意気地なしでも今日だけは

五年前・夏

 は、万力で脳髄をぎりぎりと絞られるような痛みに耐えながら、そんな痛みよりも深刻な事態にうんうんと唸っていた。
 もうおしまいだ、とは泣きたくなる。いい大人のくせになんてことを、と反省して、いつになったら私はちゃんとした、かっこいい、凛とした大人になれるのかと項垂れた。死ぬまでなれない気がする。
 昨夜、私の失礼な態度で一緒に食事をしていたカクさんを怒らせてしまった。それが悲しくて辛くてブルーノの酒場に飛び込んたら、キウイちゃんとモズちゃんがいたから勝手に合流した。それで、ぐでんぐでんに酔っぱらって、フランキーにそれを揶揄されているところに、カクさんが戻ってきてくれて、カクさんとセックスした。というか、押し倒してしまった。
 酔っぱらってよく覚えていない、となれば少なくとも悩む要素は減るのだが、結構しっかり覚えている。でも、忘れたいわけでは決してない。ただ今は、カクさんの広い肩とか、潤んだ瞳とか、骨ばって長い指とか、何より自分の痴態などの記憶が鮮明すぎて、生々しく、思い出すと汗が噴き出るのでとても仕事にならないのだ。

 今朝、朝日が昇るころ、は頭痛と知らない枕の感触で目が覚めた。固い、けど、あたたかい。それはカクの腕だった。ぎょっとして、でも、飛び起きると起こしてしまう。はそうっと、自分の頭の下からカクの腕を抜いた。幸い、カクは目を覚まさなかった。
 急に動くと頭に響く。はゆっくり体を起こして、自分が全裸であることに、やっぱりか、と諦めつつ納得した。足音を立てないように、下着と服をかき集める。酒場の匂いが残るそれらを素早く身に着け、宿代をサイドテーブルに置くと、は迷って迷って、カクのことは起こさずに、そっと部屋を後にした。
 もちろん、失礼なことだとは思っている。またカクを怒らせてしまうかもしれない。それでも、昨夜の自分を思い出すと、とてもじゃないが、今日はまともに話せる気がしない。今日だけは許してほしい、とは胸の中で何度も何度もカクに謝った。
 の謝罪が届いたのか、今日はカクに話しかけられないな、とがほっとしたのも束の間、というか見かけもしない。となると、はだんだん不安になってくる。
 まさか、昨日私が襲い掛かったせいでどこか身体を痛めたのではないだろうか。それとも体調が? もしや、心に傷を負ってしまったのでは……。あ、会って、謝らなくては。いやでも、私がのこのこ会いに行っても構わないだろうか。
 そんなことを始終考えているものだから、座っているだけでてんで役に立たないは、後輩から「なんか汗もすごいし、帰った方がいいですよ」と定時前にやんわり職場を追い出された。
 役立たずの自覚があったは素直にガレーラカンパニーを後にする。もちろん、ブルーノの酒場には行けない。フランキーにも絶対会えない。自分の部屋にも、まだなんとなく、帰りたくない。はアイスコーヒーをテイクアウトして、海でも見るかと、寄り道することにした。

 冷たいアイスコーヒーが汗でどろどろになった身体を少し冷やしてくれるようで、はほう、と一息ついた。海が見えるように設置してあるベンチは幸い誰も使っていなかったので、どかりと腰を下ろす。途端、なんだか一気に力が抜けた。
 思えば、朝からずっと緊張していた。もう一口、とコーヒーをストローで吸う。ただ、そうやって少しずつ冷静になると、逃げるように宿をあとにしたのはやっぱり人として最悪、下の下だったのではと、自己嫌悪に陥る。少なくとも、好いた相手にすることではない。どうしよう。やっぱり早く、今日にでもカクさんに会って、弁解した方が……。
 コーヒーはあと半分以上も残っていたけど、そう思いついてしまうと、は居ても立ってもいられず、勢いをつけて立ち上がる。すると、

「昨夜はどうも」

 と、後ろから声をかけられた。

「カクさん……」
「経理に顔を出したら、早退したというから部屋に行ったのに、こんなところで道草とは」

 「元気そうでよかった」とカクは安堵のため息をついた。は慌てて「こ、こちらこそ!」としどろもどろで返事をし、「きょ、今日、会社で見かけなかったけど、大丈夫?」と付け加えた。

「ああ、今日は外回り、とは違うか。査定の仕事が多くてのう、ドッグにはほとんどおらんかったんじゃ」

 カクがいつものように笑ってくれて、はほっとする。そして、いざ本人を目の前にすると、先ほどまでの気持ちが、羞恥心に負けてしまいそうになる。でも、今朝だってそうして間違ったのだ。はきちんと説明しよう、と意を決して「け、けさは、その」と話し始める。

「か、帰っちゃって、ごめんね」
「ああ、ショックだったわい」
「ご、ごめん……」
「昨日はあんなに仲良くしとったのにのう」
「言わないで!」

 は思わずテイクアウトしたコーヒーのカップを握りしめてしまい、その勢いでコーヒーがこぼれた。コーヒーはの胸元に広がり、ブラウスに染みをつくる。ああ、ああ、と言いながらカクがハンカチを取り出した。
 拭いてくれるカクの手が微かに震えているのに気が付き、はおや? とひっかかりを覚えた。

「カクさん、震えてる? 寒い?」
「そんなんじゃないわい」
「え、じゃあ……」

 カクはブラウスの染みからにちらりと視線を移したかと思うと、すぐにうつむいて、深いため息をついた。

「……もう、本当に、振られるのかと思うじゃろ」
「違う!」

 が大きな声を出すと、また、コーヒーが零れた。今度はカクのハンカチまでコーヒー色になる。青ざめるをものともせず、カクが思わずワハハ! と笑い、「コーヒーは飲んでしまった方がいいのう」とそれ以上の笑いを抑えるように口元を手で隠した。
 が急いで残ったコーヒーを飲んでいる間、カクは考え込むようにしてから、か細い声で言った。

「じゃあ、……付き合って、くれますのか?」
「……、うん? のか?」
「緊張しとるもんで!」

 悪かったのう! かっこつかんで! とカクが顔を真っ赤にしてキャップを目深にかぶった。はカクさんってかわいいなあと思って、胸がいっぱいになる。

「ふふ、ごめん、ごめん」
「ええ!?」
「え、あっ、違う! 返事じゃなくて!」

 が慌てて否定すると、カクは「は昨日から謝ってばっかりじゃ」と言いながら笑うので、はほっとした。

「ずっと、はぐらかしててごめんね」
「それも昨日聞いた、多分」
「え?」
「怖かったんじゃろ? わしが、若くて、優秀で、人気者で、背も高くて、スタイルも良くて、かっこよくて、それなのに気さくで優しいから」
「ぜ、んぶ聞いてたの……?」
「すまんのう」
「そんな……」

 がへなへなとまたベンチに座り込むと、カクも隣に腰を下ろす。ちょうど夕日が海に沈むところで、そういえば、こんな夕日をカクさんと海列車から見たなあとは急に思い出した。 ぼうっとしているにカクがそっと尋ねる。

は、わしのそういうところが好きなのか?」
「そういうところ?」
「わしは、採用初日にミスしそうになったわしに話しかけてくれたが好きじゃ」
「そ、れは……」
「普通か? あとな、職人は職人、経理は経理、そうやって仕事に線を引かんのもいいなと思った」
「あ、りがとう」
「そんなに仕事ができるお姉さんなのに、わしがちょーっと挨拶したら顔を真っ赤にして照れとるし」

 「あれはカクさんだって照れてたでしょ!」とが応戦するが「大人しくしとらんと、またコーヒーが零れるぞ」とカクに言われたは言うとおりにするしかない。
 そうか、カクさん、カクは、私のそういうところを好きになってくれたのか。は自分がずっとカクの若さとか、優秀さとか、見た目とか、そういうところばかりを気にして勝手に引け目を感じていたなと反省する。

「……ねえ、キス、してもいい?」
「今日は聞くんじゃな」
「~~~~ッ」
「すまんすまん、意地悪じゃったの」

「いつでも、お好きな時に」

年下の恋人がそう甘やかすので、は人目も気にせず、遠慮なく唇を重ねた。

「ところで!? 付き合ってくれるんじゃろうな!?」
「あれ? ごめん!」
「はぁ!?」
「違う! 返事したつもりになってて!」



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