雨があがった。
 この前はすまんかった、と謝るくせに仏頂面で、照れたようなカクさんがやっぱり好きだった。

急流

 秋がきた、と思える高い空だった。秋の空の高さを人はどうやって感じ取っているのだろう。澄み渡る青か、それとも雲の遠さからか。頬を掠める風の、からっとした冷たさかもしれない。何にせよ、夏が終わり、雨は上がり、秋がきた。
 今日は休日だったから、叔父の家でごろごろと惰眠を貪るのも良かったが、天気もいいし、ちょっとだけ外に出ることにする。ルッチさんの入院している病院は、叔父の家から歩いて十分くらいだ。
 ルッチさんのお見舞いには絶対に行かないと決めていたが、かといって弱っているだろうルッチさんのところに、パウリーを連れていくのも嫌だった。目を覚まさないルッチさんを見たら、パウリーならなんだか色々を許してしまいそうな気がするからだ。いや、頭ではいくら許したくないと強く思っても、心が、許してしまうんじゃないかと。私が知っているパウリーならきっと──、許してしまう。
 だから、もしパウリーを連れてくるならせめて、ルッチさんが目を覚まして、話せるようになっていないと、と歩みを止めて、ルッチさんがいるはずの病院を睨む。

ちゃん? 何しとるんじゃ」
「わ、似合ってるね! かっこいい!」

 声をかけてきたカクさんは、これまでの真っ黒な服ではなく、デニムに明るい色のポロシャツと黒いニット帽を合わせていた。心なしか、ウォーターセブンにいた頃を思い出させる色合わせで懐かしくなる。飾り気のない私の賞賛にカクさんは面食らったようで、後頭部をポリポリかき、目を逸らしながら「この前はすまんかった」と小さい声でぼそぼそ謝罪の言葉を口にした。つい先日、病院の横で小さくなっていたカクさんを思い出す。照れているのだとわかって、私はやっぱりまだカクさんが好きだなと再確認した。
 お互い全然会話になっていなかったからか、カクさんはこちらが本題だというように、すぐに話題を変えた。

「そうそう。今日、ルッチが退院したんじゃ」
「え、うそ」
「おかげさまで」
「……よかった! よかったね!」

 聞いた瞬間、身体の底からぶわっと安堵が湧き上がる。それを持て余した私は、その場で控えめにぴょんと跳ね、カクさんの手を取って上下に振り回した。カクさんは呆れながらも、されるがままだ。
 本当によかった。カクさんの大切な人が、カクさんを置いて、あのままいなくならなくて。いつかくる別れなのかもしれないけれど、それが「今」でなくて本当に良かった。でも。
 こみ上げた涙は上を向いて誤魔化した。この涙はなんだろう。パウリーを思うと、なんだか悔しくもあった。パウリーも私も、置いていかれるのに。なんてね。
嫌な、良くない捉え方だと、私はすぐ別のことを考えることにした。
 退院、とはいえ病み上がりだろうから、まだしばらくは療養のため、この島にいるだろう。その間に、なんとかパウリーを連れてこられないだろうか。ルッチさんの目が覚め、退院できたというなら。三人で、会話ができるなら。いよいよ、パウリーに全部打ち明けて、連れてきてもいいんじゃないか。
 だが、私はすぐに耳を疑うことになる。

「で、これからボウリングじゃ」
「嘘でしょ」

 え? まさかルッチさんも? ちょっと前まで意識が戻らないって言ってなかった!? という私の叫びにも似た非難をカクさんは、つまらなそうな顔で受け止めた。常人には理解できない感覚だが、カクさんはどこ吹く風といった顔つきだ。

「仕方ないじゃろ。わしらは無職で暇なんじゃし」

 こんなの初めてなんじゃ、と浮かれているようにしか見えないカクさん。明らかに「大人の夏休み」にはしゃいでいる。どんな事情で取得できたのかは知らない。

「一緒にくるか?」
「いや! それは!」

 反射で拒絶してしまう。
 ルッチさんの様子は、かなり気になる。でも、やっぱりどうしても、会うべきは私ではなくパウリーだろうという思いが拭えない。有無を言わさぬ私の即断に、カクさんは「別に一緒にやろうってんじゃない。後ろから眺めてみればいいじゃろ」と提案してくれた。結局、どうしてもルッチさんの様子が気になってしまった私は「ルッチさんには絶対会わない」と宣言して、カクさんの後ろを数歩離れて着いていくことにする。

   ◆

 来るんじゃなかった。私はすぐに後悔した。
 受付近くの休憩スペースでサイダーを飲みつつ、後ろから様子をうかがう限り、ルッチさんは思った以上に元気そうだった。ボウリング、と思う気持ちもわからなくも……いや、さっぱりまったくわからないが、まあ元気そう。頭に巻いた包帯は痛々しかったが、表情は明るくて、あと、やっぱり普通に喋れるんだと、結構ショックだった。
ボウリング場には、ルッチさんだけでなく、なぜかブルーノやカリファさんもいて、見知った彼彼女らは、見たこともない男の人達と気安い雰囲気で楽しそうに過ごしている。
 なんだ、こっちが友達か。
 舌打ちしながら、思ってしまった。
 その輪の中にはカクさんもいる。私は何を見せられているのだろう。思ってしまって、いやいや、と頭を振る。別に、どんな繋がりだろうが、ルッチさんやカクさんに別のコミュニティがあったっていいじゃないか。事情は知らないが、それがパウリーを傷つけるものではないのなら。
 さっきから気を抜くと、他責的な考えが頭をもたげてきて、もううんざりだ。
 このままここにいるのは良くない。
 ルッチさんの様子も見られたし、さっさと帰ろうとストローでサイダーを思い切り吸い込んだその時。

「誰か来てくれ!」

 助けを求める声とともに男性が入ってきた。
 だが、元々賑やかなボウリング場。その声に気づいたのは巡回していた警察官と、近くにいた店員くらいだった。他の客たちは気づかずゲームに夢中になっている。カコーンッ! という小気味いい音とそれに続く「よっしゃあ!」という歓声が、変わりなくあちこちから響いた。
 ちらりとカクさんたちの方に目を向ければ、彼らはゲームこそ中断していたようだったが、こちらに顔を向けることはなかった。聞き耳を立てていると、「何があった」「港が」「早く」「海賊が」「襲っている」「暴れていて」という単語が端々に聞こえてくる。
 まさか、と思ったら彼らはあっという間だった。さっきまでボウリングを楽しんでいたルッチさんたちは、いつの間にか私の目の前を音もなく駆け抜け、外へ出ていく。カクさんだけ、のんびりと私の目の前に立った。

「今度こそ、本当にさよならかもしれんのう」
「え?」

 警察官が「港に海賊だ! 早く避難を!」と叫ぶと客たちは、それを合図にわあきゃあと店外へ駆け出した。
 私たちも連れ立って外に出ると、日常は一変していた。
 海賊から逃げようと港から押し寄せてくる人波。ボウリング場前の大通りは逃げ惑う人々でごった返していた。カクさんはその人波と真逆、つまり、港の方へ歩き出す。「待って」と叫びながら、無理矢理ついていこうとするが、必死に逃げる人間のパワーは凄まじく、とても対抗できるものではない。カクさんとの距離がどんどん開く。

「もし出来るなら」

 悲鳴と怒号。合間に、カクさんのなんてことない声。
 姿が人波に消えて声だけになる。

「パウリーに、世話になった、と」
「カクさんっ!」

 揉みくちゃにされながら逃げ惑う人たちに抗って、なんとか人の群れから抜け出るも、カクさんの背はもう随分遠くだ。呆然としていると、心優しい町の人が「何をやっているんだ! 早く安全なところへ!」と手を引いてくれる。
 最後まで『パウリー』か。それならもう。

「連れていくから! 待ってて!」

 それだけじゃない。

「自分で言ってよ!」

 絶叫。
 小さくなっていくカクさんの背にそれが届いたかはわからない。
 けれど、遠くなったカクさんは右手を上げてくれたような気がした。
 「ごめんなさい!」と引かれる手を振り解いて、人のいなくなったボウリング場に駆け込む。目についた電伝虫を乱暴に手に取り、指が覚えている馴染みの番号を人生一番の速さでダイヤルした。

 ぷるぷるぷるぷる。はやく。ぷるぷるぷるぷる。はやく出て。ぷるぷるぷるぷる。はやくしないと。ぷるぷるぷるぷる。もう二度と。がちゃ。

『はい』
「パウリー! いますぐ海列車に乗ってセント・ポプラにきて!」

 お願いだから! はやく!
 受話器の向こうからドタバタという足音のあと、バタンとドアが閉まる音が聞こえた。
 肩で息をしながら、静かに受話器をおく。駅に走り出す。



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