集めた紙屑の海に溺れても
あなたを焼くまで燃ゆる鬼火



 彼はとても厳しい。彼はとても冷たい。彼はとても美しい。彼はとても激しい。彼はとても恐ろしい。彼はとても正しい。

「もううんざり」

 潜入任務の拠点として使っている空き家の一室は、膨大な調査書と資料とに埋もれている。以前集まったときよりさらに増えている、と心底うんざりしたカリファは、それが誰の耳にも届かないことを知ってなお、いや、だからこそ呟いた。船大工二人は残業のはず。酒場の店主は確か団体の予約が入ったとか言っていたっけ。だから当分まだ一人きり。
 下線と付箋ばかりの紙切れたちにいくら目を通してみても、『例のもの』の在り処がわかるどころか、アイスバーグがどれだけ優秀で人望のある船大工か、ということしかわからない。そんなこと、調査書なんてなくとも秘書として側にいるだけですぐにわかることだ。そこかしこに積みあがる紙束を見る気も失せる。
 この調子だと、長官はたとえ確証がなくとも、強硬手段に打って出るかもしれない。思って、胸に小さなとげが刺さる気がした。痛みの正体はわかりきっている。罪悪感だ。こんな気持ち、ルッチにばれでもしたら一笑に付されるか、もしくは。
 不甲斐ない、と両手で顔を覆って目を瞑る。疲れているのかもしれない。網膜の色が透けた赤みがかった闇はカリファの心を少しだけ穏やかにした。アイスバーグが真に潔白なら、CP9である私たちが四人も送り込まれて、五年もの時間を与えられるはずがない。なにかある。まるで子供に言い聞かせるみたいだ。

「遅れてすまない」

 突然耳に届いた低い男の声にカリファは驚くでもなく「大丈夫よ」と答えた。特別なドアを使う彼は、急に目の前に現れても不思議ではない。二人は? との問いに、今日は残業のようだから遅くなると思うわと応じ、付け加える。

「ガレーラの方のね」
「そうか。精が出るな」
「あなたも、今日は団体の予約が入ってるって言ってなかった?」
「ああ、その件は数日前にキャンセルになったんだ。だから店はそのまま閉めてきた」
「それは……お気の毒、かしら?」
「まあ、店が潰れても本業に支障が出るからな。うまくやるさ」

 ブルーノとはここでしか会話らしい会話をしないから、つい話し込んでしまう。彼は、酒場の店主。私は社長秘書。接点はせいぜい、社員の行きつけの店の主人と言う程度。親密感を出さないように気をつけている。

「政府に頼んでいた資料がまた積んであったわ。アイスバーグ個人の資産に関するものよ」
「……目を通してみるか」

 ブルーノは大人だから口には出さないようだが、顔には大きく「面倒くさい」と書いてある。口の端だけで笑ったのだが、目聡いブルーノにはすぐばれる。

「ちゃんと見てるぞ」
「何も」
「すまん、遅くなった」

 「何も言ってないわ」と言い終わる前に、くたびれた顔のカクが入ってきて、そっと胸を撫でおろす。カクはそのままソファにうつ伏せで倒れこみ、やっと聞き取れるくらいの小さな声で「疲れたわい」と口にした。ブルーノは無言でキッチンへ向かい、私は仮眠室と呼んでいる寝室へ向かう。示し合わせたわけではないのに、ブルーノはコーヒーを、私はブランケットを手に同じタイミングで戻ってきて、それぞれをカクへ差し出すタイミングも、見事に合ってしまった。

「至れり尽くせりじゃのう」

 カクがのんびり、だが当然のように、それらを享受する。私たちはつい彼を甘やかしてしまうのだ。ルッチは? と問うと、カクはにやりと笑って、残業の労をねぎらうのだというパウリーに捕まったと教えてくれる。

「それは」
「お気の毒、だな」

 ルッチの肩を組んで酒場に消えていく笑顔のパウリーと眉間に皺を寄せているだろうルッチが簡単に想像できて、つい笑い声が漏れた。最初は控えめだったそれも、だんだんと伝染して終いには三人ともくつくつと笑う羽目になる。夜が更けていく。



「成果はあったか?」
 部屋に入るなりそう言ったルッチはあからさまに機嫌が悪かった。ソファを独占し寝転ぶカクを見て、整った眉をさらに吊り上げる。カクは目を閉じてそんなルッチに気づかない振りをしている。私は座っていた一人用のソファから黙って立ち上がり、ついでに彼用のブランケットを取ってこようとした。

「気遣いは無用だ。とっとと座って報告を」

 それは明らかに私に向けられた言葉だった。ルッチは近くにあった背もたれすらない簡素な椅子に腰を下ろして、額に手を当てる。それは、いらだった彼がよくやる昔からの仕草だった。刺激しないようにそっと口を開く。

「アイスバーグの資産に関する資料を精査したわ」
「それで」

 言うか迷って、結局言ってしまう。

「……資料上は、善良な市民にしかみえない」
「お前の感想は聞いていない」
「でも」

 ブルーノが二人の間に割って入るように、コーヒーをルッチに差し出した。はずだったが、ルッチはカップを受け取り損ねた。ガシャン、と色気のない音を立てて、カップが割れ、コーヒーが床に広がっていく。ルッチは、くそ、と吐き捨てまた額に手をやった。
 寝た方がいい、とブルーノが彼を諭す。ちらりとカクを見やると、まさかとは思ったが、こんな空気の中、寝てしまっている。それにはルッチも気づいたようで大きなため息をついた後、地獄の底から響くような声音で「今日は終いだ」と宣言した。



 先ほどまで私が座っていたソファに、腕を組んで寝息をたてるルッチがいる。眉間には相変わらず皺が寄っており、こんな険しい顔で彼が見る夢はいったいどんなものなのだろうと想像する。きっと、平和へ続く道を歩いているに違いない。
 私たちは闇に生きるもの。仮面を被り、黒衣を纏い、沈黙を言葉とし、悪を食べるもの。闇の中で「正義」という名の青い焔が消えないよう、せっせと薪をくべている。世間が私たちを何と呼ぶのか知らないが、少なくとも。
 私たちは「狂気」じゃない。

超絶技巧練習曲第五番
鬼火

それがわたしたち