初めて耳元で響いた言葉は思いもよらぬ言葉で、私は急接近を喜ぶ暇もなく、なんで、とただそれだけ思った。

豪雨

 風が強くなるのに比例して、コンコン、コンコン、という音も町中から響くようになってきた。家のドアに鉄戸をはめ、隙間に麻を詰めていく音だ。これを聞くと、アクア・ラグナがくるんだなと実感する。
 私の部屋の避難準備は、大家さんが請け負ってくれることになった。アクア・ラグナからの避難自体は歳の数からマイナス五回はしているが、五年ぶりの避難だったし、「家」に対する避難準備を一人でやったことはなく、正直きちんと部屋を守れるか内心とても不安だったから、とてもありがたい申し出だ。
 本当はパウリーを頼ろうかと思っていたのだが、このタイミングの『暗殺海賊』。市長が暗殺されかけたというニュースが島を騒がすこの日に、市長、もとい、社長を慕っているパウリーを頼ることはやめておきたかったし、そもそもできない相談だったろう。大家さんには感謝が尽きない。
 大家さんからは、お昼前には荷物をまとめて、避難所に行くように言われていた。お昼過ぎには鉄戸をはめてしまうからと。それまでに荷物をまとめねば。春先に越してきたばかりだったから、物はそう多くないが、避難準備の勝手を忘れてしまっていて、何があれば便利だったっけ? などともたもたしているうちにもう約束の時間だ。
 壁に貼っていたカードを外して、折れないよう大事に鞄に詰め込む。最後にもう一度だけ部屋を見回して、ドアを閉めた。

   ◆

 造船工場のどのドックに避難しても変わらないのだろうけど、なんとなく、馴染みの一番ドックを選んでしまったのが間違いだったかもしれない。一番ドックは避難所としても人気なのか、もうほとんどのスペースが埋まっていて、私は仕方なく入口近くに空いていたスペースに落ち着くことにした。人の出入りが多いために空いていたのだろうが、避難が終わり、扉が閉ざされればそこまで気になることもないだろう。
 周りは家族連れやご夫婦が多い。もしかしたら、年代とか、一人暮らしだとか、住んでいるそれぞれの町や区画かなんかで、避難するドックがなんとなく決まっているのかも、と今更ながらの気づきがある。場違いだったかな、と気になり、子供の頃はどこに避難していたっけ、と思い返してみる。
 これまでの避難といえば呑気なものだった。時間帯にもよるけれど、大抵は避難所に一泊することになるので、ちょっと非日常的なイベント、お泊り会、みたいな感じで、子供の頃は不謹慎だがワクワクしたのを思い出す。パウリーの家族と連れ立っていくことがほとんどだったから、おのずとパウリーが一緒にいるのが常だった。
 祖母とパウリーのご両親、パウリーがそばにいて、避難所だったけどそこにはいつもの日常に近いものがあった。おばさんは、いつも私と祖母の分のパニーニも作ってくれて、ピクニックのように過ごしたのを思い出す。みんなでカードゲームをして、パウリーはよく無茶な勝負に出ては負けていた。悔しそうにするパウリーをなだめ、明かりが落ちるのに合わせて、続きはまた明日とタオルケットにくるまる。暗くなると一転、馴染みのない天井と知らない人の息遣い、衣擦れの音。なかなか寝付けなくて、朝方にようやくうとうとした。毎回、寝付いたくらいに起こされる羽目になり、外に出ると決まってからりと晴れた空だったから、眩しさが恨めしかった。快晴の下、カードゲームの続きをすることはない。そうしてまた次のアクア・ラグナがくる。
 十代後半ともなると、特に男の子たちは、さすがに家族、両親と一緒に寝る、なんてことはなく。辛うじてご飯は一緒に食べていたが、食べ終わると、ふらりと避難所の隅に集まってたむろしていた。そんな光景は珍しいものではなかった。
 でも、前回の避難は、久しぶりにパウリーが隣にいてくれた。祖母がいなかったからだ。
 そうか。一人でする避難は、生まれて初めてだ。
 はた、と気づいて、不安がじわじわと募る。
 ここまで水が流れ込んでくることは、きっとない。でも、部屋は裏町だから確実に水に浸かるだろう。避難準備は大家さんがやってくれたから大丈夫。とはいえ、アクラ・ラグナの規模によっては……。大事なものは全部持ってきた。母と祖母の写真。パウリーからもらったカード。それから。
 大丈夫、大丈夫。島全体が水に浸かるわけじゃない。万一、ここにまで水が迫るようなら、その前にちゃんと避難指示が出る。部屋だって、もし浸かって駄目になってもまた探せばいい。買い直せないものは全部持ってきている。持ってきているはずだ。
 どっどっどっど。思えば思うほど制御できない自分の心臓の音で、さらに焦っていく。大丈夫、大丈夫。先ほどから飽きるほど言い聞かせているのに、身体は言うことを聞かない。心細さが限界に達し、膝を身体に引き寄せてぎゅっと抱えた。
 自分のつま先を見つめていたら、縮こまる私を人影がさっと覆って、上から知った声が降ってきた。

「地元っ子じゃろ? そんなに震えてどうしたんじゃ」

   ◆

「なんでいるの!?」
「パウリーが心配しとっての」

 突然現れたカクさんは何でもないふうにさらっと言った。私をまっすぐ見下ろす丸い瞳と目が合って、心臓が別の意味で跳ねる。おかげで、先ほどまでの嫌な動悸が一瞬でおさまった。息を整えるために、長く吐く。

「事件は……。今日は……、職長が会社を離れてたらまずいんじゃ」
「そうそう。じゃからパウリーはどうしても外せんくてのう。わしが代わりに」

 抜けてきた、と歯を見せるカクさんに、肩の力が抜けていく。こわばりがほぐれ、あたたかい血がじわっと身体をめぐっていくような気がした。カクさんは「ったく、海賊どもめ」と悪態をつきながら私の隣に腰を下ろす。元々、手狭なスペースだったので身を寄せ合うようになり、長い手足を一生懸命おさめて座るカクさんは新鮮だった。「もっとこっちに寄っていいよ」とは下心があるせいで、とても言えない。

「大変な時に申し訳ないけど……嬉しい。ありがとう。一人の避難は初めてで不安だったの」
「やっぱりのう。ちゃんは怖がりじゃなあ。寝るまで側にいてやらんと」

 からかい混じりの、でもどきりとする発言に、元気が戻ってきた私はちゃんと受けて立つ。

「寝るまでって……! カクさんって、ちょいちょい私を小さい子供みたいに扱うよね? 私、カクさんよりお姉さんなんですけど?」

 唇を尖らせ、頬を膨らますとカクさんは「ぷっ」と吹き出し、口元を手で覆った。明らかに馬鹿にされている。

「お姉さんって。ちゃん、パウリーと同い年じゃろう? あの、パウリーと」
「ちょっと待って、聞き捨てならないんだけど。私って、パウリーと同じくくり?」
「違うのか?」

 下から覗き込まれるように見つめられて、私は二の句が継げなくなる。

「さっきも震えとったじゃろ。小さい子供みたいに」

 とどめだ。
 仰るとおりです、としぶしぶ負けを認めると「素直でよろしい」と飴をもらった。間をあけずに口に放り込んだらバナナミルク味で、ころころと口の中で転がし優しい甘さを楽しんでいると「やっぱり子供みたいじゃのう」と大人の微笑を向けられる。
 気恥ずかしさを紛らわせるように、奥歯でがり、と飴玉を砕きながら話題を探した。

「カクさんは避難したことある?」
「わしは造船島に部屋を借りとるからのう。あ、でも島に来たばかりの頃、一回だけパウリーに付き合ってしてみたな」

 何事も経験じゃし、と続けたカクさんの言いぶりが少し寂しかった。なぜだろう、カクさんの言葉には、どこか根無し草のような風情があった。ここは船大工にとって憧れの島かもしれないが、腕を磨いて故郷に帰る人だっているのだから、仕方ないのかもしれない。
 遅まきながらようやく気付いた。カクさんは、いつかこの島からいなくなるのかもしれない、と。思いついたら途端に、それが身に迫るような気持ちになって、もどかしくなる。

「カクさん、あの、私ね」

 カクさんのこと、好きになっちゃったんだけど。
 言ってしまおうと息を吸った瞬間、不意に明かりが消えて、吸った息は「わっ」というちょっとした悲鳴に変わった。なんだ、どうしたと周りもざわつく。挫かれた心を立て直してもう一回、息を。

「──ッ⁉」

 告白は失敗に終わった。
 隣に座っていたカクさんが私の肩を抱くように両腕を回し、首に、耳に、息がかかる距離まで顔が近づいているのが分かったからだ。カクさんが静かに息をしているのが肌で分かった。
 心臓が体全部を揺らしているんじゃないかと心配になる。触れている肩から、胸の高鳴りがばれてしまうのではと。下手に動くと、触れ合う場所が増えたり減ったりしそうで、結局ただ身体を強張らせることしかできなかった。
 でも、嬉しかった。

「か、カクさん……?」

 やっとの思いで名を呼ぶ。長い沈黙に感じたけど、おそらく一瞬だった。
 私はたぶん頬を染めていた。暗闇でなければ、緩む口元を手で覆って隠していたに違いない。好いていた人から暗闇で抱きすくめられて、私は初恋が実ったのだと無邪気に喜びながら、暗闇で良かったと心から思った。

「すまんの」

 だから、カクさんが何を言っているのかわからなくて、目を見開くだけに終わった。

「パウリーを、よろしく」

 カクさんが言い終わるや否や、すぐに明かりがついて、そしたらもうカクさんはいなくて、私の隣がただぽっかり空いていた。ぬくもりも残っておらず、カクさんは本当にいたのか、それすら疑わしい。でも、私の手の中には飴の包み紙がくしゃりと丸まっていた。
 脳内でカクさんの言葉がリフレインする。

『すまんの。パウリーを、よろしく』

 私のことはどうやらこれっぽっちも、気にしてないみたいだ。
 「さよなら」と言われたわけではないのに、そうとしか聞こえなくて、私の初恋は完全に行き場を失った。

さよなら、初恋。



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