雲間

 あいにくの雨だった。
 朝からの急な土砂降りで島のシンボルである噴水も雨でかすむ。こんな天気だ、葉巻さえ切らしていなければ外には出なかったのだが、葉巻には代えられない。パウリーは、舌打ちしながら部屋のドアを開けた。外から漏れ聞こえてくる雨音はやはり激しく、その中へこれから一歩踏み出していくのは気が滅入るが明日からの葉巻を思えば仕方がない。はあ、とため息をつきながらパウリーは最後の一本となった葉巻を咥えた。
 強い雨足のせいか商店街は普段と違って静かなものだった。まばらに道行く人はみな、出来るだけ濡れないようにと体を縮めて、おのおのの傘におさまろうとしている。合羽を着た子供だけが、濡れてもへっちゃらだ、と明るい声をあげながら、こんな天気でも、いや、こんな天気だからだろうか、元気にはしゃいでパウリーの横をすり抜けていく。後ろから、そんな子供を諫める母親の声が聞こえた。
 パウリーは角の煙草屋で手に入れた葉巻が雨に濡れぬよう、細心の注意をはらって、そっと胸ポケットにしまい込んだ。
 もうすっかり濡れたジーンズの裾は、じっとりとして気持ちが悪く、せっかく雨のなか外出したのだからすこしぶらぶらするか、という気もすぐに失せる。パウリーは踵を返し、足早に自宅へと戻ろうとした。

「パウリー」

 名を呼ばれパウリーが振り向くと、そこにいたのは器用に傘におさまりながら両手で紙袋を抱えたカクだった。この時間に商店街で買い物が出来るということは、カクも今日はオフだったらしい。この土砂降りだ。もしかしたら急なオフだったのかもしれない。いつもの作業着よりずっとラフなティーシャツ姿は、生ぬるくて湿った空気が停滞している今日にはぴったりに思えた。
 ここ最近、仕事が急に増え、それなのにこうして天気が悪くなったり、そのせいで予定していた資材が届かなかったりと、普段通りに作業していたのでは納期に間に合わないため、休日返上で仕上げる、ということが続いていた。カクも買い物に行けていなかったのだろう。チーズやハム、果物といった戦利品で膨らんだ紙袋は、カクの顔をすっぽりと隠すほどだった。カクは「買いすぎたわい」とぼやきながら、紙袋を落とさぬよう抱え直している。

「さっきの子供、パウリーみたいじゃったの」

 大きな紙袋のせいで顔は見えず、声しか聞こえなかったが、その声だけでもからかわれているのだとパウリーにはわかった。表情なんて見なくとも、カクの目はいたずらっぽく輝いているに違いない。「パウリーも雨なんかへっちゃらじゃろう?」と追い打ちをかけてくる。

「俺はシャイで……物静かな子供だったな」
「嘘が下手じゃのう。声が震えとるぞ」

 カクの笑い声にあわせて、紙袋がガサガサと揺れた。雨はまだ降り続けている。けれど、雨足はだいぶ弱まった。傘を叩く雨がさきほどよりずっと優しい。荷物で手一杯に見えるカクに「おれの傘に入るか?」とパウリーが申し出てみるが「相合傘なんぞごめんじゃ」と袖にされてしまった。
 帰路が同じだった二人は、自然と隣り合って歩いた。ぶつかる傘の分だけいつもよりわずかに距離が空いて、二人の間をぬるい風が吹き抜けていく。

「今日はルッチも休みなんじゃと」
「へえ? 三人とも休みが被るのは久しぶりだな」
「きっと来週から大口の仕事でも入るんじゃろ。ああまた忙しくなる……」

 パウリーがカクを見やると、カクはあからさまにうんざりといった様子で、眉間に皺をよせていた。それは誰が見ても子供っぽい表情で、口調とのギャップにパウリーは笑ってしまう。カクの「なんじゃ」という怪訝な瞳を「なんでもない」と手を振って誤魔化す。
 大人びた、いや、大人すら通り越して、もはや老成している口ぶりについ騙されて、いつも頼りたくなってしまうが、考えてみればカクはパウリーの一つ下のはずだった。この島に来たのも二、三年ほど前。
 人懐っこいカクは、入社してすぐに「わしはカク。お前さんはパウリーじゃろ、よろしく」と短く簡潔にわかりやすく声をかけてきた。最初は「……おう」と人見知りをして素っ気なかったパウリーだったが、歳も近く大らかで気のいいカクとはすぐに打ち解けてつるむようになった。ルッチに声をかけにいこう、と誘ってきたのもカクだ。「仲良くなったら面白そうじゃろ? 肩にハトじゃぞ?」今となっては、カクの言葉に乗ってみてよかったなと思っている。
 パウリーはカクの誘い文句を思い出して、うっかり噴き出した。カクがじろりとパウリーを睨む。

「何がおかしいんじゃ?」
「……いや、別に? 大したことじゃない」
「なんじゃ、さっきから。いけ好かん態度じゃのう! 罰としてこれを持っとれ!」

 カクは抱えていた紙袋をいきなりパウリーに押し付けた。中身を落とさぬよう慌てるパウリーを尻目に、カクはそのまま傘を片手に地を蹴って跳ぶ。いや、飛んだ。パウリーがそれを目で追う。
 カクは重力に縛られることなく、軽やかに飛んで、屋根の上に音もたてずに着地した。パウリーはカクに重さがあるのかと毎度疑っている。カクは屋根の上で足を大きく広げてしゃがみ、パウリーとの距離を少しでも近くすると「ワハハ! しっかり運ぶんじゃぞ、パウリー」と混じりけのない笑顔で言った。
 パウリーは傘を使ったら宙に浮けるのではないかと、傘を広げて坂を駆けたずっと昔の、あやふやないつかを思い出した。何度挑戦しても自分には出来なかったそれを、目の前の男が難なくやってのける。

「こらカク! それは反則だろう! 降りてこい」

 パウリーは抗議しかできない自分がもどかしく、悔しい思いだ。こうして声を張り上げて、カクを地に下ろすことしかできない。自分もそこに行けたらいいのに。

「仕方ないのう」

 カクは全然仕方なくなさそうに、いったん地に降りてきた。そして「荷物を落としたら、お前さんも落とすからの」と物騒な台詞を口にしたかと思えば、パウリーを抱えて先ほどと同じように地を蹴った。パウリーは命綱と化した紙袋をひしと抱くのに精いっぱいで、傘は落としてしまう。
 高度は先ほどより若干劣るが、軽やかさは変わらないのがパウリーは不思議だった。ひゅう、と耳の近くで風の音がする。後ろに撫でつけた金髪が風に靡いて乱れ、頬や目にかかるのでパウリーは顔をしかめる羽目になる。「パウリー。お前、重い」と睨んでくるカクを「お前、なんかそれ気持ち悪ぃぞ!」とどやせば、カクは少し考えて「確かに」と笑った。
 飛んでいるのか、浮いているのか、ゆっくり落ちているのか、パウリーにはわからない。わからないまま、手ごろな家の屋根に着地すると、カクが「おお、雨がやむぞ」と傘をたたんで、海の方を指差した。
 水平線の上、雨雲の切れ間から太陽がのぞいている。雨雲がゆっくり流れていき、青の面積が増えていく。パウリーはふと横に並び立つカクを見る。カクの黒い瞳に太陽の光が吸い込まれていくのを見る。すると、カクが急にパウリーの方に顔を向けた。パウリーは自分がカクの横顔を見ていたことに気づかれたのではと、内心ぎくりとする。カクは気づいているのかいないのか、特にそれを話題にすることはなかったが、話題にされる前にとパウリーが慌てて取り繕う。

「ルッチも休みなんだろ? 誘って飯でも行かねえか?」
「どうせ明日には仕事で会うじゃろうに」
「誘わないと明日拗ねるだろう?」
「それもそうか」

 パウリーは、まだ誘っていないカクが、すでにこのまま自分と食事するつもりになっているのに気づいて、気づかれないように口の端だけで笑った。気づかれると、またカクが怒るから本当にそっと。

「夏がくるのう。そういえばパウリーの誕生日もそろそろじゃな」
「ああ、そうだな……」

「何か欲しいものは」というカクの言葉にパウリーが「金」と即答すると、呆れた顔のカクに睨まれた。

「絶対にやらん。お前にやるくらいなら海に捨てたほうがマシじゃ」
「そこまで言うか!?」
「少しは胸に手を当てて考えてみい!」
「ひでえな。それが友達の言い草か?」
「まあ、それはさておき。何かあるか? 給料日のすぐあとなら奮発するぞ」
「そうだな……」

   ◆

 目を、開ける。
 パウリーは徐々に覚醒してきた頭を振って時計を見た。朝の五時少し前。窓から差し込むのは鋭い日差し。昨日脱ぎ捨てたままの服。
 ああ今のは。幸か不幸か、おれはこれが夢だと知っている。遠い昔の夢だと知っている。あの後に続く言葉は。

『これからずっと、じいさんになっても、お前らと騒げたらそれで十分だ』
『なんじゃ、それなら簡単じゃな!』

 幸せな夢だった。

「簡単だって、言ったじゃねえかよ。あいつ」

 なにが本当だったのか、もうパウリーにはわからない。



prev top next