踏み絵など歯を見せ足蹴にする彼が
ふるう得物は蟷螂の斧



 いつの頃からか、この街の朝の空気にもだいぶ慣れた。自分の店は夜ににぎわう酒場なのだから、こんな時間から起きだす必要もないように思うが、目覚めてしまうものは仕方ない。
 ブルーノは大きく伸び、あくびを噛み殺しながら、店の窓をあけた。流れる風がすでに活気づいた街の空気を運んでくる。職人の街はただでさえ朝が早い。もう街にはエンジンがかかっている。
 そのせいか、店を開ける時間もどんどん早くなってしまった。いっそ酒場ではなく大衆レストラン、くらいにして店を閉める時間を早めてしまおうか。このまま睡眠時間が削られていき、かつ、任務が長引けば体が持たない。だが、そんな泣き言は聞きいれてもらえる気がしなかった。エスプレッソとビスケットを手早くを口に運びながら、なにかいい案がないかと考えはする。しかし、仕事は待ってくれない。咀嚼を終える前に席を立って、カウンターへ足を運んだ。今日はいつもより起きるのが遅かったから、さっさと支度をせねば。
 酒瓶は毎日磨くようにしている。埃を被った瓶で注ぐ酒なんて、と酒場の店主がすっかり板についてしまったが、それを悪くないと思う自分もいる。一本ずつ手に取って、埃をぬぐっていく作業はなかなか性に合っていた。誰にも言えやしない。

「よう! ブルーノ!」

 酒瓶を磨く、という密かな気に入りの時間は、聞き覚えのある声に邪魔をされた。店の扉には「クローズ」と札をかけておいたはずだが、鍵はかけていない。それは以前、いま目の前にいるこの男がドアを叩いておれを叩き起こし、ついでに叩いていたドアまで壊してくれたからだ。

「ああ、フランキー。おはよう」

 忌々しさが露ほども顔に出ぬよう、ゆったりとした口調で応えると、フランキーは、いい朝だな! とこの島の裏町を仕切る男とは思えぬ快活さで返した。この男がなにをもって「いい朝」と評したのかはわからない。今朝は天気も上々で、からりとした青空だったからかもしれないし、もしかしたら真新しいサングラスのためかもしれない。客商売で身に着けた目聡さで、後者だろうと見当をつけて、いいサングラスじゃないか、と声をかけた。

「さっすが、ブルーノ! よくぞ気づいた!」

 ブルーノの言葉をそのまま受け取り、嬉しそうに笑うフランキーは子供のようだった。いや、普段から子供のような奴だとは思っていたが、今日はそれに拍車がかかっている。いつもの「悪ガキ」ではない。今日の彼は無邪気なただの子供だった。

「嬉しそうだね。そのサングラスと関係が?」
「大有りだ、大有り!」

 フランキーはそう言ってサングラスを外し、恭しくカウンターに置いた。細身の、センスあるデザインだ。こういったものには興味も知識も乏しかったが、フランキーによく似合っていることだけはわかる。

「今日は俺の誕生日らしいぜ」
「そりゃめでたいが、“らしい”?」

 フランキーに奢ってやるコーラを準備しながら彼の返事を待った。彼はもったいぶるように、知りたいか? と聞いておきながら、ブルーノが答える前に、教えてやろう、と言った。相変わらず子供っぽい言い草だが、口にはしない。ぜひに、と応じながらコーラを差し出した。フランキーは、悪ぃな、とジョッキを受け取り豪快に半分ほど煽ったところで、おれァ、誕生日なんて知らねえんだと切り出す。

「そりゃ、どういうことだ?」

 言いながら考える。自然か、不自然か。いつもこの自問自答の繰り返しだ。だが、この男に関する情報は少なすぎる。このチャンスを逃すのはあまりにも惜しい。話を続けさせ、少しでも多くのの情報を引き出したい。「素性が知れない」ということは、表立つことのなかった何かに関わっている可能性が高いのだ。知っていて損はない。
 それなのにフランキーは、その辺はめんどくせーんで省略するがよ、と多くを語ろうとはしなかった。カウンターの下で拳を握る。愛想よく相槌を打ってはいるが、内心舌打ちでもしたい気分だった。この男はこうやっていつも誤魔化して肝心なところは語らない。

「とにかく俺ァ、誕生日なんて知らねえんだ。それなのに、今朝起きてみたらどうだ。ハッピーバースデー、アニキ!とくらぁ。さすがのおれもびっくりよ」
「キウイちゃんとモズちゃんがかい?」
「ああ、そうだ。野郎どもにはそんなかわいらしい気遣いなんてねぇからな」

 フランキーは本当に混じりけなく嬉しそうだった。普段の彼からは想像しがたい表情で、窓から垣間見える活気づいた朝の街を眺めている。その表情はどこか追想しているような顔に見えた。思い起こしているのは今朝か、それとももっと昔の、別の朝か。そうやって少しだけ沈黙が流れた。窓から流れ込んでくる街の賑わいはどこか遠くに聞こえる。

「それで?」

 なかなか話し出さないフランキーにそっと次を促す。フランキーはほんのわずか、はっとしたような表情を見せて、すぐに話し始めた。

「おう。それでおれが言うわけだ。『おれには誕生日なんかねぇよ。誰と勘違いしてんだ?』ってな」
「へへへ……」
「そしたらあいつら、なんて言ったと思う?」

『そんなこと百も承知だわいな』
『けどそんなの寂しすぎるわいな』
『そこで! アニキは覚えてないかもしれないけど、今日は私たちとアニキが初めて出会った日!』
『だから、今日が誕生日ってことでお祝いさせて欲しいんだわいな!』
『プレゼントは、アニキに似合うサングラス!』
『来年も、再来年も! これからもずっとお祝いさせて欲しいんだわいな』

 話し終えたフランキーはジョッキに残ったコーラを一気に飲み干した。カウンターに勢いよく置かれたジョッキが、カタカタッ、とサングラスを揺らす。

「ずっと、か。相変わらず、仲睦まじいね」

 まだ磨いていない酒瓶を手に取って、埃を拭う作業を再開する。フランキーは、飲み終わっても席を立たなかった。それどころか、カウンターに肘をつき、目を閉じて手を顔の前で組んでいる。それはなぜか、彼には到底似つかわしくない祈りの所作に思えた。
 彼はいつまでも何かに祈っていた。

超絶技巧練習曲第三番
風景

薄氷の日々