黒ずんで泥にまみれて見えずとも
そこにあるのは正義の二文字



 「感情」は往々にして間違いを招く。失敗を、過ちを。ミスを、エラーを。そしてそれは、必ず誰かの不幸を招く。おれたちがしているのはそういう仕事だ。わかりきっていることなのに、何度も何度も確認する羽目になる、くだらないそれ。まるで、物わかりの悪い子供にでもなったようで腹立たしい。
 任務遂行のために犠牲は厭わない。どこにでも行って、どんな存在にでもなろう。親にでも、息子にでも、兄にも弟にも、友達にだって。仲間でもいいし、恋人でもいい。ライバルでも敵でも味方でも。お望みならばなんにだってなってやろう。どんな軽蔑も、どんな賞賛も、喜んで浴びよう。
 だがしかし、これは正義のために払う犠牲。失敗は許されない。もちろん、挫けることも、転び、そのまま地に伏したままでいることも。

 今回の潜入先は、水の都と呼ばれる造船業の盛んな街らしい。任務の内容は、船大工として島一番の造船会社で働き、市長でもあり社長でもあるアイスバーグという男から、ある設計図を奪うこと。それは代々、船大工の間で受け継がれているものだという。それならば、自分たちがその後継者として選ばれるのが、一番面倒が少なくて「平和的」だ。
 カクも同じく船大工として、カリファはアイスバーグの秘書として、ブルーノは島の酒場の主人として、同じ目的のためにその水の都で任務に従事することとなった。与えられた猶予は五年。早く終わるに越したことはないが、その年月の長さが任務の困難さを物語っているように思った。
「ブルーノはもう発ったそうじゃの」
 潜入前、最後の打ち合わせと鍛錬を兼ねて、カクを訓練場に呼んだ。カクは訓練場に入るなり、鑿をくるくると手元で弄んだかと思えば、しゅっと軽い音をさせて、壁に投げた。瞬間、矢か光線のようにまっすぐ壁に刺さったそれは、止まっていたハエを壁に縫い付けた。
「命中じゃ」
「ガキじゃねェんだ。はしゃぐな」
 相変わらずつまらんやつじゃのう、と両手を腰にあてたカクがぼやく。相変わらず、とは聞き捨てならんと思ったものの、カクの軽口は聞き飽きているから咎める気にもならない。
 カクもおれも必要な訓練は受けた。あとは五年の間に、さらに技術を磨いてのし上がり、アイスバーグの信頼を勝ち得て、設計図にもっとも近い存在となればいい。在り処がわかればそれもよし。さっさと奪ってしまってもいいだろう。長くて五年。大した年数ではないが、一般市民から紙束を奪うのがそんなに困難なことかとも思う。諜報員を四人も費やして。
「面倒な任務じゃのう」
 四人で五年、四人で五年じゃぞ? カクは韻を踏むような調子で言った。口には出さなかった内心を見事に見透かされたようで、気に障る。ただでさえおどけたような顔をしているカクの真意はよくわからない。同意を求めているのか、いつものように窘められたいのか。
「そう思うならさっさと済ませればいい」
 吐き捨てるよう言うと、カクは、やっぱりなというような顔で肩を竦めた。そうして「やっぱりつまらんやつじゃ」と呆れたような物言いだ。その日は結局、それ以上は大した言葉も交わさず、手合わせに終始した。

 とうとう、カクが水の都へ赴く日となった。Galleyと描かれた白いキャップを被り、普段よりずっと明るめの服を着こみ、腰に鑿を引っさげたカクは、まあまあさまになっていた。少なくとも「人殺し」には見えない。
「どうじゃ? なかなか決まっておろう?」
 癪だが、にっと笑って白い歯を見せるカクは言うとおり「決まって」いた。ブルーノもカリファも、少しずつ時期をずらしながら、すでに任務を始めている。おれもそろそろだろう。
 おれたちは正義を背負うもの、正義を語るもの、正義を信じ、正義に集い、正義を体現するもの。どんなに汚れていようと掲げる言葉は「正義」の二文字だ。散々払う犠牲は決して無駄にしない。
「じゃあの」
「ああ。せいぜいへまするなよ」
 何年、地を這おうとも、最後には必ず。

超絶技巧練習曲第四番
マゼッパ

おれたちが正義