第一番 前奏曲

 耳障りな声が、自分の名前を何度も呼んでいる。お願いだからこれ以上口をきいてくれるなと訴えかけるのに、それはまるでやめる気配をみせない。頼むからもうやめてくれ。殺してしまいそうになる。


「ルッチ」「ルッチ」「なあ、頼むよ」「ルッチ」「おはよう」「いい天気だ」「ルッチ」「ルッチ」「ルッチ」「こいつはまともに人と喋れねぇんだ」「ルッチ」「ルッチ」「じゃあ」「ルッチ」「金貸してくれよ」「そういや、あそこの酒がうまいんだ」「ルッチ」「ルッチ」「ルッチ」


「ルッチ?」

 聞き馴染んだ女の声で、俺は覚醒する。声のしたほうに視線をやれば、怪訝そうに俺を見下ろすカリファと視線がかち合った。右手にはカップを、左手にはポットを。そんな彼女をみて、ここがどこだかを悟り現実を悟った。
 背を向けた窓の外には水の都と呼ばれる街が広がっているはずだ。その街のいたるところに流れる水は空に浮かぶ月を自らに宿し、月は数を増すのだ。それを美しいと思う自分と、何かと邪魔だと思う自分がいて、些か戸惑った。ぼーっと、そんな雑感に囚われる俺をみて、カリファは何を思ったのか分からない。けれど、窓に映った彼女は笑っていた。

「紅茶でも?」
「あぁ、いる」

 短く単調な要求を伝えると、カリファは満足そうに笑い、持っていたカップをテーブルに置いた。紅茶はコポコポと平和な音を立てながら、カップに注がれた。「どうぞ」と手渡されたそれを無言で受け取る。口をつけようとカップを顔に近づければ、琥珀色の半透明の液体がゆらりゆらりと揺らめいて、映った自分の顔が奇妙に歪む。歪んだ自分の顔はまるで笑っているみたいに見えた。笑顔の自分なんて吐き気がする。そんな自分を飲みこむように紅茶を流しこんだ。それはとても品の無い行為だったが、彼女はそんな俺からもう視線を外していた。俺に背を向けて、自分の分を用意しているようだった。

「疲れてるの?」
「俺が?ふざけるな」
「違ったのなら、いいのよ」

 そうやってカップに口をつけた彼女の眼鏡は湯気で白く曇った。彼女は一旦カップをテーブルに置くと、面倒そうに曇った眼鏡をハンカチで拭った。そんな当たり前の、自然の摂理に基づいたその瞬間を見て、あぁ、これは湯気だったのかと思った。決して口には出さないが、それは煙に見えていたのだ。ふと気付くと、彼女はこちらをじっと見ていた。俺はなんら問題ない、そんな顔でまた紅茶をすする。

「でも、辛そうね」
「冗談も程々にしろ」

 そう言ってきつく睨みつけたのにも関わらず、彼女は「それは失礼」と形式的な謝罪をしてから「でも辛そう」と繰り返した。眼鏡はもうかけていなかった。もともと彼女は目が悪いわけではなかった。

「もう、そろそろ」
「あぁ、やっと終わる」

 あと少しで、この街に住んで五年が経つ。


第一番 前奏曲


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