雨降るセント・ポプラの町中で、彼の手を掴むことが出来たのはなぜだったろう。
 答えはもう教えてもらえない。

「カク、さんッ!?」
「なんとまさか」

 見つかってしまったわい、と慌てるでもなく言ってのけたのは、私たちの前から姿を消したカクさんその人だった。

望みはたったひとつだけ

 ウォーターセブンにアクア・ラグナを連れてきた雨雲がまだ近海に停滞しているのか、セント・ポプラは生憎の雨だった。みな雨に濡れぬよう、傘の中に身体をしまいこんでいる。傘と傘が行きかう道は普段よりずっと窮屈で、行き交う人の表情も傘に隠れて窺い知ることはできない。だから雨の日は嫌いだ。

 記録的な大災害となったアクア・ラグナ襲来から二日後、家をなくした私はセント・ポプラの叔父の家にやっかいになっていた。しばらくは夢の海列車通勤だ。ただ、通勤といっても、職場も被災したから目下の仕事は瓦礫の片づけということになる。もやもやと気になることが多いこの頃、考える暇なく身体を動かせるのはありがたかった。
 とはいえ、家路につくための海列車車内では、結局、時間を持て余したため、考えずにいるということは残念ながら難しかった。車窓にぶつかる雨粒が、少しずつ大きくなって下に流れては、またうまれていくのをぼうっと見ながら、はパウリーのことを考えてしまう。そして「里帰りした」カクとルッチのことも。アクア・ラグナが去った後、姿が見えなくなった二人は、このタイミングで里帰りしたそうだ。変だと思っていたら、パウリーも変だった。「知らねえ」とそれしか言わない。本当に知らないなら、もっと心配するはずだ。パウリーはそういう男のはずだった。つまり、知っているがゆえの「知らねえ」なんだな、とは思っていた。
 この春に知り合って、数か月。パウリーのおまけのように仲良くしてもらっていただけの私は、事情を教えてもらえなくても仕方ないと諦めがついている。ただ、パウリーは。
 なぜか大怪我までしているし、「知らねえ」の言い方も気になる。あれは、怒っていた。「里帰り」間際に三人は喧嘩でもしたのか、なにか仲に亀裂でも入るような事態になったのか。カクさんとルッチさんが、パウリーと喧嘩別れ? 里帰り間際に? そんな人たちとは思えなかった。……ほらね、知らないといろいろ考える。
 この世界で、仲違いしたまま誰かと別れるのは悲しいことだ。海は広くて、簡単に人を断絶させる。人はまだこの海を、世界を、自由に行き来できない。会いたくても会えないなんてざらだ。
 もし喧嘩なら……ちゃんと仲直りできるといいな。
 間もなくセント・ポプラ、という車内アナウンスが聞こえて、はもう少し落ち着いたら絶対にパウリーを問い詰めてやるとそう決めて、雨の降りやまぬセント・ポプラ駅前に降り立った。

 傘を広げながら薄く広がる雨雲を見る。どうせなら、ざあざあと降って、からっと晴れてくれればいいものを。変に明るく、しとしとと降り続ける様は見ているだけで気が滅入る。差している傘のせいで視界が狭く、すれ違う人と足元の水たまりとを避けようとすると、なかなか思うようには歩けない。早く叔父の家に帰りたい。
 それなのにどうして私は。

「カク、さんッ!?」

すれ違ったその人を後ろから呼び止めて。それだけでは足りないと、咄嗟に腕を掴んだ。
どうして私は。ほんの少しの傘の隙間から、「知らない人」にしかみえない彼を見つけてしまったのだろう。

   ◆

「なんとまさか」

 見つかってしまったわい、カクさんは私の咄嗟の行動に、慌てるふうもなく淡々と言ってのけた。反対に、私の心臓はバクバクと動悸が止まらない。咄嗟に声と手が出た、こんなの初めてで、冷静になってくるとだいぶ恥ずかしい。道行く人にも、邪魔だと言わんばかりの正直な視線を投げつけられ、慌てて数歩先の路地に避けた。
 カクさんは「て」と声を発した。「え?」という顔で応じると、ふうとため息をついて、「そろそろ、手を、離してもらえると、ありがたいんじゃけど」としっかりめの文章で言った。「あ」と慌てて手を離す。カクさんは私に掴まれていた手をプラプラと振った。

「久しぶりじゃの。といっても、二日ぶりか?」

 なんだか全然会っとらんかった気がするのう、と人懐っこい笑顔を浮かべるのは、いつものカクさんだ。でも。
 目の前の彼の姿形は私の知っているカクさんなのだけれど、着ている服と被っている帽子は真っ黒、黒ずくめだった。こんなの見たことない。そして、何故かぼろぼろに傷んでいる。口の端は切れて、血が固まっているし、先ほどプラプラと振った手の袖口からは包帯が覗いていた。イメチェン、とは思えない。目の前の彼が纏う空気は、ウォーターセブンで仲良くなった「カクさん」とは違ってみえ少し怖い。それなのに、なんだろう。こちらの方が自然で、取り繕っていなくて、馴染んでいるような気もする。

「里帰りって聞いた……。実家、東の海じゃなかった?」
「パウリーから何も聞いとらんのか?」

 カクさんは目を見開いてそのままぴたりと止まる。首をゆっくり縦に振ると、今度は呆れたように肩をすくめて、はは、と乾いた笑い声をあげる。その笑い方は、パウリーと一緒にいるときのものとは少し違って見えた。

「パウリーめ。本当にいいやつなんじゃな、あいつは」

 触れまわるような男じゃないか、と独り言ちる。お人よしにも程があるとため息をつくカクさんを見て、彼は私とパウリーより一つ年下なのに、まるでお兄さんみたいに振舞っていたなと思い出した。それはとてもしっくりきていた。パウリーは「おい、たまには先輩を敬えよ!」とどやしていたけど、あれは照れ隠しなのを私は知っている。

「カクさんだって、いい人だよ」
「わしが?」
「いい人でしょう?」
「仕事じゃったからのう」

 「仕事だから」ちゃんとしていた、という意味ではなさそうだ。では一体、なんだというのか、見当もつかない。カクさんは「はあ、それにしても、まさかこんなふうに会うとは。気まずくて仕方がない」と傘を持たぬ空いた手で頭を搔きながらぼやいている。気まずい、とはあれのことだろうか。
 は、たった二日前にあった避難所での出来事を思い出していた。
 五年振りの避難に身体が竦んで震えたことを。心細く思っていたら、カクがそばにきて、話しかけてくれ、寄り添ってくれたことを。そして明かりが消えたら──……。それがカクとの最後だった。
 あれはなんだったのか、聞けずに彼は姿を消して、いまは目の前にいる。でも、つい数日前のことなのに、思い出のすべてが等しく遠い日のことのように感じた。それはきっと、いま目の前にいるカクが、の知らないカクに思えるからだろう。カクの態度は、共に過ごしたこの短い夏の日々を、いともたやすく「幻だったのでは」と錯覚させる。
 は、他人行儀な調子を崩さないカクに怖気づきそうになりながら、声を振り絞った。

「仕事だってだけで、あんなふうに笑えるはずない」
「そういう仕事じゃ」

 にべもない。
 は拳を握ってぐっとこらえた。そして大事な質問を。

「パウリーは」
「やめてくれ」

 知ってるの、と言わせてすらもらえなかった。
 やめてくれ、と頼むその顔があまりに必死で、はどうしていいかわからなくなる。
 カクはの言葉をかき消すように強く短く言った。その声音にはたった一声ですべてをわからせようとする強さがあり、怒鳴られたわけではないのに、つい身構える。の身体が震えるのは冷たい雨のせいか。

「なんで? パウリーに知らせたらまずいの?」

 はそれでも負けじと食い下がった。「なにがあったの」と問いを重ねようと口を開けたが、カクの方がそれを制すかのように先に言葉を紡ぐ。

「パウリーはわしらの顔なんか、見たくないはずじゃから」

 は一瞬息が止まりそうになった。
 カクさんが眉を寄せて傷ついた顔で笑って、なぜだろう、そんな顔初めて見るのに。は、ようやくカクさんに再会できた。ああやっと、カクさんに会えた。そんな気持ちになった。

「パウリーがかわいそうじゃろう。わしらに会ったって、嫌な思いするだけじゃ」
「なんで、そんなこと言うの」

そんな傷ついた顔で、とは言えない。カクさんは私の質問に答える気はないようだ。

「わしらは、まだこの島からは出れん。大人しくしとるから、どうか」

 それは祈りにも似た懇願で。帽子を取って、パウリーには言わんでくれ、と訴えてくる彼に私は何も言えなくなる。
 喧嘩したなら仲直り、でしょう?



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