第七番 英雄

彼等の名前?さあ、呼んでご覧よ。
僕等の名前?あぁ、呼んでみるかい?
呼べるものなら、どうぞ?


 じりじりと太陽の照りつける季節となった。見上げれば広がる空はいっそう青く、海との境界線がひどく曖昧だった。それを明白にするのが遥か遠くにまるでそびえるかのごとく立ち上る積乱雲で、色は洗い立てのシャツなんかよりも白い。足元に視線を落とせば、足元からのびる影は濃く短く、太陽が高い位置にいるのがわかった。絶え間なく、そして余すところなく流れる水は太陽の光をきらめかせ、この街は光りを纏い一段と美しくなるのだ。
 上昇する気温に比例して、肌の露出も多くなる。ちなみに今日は薄い青色のノースリーブのシャツと、白いミニスカート。そうヒールの高くないミュール。そうなるとうるさいのはパウリーで、やっぱり今日も「カリファ!」と怒鳴り散らしていた。

「あら、ごめんなさい。今度から気をつけるわ」

 そう言いながらも、気をつけたためしはない。パウリーだってきっと、私にそんな期待はしていないと思う。ルールのような、挨拶のような、ちょっとした合言葉のような、一種のコミュニケーションなのだ。


 溜まりに溜まった書類の山、今日こそは彼がいくら「嫌だ」と言ったとしても片付けてもらわなければならない。風が吹けば飛んでいってしまいそうな書類を高く積み上げて、よろよろと歩きながら苦労して事務室のドアを閉めた。いくつか角を曲がり、階段をのぼり、時折落ちそうになる書類を慌てて押さえる。そんなことを何回か繰り返すと、長い廊下に自分以外の誰かの足音が聞こえるのがわかった。視界は白い書類で埋まっている。けれど、向こうから歩いてきたのが誰なのかはすぐに判明した。

「カリファ! てめぇ何度言ったらわかんだよ! ハレンチめが!」
「パウリー……!」
「……あ? なんだ?」

 「半分持ってちょうだい」と、それを聞いた彼の顔は相変わらず高く積みあがった白い書類で見ることはできなかったが、楽しそうな顔でなかったことだけは想像がついた。
 面倒だ、などといいながら彼は決して私より少ない量を持とうとしないことを知っている。だからやっぱり今日も、頼んだ半分よりもはるかに多い量の書類を持って私の隣を歩いている。

「ったく……何度言ったら分かんだよ。ここは男の職場なんだ!」
「あら、そんなの女性差別よ。セクハラね!」
「ばっか! 違ぇよ!」

 カツカツと細い足音が、ドスドスと鈍い足音が、長い廊下に反響して自分に返ってくる。それの合間に、パウリーの低く、けれど凛とした声と私の声が響いた。本社は広く、廊下は長いが社長室はもうすぐだ。

 コンコン、と軽いノックのあとに続くだろう「入れ」という言葉を待った。しかし、いくら待っても返事はない。「アイスバーグさん?」とパウリーも声をかけるが、やはり返事はなかった。

「失礼します」

 そう断っておいてからゆっくりドアを開けてみても、そこにいるはずの人物はいなかった。窓は開いていて、カーテンが風ではたはたと揺れる。パウリーが「こりゃ、カクに出してもらったんじゃねえか?」と面白そうに言った。それを聞いて、自分で持っていた書類をパウリーが持ってくれていたもう半分の書類の上に乗せる。慌ててデスクに駆け寄るとデスクの上には「外へ出てくる」というメモだけが残されていた。「どこか子供っぽい人だよなあ」パウリーが、また呟く。まるで確認でもするように、はっきりといった。
 私はただただ溜息をついた。先を越されてしまった。きっとあの人には、特別なレーダーか何かが搭載されているに違いない。だからこうやって逃げおおせてしまうのだ。悔し紛れに残されたメモをくしゃりと握りつぶした。あとで、カクに文句を言ってやろう。そんなことを思いながら、右手の中で小さくなったメモを空っぽのごみ箱に捨てた。

 急に風が吹いて、書類がざっと音をたてて吹き飛んだ。風の名を持つ彼が帰ってきたのかと思ったのだが、そんなことはなく、代わりに実体を持たない風が部屋で書類と踊る。そんな書類をパウリーが大慌てでかき集めていた。私もまた溜息をついて、落ちた書類を拾い始めることにした。


「カリファ?」
「何?」

 書類を拾いながら彼は珍しくスカートから伸びた私の足を凝視した。そして「さっきから気になってたんだがよ」と続ける。真面目で、瞳はまっすぐこちらをみていた。そんな彼に、少しだけ驚いた。

「お前、右足怪我してないか?」
「え?」

「ルッチ、ちょっと…相手をしてくれないかしら?」
「俺が?」
「えぇ、カクやブルーノは手加減するんだもの」

「なんか、庇ってるみたいだからよー」

 またアイスバーグさんに蹴り入れたんじゃないだろうな!? パウリーが見当違いなことを叫んだ。まさか、そんな。この怪我は。

「いいえ、ちょっと慣れない靴をはいていて挫いただけよ」

 嘘をついた私を責めるみたいに、また風が吹いた。パウリーが慌てて窓を閉めた。そうやった後でさえも、ガラスをガタガタと揺らしていく。割れてしまうのではないかと思った。「強い風だな……」パウリーが窓の外で揺れる木々をみて声をもらした。

「つっ……!」
「おいおい、ガードしただけだぞ。鍛え方が足りないんじゃないのか?」
「……」
「今日が“最後の日”じゃなくて良かったな」

「ちょっと待ってろよ。あ、ほら。そのソファにでも座ってろ」
「パ、パウリー?」

 彼はそう言い残して社長室を後にした。彼の言ったとおり、皮張りのソファに腰を下ろし身体の沈む感覚に酔った。私はただぼんやりと昨日の夜を思い出しながら、ルッチに掴まれた右足首をそっと撫でる。足首の痛みはどんどん増していき、流れる血がそこだけ熱を持つようだった。いたい、いたい、いたい。

「うし、ちゃんと大人しく待ってたな」
「どうしたの、それ……」

 少しして、パウリーは包帯やら湿布やら氷やら、とにかくいろんなものを持って社長室に入ってきた。「あー何がいるのかよくわかんなかったからよ。あ、ほら、これはお見舞いだ」言いながら、どこから持ってきたのか、赤と白の水玉模様の包み紙がかわいらしいキャンディを投げて寄越す。驚いて「ありがとう」と小さな声で呟くのだが、彼は「捻挫だから、冷やさなきゃいけないんだよな……んでそれから……」などとぶつぶつ手当ての確認をしており聞こえていないようだった。私はくすり、と笑ってキャンディを口に放りこんだ。甘いいちご味が口いっぱいに広がり、何故か懐かしい感覚に襲われた。小さな頃、食べていたわけでもないのに。

「お前なあ、嫁入り前の大事な身体だってのに……もっと大事にしろよ」
「そうね、気をつけるわ」
「ったくよー、ほんとじゃじゃ馬だな」
「なっ……! 酷い……パウリーってばなんだか父親みたいね」
「は! 俺がお前の親父ならこんな破廉恥な服は着せねぇな」
「ふふ、それもそうね」

 不意に、冷たい氷が足首にあてがわれる。きんきんと急速に冷える患部は凍ってしまいそうだった。「大体、なんで包帯とか巻かねぇんだよ。捻挫は癖になるんだぞ」パウリーの言葉に、自嘲染みた笑みをこぼした。
 だって、パウリー。私のこの足で、あなたを蹴り倒すかもしれないのよ。アイスバーグさんを蹴り上げるかもしれないのよ。そのための、足なのよ。

「お……おい、なんで泣くんだよ……そんな痛ぇのか?」
「……そう、ね。痛いわ」

足首じゃないけれど…、心が、なんていったらあなたは笑う?センチメンタルでロマンチック過ぎるわね。なんてくだらない。心が痛むなんて、もう別次元なのに。
彼は決してこちらを見ようとはせず、「まあ、その……なんだ、疲れたときは酒でも飲めよ。頭にくる奴がいたら蹴り飛ばせばいいし……、捻挫したらまたこうやって手当てしてやるからよ」と言いながら綺麗に包帯を巻いてくれた。
彼は一度もこちらを見なかった。

「おい、カリファ」
「なに?」
「その包帯は、なんだ…俺を責めてるのか?」
「あら、気付いてもらえて嬉しいわ」
「……悪かった」

包帯が取れる頃、私はまた、あなたを倒す練習をする。


第七番 英雄


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