第六番 幻影

 震える身体を必死に押さえた。押さえていなければ大声をあげてしまそうになるから唇を噛んだ。何も見たくないと、すべてを撥ね付けるように目を閉じた。それから、ゆるゆると膝をおって、へたり込んだ。自分の周りは真っ赤で、真っ赤で、真っ赤で、妙に生暖かく、妙に生臭く、ゆっくり、侵食して、肺から侵されていく。息もしたくなかった、生きたくなかった。


 最近、夢見が悪い。誰が出てくるわけでも、何が出てくるわけでもなく、ただただ真っ赤なのだ。声がするわけでもない、姿が見えるわけでもない、ただただそこに寝そべるのは恐怖。絶対的な怯え。こんな夢をみるのは初めてだった。夢といえば、めちゃくちゃであってもそれなりにストーリーがあったりするものではないだろうか。近頃見る夢にはそれがまるでない。ただただ真っ赤なだけで、飛び起きる頃には例えようの無い恐怖に苛まれているのだ。

「癪に障る…!」

 一人そう呟いて毛布を引き剥がす。汗をかいたせいでとても喉が渇いていた。枯渇する音が頭の中で響き渡り余計に苛々する。
コップに水をなみなみと注ぐと、それを一気に飲み干した。水の都、というだけあって水は非常に澄んでいておいしいと思う。その綺麗な水が身体を駆け巡る妙な怯えを溶かし込んで、流してしまってくれればいいのにと心から願った。


「っつ!」

 らしくないミスだった。金槌を自分の指に振り下ろすなんて、職長らしかぬミスであったし、カクらしくもないミスだった。傍にいた若い職人が「珍しいですね、滅多に見れないものみました」と言って笑う。逆の手で照れたように頭をかいて「槍でも降るかのう」と冗談を言ってみたものの、釘と間違えた指はずきずきと断続的な痛みを脳へ伝達し、悲鳴を上げていた。思わずほんの少しだけ顰めた眉を目敏く見つけたその職人は、真面目な顔になって「医務室、ですね」と言った。

「大したことないわい」
「へえ、じゃあその手でカンナがかけれますか?」
「………かけ「れるわけないでしょう」

 言葉は遮られ、その職人は「釘打ちくらい僕だけだってやれます」と笑顔でそう言うなり、半ば無理矢理、医務室へ引っ張ってきた。誰もいない、ひどくがらんとした、清潔感の漂う白が自分を取り囲む。ちっ、と舌打ちして救急箱に手をかけた。無事だった利き手で、氷やら湿布やらを準備するが、やはり片手では思うようにいかない。

「くそ!」

 どれもこれも、全て例の夢のせいだ。ここ最近、熟睡した覚えがない。1時間や2時間ごとに目が覚め、終いには寝つけずに起き出してしまう。その時間は、職人であっても早すぎる時間だった。冷蔵庫から取り出した氷はテーブルの上、ビニール袋の中で溶け出し、水へと姿を変えて、いや元に戻っていく。その様子をただただぼーっと眺めた。
この年になって怖い夢を見るから眠れないだなんて、そんな馬鹿な話があるものか。そんなのは、とっくの昔に卒業したはずだ。もっと怖いものならこの目でたくさんみてきたはずなのだ。もっとおぞましい声ならこの耳でたくさん聞いてきたはずなのだ。目を塞ぎたくなるような光景も、耳を塞ぎたくなるような叫びも、全部、全部。あぁ、気持ち悪い。
 しばらく呆けていた。


「カク?」
「……カリファ」

 彼女は頭を押さえながら、自分の名前を呼んだ。懐かしい響き、優雅で奥ゆかしい、思わず笑顔が零れた。

「どうしたんじゃ?」
「頭が痛くて…、頭痛薬をと思って―――」

 彼女はそう言いながら、慣れた手つきで頭痛薬を取り出すと、その白い錠剤を口の中に放りこんだ。細い喉がこくん、と動いて薬を胃に押しやった。「水を飲まんと、」非難するようにそういうと「ふふ、今から飲むわ」と素直に水をコップに注ぐ。コップの中で透明な水がゆらゆらゆらゆら、緩慢な動きで踊る。

「カク?」
「え、あ…なんじゃ?」
「…あなたは、どうしたの?」

 怪訝そうなカリファを安心させようと、赤く腫れあがった指をひらひらと振って「しょうもないミスじゃわい」と困ったように言った。それを聞いたカリファが「大変」とそう言って氷を準備してくれた。そっと患部に当てると熱く熱く、熱を持った血が冷えていくのを感じる。思わず安堵の息を吐く。

「珍しいわね、パウリーじゃあるまいし」
「あいつは忙しないからな」

 あの男は仕事は速いがミスも多い。報告書も誤字脱字だらけで、製図も…これはごくたまにだが見間違う。それでも最終的に、仕上がる仕事の出来は素晴らしいものだった。思いだし、笑う。

「なんだか、いつものあなたじゃないみたい」
「なんじゃそりゃ、気のせいじゃろ」

「…あのときみたいよ」


「あのとき…?」
「………昔、初めての後」

 カリファの言葉は、情報を正確に伝えるための大切なで重要な部分がすべて抜け落ちていたが、それでも即座に理解した。

 昔―まだ子供だった頃―、初めての―任務で人を殺した―後

 記憶が再構築されていく。震える身体を必死に押さえた。押さえていなければ大声をあげてしまそうになるから唇を噛んだ。何も見たくないと、すべてを撥ね付けるように目を閉じた。それから、ゆるゆると膝をおって、へたり込んだ。自分の周りは真っ赤で、真っ赤で、真っ赤で、妙に生暖かく、妙に生臭く、ゆっくり、侵食して、肺から侵されていく。息もしたくなかった、生きたくなかっ―――――

 ふわりと、甘い香りがした。閉じた目を開ければカリファが膝を折って座りこみ、同じように座りこんだ自分を抱きしめてくれていた。二人の距離は限りなくゼロに近い。懐かしい響きが、耳に届く。歌みたいな、祈りみたいな、総てを許すような、これは声?

 あのときのあなたもこんなふうだった。
 辛そうなのに零れるのは相変わらず笑顔で、見ていられなかった。
 思わず抱きしめたら、あなた泣き出したのよ。
 覚えてないでしょう?

 忘れていた。あの赤い光景に続いたのは、確かに声だった。今も昔も変わらない声だった。
 強張った身体がほぐれていく。噛んだ唇から力を抜き、ゆっくり息を吐いた。





 止まっていた血液が、流れ出した気がした。


第六番 幻影


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