美しい過去は嘘に似て

 写真があったらよぉ、なんてパウリー副社長がぽつりと呟くから、私は静かにびっくりした。
 副社長になっても一番ドックの職長だったころと変わらぬ大声で他の職人さんたちに指示を出しているこの人が、こんなにそうっと、どこか寂しそうな声が出せるなんて、露ほども思っていなかったから。私は相槌もままならず、ベンチに座って海を眺めるパウリー副社長を間抜けな顔で見つめた。
 副社長は、私に聞こえていても聞こえていなくても問題ないのか、それ以上の言葉を発さない。手には、ベンチにぞんざいに放られていた新聞がある。きっと数日放置されていたのだろう。新聞はぱりぱりに乾いているように見えた。それを捨てるでもなく、広げるでもなく、ただ丸めて手に持って、海を眺めている。
 その新聞の一面は確か、数日前どこかの島で海賊が暴れて、海軍が制圧したといった記事だったはずだ。パウリー副社長が何を考えているのか、業務上の付き合いしかないただの事務員である私にはとても想像がつかない。
 今日は社内行事の一環である市街清掃の日で、多くの社員が軍手とごみ袋を手に社から街へと繰り出していた。社員、特に事務員はなるべく予定を空けておき参加することになっていて、今日も課長に恒例の電話番をお願いして課員みんなで参加した。他の課も概ねそんな感じだ。
 そうして参加を重ねると、自ずと陣地というか、各社員の好みでなんとなくチームや担当エリアが決まっていくもので、私は大抵海が見えるエリアを自分のペースで一人黙々と清掃するのが好きだった。このあたりは同じようなスタンスの社員が集まっていて、各々いい感じに集まってきて、切りのいいところで目配せして、こんなもんですかね、と社に戻る。
 賑やかなのが好きな人たちは街の方に出かけて、街の人たちとおしゃべりしながら励んでいるらしい。それも楽しそうだが、私は海を横目に、潮風を感じながら、時にぼんやり海を眺めて、ごみ拾いするのが好きだ。手が空いている職人さんたちは「賑やか派」らしく、パウリー副社長も多忙だろうに、よく彼らと連れ立って街の方へ出かけていくのを知っていた。
 でも今日は珍しく、副社長がひとりでここにいる。この行事で、このエリアで、副社長と一緒になるのは初めてだ。
 ベンチに座って海を眺めている副社長に近づいたのは、副社長がごみ袋を持っていなかったからだ。手に持った新聞を、拾ったごみを、持て余しているのだと思った。

「入れますか?」

 ごみ袋を広げながら声をかけたら、続いた言葉が「写真があったらよぉ」だった。

 副社長は、業務上は決裁権者だったから求人を出しても構わないかとか、じゃあどんな条件にするかといったことを確認してもらったり、勤報の決裁を取ったりすることはよくある。仕事でならいくらでも話す。
 でも、こういう、仕事でない話はほとんどしたことがなかったなと気づいた。
 昔、副社長とよく一緒にいたカクさんという職人さんは人当たりも良くて、まあまあ話した。カクさんは「お菓子を寄せる人」で、街の人からもらったお菓子を、一人じゃ食べきれんから、とよく課に横流ししてくれた。そんなカクさんは、もう二年も前に辞めてしまったけど。
 あとはルッチさん。ルッチさんは変わった職人さんで、理由はよく知らなかったが肩にハトを乗せて、ハトを介して話す人だった。そのくせ、面倒見はいいのか、なかなか書類を出してくれない副社長を引きずるように連れてきて『このバカが迷惑かけてすまない』と副社長の代わりに謝ってくれたりした。それで顔見知りになって、廊下やドック内で会うと、会釈をするくらいには知り合った。でも、ルッチさんもカクさんと同じく二年前に辞めた。
 そして、パウリー職長は、パウリー副社長になった。
 副社長は、硬派というか、「女性」を強く意識する性質なのか、職長だったころは大して距離が縮まることはなかった。二言三言、話したこともあったかなという程度だ。

「写真、ですか?」とりあえず、今更とも思うが返事をしてみる。
「そうそう、写真があったらよ」

 副社長は、自分が話しはじめたことを思い出したようだったが、かといって、こちらに視線を向けることはなく、からっからに乾いて割れそうな新聞を器用に広げながら言葉を続けた。

「忘れねェもんか?」
「何をですか?」
「そのときを」

 写真があったら。写真なんて、そうおいそれと撮れるものではない。家族での記念写真や、新聞記事、海賊の手配書なんかで使われているくらいだ。でも、もし気軽に撮れるようなものなら、みんな撮りたがるかもしれない。今、この瞬間を目に焼き付けたい、そう思うタイミングはある。そんな写真があったら、思い出すことも、思い出せることも、今より増えるかもしれない。とはいえ。

「どうでしょう。写真で残せるのは一瞬ですし」
「まあ、そうか」
「見ても、思い出せないこともあるんじゃないでしょうか」
「そうだよなァ」

 私のなんの面白味もない答えに、副社長はのんびりと返事をして、拾った新聞へ向けていた視線を海の方へ、もっと言えば海の向こうへとむけた。私もつられて海を見る。ちょうど今の時間帯は太陽が反射してキラキラと眩しく、水平線は捉えにくい。今日は雲ひとつない快晴だ。海賊なら記事になるんだけどな、とベンチから独り言が聞こえたけれど、意味がわからなくて聞こえないふりをする。

「写真、撮りたいですか?」
「あー……。そうだな、船が完成したときとか、いいかもな」
「確かに。そのあとにやる打ち上げも良さそうですね」
「お。いいな、それ」

 それいいな、と副社長は二回言った。
 打ち上げ、と聞いて、そういえば、と思い出す。二年前の夏、パウリー副社長の誕生日を祝ったことがあった。暑気払いのついでにお祝いしたのか、お祝いのついでに暑気払いをしたのかは、もはや定かではないが、パウリー副社長が「本日の主役」というタスキを誇らしげにかけていたことは思い出せる。
 確か、いつもは静かに飲んでいるルッチさん(とハットリ)も、この打ち上げは上機嫌で、酔っぱらった副社長がべろんべろんになっていても、呆れたりせず付き合っていた。副社長が「パウリー! 飲みます!」と、アイスバーグ社長に何度も宣言してグラスを高々と突き上げ、ルッチさんも『それでこそ俺たちのパウリーだ』と適当な合いの手を入れていた。カリファさんも、その日は咎めたりせず、ただ口元に手を当てて笑っていた。そういう宴会だった。そういえば、この日のカクさんは珍しくその輪から外れて、副社長のお友達だという女性と差し向かいでグラスを傾けていた気がする。意外だな、と思って、あと、おやおや? もしかしたら? なんて思ったので、結構覚えている。
 あの日も、確か今日みたいな暑い夏の日だった。夜になっても風が温くて、でも、ひとまず今日一日の仕事が片付いたという解放感と冷えたエールが楽しさ以外の全てを吹き飛ばすような夜だった。
 あの夜の、あの写真は、あったらいいなと思う。
 カクさんもルッチさんも、そういえばカリファさんも、もういないし、あの店も、もうないから。

「副社長のお誕生日会、覚えてます? 二年前くらいですかね」
「あー……べろっべろに酔っぱらったな」
「そうですね」

 覚えていますか、と聞いてみたものの、べろべろに酔っていた副社長は、あの夜をどこまで覚えていて、どこまで思い出せるだろう。私と話したら何か思い出せるだろうか、とも思うが、例えば「ルッチさんが珍しく上機嫌でしたよね」なんて言ってしまって、それを副社長が思い出せなかったら。「忘れている」ということに副社長が気づいたら悲しいかもしれない、と不安がよぎった私は、それ以上は話さなかった。
 広げた新聞をぐしゃりと握りつぶした副社長は、そのままそれを私のごみ袋に突っ込んだ。ぱん、ぱん、と手についた埃を払うと葉巻を咥えて火をつける。青い空に煙が雲みたいに揺蕩う。ふーっと煙を吐き出して副社長がからっとした笑顔で言った。

「あんときの写真は欲しいな」

 副社長がはっきりと「欲しい」と言ったのが意外だった。「あってもいいなあ」とか「撮っても良かったな」ではなく、はっきりと「欲しい」と言うのが。

「どうしてですか?」
「こんときは楽しかったなって、見ればわかるだろ。みんなちゃんと笑ってんな、ってよ」
「楽しかったなあって、思い出すだけじゃだめですかね」
「それじゃあ、足りねえ」

 副社長はきっぱり言い切る。そして「ちゃんと、思い出してえんだ」と悔しそうに続けた。
 何をもって「ちゃんと」なのかはわからない。楽しかった思い出に、確固たる何かが欲しいのだろうか。でも、それなら。

「写真があったらいいなってのもわかりますけど、でも、写真で確かめなくても大丈夫ですよ」
「あァ?」
「聞いてください。私たちに」
「聞く?」
「『あの時は楽しかったよな』って聞いてくださいよ」

 新聞や海しか見ていなかった副社長が、やっと私を見る。

「ああ、そうか。そうだな」

 副社長は観念したように、ふ、と笑みをこぼした。
 この気休めが「もう思い出せない」と泣き出しそうな副社長を少しでも救うといいなと、思う。

『楽しかったよな?』
『ええ、とっても』
『みんな、笑ってたよな?』
『笑ってましたよ』
『ほんとか?』
『ほんとです』



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