献身

 秋雨が続いている。セント・ポプラは今日も雨だ。霧ほどに細かい雨が肌にまとわりつくように降っていて、傘を差さずに帽子やフードを被って済ませる人も多かった。も先ほどまでは傘を差していたが、差している方が鬱陶しい、と思い直し、道行く皆に倣って畳むことにする。ミスト状の雨が髪や頬を優しく湿らせていくが、不快ではない。
 ルッチさんは大怪我をして入院中だとカクさんに聞いてから、なんとなくルッチさんが入院しているという病院の前を通って帰るようになった。ただ前を通ってみるだけで、お見舞いには行っていない。もちろん行くつもりもない。
 それを聞いてから数日は気にして前を通ってみたものの、当たり前のことではあるが、病院の前を通り過ぎるほんの十数秒で何があるわけでもなく、今日も何もないはずだった。

「なんであんなところに」

 病室の窓の下に座り込むカクさんを見つけなければ。

  ◆

 関係者でもないのに病院の敷地に入るのは気が引けたが、は石畳にそっと足を乗せた。コツ、と固い音がする。なるべく静かに歩くが、コツ、コツ、という音は消せなかった。
 正面玄関を逸れて、建物の脇に回る。そこはもう草むらで、足音は芝生が吸収してくれると思ったのだが。

ちゃんか」

 窓の下、建物の壁に背を預けて地面に座り込んでいたカクさんは、こちらを見ることはせず、地面のどこか一点を見ながらつぶやいた。立てた膝に長い腕を乗せ、手を組んでいる。隣に座ってもいいのだろうか、と逡巡して、結局おずおずと壁を背にして隣に立つ羽目になった。
 佇まいがあまりに寂し気だったので思わず近づいてはみたものの、かける言葉がみつからない。困ったなと思いながら、所在なく曇り空を眺めてみる。薄い、もやのような雨が町並みの輪郭を淡くしていた。
 不意に、どす、と足に衝撃が走る。何事かと下を見やると、カクさんが頭を凭れてきていた。子供みたいなことをするんだなと驚く間もなく、「座ったらどうじゃ」とハンカチを差し出してきて、好青年ぶりをみせてくれる。おっかなびっくり受け取って、ふわりと芝生の上に敷いた。お尻を乗せるとじんわりと冷たい心地がする。カクさんは私が座るのを見届けると、満足したように前に向き直った。

「こんなところに座り込んでどうしたの? 面会の時間、終わっちゃった?」
「ルッチが」
「ルッチさん?」
「ルッチが死んだらどうしよう」

 カクさんは帰り道が分からなくなった子供みたいだった。

   ◆

 心細い声音に息を呑んだ。雨音はしないが、しっとりした雨のヴェールが町には下りている。喧騒が遠くに聞こえて、カクさんの怯えた声だけがくっきりと耳に届いた。恐る恐る「……良くないの?」と顔を覗き込む。カクさんは組んだ手を開いてみたり、また組んでみたり、そわそわと落ち着きがない。

「こんなルッチは……初めて見る。こんな、ボロボロで、包帯だらけで、いつまでも目を覚まさない。そんなルッチは」

 吐き出された不安はデクレッシェンドしていき、最後は聞き取るのが難しいくらいだった。
 何でもないふうを取り繕うのは諦めたらしい。カクさんは大きなため息をついて、両手で顔を覆った。こんなカクさんは初めて見る。パウリーならなんて声をかけるだろう。カクさんの瞳はかすかに震え、揺らめいているのが見てとれた。いつか、払いを渋る海賊を懲らしめるパウリーや、カクさん、ルッチさんを見かけたことがあったが、そのとき目にした逞しい肩が今はとても小さく見える。
 せめて、この肩に手を置こうか。思ってやめる。カクさんの肩から五センチほどのところで止まった手は、そのまま宙を彷徨って、結局ぱたりと地に落ちた。唇を噛んで、五指で刈り込まれた草を掴むようにひっかく。カクさんはそんな私に気づいているのかいないのか「ルッチとは長い付き合いじゃけど」と始めて、「こんなことは今までなかったんじゃ」と結んだ。

「幼馴染なの?」
「そんな素敵なもんじゃないわい。子供の頃から知っとるっちゅうだけで」

 カクさんは呆れたように手を振って否定する。ちゃんがパウリーを大事に思う気持ちとは違う、と。そんなの嘘だ。すぐさま思ったが、口は挟まない。

「ルッチは……少なくともわしにとっては、仲間とも、上司とも、先輩とも違う。兄でもなかった。ましてや友なんて、もってのほか。なんじゃろうな、あやつは。こういうのは、なんていうんじゃろう」

 カクさんはひとつひとつを正しく確かめていくようだった。
 私には、カクさんとルッチさんの間柄はいまいち想像できない。付き合いの長さもわからないし、どんなふうに過ごしてきたのかも。親、子供、兄弟、上司、部下、先輩、後輩、仲間、友達、恋人……。二人の関係は、この世界で名前のついているどれかに当てはめることが出来るのだろうか。カクさんは全部違うと言った。でも絶対。

「ルッチは、自分の理想で目標だった。なるべき姿を体現してくれる。ルッチは正しい。ルッチの言うとおりにしていれば、ルッチみたいになれば、間違わない。そんなふうに思っとったんじゃけど。それがまさかこんなことに。膝をつくルッチなんて、想像しとらんかったんじゃ」

 絶対、大切な人だ。それはわかる。

   ◆

 カクさんはふうと大きく息を吐く。この状況に参っているようだった。
 パウリーなら。ずっと思っている。パウリーなら、カクさんを慰めてあげられるんじゃないか。パウリーならもっと頼られて、カクさんを安心させてあげられる気がする。いやむしろ、何も言わず寄り添って、ただそれだけで少しでも気持ちが落ち着いたりするんじゃないかな。
 きっと、パウリーなら全部出来る。パウリーとカクさん、ルッチさんで共有している思い出の力と、パウリーの裏表ない素直さで、きっとカクさんは少し元気になるだろうなと確信があった。
 でもパウリーはここにいないし、私はパウリーじゃない。

「パウリーが」
「ん?」
「ここに、パウリーがいたら良かった」

 あまりの無力感にそうこぼすと、カクさんはパチ、パチ、とゆっくり瞬きした。そして何か言おうとして口を開けて、また閉じて。もう一度口を開けたと思ったら「パウリーは、もういいんじゃ」とのんびりした口調で答えるものだから、私はあからさまに眉を寄せて「そんな」と咎めるような言い方でカクさんを睨んでしまった。カクさんは動じない。何なら、口の端に笑みを浮かべるほどで、私はそれが気に入らない。

「じゃってのう。もう、あやつは眩しすぎて。これ以上見とったら目が潰れる。無理じゃ、無理。もう十分」
「眩しい?」
「ルッチなんて見るに堪えんかった。パウリーに毒されおって。誕生日を祝ってやるルッチなんて信じられん。“友人として適切に振舞っただけ”なんて言っとったが、たった五年で絆されたのか? あの、ルッチが」

 カクさんは、やれやれ、と言わんばかりの仕草で「まあ、あのルッチが、なんて言ったところで、ちゃんはルッチを知らんからのう」と言いながら残念そうだ。

「そんなの、友達になっただけじゃない」
「わしらに友達はおらん」

 カクさんはさらりと言うので、それがとても悔しい。

「嘘つき」
「おお、よくわかっとるの」

 カクさんが片眉を上げて茶化してくる。茶化す元気が出てきたのならそれは嬉しい。でも。

「ねえ、パウリーに会いたい?」
「別に」
「嘘つき」
「そうじゃとも」

 カクさんの迷いない返答に、ぎゅっと拳を握った。
 もう何度もシミュレーションしたかのような反応だった。何度、脳内でひとり自問自答したのだろう。想像して、胸がぎゅっと締めつけられる。

「よかった」

 カクさんが、独り言のようにぽつりとつぶやいた。

「え?」
「今日、ちゃんに会えて良かった」

 はじかれたようにカクさんを見る。横顔だけではカクさんの真意はよくわからない。

「それも、嘘?」
「そうに決まっとる」

 嘘つきが嘘だけついてくれるなら。
 正直な嘘つきの肩に、今度こそ手を置いた。震えも体温も感じないが、カクさんが「すまんの」と小さくこぼすので、私は「友達だから」と応じ、早くルッチさんの目が覚めますようにと、神様とかに祈った。



prev top next