今夜ばかりは我慢の限界

 久しぶりに酔いつぶれて、ゴト、という音とともにバーカウンターに突っ伏してしまった。もう頭を上げるのも億劫だ。

五年前・夏

 カクさんに振られた。いや、この場合、私が振ったのだろうか。どうなんだろう、あまり突き詰めて考えたくないのに、さっきからそればかり考えている。とにかくカクさんに「さすがのわしも傷つく」と言われてしまった。ああ、愛想を尽かされた、というのが一番しっくりくる。
 いつまでもカクさんに甘えていたのが良くなかった。カクさんならまだ許してくれると、知らず知らずのうちに思っていたのかもしれない。
 いつものように食事をしていたら、いつものように「で、いつになったら付き合うんじゃ? わしら」と聞かれた。だから、いつものように「ん~?」とはぐらかしたのだが、それがいけなかった。いつもなら、カクさんの次の言葉は、眉を下げて残念そうに、でも笑顔で「はあ、今日もダメか」なのだが、今日ばかりは違った。

「……今日でちょうど一年じゃぞ」

 と静かに、ぽつりと続いたのだ。
 いち、ねん。私が愚かにも状況を掴めずにいるのを察したカクさんは、とても傷ついた顔でそれでも笑って、「わしも気の長い方じゃが…、これは」と、席を立った。

「さすがのわしも傷つく」

 カクさんはキャップを被って店を出ていってしまった。すぐに後を追えばよかったのだが、びっくりして足が動かなかった。私にできたのは、食べかけのハンバーグが冷めていくのをただ見つめることだけだった。
 こんなふうにはなりたくなかったから、はぐらかしていたのだが、大層愚策だったと今になって身に染みた。私は彼の気持ちに応えなかったのだ。きっと、少なく見積もって一年間。私の、このとんでもなく悲しくて辛くて申し訳ない気持ちは、若者の一年を無駄に奪ったことへの償いに足りるものだろうか。足りるわけない、とすぐに思い直す。私は彼を傷つけたのだ。私が傷つくのは勝手すぎる。
 カクさんが帰ってこなかったレストランからそのまま一人、自分の部屋に帰る気には到底なれなくて、ブルーノの店に飛び込んだ。幸い、キウイちゃんとモズちゃんが楽しそうに飲んでいたところだったから、無理矢理便乗させてもらった。キウイちゃんとモズちゃんは優しくて、らしくない私の飲み方を心配こそすれ、止めはしなかった。せめて水もちゃんと飲むんだわいな、と必ずチェイサーをつけてくれた。空のジョッキがテーブルに所狭しと並んだ。

 もうこれで終わりだろうか。何もかも。あっけなく。もう、言い訳も弁明もさせてもらえないのかな。
 動けなくなった私のそばでオロオロしていたキウイちゃんとモズちゃんが揃ってどこかへ行って、お店に一人きりになった私は、そんな今更どうしようもないことをぐるぐると考えていた。ブルーノがグラスを拭いているのか、一定のリズムで、棚板にグラスの置かれるコトリ、という音がする。
 保たれていたひそやかな空気を乱したのは、どすどすとしたガサツな足音だった。
 それは私に近づいてくると、隣の椅子をガタガタと乱暴に引いた。同時に、聞き覚えのある声が上から降ってくる。アルコールで馬鹿になった鼓膜が無理矢理びりびりと震わされた。

「おいブルーノ! こんなになるまで飲ませたのか?」
「……誰だって、潰れたい夜があるだろう?」

 急性アルコール中毒にだけはならないよう、気をつけて見ていたよ、という頼もしいのかよくわからない返答に、声の主、フランキーはため息をつく。

「おい、。聞こえるか? 立て。帰るぞ」
「ほうっておいてよお」

 自分でもなんて頭の悪そうな声なんだろうと情けない。

「いい大人の女がこんなに乱れてどうしたってんだ。まさか山猿絡みじゃねえだろうなァ?」

 そうだったらおれァ帰るぞ、忌々しい、とフランキーはとても嫌そうに言った。図星だったから、なんて言ったらいいのかわからず、私は額をバーカウンターにこすりつけながら苦笑する。

「……そのとおりだから、ほうっておいてってば」

 私の言葉に、フランキーがあからさまに舌打ちをした。ブルーノはキッチンにひっこんだようで、お店の奥からお皿を洗う水音がする。お店にはもう迷惑な客、つまり私と、その客をなんとかしようとしているフランキーしかいない。もう夜深い時間で、店の外も静かなものだ。
 フランキーはサイボーグだというけど、日常の動作から機械のような音がすることはなくて、ひそかに不思議に思っていた。だから、フランキーが私の頭に手を置いてゆっくり撫でたのにも、音では気づくことが出来なかった。
 フランキーの姿形はだいぶ変わってしまったけど、優しく髪を梳く指先のやさしさは変わらないなと、お酒で痺れた脳でぼんやり思う。

「お前、山猿に告白されてたろ? 返事したのか? して、これか? どういうこった?」
「……はぐらかしてた」
「はぁ? 最低だな。なんで応えてやらねぇんだよ」
「怖かったんだよ。……カクさんは、私よりずっと若くて、優秀で、人気者で、背も高くて、スタイルも良くて、かっこよくて、それなのに気さくで優しくて。なんで私なの? わかんないし、もし、やっぱり無理って振られたりしたら、もう、私、大人だもん。無理だよ」

 吸った息一息に淀みなく言い切った私を、フランキーは鼻で笑った。

「承服しかねる点が大分あるが……、まあ、くだらねえなあ」

 ガキだってところは同感だ、と馬鹿にしてくるので私は黙ってしまう。それに、自分でもわかっていた。そんな理由で、自分の気持ちを誤魔化していたからこうなってしまったのだ。
 髪を梳いていた手が私の手に重ねられて、懐かしい声が耳をくすぐる。

「なら、おれにしておけよ。おれと、仲良くなりてえんだろ?」

 なにを、と思ったその瞬間。

「今すぐその手を離せ。フランキー」

 カラン、と店のドアベルが鳴ったのと同じくして、カクさんの鋭い声が耳に刺さった。気まずい私は顔を上げられない。代わりにフランキーが答えた。

「はあ、これだからガキは。痴話げんかに巻き込まれて迷惑してんのはこっちの方だ。うちのかわいい妹たちじゃこの女は重くて運べねえってんで、おれァ、きてやってんだぞ?」

 まずは礼のひとつやふたつ、言っても損はねえだろう? と、恩着せがましいフランキーに、カクさんはうんざりしたような声で応じた。

「この女呼ばわりとは、随分な言い草じゃの。そりゃどうも、わしのツレが世話になったの。じゃが、その手はなんじゃ。さっさと離せ」

 ツレ、ねえ。言うじゃねえか、とフランキーは揶揄うが、私の手を離すことはなく、むしろ強く握りしめてくるものだから、思わずびくりとする。

「大体、おめぇは振られてるんだろ? しつこい男は嫌われるぞ」
「まだ振られとらんわ」
「おうおう、吠えるねえ。残念だったな。おれとこいつはこういう仲なんだ」

 言い終わるや否や、露わになった首筋に、湿った熱を感じる。
 キス!? と、たまらず椅子から飛びのいて、

「フランキー!」

 と叫んだのは私とカクさんだった。

 にやにやと勝ち誇ったような顔のフランキーを睨む。

「ここで女を責めるような男だったらよかったのになあ、

 カクさんは、うっ、と言葉につまった私の手を取ると、何も言わずに店の外へと歩き出した。私も叱られた子供のように項垂れて連れられて行く。

どうせまた、懲りずに惚れ直してるんだろう?

 首筋の熱をそっと手で撫でながら、遠くなっていくフランキーの声を背中で受け止めた。



prev top next