会いたいとただ一言、言ってくれたら。

偽証

 今回のアクア・ラグナによる町の被害は、アクア・ラグナ慣れしていたと言っても過言ではない島の人々も、呆然と立ち尽くすほかない有様だった。これだけの被害だったのに人的被害がなかったのは不幸中の幸いで、それゆえ、島にはさほど重苦しい空気は流れずに済んだ。「さあやるか」と、みな黙々と瓦礫を撤去していく。
 ガレーラカンパニーの職人たちが手助けしてくれたのも大きかった。どやどやとやってきてくれたかと思うと、あっという間に道が通れるようになり、新しい橋が渡されていく。行き来できるようになった水路に少しずつヤガラが増え、ニーニーと鳴き声が聞こえるようになった。無駄のないプロの活気に満ちた仕事ぶりは、雲一つない青空も相まって、見ていて気持ちがいい。
 とはいえ、天下のガレーラカンパニーにも限界はある。復興に向けた大体の道筋を立ててもらったら、あとの細かい作業は各々で取り組むほかない。私も漏れなく、自宅の片づけに精を出している。もう住むことのない部屋の片づけだ。

「派手に浸かっちまったなあ」
「パウリー!?」

 ドアが流されたため、今はただの四角い穴と化した元ドアから、パウリーがひょこと顔を出す。「仕事は大丈夫なの?」と驚きながら問うと、「これも仕事みてぇなもんだよ」と足元に転がっていたマグを拾い上げ、まだ使えるか、欠けはないかとカップの縁に指を伝わせた。私が、「悪いよ」「忙しいでしょう?」「そういえば怪我は?」「少しは休まないと」とおろおろしているうちに、「残念だったな、こりゃ駄目だ」とあっさりマグの査定が終わった。
 パウリーは結局、私の遠慮や質問に応えることはなかった。挨拶もそこそこにスコップを手に取ると、部屋の中の泥をかきだし、それが終われば床や壁や天井を水で清め、部屋に散らばったさまざまなゴミをてきぱきと分類して外に運び出し、最後はひとところにまとめてくれてしまう。狭い部屋と少ない家財が功を奏して、ぎりぎり夕暮れ前にひと段落ついた。一人では絶対にこんなに早く終わらなかっただろう。
 腕を頭の上にうんと伸ばしながら二人で部屋の外に出た。パウリーよりは絶対に働いていない背中が、それでもぼきぼきと悲鳴を上げる。傾き始めた日が水路に反射してきらきらと眩くのを見ながら、「細けぇとこはまた明日だな」とパウリーが今日初めて葉巻に火をつけた。その様子に、葉巻も吸わずにずっと作業してくれていたのだと今更気づいた。
 家壁にもたれながらゆるゆると座り込むパウリーの隣に私も腰を下ろす。石畳は冷たかった。秋めいた風がすうと二人を撫でていき、葉巻の煙がゆらりと攫われていく。近所の人は早めに作業を終えたらしい。周囲に人気はなく、まるでここには私とパウリーしかいないような気持ちになって、なんだかふと昔のウォーターセブンを思い出した。子供の頃、海列車が出来る前のウォーターセブン。パウリーと手をつなぎ、息を殺して歩いた石畳を。

「職場も浸水したんだったか?」

パウリーの問いかけに、はっと我に返る。

「そうなの。まあ、家に近い職場を選んだから当然なんだけど。部屋も仕事も、どっちもひとまず決めたって感じだったから、この機会にまた探すよ。幸い、市長は被災者への手厚い支援をすぐ決めてくれたみたいだし。とはいえ、ひとまず落ち着くまでは、セント・ポプラにいる叔父のところで厄介になろうと思ってるんだ。実は、前から連絡もらってて」

 別に慌てる必要はないのに、なんだか早口になってしまった。
 軽く頭を振って、水路とその向こうの路地を見る。水路の水はまだ濁っていて、路地にはごみになってしまった家具や家財、瓦礫が積んである。

 私の言葉に、パウリーは意外にもちょっとだけ目を見開いて相槌も打たなかった。少なくとも寝る場所はあるから心配しないでと、そういう意図で伝えたつもりだったので、パウリーの反応は不思議だった。煙をふうと吐くくらいの間をとって、「叔父さんが……。そうか。それなら……安心だな」と口にした言葉とは真逆の表情で呟くパウリーに、まさかと思いながら、念のため確認する。

「あの……ちゃんと戻ってくるよ? ちょっとの間、家が見つかるまでだよ」
「なんも言ってねえだろ」
「いや、だって。あんまりにも寂しそうな顔で言うから」

 パウリーは誤魔化すように、がしがしと頭を掻いたかと思うと、咥えていた葉巻を手に取って、ぼそぼそと小さな声で話しだす。聞き取りづらかったけど、頑張ったらちゃんと聞こえた。

「……こうやって、馴染みがどんどんいなくなんのかなって思ってよ」

 馴染み、にはカクさんやルッチさんのことも含まれているのかとは、わざわざ確かめなかった。代わりに「私はずっとここにいるよ。この島が好きだもん。外に出たら一層、そう思ったよ」と気持ちをしっかり言葉にする。パウリーがこれで安心するのかはわからなかったが、パウリーは「そうか」と弱々しい微笑を浮かべた。
 話題を変えよう、と思いついた話題は、さっき口にするのをやめたばかりの話題で、この場、このタイミングにはあまり相応しいと言えなかった。

「カクさんとルッチさん、ほんとにただの里帰りなの?」

 最大限、ただの世間話に聞こえるように努めたつもりだ。効果はたぶんない。
 パウリーは一転、ぶっきらぼうに、以前から何回聞いても変わらない「知らねえ」をまた繰り返した。日はもう沈んで、空は激しい茜色から穏やかな薄桃色に変わっている。段々とパウリーの顔が見えなくなってくる。私はせめて空気は変えようと、無理に明るい調子で返した。

「そう。パウリーでも知らないんじゃ、もうどうしようもないか。それにしても急だったね。私には挨拶もなかった。まあ私なんてついこの間知り合ったような仲だったから、仕方ないけど」
「カクもか?」
「パウリーに挨拶しないのに、私にするなんてこと、ないでしょ」

 本当はぎくりとした。実を言えば「あれ」がもしかしたらそうだったのかも、というのはあるにはある。
 アクア・ラグナに備えて避難していたらカクさんが避難所に顔を見せてくれたのだ。久しぶりの避難に手間取ってしまい、避難所入口近くのスペースで縮こまっていたら、聞き覚えのある声が上から降ってきた。『地元っ子じゃろ? そんなに震えてどうしたんじゃ』と。
 少し話をして、そしたら避難所の明かりが急に消えて、そしたら──……。明るくなったら、カクさんもいなくなっていた。
 刹那の暗闇での「あれ」が別れの挨拶だったのかもしれないが、真意はカクさんに聞くか、別の人にあらましを説明して意見を聞いてみないとわからないくらい、自信がなかった。でも、じゃあ例えば、パウリーにどこからどこまで伝えて、どこから伝えないか。私には咄嗟に判断できなくて、つい「何もなかった」ことにしてしまう。それを聞いたパウリーは「そうか。いや、急だったからな」と私を一生懸命慰めてくれた。ずき、と胸が痛む。あばらが軋むみたいだ。

「会いたい?」

 自分の罪を少しでも軽くしたくて、うっかり必死になってしまう。

「あァ?」
「また、会いたいよね?」

 会いたいとただ一言、言ってくれたら。
 カクさんは今、セント・ポプラにいる。ルッチさんは怪我で入院中らしいから、すぐには動けないだろう。明日でも明後日でも、海列車に乗ってしまいさえすれば、会って話せる距離にいるのだ。 カクさんは自分たちがセント・ポプラにいることは、パウリーには内緒にしてほしいと言った。あれは懇願だった。パウリーは自分達には会いたくないはずだと。察するに、カクさんとルッチさんは、もしかしたら去り際、パウリーに何か酷いことをしてしまったのかもしれない。誤解だったのか、何かすれ違いがあったのかわからないけど、あまりに時間がなくて弁解できなかったのかも。パウリーをこんなふうに怒らせるなんてよっぽどのこととは思うけど、でも二人がわざと、悪意をもってひどいことをするような人達だとは思えなかった。何よりパウリーの友達だ。何か、お互い勘違いしてるんじゃないかな。
 パウリーが会いたいなら、嘘は。

「あいつらはおれの顔なんてもう見たくねえだろうよ」

 なんで、という言葉はすんでのところで飲み込んだ。
 なんで、二人とも同じことを。

「パウリーは、もう会いたくないの?」

 縋るような問いになる。
 日は完全に落ちて、夜風といって差し支えない冷たさの風が、音もなく肌を撫でていった。パウリーは黙り込んでいる。追い詰めてしまったと反省し、ごめんと謝ろうとしたところで、「わかんねぇ」とくぐもった声が聞こえた。それを聞いた私は、本当にごめん、と心から反省する。パウリー、ごめん。

「三人に何があったかも知らないのに、勝手にごめん」

 パウリーの声には、はっきりと辛さがしみこんでいた。

「言いたいことも、聞きたいこともある。けど、もう今更だっても思う。忘れたいのに、ふと思い出しちまう。こんなのはもう嫌だ」

 既視感を覚えた。
 心臓をぎゅっと握って絞り出したようなこの悲痛さを、自分で自分をどうしようもできない辛さを、私はすでに誰かに教わった気がする。何も言えずに黙っていると、パウリーがゴーグルを外して、後ろに撫でつけていた髪をばさばさと乱暴にほぐした。パウリーの横顔が髪で隠れてその瞬間、あ、と記憶がよみがえる。

『なんかもう嫌だ。なのに嫌いになれない。わかんねえ』

 初恋だ。私ではなく、パウリーの。



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