幻想

 ウォーターセブンの夏は暑い。ましてパウリーの部屋ときたらなおさら暑い。パウリーは「まあ飲めよ」と言って律儀に麦茶を差し出してくれたが、グラスの氷はみるみるうちに溶け、麦茶をただただ薄めるだけで、カクの手にしたグラスはすぐに汗をかいた。
 パウリーの部屋が異様に暑いのは、この大きな窓のせいだ。特に夕方のこの時間は西日ばかりが入ってきて、間取りのせいか風が通りにくい。それでも革張りのソファはいくらか冷たいのか、家主を差し置いて、暑さに弱いルッチがそれを占領して寝転んでいる。当の家主は別にそれを咎めるでもなく黙って木製の椅子に腰かけた。カクはパウリーのベッドをソファ代わりにして、気休めに腕まくりをする。家主はこの暑さにはすっかり慣れっこなのか、一人いつもと変わらぬ快活さだ。

「そういえば、ハットリは連れてこなかったのか?」
『こんなクソ暑いところに居たら死ぬ……というのは冗談で、お前には見えないところで羽を休めているだけだ。ポッポー……』
「俺には見えませんけどいるんですね、ハットリも」

 パウリーはそう言って椅子から立ち上がるとキッチンに向かった。戻ってくると、ルッチのグラスに氷をぽちゃんと追加する。ソファから動けないルッチがそれを横目で恨めしそうに見ていた。

「今日はまた一段と暑いのう」

 カクは首元のジッパーを下げて、胸元を摘まみ、パタパタと風を送った。こもった熱が少しだけ逃げていく。
 窓からは島のシンボルとなっている巨大な噴水も見えた。夕日を浴びてオレンジ色に染まっている。いつも勢いよく水を持ち上げ、空に打ち上げている噴水がカクは好きだった。それをパウリーの部屋から眺めるのも好きだ。海列車に乗るのも好きだったし、船大工の仕事も気に入っている。思っていたよりずっと、好きなものができたなと思う。
 ルッチは暑さにうなだれ屍のようにうつ伏せでソファに横たわっていた。見かねたパウリーが「お前、何しに来たんだよ……おれんちが暑いって知ってんだろうが」と怪訝そうに腕と足を組む。ルッチは『別に、暇だったんだ』とぶっきらぼうに答えた。言い終わるや、カラン、と氷が溶ける音がした。ルッチにはまるで拷問のような音に聞こえているだろうな、とカクはルッチを不憫に思う。

「で? カク、お前はどうしたんだ?」
「なんじゃ。せっかくきてやったのに。休日に友人が訪ねてきたんじゃぞ。もっと喜ばんか」

 カクは「まあ買い出しのついでじゃけど」と続けながら、 “友人”という言葉にちくりと胸を痛めた。ルッチの顔は見ないようにする。嘘ではない。嘘ではないのだが。いずれ、というほどでもない「もうすぐ」。パウリーが知らないだけで、別れはすぐそこまで迫っている。

「買い出しって、買ったものは?」
「……家に置いてきた」
「はあ? それ、ついでって言うか?」

 ルッチが目だけで『馬鹿か』と言っているが、ルッチの方を見ようとしないカクには伝わらない。「なんでもいいじゃろ!」と雑に誤魔化すと、パウリーもそれ以上の詮索はやめた。

「なあ、少し早いけど飯食いに行かねえか? 暑いしよ。飲んでりゃいい時間になるだろ」
「だめじゃ」
『だめだ』
「あァ!?」
『まだそんな気分じゃない』
「まだ腹が空いとらん」
「お前ら……ほんと、何しに来たんだ?」

 おれだって好きでこんなクソ暑いところに居るわけじゃない。ルッチの心の声がカクには聞こえた気がした。

   ◆

「おい! いい加減、もういいだろう? 俺は限界だ! 身体がアルコールを欲している!」
「わかった、わかった。そろそろ行くかのう」
『行くから黙れ』

 太陽はようやく沈み、夜に支配権を明け渡す。パウリーの部屋の温度も多少下がり、ルッチが身体を起こして座れるようになり、言葉も取り戻してきたところだった。結局何をしに来たのかわからないままでも、いつものようにくだらない話をしていたらあっという間に日が傾いているのでカクは驚く。そうはいっても、まだ風はぬるく、夏の夜の匂いがする。そんななか、パウリーは意気揚々と酒場を目指した。その足取りを見たカクは、ああ、やっぱりパウリーは夏に生まれた男なんだなと妙に納得する。パウリーは纏う空気がすでに夏だ。

「ブルーノの酒場でいいよな?」
「おう」
『むしろ好都合だ』
「好都合?」

 パウリーがいきなり足を止めたので、数歩分しかなかったパウリーとの間の距離が急にゼロになったルッチは、パウリーの後頭部に鼻をしたたかぶつけた。カクは幸いにして免れたが、ルッチは鼻を手でおさえて顔をしかめている。

「好都合ってなんだよ」

 パウリーが振り向きざまに食って掛かってきた。カクとルッチは二人で顔を見合わせる。

『パウリーにしては上出来だ』
「百点満点じゃな。花丸もやろう」

 ルッチは鼻声で、カクは子供を褒めるように言った。当のパウリーは「二人して何を企んでるんだ? さっさと吐け!」とルッチの胸倉をつかんでゆする。パウリーにされるがままのルッチをカクが笑いながら見守る。ブルーノの酒場まではあと十歩ばかりだ。

『おめでとう』
「はあ?」
「お? もうネタばらしか?」

 『これ以上揺すられると吐く』ルッチが表情を変えずに言うので、パウリーが慌てて手を離した。ルッチは掴まれたタンクトップの襟ぐりが伸びていないか確かめている。

「誕生日おめでとう。今日じゃないのは知っとるが」

 カクがそう言うとパウリーは案の定、口をだらしなく開けて呆けた。さっきまでルッチの胸倉を掴んでいた両の手も、だらりと身体の脇に垂れ下がる。カクはその開いた口に、リボンのついた上等な葉巻を突っ込んだ。パウリーが「うわあ」と声を上げて後ずさる。あと九歩。

「な、な、な、……」

 パウリーがうろたえながら、後ろ向きにブルーノの酒場に近づいていく。あと四歩。

『種明かしが欲しいか? なら教えてやろう。おれ達がなんのためにあんなクソ暑い部屋にいたのか。今の今まで外に出なかったのは何故か。答えは簡単。お前がどこにも行かないように見張ってたんだ。もっと言えば、ブルーノの酒場に行かないように。お前に知られたくないことがあったんでな』

 ルッチが一気にまくしたてるとパウリーは徐々に覚醒していくが、相変わらずリボンのついた葉巻は咥えたままだった。ルッチが一歩近づくと、パウリーは一歩後ずさる。そうしているうちにあと三歩。

「あいにく当日は船の納期が迫ってるじゃろ? それを知ったアイスバーグさんが、少し早いが今日、暑気払いもかねて祝おうじゃないかとブルーノの店を貸し切ってくれたんじゃ。……信じられん、って顔じゃな? じゃあ店に飛び込んだらいい。あと三歩じゃぞ」

 カクが言い終わらないうちに、店のドアが開いた。待ちきれなくなったタイルストンの仕業に決まっている。そこから漏れ出る喧騒とエールの泡と笑顔。つられてそちらを振り向いたパウリーの表情は、もう窺えない。けれど、駆けだしたパウリーの足取りはまるで宙に浮くかのよう!

三、二、一、〇!
パン、パン、パン。クラッカーが鳴り響いた。うおお、という雄叫びや、きゃあ、という黄色い声が聞こえてきて、カクは自分の役目は無事に果たしたと胸を撫でおろした。そして、隣の男を盗み見る。

「まさかルッチがこんな企画にのるとはのう」
「……“友人”として自然な対応を選んだだけだ」
「そうじゃな。完璧じゃった」

誕生日おめでとう、パウリー。



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