もっとキスして

 カリファは、意地悪ではなく、純粋に、心からカクが心配だった。小さな頃から苦楽を共にし、弟のように思っている年下の仲間が傷つくのは嫌だなと思って言っただけだ。決して、悪意があって言っているわけではない。ただ、辛い現実にカクが打ちのめされるのはかわいそうだと思ったのだ。カクだってもういい年の男だし、力ではとても敵わなくとも、カリファにとってはいつまでも面倒見る必要がある可愛い年下の男の子だった。

「女の二年を舐めるんじゃないわよ。二年あったら子供だって産めるわ」
「不幸になっとるかもしれんじゃろ」

 どんなに可愛く思っていてもそれはそれとして、馬鹿なのか、とカリファは思う。カクはここまで馬鹿だったかしら、と。カクはこの件に関してだけは、全然冷静じゃなかった。普段の一パーセントほどだって、冷静じゃない。口を尖らせて不満そうに言ったかと思えば「のう……、やっぱり、他に男が出来とると思うか?」と一転、不安そうに聞いてくる。そんなに気になるならさっさと調べればいいじゃないの、と返せば、馬鹿なのか!? そんなの怖くて出来るわけないじゃろう? と馬鹿に馬鹿と言われてしまうのだ。私たちが五年間過ごしたあの島は、ここから船で何日もかかるというのに、調べずに行って無駄足になったらどうするつもりなのか。カリファは呆れて、ものも言えなくなる。聞こえるようにわかりやすくため息をついたカリファを、カクはキッと睨んだ。カリファは優しくない、とボソボソとぼやいているが、カリファは大人なのでそれを華麗に無視した。

「不幸になっとらんかの?」
「それは心配なの? 願望に聞こえるわよ」
「願望に決まっとる。わし以外の男と幸せになるなんて許せん」
「……子供ね」
「カリファよりはな」

 無言で殴ると簡単に拳を掴まれてしまった。どうせ当たるわけがなかったがそれでも悔しいカリファは、先輩にも、レディにも、礼儀がなってないわ、と苦し紛れに言ってみる。「失礼」と心のこもらない、形式的な謝罪がかえって頭にくる。

「好きにすればいいわ」

泣いて帰ってきたら慰めてあげる。これ以上ない優しい言葉だとカリファは思うのだが、カクからは、やっぱりカリファは優しくない、と拗ねられてしまった。

だって、二年よ?

たった今

「前の部屋ね、水没しちゃったの」
「ああ、知っとる」

 知ってるんだ! ああでも、引っ越しの理由なんてきっとすぐわかるよね、とは一人納得したようだ。
 カクがの部屋のドアをノックすると、はほんとに来た、と呟いて、そのあと「びっくりした」と全然驚いていないふうに言った。

「その、久しぶりじゃの」
「なんか、緊張してる?」

 がくすくすと笑いながらカクが隠していたものをぴたりを言い当てるので、カクは動揺しながらキャップのつばに手をかけ、ぐいと目深にかぶった。はカクのその様子を見て、また笑みをこぼした。立ち話もなんだし、お茶でも飲む? とが気を遣ってくれたが、さすがにそれは、とカクは遠慮した。は、そう、と短く言って自分の分のコーヒーを淹れる。

「そんなとこに立ってないで、せめて座ったら?」

 ソファどうぞ? はコーヒーをマグに注ぎながら、所在なさげにドアの前に立ったまま動かないカクに声をかけた。あまりにも、最後に会った日と変わらないにカクは調子が狂う。髪の長さも色も、眉の描き方も、服やアクセサリーの趣味も、カクが知っていると違わなかった。カリファに言われた言葉を思い出し、薬指や腹回りにもつい目がいくが、見たところ指輪もしておらず、身ごもっている様子もなかった。この新しい部屋にも男の気配は感じない。

「ほんとに、ってなんじゃ?」

 はベッドに、カクはにすすめられたソファにおずおずと腰を下ろす。出会い頭に言われた「ほんとに来た」を今更ながら問うと、は、半信半疑だったんだけどね、と前置きしてからベッドのヘッドボードに手を伸ばし、一枚のカードをサイドテーブルに置いた。見ると「長鼻の男がお邪魔するかもしれません」とたった一行、女性のような字が並ぶ。差出人は書いておらず、どうやって届いたのかもわからないのだという。

「かも、って書いてあったから、どっちかなあって思ってたんだけど」

 やられた、とカクは目元を手で覆った。これはカリファの字だ。カクの手で隠れなかった口元は、口角が上がっているのが見て取れる。はそんなカクを見て満足そうに鼻をこする。

「……待っていて、くれたのか?」
「まあ、……用事もなかったし」

 なんとなく冷たく聞こえたの声に、カクは押し黙ってしまう。は、思いのほか冷たく響いた自分の声に、自分で驚いているようだった。少しの気まずい沈黙の後、その空気を振り払うかのように、は一度だけ大きく深呼吸をしてから口を開いた。

「パウリーから聞いたよ」

 カクは以外にも騙した男の名前を聞いて居心地の悪い気持ちになり、一瞬、視線を自分のつま先に向けてしまう。カクはもちろん、今でもあれは世界のために必要な任務だったと思っており、彼らを騙したことに何の後悔もなかったが、後悔していないからと言って、悪く思っていないかと言えば、それはまた別の話だった。
 ああ、やっぱりお茶をもらえばよかった。そしたら少しは気が紛れたかもしれない、と内省しているカクに、の思いもよらない言葉が続く。

「パウリーが言ってたの。あの状況で、カクが私に別れを言いに来るのはきっと簡単なことじゃなかったはずだって」
「パウリー、が」
「カクは黙っていなくなってもよかったはずなのに、わざわざ会いに来たんだから」

 カクは、二年前、自分たちが敗れた戦いを思い出す。パウリーが海列車で麦わらと共に自分たちを追いかけてきたことは知っていた。だが、辿り着いたのはロロノアで、伝言という形でパウリーから「クビ」を言い渡された。あの夜、島から出る海列車の中で、自分はもう二度と金槌と鑿を持つことはないのだと、当たり前のことを自分に言い聞かせていた。そこに重ねられた「クビ」の二文字は、思いのほかぐさりと刺さった。そして、わざわざそれを言い渡すために、あの島までくらいついてきたパウリーも。

「きっと、ちゃんと好かれてたって、言ってくれて」

会いに行ったのは、好きだったから。

「……パウリーに、感謝じゃな」
「憎んで生きてくのは辛かったから、本当に助かった。パウリー当たってた?」
「ああ、寸分違わず」

 パウリーすごいな、とが笑う。ああ、本当に、と同意した。
 パウリーが、至らなかった自分との別れで傷ついただろうをそんなふうに救ってくれていたとは知らなかった。カクは一人、まるで祈るように顔の前で手を組んだ。パウリーに、いつか言えるだろうか。彼は、もう会いたくないかもしれないが。

「でさァ、カクは何しに来たわけ?」
「い、や……は元気かと、気になって」
「なにそれ。本気? 馬っ鹿じゃないの」

 カリファと同じ調子、いや、カリファよりも「っ」の分強い調子のに、カクは言葉を続けられなくなる。数分、カクを見つめ続けたは、埒が明かないと言い、カクに助け船を出す。

「なんで付き合ってる人がいるとかいないとか聞いてくれないの? 失礼じゃない?」
「いるのか!?」
「それがさァ、全然うまくいかないの」

 カク、何か邪魔してる? は悪戯っぽく言いながらも、半分は真面目に、疑い深い目でカクを探るようにみつめた。これが聞きたかったのか。カクは濡れ衣じゃ、と両手を上げる。それが出来たらこんなに苦労はしていない。は、ふ、と息を吐くと、じゃあ単純に私のせいか、と大げさにため息をついた。

はいい女じゃ。周りの男が馬鹿なんじゃ」
「カクも?」
「わしは馬鹿じゃない」
「へえ。じゃあ、また付き合ってくれる?」
「そっ……」

 それが出来たらわしはこんなに困ってない、とカクは泣きそうになって言った。

「わしだって、わし以外の男と幸せになるなんて見とうないんじゃ。でも、わしはどう頑張っても、に普通の幸せはやれん」
「ほう、例えば?」
「け、結ッ婚、とか……、子供とか!」
「他には?」
「毎日ただいまと家に帰ってくるとか、そういうやつじゃ」

 カクの捨て鉢な物言いは気にも留めず、そういうやつか、とは顎に手をあてる。

「じゃあ、どんな幸せならもらえるの?」
「ど、どんな……、死にそうになったら、なるべく生きて戻ってのそばで死ぬ……」
「不穏すぎる!」

 私、カクの本当の仕事ってよくわかってないんだよ、とは喚いた。そして、何も知りたくないから何も聞かせないで! と叫ぶ。パウリーのやつ、そこは言わんかったのかと、カクは口を開けて驚くばかりだ。魚のように口をぱくぱくと開けて何か言いたげなカクを尻目に、は、じゃあ、と仕切り直す。

「毎日は無理でも、どれくらいなら会えそうなの?」
「あ、会えそう? ……、半年に」
「もう一声!」
「い、三か月…に一回なら、たぶん」

 カクは目を下の方に向けながら頭を巡らして、なんとかそれだけ言った。自分はいったい何を言わされているのか、と考える余裕はカクにはもうなかった。代わりに考えているのは三か月に一回どうやってこの島にやってくるか、アイスバーグやパウリーに見つからないようにしなければ、そもそもルッチにばれたら終わりだ、どうやって時間を作れば、といったことだったが、考えれば考えるほどやっぱり無理で、だからやっぱり無理だとカクが言いかけたその時。

「じゃあ、いいよそれで」
「はァ!?」
「いいよ、三か月に一回、会いに来て」
「ば、馬鹿なのか!? そんな人生でいいのか!?」
「うん、いいの」

 はまっすぐカクを見つめた。カクの瞳にうつる自分の満ち足りた笑顔を見つけたは安心する。カクが見ている自分はとても幸せそうだ、と。

「あの日、カクと別れたこと以上に悲しいことはこれまでなかった。もう、嫌なの」

 は揺らがない大木のような、大きな湖のような、堂々とした態度だった。カクは、が自分よりずっとずっと考え、何度も自問し首を振り、それでも、と覚悟を決めたのだろうということがすぐにわかった。そして、先ほどやっぱり無理だと言いかけた自分を恥じた。

「何か、せめて詫びを……」

カクが小さく背中を丸めて恐縮しながら言うので、は調子に乗った様子で「じゃあ、お願い聞いてもらおうかな」とえらく上機嫌になった。

「わしにできることなら」
「キスして」

 カクの鼓膜を震わせた言葉はカクの脳髄に届いて、聞き間違いか? とカクの目をぱちくりさせた。あっけにとられるカクだったが、は頷くばかりだ。カクは柔らかいソファから腰を浮かせての側に侍り、小さな肩を抱く。
 二年ぶりの懐かしい体温を唇で測り終え、カクがの顔を覗き込むとが潤んだ瞳で訴える。

「もっと」



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