第二番 Molto vivace

 朝からひどい頭痛に悩まされていた。思わず顔を顰めるほどのそれは、薬を飲んでもおさまる気配をみせない。非常に厄介だ。休んでしまおうかと、と思う。けれど、巨大なガレオン船の納期が迫っている。部屋にかけた日付しか書かれていないシンプルなカレンダーに赤く丸がついていて、それを知らせていた。
 気休めに青く染め上げられた空を見上げるが、大した効果は得られなかった。腹立たしいほどの痛みが断続的に、ずきずきと脳みそを締め上げる。
 カクは溜息をつきながら、頭を手で押さえながら、恨めしそうに部屋のドアを閉め鍵をかけた。


 顔には出すまいと、笑顔でいるように務めた。それがこの街での自分の役割だと思っていたし、何より「大丈夫か」等の言葉をかけられるのは正直好まない。その後にしなければいけない対応も面倒だと思ったし、心配されてこの頭痛がおさまるのかと、逆に苛々してしまう。
 纏わりつく痛みから逃れようと必死にいろんなことを考えた。いつもと変わらない表情をはりつけ、職人達に指示を出していく。誰もこの頭痛には気付かない。筈だった。

「カク」
「…アイスバーグさん?」

 彼がこの現場にくるのはとても珍しいことだと思ったが、ここまで巨大なガレオン船だ。大きな仕事だけに、ついてまわる責任も大きくなる。自分の目でそれを確かめたいのだろうと思った。そして、自分に声をかけたのはきっと、上から仕事の進み具合を見て欲しいからだろうと予測をつけた。
 この予測は大抵当たる。パウリーなんかだとほぼ百発百中だと言ってもいい。あの男はとても単純だからだ。けれど、アイスバーグ。彼は違う。どこか飄々としていて掴みどころがない。仕事の取り組みには波があって、気分でキャンセルを繰り返すような人だ。そのくせ市長と社長を兼任し、駅の管理までやってのけている。だからこの予測は当たるとは限らない。カクは痛む頭でなんとかそこまで考えた。

「なんじゃ?珍しいのう」
「あぁ、ちょっとな」

 そうやって白い紙切れを渡す。みればそこには「早退届」と書かれていた。それは大量に印刷された書類のようなものではなく、手書きでおまけに汚い字だった。この字は見覚えがあった。同じ職長で、さっきも思い浮かんだあの男。顔を顰めたのは痛みのせいではなかった。訳がわからない、そう声に出しアイスバーグにこの紙切れの意味を問う。

「訳も意味も、その通りだ」
「その通りって…、まったく訳がわからん」
「まあよく読んでみろ」

 渋々、握り締めてしまったその紙切れの皺を伸ばしながら目を通す。早退届、早退理由…ひどい頭痛または腹痛または体調不良、サインは…

「パウリーのこの汚い字が何か?」
「読めるだろ、早退届だ」
「誰の?」
「お前の」

 わしはそんなの頼んどらん、その言葉はアイスバーグによって遮られる。痛みが増した気がした。

「ンマー、よく聞け。さっきパウリーがそれを持ってきたんだ。聞けばお前が辛そうだ、ときた」

『アイスバーグさん、カクのやつ、朝から機嫌悪いっつーか、なんか具合悪そうなんですよ。でもずっと笑ってるし。あいつそういうの言わないじゃないですか。だから何にも言わずにこれにサインしてくれませんか?』
「つーわけで、俺もまあ何も言わずサインしてやったんだ」
「とんだ社長じゃ。あいつの勘違いじゃよ」
「それも考えた。だからこうして見に来た。パウリーは正しい、お前は帰れ」
「な!」
「これは社長命令だ」


 追い出されるようにドックから放り出された。パウリーが満足そうにそれを見ている。カクは憎らしげに彼を睨んでから溜息をついた。
 まさかパウリーの奴に気付かれるとは思ってもみなかったことだった。訓練が足りないと自分を責める。アイスバーグにも同じ事が言えた。完璧だと思った演技は所詮こんなもの。つくづく腹立たしい。
 そうやって拳を握ると、くしゃ、という音が自分の手から零れる。そこでようやく忌々しい手作りの早退届を握り締めていたことに気付いた。
 大人しく帰路につきながら、さっき渡され、捨てることの出来なかった早退届にもう一度目を通す。何度見ても同じ、パウリーの汚い字とアイスバーグのそこそこ整った字が並ぶだけ。それなのに、心なしか頬が緩む気がした。そんな自分に内心慌てる。
 まるでそんな自分を戒めるかのように、痛みは増した。その痛みはまた顔を顰めさせ、少しだけ涙を滲ませる。

 痛みを孕んだ重い頭はただただ、雨が降ればいいのにと思った。


第二番 Molto vivace


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