第五番 鬼火

 とても厳しい人を知っている。とても優しい人を知っている。とても寂しい人を知っている。とても悲しい人を知っている。とても愛しい人を知っている。とても美しい人を知っている。とても麗しい人を知っている。とても眩しい人を知っている。とても激しい人を知っている。とても勇ましい人を知っている。とても猛々しい人を知っている。とても痛々しい人を知っている。

とても、恐ろしい人を、知っている。
とても、正しい人を、知っている。



「ひどく、面倒ね」

 私は何とはなしにそう呟いた。膨大な調査書と資料とに溺れながら、まるで助けを求めるみたいに。もちろん誰も聞いちゃいない。ここにいるのは私一人。今日は確か……会社のみんなは船の納期が迫ってるとかで残業だったはずだ。船大工二人が遅れるのは確実だろう。酒場の主人はどうだったろうか。団体で予約が入ったとか言っていたような気がする。それらを統合して得る結論は一つ、まだ当分一人きり。

「とても、面倒だわ」

 アンダーラインとポストイットばかりの紙切れにいくら目を通してみても、“例のもの”の在り処はわからない。この分だと強硬手段に出なければいけなくなるかもしれない。それを考えると、頭がずきずきと痛むような気がした。この痛みはなんだろう。考えれば考えるほど、馬鹿みたいな答えばかりが浮かんできて、とても苛つく。
 何気なく目元を手で覆ってしまう。そのまま目を瞑れば、当たり前だけれど何も見えなくなって、闇が私を包んだ。網膜の色が透けて少し赤みがかった闇だ。その闇の色にひどく落ちついてしまう自分に少し落胆した。そんな気分を振り払うように、肩に首元にと纏わりつく長い髪を乱暴に纏め上げた。



「やあ、少し遅れたね」

 音も無く入ってきた男の声に、私は驚くわけでもなく「気にしないで」と答えた。こんな優しい物言いをするのは酒場の主人だ。ゆっくりと、ゆったりと、ドアの方に顔を向ければ、そこには予想した通りの人物が柔らかく微笑んで立っていた。私と目が合うと、より一層表情を和らげた。私もつられてにこりとしてしまう。

「カリファだけか?」
「えぇ、そう。まだ当分、二人きりだと思うわ」
「なぜ?」
「残業なのよ。すごく大きな船の納期が迫ってるの。最近雨ばかりだったから、作業が遅れていて……」
「それは大変だな」
「あなたは? 今日は予約が入っていたんじゃなかった?」
「あぁ、数日前キャンセルになったんだ」
「あら、それは……お気の毒? ラッキー?」
「ふ、どうだろうな」

 他愛ない会話。普段彼と接することはほとんど無いから、こうやって会った時は随分と話しこんでしまう。それを日常生活に持ちこめないのはとても辛い。適度な距離であるはずの酒場の主人と社長秘書との間に、度の過ぎた親密感が漂ってはいけないのだ。あくまで同じ街の市民だとか社員の行き付けの店の主人だとか、それくらいの間柄でなければいけない。



「すまん、遅くなった」

 そう言いながら、少しくたびれた顔をしてカクが入ってきた。よほど疲れたのだろう。彼はそのままソファに倒れこむようにして寝転ぶと「疲れたわい」と小さな声で言った。ブルーノはそんな彼にコーヒーを出そうと立ちあがった。私はブランケットを、と同じように立ちあがる。ブルーノはキッチンへ、私は寝室へ。そうやってお互い全く別の方向へ歩き出したのに、元の部屋へ戻る時には結局、二人とも同じタイミングとなってしまった。カクへそれぞれコーヒーとブランケットを差し出すタイミングまで一緒で、思わず顔を見合わせる。そんな私達を見てカクが楽しそうに笑った。

「ルッチは?」
「あぁ、あれはパウリーに捕まった」
「あらら、それは…」
「「「お気の毒」」」

 誰とはなしに笑い声が漏れた。最初は控えめだったそれも、だんだんと伝染して終いには三人とも声をあげて笑ってしまう。
 とても、温かいと思った。



「騒々しいな、黙れ」

普段と変わらない顔で入ってきたルッチは、ソファを独占し寝転ぶカクをちらりと見て、少しだけ顔を顰めた。彼も相当疲れているのだろう。私は座っていた一人用のソファから黙って立ちあがり、その足で彼用のブランケットをとってこようとした。

「妙な気遣いはいらない、とっとと座れ」

 それは明らかに立ちあがった私に向けられた言葉だった。彼はそれだけ言うと、簡素な椅子に腰を下ろし額に手をやる。それは苛立った彼のよくやる昔からの仕草だった。こんなとき、彼に逆らってはいけない。私はそれを知っていた。

「何かわかったことはあったか?」
「いいえ、進展は無いわ」
「そうか」
 そう言って彼はブルーノの持ってきたコーヒーを受け取る。はずだったが、彼はそのカップを取り落とした。ガシャンと色気の無い音をたててカップが壊れ、コーヒーが床に広がる。ルッチは「くそ……」と苦々しげに呟くとまた額に手をやった。
 「寝たほうがいい」、ブルーノが彼を優しく諭す。カクはもうすでに寝てしまっていた。それを見たルッチは顰めていた顔をさらに歪ませ「解散だ!」と怒鳴った。そんな彼をみて、ブルーノと私は彼に見られないようにこっそりとウィンクした。



 寝息をたてる彼に、改めてブランケットをかける。寝ている時まで眉を顰めている彼は、いったいどんな夢をみているのやら。
 私達は闇に生きる者。闇を愛し、闇を纏い、闇を守り、闇に守られる者。仮面を被り、沈黙を言葉とし、悪を食べる者。世間が私達を何と呼ぶのか知らないが、私達は闇とともに、ここに、生きている。



私達を「狂気」だなんて呼ばせない。


第五番 鬼火


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