果たして真相はまたいつか

七年前・秋

『今日、を食事に誘ったといったら、こうするのがこの島の礼儀だからちゃんとしろと……』

 パウリーの悪戯に騙されたカクさんにキス(手の甲)をされてしまい、なんだか妙な空気になってしまった。されてしまい、なんて失礼か、とは思う。していただいた、と言っていいくらいだ。は本当に嫌じゃなかったなあ、と妙に感慨深く思って、またほんの少し頬を赤らめるが、お酒のせい、お酒のせい、と自分に言い聞かせた。
 カクはまだ顔を上げられずにいた。テーブルに近づいてきたブルーノが「そろそろラストオーダーだ」と声をかけてくるので「お水を二つ」とが頼むと、「わしはエールがいい」とカクがむくりと起き上がる。

「まだ飲むの?」
「飲まんと……やってられん」

 「パウリーのやつ」とカクは憎らし気にその名を口にした。頬は赤いままだ。頬杖をついて、とにかくの方は見ないように、とたいして興味もないが隣のテーブルで騒ぐ四人組を眺めてみる。

「仲良くなったんだね」
「この仕打ちが?」
「パウリーは、……悪ガキだけど、いいやつよ」
「ああ、そういえばパウリーから聞いたぞ」
「え? 私の話? どうせ悪口でしょ?」

 他の客がひとり、またひとりと店を後にする。ブルーノはグラスを磨きながら、話の尽きない二人にいつ声をかけようかタイミングを見計らう。

   ◆

「本当に送っていかなくていいのか?」
「悪いよ。ここからすぐだし、まだ人通りも多いしね」
「じゃあ本当に気を付けて。わしはまだしばらくここにおるから、もし何かあれば大声で戻ってくるんじゃぞ」
「はは、わかった。でも、うちはここからほんとすぐだよ」
「いやでも家の中に誰かおるかもしれんじゃろ。変だと思ったらすぐ戻ってくるんじゃぞ。戸締まりはちゃんとな。途中、そのへんの海賊にぶつかるんじゃないぞ。やっぱり送ろうか……いや、女性の自宅じゃしの……」

 カクは心配そうな顔をしたり、眉を顰めたり、表情をころころと変えながら、考えられることを手当たり次第列挙しては、「とにかく気をつけて」と結んだ。それを聞いたは、こんな風に誰かに心配されるのはいつぶりだろう、と頬が緩む。両親にだってここまで大っぴらに心配されたことはない。久しぶりに惜し気もなく、小娘、というより女児扱いされるのは、こそばゆくも素直に嬉しかった。  カクは顔の横でひらひらと手を振り、を見送った。カクは大分飲んでいたようにみえたが、もう、あの熱を孕み潤んだ瞳ではなくなってしまっている。はなんとなくそれが寂しい。
 少し歩いてから、そっと後ろを振り返ってみると、カクは道の端に寄ってはいたが、きちんとを見ていた。振り向いたに気がつくと、もう一度片手をあげ、笑顔で手を振ってくれる。なんだか、大きい犬みたいな子だな、は犬種まで想像する。はもう一度手を振って、短い帰路についた。
 家の鍵を開けてまたすぐ閉めると、はそのままベッドに直行する。タイトスカートのホックとファスナーをはずしてストンと脱ぐと、ブラジャーのホックをゆるめてそれだけブラウスの中から器用に抜き取った。そこまでしてから、靴を脱ぐとようやく人心地ついて、ベッドにぼふ、と身体をあずけ大の字になる。シャワーも浴びずに酒場からベッドに直行か、は反省しつつも、今日だけは、と天井を見つめた。
 まだよく知らない人と初めてご飯を食べるこの感じ、どんなに楽しくてもちょっと疲れる。は寝返りを打って、横を向く。すると、先ほどキスされた右手の甲が目に入り、カクになぞられた爪や指、押し当てられた唇の感触を思い出して、鳩尾のあたりがきゅっとなった。カクはまだあの場所で待っているのだろうか。顔がにやけて、年甲斐もなく足をばたつかせてしまう。キスされた箇所を指でそっと撫でた。

「ふにふにしてたな……」

 ぽつん、と呟いてみても、言葉はただしかいない部屋に響くばかりだ。
 髪は、柔らかそうだった。肌は、きれいだった。髭はなかったな。歯並びもいい。肩はがっしりしてて、指はごつごつしていた。爪は短く切りそろえてあって、……そこまで考えては、はたと思う。品定めみたいに、なにをしているんだろう。
 は、望んだ温もりを得られずにいたそれなりに長い年月を思って、なんとなく、ゆっくりと気持ちが冷めていく。

「まあ、ときめきは肌にも良さそうだし」

 はあっさりと自分を許すことにする。
 でもパウリー、あいつは許さん。得はしたけど、それはそれ。これはこれ。

   ◆

 翌日が出勤すると、ちょうど本社の前でパウリーと出くわした。パウリーはにやにやしながら「おれからの餞別はどうだった?」と朝の挨拶もそっちのけで声をかけてきて、の静かな怒りには気がつかない。は無表情で「カクさんとのご飯代、全部ツケてきたからね。さっさと払いに行きなさいよ」と朝の挨拶を省略した。

「はあ!? なんの腹いせだ!?」

 パウリーが心底心外だという顔で抗議してくるものだから、の眉間にも皺がよる。

「この島に来たばっかりのカクさんに嘘を教えないでよ!」
「ってことはいい思いしたんじゃねえのか!?」

 同僚たちは、朝からぎゃあぎゃあと喚きたてる二人を、仲がいいねえ、と微笑ましく思いながら素通りした。は同僚たちの温かい眼差しに気がついて、少しだけ声のボリュームを落とす。

「それとこれとは別」
「してんじゃねえか!」

 がウォーターセブンに越してきてすぐ借りた部屋は、パウリーの家の近所だった。家の前の道で、水路で、遊び呆けていたパウリーのことは、鼻を垂らしていた小さい頃からよく知っている。何度、鼻水をぬぐってやったことか。完成した海列車を見たいとせがむパウリーを連れて行ってあげたのもだ。海列車に感動したパウリーが抱いた大きな夢も随分聞かされて、なんならガレーラカンパニーの入社試験のことだってが教えてあげたのに。
 パウリーはそれが面白くないらしく、入社してからもこうしてに悪態をついてくる。

「で、なんだって? カクに、その、されたのか?」

 『キス』すら気恥ずかしくて言いづらそうにしているパウリーに、までつられて照れてしまう。

「だってパウリーがそうしろって言ったんでしょう?」
「違ぇよ!」
「え?」
「おれァ、嫌ならやんなくていいってちゃんと言ったぞ!?」

 「礼儀だからって嫌々するもんじゃねえだろ、ああいうのはよ!」とぼやぼや呟いているパウリーを尻目に、は熱くなってくる両手で自分の頬を覆う。パウリーの方を恐る恐る見ると、パウリーは頭を掻きながら、「少なくとも嫌じゃなかったんじゃねえの?」と言った。続けて「知らねェし、わかんねェけどよ!」とも叫ぶ。

「嫌じゃなかったってことかなあ?」
「だから知らねェって!」

   ◆

と食事? ……そうかそうか、じゃあ覚えておけよ。この島じゃな、男が女にお礼するときは、手にキスすんだ。あいつァ礼儀にうるさいからな」
「ほう、初耳じゃの」
「あ、嫌なら別にいいからな?」
「礼儀なんじゃろ? 教えてくれてありがとう、パウリー」
「嫌なら、いいんだからな!?」

 カクのあまりの素直さに、パウリーは何度も念を押した。カクは「わかった、わかった」と軽い調子で返事をするだけで、何をどう分かったのか、パウリーにはさっぱりわからない。

「嫌なら、いいんじゃろ?」

果たして。



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