『自分で言ってよ!』

ぜんぶおそい

「何を考えている」

 組んだ腕を枕に、奪った海賊船の甲板に寝転びながら、目を閉じて彼女の最後の言葉を反芻していたところ、ルッチの低い声が響いた。思い出していた彼女の声は、その姿と一緒にかき消されてしまう。仕方なく目を開けると、太陽を背にして蔑むようにこちらを見下ろすルッチと目が合った。逆光のせいで表情は読みづらいが、まあ、穏やかな表情でないことだけは確かだ。別に何も、と答えるとすぐに、あいつらのことだったら許さん、とさらに目を細めた。そうでなくても鋭い視線がいっそう鋭くなるので、片手を頭の下から出してきて、見せつけるようにひらひらとゆっくり振る。

「別に、何も」

 ルッチは何か言いたげだったが、意外にもそのまま黙った。もちろん真っ赤な嘘だったが、ばれるはずがないし、ばれたって困らない。どうせルッチも同じだ。ルッチだって、水の都の彼に囚われているに決まっている。ルッチ自身がそうだから「あいつ」ではなく、「あいつら」なんて言うのだ。次に何か言われたら、あの距離で急所を外す男に言われたくないのう、とでも言ってみようか。……少なくとも今、海の上ではやめておこう。船が壊れるに決まっている。
 自分たちのやりとりを聞いていたカリファは、小さなため息をついて船内に戻ってしまった。ルッチも舌打ちをしながらそれに続いて、甲板にはカクだけになる。気を取り直して、今度は空を見る。あいにく、天気は上々。突き抜けるような高さの空だった。この調子なら、我らが故郷、グアンハオにも問題なく着くだろう。セント・ポプラからグアンハオまではそう難しくない航路のはずだ。
 ルッチの療養のため滞在したセント・ポプラは、滞在中ずっと鬱々とした雨が続いていた。それが今日、ようやくの快晴だったのだが、カクの心はそれほど晴れはしなかった。好天にまるで似合わない、喉から血が出るのではと思うほどの必死な、切なる声が、耳にこびりついて離れない。

『連れていくから! 待ってて!』

 待つつもりだった。彼女の叫びに右手を上げて答えたのは、嘘じゃない。嘘じゃなかったのに。
 待てなかった。海賊を倒すためとはいえセント・ポプラの町をだいぶ騒がせてしまった。あの場にとどまっていては海軍と鉢合わせただろう。自分たちは世界政府から追われている身。捕まらないためには、あのタイミングで出航せざるを得なかった。そうやって言い訳したくても、もうきっと二度とできない。今度ばかりは本当にもう。
 思えばそんなことばかりだ。今日の出航はやむを得なかったからだし、病院で弱音を吐いたのはついうっかりだし、あの人ごみの中、わざとすれ違ってみたのは賭けだった。誕生日を教えてみたのはたまたまだし、避難所で抱きしめたのは魔が差したからだし、おもちゃの指輪は気まぐれだ。あれも嘘、これも偽り、それも出鱈目。そんなことをしているうちに、だんだん何が本当なのか自分でもわからなくなってきた。
 彼女の笑顔と泣き顔が、からまって、もつれて、まとわりつく。
 これじゃあルッチを責められない。

「日に当たり過ぎたら良くないわ」

 カリファがどこから見つけてきたのか、甲板のど真ん中に大きくて派手なパラソルを咲かせて、カクの上半身はすっぽり影におさまった。カリファが影の中に腰を下ろしても余裕がある。波の音が少しだけ聞こえにくくなり、代わりにカリファの声がよく聞こえる。

「お願いだから、あんまりルッチを刺激しないでよ」

 カリファがやれやれとでも言いたげに肩を竦めるので、負けじと言い訳する。

「わしは何もしとらんじゃろ。ルッチが勝手にピリピリしとるだけじゃ」
「あなたも十分してるわよ」

 カリファの呆れ顔は心外だったが、ここでむきになるほど子供ではないので黙っていた。カリファを無視してもう一度目を閉じ、彼女とした最後の会話を思い出す。瞼の裏で思い出せたのは別れの言葉と、パウリーへの礼。そこで、はたと気づく。そうか、自分は最後までパウリーのことしか言えなかったのか。今更気づいて歯がゆく思う。せめて彼女にも礼を言えたら。

「あなた、なんで『好きだ』って言わなかったの?」
「はァ!?」

 カリファのとんでもない言葉で思考を邪魔され、飛び上がるように体を起こし、反射できっと睨んだ。だが、カリファは動じない。ゴシップを楽しむような下世話な風情を隠そうともせず、薄ら笑いをはりつけながらこちらを見つめてくる。手入れの行き届いた長い金髪がはらりと肩から落ちて揺れた。

ちゃん、だっけ? パウリーの幼馴染」

 口にするどころか、心の中でさえ呼ぶことを躊躇っていた名前を、カリファがあっけなく声にするので一瞬、返事に詰まる。カリファはそんなカクのことなどお構いなしだ。

「あなたは彼女のこと、好きなんだと思ってた」
「好、きってまあ……別に、嫌いじゃなかったがの」

 好きとてらいなく括られると途端むず痒くなり、歯切れが悪くなるのが自分でもわかった。気恥ずかしくて、つい目を逸らす。ちらりと盗み見ると、カリファはカクの返答が気に食わなかったようで、「へえ」とつまらなさそうに髪をかき上げる。

「一緒にパウリーの誕生日プレゼント選んでもらって、お礼なんてかこつけて指輪まであげちゃって。避難所だって勝手に行ったくせに暗い顔で戻ってくるし。そうかと思えば、セント・ポプラじゃわざと見つかりにいったり、ぐちぐち弱音を聞いてもらったり、ルッチの退院を教えてあげたりしてたのに」
「見てきたかのように言うのう!?」

 たまらず抗議の声だけはあげてみるが、頭が、顔が、頬が、耳が、熱くなっていくのがわかった。行動が筒抜けなのは構わないが、それを逐一言葉にするのは勘弁してほしい。「『好き』なんて言う意味ないじゃろ」と苦し紛れに言うと、くすくすとからかうような笑みを浮かべていたカリファが一転、眉を下げて下唇を噛んだ。何事かと続く言葉を待つと、カリファが申し訳なさそうに口を開く。「好きって言いたかった?」と。

「何が言いたい?」

 カリファの表情の理由も、そう聞く意図も分からず、質問に質問を重ねる。カリファは少しだけ空に視線を彷徨させ、すっと目を伏せると、甲板に色濃くあるパラソルの影をじっと見つめた。

「あなたが恋をしてると思ったら、嬉しかったの」

 カクは意味が分からずそのまま黙り、カリファは続けた。

「あなたが、あの街でちゃんと生き生きしていたのは、安心したのよ」
「生き生き、とは心外じゃの。任務はちゃんとこなしたじゃろ」

 五年の任務を楽しんだかのように言われた気がして、不服そうに声を上げるとカリファは「そういう意味じゃないわ」と首を忙しなく横に振った。

「あなたは優秀だし、才能もある。何より任務にとても忠実だった。それは重々、痛いほどわかっているわ」

 カリファがカクをまっすぐ見て「でも、だからこそ言ってあげればよかった」と額に手を当てる。

「あなたは恋をしても良かったの。たとえ別れが決まっていても、怖がらずに、好きなら好きと言ってよかった」

 言うだけなら、とカリファが沈んだ様子で、ぽとりとつぶやく。大きな湖面に小さな葉が一枚着水して、波紋が音もなくゆっくり広がるかのようなさりげなさだった。言うだけなら、よかった。

「でも、もう遅いわよね。ごめんなさい」

 カクがに「好きだ」と言えなかったのは、自分のせいかもしれないと己を責めているカリファが不思議だった。言ったところで、今より状況が良くなるとは思えない。これがベスト。カクはずっと自分に言い聞かせている。

「仮に『好きだ』なんて言っとったら、任務は失敗したかもしれんぞ」
「あなたがそんなへまするわけないわ」
「随分信頼されてるようじゃが、お生憎様」

 でもそうかあれは。

「そもそも恋なんて知らんよ、わしは」

 恋と呼んでも良かったのか。
 カクはばたりと仰向けに倒れ、顔を両手で覆う。頬がいまだ冷めないのは日に当たったせいだ。恋じゃない、恋じゃない、と口には出さずに頭の中で何度も唱えた。

「じゃから、謝ってもらう必要なんぞないのう。はあ、グアンハオにはまだ着かんのか?」

 だって今さら恋など、自覚したところで。



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