はじまりはいつも突然に

七年前・秋

さんは今晩、空いてるかのう? お礼をしたいんじゃが」

 採用五日目の、まだ顔と声しか知らない年下の男の子にそんな風に食事に誘われたは、咄嗟に「はい」と言ってしまった。採用五日目の、まだ顔と声しか知らない年下の男の子の名前は「カク」といった。カクは「そうか、よかった」とわかりやすく安堵のため息をつきながら、胸を撫でおろしている。

「じゃあ、最近見つけたお店でいい?」

 カクは「もちろん!」と賛成した。そして、この島には来たばかりで実はまだ町を知らないのだと頭を掻く。ガレーラカンパニー本社玄関前。微妙な距離を保ったまま立ち止まってしまった二人の背中を、春のまだ冷たい夜風が押した。肌寒さに腕をさすりながら、行こうか、とが声をかけ、カクがとっ、と踏み出し距離を詰めての隣に並び立つ。そうして並んで歩き始めた。そんな二人の姿をパウリーが何やら意味ありげな視線を向けて見送ったが、二人ともその視線には気づかなかった。

   ◆

「ところでお礼って?」
「なんじゃ、よくわからんのについてきたのか」

 カクは丸い目をさらに大きくして「だめじゃろ、さん。女性がそんな無警戒でどうする」と眉を吊り上げた。思わぬところで女性扱いされたは、軽口だとわかっていても頬が緩むのを止められない。赤く染まる頬を誤魔化すように、店に着くなり頼んで、すぐに運ばれてきたエールを煽る。それを見たカクも、真似してジョッキを傾けた。
 の先導でやってきた店は、半年くらい前にオープンした店主の名前を冠した酒場で、お酒だけじゃなく食事も楽しめる。はこの島にきたばかりだというカクのために、店主のブルーノを呼んで「この島といったら水水肉は外せないよね」と相談しながら、適当な料理をいくつか選んで注文した。カクはにこにこしながら、黙ってのオーダーを聞いている。
 頼んだ料理が並んだところで、はまた「で、お礼って?」と話を戻した。

「船の査定、やり直した方がいいって教えてくれたじゃろ? パウリーと一緒に査定をやり直したら、見積もりから漏れてたところがたくさんあってのう。慌てて直したわい。おかげで、じいさん職人に怒鳴られずに済んだ」

 あのことか、と合点がいったが、それよりも、カクが“じいさん”職人、と言うのが面白くて思わず噴き出す。「カクさんもおじいちゃんみたいだけど?」とからかうと、カクは心外だと言わんばかりの表情で「わしゃ、十八じゃ」と胸を張った。十八歳! パウリーよりもさらに若いのか、と内心、自分との歳の差におののいてしまう。
 思った以上に年下だったカクは、に対して敬語を使うことはなかった。でも、その態度は横柄なわけでも生意気なわけでもなかったので、年上だからと色々気を遣われることの方が多くなっていたには新鮮だ。こういう付き合い方もあるんだなと清々しい気持ちになって、も早々に敬語はやめてしまう。

「カクさんが査定してくれた船を造ってた会社は、あんまり評判が良くなくてね。もう潰れちゃったんだけど、船のあちこちに面倒事が多いみたいで、以前もトラブルになってたの。それを知らずに査定したんだから、仕方ないよ」
「そう言ってもらえると気が楽になるのう。パウリーもそんなこと言っとった。でもまさか、経理部からそれを教えてもらえるとは思わなんだ」
「経理部でもなんでも、ガレーラカンパニーじゃない。カクさんも、数字が間違ってるのに気づいたらちゃんと教えてよね」

 数字、苦手なんだよねと零せば、エール片手に「さん、経理部じゃろう?」と笑われる。そうなんだけどさ、とはそのまま言葉を濁した。
 は元々ガレーラカンパニーで働くつもりはなかった。立ち上げを手伝うだけのつもりが、人手不足だった経理部に配属になって、そのままずるずるとなんとかこなしているだけ。
 こんなこと言うと絶対に方々に憎まれるので、固く口を閉ざしている。それくらいの分別はあった。カクもガレーラカンパニーに憧れてやってきた口かもしれないので下手なことは言わないでおこう、と慌てて別の話題を探す。

「カクさんはこの島には来たばっかりって言ってたよね? 出身は?」
「わしは東の海じゃな」
「そうなんだ! 私も東の海だよ。奇遇だねえ。お互いはるばるグランドラインまでやってきて、こうして同じ島で、同じ会社に勤めてるなんてすごく不思議だなあ」

 海はこんなに広いのに、と感動していたら、カクも「本当じゃのう」と目を伏せて、十八歳らしからぬ感慨をみせるので少し驚いた。パウリーのせいにすると、また彼は怒るかもしれないけれど、カクは十八歳。パウリーの一つ下なんてまだほんの子供、と思っていた。けれど、目の前の彼は、仕事で世話になった礼にとこうして食事をおごってくれようとしているし、故郷の海に思いを馳せて、賑やかな酒場でふと静かになる。彼は十分に大人だった。そんなに急いで大人にならなくていいのにと、もうすっかり大人であるは一抹の寂しさを覚える。

「乾杯!」
「お、おう! 乾杯!」

 そんな空気を振り払うかのように、高々とジョッキを掲げた。カチン、と高くていい音が鳴る。
 はカクを子ども扱いしたくなって「ちゃんと食べてる?」と尋ねたが、実は聞くまでもなくカクはよく飲んで食べた。
 カクは軽やかなテンポで杯を重ねて、何杯目でも一杯目のように美味しそうに喉を鳴らしたし、合間につまむ料理にも「これは酒がすすむ味でうまい」「こっちは初めて食べる味でうまい」と一つ一つ感想を述べて、最後は必ず「さんも食べてるか?」と結んだ。の空のジョッキは気にしたが、勝手に注文したりはしないで「次は何が飲みたい?」とメニューを差し出す。
 こうやって一緒にご飯を食べると、全部じゃないけど、人となりが分かる気がする。は、そうだ、人と食事するってこうだった、と思い出した。
 一人暮らしももう長い。暮らし初めは、寂しさも相まって友達とよく外食を重ねていたが、だんだんと一人の楽しさもわかるようになってくる。それに呼応するように、友達や同僚がひとり、またひとりと恋人や新しい家族を持ち始め、最近はもっぱら一人で過ごすことが多かった。
 は久しく忘れていた、誰かとの食事の楽しさをカクとの食事で思い出していた。もちろん、誰とでもこうして楽しく過ごせるわけではない。カクの食事のリズム、テンポはにとって、かなりちょうどよかった。

「はあ。知らん海に知らん島に知らん人らで心細い気もしていたが、優しい先輩もおるし、メシはうまいし、さんのおかげでなんとかやってけそうじゃ。ありがとう」

 カクが、へら、と頬を緩ませながら、熱を孕んだ瞳で見つめてくるので、は一瞬息がひゅっと止まってしまう。そして、追い打ちをかけるかのように、とく、と胸が鳴るからびっくりした。

「こ、こちらこそ、誘ってくれてありがとう! こうやって誰かと食事するのは久しぶりだったけど楽しかった。友達も同僚も、恋人とか新しい家族が出来たりするとなかなか機会がないし、一人の方が融通がきいて気楽だしなんて思っちゃって、最近は全然」

 そこまで言って、しまった、と慌てて言葉を切った。取り繕うようにぬるくなったエールを口にする。
 うっかり口が滑って、独り身の寂しい女アピールになってしまったかもしれない。いやいや、ぎりぎり踏みとどまったかも。それにしたって、こんな年下の男の子になんてことを。自分だって若い頃、大先輩たちの自虐混じりのコメントに何と答えていいかわからず困ったというのに。似たようなことを言ってしまった気がする。
 ちらりとカクを窺ってみるが、カクが何を思っているのかいないのか、まだ付き合いの浅いにはよくわからない。でもカクが「また誘っても?」と聞いてくれたので、はわかりやすくほっとした。

「もちろん! あっ、今日もお礼とか気にしなくていいからね? 最初に言えばよかったけど。何があってもなくても、良かったらまた一緒にご飯食べよう。カクさんとのご飯、楽しいし」
「そんな。食事がお礼のつもりだったのに困ったのう」
「本当に気にしないでいいから! 大体、後輩から奢ってもらうなんて気が引けるよ」
「そうか、じゃあ」
「え?」

 カクは、ゆったりとした動作でジョッキに添えていたの手を取った。あまりに緩慢な動きだったので、は黙って事の成り行きを見守ってしまう。は少しも嫌な感じがなくて不思議な気分になった。嫌な感じはしなかったが、ただ、なんだなんだ? と目を白黒させる。そして。

ちゅ。

 声は出なかった。はびゅんと飛び跳ねるようにして立ち上がる。椅子がガタンと大きな音を立てて倒れたが、店の喧騒はそれ以上だったし、周りはみんな酔っ払いだったので気にも留めなかった。顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせるを見て、カクは反対に青ざめる。

「な、なんで」
「なんではこっちの台詞だよ! なんで、き、キスなんか!」

 は胸の前で右手の甲を左手で覆って守るようにした。カクの唇の感触がまだ残っている気がして、それが薄れないよう、なんだか大事にしたかったのだ。そのまま、ばくばくと跳ね回る心臓を両手でぐっと抑えてみたがなんの意味もなく、汗がぶわっと噴き出るだけだった。

「そんな! わしは言われたとおりに」
「え?」
「わしはなにか間違ったのか!? これがこの島のお礼の仕方、礼儀なんじゃろ!? パウリーからそう聞いたぞ!」 

 カクが青ざめたまま叫ぶように弁解する。は「パウリーが?」と低い声で繰り返した。昔からよく知る悪ガキの名前に、の双眸がすっと細くなる。汗が引いていく気がした。カクは自分が睨まれたわけではないのにたじろぐ。

「今日、色々教えてもらったお礼にさんを食事に誘いたいとパウリーに相談したら、こうするのがこの島の最上級の礼に当たるからちゃんとしろと」

 カクは頭を抱えながら消え入りそうな声でやっとそれだけ言った。パウリーめ、と拳を握り、倒れた椅子を戻しながら卓につく。そして、ブルーノが気をきかせて持ってきてくれた水をごくごく飲んだ。身体が冷えていく気は全然しないけれど、カラカラだった喉が潤っていく。
 ぷは、と一息つくと、はん゛っと喉を整えてから、自分に出せる一番優しい声で「あの、嫌じゃなかったからね」と伝え、ブルーノには吹っ切れた爽やかな調子で「今日の分は全部パウリーにつけておいてください」と笑顔で頼んだ。
 口づけられた右手はまだ灼けるように熱い。追加で頼んだエール、早く来ないかな。



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