さようならばこれにて

二年前・夏、襲撃直前

 アクアラグナがもうすぐそこまで迫っている。は手慣れた、でも、いつも不安な避難準備を今年は一人でこなしていた。ここ数年はカクが手伝ってくれていたから不安じゃなかったんだな、とカクの不在でカクの存在をより感じていた。今年のアクアラグナはなんだか嫌な感じだ。海賊がアイスバーグさんを襲うし、フランキーはその海賊や職長たち相手に暴れまわるし、何もアクアラグナの時期でなくても、とうんざりする。
 ただでさえ、アクアラグナの時期は不安になる。もう何年もこの島に住んで、何度も避難して、浸水だとかの被害にあったことは一度もなかったけど、それでもは慣れなかった。泳げなかったせいだろうか、はたまた、海のそばで育たなかったからだろうか、は水が、海が怖かった。部屋がすべて海につかるなんてぞっとする、とはまたこの部屋が海に沈む想像をしてしまい、手が止まる。 カクがいてくれたら。
 カクは、海賊たちからアイスバーグさんを護衛する、ということでここ数日本社に詰めていた。だから、今ここにいない。でも、去年と一昨年は、一緒に避難準備を手伝ってくれた。カクの部屋はもともと高台にあったし、もう自分で準備を済ませたから、とてきぱき作業を進めていくカクは、何度もアクアラグナを経験している私よりずっと頼もしかった。

「ここが沈んだらたまらん。そうなったらわしはどこに帰ればいいんじゃ」

 自分の部屋があるじゃない、とその時は笑ったけど、は内心とても嬉しかった。カクが帰る場所は、私の部屋。そうだ、とは気を取り直した。ここは最早カクの部屋でもあるのだ。カクの物だって守らねば、と作業を再開する。
 カクの好きな本、カクのマグカップ、カクの歯ブラシ、カクのパジャマ……、自分を奮い立たせようとして、この部屋にある「カクの物」を数え始めただが、思っていたよりずっと少ないなと、心もとない気持ちになった。カクの存在感と、カクの持ち物が比例しない。もっとなかったっけ、はさして広くない部屋を見渡した。

 風が強くなり、窓やドアがガタガタと揺れている。そんな中での、コンコン、というドアを叩くような音は、気のせいかなとは思った。今日、この部屋を訪ねてくる人に心当たりはない。避難作業も大詰めで、手を止めるわけにはいかなかった。
 コン、コン。
 明らかに意思を持って鳴らされているそれに、は訝しみながらもドアを開けた。

「カク?」
「お疲れさん。手伝えなくてすまんの」
「どうしたの? 今日は本社に詰めてないといけないんでしょう?」
「ああ、言い忘れとったことがあって」
「言い忘れ? 私に?」
「別れてくれるか」

 カクは笑っても泣いてもいない顔で言った。
 今年のアクアラグナは本当にひどい。は何よりもまず、そう思った。

「え? い、やだけど」
「そうか、困ったのう」

 カクは言いながら頭をかくけど、全然困ってなさそうで、他人事みたいだった。

「今日、ケリをつけんといかんのじゃ」
「そんなの知らないけど。勝手な話だね」
「そうじゃろう? 勝手な男じゃろう? じゃから別れてくれ」

 別れてくれなんて、何回も言わないで、とは思ったが言えるはずがなかった。自分が何を言えばどうなるのか、全然想像が出来ない。

「わし、実はスパイでの。のことも利用しとったんじゃ」
「へえ、私と付き合って、何か利点があったんだ?」
「……」
「スパイならもうちょっと話詰めてから嘘つきなよ」

 くだらない嘘を重ねるカクに、はどんな顔で付き合えばいいのかわからず、つい強い言葉で返してしまう。カクはポケットに手を突っ込んで、ぽつねんとした趣でただ立っていた。
 表情は先ほどから同じだ。笑っても、泣いてもいない。何を考えているか、わからない。でもそれは、何も感じていないのではなくて、表情筋を動かさないようにしているのでは、とは思う。
 つまり。

「ああ、たまっとっての。女なら誰でも」
「カク」
「……」
「そんな辛そうな顔で、言わないで。もう、いいから」

 カクはずっと辛そうだった。それを堪えていた表情だった。カクは元々丸い目をほんの少しだけさらに丸くして、強張らせていた体からふうと息を吐いて、力を抜いた。そして、



 は今日初めて、カクにちゃんと名前を呼ばれた気がして、はっとする。少し俯いたカクが顔を上げてを見る。カクは、やっぱりただ、辛そうだった。

「……、なんでカクがそんな顔するの。ずるいよ」
、お願いじゃから。別れてくれ」
「嫌だよそんなの。なんで」
「もうわしじゃを守り切れん」

「頼むから」

 カクはを手を取ると、の掌に長い長い口づけをした。カクの唇が少しカサカサしていて、かわいそうに、とは胸がつまった。わかった別れる、なんて絶対に言いたくない。でも、カクがこんなに私との別れを乞うている。どんな事情かなんて、教えてくれる気はなさそうだが、なんとなく私のためなんじゃないかなと、は都合よく解釈しようとした。
 は大きく息を吸う。

「楽しかったよね」
「ああ、もちろん」
「いっぱい、一緒にご飯食べたね」
「ああ、全部うまかった。いや、たまにひどいのもあったか」
「でも、それも楽しかった」
「ああ」

 なんて優しいんだろう、私。とは自嘲する。別れにむけてカウントダウンをはじめてしまった。カクが心なしか安心しはじめた気がする。ひどい、ひどい。

「海列車もたくさん乗ったよね」
「ああ」
「カク、海列車好きだったでしょ?」
「……ああ」
「隠さなくてよかったのに」
「乗り物が好きなんて、子供っぽいじゃろ」

 鉄仮面のような顔だったカクの表情が少し崩れたのに気づき、はカクはこんな時までかわいくてずるいな、と思った。こんな最後のときまで、私の心を奪っていくなんて。別れ話でかわいいって、私も大概だなと呆れてしまう。

「こんなことなら、さっさと付き合えばよかった。最初、はぐらかしててごめんね」
「いや」
「付き合うまで、たくさん告白してくれてありがとう」
「そんなこと」
「カク、童貞だったね」
「そッ……」
「いや、ほんとかわからないけど。あ、でも真実は聞かないから」
「知っとるんじゃから聞く必要ないじゃろ」
「違うよ! 素晴らしい所作だったからいまだに疑ってるんだよ」

 わざと馬鹿みたいな話題を出して、二人とも無理して笑っているのが、痛いほどわかった。それでも、私の涙腺は急に機能を失ったようで、涙はぽろとも出てこない。こんなに悲しいのに、なんで。は焦りにも似た気持ちを覚える。
 なんで泣いてるだけで悲しそうに見えるんだろう、とは悔しくなった。私、いま、泣いてないけどこんなに悲しい。みぞおちのあたりが痛い。辛い。悲しい。身体のどの内臓がこんなに悲鳴を上げているのかわからなかった。心臓? 胃? 膵臓? 肝臓? 何を取り出して見せれば、私が悲しいって、証明できる?
 別れたくない、別れたくない。
 最後まで本当に全然涙が出なくて、ここでもし泣いて泣いて、縋れる女だったら、何か変わるのかなと歯ぎしりする。私がどんなに悲しいか、カクにはちゃんと伝わってるの?

「出会えてよかった」
「わしもじゃ」
「付き合えてよかった」
「わしもじゃ」
「好きになって、よかった」
「わしもじゃ」
「別れたくない」
「わしも、」

 その瞬間、カクが慌てたように口を手で覆って、ドアをバタンと勢いよく閉めた。すぐにドアを開けたけど、もうそこには誰もいない。
 さよならを言わずに済んだ、それだけは、本当によかった。だが、いまさら溢れる涙に、なぜ涙すら思うままにならないのか、と歯がゆい気持ちではその場に座り込む。



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