晴れた日に笑う理由はわからない
わからないけどおれはさみしい



 その日は朝からひどい頭痛に悩まされていた。ずきずきと脳を絞られるような痛みで目が覚め、思わず顔をしかめるほどのそれは、カクをそのままベッドに縫い付けた。許されるならこのまま寝ていたい。けれど、壁にかけていた日付だけのシンプルなカレンダーについている赤丸が、いま請け負っている巨大なガレオン船の納期をこれみよがしに主張していた。
 タオルケットの隙間から薄目で窓を見やる。カーテンのない窓が切り取る空は霞んだ目でもわかる、恨めしいほどの青だった。光が目に刺さり、一層痛みが増していく。タオルケットを被り直したカクは、その膜の中で大きなため息をついた。そして、もう一度ため息をつくと、こめかみを手のひらで抑えるようにしながら、ひとまず水を飲むためだけにベッドから体を起こした。まずは水だ、と自分に言い聞かせる。

 結局、頭痛は痛み止めを飲んでもおさまらなかったが、仕方なく出勤したカクはとにかく笑顔でいるように努めた。それがこの職場、この街での自分の役割だと思っていたし、何よりカクが笑っていないときっと周囲は「大丈夫か?」なんて言葉をかけてくる。そんなのは正直好まない。「大丈夫じゃ」なんて取り繕うのも面倒だし、心配されたところでこの頭痛はおさまるのか? と、かえってイラつくだろう。余裕がないからこそ、余計なやりとりなどせず、さっさと仕事を終えてしまいたかった。
 常に頭にまとわりついてくるような痛みから逃れようと、目の前の仕事に集中する。自分はいつも通り笑えているか、声音に、表情に、痛みからくる苛立ちが現れてはいやしないか。常に意識して職人たちに指示を出していくと、誰もがカクの指示に小気味よい返事を返してくる。よかった、この痛みは誰にも気づかれない。

「カク」
「……アイスバーグ、さん?」

 造りかけの船の甲板にいたカクは声をかけてきたアイスバーグを見下ろす形になった。多忙な彼は、彼自身が望むほどには現場に顔を出せない。だが、今回の仕事は天下のガレーラカンパニーであっても、なかなかに手ごたえのある船だった。社長として、そしてなにより、船大工として、少しでも自身の目で確かめたい何かがあるのかもしれない。

「ちょっと降りてこられるか?」
「ああ、いますぐ」

 話題になるとしたら、まずは進捗か。カクは痛む頭でそれぞれの進み具合を今一度思い起こした。実は少し予定より作業が遅れている。別に誰のせいでもない。天候や、それに伴う資材の調達が思うようにならなかっただけだ。だが、アイスバーグはどう評価するだろう。彼は飄々としていて、掴みどころのない男だった。気に入らない仕事はドタキャンも辞さないが、当たり前にプロ意識も持ち合わせている。そうでなければ、社長と市長と、駅の管理まで兼任し、それに加えて時には図面も引くなんて真似、出来るはずがない。
 パウリー相手なら簡単なのに、とふと思った。きっとあの男なら「納期までに完成させりゃあいいだけだろ」と事も無げに言ってのけるだろう。それに対してルッチが『なんのための工程表だ』と眉間に皺を寄せることも容易に想像がつく。思わず頬が緩んだのと同時に、ずきと脳が握られたような痛みが走った。振り払うように甲板を蹴って空に浮かぶ。着地の衝撃が頭に響かないよう、軽い羽のようにふわりと着地した。

「忙しいだろうになんじゃ? 珍しいの」
「ああ、ちょっとな」

 アイスバーグはそれだけ言うと、カクの顔をまっすぐに見据えて、ふむ、と腕組みした。見定めるような間にカクがたじろぐと、アイスバーグは満足した様子で、白い紙きれを開いてカクに見せる。そこには「早退届」とう文字がでかでかと踊っていた。もちろん総務が作っている様式ではなく、手書きで、乱暴な字で、しかも走り書きだった。この字には見覚えがある。同じ職長で、さっきも思い浮かべたあの男。顔をしかめたのは痛みのせいではない。なんじゃこれは、と笑顔も忘れて問うた。

「なにって、書いてあるだろう」
「汚すぎて読めんわい」
「まあ、よく読んでみろ」

 しぶしぶ受け取って、目を通す。早退届、早退理由、……ひどい頭痛または腹痛または体調不良。申請者は。

「申請者はパウリーじゃけど」
「そうだな」
「でもそのパウリーはさっきそのへんでぴんぴんしとったじゃろ」
「間違えたんだ、あいつは」

 お前の早退届を代筆してやったらしい。
 言葉少なに説明するアイスバーグはこの状況を確実に面白がっていて、カクはそれが不愉快だった。頭の痛みが増していく。

「さっきパウリーがそいつを持ってきてな。聞けばお前が辛そうだ、ときた」

『カクのやつ、朝から機嫌悪いっつーか、なんか具合悪そうなんですよね。でもあいつそういうの全然言わないじゃないですか。知ってます? あいつの部屋にあるカレンダー、納期のことしか書いてないんですよ! そういうやつなんです。だからここはひとつ、俺の勘を信じて、あいつの早退届にサインしてくれませんかね?』

「っつーわけで、承認した早退届がそれだ」
「とんだ社長じゃな。総務が泣くぞ。生憎、あいつの勘違いじゃ」
「パウリーを信じねえわけじゃねぇが、おれも一応社長なんでな。だからこうして会いに来たんだ」

 アイスバーグは、もう一度カクを真正面からまじまじと見つめ、カクが目を逸らす前に、ふ、と息を漏らした。そして『診断』を下す。

「パウリーの勘は正しかったな。今日はもう帰って休め」
「な、」
「これは社長命令だ。早く良くなるといいな」

 アイスバーグはカクの反論なぞ聞く気もないようで、さっと踵を返し、そのまま別の仕事に戻っていく。事の次第を把握した職人たちはあっという間にカクを両脇から抱えると、引きずるようにしてドックから放り出してしまった。所用でその場を外していたパウリーが戻ってきて、引きずられていくカクをしたり顔で見送る。すれ違いざまに見せたカクの睨み顔など、まるで堪えていない様子だ。
 仕方なく帰路についたカクは俯きながらぐっと唇を噛む。アイスバーグにならまだしも、まさかパウリーにすら気づかれるとは。訓練が足りない、と己を責める。完璧だと思った演技が所詮こんなものかと、恥ずかしいほどだ。怒りのままに拳を握りしめると、うっかり受け取ってそのままだった忌々しい早退届が、くしゃりとあっけなく潰れていく。どうせこのままでは受理されない。そのまま捨ててしまってよかったのに、カクは皺を伸ばして、もう一度それに目を滑らせた。
 パウリーの粗野で豪快な字と、アイスバーグの流れるようなサイン。早退届、早退理由、……ひどい頭痛または腹痛または体調不良。先ほど確認したときは不愉快なだけだったのに、今はあまりにくだらなくて、心なしか口許が緩む気がした。はっとして手で覆った時にはもう遅い。もう頭痛は消えていた。かわりに痛むのは胸。
 新しい痛みが、まるで何かを戒めるように増していく。顔が歪み、目尻には少しだけ涙が滲んだ。いますぐ雨が降ればいいのに。思って、天を仰ぐ。

超絶技巧練習曲第二番
Molto vivace

降水確率ゼロパーセント