告解

「まだ開店前なんだが」
『うるさい、黙って注げ』
「ハットリはいないぞ?」
「お前は本当にうるさい」

 ルッチはそう言ってブルーノの店のカウンターに突っ伏した。ブルーノが店内を見回すと、ハットリが西日の入る窓際のテーブルで、オレには関係ないとでもいうふうに、せっせと羽繕いをしている。
 ブルーノが氷の入ったグラスをカウンターに置いてボトルを傾けると、琥珀色の液体がととと、とリズムよく流れ落ちてグラスにおさまった。ルッチは頬をカウンターに乗せてその様を見た。戯れにグラスを指ではじくと、チン、と冷たい音がして中のブランデーが少し揺れる。それにあわせて、ほのかに甘い香りがルッチの鼻腔をくすぐった。
 酒をゆっくり楽しむ気分にはなれないルッチは、むくりと起き上がると一気にグラスを煽る。喉が灼け、鼻から酒の香りが抜けていく。胃がかっと熱くなったところで、再びカウンターに突っ伏した。酒がまわる。ブルーノは黙ってまた酒を注ぎ、一緒にチェイサーも置いた。分厚い木のカウンターがそれをコトリ、と優しく受け止める。
 さっきまでざあざあと降っていた雨はいつのまにかやんでいた。どこか、窓か裏口でも開いているのか、ぬるい空気がルッチの肌を撫でていく。雨が止んで通りに賑わいが戻ってきたのか、「CLOSE」の札がかかっているウェスタンドアの向こうから「すごい雨だったな」「やんでくれて良かった」と雑談が聞こえてくる。ブルーノはそろそろ札を「OPEN」にしたいのだが、目の前の男がそれを許そうとしない。
 ブルーノは静かに息を吐くと、黙って棚のボトルを手に取って拭きだした。こんな姿、カクやカリファには絶対に見せないだろうな、と思って言わずにおく。ただの独り言だし、感想だ。ブルーノは、ルッチが自分に気を許している、というわけではないことを知っていた。ルッチはカクやカリファにはこんな弱みを見せたくないだけだ。ルッチは常に彼らが求める「絶対」を彼らに見せようとしている。だから、消去法でおれが選ばれている。

 蒸し暑いからとオンザロックにしたのがいけなかった。ぼうっと考え事をしているうちに、二杯目は氷がとけて、ぬるく、薄く、つまらないものに成り下がった。ルッチがグラスを手に取っておもむろに床に傾けると、薄まったブランデーがびちゃびちゃと下品な音を立てて緩慢に広がっていく。零したブランデーに、いつの間にか点いていた店の明かりと自分のシルエットが安っぽく、惨めに映り込む。ブルーノは黙って見ているだけで何も言わない。

「子供みたいなことをするんだな」

 ルッチがグラスの中身をすっかり床に全部こぼしてから、あきれた様子のブルーノがたしなめる。

「もったいないだろう。安酒を出してるつもりはないぞ」

 ブルーノは氷が入った新しいグラスを用意して、また注いだ。今度ばかりは、さすがのルッチも大人しく口をつけた。ゆっくり、舐めるように、少しだけ。

「全部こぼれてから言うな。そもそもおれの酒だ」
「片づけるのはおれじゃないか」
「おれがやってやる。気が向いたら」
「それはどうも。期待しているよ」

 床を拭く雑巾を手にブルーノがそう言ったので、ブルーノが思ってもいないことを言ったのがルッチにはわかった。ルッチも片づける気なんてさらさらなかったから、くく、と声を殺して笑う。こんなことで笑いたくなるなんて、少し酔ったのかもしれない。

「一体なんだっていうんだ。あとほんの数か月だろう」
「なんだ? 何が言いたい」
「カクなんか楽しそうにうまくやってるじゃないか。ルッチが同じようにしたところで、カクもカリファも、咎めたりしないだろう?」
「おい。遠慮か何か知らないが、奥歯にものが挟まったような言い方はやめろ。何が言いたいのかさっぱりわからん」

 なんて、本当は嘘だ。おれはブルーノが言わんとすることがわかる。認めたくないだけだ。認めればすべてが終わってしまうのではという恐怖が心の奥底にある。だが、そんなこと知覚したくない。辛い。そんなふうにも思いたくない。嫌だ、なんてもってのほかだ。

 ブルーノはすでに床を拭き終わっていた。ブルーノが無表情で雑巾を絞る。ブランデーの香りが鼻についた。先ほどまで楽しんでいた香り。ブルーノはルッチを見ず、何の感情も込めずに言った。

「おれは別にいいと思うが」
「だから、なんだ」
「寂しいと思っても、悲しいと思っても」
「おい、いつになく気色が悪いぞ。やめろ」
「別に、無理をするなってだけだ。最後の最後、大詰めだぞ。下手に無理されて、台無しにされたらたまったもんじゃない。こんなふうになるくらいなら、素直になったらどうだ?」
「ふざけるなよ」

 ルッチはとても静かにカウンターに脚を乗せ、その向こう側に身体を乗り出すと、ブルーノの胸倉をつかんだ。カラン。音を立てたのはグラスの中の氷だけだ。店内が静まりかえっている分、外の喧騒がやけに耳に刺さる。
 視線はどちらもそらさなかった。お互いの瞳にお互いが映って、お互いが自分を睨む。ブルーノの瞳の中のルッチはあまりに無様で、あまりに滑稽で、ルッチは心の中でそっとため息をついた。目をそらさないブルーノが、ルッチにしか聞こえないくらいの小さな声で呟く。まるで内緒話をするかのよう。

「何も大声で言って回れって話じゃない。ただ、自分にだけは、嘘をつかないほうがいいんじゃないか」
「……」
「泣いても喚いても、彼の誕生日はあと一回きりだ。この任務が終われば、一生会わない」
「本当にお前はうるさい」

 言われなくても、そんなことは任務が終わる日を指折り数えている自分が誰よりも重々承知している。寂しい。悲しい。辛い。嫌だ。全部違う、とルッチはすぐに否定した。今日は久しぶりの休日だったのに朝から土砂降りで、明日からの仕事を思うと気が滅入って、だから飲みたくなっただけ。こんなふうにいつだって自分を欺いているのに、今さらどうして本音が言える? そもそも、本音なんてもう、自分でもわからない。ただ。
 ルッチはブルーノの胸倉からそっと手を離して、大人しくまた椅子に腰を下ろした。ブルーノが襟元を直す。

「本当に、そんなんじゃないんだ。寂しいなんて寒気がする」
「そうか」
「ただ」
「ただ?」
「少し、むなしい」

そうか、むなしい、か。ブルーノは、聞いたことのない言葉を「あそこに咲いている花の名前だよ」と教えてもらった時のように納得する。

「ああ、むなしい。それだけだ」
「そうだな」

 寂しいんじゃない。
 ただもう少し時間があったなら。違う出会いがあったなら。そんな、らしくないことを思うのは、酔っているから。これが悪夢の中だから。こんな夢、はやく醒めればいいのに。ルッチは唇を噛む。

「おーい! まだ開けねえのかー?」

 店のドアをドンドンと叩く音と一緒に聞こえてきたのは、馴染みの声だった。何も言わずともハットリが飛んできて、ルッチの肩にとまる。「はいはい、今開けるよ」とブルーノが裏口から表へと出ていった。
 店主より先にパウリーがどかどかと入ってきて、カウンターに座るルッチを見つけ「うわ」と眉をひそめた。

『うわ、とはなんだ』
「うわ、以外にあるかよ。なんで開店前の店でそんなに酔ってるんだ、お前は!」
『酔ってるだと?』
「酔っとるのう」

 パウリーの後ろに続いてやってきたカクも、パウリーと同じ顔をしていた。ほんの少しだけパウリーにはない怪訝な色が混じった顔だった。ルッチはなんとなくばつが悪い気がして、目をそらす。
 「真面目なお前が、明るいうちから開店前の店に押し掛けて飲むなんて珍しいな」とパウリーがルッチの横に座った。カクはその隣だ。ブルーノが二人に「エールでいいのか?」と注文を確認する。目が据わっているルッチにパウリーが「部屋に寄ったんだぞ」と口を尖らせる。

『そりゃ悪かったな』

 ルッチが素っ気なく返すと、パウリーは視線を空に彷徨わせて少し間を取ってから真面目な声音で「なあ、何かあったのか?」と心配した。嘘の気配に敏感なルッチとカク、ブルーノには、悲しい哉、その心配に嘘がまったくないのがわかる。こういう男を騙しているんだった、とルッチは改めて自覚した。そんな男をおれは今日も騙す。

「あれじゃろ? 失恋」

 ルッチが適当な嘘で誤魔化そうと口を開いた瞬間、それより早く、カクがとんでもないことを言い出した。パウリーがさっきまでの神妙な顔つきから途端、笑顔になって「おいおいおいおい! 聞いてないぞ!」と騒ぎだす。ルッチは、パウリーの向こうで涼しい顔をしてエールを煽るカクを殺さんばかりの視線で睨むが、カクはどこ吹く風だ。

「失恋じゃあしょうがねえよな! よし、飲め! 奢ってやる!」
「なんで楽しそうなんじゃ。ひどいやつじゃのう。最初くらいもっと静かに寄り添ってやらんか」
「いやあ、ルッチも人の子だったんだなあと思ってよ」

 悪い悪い、と悪びれもせず謝るパウリーと、面白がるカクとをルッチは見る。仕方がない、まだもう少しだけ悪夢をみていよう。ルッチはそう決めて、カクのありがた迷惑な助け舟に乗ることにして、架空の思い人を急いで構築する。



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