名前変換登録:苗字 名前
苗字:
名前:
カテゴリ「夢小説」に属する投稿[68件](3ページ目)
光差す #カク
そのたばこ屋は商店街の片隅、角にあった。たばこ屋、とは昔の名残で、今は食べ物や雑貨も扱っている。カウンターも併設しているこの島では珍しい形だ。店は用がなければ立ち入らないだろう路地に面していて、市場の喧騒はすっと遠ざかる。話し声も足元も届きにくい。だからなのか、客は常連ばかりで、祖母が店を閉めよう、と言い出すのも最もだとウカは思っていた。
店を継ぐ、と張り切ってやってきたわけではない。ちょうど職を失ってどうしようかと思案していた時に親族から、暇をしているならしばらくやってやれ、と言われただけだ。それを聞いた祖母は、どうせ閉めようと思っていた店だ、潰してもいい、とからから笑った。ウォーターセブンは水路が張り巡らされた美しい島でありながら、工業が盛んで活気のある島。一度くらいは住んでみたかったから、渡りに船だと気軽な気持ちで引き受けた。まあ、ほんの少しだけ「何か変われば」なんて期待もした。ほんの少し。
客は意外にも老若男女、幅広い。近所の住人が、ちょっとしたものを買うのにやってくるからだ。幅広い、が、頻度は高くない。朝早く、初老の男性が新聞を買ったかと思うと、閉店間際にふくよかな女性が、洗剤が切れた、と駆け込んできたりする。
「いつもの」
彼も常連の一人だった。葉巻が切れるとやってきて、ついでにヤガラレースのチケットも買い求めていく。その男がガレーラカンパニーの一番ドック職長でパウリーという名だというのは、サン・ファルドからやってきたウカでも知り得る情報だった。
雑談はしない。先代の祖母はしていたのかもしれないが、ウカは求められなければ声はかけなかった。ただカウンターに座り、往来の人──といっても近所の住人ばかりだが──を日がな一日眺める。カウンターで用が済めば立ち上がりさえしない。ドアを開けて入ってくれば、いらっしゃい、くらいは声をかけ微笑むことだけは気をつけていた。
葉巻の彼にはツレがいることが多かった。ツレの男も、この島では知らぬ者はいないだろうという有名人。名前はカクというらしい。彼らは気が合うらしく、二人で笑いながらやってくることが多かった。ただ、商品を買い求めるのはもっぱらパウリーの方で、カクは毎回物珍しそうに色々眺めるわりに、パウリーの会計が終わるとすべての興味を失うようだ。パウリーの買い物は路地に面したカウンターで済むことが多く、彼らが店内に足を踏み入れることはない。でも、カウンター越しに彼らの話がちょっと聞こえるのは、結構いい時間だった。賑やかだけどうるさくない。そんな感じ。
「また懲りずに……」「おれの金だ」「借金しとるやつの台詞じゃないじゃろ」「これで一発当てて返すんだよ」「お主、まさかそこまで……」「お前、『アホかこいつ』って顔に書いてあんだよ!」
ウカはこういうとき、レジ作業でもする振りをして、彼らの背景であろうと努めていた。会話には決して加わらない。吹き出したりもしない。でもそっと、彼らを盗み見るようにする。ときたま、カクとだけちらりと目が合い、瞬間、ばつが悪い気持ちになるが、謝るのも違う気がして結局言葉を交わすことはない。そういう日々だった。

『パウリー』が店に来なくなって二週間が過ぎた。もちろんツレの彼も。理由は、近所の店の店員でしかないウカには知る術もない。常連の客がふっと顔を見せなくなるのはよくあることだ、と祖母も言っていた。客を無理矢理引っ張っては来れない、待つしかないね、と。わかってはいるが、来ないとなんだか拍子抜けだ。無駄かもしれないのに葉巻の在庫を確認してしまう。『パウリー』が来なければ、『カク』も来ない。当たり前のことだ。肩肘をつきカウンターから眺める往来は、店内の暗さも相まってスローシネマの風情がある。そのため睡魔に襲われやすい──……。
「いつもの」
声というより音に反応して、ウカははっと顔をあげる。店の外、つまりカウンター前ではない。声がしたのは店内だ。椅子をガタつかせながら急いで振り向くと、そこにいたのはカクの方だった。
「い、いらっしゃいませ。すみません」
カクはウカのうたた寝には触れず、商品棚をざっと見回し、煙草が並ぶ列に視線を止めた。
「パウリーの使いでの。パウリー、知っとるか?あいつの『いつもの』はこれ、かの?」
カクはウカに顔を向けることなく、左手をポケットに入れたまま右手の人差し指で商品棚の煙草を指差した。ぎこちない手つきで示すそれは生憎違う銘柄だ。
「ただいまお持ちします」
彼らはここのところ顔を見せないから、と奥にしまっていたのだ。奥からパウリーがいつも吸う葉巻を取って戻ってくる。カクはこの店で唯一光が差し込むドアを背にしており、ウカのほうを向いていたが、逆光で表情がわかりづらかった。ありがとう、の声音でなんだか安心した。値段を告げ、紙幣を受け取り、釣りを渡す。すべてが初めてのことだったが、それももう終わる。
「ありがとうございました」
カクは葉巻を片手に、店のドアを押した。店の入口は長身のカクには少しだけ低く、屈むように腰を曲げた。カクはそこでちらりと、ウカを振り返る。
「……を」
店内には外の喧騒が届かず、いつも静かなはずなのに、その声はウカに届かなかった。ウカは迷って、聞き返す。
「なにか……?」
「名前を」
なまえ、を。
「聞いてもいいじゃろうか?」
私の?
カクは自らの畏まった問いに照れているようで、音のしない店内でそのままかき消えてもおかしくなかったが、ウカの耳は今度はしっかりとその問いをとらえた。ウカは戸惑いながらも、わずかに頬が緩む自分に気づく。
「──ウカ、です」
「ウカ。そうか。パウリーに尋ねても、知らんというから」
あの役立たずめ、とカクは肩を竦め店を後にする。あっという間だった。滅多に鳴らないドアベルの音だけが残る。
彼はまた一人でも来るだろうか。名前を聞かれた、ただそれだけのことだったが、なんとなく彼はまた来るような気がして、ふと気になってドアのガラスを磨いてみる。
今度は私も彼の名前を呼んでみようか、と思いながら。磨いたガラスは一層──。
おしまい
そのたばこ屋は商店街の片隅、角にあった。たばこ屋、とは昔の名残で、今は食べ物や雑貨も扱っている。カウンターも併設しているこの島では珍しい形だ。店は用がなければ立ち入らないだろう路地に面していて、市場の喧騒はすっと遠ざかる。話し声も足元も届きにくい。だからなのか、客は常連ばかりで、祖母が店を閉めよう、と言い出すのも最もだとウカは思っていた。
店を継ぐ、と張り切ってやってきたわけではない。ちょうど職を失ってどうしようかと思案していた時に親族から、暇をしているならしばらくやってやれ、と言われただけだ。それを聞いた祖母は、どうせ閉めようと思っていた店だ、潰してもいい、とからから笑った。ウォーターセブンは水路が張り巡らされた美しい島でありながら、工業が盛んで活気のある島。一度くらいは住んでみたかったから、渡りに船だと気軽な気持ちで引き受けた。まあ、ほんの少しだけ「何か変われば」なんて期待もした。ほんの少し。
客は意外にも老若男女、幅広い。近所の住人が、ちょっとしたものを買うのにやってくるからだ。幅広い、が、頻度は高くない。朝早く、初老の男性が新聞を買ったかと思うと、閉店間際にふくよかな女性が、洗剤が切れた、と駆け込んできたりする。
「いつもの」
彼も常連の一人だった。葉巻が切れるとやってきて、ついでにヤガラレースのチケットも買い求めていく。その男がガレーラカンパニーの一番ドック職長でパウリーという名だというのは、サン・ファルドからやってきたウカでも知り得る情報だった。
雑談はしない。先代の祖母はしていたのかもしれないが、ウカは求められなければ声はかけなかった。ただカウンターに座り、往来の人──といっても近所の住人ばかりだが──を日がな一日眺める。カウンターで用が済めば立ち上がりさえしない。ドアを開けて入ってくれば、いらっしゃい、くらいは声をかけ微笑むことだけは気をつけていた。
葉巻の彼にはツレがいることが多かった。ツレの男も、この島では知らぬ者はいないだろうという有名人。名前はカクというらしい。彼らは気が合うらしく、二人で笑いながらやってくることが多かった。ただ、商品を買い求めるのはもっぱらパウリーの方で、カクは毎回物珍しそうに色々眺めるわりに、パウリーの会計が終わるとすべての興味を失うようだ。パウリーの買い物は路地に面したカウンターで済むことが多く、彼らが店内に足を踏み入れることはない。でも、カウンター越しに彼らの話がちょっと聞こえるのは、結構いい時間だった。賑やかだけどうるさくない。そんな感じ。
「また懲りずに……」「おれの金だ」「借金しとるやつの台詞じゃないじゃろ」「これで一発当てて返すんだよ」「お主、まさかそこまで……」「お前、『アホかこいつ』って顔に書いてあんだよ!」
ウカはこういうとき、レジ作業でもする振りをして、彼らの背景であろうと努めていた。会話には決して加わらない。吹き出したりもしない。でもそっと、彼らを盗み見るようにする。ときたま、カクとだけちらりと目が合い、瞬間、ばつが悪い気持ちになるが、謝るのも違う気がして結局言葉を交わすことはない。そういう日々だった。
『パウリー』が店に来なくなって二週間が過ぎた。もちろんツレの彼も。理由は、近所の店の店員でしかないウカには知る術もない。常連の客がふっと顔を見せなくなるのはよくあることだ、と祖母も言っていた。客を無理矢理引っ張っては来れない、待つしかないね、と。わかってはいるが、来ないとなんだか拍子抜けだ。無駄かもしれないのに葉巻の在庫を確認してしまう。『パウリー』が来なければ、『カク』も来ない。当たり前のことだ。肩肘をつきカウンターから眺める往来は、店内の暗さも相まってスローシネマの風情がある。そのため睡魔に襲われやすい──……。
「いつもの」
声というより音に反応して、ウカははっと顔をあげる。店の外、つまりカウンター前ではない。声がしたのは店内だ。椅子をガタつかせながら急いで振り向くと、そこにいたのはカクの方だった。
「い、いらっしゃいませ。すみません」
カクはウカのうたた寝には触れず、商品棚をざっと見回し、煙草が並ぶ列に視線を止めた。
「パウリーの使いでの。パウリー、知っとるか?あいつの『いつもの』はこれ、かの?」
カクはウカに顔を向けることなく、左手をポケットに入れたまま右手の人差し指で商品棚の煙草を指差した。ぎこちない手つきで示すそれは生憎違う銘柄だ。
「ただいまお持ちします」
彼らはここのところ顔を見せないから、と奥にしまっていたのだ。奥からパウリーがいつも吸う葉巻を取って戻ってくる。カクはこの店で唯一光が差し込むドアを背にしており、ウカのほうを向いていたが、逆光で表情がわかりづらかった。ありがとう、の声音でなんだか安心した。値段を告げ、紙幣を受け取り、釣りを渡す。すべてが初めてのことだったが、それももう終わる。
「ありがとうございました」
カクは葉巻を片手に、店のドアを押した。店の入口は長身のカクには少しだけ低く、屈むように腰を曲げた。カクはそこでちらりと、ウカを振り返る。
「……を」
店内には外の喧騒が届かず、いつも静かなはずなのに、その声はウカに届かなかった。ウカは迷って、聞き返す。
「なにか……?」
「名前を」
なまえ、を。
「聞いてもいいじゃろうか?」
私の?
カクは自らの畏まった問いに照れているようで、音のしない店内でそのままかき消えてもおかしくなかったが、ウカの耳は今度はしっかりとその問いをとらえた。ウカは戸惑いながらも、わずかに頬が緩む自分に気づく。
「──ウカ、です」
「ウカ。そうか。パウリーに尋ねても、知らんというから」
あの役立たずめ、とカクは肩を竦め店を後にする。あっという間だった。滅多に鳴らないドアベルの音だけが残る。
彼はまた一人でも来るだろうか。名前を聞かれた、ただそれだけのことだったが、なんとなく彼はまた来るような気がして、ふと気になってドアのガラスを磨いてみる。
今度は私も彼の名前を呼んでみようか、と思いながら。磨いたガラスは一層──。
おしまい
ミラクルスコールパニック #カク
これは偶然に偶然が重なった奇跡で多分もう二度と私の人生に同じことは起こらない。
ミラクルスコールパニック
まずいまずいまずい。
ウカはさっきから強制終了したがっている脳みそを、あと少し、あと少しだけ、となんとかなだめすかしているものの、なだめすかしている司令塔には実のところ何のゴールも見えておらず、とにかく途方に暮れており、目下倒れないことだけを目標にしていた。
ウカの部屋はアクア・ラグナの浸水予想エリアに位置しており、もちろん今夜は避難が必要なのだが、先ほどの急な通り雨で避難のためまとめた荷物はおろか本人も漏れなくびしょ濡れ、おまけに本人は発熱中ときている。びしょ濡れのまま冷たい床の上で一晩過ごすことを考えると、身体の芯からぞっとした。かといって、これから部屋に戻って大家さんが整えてくれた鉄戸を外し、着替え、荷物をまとめなおし、また鉄戸をはめて麻を詰める? 絶対に無理だ。その間に無情にもアクア・ラグナはやってくる。仲の良い同僚ももうみんな避難してしまっているだろう。第一、互いの家を知るほど仲の良い同僚はそれほど多くない。かくなるうえは。
「いやわからん」
もう無理。もう、無理だった。濡れた荷物は重いし、頭はぼうっとするし、身体は熱いのに寒気はすごいし、肌にはりつく髪も服も気持ちが悪い。誰か。
「おいッ! ウカさん、しっかりせい!」
意識が遠のく直前に脳に響いた声は、一方的に良く知る有名人のものだった。気がする。

「お願いじゃから起きとくれ~」
気を失っていたらしい。ウカは今にも泣きだしそうな懇願で一時覚醒し、自身がおぶわれていることに気づく。うわっ、と身体を離そうとするがあまり力が入らず、自分の驚きと身体の反応が食い違うことにまた驚いた。
「おお、良かった良かった。気づいたんじゃな」
背中で大荷物と化していた人間が動き出したことに気づいたカクは、いかにもほっとした、といった風情で大きく息を吐いた。びしょ濡れじゃし着替えさせんと、と思っとったから本当に助かった、と続く。カクはドアの前で鍵を探していた。ここは、どこだ。
部屋に入ると右手側にシンクやコンロのキッチンスペースがあり、そのままこじんまりとしたリビングダイニングが広がっていた。キッチンカウンターにはバナナや買い置きのパン、コーヒーミルが置かれている。
「ほれ、椅子。座っとれ」
ダイニングチェアにウカを座らせ、カクは奥の部屋へと消えた。ウカは何が起こっているのかわからないまま、ただひたすらに、倒れてしまわないことだけに集中した。
「よし、立てるか?」
いつの間にか目の前にいたカクの言葉は、疲れと熱と寒さでぐずぐずになったウカの脳に簡単に届いた。言われるがまま立ち、カクに手を引かれ、ふらふらと奥の部屋へと歩いていく。
奥の部屋は寝室だった。ベッドの上に、タオルと服が置いてある。カクがダイニングチェアを運び入れながら言った。
「ひとまず濡れた服は着替えんと。貸せそうなのはそれしかないが、乾いてるだけましじゃろ。脱いで、身体を拭いて、それを着る。わかったか?」
ウカの力ない首が、こくこく、と上下に揺れた。そのままカクの目の前で濡れた服の裾に手をかけるとカクが慌てて、わしが出てからじゃ! と叫ぶ。ウカはぼんやりした頭で、それもそうかと思いつつ、また、こくこく、と首を振った。
濡れた服は重く、床に落ちると、びしゃ、と音を立てた。椅子に座りながら、朦朧としつつ、もたもたと着替えていく。ブラウスと下着を脱ぎ、乾いたタオルで髪と上半身を拭くと、それだけで随分さっぱりする。だが、下半身の不快さもより際立つことになった。一刻も早く、乾いた布に包まれたい。はやる気持ちで、残りも同じように脱いで、拭いて、着る。乾いた服に包まれる心地よさと言ったらなかった。
扉の向こうから、着替え終わったか? とカクに呼びかけられる。はい、と答えると、随分間があったあと、ドアが恐る恐るといった雰囲気で開いた。
「おお、ちゃんと着替えられたんじゃな。服はこれに。わしが触るわけにもいかんじゃろうから、すまんが明日にでも自分でなんとかしてくれ」
洗面器を差し出しながらカクが言う。ウカは一刻も早く横になりたくて、また適当に頷いた。その様子があまりにもわかりやすかったのか、カクが苦笑する。
「わかったわかった。もうじき雨と風も強くなる。さっさと寝よう。わしはこっちの部屋で寝るからの。ほれ、これ水。おやすみ」
カクは必要事項だけ淡々と述べて、ドアを閉めた。ウカはもぞもぞとベッドにもぐりこんだ。使ったタオルは椅子の背にかけ、使わなかったタオルは枕に敷いて顔をうずめる。知らない家のにおいだが不快ではない。むしろ安心するにおいだ。深く息を吸いながら、薄手のコットンブランケットと毛布にくるまって、ウカはこんこんと眠った。

「ほんっっっっっとうに! すみませんでしたっ!!」
翌日目を覚ましたウカは、熱も下がり血の気も引いていた。途切れ途切れになっている自身の記憶をつなぎ合わせても、いま目の前に広がる光景も、すべてが『意識がもうろうとする中カクさんの部屋に泊めてもらった』以外何物でもなかったからだ。アクア・ラグナは夜中のうちにすっかり通り過ぎており、空は憎らしいほどの快晴だった。
そうっと寝室のドアを開けると、カクはすでに起きて身支度を済ませており、顔をまともに見れないウカに気がつくと、随分顔色がましになって良かった、と笑った。
「服もタオルも洗って会社で返しますので、どうか今日はこのまま持ち帰らせてください」
着て帰れる服もないですし。ウカが下を向いてそれだけいうと、カクはもう一枚羽織るものを、と大きめのシャツも貸してくれた。ノーブラ・ノーパンに気づかれているからなのか、確かめる勇気はないし、カクさんの笑顔は純度百パーセント善意に思えるので、私も黙って笑顔で借りた。ほんとすみません。
会社の、街の、島の、有名人の! 服を借りて! 部屋に泊めてもらうなんて!
これは偶然に偶然が重なった奇跡で多分もう二度と私の人生に同じことは起こらない。それが死ぬほど悔しかった。せめて意識がはっきりしていたら、と思うが、意識がはっきりしていたらそもそもこんなことにはなっていなかっただろうから難しい。
「本当にありがとうございました。お世話になりました」
「おう、お大事にの」
玄関で見送ってくれるカクさんにぺこりと頭を下げる。朝日に照らされキラキラしている濡れた石畳を、はああああ、と大きなため息をつきながら踏んでいく。
「今度は元気な時に来るんじゃぞ」
「へっ!?」
素っ頓狂な声をあげた私を、カクさんが堪えきれずに笑っている。
これは偶然に偶然が重なった奇跡で多分もう二度と私の人生に同じことは起こらない。はずだった。また熱が上がりそうだ。
おしまい
これは偶然に偶然が重なった奇跡で多分もう二度と私の人生に同じことは起こらない。
ミラクルスコールパニック
まずいまずいまずい。
ウカはさっきから強制終了したがっている脳みそを、あと少し、あと少しだけ、となんとかなだめすかしているものの、なだめすかしている司令塔には実のところ何のゴールも見えておらず、とにかく途方に暮れており、目下倒れないことだけを目標にしていた。
ウカの部屋はアクア・ラグナの浸水予想エリアに位置しており、もちろん今夜は避難が必要なのだが、先ほどの急な通り雨で避難のためまとめた荷物はおろか本人も漏れなくびしょ濡れ、おまけに本人は発熱中ときている。びしょ濡れのまま冷たい床の上で一晩過ごすことを考えると、身体の芯からぞっとした。かといって、これから部屋に戻って大家さんが整えてくれた鉄戸を外し、着替え、荷物をまとめなおし、また鉄戸をはめて麻を詰める? 絶対に無理だ。その間に無情にもアクア・ラグナはやってくる。仲の良い同僚ももうみんな避難してしまっているだろう。第一、互いの家を知るほど仲の良い同僚はそれほど多くない。かくなるうえは。
「いやわからん」
もう無理。もう、無理だった。濡れた荷物は重いし、頭はぼうっとするし、身体は熱いのに寒気はすごいし、肌にはりつく髪も服も気持ちが悪い。誰か。
「おいッ! ウカさん、しっかりせい!」
意識が遠のく直前に脳に響いた声は、一方的に良く知る有名人のものだった。気がする。
「お願いじゃから起きとくれ~」
気を失っていたらしい。ウカは今にも泣きだしそうな懇願で一時覚醒し、自身がおぶわれていることに気づく。うわっ、と身体を離そうとするがあまり力が入らず、自分の驚きと身体の反応が食い違うことにまた驚いた。
「おお、良かった良かった。気づいたんじゃな」
背中で大荷物と化していた人間が動き出したことに気づいたカクは、いかにもほっとした、といった風情で大きく息を吐いた。びしょ濡れじゃし着替えさせんと、と思っとったから本当に助かった、と続く。カクはドアの前で鍵を探していた。ここは、どこだ。
部屋に入ると右手側にシンクやコンロのキッチンスペースがあり、そのままこじんまりとしたリビングダイニングが広がっていた。キッチンカウンターにはバナナや買い置きのパン、コーヒーミルが置かれている。
「ほれ、椅子。座っとれ」
ダイニングチェアにウカを座らせ、カクは奥の部屋へと消えた。ウカは何が起こっているのかわからないまま、ただひたすらに、倒れてしまわないことだけに集中した。
「よし、立てるか?」
いつの間にか目の前にいたカクの言葉は、疲れと熱と寒さでぐずぐずになったウカの脳に簡単に届いた。言われるがまま立ち、カクに手を引かれ、ふらふらと奥の部屋へと歩いていく。
奥の部屋は寝室だった。ベッドの上に、タオルと服が置いてある。カクがダイニングチェアを運び入れながら言った。
「ひとまず濡れた服は着替えんと。貸せそうなのはそれしかないが、乾いてるだけましじゃろ。脱いで、身体を拭いて、それを着る。わかったか?」
ウカの力ない首が、こくこく、と上下に揺れた。そのままカクの目の前で濡れた服の裾に手をかけるとカクが慌てて、わしが出てからじゃ! と叫ぶ。ウカはぼんやりした頭で、それもそうかと思いつつ、また、こくこく、と首を振った。
濡れた服は重く、床に落ちると、びしゃ、と音を立てた。椅子に座りながら、朦朧としつつ、もたもたと着替えていく。ブラウスと下着を脱ぎ、乾いたタオルで髪と上半身を拭くと、それだけで随分さっぱりする。だが、下半身の不快さもより際立つことになった。一刻も早く、乾いた布に包まれたい。はやる気持ちで、残りも同じように脱いで、拭いて、着る。乾いた服に包まれる心地よさと言ったらなかった。
扉の向こうから、着替え終わったか? とカクに呼びかけられる。はい、と答えると、随分間があったあと、ドアが恐る恐るといった雰囲気で開いた。
「おお、ちゃんと着替えられたんじゃな。服はこれに。わしが触るわけにもいかんじゃろうから、すまんが明日にでも自分でなんとかしてくれ」
洗面器を差し出しながらカクが言う。ウカは一刻も早く横になりたくて、また適当に頷いた。その様子があまりにもわかりやすかったのか、カクが苦笑する。
「わかったわかった。もうじき雨と風も強くなる。さっさと寝よう。わしはこっちの部屋で寝るからの。ほれ、これ水。おやすみ」
カクは必要事項だけ淡々と述べて、ドアを閉めた。ウカはもぞもぞとベッドにもぐりこんだ。使ったタオルは椅子の背にかけ、使わなかったタオルは枕に敷いて顔をうずめる。知らない家のにおいだが不快ではない。むしろ安心するにおいだ。深く息を吸いながら、薄手のコットンブランケットと毛布にくるまって、ウカはこんこんと眠った。
「ほんっっっっっとうに! すみませんでしたっ!!」
翌日目を覚ましたウカは、熱も下がり血の気も引いていた。途切れ途切れになっている自身の記憶をつなぎ合わせても、いま目の前に広がる光景も、すべてが『意識がもうろうとする中カクさんの部屋に泊めてもらった』以外何物でもなかったからだ。アクア・ラグナは夜中のうちにすっかり通り過ぎており、空は憎らしいほどの快晴だった。
そうっと寝室のドアを開けると、カクはすでに起きて身支度を済ませており、顔をまともに見れないウカに気がつくと、随分顔色がましになって良かった、と笑った。
「服もタオルも洗って会社で返しますので、どうか今日はこのまま持ち帰らせてください」
着て帰れる服もないですし。ウカが下を向いてそれだけいうと、カクはもう一枚羽織るものを、と大きめのシャツも貸してくれた。ノーブラ・ノーパンに気づかれているからなのか、確かめる勇気はないし、カクさんの笑顔は純度百パーセント善意に思えるので、私も黙って笑顔で借りた。ほんとすみません。
会社の、街の、島の、有名人の! 服を借りて! 部屋に泊めてもらうなんて!
これは偶然に偶然が重なった奇跡で多分もう二度と私の人生に同じことは起こらない。それが死ぬほど悔しかった。せめて意識がはっきりしていたら、と思うが、意識がはっきりしていたらそもそもこんなことにはなっていなかっただろうから難しい。
「本当にありがとうございました。お世話になりました」
「おう、お大事にの」
玄関で見送ってくれるカクさんにぺこりと頭を下げる。朝日に照らされキラキラしている濡れた石畳を、はああああ、と大きなため息をつきながら踏んでいく。
「今度は元気な時に来るんじゃぞ」
「へっ!?」
素っ頓狂な声をあげた私を、カクさんが堪えきれずに笑っている。
これは偶然に偶然が重なった奇跡で多分もう二度と私の人生に同じことは起こらない。はずだった。また熱が上がりそうだ。
おしまい
空欄に泣く#カク
それはカクが私をずっと前から監視していたことを示す証拠にしか見えなかった。
空欄に泣く
別れよう。
そのカードがポストに入っていることに気づいたのは、前代未聞の被害をもたらしたアクア・ラグナが去って数日後だった。幸い自宅は浸水しなかったけど、実家や会社はまあまあ被害が大きかったのでバタバタしていて、ポストを確認するのを忘れていたのだ。そもそも郵便配達はまだ復旧していなかったし、その状況でたまたまポストを開けたのは普段の習慣に他ならない。
それには切手も貼られてなかったから、カクが自分でこのポストに入れに来たんだろうとわかった。タイミングからいって恐らく、私がアクア・ラグナから避難している最中だ。外道、以外何があるだろう。
え、『別れよう』ってなに? 普段はおじいちゃんみたいな話し方してるくせに。なに手紙だと改まってんの? そこは貫いてよ。いや、手紙って言えるほどのものじゃないけどね? これ。いや、そうじゃなくて、なに。ほんと、これ。なに?
瞬間、カードをぐしゃりと握りしめ駆け出していた。なんなの? カクが書いたの? 本当に? なんで? こんなふうに別れることってあるの? 手紙ではいさよなら、って。一年! 一年付き合ってこの程度? だって、なんで? なんで? 色んなハテナが浮かんで消えて、また浮かぶ。迫りくるたくさんの『なんで』に押しつぶされてしまいそうで、振り切るような気持ちでガレーラカンパニーへ続く石畳を蹴り飛ばし続けた。
辿り着いた一番ドックの大扉前では、腰回りに何本もの工具をぶら下げた数名の職人が、紙束を片手にあれこれ相談を重ねているようだった。まだ午前中だというのに服は泥だらけだ。街にはまだ瓦礫が多く残っている。復旧作業の段取りをつけているのだろう。ぜえはあと肩で息をしながら、吸えた少しの息で出せるだけの大声を出す。
「カクッ、はどこ!」
「おわっ! ウカさん!? え、カクさん?」
声に驚いた職人は私とカクの名を呼び、え? なんで? どうした? と問うだけで、肝心の答えがもらえない。そんなのこっちが聞きたいのに。もう一度カクの居場所を問おうと息を吸ったその時──
「カクは里帰りだ」
パウリーが包帯だらけの姿で現れた。パウリーさん! 寝ててください! と職人たちが慌てふためき、うるせえ! とパウリーが一喝する。普段なら彼の包帯の理由を根掘り葉掘り問いただすところだが、今日はそれどころではない。
「さと、がえり?」
職人たちがほんの一瞬、顔を見合わせるが、睨み続けると沈黙に耐え切れなくなった職人の一人が口を開く。
「そ、そうらしいですよ。おれらも詳しいことは知らなくて」
ウカさんが知らねえってことも知らなくて、と言葉尻はどんどん萎んでいった。
「つまり、カクは。もうここにいないの?」
「ええ、そうです」
「この島にも、いない?」
「おそらく」
なんだそれ。
拳をぎりぎりと握りしめると、カードがこれ以上はもう無理というところまで圧縮されさらに細くなった。爪が手のひらに食い込む。
怒りの発散どころはまるで見つからず、怒りは募り膨らむばかりだ。
「あ、パウリーさん! ちょうどよかった。カクさんの私物、どうします?」
ドックの奥からパウリーを見つけた職人がそう声をかけてきた。
「お前ッ! ばか!」
「カクの私物?」
私が聞き返すと、ばか、と怒鳴られた若い職人は、それを自分への罵倒と受け取らなかったのか、状況が良くわからなかったのか、とにかくすらすらと説明を始めた。
「ああ。会社のロッカーとかデスクに置いてたやつです。つっても、カクさん、そんなに私物置くタイプじゃなかったし、もう箱に詰めてあったんですけどね。火事で焼けちゃったかと思ってましたけど、残ってたんですよねえ」
彼の抱えていた箱は彼の言うとおり小さかった。パウリーはちっと舌打ちして、私の方は見ないようにしながら、後で指示するからひとまず戻れと職人を手で追い返す。
「まって」
パウリーの業務命令に待ったをかけたのは私だ。
「私が引き取るよ。処分しておく」
「おい、そりゃあ」
「いいよ。大丈夫。カクが面倒かけてごめんね」
「助かります」
パウリーは何も言わなかった。言わないでくれた。
空気の読めない職人から受け取った箱は想像よりずっと軽くて、なんだかそれは、カクの残していった思いの量にも思え、やっぱり腹が立った。
カクの部屋への道中、箱の中身は箱に何度もぶつかりガタガタと音を立てる。荷物をまとめた職人が言うように、大した量ではないのだろう。今歩いているこの道は、カクと並んでよく歩いた。今はまだ水が引いていないところもあり、気をつけないと水たまりを踏むことになる。抱えていた箱のせいで視界が悪く、私は何度も水たまりを踏んだ。断じて涙で滲んだ視界のせいではない。
見慣れたドアの前で取り出した鍵はやけに冷たく感じた。開けて、薄暗い部屋に入ること思うとしんどい。それでも開けるしかない。ちょっと押すだけでドアは簡単に開いた。微かにギィ、と音がしただけで、あとはしんとしている。
いつもなら、ダイニングテーブルには何枚もの設計図が広がっていたし、キッチンにはりんごとかバナナとかの果物とか買い置きのパンが置いてあった。椅子にはカクの上着がかかってたりしたし、ベッドの上にはとりあえず取り込んだ洗濯物が詰まれてたりした。
もう、違う。
ダイニングテーブルの上にもキッチンにも何もない。カクの上着も洗濯物も全部。小脇に抱えていた箱をダイニングテーブルの上に置いて、目についた食器棚を開ける。ぽつんと残っていたのは、マグカップだった。カクとおそろいで買ったマグカップ。心臓が潰れるかと思った。
二人で選んだ形。色は真っ白じゃない、乳白色。カクの部屋で過ごすときは、水も白湯も、コーヒーも紅茶も牛乳も全部それで飲んだ。同じマグカップだったけど、上から見るとちょっとだけ丸がいびつな方があって、まん丸の方が私の。そう決めていた。
わざわざこんなふうに置いていくくらいなら、捨てればよかったのに。唇をぎりぎりと噛む。他にも、と思い棚を片っ端から開けると、私の着古したTシャツや貸しっぱなしになっていた本などがマグカップと同じように律義に置いていかれていた。
部屋の物は徹底的に処分しておきながら、会社に置きっぱなしの私物はどうして処分しなかったのだろう。整理はしていたようなのに。このまま怒りに任せて、中を改めず箱ごと処分しても良かったのだが、どうしてもそうはできなかった。だって、中に何が。
箱を開けながらダイニングチェアに腰かけて、あ、と思う。がたついていた椅子。以前私が座って、ぐらつきに驚いて、変な声が出て──。今日はぐらつかない。いつの間にか直したんだ。この部屋では、どうあがいても思い出が付きまとう。
箱を開けると、気のせいか焦げたような匂いがした。焼けずに済んだ、と言っていたが、焼けかけたのかもしれない。中には使い込まれた腰道具一式や皮手袋、メモ帳と赤鉛筆が数本。それから──紙束と写真? なんだろうと箱の底から引き抜いたそれは創立三周年記念に社員全員で撮った集合写真だった。私の顔に丸がつけてあり、写真の裏には走り書きでこう書いてあった。──No.9 ウカ。
目を疑った。背筋がじわりと冷え、汗がつう、と伝う。足先からぶるっと震えが伝わってくる。これは、なに。一緒に束ねてあった紙束を慌てて引っ掴み、上から順に捲っていく。
そのメモには、日付とあわせて私の短い行動記録のようなものが綴られていた。去年の三月から始まっている。主に平日の朝と夜、そして休日。メモは何かの下書きみたいで、赤でチェックが入っていたり、線が引いてあったりした。
──三月九日、調査開始。自宅を出るのは朝八時頃。昼食を買ってから出勤。勤務終了後はまっすぐ自宅に帰ることが多い。交際相手なし。報告済み。
──三月十五日。休日はタオルケットとシーツを洗うのがルーティーンのよう。自宅近くの商店街が行きつけ。頻度は多め。一日おき。報告済み。
──三月二十八日。勤務終了後、同僚と会食へ。送別会。女性三人。報告済み。
──四月一日。花屋に立ち寄り花を一輪買い求めていた。店員は女性。報告済み。
──四月七日。職場で出入りの業者と親し気に話していた。業者は男性。既婚者。愛妻家と評判。報告済み。
私とカクが付き合い始めたのは、去年の夏。その少し前から、ちょいちょい話しかけられるようになって、ある時、一番ドック内で顧客の海賊に絡まれそうになったところをカクが助けてくれて、それで。お礼にクッキーをあげて。そしたら、カクから告白されて、付き合った。つい二日前まで。
けどこれは? これは、明らかに『たまたま私を見かけたからメモした』の域を超えている。カクは私に告白するずっと前から、私を観察してたってこと? 調査? 報告? なんのために? 急に怖くなって、箱の中身を全部ひっくり返した。部屋に残っている物も全部かき集めてダイニングテーブルに集める。似たようなメモがまだあるんじゃないか。何か、このメモを説明してくれる他の何かが。
でも部屋は、磨き上げられたように埃ひとつ残っていない。マグカップやTシャツや本は、そんな部屋に取り残されていたのだ。これら以外、この部屋からは何も見つからなかった。どうしよう、どうしよう。これ以上、知らないカクを知るのは怖い。今朝知ったばかりだが、『別れ話を一行で済ませようとする男』だって、私の知らなかったカクなのだ。これだけで精いっぱいだったのに。
カクは──よくわからないけど、私に近づく必要があったのかもしれない。これはその下調べに見える。そして、これは絶対にガレーラカンパニーの仕事じゃない。探偵とか、そういう、別の。
私は私の知っているカクを探して、さらにメモをめくった。
──四月十八日。金曜は家を出るのが遅れがち。疲れが出るのか?
──四月二十二日。今日は浮かない顔で帰宅していた。上司のミスのしりぬぐいに追われたらしい。気の毒。
──五月一日。酒場で友人の愚痴を聞いてやっていた。泣き出す友人の背中をそっと擦っていた。報告済み。
──五月十三日。新人を連れてミスを謝りに来た。倉庫脇で新人を励まし、慰めていた。部下思い。報告済み。
──五月十六日。珍しく専門店でチョコレートを買って帰った。高そうでうまそう。
──五月十七日。まだ寝ていた。新人の世話はやはり負担が大きいのかもしれない。
あれ? なんか。
メモをめくれば捲るほど『報告済み』という言葉が少しずつ無くなり、代わりにカクの感想みたいな記述が増えてきた。
──五月二十一日。急な高温。熱中症気味になり医務室に運ばれたらしい。様子を見に行くか迷い、やめる。
──六月二日。帰宅時間ちょうどに豪雨。傘を持っていなかったようでびしょ濡れになりながら走って帰っていった。
──六月三日。風邪をひいて寝込んでいた。何も出来ず。
──六月五日。回復したらしく出勤していた。良かった。
──六月六日。デスクに菓子を置く。快気祝い。
これ、覚えてる。
私がいない間にデスクにお菓子があって、隣の新人さんに聞いたら、職人さんがたくさんあるからお裾分けだって持ってきてくれましたって言ってたやつ。あのとき、誰から、とは聞かなかった。
──六月十六日。声をかけてみる。怪しまれてはいない。多分。
──六月二十五日。夜分、男性が家を訪ねてきた。至急確認。
──六月二十八日。親族だった(六月二十五日追記)
──七月八日。海賊に絡まれそうになっていたので慌てて引き離す。騒ぎがおさまった後、しこたま礼を言われた。
──七月十四日。この前のお礼だとチョコレートをもらう。前も買っていた専門店のもの。うまい。
続きはなかった。この後、カクに告白されたんだ、と気づく。私と付き合ってからの記録は一切なかった。捲っても捲っても白紙が続く。
いつだったか、カクに聞いたことがある。『いつから私のこと好きだったの?』。私がカクを好きになったのは、ベタだけど海賊から助けてもらったあの日だったから私はすぐ答えられた。でもカクは、いつじゃろうなあ、とそれ以上言わなかった。
今わかった。少なくともカクは、私が意識するよりずっと前から私を気にかけていた。初めは絶対恋じゃなかった。でも、いつからか──。
どうしよう、全然わかんないよ。
カクに会いたい。カクに話を聞きたかった。この紙束を突きつけて。説明してって、泣きわめきたい。『別れよう』の前に、まず先に。
でも無理だ。里帰りなんて、私はカクの故郷も知らない。正確には、教えてもらえなかった。親御さんはずいぶん昔に亡くなってる、それしか教えてもらえなかった。紙束が零れる涙でどんどんふやけていく。文字が滲んでもどうでも良かった。もう、どうでも。
ダイニングテーブルに広げた物を、どさどさと箱に投げ入れる。腰道具も、皮手袋も、鉛筆も、紙束も。ついでに私のTシャツや本も突っ込んだ。どうせ持って帰ったって思い出すだけだ。それならいっそ。全部捨ててやるんだ。
こんな時でも、マグカップはさすがに割れる、と一瞬冷静になってしまった私は、それを手にとって呆けてしまった。
あれ。
このマグカップ。私のじゃない。
上から見るとちょっとだけ丸がいびつな方──カクのだ。なにそれ。間違えた? まさか。だってあんなに。カクは一回も間違えなかった。
「わっかんないなあ」
私は愚かでちょろくて、これだけでまだ少しカクを信じてしまう。まだ少し。ほんの少しだけ。
おしまい
それはカクが私をずっと前から監視していたことを示す証拠にしか見えなかった。
空欄に泣く
別れよう。
そのカードがポストに入っていることに気づいたのは、前代未聞の被害をもたらしたアクア・ラグナが去って数日後だった。幸い自宅は浸水しなかったけど、実家や会社はまあまあ被害が大きかったのでバタバタしていて、ポストを確認するのを忘れていたのだ。そもそも郵便配達はまだ復旧していなかったし、その状況でたまたまポストを開けたのは普段の習慣に他ならない。
それには切手も貼られてなかったから、カクが自分でこのポストに入れに来たんだろうとわかった。タイミングからいって恐らく、私がアクア・ラグナから避難している最中だ。外道、以外何があるだろう。
え、『別れよう』ってなに? 普段はおじいちゃんみたいな話し方してるくせに。なに手紙だと改まってんの? そこは貫いてよ。いや、手紙って言えるほどのものじゃないけどね? これ。いや、そうじゃなくて、なに。ほんと、これ。なに?
瞬間、カードをぐしゃりと握りしめ駆け出していた。なんなの? カクが書いたの? 本当に? なんで? こんなふうに別れることってあるの? 手紙ではいさよなら、って。一年! 一年付き合ってこの程度? だって、なんで? なんで? 色んなハテナが浮かんで消えて、また浮かぶ。迫りくるたくさんの『なんで』に押しつぶされてしまいそうで、振り切るような気持ちでガレーラカンパニーへ続く石畳を蹴り飛ばし続けた。
辿り着いた一番ドックの大扉前では、腰回りに何本もの工具をぶら下げた数名の職人が、紙束を片手にあれこれ相談を重ねているようだった。まだ午前中だというのに服は泥だらけだ。街にはまだ瓦礫が多く残っている。復旧作業の段取りをつけているのだろう。ぜえはあと肩で息をしながら、吸えた少しの息で出せるだけの大声を出す。
「カクッ、はどこ!」
「おわっ! ウカさん!? え、カクさん?」
声に驚いた職人は私とカクの名を呼び、え? なんで? どうした? と問うだけで、肝心の答えがもらえない。そんなのこっちが聞きたいのに。もう一度カクの居場所を問おうと息を吸ったその時──
「カクは里帰りだ」
パウリーが包帯だらけの姿で現れた。パウリーさん! 寝ててください! と職人たちが慌てふためき、うるせえ! とパウリーが一喝する。普段なら彼の包帯の理由を根掘り葉掘り問いただすところだが、今日はそれどころではない。
「さと、がえり?」
職人たちがほんの一瞬、顔を見合わせるが、睨み続けると沈黙に耐え切れなくなった職人の一人が口を開く。
「そ、そうらしいですよ。おれらも詳しいことは知らなくて」
ウカさんが知らねえってことも知らなくて、と言葉尻はどんどん萎んでいった。
「つまり、カクは。もうここにいないの?」
「ええ、そうです」
「この島にも、いない?」
「おそらく」
なんだそれ。
拳をぎりぎりと握りしめると、カードがこれ以上はもう無理というところまで圧縮されさらに細くなった。爪が手のひらに食い込む。
怒りの発散どころはまるで見つからず、怒りは募り膨らむばかりだ。
「あ、パウリーさん! ちょうどよかった。カクさんの私物、どうします?」
ドックの奥からパウリーを見つけた職人がそう声をかけてきた。
「お前ッ! ばか!」
「カクの私物?」
私が聞き返すと、ばか、と怒鳴られた若い職人は、それを自分への罵倒と受け取らなかったのか、状況が良くわからなかったのか、とにかくすらすらと説明を始めた。
「ああ。会社のロッカーとかデスクに置いてたやつです。つっても、カクさん、そんなに私物置くタイプじゃなかったし、もう箱に詰めてあったんですけどね。火事で焼けちゃったかと思ってましたけど、残ってたんですよねえ」
彼の抱えていた箱は彼の言うとおり小さかった。パウリーはちっと舌打ちして、私の方は見ないようにしながら、後で指示するからひとまず戻れと職人を手で追い返す。
「まって」
パウリーの業務命令に待ったをかけたのは私だ。
「私が引き取るよ。処分しておく」
「おい、そりゃあ」
「いいよ。大丈夫。カクが面倒かけてごめんね」
「助かります」
パウリーは何も言わなかった。言わないでくれた。
空気の読めない職人から受け取った箱は想像よりずっと軽くて、なんだかそれは、カクの残していった思いの量にも思え、やっぱり腹が立った。
カクの部屋への道中、箱の中身は箱に何度もぶつかりガタガタと音を立てる。荷物をまとめた職人が言うように、大した量ではないのだろう。今歩いているこの道は、カクと並んでよく歩いた。今はまだ水が引いていないところもあり、気をつけないと水たまりを踏むことになる。抱えていた箱のせいで視界が悪く、私は何度も水たまりを踏んだ。断じて涙で滲んだ視界のせいではない。
見慣れたドアの前で取り出した鍵はやけに冷たく感じた。開けて、薄暗い部屋に入ること思うとしんどい。それでも開けるしかない。ちょっと押すだけでドアは簡単に開いた。微かにギィ、と音がしただけで、あとはしんとしている。
いつもなら、ダイニングテーブルには何枚もの設計図が広がっていたし、キッチンにはりんごとかバナナとかの果物とか買い置きのパンが置いてあった。椅子にはカクの上着がかかってたりしたし、ベッドの上にはとりあえず取り込んだ洗濯物が詰まれてたりした。
もう、違う。
ダイニングテーブルの上にもキッチンにも何もない。カクの上着も洗濯物も全部。小脇に抱えていた箱をダイニングテーブルの上に置いて、目についた食器棚を開ける。ぽつんと残っていたのは、マグカップだった。カクとおそろいで買ったマグカップ。心臓が潰れるかと思った。
二人で選んだ形。色は真っ白じゃない、乳白色。カクの部屋で過ごすときは、水も白湯も、コーヒーも紅茶も牛乳も全部それで飲んだ。同じマグカップだったけど、上から見るとちょっとだけ丸がいびつな方があって、まん丸の方が私の。そう決めていた。
わざわざこんなふうに置いていくくらいなら、捨てればよかったのに。唇をぎりぎりと噛む。他にも、と思い棚を片っ端から開けると、私の着古したTシャツや貸しっぱなしになっていた本などがマグカップと同じように律義に置いていかれていた。
部屋の物は徹底的に処分しておきながら、会社に置きっぱなしの私物はどうして処分しなかったのだろう。整理はしていたようなのに。このまま怒りに任せて、中を改めず箱ごと処分しても良かったのだが、どうしてもそうはできなかった。だって、中に何が。
箱を開けながらダイニングチェアに腰かけて、あ、と思う。がたついていた椅子。以前私が座って、ぐらつきに驚いて、変な声が出て──。今日はぐらつかない。いつの間にか直したんだ。この部屋では、どうあがいても思い出が付きまとう。
箱を開けると、気のせいか焦げたような匂いがした。焼けずに済んだ、と言っていたが、焼けかけたのかもしれない。中には使い込まれた腰道具一式や皮手袋、メモ帳と赤鉛筆が数本。それから──紙束と写真? なんだろうと箱の底から引き抜いたそれは創立三周年記念に社員全員で撮った集合写真だった。私の顔に丸がつけてあり、写真の裏には走り書きでこう書いてあった。──No.9 ウカ。
目を疑った。背筋がじわりと冷え、汗がつう、と伝う。足先からぶるっと震えが伝わってくる。これは、なに。一緒に束ねてあった紙束を慌てて引っ掴み、上から順に捲っていく。
そのメモには、日付とあわせて私の短い行動記録のようなものが綴られていた。去年の三月から始まっている。主に平日の朝と夜、そして休日。メモは何かの下書きみたいで、赤でチェックが入っていたり、線が引いてあったりした。
──三月九日、調査開始。自宅を出るのは朝八時頃。昼食を買ってから出勤。勤務終了後はまっすぐ自宅に帰ることが多い。交際相手なし。報告済み。
──三月十五日。休日はタオルケットとシーツを洗うのがルーティーンのよう。自宅近くの商店街が行きつけ。頻度は多め。一日おき。報告済み。
──三月二十八日。勤務終了後、同僚と会食へ。送別会。女性三人。報告済み。
──四月一日。花屋に立ち寄り花を一輪買い求めていた。店員は女性。報告済み。
──四月七日。職場で出入りの業者と親し気に話していた。業者は男性。既婚者。愛妻家と評判。報告済み。
私とカクが付き合い始めたのは、去年の夏。その少し前から、ちょいちょい話しかけられるようになって、ある時、一番ドック内で顧客の海賊に絡まれそうになったところをカクが助けてくれて、それで。お礼にクッキーをあげて。そしたら、カクから告白されて、付き合った。つい二日前まで。
けどこれは? これは、明らかに『たまたま私を見かけたからメモした』の域を超えている。カクは私に告白するずっと前から、私を観察してたってこと? 調査? 報告? なんのために? 急に怖くなって、箱の中身を全部ひっくり返した。部屋に残っている物も全部かき集めてダイニングテーブルに集める。似たようなメモがまだあるんじゃないか。何か、このメモを説明してくれる他の何かが。
でも部屋は、磨き上げられたように埃ひとつ残っていない。マグカップやTシャツや本は、そんな部屋に取り残されていたのだ。これら以外、この部屋からは何も見つからなかった。どうしよう、どうしよう。これ以上、知らないカクを知るのは怖い。今朝知ったばかりだが、『別れ話を一行で済ませようとする男』だって、私の知らなかったカクなのだ。これだけで精いっぱいだったのに。
カクは──よくわからないけど、私に近づく必要があったのかもしれない。これはその下調べに見える。そして、これは絶対にガレーラカンパニーの仕事じゃない。探偵とか、そういう、別の。
私は私の知っているカクを探して、さらにメモをめくった。
──四月十八日。金曜は家を出るのが遅れがち。疲れが出るのか?
──四月二十二日。今日は浮かない顔で帰宅していた。上司のミスのしりぬぐいに追われたらしい。気の毒。
──五月一日。酒場で友人の愚痴を聞いてやっていた。泣き出す友人の背中をそっと擦っていた。報告済み。
──五月十三日。新人を連れてミスを謝りに来た。倉庫脇で新人を励まし、慰めていた。部下思い。報告済み。
──五月十六日。珍しく専門店でチョコレートを買って帰った。高そうでうまそう。
──五月十七日。まだ寝ていた。新人の世話はやはり負担が大きいのかもしれない。
あれ? なんか。
メモをめくれば捲るほど『報告済み』という言葉が少しずつ無くなり、代わりにカクの感想みたいな記述が増えてきた。
──五月二十一日。急な高温。熱中症気味になり医務室に運ばれたらしい。様子を見に行くか迷い、やめる。
──六月二日。帰宅時間ちょうどに豪雨。傘を持っていなかったようでびしょ濡れになりながら走って帰っていった。
──六月三日。風邪をひいて寝込んでいた。何も出来ず。
──六月五日。回復したらしく出勤していた。良かった。
──六月六日。デスクに菓子を置く。快気祝い。
これ、覚えてる。
私がいない間にデスクにお菓子があって、隣の新人さんに聞いたら、職人さんがたくさんあるからお裾分けだって持ってきてくれましたって言ってたやつ。あのとき、誰から、とは聞かなかった。
──六月十六日。声をかけてみる。怪しまれてはいない。多分。
──六月二十五日。夜分、男性が家を訪ねてきた。至急確認。
──六月二十八日。親族だった(六月二十五日追記)
──七月八日。海賊に絡まれそうになっていたので慌てて引き離す。騒ぎがおさまった後、しこたま礼を言われた。
──七月十四日。この前のお礼だとチョコレートをもらう。前も買っていた専門店のもの。うまい。
続きはなかった。この後、カクに告白されたんだ、と気づく。私と付き合ってからの記録は一切なかった。捲っても捲っても白紙が続く。
いつだったか、カクに聞いたことがある。『いつから私のこと好きだったの?』。私がカクを好きになったのは、ベタだけど海賊から助けてもらったあの日だったから私はすぐ答えられた。でもカクは、いつじゃろうなあ、とそれ以上言わなかった。
今わかった。少なくともカクは、私が意識するよりずっと前から私を気にかけていた。初めは絶対恋じゃなかった。でも、いつからか──。
どうしよう、全然わかんないよ。
カクに会いたい。カクに話を聞きたかった。この紙束を突きつけて。説明してって、泣きわめきたい。『別れよう』の前に、まず先に。
でも無理だ。里帰りなんて、私はカクの故郷も知らない。正確には、教えてもらえなかった。親御さんはずいぶん昔に亡くなってる、それしか教えてもらえなかった。紙束が零れる涙でどんどんふやけていく。文字が滲んでもどうでも良かった。もう、どうでも。
ダイニングテーブルに広げた物を、どさどさと箱に投げ入れる。腰道具も、皮手袋も、鉛筆も、紙束も。ついでに私のTシャツや本も突っ込んだ。どうせ持って帰ったって思い出すだけだ。それならいっそ。全部捨ててやるんだ。
こんな時でも、マグカップはさすがに割れる、と一瞬冷静になってしまった私は、それを手にとって呆けてしまった。
あれ。
このマグカップ。私のじゃない。
上から見るとちょっとだけ丸がいびつな方──カクのだ。なにそれ。間違えた? まさか。だってあんなに。カクは一回も間違えなかった。
「わっかんないなあ」
私は愚かでちょろくて、これだけでまだ少しカクを信じてしまう。まだ少し。ほんの少しだけ。
おしまい
殺せない殺し屋 それすらわたしのひどい噓 #カク #長編第1話
カク先輩の人が殺せそうな目つきは初めて見る。それが自分に向けられているとなると、とても受け止めきれず、私はすぐ目を逸らして、カク先輩のずっと後ろにある会議室の扉に焦点を合わせた。それでも頬にピリピリとしたプレッシャーをひしと感じ、さすがだなあ、と呑気な感想を持つ。同時に、これだから私は駄目なんだろうなあ、とこれまた呑気に思う。
十八を過ぎてもグアンハオで後輩たちの世話をし、二十歳を過ぎてようやくCP1に配属され、諸先輩方の小間使いじみた雑務をこなしていた私が突如、闇の正義として『殺人』を許可されているCP9に配属されたのはもちろん、異例中の異例だった。異例すぎて様々な噂が飛び交ったのも知っている。カネか、コネか、イロか。もちろんどれでもないのだが、大別すればイロになってしまうのかもしれない。私は長年の経験から、ひとまず黙って受け入れることにした。大抵は時間が解決してくれる。問題は私がこの異動でいつまで生きていられるか、ということだけ。
カク先輩は現在、長期任務の真っ最中だというのにわざわざ呼び出され、こちらの任務に駆り出されているらしい。先ほどの鋭い目つきはそのせいもあるのだろう。スパンダム長官は気づいていないのか、気づいておられてなお無視しているのか、とにかく淡々と任務を説明した。
「ターゲットはこいつだ。元CP3。現在逃亡中」
「こいつの始末のためにわざわざわしをウォーターセブンから呼び戻したのか?」
「『殺し』が許可されてるのはお前らだけだろうが」
「ま、たまにはいいじゃねえか! どうせそっちの任務はまだ何も進展なんてねぇんだろ?」
瞬間、カク先輩は隣に並んでいたジャブラさんの足を無言で踏んだようだ。ジャブラさんが、踏まれた足をさすりながら、暴力に訴えてんじゃねえ、と至極まともな主張をしている。
「ったく、これは命令だ! お前ら、自分の意志で仕事を選べると思うなよ! 元とはいえ、こいつもサイファーポール。気ぃ抜くんじゃねぇぞ」
「言われなくともわかっとるわい」
「で、新入り。お前は囮だ。得意なんだろ? こういうの」
カク先輩とジャブラさんが訝し気な視線をこちらに寄こす。私は新入りにあるまじきことではあるが、無言で小さく頷くにとどめた。
ターゲットは、うまく追っ手をかわしたと勘違いし、今は場末のバーで一息ついているらしい。
先ほど一時だけ降った雨がそこらで水たまりをつくり、私たちの足元を濡らした。三人で連れ立って歩いていても、足音は私の分だけ。だがこれで何の支障もない。私はターゲットに近づき、彼らのいる場所まで誘導してくる。それだけだから。
カク先輩とジャブラさんがすっと裏路地に入り、私はそのまままっすぐ歩いて件のバーに向かう。カク先輩が路地の奥から声を放る。
「余計なことはするな。できんじゃろうがな」
前を向いたまま首肯した。

『こんばんは。おひとり?』
バーの奥のテーブルでひとりスコッチを煽っていた男性に声をかける。
普通なら警戒されるべきシチュエーションだが、私の場合、大抵の人間は不思議とこれで済む。私は昔からなぜか人に好かれやすいのだ。特に体温が高かったり肌の露出が多いと顕著だということに随分経ってから気づいた。老若男女の誰もが一瞬、私を好きになる。でも、人によって影響が大きかったり小さかったりするし、離れると効果は弱まる。だから、私には『向けられている気持ちは本物ではない』ということがすぐわかった。好かれるそのたび、私はそっと一歩引く。
この力は自分で加減出来るわけではないから、今でも塩梅が難しい。今回は、ただ話しかけるだけで済みそうだ。こうして私は『ターゲットに声をかけて、指定された場所に連れていく』という任務に限ってなら、必ず成功させてきた。それでいまここに、CP9にいる。
案の定、男は私を気に入り、河岸を変えようと店を出る。あとは先輩たちのいる裏路地に連れていくだけだ。それでも油断はしない。なぜなら──
「なあ、あんた。なんか、」
好意は、触れたい、という欲求につながりやすい。
カク先輩とジャブラさんがいる裏路地まであと数メートル、というところで、男が私の肩に手を回してくる。でも、男の手は『まだ』肩の上だ。エスカレートすれば、このあとは──。いや、あと数メートルならいける。
思ってそのまま歩を進めようとした途端、耳元で、ひゅっ、と男が息を呑む音がして、そのまま前にずしゃりと倒れ込んだ。後ろにはいつの間にかカク先輩が立っており、光のない目で土に伏した男を見下ろしている。男の息はなさそうだ。
「おいおいおいおい、打ち合わせと違うだろうが! 尋問するっつー手筈じゃなかったか?」
暗い裏路地からジャブラさんが出てきて囃し立てるとカク先輩が吐き捨てるように言った。
「追っ手もまけずにバーで飲んだくれてるような男、尋問したって時間の無駄じゃ」
「……まあ、それもそうか。ウカちゃん。いい感じの報告書、頼むぜえ」
「はい、それはもちろん」
「あれだけ油断させても、その体たらくか。おぬし、何も変わっとらんのじゃな」
カク先輩の言葉は完全に、昔からなにも成長していない私への呆れからくるものだった。
男の亡骸を別の諜報員に託して、私たちの任務は終わった。道すがら、報告書の素案をまとめながら帰投する。用意されていた拠点は安ホテルで、着替えが終わったらカク先輩とジャブラさんの部屋を訪ねるようにと言われていた。
着替えながら、男に触れられた肩回りを念入りに拭う。直に触れられたわけではなかったが、それでも、男の腕の重さ、特に、事切れた瞬間にのしかかってきたあの重さを振り払いたかった。
『何も変わっとらんのじゃな』
カク先輩の言葉は本当にその通りだ。私はカク先輩やジャブラさんのように実力でCP9に配属されたわけではない。この体質のせいで──いや、おかげでグアンハオから続くこの世界から逃れられなかった。だから力の伴わない私が、カク先輩の近くをうろちょろするのはさぞ腹が立つだろう。あんな風に呆れるのもよくわかる。
私はカク先輩とジャブラさんの部屋の前でもう一度息を整えた。ジャブラさんはともかく、カク先輩に会うのはいつでも緊張する。意を決してノックをすると、ジャブラさんの、入れ入れ、という気さくな応答があった。
「よしよし、よくきた。で、報告書だけどよ」
「あ、まだ下書き程度ですか、簡単にまとめてきました」
「本当か!? いやあ、ウカちゃんはこんなに優秀だってのに、なあんでカクはそんなに冷てぇんだよ!」
ジャブラさんがカク先輩をなじるので慌てて、冷たくないですよ、とフォローする。
「別に普通じゃろ」
「ええ、そうです。カク先輩は普通です」
昔から、とは言わない。おかしいのはジャブラさん。今だけ、きっと私のせいで。
「そうかあ? なんかピリついてんだよな。ウカちゃんは囮専門なんだろ? 誰が殺そうがいいじゃねえか! なあ? ウカちゃん」
「い、いえ。カク先輩のお怒りはごもっともかと」
カク先輩がまたあの目で私を見る。今にも私を殺してしまいそうな目で。
私は人が殺せないのにここにいる。いつか私もCP9に──この居場所にふさわしい人間になれるだろうか。
おしまい
→
カク先輩の人が殺せそうな目つきは初めて見る。それが自分に向けられているとなると、とても受け止めきれず、私はすぐ目を逸らして、カク先輩のずっと後ろにある会議室の扉に焦点を合わせた。それでも頬にピリピリとしたプレッシャーをひしと感じ、さすがだなあ、と呑気な感想を持つ。同時に、これだから私は駄目なんだろうなあ、とこれまた呑気に思う。
十八を過ぎてもグアンハオで後輩たちの世話をし、二十歳を過ぎてようやくCP1に配属され、諸先輩方の小間使いじみた雑務をこなしていた私が突如、闇の正義として『殺人』を許可されているCP9に配属されたのはもちろん、異例中の異例だった。異例すぎて様々な噂が飛び交ったのも知っている。カネか、コネか、イロか。もちろんどれでもないのだが、大別すればイロになってしまうのかもしれない。私は長年の経験から、ひとまず黙って受け入れることにした。大抵は時間が解決してくれる。問題は私がこの異動でいつまで生きていられるか、ということだけ。
カク先輩は現在、長期任務の真っ最中だというのにわざわざ呼び出され、こちらの任務に駆り出されているらしい。先ほどの鋭い目つきはそのせいもあるのだろう。スパンダム長官は気づいていないのか、気づいておられてなお無視しているのか、とにかく淡々と任務を説明した。
「ターゲットはこいつだ。元CP3。現在逃亡中」
「こいつの始末のためにわざわざわしをウォーターセブンから呼び戻したのか?」
「『殺し』が許可されてるのはお前らだけだろうが」
「ま、たまにはいいじゃねえか! どうせそっちの任務はまだ何も進展なんてねぇんだろ?」
瞬間、カク先輩は隣に並んでいたジャブラさんの足を無言で踏んだようだ。ジャブラさんが、踏まれた足をさすりながら、暴力に訴えてんじゃねえ、と至極まともな主張をしている。
「ったく、これは命令だ! お前ら、自分の意志で仕事を選べると思うなよ! 元とはいえ、こいつもサイファーポール。気ぃ抜くんじゃねぇぞ」
「言われなくともわかっとるわい」
「で、新入り。お前は囮だ。得意なんだろ? こういうの」
カク先輩とジャブラさんが訝し気な視線をこちらに寄こす。私は新入りにあるまじきことではあるが、無言で小さく頷くにとどめた。
ターゲットは、うまく追っ手をかわしたと勘違いし、今は場末のバーで一息ついているらしい。
先ほど一時だけ降った雨がそこらで水たまりをつくり、私たちの足元を濡らした。三人で連れ立って歩いていても、足音は私の分だけ。だがこれで何の支障もない。私はターゲットに近づき、彼らのいる場所まで誘導してくる。それだけだから。
カク先輩とジャブラさんがすっと裏路地に入り、私はそのまままっすぐ歩いて件のバーに向かう。カク先輩が路地の奥から声を放る。
「余計なことはするな。できんじゃろうがな」
前を向いたまま首肯した。
『こんばんは。おひとり?』
バーの奥のテーブルでひとりスコッチを煽っていた男性に声をかける。
普通なら警戒されるべきシチュエーションだが、私の場合、大抵の人間は不思議とこれで済む。私は昔からなぜか人に好かれやすいのだ。特に体温が高かったり肌の露出が多いと顕著だということに随分経ってから気づいた。老若男女の誰もが一瞬、私を好きになる。でも、人によって影響が大きかったり小さかったりするし、離れると効果は弱まる。だから、私には『向けられている気持ちは本物ではない』ということがすぐわかった。好かれるそのたび、私はそっと一歩引く。
この力は自分で加減出来るわけではないから、今でも塩梅が難しい。今回は、ただ話しかけるだけで済みそうだ。こうして私は『ターゲットに声をかけて、指定された場所に連れていく』という任務に限ってなら、必ず成功させてきた。それでいまここに、CP9にいる。
案の定、男は私を気に入り、河岸を変えようと店を出る。あとは先輩たちのいる裏路地に連れていくだけだ。それでも油断はしない。なぜなら──
「なあ、あんた。なんか、」
好意は、触れたい、という欲求につながりやすい。
カク先輩とジャブラさんがいる裏路地まであと数メートル、というところで、男が私の肩に手を回してくる。でも、男の手は『まだ』肩の上だ。エスカレートすれば、このあとは──。いや、あと数メートルならいける。
思ってそのまま歩を進めようとした途端、耳元で、ひゅっ、と男が息を呑む音がして、そのまま前にずしゃりと倒れ込んだ。後ろにはいつの間にかカク先輩が立っており、光のない目で土に伏した男を見下ろしている。男の息はなさそうだ。
「おいおいおいおい、打ち合わせと違うだろうが! 尋問するっつー手筈じゃなかったか?」
暗い裏路地からジャブラさんが出てきて囃し立てるとカク先輩が吐き捨てるように言った。
「追っ手もまけずにバーで飲んだくれてるような男、尋問したって時間の無駄じゃ」
「……まあ、それもそうか。ウカちゃん。いい感じの報告書、頼むぜえ」
「はい、それはもちろん」
「あれだけ油断させても、その体たらくか。おぬし、何も変わっとらんのじゃな」
カク先輩の言葉は完全に、昔からなにも成長していない私への呆れからくるものだった。
男の亡骸を別の諜報員に託して、私たちの任務は終わった。道すがら、報告書の素案をまとめながら帰投する。用意されていた拠点は安ホテルで、着替えが終わったらカク先輩とジャブラさんの部屋を訪ねるようにと言われていた。
着替えながら、男に触れられた肩回りを念入りに拭う。直に触れられたわけではなかったが、それでも、男の腕の重さ、特に、事切れた瞬間にのしかかってきたあの重さを振り払いたかった。
『何も変わっとらんのじゃな』
カク先輩の言葉は本当にその通りだ。私はカク先輩やジャブラさんのように実力でCP9に配属されたわけではない。この体質のせいで──いや、おかげでグアンハオから続くこの世界から逃れられなかった。だから力の伴わない私が、カク先輩の近くをうろちょろするのはさぞ腹が立つだろう。あんな風に呆れるのもよくわかる。
私はカク先輩とジャブラさんの部屋の前でもう一度息を整えた。ジャブラさんはともかく、カク先輩に会うのはいつでも緊張する。意を決してノックをすると、ジャブラさんの、入れ入れ、という気さくな応答があった。
「よしよし、よくきた。で、報告書だけどよ」
「あ、まだ下書き程度ですか、簡単にまとめてきました」
「本当か!? いやあ、ウカちゃんはこんなに優秀だってのに、なあんでカクはそんなに冷てぇんだよ!」
ジャブラさんがカク先輩をなじるので慌てて、冷たくないですよ、とフォローする。
「別に普通じゃろ」
「ええ、そうです。カク先輩は普通です」
昔から、とは言わない。おかしいのはジャブラさん。今だけ、きっと私のせいで。
「そうかあ? なんかピリついてんだよな。ウカちゃんは囮専門なんだろ? 誰が殺そうがいいじゃねえか! なあ? ウカちゃん」
「い、いえ。カク先輩のお怒りはごもっともかと」
カク先輩がまたあの目で私を見る。今にも私を殺してしまいそうな目で。
私は人が殺せないのにここにいる。いつか私もCP9に──この居場所にふさわしい人間になれるだろうか。
おしまい
→
夢小説,長編・連作,ONEPIECE,それすらわたしのひどい嘘 3088字 No.104
カウンターでご飯を食べながら飲んでいたら。いや正確には、飲みながら、ご飯ということにして肴をちびちびつまんでいたら。お店のドアベルが鳴って、同時に冷たい夜風がぴゅうと店内に吹き込んだ。日中は春めいて暖かくても、夜はまだまだ冷え込む。せっかくお酒で温めた身体が一気にぞわりとして、己を抱きしめるようにして両手で肩をさする。早く閉めてよね、と眉を顰めながら風の吹き込むドアを睨むとそこに立っていたのは見知った顔だった。
「あれ? カクくん?」
うっかり出た酔っ払い特有の大きな声は、他の酔っ払いたちの声には負けずにカクくんに届いたらしい。カクくんは私の声のした方に顔を向け、目が合うと、にぱっと笑った。そのままテーブルとテーブルの狭い間を縫うようにして、大股でずんずんとこちらに向かってくる。え、なんだ、なんだ? カクくんの脚は長いから、あっという間に私のところまで辿り着いた。
「こんばんは、いい夜じゃの」
カクくんは当然のように空いていた私の右隣りに座って、それうまそうじゃな、と言った。カクくんも酔っぱらっているのか、いつもより人懐っこいし、砕けた感じだし、笑顔がまろやかだ。仕事の時も感じのいい子だとは思っているけど、こんなに緩んだ顔は見たことがない。初めての顔と声と態度に、なんだかびっくりして私の酔いが醒めそうになる。
「おいしいよ、同じの頼む?」言いながらメニューを手に取るが、カクくんは、かたじけないが、と首を振った。かたじけない、て。
「ひとり? 珍しいね。いつもはパウリーとかルッチさんとつるんでるじゃない」
「さっきまで一緒じゃったよ」
「ああ、どおりで。随分飲んだんだね」
「いや、まあ」
カクくんは本当に酔っぱらっているらしい。ふにゃふにゃと語尾を濁し、それ以上は何も言わなかった。意外と、お酒に身を委ねるタイプだったのか。仕事をしているカクくんしか知らないからちょっと新鮮だ。でも、いや、まって。そもそも。
「カクくん、どうしたの?」
なんでここにいるの? とはさすがに言わないが、口の中はその言葉でいっぱいだ。うっかり漏れ出ないように、お酒を煽ってお腹まで流し込んでおく。カクくんの答えは、工房のボスに聞いたんじゃ、というもので全く要領を得ない。
工房、というのは私が配属されている部署のことだ。船のあらゆる装飾を主に担当していて、人数は私を入れても三人ぽっち。文字通り工房に籠っての作業が多くて、あまり他部署と一緒んに作業することはない。
「ウカさん、ヤガラ飼っとるんじゃろ?」カクくんの話題は唐突だった。
「ああ、うん。元々実家で飼ってたヤガラちゃんだけど」
両親が知り合いから若いヤガラを譲り受けたというので、私が昔から飼っていたヤガラを引き取ったのだ。おじいちゃん、というほどではないけど、おじさん、くらいではあるかもしれない。子供の頃から一緒に育ったヤガラだ。
「わし、実はヤガラには乗ったことがなくてのう」
「ええ、そうなの!? 意外だね」
「わしはほれ、みなさんの屋根が足場じゃから」
「ああ、そうか。カクくんは水路なんて関係ないのか」
カクくんが造船島から軽やかに下町へダイブするのをもう何度も見てきた。落ちているはずなのに浮いているように見えるのがいつも不思議だ。
「そう、だから」
「ん?」
「明日、ウカさんとこのヤガラに乗せてくれんかの?」
よくわからないまま、朝がきてしまった。なんで断り切れなかったんだろう。ベッド脇の窓からはレースのカーテン越しに朝日が燦々と降り注いでいて、今日が快晴であることを物語っている。窓下の水路にいる当のヤガラちゃんはまだ眠っているようだ。
え、なんでうちのヤガラに乗るの? 他に飼ってる人たくさんいるよね? 頼める人いないのかな……。あれ? パウリーってヤガラ飼ってなかったっけ? よく乗って怖い人たちから逃げ回ってるイメージがあるんだけど。
昨夜カクくんにぶつけられなかった疑問が次から次へと沸いてくる。湧いてくるがもう遅い。今からカクくんに断りの連絡を入れる術はないのだから、少なくとも、待ち合わせ場所には行かなくては。そうだ、ただ貸すだけだ。何か事情があるのかもしれないし、カクくんに限って、パウリーみたく良からぬことにうちのヤガラを巻き込むなんてことはないだろう。
ベッドからのろのろと起き上がり、ひとまずクローゼットを開けてみた。
どうしよう。気合が入りすぎても恥ずかしいし、かといって、適当すぎる格好もなんだかそれは、ちょっと嫌。
右手をクローゼットの端から端まで散々往ったり来たりさせて最終的に私が手に取ったのはボートネックのニットとワイドチノパン。足元は迷って迷ってたくさんの言い訳をしながら、ストラップ付のミュールにした。顔を洗って、眉を描いて、メイクは最小限。ヘアオイルで髪を整えて、ピアスを……と手を伸ばしたところで、いやいやいや、デートじゃないって!
外に出ると、ヤガラちゃんがニイニイと鳴きながら円を描くように水路を行ったり来たりした。久しぶりのおめかしを面白がられているような気もする。耳にはピアスが揺れる。
カクくんが待ち合わせに指定したのは、昨日飲んでいたお店のすぐ近くにあるカフェだった。造船島には何店舗もある人気店だ。時間より早めについてしまったので、お店の窓ガラスに映る自分を何度も確認してしまう。うちのヤガラを見せるだけ、それに乗ってもらうだけ。それなのに気合入りすぎだろうか? やっぱりミュールはやめておいた方が良かったか? ピアス外しちゃおうかな。全然自信が持てない。
まだ待ち合わせまで十五分もある。やっぱりピアスは取ろうかな、と耳たぶを触りながらミュールのつま先を見つめていたら、
「すまんすまん、待たせたのう」
慌てて声がした方に顔を向け耳から手を離す。
「いや全然! 待ってないよ」
思ったよりずっと大きい声が出て恥ずかしくなるが、カクくんは、それなら良かったとただ微笑むだけだった。
休日のカクくんは大きめのTシャツに細身のパンツを合わせていて、手足が長くて顔が小さいから、それだけでも十分お洒落に見えた。仕事着しか見たことがなかったから新鮮だ。そんなお洒落なカクくんは私のおめかしには無関心のようで、着いて早々、水路ではしゃぐうちのヤガラに気づき、しゃがんで声をかけている。
「水水肉を持ってきたんじゃ。あげてもいいじゃろうか」
「わあ、ありがとう。好物だから喜ぶよ」
ヤガラは喜びを全身で示したいのか、水路をくるくると回って大はしゃぎだ。カクくんにもそれが伝わるのか、ワハハ、喜んどる喜んどる、と嬉しそうだ。当たり前だけど、本当にヤガラに乗りに来たんだな。勝手にちょっと緊張して、勝手にちょっとおめかししてみて、これはこれで楽しかったけど、この分だと用事はさくっと済みそうだ。しゃがんだままのカクくんを見下ろす形で一気に説明する。
「ええと、じゃあ改めて。そこにいるのがうちのヤガラちゃん。船はカップルシートで大きめだけど、一人でも乗れるしその分荷物も積みやすいと思うよ。用事が済んだところでもう大丈夫って言えば、勝手にうちに帰ってくるから。あ、空腹になると煩いから、お昼頃に水水肉あげてね」
街の人なら誰でも知ってるようなことだったけど、乗ったことがない、というカクくんにはひとまず言っておくことにした。一度にたくさん捲くし立てたせいか、カクくんは元々丸い目をさらに丸くして、二度三度、瞬きをした。
「他に何か聞きたいことある?」
「ウカさんも乗るじゃろ?」
「え? 私?」
ヤガラだけが無邪気にニイニイと鳴いて、肉はもっとないのか? と水路をうろうろしていた。
「一緒に乗らん選択肢があったことに驚きなんじゃが」
「え、だって昨日、ヤガラに乗ったことがないから乗せて欲しい、って」
「初心者に大事なヤガラを預けて放り出すつもりじゃったんか!」
言われてみれば。
休日にカクくんに会わなきゃいけない、ということで頭がいっぱいになってしまって、色々考えが足りてなかった。カクくんは、さすがウカさん、とお腹を抱えて笑っている。
いやでも、私は。
「いや、それは、確かに。そう、なんだけど」
「なんじゃ? 今日は都合でも悪いんか?」
笑いすぎて目尻に滲んだ涙を拭いながらカクくんは気を遣うようなこと言った。
言うか、言うまいか。言わずに帰ることだってできる。でも。
「……、内緒にしてくれる?」
「そう頼まれれば」
カクくんに茶化すような雰囲気はまるでなく至極真面目な顔をしてくれたから、胸の中でぐるぐると右往左往していた思いが、すっと言葉になって出てくる気がした。
「実は私も乗ったことがないの」
「へ?」
「水が、怖くて」
カクくんはやっぱりまた丸い目をぱちぱちさせた。
そしてすっと立ち上がって腕を組んで、ちょっと考え込むような素振りをした。言葉を選んでいるようだった。
「どれくらいなんじゃ? 例えば水に近づくと足がすくむとか、怖くて水路に近づけないとか」
「あっ、そんなひどくはない。小さい頃、水路に落ちて溺れかけて。それ以来、ヤガラには一度も乗らずにここまで大人になってしまったの。水路に落ちる人もやっぱりゼロじゃないし……だから、怖い気持ちを抑えて、今更チャレンジする理由もなくて」
「わしは理由にならんか?」
「カクくんが?」
「そう。カクくんと一緒に乗るためにちょっとチャレンジしてみてくれんかの」
真面目な顔して言うものだから思わず吹き出してしまう。
「──カクくんが一緒なら、ちょっとだけ」
「水には絶対落とさんから」
カクくんがそう言うならそうなんだろう。なんだか、ふっと心が緩む。
生まれて初めて乗るヤガラの背はミュールでは覚束なかったけど、カクくんの手を取る口実にはなった。
もしかしたらうんと小さい頃は両親に抱えられて乗ったことがあるのかもしれない。記憶の限りでは初めて乗るヤガラの背中は思っていたよりずっと安定感があった。先にカクくんが乗ってバランスを取ってくれたし、当のヤガラちゃんも、まさかお前ついに乗るのか!? と驚きつつ、何やらいつもよりきりっとした顔つきで背に乗る私を見守っていた。
恐る恐る及び腰で船に乗りすぐ座る。カップルシートは通常の二人乗り用の船と違って、前後ではなく二人が横並びで座れるよう、背もたれがなく広々としている。進行方向に対して横向きで座ることになるけど、スピードを出す必要がなければ賢いヤガラちゃんにすべて任せておけばいいので十分だ、と両親は言っていた。でも私が聞くべきはそこじゃなかったはず。
「で、なんでカップルシートなんじゃ?」
「両親の趣味! それだけ!」
誤解されては困るので即答する。
カクくんは、へえ、片眉をあげてそれ以上何も言わなかった。私も初めての水の上で余裕がなかったし、あれこれ言うとかえって信じてもらえなさそうだからそのまま黙る。ヤガラちゃんは気を遣ったのか、観光客の多い大きな水路を避けて、地元の人しか使わなさそうな静かな水路を選び、ゆっくりと泳いでくれた。家と家の間に張り巡らされている水路は少し薄暗い。でも、家と家で切り取られた空から差し込んでくる光が水面に反射してきらきらと眩しく、その光景は私の恐怖心をあおらなかった。それよりも、さっきからずっと左肩がカクくんとぶつかっている。そちらの方が私の心臓を混乱させていた。
「どうじゃ? 降りるか?」私の内臓がどうなってるか知らないカクくんが心配そうに尋ねてくる。
「ん、まだ、大丈夫」
「お、そりゃ重畳」
「カ、カクくんは、ヤガラに乗って何かしたいことがあったんじゃないの? 買い物とか」
早鐘を打つ心臓を誤魔化したくて、話題を振る。この鼓動はどちらのせいか自分でもわからない。水の上だから? それとも──カクくんの隣だから?
カクくんのヤガラに乗りたい、は、ヤガラを借りたい、だとも思っていた。ヤガラちゃんは力持ちだから、家具を買って運んでもらう人もいる。この街は、水に物を浮かせて運ぶ方がずっと楽だ。
「ちょっとだけなら付き合えるよ。どこか行きたいところがあった?」
「ん、その、まあ、なんていうか」
「なに?」
「女の人は何をもらったら喜ぶんかのう」
カクくんはまっすぐ前を、つまり私とは目を合わさずに、キャップを深くかぶり直してから、耳と頬を染めて言った。
さっきまで熱いくらいに感じていた左肩が急速に冷えていく。何か言わなきゃ。何か。
「ええ、なんだろう。でもそれなら造船島の中心街に行った方がお店もあるよね。ヤガラちゃん、ありがとう。造船島に戻ってくれる? ……なるべく揺れない感じで」
びっくりしすぎて早口になってしまったが、ヤガラちゃんはちゃんと聞き取って、ニイ! と元気よく鳴いた。カクくんは、そうじゃな、と小さく応じるだけだ。もっと深堀した方がいいのかな、と思ったけど、そんな気になれなくて、つい『まだ水が怖いんです』という振りで私も黙ることにする。あーはいはい、そういうことですか。別にカクくんが女性にプレゼントをあげたって、そのアドバイスを私に聞いたって、なんの問題もないはずなのに。ちょっと、面白くない。
ぼうっと水面を眺めていたら、あっという間に水門エレベーターの前まで来ていた。もちろん、中に入るのは生まれて初めてだ。ヤガラちゃんは、お急ぎくださいというエレベーターガールのアナウンスにも動じず、優雅に門へと泳いでいく。タイミングが良いのか悪いのか、利用者は私たちだけだった。狭くもないが広くもない縦穴の門が閉まると塔内に水が満たされていき、上の造船島に移動できる。
初めて入った水門エレベーターは想像していたよりずっと暗かった。門が閉まると、光が入ってくるのは上部の開放部だけになる。首が痛くなるくらい曲げて見上げても、切り取られた空は随分小さい。注水が始まると轟音が石造りの塔内で一層反響した。
「おお、結構迫力があるのう」
カクくんはアトラクションを楽しむような軽快さで言った。私は妙な緊張を覚えながら曖昧に頷く。
早く上に着いて欲しい。水位は結構なスピードでどんどん上昇した。同時に、注水されている水の量にちょっとぞっとする。結構なスピードで上昇していて、半分くらいまできたかな、もう少しの辛抱かな、と思ったあたりで急に上昇しなくなった。カクくんと顔を見合わせていると上の方から水音にかき消されそうなアナウンスが辛うじて聞こえた。
『大変申し訳ございません。トラブルのためしばし上昇を停止します』
ごうごうと水が流れ込んでくる音は止まないが、アナウンスの通り、水位の上昇はぴたりと止まった。カクくんも私も、水門エレベーターは初めてだからこういうことはよくあることなのかわからない。ひとまず二人で顔を見合わせて、どうしたんじゃろうな、そうだね、と言い合った。
揺れはほとんどない。だが下には大量の水がある。自分が上昇してきた高さ、つまり、深さに思い至って血の気が引いた。街に張り巡らされている水路とはわけが違う。塔内の壁には突起も何もない。もし水に落ちた時、この場で縋れるのはヤガラちゃんだけ。でもヤガラちゃんだってパニックになるかもしれない。
思いついてしまったらもう駄目だ。手が冷たく汗ばみ、身体の震えが止まらない。奥歯がガチガチと音を立て、その音を聞いて、また恐ろしくなった。
「ウカさん?」
「ご、ごめ。こわ、こわく、て」
膝を抱え身体を小さく縮こませてやりすごそうとするが、私が震えるとヤガラちゃんも揺れるような気がして、恐怖が増していく。
カクくんの顔つきが変わった。
「この船はヤガラから外しても浮くじゃろ?」
「ふ、ふね、だから、うく」声がどうにも震えて情けない。
「よし」
カクくんは初めてとは思えない手つきでヤガラと船の連結を外した。ヤガラちゃんの背から外れて船だけで浮くと、途端、揺れが大きくなり恐怖がさらに増す。ヤガラちゃんも、ほんとにいいのか? と不安そうで、ニィ……、と小さく鳴きながら私たちの乗った船のそばを行ったり来たりする。
「ウカさん、飛ぶぞ」
「え、」
「ヤガラちゃん、すまん。造船島で待っとるからの」
「ニイ!」
「え、いや、ちょ」
っと待って、と言い切らないうちにカクくんが私の腰あたりに腕を回し自分の方へぐっと引き寄せた。ぎゃッ! と叫ぶ間もなく、そのまま飛ぶ。慌ててカクくんの肩に腕を回して落ちないようにしがみついた。足場にした船が、どぷんっ、と深く水の中に沈んだのが目の端で見えた気がするけど、カクくんはその前に宙に浮いている。
「うわうわうわうわッ!」
風が顔にびゅんびゅんあたる。髪がぐしゃぐしゃになる。耳のそばでごうごう聞こえる。目を開けているのも一苦労。でも、下から見上げた時はあんなに小さかった空が薄目でもどんどん近づいて明るくなっていくのがわかった。
それは一瞬。
縦穴から解放された瞬間、視界三百六十度が全部、造船島の街並みになる。カクくんは水門エレベーターの縁にとす、と着地すると、そこを足場にもうワンジャンプして、エレベーターと繋がっている水路の脇に着地した。街の人たちは最初、エレベーターの縦穴からぴょんと飛び出た私たちを凝視していたけど、飛び出してきたのがカクくんだと分かった途端、なんだカクか、と自分たちの日常に戻っていった。下の方から『お客様、申し訳ございませんでした。ただいま復旧いたしました』とエレベーターガールの声が聞こえる。
「び、っくりした」
「怖かったか?」
「え、あ」
怖がっていたことを忘れていた。足元の感覚はまだおぼつかないが、いつの間にか体温が戻り、体の震えも止まっている。
復旧したエレベーターからヤガラちゃんもびゅんと泳いで寄ってきた。先ほど背から外した船も引いてきてくれたが、カクくんが足場にして一度水に沈んだからびしょびしょだ。
「すまんの。せっかくのカップルシートを駄目にしてしもうた」
「だ、大丈夫。私こそ大袈裟に怖がっちゃってごめんなさい」
「そんなことないじゃろ! 怖いもんは怖い!」
カクくんが眉毛を吊り上げて、口をへの字にして、怒ってくれるのが嬉しかった。ヤガラちゃんも、ニイニイ鳴いて同意してくれているようだ。こうなってしまえば、ヤガラちゃんにはこのままびしょ濡れのカップルシートを引いて一旦、家に帰ってもらうしかない。でも、このままカクくんと別れるのはちょっと寂しかった。誰のプレゼントだろうが、カクくんと同じ時間を過ごすことに変わりはない。恐る恐る、といった雰囲気が出ないよう努めて明るく尋ねてみる。
「この後どうしようか? ヤガラちゃんにはもう乗れないけど……プレゼント、探してるんだよね?」
「や、まあ、そういえばそうじゃったな」
「徒歩で良ければお礼もかねて付き合うよ。どんな人なんだっけ?」
カクくんが、鼻をかきながらちらりとこちらを見る。
「……きわ」
「え?」
「浮き輪が、いいかもしれん」
「う、浮き輪? なんで──」
そのあと続いた言葉は『まさか』としか言いようがなくて、私はどんどん火照る頬を両手で隠すほかなかった。
『水が怖いって人じゃから』
おしまい