恋はどうにも儘ならぬ

七年前・冬の終わり

 カクは海列車には初めて乗るのだと嘘をついた。ただ、二度目でも三度目でも、初めて乗った時と同じ気持ちになるので、まんざら嘘でもないだろう。乗り込むたびに「こりゃいいのう」と思うのだから。
 車窓から見える雄大な海と空は、よっぽどの天候でなければ大した変化を見せないが、それでも太陽が反射してきらめく波間を座ってぼうっと見ているのは飽きなかった。加えて船と違うのは、このプライベート感だろう。座席で区切られた空間と、その空間それぞれに設置されている車窓のおかげで、さながら部屋ごと移動している気持ちにさせられる。
 本当の初乗車は、潜入任務のためウォーターセブンにやってきたあの日だ。カクは自分と同じように海を眺めているをそっと盗み見しながらぼんやりと思い出す。噂には聞いていた海列車。船以外の方法で海を渡るのは初めてで、誰にも言わなかったが内心浮き立つ気持ちだった。
 いざ乗ってみると、乗り心地は海の上を滑る船に似ていたが、窓で切り取られた海と空とを眺めながら、ただ座ってとりとめもないことを考えて過ごす時間は、カクにとってはとても良いもので、こりゃいいのう、とひとりほくそ笑んだのだ。
 まさに今も、やっぱりいいのう、と思っている。

「見て、ちょうど夕日が沈むところだよ」

 「あっちが西かあ」と呟くの髪が、額が、瞳が、頬が、唇が、夕日で照らされオレンジ色に染まっている。カクも夕日に目を向ける。遮る雲もない夕日は容赦なく輝いており、反射光と相まってまばゆいばかりだった。圧倒的な光量に思わず顔をしかめてしまう。こんなに美しいのに。直視できない。

「カクさんの髪、ますます綺麗だね」

 カクが夕日に目を細めているうちに、はいつの間にか夕日からカクへの視線を移し、夕日色に染まった頬を緩めカクを見つめていた。女性を褒めるようなの物言いに、カクはほんの少しだけひっかかりを覚える。彼女は自分のことをどう思っているのか。それとなく好意は伝えてきたはずだが、から距離を縮めてくるようなことはない。

「プッチはさすが、美食の町じゃったのう」
「美味しかったねえ」

 「あのタルタルソースがかかったチキンのやつ、美味しかったあ。ていうかタルタルソースが美味しかった! なんだろう、ピクルスが違うのかなあ?」といつもより早口で、それなのに語尾が緩んだまま捲し立てるはいつも以上に上機嫌だ。昼酒と別の島、というのが効いたのかもしれない。
 ふと、はカクと飲みに行っても、酔っぱらって普段と態度が変わる、ということがなかったなと気がつく。普段からニコニコと明るく愉快で、それはそのまま酒の席でも同じだ。カクは若者らしさを損なわない程度に好きに飲むようにしていたが、はどうだったのだろう。自分以外の男と飲んでも、同じなのだろうか。カクはそこまで考えて、別に「男」に限ることはなかったか、と思い直す。

「このあとはどうする? 夜はこれからじゃし、余裕があるならブルーノの店にでも顔を出すか?」
「いいねえ。最後は馴染みの味で締めようか」

 間もなくブルーステーション、ブルーステーション……というアナウンスを聞きながら、まだ肌寒い街中へ繰り出すための準備をする。

   ◆

「カクさん……?」

 怪訝そうなの声に、カクはふっと我に返った。やりすぎた、そう思ったときにはもう遅い。テーブルの上で白目を向いている粗野な男から視線をはずしてを見ると、グラスを両手で抱えるようにしながら、眉を落としていた。ブルーノの、やれやれ、といった視線が痛い。まるで子供の癇癪を見守る親のようで癪に障る。

「ブルーノ、騒いで悪かったの」
「詫びはそちらの海賊さんから貰っておくよ」

 「、行こう」と声をかけて店のウェスタンドアを押すと、がブルーノにぺこりとお辞儀をしながら駆け寄ってくる。店のなかからは「はいはい、海賊さん。起きて起きて」というブルーノの声がする。 まだ夜更けというような時間ではなかったが、今夜は新月で夜道はいつもより暗い。予定より早く店を後にしてしまったので、あてもなく歩くことになった。のヒールの音だけが石畳にコツコツと響く。

「カクさん、ありがとう。困ってたから助かった」
「あやつ、に酌をさせようなぞ身の程知らずが。万死に値するわい」
「カクさんも強いんだね。ちょっと、死んじゃうかと思った」

 カクは、自分の血の気配が悟られたようで、ぎくり、とすると同時に、ルッチの「わかってるだろうな」という脅迫と、カリファの「入れ込みすぎちゃだめよ」という忠告が脳内で交互にリフレインした。はそんなカクの冷や汗には気づかずに「男の子って、どうやって戦えるようになるの? パウリーもさ、いつの間にか強くなっててびっくりしちゃう」と問うてくる。だが、答えを求めるような質問ではなかったようで、カクの強さの理由はすぐに別の言葉でうやむやになる。

「うまくやれなくてごめんね。お手を煩わせてしまいまして……」
「そんなこと。が謝ることじゃないじゃろ」
「つい、笑ってやり過ごそうとしちゃってね。心のなかでは、もし手に銃があったら撃ってる、って思ってるのに」
「そうじゃったのか?」

 そうだよ、と笑うの笑顔は先ほど酒場で見せていた笑顔と同じに見える。
 しつこく酌を迫られていたは困っているようには見えたが、比喩にしろ殺意を抱くほどの怒りを募らせていたようには見えなかった。見抜けない自分はまだまだ、ということなのか。それとも、彼女が失礼な男に笑いかけているのを見て、つい手が出るほどあの男に苛立ちを覚え観察眼が鈍っているのか。
 「必要があって笑っていることだってあるのにね」とはまた笑う。

「今は? 笑っとるようじゃけど」
「今は、嬉しくて笑っています」
「本当か?」
「疑り深いなあ。本当に。嬉しかったです」
「……恋人面しやがって、とか思わんかったか?」
「なにそれ!」

 が吹き出すがそれだけで、答えは得られなかった。代わりに「海が見えてきたよ」と真っ黒な海を指差す。

 初めは正直誰でも、一緒にいて不快でない女性なら十分だった。早くこの島に馴染んで、人脈を広げ、噂が自然と耳に入ってくるように、何かを訊ねても怪しまれないように。ただでさえ面倒な潜入任務などさっさと済ませてしまいたかった。
 潜入任務の開始から五日ばかりでしっかり会話できた女性がだった。ちょうどいいと思ったのも事実だが、そもそも親切で感じが良かった。自分の仕事はここからここまで、と線を引かない姿勢も好ましく感じた。お礼にと食事に誘うと二つ返事で、気構えていないのが気楽でよかった。
 パウリーの冗談にのってやったのは、に好かれて困ることはないと思ったからだ。ここで意識させれば、話が早いと思った。例え関係が悪くなっても、どうせ自分は期間限定の船大工。任務にさえ支障が出なければいいのだし、支障が出るようなら排除の手段はいくらでもあった。
 誤算だったのは、キスされて真っ赤になったに、自分があんなに心奪われるとは思っていなかったことだ。話が違う、と思った。ほんの少し手に唇が触れただけだったのに、大人だと思っていた彼女が、幼い少女のように頬を紅潮させ、耳まで赤くして汗ばむ姿に、目が離せなくなった。今更気が付いても後の祭りだが、そういえば、任務で色仕掛けじみたことをしたのは今回が初めてだ。こうなってしまっては。好きになってしまっては、もう下手に手が出せない。

『わかってるだろうな?』
『なんの話じゃ?』
『好かれるんだ。好きになるんじゃない』

『入れ込みすぎちゃだめよ』
『なんの話じゃ?』
『辛くなるだけじゃない』

 ルッチの睨み顔とカリファの困り顔を思い出しながら、苦笑する。

は……、」カクは思わず声に出していた。「んー?」とのんきなの声が返ってくる。

「好きなやつがおるんじゃろ? でも、そいつとはうまくいかんのじゃな」
「えっ、……なんでそんな風に思うの? 私そんなにわかりやすい?」
「ワハハ、今のでわかった」

 それは反則でしょう!?とが拳を振り上げる。
 本当は何となくわかっていた。今の答えで確信に変わっただけだ。

「そいつのことは諦めきれんのか?」
「……、我ながら自分のしつこさに呆れてるよ」
「そんなにずっと好きなのか。ままならんもんじゃのう」
「ふふっ、大人みたいなこと言って」
、」

 向き合ったの肩にそっと両手を置くが、はその手をちらりと見ただけで、振り払ったりしなかった。夕日に照らされて輝いていたの髪は、額は、瞳は、頬は、唇は、今は遠くの街灯がぼんやりと映し出す程度で、触れていないと不安だった。

「わしじゃ、駄目なのか?」
「そんなことっ……!」

 我ながらずるい聞き方だと情けなくなる。だが、こうでもしないと。

「いいのなら、このままじっとしていてくれ」

 体を屈めながら、そっと唇を寄せていく。の両肩がこわばり、体に力が入ったのがわかった。でも、は動かない。そのまま距離を詰めると冷えた鼻先が、す、との肌を掠めた。

「や、やっぱり……!」

 肌が触れたのをきっかけに、が自分の胸に両手を添えるようにする。だが、ずるい。彼女は自分を押し戻すことなく、ただ手を添えるだけだ。これで抵抗したと言うつもりだろうか。気づかないふりをしてそのまま口づけを交わそうとする。彼女の唇まで指三本分。あと少し。

「カクさんッ」

 はカクの口元を塞ぐように手を押し当てた。その状態で数秒。の申し訳なさそうに困った瞳にカクの顔が映る。

「ふまん、ふまん、わうかった」

 これはさすがに、降参だ。カクは謝罪の言葉を口にする。はすぐ手を離した。そして「ごめんね」と俯く。何に対する『ごめん』なのかは聞かない。
 カクはその隙を逃すまい、との額に掠めるようなキスをする。ちゅっ、と音だけ響いた。

「カクさん!?」
「わしもまだ諦めんぞ」

 の表情はよくわからない。だが、また初めて食事をしたあの日のように、顔を火照らせているのだろうか。明日にも終わるかもしれない任務。終わればもう、この島には戻らない。それならば。ルッチの言うことなぞ、聞いていられるか。

『好かれるんだ。好きになるんじゃない』

 そんなこと、出来たら苦労せんわ。



prev top next