わかってる
五年の間は仲間でも
五年経ったらただの他人だ



 俺の名を呼ぶ耳障りな声が頭から離れない。お願いだからこれ以上その口を開いてくれるなと叫びたい。頼むからもう。

「ルッチ」「ルッチ」「頼むよ」「ルッチ」「さすがだな」「ルッチ」「ルッチ」「相変わらずしけたツラだな」「ルッチ」「ルッチ」「ルッチ」「たまにはなんとか言えよ」「ルッチ」「ルッチ」
「ルッチ」「なァ、金貸してくれよ」「ルッチ」「ルッチ」「飲みに行こうぜ」「ルッチ「ルッチ」「ルッチ」
 殺してしまいそうになるだろ。

「ルッチ?」
 馴染んだ女の声は頭の上からふってきた。瞼を開けながらそちらを見やれば、怪訝そうにおれを見下ろす彼女と視線がかち合った。右手にはカップを、左手にはポットを。窓から差し込む月明りに照らされたカリファは青白く、生気が感じられないマネキンのようだ。
 後ろにある窓の外には水の都と呼ばれる街が広がっている。街中にまるで血管のごとく走る水路は、それぞれが空に浮かぶ月を自らに宿すものだから、月は数を増していく。そのせいか、この町の夜は幾分明るかった。それを美しいと思う自分と、何かと邪魔だと思う自分とがいて、実は些か戸惑っている。ぼうっと、そんな雑感に囚われるおれが面白いのか珍しいのか、彼女はふふ、と形のいい唇を少しだけ動かして笑った。
「紅茶でも?」
「紅茶か……」
「あいにくコーヒーは切らしているの。わがまま言わないで」
 カリファは持っていたカップをテーブルに置き、いるとも言っていない紅茶を勝手に注ぎはじめる。コポコポと平和な音を立てながらカップを満たしていく紅茶を断る時間はなかった。
 どうぞ、と手渡されたそれを無言で受け取る。口をつけようとカップに顔を近づければ、紅茶はゆらりゆらりと揺らめいて、映った自分の顔が奇妙に歪んだ。その顔はまるで笑っているみたいだ。己の笑顔など吐き気がして、流し込むように一気に飲む。その品のない行為は、カリファが自分の紅茶を用意していたおかげで見咎められずに済んだ。
「疲れてる?」
「おれが?」
「違うならいいの」
 言いながらカップを口に運んだ彼女の眼鏡が湯気で白く曇る。カリファは、肩を竦めて一旦カップをテーブルに置き、面倒そうに曇った眼鏡をハンカチで拭った。そしてそのまま手を止めず、こちらを見ようともせず、でも辛そうね、と呟いた。
「冗談も程々にしろ」
 きつく睨みつけたが、彼女は一向にこちらを見ようとしなかったので意味がなかった。それは失礼、と心のこもらない謝罪をしてから、でも辛そう、と繰り返した。そしてやっと紅茶に口をつける。眼鏡はもうかけていなかった。
「もう、そろそろ」
「ああ」
 やっと終わる。耳障りな声も止むだろう。
 あと少しで、この街に住んで五年が経つ。

超絶技巧練習曲第一番
前奏曲

知っているとも