それはゴールデンデイズ

 夏が終わったな、とパウリーは思った。吹く風だろうか、空の高さだろうか、アクアラグナが去った後は、毎年こうだ。夏だけが終わる感じがするよね、と言ったのはだったと思い出す。パウリーはの言うことがいまいちよくわからず、首をひねっていたが、の隣にいたカクは「確かにのう」と大きく頷いていたのをよく覚えている。夏が終わる、雨が降る前の匂い、夜の温度、笑っている犬、そういうのをよく「わかる」と言い合っていた。
 一緒にいると、わかるようになるもんか? とパウリーは思ったが、それならおれの方がとの付き合いは長いんだからわかっていいはずだよなと思い直し、こいつらはなんかそういうのが合うんだなきっと、と納得した。それが、いつかの夏の終わりだ。ここ数年の話のはずだが、遠い蜃気楼の向こうにある夏の話だったように思える。

二年前・夏の終わり

 パウリーが、尊敬する社長を襲った不埒な輩にクビを言い渡して島に戻ると、島は島で大変なありさまだった。かつてない規模のアクララグナに襲われた街の被害は例年以上に深刻で、そんななか本社は焼け落ちており、まあとにかく命からがら戻ってきた身体には堪える、散々な忙しさが十分に覚悟出来る様子だった。

「パウリー」
「あ、アイスバーグさん」

 休んではいられない、とまずはドッグに顔を出したパウリーは、アイスバーグの包帯だらけの姿を見て顔をしかめたが、それはアイスバーグも同じだった。アイスバーグは、パウリーの肩に手を置いて、よく戻った、と短く、だが力強く激励する。傷の痛みより、お互い無事でよかったという安堵の方が勝った。とはいえ、パウリーはそれでも自分の力不足と情けなさを痛感しており、悔しさに歯を食いしばった。喉の奥の方から絞り出したような声が出る。

「勝手して、すみません」
「いや、いいんだ、それは」

 アイスバーグは事も無げに言った。命があって本当によかった、とそれしか言わない。パウリーは頭を振って、気持ちを切り替えた。

「なんです? 仕事ですか? なんでもすぐに取り掛かれますよ」
「違うんだ」

 アイスバーグは、おれじゃあ駄目なんだ、と言いながら力ない笑顔でパウリーに降参のポーズをとった。パウリーは何のことかさっぱり見当がつかず、尊敬する男の「お手上げ」ポーズも初めて見るものだったので、何かあったんですか!? と大きな声を出してしまう。

「ンマー、がなァ」
「え、あ……」

 パウリーは一瞬の間の後、すぐに察した。そして、自分たちを五年もの間だまし、つい先日あっけなく裏切っていた元仲間たちを思い出し、ぎりぎりと唇を噛んだ。思い出したくもなかったが、思い出すまいと意識すればするほど思い出されるのだから仕方ない。散々な目に遭わされたし、殺されかけた。そいつらには「勝利」してきたはずだが、そんなもので溜飲が下がるものでもなく、許せるはずもなかった。
 そして何より、必死で追いかけたのに、結局何も話せず、何も聞けなかった。
 帰ってきた今だからこそ思う。話せたとして、話したところできっと何も変わらないし、自分の望む答えは決して得られない。むしろ、余計怒りが募るだろうと。それは、追ってみたからこそわかった。だとしても。なぜ、どうして、と、疑問は胸の中で燻りつづけ、じりじりと火傷のような痛みを負いつづけている。
 は、話せたのだろうか。それとも、カクは何も言わず去ったのだろうか。

はいま、仮設本社に仮住まいだ」
「え? どうしたんです?」
「部屋が水没したんだと」
「なっ!?」

   ◆

「虫の知らせ、かな? このマグカップだけは一緒に避難したんだよね」

 いつもは荷物に入れたりしないのになんでだろう。はマグカップをことりとデッキにおいて、不思議そうに腕を組んだ。
 アクアラグナが去った後の今日は突き抜けるような青さの快晴だった。は窓の下のデッキでお茶を飲みたがり「ああ、でもパウリーの分のカップがないや」と申し訳なさそうにした。おれはいい、というパウリーと、コーヒーを淹れてきたは並んでデッキに腰かける。
 元は本社だった瓦礫に埋もれるように建てられた一階だけの仮設本社はみるみる出来上がり、すでに麦わらたちにも寝床を提供しているらしい。さすがの麦わらたちも今日は誰も起きておらず、無事だった社員は出払っているか、自宅や街の片づけに追われており、仮設本社にはほとんど人がいない。
 カクのマグカップだというそれは、乳白色でたっぷりしたサイズ感ではあったが、どこにでもありそうな、ただの食器にしか見えない。はそれでコーヒーをごくごくと飲んだ。もう冷めちゃってちょっと酸っぱい、と舌を出す。
 は「よくわかんないけど急にふられて部屋は水浸しになってしまった」と言った。そして、踏んだり蹴ったり、泣きっ面に蜂、一難去ってまた一難、濡れてるのに雨、雪の上に霜、……と自分の不幸さを知る限りの表現で、淡々と教えてくれる。
 付き合っていた恋人から急に別れを告げられたその夜に自室が浸水して、住む場所と自分の財産、そして恋人との思い出の品を失った人間にしては、少なくともパウリーには、は何でもなさそうに見え、それが怖かった。
 は、からっからに乾ききった花や木のように思え、今は辛うじて形を保っているものの、触れてしまえばパリパリという軽い音とともに壊れてしまいそうにみえる。水を含ませたところで、もう決してもとには戻らない。

「あとは全部水に浸かっちゃった。もう、ほんと、今年のアクアラグナは最悪」
「その……、大丈夫じゃねぇんだろうけど」
「あ、でもね。アイスバーグさんがここにしばらく住んでていいっていうし、使ってた家具は元々前住んでた人が置いてったやつばっかりだったし、結構大丈夫」

 断捨離が過ぎるよねえと、呑気そうな声を出す。カクとの別れには触れないが痛々しかった。

「……話せたのか?」

 パウリーは意を決して口にした。避けては通れないと思った。無視されるかとも思ったが、はこれまた以外にも「どうだろう」と何でもないふうに言った。

「どうだろうって」
「うーん、だって」

 はじめは気を遣っていたパウリーだったが、の、どこ吹く風といった他人事みたいな態度が少しだけ彼を苛立たせた。パウリーも大怪我をしており本調子でなく、余裕がなかったのだ。少なくともは会えたのに、という妬みもあった。おれは、殺されかけただけ。パウリーはふっとよぎった自分の思いに、ぎゅっと拳を握る。

「ちゃんと言えたか? 気持ちとか、文句とか」
「どう、だろう」

 の歯切れの悪さに少しずつ苛立ちが募っていくパウリーは、が小さく身体を震わせていることには気が付かない。

「そんな、お前」

 もう二度と会えないかもしれないんだぞ、とパウリーが言いかけたそのとき、が、コーヒーを飲んでいたマグカップを床に叩きつけた。腕を上から下にぶんと振り下ろして叩きつけたものだから、案の定、ガチャン、と見事な音を立てたマグカップは、血だまりみたいに広がるコーヒーに濡れながら無残な姿になった。は、割れたマグカップを見つめながら、はあ、はあと肩を上下させていた。

「だって、」

「なんで! どうして!」

 終わりがあるって知ってたくせに! と続いた言葉は、空気をびりびりと震わせるような大声でほとんど悲鳴のようだった。そして、うう、と小さく唸ったかと思うと、空を仰ぐようにしてわあわあと泣き出した。堰を切ったように幾筋もの涙が頬を伝い、顎の先で合流してぼたぼたと滴り落ちた。
 パウリーは、大人がこんなふうに泣くのを初めてみた。大人でもこんなふうに泣けるのか、と息を吞む。ああ、うああ、と声を上げて泣き叫ぶはまだ言葉を持たない赤ん坊のようだった。身体からとめどなく溢れ出る悲しみに溺れ、呼吸もままならない様子で、時々、ひぃ、としゃくりあげている。さするの背中は熱くて熱くて、湯気が出てもおかしくないと思うほどだった。

「ほんとだよな」

決して慰めになんかならないと思っても、パウリーは言わずにはいられなかった。そうだ、おれだって。

「あいつら、ひでぇよ」

 重ねる言葉に自分でも傷ついた。彼らに言えなかった言葉を、つらつらと重ねていく。の泣く声はすさまじく、パウリーの言葉が届いているかはわからなかったが、パウリーは自分のために、ぽつぽつと呟く。

「おれは、仲間だと思ってたんだ」

 今も、とは決して言葉に出さない。だってまだ何も聞けていない。叫んだ言葉には、お前だけだとにべもなく返されたが、あれは本心なのだろうか。この五年間、あいつらは一度だっておれらを好ましく思ったことがなかったのか?
 少なくともカクは、きっとそんなことないと、パウリーは隣で泣きじゃくるを見て思う。あの状況で、カクはに別れを言いに来たのだ。それはきっと簡単じゃなかった。黙っていなくなってもよかったはずなのにカクはそれをしなかった。それがあの時の彼に許された精一杯の答えなのだと思う。落ち着いたらに言ってやろう。また泣くかもしれないし、「そんなので許せるわけない」と怒るかもしれないが、好かれていたのだと、知らないよりはきっといい。
 どれほど泣いたかわからないが、が少しずつ静かになっていく。いつの間にか日は傾いて、ただ眩しく明るかった透明な光に、少しだけ金色が混じっている。ああ、日が暮れていく、今日が終わる、とパウリーは寂しくなる。子供の頃から、なんとなく寂しくなるこの時間が苦手だ。
 それでもまた明日はやってきて、死なない以上、生きていく。

「自分の手で壊してやりたかったんじゃねぇか?」
「……ん?」
「マグカップ。水にさらわれて無くなるよりよ、自分でガチャンとやれたら、多少すっきり、しねぇ?」

 そうかも、とは涙と鼻水でぐちゃぐちゃに湿った顔で、叫び続けて枯れた声で、ほんの少しだけ笑った。

「また会えるかな」

独り言みたいなの言葉に、パウリーは何も言えなかった。
ただ、会えたらいいなとパウリーも思った。



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