私たちがした約束は

 ガレーラカンパニー創立一周年記念パーティーは、社長であるアイスバーグさんが市長に推薦されたことも相まって、一層賑やかで華やかな場となった。貸し切ったホールには料理と酒が所狭しと並べられ、至る所に花が飾ってある。カクとパウリーは、「創立記念パーティーなんて畏まった場に盛装してまで行きたくない」というベテラン職人たちから会場に無理矢理押し込められる形で参加していた。首元まで留めたシャツのボタンと巻いたネクタイには、この一晩だけでは慣れる気がしない。
 会場の前の方で、カリファが「それでは社長から創立メンバーを紹介してもらいましょう」と式次第を読み上げると、マイクを受け取ったアイスバーグさんが「この会社を立ち上げられたのは彼らのおかげだ。改めて感謝する」と幾人かの名前を呼び、彼らに壇上へ上がるよう促していく。 そこにはアイスバーグさんを睨みつけるも含まれていた。アイスバーグさんはそんなの視線もお構いなしで「何なら手を引こうか?」などと話しかけ、差し伸べた手をに叩かれていた。は気乗りしない様子でステージにあがると、既に並んでいた別の創立メンバーに、まあまあと窘められている。

「パウリー、お前、知っておったか?」
「あァ? が創立メンバーだってことか?」
「そうなのか?」
「あいつは別に大したことはしてない、って言ってたけどな」

 俺だって何度も手伝わせてくれって頼み込んだのによぉ! まあ、入社できたからもういいけどな、などと言うパウリーの言葉は右から左に抜けていく。
 カクの目は、感謝と労い、思い出話や苦労話、そしてこれからもよろしく頼むという言葉とともに、アイスバーグさんから壇上でチークキスされそうになっているに釘付けだ。

   ◆

八年前・春

「会社を立ち上げようと思っててな」

 久しぶりに飯でも、と言われて、浮かれる気持ちを必死に押し殺して席に着くと、アイスバーグさんは私の分の水が運ばれて来る前にそう言った。私は大層驚いたが、それを落ち着けるための水すらない。

「会社、ですか」私が間の抜けた声で繰り返す頃、やっと水が運ばれてくる。
「ああ。造船会社」

 今はお昼時をちょっとすぎたくらいで、お店はすごく混んでいるというわけではなかったけど、昼間で、明るくて、適度にがやがやとしていて、誰もが自分たちの料理と会話に夢中だったから、色んなことを話すにはちょうど良さそうだった。
 運ばれてきた水をごくごくと飲みながら考える。私はこれから何を聞かされるのだろう。会社立ち上げの不安なんてものは彼に限ってないだろう。故に、私に何か相談するということも考えられない。そもそも彼の問題を解決できるような力が私にあるとは思えない。そこまで考えて、私の人生では絶対にありえないことだけれども、彼にとっては「会社立ち上げ」なんてものは、近況報告程度の話題なのかもしれないなと思い直した。
 そうだとすれば、ただ聞いていればいいのだから気も楽だ、とメニューを開いて自分のランチの算段をつけることにした。

「まあ、アイスバーグさんが作る会社は造船会社以外に考えられないですね」
「ンマーな。それで、お前にも手伝ってほしくて」
「え?」

 まだ、料理も選んでないのに話の展開が早すぎる。

「手伝うって、何をですか?」
「会社の立ち上げ」
「いやいやいや、情報増えてないです」

 注文はお決まりになりましたか? と声をかけてくれた店員さんに、すみませんと頭を下げて、そのまま頭を抱えた。アイスバーグさんは、そんな私を無視するように、俺はボロネーゼが食いたいんだと結構どうでもいいことを報告してくる。そうそう、こういう話で良かったんだよ。ちなみに私もボロネーゼを食べたいけど、口元や飛び散るかもしれないソースがどうしても気になるので、彼の前で食べる勇気はまだなかった。彼は、私が食べるメニューひとつで、なんでこんなにうんうん悩んでいるかってことを知っているけれど、かといって必要以上に優しくないのがありがたかった。
 とりあえず、私はチーズリゾットを注文することにして、メニュー問題を片づけてから本題に入る。

「会社の立ち上げの、何を手伝うんです?」
「何って言われると、難しいな」
「なんですか、それ」

 普通、困っていることがあって、それを解決してもらいたくて、それができる人に手伝ってもらうのじゃないだろうか。何を手伝ってほしいかわからないのに、手伝ってほしいとはどういうことだろう。哲学か?

「いや、ていうか私、振られてますよね?」
「……ああ、そうだな」
「何回も」
「……ンマー、そうだな」
「私なら何でも言うこと聞くと思ってます?」

 彼に限ってそんなことは絶対にないのだが、彼の否定の言葉を聞いて、彼の誠実さに安心したい私はついそんなことを聞いてしまう。アイスバーグさんはすぐに「そんなこと一度だって思ったことない」と言ってくれると思っていたのだが、まさか、目を逸らして考え込んでしまった。
 私の方もそんなアイスバーグさんになんて声をかけたらいいのかわからず、運ばれてきたボロネーゼとチーズリゾットを見つめることしかできなくなる。沈黙に耐え切れずに触れたスプーンが、かちゃりと音を立てたのを合図にアイスバーグさんが口を開いた。

「……確かに、この件に関しては似たようなことを、思っていたのかもしれない」
「なんと」
「俺を好いてくれているお前なら二つ返事だと、……そういう甘えがあった」
「重罪すぎる」

 お店の中は相変わらずの心地よい喧噪で、私たちのボロネーゼとチーズリゾットは少しずつ熱を失っていく。とりあえず食べましょうか、とスプーンを持ち直しチーズリゾットに向き合った私に、アイスバーグさんの迷いを帯びた声が降りかかる。

「言葉を……、間違えたな」
「なんて?」
「手伝ってほしいんじゃない」

 アイスバーグさんは、逸らし続けていた視線をしっかりと私に戻した。視線がかち合って、彼の瞳に私が映り込んでいるのが見える、ような気がする。それくらいまっすぐ私を見つめてくれた。オールバックにしていた髪のひと房が、はらりと落ちてきたが、アイスバーグさんは気にも留めない。薄い、冷たそうな唇が少し震えて、それを振り払うように、小さく、でも確かに言った。

「……側にいてほしいんだ」
「極刑です」

 あなた、私のこと振ってますよね!? と周りのテーブルに配慮したうえで出せる最大の音量で食って掛かった。

「そういう女に言って許される言葉だとは思いません。どうしたんですか?」
「……トムさんを、」

 彼は絞り出すようにその名を口にした。そして私は、そのあとに続く男の名前も知っている。

「…フランキーを、二人を好きだったやつに、側にいてほしいんだ」

 トムさんはともかく、フランキーを好きだったやつなんてなかなかいねぇだろ? とアイスバーグさんは頭をかいた。
二年というのは、たかだか、と括っていい長さだろうか? 少なくとも、私が彼らを失った傷が癒えるには全然足りない、「たかだか」二年だ。それでも、アイスバーグさんはその間休まず爪を研ぎ、今、会社を興そうとしている。

「私のことを振っておいて『側にいてほしい』っていうのはどういうことなんです? 人としては好きだけど、女としては、ってそういうこと?」
「まだ言えない」
「いっつもそればっかり」

 いっそのことお前には全く興味がない、かけらも好きになれる気がしない、くらい言ってくれれば、傷ついて傷ついて、それで諦められるかもしれないのに、彼は決して、私の気持ちに応えられない理由を言わなかった。

「嘘をついた方が、お前にとっていいんだろうなってのは、……わかってるんだ。お前のことが嫌いだとか、魅力を感じないとか、とっとと別の男を探せだとか」
「そんなの、ずるい。それじゃあ、まるで」
「でも、無理だ。だめだ。理由は言えない」
「ひどい男」
「『会社の立ち上げ、手伝ってくれるか?』」
「……、……いい男に出会うまでなら」

 それでいい、それでいいよ、とアイスバーグさんは心から安心したように笑った。


   ◆

「ンマー、そんなに嫌そうな顔されたら傷つくだろう?」
「思ってもないこと言わないでください!」

 檀上は照明が眩しくて、ステージ下の様子がよくわからない。
 創立一周年パーティーの式次第を渡されながら、カリファさんからこの催しを説明された日の記憶がよみがえる。壇上で紹介されるほどのことはしていないと突っぱねたら、カリファさんが「社長が全員から了承を得て来いと…」と悲しそうな顔するものだから、仕方なく受けたけど、お腹でも壊せばよかった。そう苦々しく思いながら、目の前の主犯を睨む。

「ンマー、……本当に。感謝してるんだ」
「何もしてないですって……」

 そこでアイスバーグさんがまた頬を寄せてくる。壇上でこれ以上悪目立ちするのも嫌だと思い、諦めて受け入れることにした。耳元でアイスバーグさんの低い声が、ほとんど息だけだったけど響いた。

「側にいてくれただろう?」

 いい男が見つかったら言えよ? という彼の言葉で浮かんだ顔を振り払うように、彼のキスを頬で受ける。



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