来年の今月今夜は神のみぞ知る

七年前・冬

 今日は恋人たちの日。
 は赤い薔薇の花束を持った男性が待ち合わせ場所に駆けていくのを目にして、やっぱり今日だよね、と諦めに似た気持ちを覚えた。腕時計に目をやりながら、ショーウインドウで前髪を直す女性や、早足で人並みをすり抜けていく男性。街全体がその雰囲気にのまれている、というほどではないけれど、いつもとは確実に様子の違う街の空気に、のまれるものかと足を突っ張りたくなる。
 残念ながらというのは語弊があるかもしれないが、にとっては、ここ何年もずっと縁のない日だったのだが、今年は少し違った。なんと、カクからご飯に誘われているのだ。
 いつもの調子で「明後日の夜、もし空いてたらメシでも食べに行かんか?」と誘われたものだから、は結構かなり困っている。カクは今日がなんの日か知っていて、誘ったのだろうか。にはわからなかったし、確認する勇気もにはなかった。結局、は、全然なんにも意識していないですよ、という空気を精一杯だして「お、いいね」とだけ言って了承した。
 待ち合わせた店に早めに着いてしまったは、感じのいい店員にカクに予約してもらった席へと通されながら、横目ですでに店内で食事を楽しむカップルたちの様子を窺った。よりずっと若く見える子達も含め、みな気安い雰囲気で思い思いに「今日」という日の食事を楽しんでいるように見える。
 は、いい年をして思春期の女の子みたいに、内心どぎまぎしていることが急に恥ずかしくなった。でも、許してほしい、とも思う。なぜなら、の育った東の海の小さな島国では、今日は「女の子が好きな男の子に告白する日」だったのだ。三つ子の魂、ではないが、住む場所が変わって、ウォーターセブンにそんな文化はなくても、はそれをなんとなく気にしてしまう。
 は、カクが自分の手にほんの軽く唇を寄せてくれた時から、彼に対してなんだかむずむずとした気持ちを抱えてはいる。だが、ずっと希望を見いだせない恋、いや、もはや執着と言っても差し支えないような思いをここ何年もずっと引きずっていたせいか、正直、恋とはどんなものかしら? といった具合で、ここからどう進めたいのか自分でもわからなくなっていた。
 一緒にいて楽しい、とは思う。だが、それだけで進むのは、もう怖い。
 カクはカクで、あの後気まずくなるでもなく、かといって距離が縮まるでもなく、仕事の話をしたり、最近読んだ本を教え合ったりしながら、海列車でプッチに足を伸ばして新しいお店を開拓してみたりとするだけで、楽しく「お友達」を継続中だった。
 このままが、いいよね? は自分に言い聞かせるように自問した。誰も答えてはくれない。

   ◆

「はは、待たせたの」

 カクの荒い息交じりの声と一緒に、肩越しに差し出されたのは一輪の薔薇だった。紅く、柔らかにうっとりと広がる瑞々しい花弁も見事で目を奪われるが、何より「今日」という日に自分の目の前に薔薇の花が現れたことに息を呑む。
 「び、っくりした……」と、がようやく振り返ると、満足そうに「成功じゃ」と笑うカクと目が合った。驚き冷めやらぬがお礼を言うタイミングを失っているうちに、カクは、どっこらしょ、との前に座る。テーブルの下はほとんどカクの足で埋まってしまい、は足が絡まるんじゃないかとひやひやした。

「今日は、恋人たちの日? なんじゃろ? ささやかじゃけども」

 カクは照れる様子もなく、晴れ晴れとした顔で言った。こういうとこあるよな、とはカクの不意打ちにまんまとしてやられる。なんとか「ううん、もう、とんでもなく嬉しい」と答えてみせるが、カクは「そりゃ良かった」と余裕の表情だ。

 もうメニューは見とったか? せっかくだしバレンタインメニューにするかの、と無邪気なカクとの温度差にはますます気恥ずかしさが募っていく。
 実は、も三つ子の魂にならって、チョコレートをプレゼントしようと準備しているのだ。の生まれた島では、チョコレートを渡して告白、だったが、そんなつもりはない。ただ、なんでもないふうに、お礼の気持ちでさらっと渡せたらと思っていたのに、初っぱなから正解を見せつけられ、は出鼻を挫かれた。完全にタイミングを失ったは気もそぞろに「そうだね、せっかくだしね」とバレンタインメニューを頼むことにする。

   ◆

「はああ、旨かったのう。バレンタイン限定なのが残念じゃ」
「今日頼まなかったメニューも気になるし、また来よう」
「そうじゃな」

 ティラミスを食べ終わったら、今夜は終わりだろうか。は、結局渡せずにいるバッグの中のチョコレートを思い浮かべながら、ティラミスを口に運ぶ。告白なんてものをするわけじゃない、ただちょっとしたものを日々のお礼に渡したいだけなのに、妙に意識してしまう。渡せばいいだけ、渡せばいいだけ、は心のなかでそう唱えてみるが、唱えるほどに体温が上がるような気がした。

「デザートに甘いものも食べたいのう」
「へ? いま、ティラミスを……」
「わしはチョコレートがいいんじゃけど」

 カクが唐突に言うので、は再び「へ?」と間抜けな声を出した。カクは頬杖をしたまま片眉をあげて、謎めいた笑みを浮かべながらを見つめている。

「チョコレート。誰に渡すんじゃ?」
「なんで、わかるの?」
「昨日、うんうん唸りながら悩んで買っとるところを見かけたもんで」

 は、そんな……と、呻きながら、一瞬で耳まで紅潮した顔を隠すように手で覆って伏せた。買うところから見られていたなんて、とは昨日の自分を思いだす。カクの言う通り、価格や色形、種類、フレーバー、全てにおいて悩んで悩んで決めたのだ。が頭を抱えてカクの顔を見られずにいると、テーブルの下で二人の足が絡んだ。いや、カクがに足を絡めた。は反射的に顔をあげてしまい、全てを見透かしたようなカクの視線に射抜かれる。

「なァ? それは、誰にやるチョコなんじゃ?」

 カクはを逃がさない。

「……カクさんにあげようと思って買ったやつ、ですよ」

 が観念して白状すると、カクはくしゃっと笑って「よかった!」とはしゃいだ。は、よかった、ってどういうことだろうと思いつつも、早う早うとせかしてくるカクでうやむやになる。なんだ、こんなに喜んでくれるなら、さっさと渡せば良かった。は、バッグから手のひらサイズの小箱を取り出して「いつもありがとう」と言って手渡した。

「よし、店を出たらちょっと一緒に食べんか?」
「え? いいの?」
「だってこれ、美味しいやつじゃろ?」

 カクのシンプルな「美味しいやつ」という言い方に、はなんだかほっとした。「美味しいやつ」を一緒に食べようって言ってくれる人なんだよなあ、としみじみしながら、いそいそとお会計の準備をするカクに続いて、は慌てて席を立つ。

   ◆

 街は、やはりいつもより浮ついているような気がした。まだ眠らないぞ、という気概を感じる。とはいえ、風は冬らしく乾いて冷たく、近くの店で急いでホットコーヒーをテイクアウトして、広場のベンチに腰かけた。カクはからもらったチョコレートをコートのポケットから大事そうに取り出す。

「ふは、高そうでうまそうじゃの~」
「ふふっ、そうだね。ちょっと奮発したよ」

 無事渡せてほっとしたことで、も軽口を叩けるようになってきた。楽しみじゃのう、と言いながら、カクが長い指で赤いリボンをつまみ、しゅるしゅるとほどいていく。カクのうきうきした様子に、やっぱり準備して良かったなとがほっとしたのも束の間、箱を開けたカクは開口一番、

「ハートじゃない……」
「え?」
「ハートじゃないんか?」

 と縋るような瞳をに向けた。確かにが選んだチョコレートは、ミルク、ビター、キャラメル……といくつかのフレーバーが楽しめるもので、全部一口サイズの四角いチョコだった。けれど。

「は、ハート? いやあ、ハートのは……お店になくて……」
「……本当に?」

 カクに探るような目を向けられたは弱かった。あっさりと両手をあげ、降参のポーズをとり、「すみません、恥ずかしくて無理でした」と素直に謝る。カクは「はああああ、楽しみにしとったのに!」と大げさに悲しんでから、の唇にチョコレートを一つ摘まんで押し付けた。が反射で口を開けると、カクがチョコレートを放り込む。

「来年は頼んだぞ」

 何でもないふうにカクは言うが、は、カクの来年に当たり前のように自分がいるのがたまらなく嬉しい。しかも、ハートのチョコをご所望だ。
 相変わらずの気持ちは定まらず、なんて返事をしたいのか自分でもまだわからない。ひとまず口の中のチョコレートが溶けきらぬうちは、このまま。
 ……このままが、いいの?



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