらもそらさなかった。お互いの瞳にお互いが映って、お互いが自分を睨む。ブルーノの瞳の中のルッチはあまりに無様で、あまりに滑稽で、ルッチは心の中でそっとため息をついた。目をそらさないブルーノが、ルッチにしか聞こえないくらいの小さな声で呟く。まるで内緒話をするかのよう。
「何も大声で言って回れって話じゃない。ただ、自分にだけは、嘘をつかないほうがいいんじゃないか」
「……」
「泣いても喚いても、彼の誕生日はあと一回きりだ。この任務が終われば、一生会わない」
「本当にお前はうるさい」
言われなくても、そんなことは任務が終わる日を指折り数えている自分が誰よりも重々承知している。寂しい。悲しい。辛い。嫌だ。全部違う、とルッチはすぐに否定した。今日は久しぶりの休日だったのに朝から土砂降りで、明日からの仕事を思うと気が滅入って、だから飲みたくなっただけ。こんなふうにいつだって自分を欺いているのに、今さらどうして本音が言える? そもそも、本音なんてもう、自分でもわからない。ただ。
ルッチはブルーノの胸倉からそっと手を離して、大人しくまた椅子に腰を下ろした。ブルーノが襟元を直す。
「本当に、そんなんじゃないんだ。寂しいなんて寒気がする」
「そうか」
「ただ」
「ただ?」
「少し、むなしい」
そうか、むなしい、か。ブルーノは、聞いたことのない言葉を「あそこに咲いている花の名前だよ」と教えてもらった時のように納得する。
「ああ、むなしい。それだけだ」
「そうだな」
寂しいんじゃない。
ただもう少し時間があったなら。違う出会いがあったなら。そんな、らしくないことを思うのは、酔っているから。これが悪夢の中だから。こんな夢、はやく醒めればいいのに。ルッチは唇を噛む。
「おーい! まだ開けねえのかー?」
店のドアをドンドンと叩く音と一緒に聞こえてきたのは、馴染みの声だった。何も言わずともハットリが飛んできて、ルッチの肩にとまる。「はいはい、今開けるよ」とブルーノが裏口から表へと出ていった。
店主より先にパウリーがどかどかと入ってきて、カウンターに座るルッチを見つけ「うわ」と眉をひそめた。
『うわ、とはなんだ』
「うわ、以外にあるかよ。なんで開店前の店でそんなに酔ってるんだ、お前は!」
『酔ってるだと?』
「酔っとるのう」
パウリーの後ろに続いてやってきたカクも、パウリーと同じ顔をしていた。ほんの少しだけパウリーにはない怪訝な色が混じった顔だった。ルッチはなんとなくばつが悪い気がして、目をそらす。
「真面目なお前が、明るいうちから開店前の店に押し掛けて飲むなんて珍しいな」とパウリーがルッチの横に座った。カクはその隣だ。ブルーノが二人に「エールでいいのか?」と注文を確認する。目が据わっているルッチにパウリーが「部屋に寄ったんだぞ」と口を尖らせる。
『そりゃ悪かったな』
ルッチが素っ気なく返すと、パウリーは視線を空に彷徨わせて少し間を取ってから真面目な声音で「なあ、何かあったのか?」と心配した。嘘の気配に敏感なルッチとカク、ブルーノには、悲しい哉、その心配に嘘がまったくないのがわかる。こういう男を騙しているんだった、とルッチは改めて自覚した。そんな男をおれは今日も騙す。
「あれじゃろ? 失恋」
ルッチが適当な嘘で誤魔化そうと口を開いた瞬間、それより早く、カクがとんでもないことを言い出した。パウリーがさっきまでの神妙な顔つきから途端、笑顔になって「おいおいおいおい! 聞いてないぞ!」と騒ぎだす。ルッチは、パウリーの向こうで涼しい顔をしてエールを煽るカクを殺さんばかりの視線で睨むが、カクはどこ吹く風だ。
「失恋じゃあしょうがねえよな! よし、飲め! 奢ってやる!」
「なんで楽しそうなんじゃ。ひどいやつじゃのう。最初くらいもっと静かに寄り添ってやらんか」
「いやあ、ルッチも人の子だったんだなあと思ってよ」
悪い悪い、と悪びれもせず謝るパウリーと、面白がるカクとをルッチは見る。仕方がない、まだもう少しだけ悪夢をみていよう。ルッチはそう決めて、カクのありがた迷惑な助け舟に乗ることにして、架空の思い人を急いで構築する。
おしまい
← →
雲間 #カク #パウリー
あいにくの雨だった。
朝からの急な土砂降りで島のシンボルである噴水も雨でかすむ。こんな天気だ、葉巻さえ切らしていなければ外には出なかったのだが、葉巻には代えられない。パウリーは、舌打ちしながら部屋のドアを開けた。外から漏れ聞こえてくる雨音はやはり激しく、その中へこれから一歩踏み出していくのは気が滅入るが明日からの葉巻を思えば仕方がない。はあ、とため息をつきながらパウリーは最後の一本となった葉巻を咥えた。
強い雨足のせいか商店街は普段と違って静かなものだった。まばらに道行く人はみな、出来るだけ濡れないようにと体を縮めて、おのおのの傘におさまろうとしている。合羽を着た子供だけが、濡れてもへっちゃらだ、と明るい声をあげながら、こんな天気でも、いや、こんな天気だからだろうか、元気にはしゃいでパウリーの横をすり抜けていく。後ろから、そんな子供を諫める母親の声が聞こえた。
パウリーは角の煙草屋で手に入れた葉巻が雨に濡れぬよう、細心の注意をはらって、そっと胸ポケットにしまい込んだ。
もうすっかり濡れたジーンズの裾は、じっとりとして気持ちが悪く、せっかく雨のなか外出したのだからすこしぶらぶらするか、という気もすぐに失せる。パウリーは踵を返し、足早に自宅へと戻ろうとした。
「パウリー」
名を呼ばれパウリーが振り向くと、そこにいたのは器用に傘におさまりながら両手で紙袋を抱えたカクだった。この時間に商店街で買い物が出来るということは、カクも今日はオフだったらしい。この土砂降りだ。もしかしたら急なオフだったのかもしれない。いつもの作業着よりずっとラフなティーシャツ姿は、生ぬるくて湿った空気が停滞している今日にはぴったりに思えた。
ここ最近、仕事が急に増え、それなのにこうして天気が悪くなったり、そのせいで予定していた資材が届かなかったりと、普段通りに作業していたのでは納期に間に合わないため、休日返上で仕上げる、ということが続いていた。カクも買い物に行けていなかったのだろう。チーズやハム、果物といった戦利品で膨らんだ紙袋は、カクの顔をすっぽりと隠すほどだった。カクは「買いすぎたわい」とぼやきながら、紙袋を落とさぬよう抱え直している。
「さっきの子供、パウリーみたいじゃったの」
大きな紙袋のせいで顔は見えず、声しか聞こえなかったが、その声だけでもからかわれているのだとパウリーにはわかった。表情なんて見なくとも、カクの目はいたずらっぽく輝いているに違いない。「パウリーも雨なんかへっちゃらじゃろう?」と追い打ちをかけてくる。
「俺はシャイで……物静かな子供だったな」
「嘘が下手じゃのう。声が震えとるぞ」
カクの笑い声にあわせて、紙袋がガサガサと揺れた。雨はまだ降り続けている。けれど、雨足はだいぶ弱まった。傘を叩く雨がさきほどよりずっと優しい。荷物で手一杯に見えるカクに「おれの傘に入るか?」とパウリーが申し出てみるが「相合傘なんぞごめんじゃ」と袖にされてしまった。
帰路が同じだった二人は、自然と隣り合って歩いた。ぶつかる傘の分だけいつもよりわずかに距離が空いて、二人の間をぬるい風が吹き抜けていく。
「今日はルッチも休みなんじゃと」
「へえ? 三人とも休みが被るのは久しぶりだな」
「きっと来週から大口の仕事でも入るんじゃろ。ああまた忙しくなる……」
パウリーがカクを見やると、カクはあからさまにうんざりといった様子で、眉間に皺をよせていた。それは誰が見ても子供っぽい表情で、口調とのギャップにパウリーは笑ってしまう。カクの「なんじゃ」という怪訝な瞳を「なんでもない」と手を振って誤魔化す。
大人びた、いや、大人すら通り越して、もはや老成している口ぶりについ騙されて、いつも頼りたくなってしまうが、考えてみればカクはパウリーの一つ下のはずだった。この島に来たのも二、三年ほど前。
人懐っこいカクは、入社してすぐに「わしはカク。お前さんはパウリーじゃろ、よろしく」と短く簡潔にわかりやすく声をかけてきた。最初は「……おう」と人見知りをして素っ気なかったパウリーだったが、歳も近く大らかで気のいいカクとはすぐに打ち解けてつるむようになった。ルッチに声をかけにいこう、と誘ってきたのもカクだ。「仲良くなったら面白そうじゃろ? 肩にハトじゃぞ?」今となっては、カクの言葉に乗ってみてよかったなと思っている。
パウリーはカクの誘い文句を思い出して、うっかり噴き出した。カクがじろりとパウリーを睨む。
「何がおかしいんじゃ?」
「……いや、別に? 大したことじゃない」
「なんじゃ、さっきから。いけ好かん態度じゃのう! 罰としてこれを持っとれ!」
カクは抱えていた紙袋をいきなりパウリーに押し付けた。中身を落とさぬよう慌てるパウリーを尻目に、カクはそのまま傘を片手に地を蹴って跳ぶ。いや、飛んだ。パウリーがそれを目で追う。
カクは重力に縛られることなく、軽やかに飛んで、屋根の上に音もたてずに着地した。パウリーはカクに重さがあるのかと毎度疑っている。カクは屋根の上で足を大きく広げてしゃがみ、パウリーとの距離を少しでも近くすると「ワハハ! しっかり運ぶんじゃぞ、パウリー」と混じりけのない笑顔で言った。
パウリーは傘を使ったら宙に浮けるのではないかと、傘を広げて坂を駆けたずっと昔の、あやふやないつかを思い出した。何度挑戦しても自分には出来なかったそれを、目の前の男が難なくやってのける。
「こらカク! それは反則だろう! 降りてこい」
パウリーは抗議しかできない自分がもどかしく、悔しい思いだ。こうして声を張り上げて、カクを地に下ろすことしかできない。自分もそこに行けたらいいのに。
「仕方ないのう」
カクは全然仕方なくなさそうに、いったん地に降りてきた。そして「荷物を落としたら、お前さんも落とすからの」と物騒な台詞を口にしたかと思えば、パウリーを抱えて先ほどと同じように地を蹴った。パウリーは命綱と化した紙袋をひしと抱くのに精いっぱいで、傘は落としてしまう。
高度は先ほどより若干劣るが、軽やかさは変わらないのがパウリーは不思議だった。ひゅう、と耳の近くで風の音がする。後ろに撫でつけた金髪が風に靡いて乱れ、頬や目にかかるのでパウリーは顔をしかめる羽目になる。「パウリー。お前、重い」と睨んでくるカクを「お前、なんかそれ気持ち悪ぃぞ!」とどやせば、カクは少し考えて「確かに」と笑った。
飛んでいるのか、浮いているのか、ゆっくり落ちているのか、パウリーにはわからない。わからないまま、手ごろな家の屋根に着地すると、カクが「おお、雨がやむぞ」と傘をたたんで、海の方を指差した。
水平線の上、雨雲の切れ間から太陽がのぞいている。雨雲がゆっくり流れていき、青の面積が増えていく。パウリーはふと横に並び立つカクを見る。カクの黒い瞳に太陽の光が吸い込まれていくのを見る。すると、カクが急にパウリーの方に顔を向けた。パウリーは自分がカクの横顔を見ていたことに気づかれたのではと、内心ぎくりとする。カクは気づいているのかいないのか、特にそれを話題にすることはなかったが、話題にされる前にとパウリーが慌てて取り繕う。
「ルッチも休みなんだろ? 誘って飯でも行かねえか?」
「どうせ明日には仕事で会うじゃろうに」
「誘わないと明日拗ねるだろう?」
「それもそうか」
パウリーは、まだ誘っていないカクが、すでにこのまま自分と食事するつもりになっているのに気づいて、気づかれないように口の端だけで笑った。気づかれると、またカクが怒るから本当にそっと。
「夏がくるのう。そういえばパウリーの誕生日もそろそろじゃな」
「ああ、そうだな……」
「何か欲しいものは」というカクの言葉にパウリーが「金」と即答すると、呆れた顔のカクに睨まれた。
「絶対にやらん。お前にやるくらいなら海に捨てたほうがマシじゃ」
「そこまで言うか!?」
「少しは胸に手を当てて考えてみい!」
「ひでえな。それが友達の言い草か?」
「まあ、それはさておき。何かあるか? 給料日のすぐあとなら奮発するぞ」
「そうだな……」
◆
目を、開ける。
パウリーは徐々に覚醒してきた頭を振って時計を見た。朝の五時少し前。窓から差し込むのは鋭い日差し。昨日脱ぎ捨てたままの服。
ああ今のは。幸か不幸か、おれはこれが夢だと知っている。遠い昔の夢だと知っている。あの後に続く言葉は。
『これからずっと、じいさんになっても、お前らと騒げたらそれで十分だ』
『なんじゃ、それなら簡単じゃな!』
幸せな夢だった。
「簡単だって、言ったじゃねえかよ。あいつ」
なにが本当だったのか、もうパウリーにはわからない。
おしまい
← →
あいにくの雨だった。
朝からの急な土砂降りで島のシンボルである噴水も雨でかすむ。こんな天気だ、葉巻さえ切らしていなければ外には出なかったのだが、葉巻には代えられない。パウリーは、舌打ちしながら部屋のドアを開けた。外から漏れ聞こえてくる雨音はやはり激しく、その中へこれから一歩踏み出していくのは気が滅入るが明日からの葉巻を思えば仕方がない。はあ、とため息をつきながらパウリーは最後の一本となった葉巻を咥えた。
強い雨足のせいか商店街は普段と違って静かなものだった。まばらに道行く人はみな、出来るだけ濡れないようにと体を縮めて、おのおのの傘におさまろうとしている。合羽を着た子供だけが、濡れてもへっちゃらだ、と明るい声をあげながら、こんな天気でも、いや、こんな天気だからだろうか、元気にはしゃいでパウリーの横をすり抜けていく。後ろから、そんな子供を諫める母親の声が聞こえた。
パウリーは角の煙草屋で手に入れた葉巻が雨に濡れぬよう、細心の注意をはらって、そっと胸ポケットにしまい込んだ。
もうすっかり濡れたジーンズの裾は、じっとりとして気持ちが悪く、せっかく雨のなか外出したのだからすこしぶらぶらするか、という気もすぐに失せる。パウリーは踵を返し、足早に自宅へと戻ろうとした。
「パウリー」
名を呼ばれパウリーが振り向くと、そこにいたのは器用に傘におさまりながら両手で紙袋を抱えたカクだった。この時間に商店街で買い物が出来るということは、カクも今日はオフだったらしい。この土砂降りだ。もしかしたら急なオフだったのかもしれない。いつもの作業着よりずっとラフなティーシャツ姿は、生ぬるくて湿った空気が停滞している今日にはぴったりに思えた。
ここ最近、仕事が急に増え、それなのにこうして天気が悪くなったり、そのせいで予定していた資材が届かなかったりと、普段通りに作業していたのでは納期に間に合わないため、休日返上で仕上げる、ということが続いていた。カクも買い物に行けていなかったのだろう。チーズやハム、果物といった戦利品で膨らんだ紙袋は、カクの顔をすっぽりと隠すほどだった。カクは「買いすぎたわい」とぼやきながら、紙袋を落とさぬよう抱え直している。
「さっきの子供、パウリーみたいじゃったの」
大きな紙袋のせいで顔は見えず、声しか聞こえなかったが、その声だけでもからかわれているのだとパウリーにはわかった。表情なんて見なくとも、カクの目はいたずらっぽく輝いているに違いない。「パウリーも雨なんかへっちゃらじゃろう?」と追い打ちをかけてくる。
「俺はシャイで……物静かな子供だったな」
「嘘が下手じゃのう。声が震えとるぞ」
カクの笑い声にあわせて、紙袋がガサガサと揺れた。雨はまだ降り続けている。けれど、雨足はだいぶ弱まった。傘を叩く雨がさきほどよりずっと優しい。荷物で手一杯に見えるカクに「おれの傘に入るか?」とパウリーが申し出てみるが「相合傘なんぞごめんじゃ」と袖にされてしまった。
帰路が同じだった二人は、自然と隣り合って歩いた。ぶつかる傘の分だけいつもよりわずかに距離が空いて、二人の間をぬるい風が吹き抜けていく。
「今日はルッチも休みなんじゃと」
「へえ? 三人とも休みが被るのは久しぶりだな」
「きっと来週から大口の仕事でも入るんじゃろ。ああまた忙しくなる……」
パウリーがカクを見やると、カクはあからさまにうんざりといった様子で、眉間に皺をよせていた。それは誰が見ても子供っぽい表情で、口調とのギャップにパウリーは笑ってしまう。カクの「なんじゃ」という怪訝な瞳を「なんでもない」と手を振って誤魔化す。
大人びた、いや、大人すら通り越して、もはや老成している口ぶりについ騙されて、いつも頼りたくなってしまうが、考えてみればカクはパウリーの一つ下のはずだった。この島に来たのも二、三年ほど前。
人懐っこいカクは、入社してすぐに「わしはカク。お前さんはパウリーじゃろ、よろしく」と短く簡潔にわかりやすく声をかけてきた。最初は「……おう」と人見知りをして素っ気なかったパウリーだったが、歳も近く大らかで気のいいカクとはすぐに打ち解けてつるむようになった。ルッチに声をかけにいこう、と誘ってきたのもカクだ。「仲良くなったら面白そうじゃろ? 肩にハトじゃぞ?」今となっては、カクの言葉に乗ってみてよかったなと思っている。
パウリーはカクの誘い文句を思い出して、うっかり噴き出した。カクがじろりとパウリーを睨む。
「何がおかしいんじゃ?」
「……いや、別に? 大したことじゃない」
「なんじゃ、さっきから。いけ好かん態度じゃのう! 罰としてこれを持っとれ!」
カクは抱えていた紙袋をいきなりパウリーに押し付けた。中身を落とさぬよう慌てるパウリーを尻目に、カクはそのまま傘を片手に地を蹴って跳ぶ。いや、飛んだ。パウリーがそれを目で追う。
カクは重力に縛られることなく、軽やかに飛んで、屋根の上に音もたてずに着地した。パウリーはカクに重さがあるのかと毎度疑っている。カクは屋根の上で足を大きく広げてしゃがみ、パウリーとの距離を少しでも近くすると「ワハハ! しっかり運ぶんじゃぞ、パウリー」と混じりけのない笑顔で言った。
パウリーは傘を使ったら宙に浮けるのではないかと、傘を広げて坂を駆けたずっと昔の、あやふやないつかを思い出した。何度挑戦しても自分には出来なかったそれを、目の前の男が難なくやってのける。
「こらカク! それは反則だろう! 降りてこい」
パウリーは抗議しかできない自分がもどかしく、悔しい思いだ。こうして声を張り上げて、カクを地に下ろすことしかできない。自分もそこに行けたらいいのに。
「仕方ないのう」
カクは全然仕方なくなさそうに、いったん地に降りてきた。そして「荷物を落としたら、お前さんも落とすからの」と物騒な台詞を口にしたかと思えば、パウリーを抱えて先ほどと同じように地を蹴った。パウリーは命綱と化した紙袋をひしと抱くのに精いっぱいで、傘は落としてしまう。
高度は先ほどより若干劣るが、軽やかさは変わらないのがパウリーは不思議だった。ひゅう、と耳の近くで風の音がする。後ろに撫でつけた金髪が風に靡いて乱れ、頬や目にかかるのでパウリーは顔をしかめる羽目になる。「パウリー。お前、重い」と睨んでくるカクを「お前、なんかそれ気持ち悪ぃぞ!」とどやせば、カクは少し考えて「確かに」と笑った。
飛んでいるのか、浮いているのか、ゆっくり落ちているのか、パウリーにはわからない。わからないまま、手ごろな家の屋根に着地すると、カクが「おお、雨がやむぞ」と傘をたたんで、海の方を指差した。
水平線の上、雨雲の切れ間から太陽がのぞいている。雨雲がゆっくり流れていき、青の面積が増えていく。パウリーはふと横に並び立つカクを見る。カクの黒い瞳に太陽の光が吸い込まれていくのを見る。すると、カクが急にパウリーの方に顔を向けた。パウリーは自分がカクの横顔を見ていたことに気づかれたのではと、内心ぎくりとする。カクは気づいているのかいないのか、特にそれを話題にすることはなかったが、話題にされる前にとパウリーが慌てて取り繕う。
「ルッチも休みなんだろ? 誘って飯でも行かねえか?」
「どうせ明日には仕事で会うじゃろうに」
「誘わないと明日拗ねるだろう?」
「それもそうか」
パウリーは、まだ誘っていないカクが、すでにこのまま自分と食事するつもりになっているのに気づいて、気づかれないように口の端だけで笑った。気づかれると、またカクが怒るから本当にそっと。
「夏がくるのう。そういえばパウリーの誕生日もそろそろじゃな」
「ああ、そうだな……」
「何か欲しいものは」というカクの言葉にパウリーが「金」と即答すると、呆れた顔のカクに睨まれた。
「絶対にやらん。お前にやるくらいなら海に捨てたほうがマシじゃ」
「そこまで言うか!?」
「少しは胸に手を当てて考えてみい!」
「ひでえな。それが友達の言い草か?」
「まあ、それはさておき。何かあるか? 給料日のすぐあとなら奮発するぞ」
「そうだな……」
◆
目を、開ける。
パウリーは徐々に覚醒してきた頭を振って時計を見た。朝の五時少し前。窓から差し込むのは鋭い日差し。昨日脱ぎ捨てたままの服。
ああ今のは。幸か不幸か、おれはこれが夢だと知っている。遠い昔の夢だと知っている。あの後に続く言葉は。
『これからずっと、じいさんになっても、お前らと騒げたらそれで十分だ』
『なんじゃ、それなら簡単じゃな!』
幸せな夢だった。
「簡単だって、言ったじゃねえかよ。あいつ」
なにが本当だったのか、もうパウリーにはわからない。
おしまい
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お気に入り,ONEPIECE,KISSMEMORE 32字 No.35
ウェンザレインストップス #サー・クロコダイル
「雨がお嫌いですか?」
朝から降りやまぬ雨を見つめながら、ぎり、と葉巻を噛みしめているように見える社長にそっと声をかける。地上三十階にあるこのフロアから見えるのは灰色の曇り空ばかりで、こうも優しい雨では音もせず降っているのかよくわからない。社長は雨に濡れるだけのモノトーンの街からは目を離さず、私の問いかけに問いで答えた。
「なぜ、そう思う?」
昔のあなたを知っているので、とは思うだけで決して口にしない。そばにいると何度も口をついて出そうになってしまうこの思いを、私は唇を噛んで胸の中にぐっと閉じ込める。その時の、うっ、と喉の詰まる感覚にも、もう慣れてしまった。それくらい、そばにいる。
「昔」というのは今から何年前、というわけではなく、きっと前世と説明される「いつか」。あなたは「砂漠の王」で「サー」だった。私は、レインディナーズで借金のカタにと置いて行かれた小娘で、あなたに拾ってもらって、秘書の真似事を。大変に優秀な副社長の補佐の補佐の補佐、くらいだったけれど、いなくても決して困らないが、あって邪魔なものでもない、くらいの働きはしたようで、サーが最後の作戦に打って出るというその日まで仕えた。
ナノハナにサーの葉巻を受け取りに行った私は、副社長からきつく言われていた。「明朝七時までに街を出るように」と。理由を知ったのは街が火の海になってからだ。「明日、珍しい葉巻が届くよ」と店主に教えてもらい、ナノハナに泊まってそれを待つことにしたのだが、それが運の尽き。私の最後の記憶は、頬で感じた、ナノハナの熱く乾いた地面の固さだ。大方、騒乱の流れ弾に倒れたのだろう。サーがあの世でどう生きたか、私は知らない。
次の世でも秘書の真似事をしたのはなぜなのか、自分でもわからない。いくつめかの派遣先でサーに会うまで、私は砂漠の国での思い出を、思い出とは呼べずにいた。黒髪を後ろに撫でつけたオールバック、顔を横断する薄い傷跡、左手の義手。ひとつひとつ、記憶のピースが嚙み合っていく中、最後に嵌まったピースは声だった。『新しい秘書というのは君か?』
「他意は、ありません」
嘘だ、本当はいつも探している。あなたが「サー」だと確信できる何かを。好きな葉巻、好きなお酒、好きな料理、苦手なもの。雨もそのひとつ。昔のあなたは、理由はわからなかったけれど、雨が嫌いにみえた。それは晴れを好んだわけじゃなく、渇きを好んでいるようで。あなたは常に何かに飢えていて、満足しなかった。
でも、あの日のサーは、いつになく上機嫌で、だから私は、お祝いの葉巻を。
「……雨は苦手だ」
社長が独り言みたいに呟く。そして、「雨はおれをひどく不自由にさせる。そんな気分になるものでね」と言いながらゆっくりと振り返り、飽きもせず社長の中に「サー」を探す私を見つめた。「おれが何を言っているかわかるか?」社長は私を見つめながら、そのもっと奥を覗き込むようだった。私は「はい」とも「いいえ」とも答えられず、ただ黙るしかない。
社長がおもむろに口を開く。
「なぜ、言いつけどおり街を出なかったんだ? お嬢さん」
社長ではない、サーの問いに何と答えるべきか。言葉より先に零れたのは涙だった。クハハ、と呆れたように笑うサーはぼやけて見えなくて、サーの声だけがやけにすぐそばで聞こえる。
「雨は苦手だと、そう言っているだろう?」
目の前でかつて焦がれた彼みたく雨が苦手と嗤う男はおしまい
「雨がお嫌いですか?」
朝から降りやまぬ雨を見つめながら、ぎり、と葉巻を噛みしめているように見える社長にそっと声をかける。地上三十階にあるこのフロアから見えるのは灰色の曇り空ばかりで、こうも優しい雨では音もせず降っているのかよくわからない。社長は雨に濡れるだけのモノトーンの街からは目を離さず、私の問いかけに問いで答えた。
「なぜ、そう思う?」
昔のあなたを知っているので、とは思うだけで決して口にしない。そばにいると何度も口をついて出そうになってしまうこの思いを、私は唇を噛んで胸の中にぐっと閉じ込める。その時の、うっ、と喉の詰まる感覚にも、もう慣れてしまった。それくらい、そばにいる。
「昔」というのは今から何年前、というわけではなく、きっと前世と説明される「いつか」。あなたは「砂漠の王」で「サー」だった。私は、レインディナーズで借金のカタにと置いて行かれた小娘で、あなたに拾ってもらって、秘書の真似事を。大変に優秀な副社長の補佐の補佐の補佐、くらいだったけれど、いなくても決して困らないが、あって邪魔なものでもない、くらいの働きはしたようで、サーが最後の作戦に打って出るというその日まで仕えた。
ナノハナにサーの葉巻を受け取りに行った私は、副社長からきつく言われていた。「明朝七時までに街を出るように」と。理由を知ったのは街が火の海になってからだ。「明日、珍しい葉巻が届くよ」と店主に教えてもらい、ナノハナに泊まってそれを待つことにしたのだが、それが運の尽き。私の最後の記憶は、頬で感じた、ナノハナの熱く乾いた地面の固さだ。大方、騒乱の流れ弾に倒れたのだろう。サーがあの世でどう生きたか、私は知らない。
次の世でも秘書の真似事をしたのはなぜなのか、自分でもわからない。いくつめかの派遣先でサーに会うまで、私は砂漠の国での思い出を、思い出とは呼べずにいた。黒髪を後ろに撫でつけたオールバック、顔を横断する薄い傷跡、左手の義手。ひとつひとつ、記憶のピースが嚙み合っていく中、最後に嵌まったピースは声だった。『新しい秘書というのは君か?』
「他意は、ありません」
嘘だ、本当はいつも探している。あなたが「サー」だと確信できる何かを。好きな葉巻、好きなお酒、好きな料理、苦手なもの。雨もそのひとつ。昔のあなたは、理由はわからなかったけれど、雨が嫌いにみえた。それは晴れを好んだわけじゃなく、渇きを好んでいるようで。あなたは常に何かに飢えていて、満足しなかった。
でも、あの日のサーは、いつになく上機嫌で、だから私は、お祝いの葉巻を。
「……雨は苦手だ」
社長が独り言みたいに呟く。そして、「雨はおれをひどく不自由にさせる。そんな気分になるものでね」と言いながらゆっくりと振り返り、飽きもせず社長の中に「サー」を探す私を見つめた。「おれが何を言っているかわかるか?」社長は私を見つめながら、そのもっと奥を覗き込むようだった。私は「はい」とも「いいえ」とも答えられず、ただ黙るしかない。
社長がおもむろに口を開く。
「なぜ、言いつけどおり街を出なかったんだ? お嬢さん」
社長ではない、サーの問いに何と答えるべきか。言葉より先に零れたのは涙だった。クハハ、と呆れたように笑うサーはぼやけて見えなくて、サーの声だけがやけにすぐそばで聞こえる。
「雨は苦手だと、そう言っているだろう?」
目の前でかつて焦がれた彼みたく雨が苦手と嗤う男はおしまい

ウォーターセブンの夏は暑い。ましてパウリーの部屋ときたらなおさら暑い。パウリーは「まあ飲めよ」と言って律儀に麦茶を差し出してくれたが、グラスの氷はみるみるうちに溶け、麦茶をただただ薄めるだけで、カクの手にしたグラスはすぐに汗をかいた。
パウリーの部屋が異様に暑いのは、この大きな窓のせいだ。特に夕方のこの時間は西日ばかりが入ってきて、間取りのせいか風が通りにくい。それでも革張りのソファはいくらか冷たいのか、家主を差し置いて、暑さに弱いルッチがそれを占領して寝転んでいる。当の家主は別にそれを咎めるでもなく黙って木製の椅子に腰かけた。カクはパウリーのベッドをソファ代わりにして、気休めに腕まくりをする。家主はこの暑さにはすっかり慣れっこなのか、一人いつもと変わらぬ快活さだ。
「そういえば、ハットリは連れてこなかったのか?」
『こんなクソ暑いところに居たら死ぬ……というのは冗談で、お前には見えないところで羽を休めているだけだ。ポッポー……』
「俺には見えませんけどいるんですね、ハットリも」
パウリーはそう言って椅子から立ち上がるとキッチンに向かった。戻ってくると、ルッチのグラスに氷をぽちゃんと追加する。ソファから動けないルッチがそれを横目で恨めしそうに見ていた。
「今日はまた一段と暑いのう」
カクは首元のジッパーを下げて、胸元を摘まみ、パタパタと風を送った。こもった熱が少しだけ逃げていく。
窓からは島のシンボルとなっている巨大な噴水も見えた。夕日を浴びてオレンジ色に染まっている。いつも勢いよく水を持ち上げ、空に打ち上げている噴水がカクは好きだった。それをパウリーの部屋から眺めるのも好きだ。海列車に乗るのも好きだったし、船大工の仕事も気に入っている。思っていたよりずっと、好きなものができたなと思う。
ルッチは暑さにうなだれ屍のようにうつ伏せでソファに横たわっていた。見かねたパウリーが「お前、何しに来たんだよ……おれんちが暑いって知ってんだろうが」と怪訝そうに腕と足を組む。ルッチは『別に、暇だったんだ』とぶっきらぼうに答えた。言い終わるや、カラン、と氷が溶ける音がした。ルッチにはまるで拷問のような音に聞こえているだろうな、とカクはルッチを不憫に思う。
「で? カク、お前はどうしたんだ?」
「なんじゃ。せっかくきてやったのに。休日に友人が訪ねてきたんじゃぞ。もっと喜ばんか」
カクは「まあ買い出しのついでじゃけど」と続けながら、 “友人”という言葉にちくりと胸を痛めた。ルッチの顔は見ないようにする。嘘ではない。嘘ではないのだが。いずれ、というほどでもない「もうすぐ」。パウリーが知らないだけで、別れはすぐそこまで迫っている。
「買い出しって、買ったものは?」
「……家に置いてきた」
「はあ? それ、ついでって言うか?」
ルッチが目だけで『馬鹿か』と言っているが、ルッチの方を見ようとしないカクには伝わらない。「なんでもいいじゃろ!」と雑に誤魔化すと、パウリーもそれ以上の詮索はやめた。
「なあ、少し早いけど飯食いに行かねえか? 暑いしよ。飲んでりゃいい時間になるだろ」
「だめじゃ」
『だめだ』
「あァ!?」
『まだそんな気分じゃない』
「まだ腹が空いとらん」
「お前ら……ほんと、何しに来たんだ?」
おれだって好きでこんなクソ暑いところに居るわけじゃない。ルッチの心の声がカクには聞こえた気がした。
◆
「おい! いい加減、もういいだろう? 俺は限界だ! 身体がアルコールを欲している!」
「わかった、わかった。そろそろ行くかのう」
『行くから黙れ』
太陽はようやく沈み、夜に支配権を明け渡す。パウリーの部屋の温度も多少下がり、ルッチが身体を起こして座れるようになり、言葉も取り戻してきたところだった。結局何をしに来たのかわからないままでも、いつものようにくだらない話をしていたらあっという間に日が傾いているのでカクは驚く。そうはいっても、まだ風はぬるく、夏の夜の匂いがする。そんななか、パウリーは意気揚々と酒場を目指した。その足取りを見たカクは、ああ、やっぱりパウリーは夏に生まれた男なんだなと妙に納得する。パウリーは纏う空気がすでに夏だ。
「ブルーノの酒場でいいよな?」
「おう」
『むしろ好都合だ』
「好都合?」
パウリーがいきなり足を止めたので、数歩分しかなかったパウリーとの間の距離が急にゼロになったルッチは、パウリーの後頭部に鼻をしたたかぶつけた。カクは幸いにして免れたが、ルッチは鼻を手でおさえて顔をしかめている。
「好都合ってなんだよ」
パウリーが振り向きざまに食って掛かってきた。カクとルッチは二人で顔を見合わせる。
『パウリーにしては上出来だ』
「百点満点じゃな。花丸もやろう」
ルッチは鼻声で、カクは子供を褒めるように言った。当のパウリーは「二人して何を企んでるんだ? さっさと吐け!」とルッチの胸倉をつかんでゆする。パウリーにされるがままのルッチをカクが笑いながら見守る。ブルーノの酒場まではあと十歩ばかりだ。
『おめでとう』
「はあ?」
「お? もうネタばらしか?」
『これ以上揺すられると吐く』ルッチが表情を変えずに言うので、パウリーが慌てて手を離した。ルッチは掴まれたタンクトップの襟ぐりが伸びていないか確かめている。
「誕生日おめでとう。今日じゃないのは知っとるが」
カクがそう言うとパウリーは案の定、口をだらしなく開けて呆けた。さっきまでルッチの胸倉を掴んでいた両の手も、だらりと身体の脇に垂れ下がる。カクはその開いた口に、リボンのついた上等な葉巻を突っ込んだ。パウリーが「うわあ」と声を上げて後ずさる。あと九歩。
「な、な、な、……」
パウリーがうろたえながら、後ろ向きにブルーノの酒場に近づいていく。あと四歩。
『種明かしが欲しいか? なら教えてやろう。おれ達がなんのためにあんなクソ暑い部屋にいたのか。今の今まで外に出なかったのは何故か。答えは簡単。お前がどこにも行かないように見張ってたんだ。もっと言えば、ブルーノの酒場に行かないように。お前に知られたくないことがあったんでな』
ルッチが一気にまくしたてるとパウリーは徐々に覚醒していくが、相変わらずリボンのついた葉巻は咥えたままだった。ルッチが一歩近づくと、パウリーは一歩後ずさる。そうしているうちにあと三歩。
「あいにく当日は船の納期が迫ってるじゃろ? それを知ったアイスバーグさんが、少し早いが今日、暑気払いもかねて祝おうじゃないかとブルーノの店を貸し切ってくれたんじゃ。……信じられん、って顔じゃな? じゃあ店に飛び込んだらいい。あと三歩じゃぞ」
カクが言い終わらないうちに、店のドアが開いた。待ちきれなくなったタイルストンの仕業に決まっている。そこから漏れ出る喧騒とエールの泡と笑顔。つられてそちらを振り向いたパウリーの表情は、もう窺えない。けれど、駆けだしたパウリーの足取りはまるで宙に浮くかのよう!
三、二、一、〇!
パン、パン、パン。クラッカーが鳴り響いた。うおお、という雄叫びや、きゃあ、という黄色い声が聞こえてきて、カクは自分の役目は無事に果たしたと胸を撫でおろした。そして、隣の男を盗み見る。
「まさかルッチがこんな企画にのるとはのう」
「……“友人”として自然な対応を選んだだけだ」
「そうじゃな。完璧じゃった」
誕生日おめでとう、パウリー。
おしまい
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