ハ調のアッチェルランド

 ドアは音も立てずに開いた。部屋の真ん中で簡素な椅子に腰掛けてたのは穏やかな闇だった。闇の中から、白い肌が見える。手首には金属が絡み付いていて、ガチャガチャと不快な音を立てそうだった。彼女に似合うのは静寂なのに、と腹が立った。そんなことを頭の片隅で考えているうちに、彼女はゆっくりとこちらを見上げた。

「ピノキオさんね、何の用?」
「…」
「彼らを1人でも死なせたら、私は舌を噛んで死ぬわ」

 やっぱり聞こえていたのか。
 ブルーノから聞いた話では、彼女は迷うことなくこの話に乗ったようだった。それが不思議でならなかったのだが、今の彼女を見ればそれも納得が出来た。
 そうやってあなたは、いつも独りなのだろうか。考えて悲しくなる。無理やり笑顔を作った自分を彼女はどう思っただろう。
 ゆっくりと近づいて、手錠をかけられた重い手を取った。

「走れるか?」

 驚いた彼女の闇が揺らいだ。





「…どういうこと?」
「時間はない、立つんじゃ」

 言いながら忌々しい手枷をを外す。軽くなった彼女の手はとても綺麗だった。少しだけ、赤くなってしまったのが不愉快だ。彼女もそれを気にしてか、やさしくさすっていたので思わず「痛むのか?」と聞いてしまう。彼女は黙ったまま首を横に振ったので少しだけ安心した。
 綺麗な手だ。

「お前さんを逃がしてやろう」
「何を言ってるの…?」
「ぐずぐずしている暇は無い、こっちじゃ」
「ちょっと待って、わけがわからないわ!」

 彼女はきっと睨んだ。無理もない、突飛過ぎる。あまりにも古臭くて、もうどんな悲劇作家だろうとこんな陳腐なストーリーは書かないだろう。政府直属の暗躍機関に属す人間が、政府が20年間追いつづけた犯罪者を逃がそうだなんて。
 この女は挫けない、揺らがない、負けない。けれど自分は、強気でいないと挫けてしまいそうだった。あなたと呼んだら、倒れてしまいそうだった。それなのに

「あなたはここで枯れるべきではない」

 小さな声で呟いたこれが、彼女に聞こえてなければいいと願った。





 留まろうとする彼女の手を取って強引に引いた。彼女は何度も「離しなさい!」と叫んだが、離してしまっては彼女は立ち止まってしまいそうだったから絶対に離さなかった。「独りでも走れるわ!」と叫ぶその声も無視した。
 はやく、はやく、もっとはやく!
 すれ違う同胞達を地に這わせ、それでも速度は落とさずに、風を切って走る。少し温かく感じるこの風に、きっと仲間の血も混じっている。けれどそんなことはどうでもよかった。

「ねえ、ピノキオさん!」
「なんじゃ!?」

 轟音は彼女の声を掻き消そうと必死だ。ええい、うるさい!と声を張り上げそうになった。彼女は息も切れ切れに、でもそれでも、言葉をつなぐ。

「どうして私を助けてくれる気になったのかしら!」
「……」
「この場合」

 少しの間の後、「沈黙は、答えにはならないわ!」と続いた。沈黙はワシの十八番なんじゃがのう、と考えながら、ここは正直に言おうと思った。何故って、これが最後だからだ。今更嘘をついて何になろう。嘘はもう、つき飽きた。

「お前さんの手には、手錠は似合わんと思ったんじゃ」

 あなたの手に似合うのは――――本と紅茶かのう。





 少し時間を食ったが、なんとかここまで辿りついた。このホールまでくれば、あとは彼女だけでも逃げていける。帰っていける。

「ここでお別れじゃ」

 寂しいけれど、本当はそんな風に続くことをあなたはきっと知らない。

「そのようね」
「ここをまっすぐ走れ。振りかえるな。ここから出たら、後はロロノアがうまくやっているはずだ」
「まあ、剣士さんがお仲間とは」

 笑った彼女の手を引いた。彼女は少し驚いて、でも拒むことはなく、自分に抱きすくめられてくれた。黒と黒が同化して、一段と濃い闇が生まれる。

「それでもわたしは行けないわ」
「なぜ…!」

 そんなのあんまりだ。
 彼女はくすくすと笑った。彼女の表情は自分の視界には入らない。自分と彼女の距離は限りなくゼロに近かったからだ。このままで彼女を見るには、まず自分の耳が見えるようにならなければ。
 でも、彼女は寂しそうに笑っているに違いない。もしかたら、こんな自分を見て笑っているのかも。
 彼女の背中はとても小さくて、離してしまいたくはなかった。このまま一緒に――――ああもう、こんな馬鹿なことを自分が考えてしまう前に、どうか

「頼むから、頼むから行ってくれ…!」

足音が、聞こえた。





「時間が、ない」

 彼女が瞳に驚きの色を浮かべたと同時に、彼女を突き飛ばした。彼女は転ばなかった。良かった。
 カツン、カツン、と威圧的な音が迫ってくる。追っ手だ。しかもこの足音は――――ああ、まったく…なんて運の悪い。本当に陳腐な悲劇だ。迫る足音はきっと彼女が去るまでのカウントダウンに違いない。その証拠に、足音はだんだんと大きく響き、すぐそこまで迫っている。

「奴が来る、はやく…」
「無理よ!そんな…、だって、あなたは――」

さようなら

「走れ!!」





 声と同時に、彼が姿をあらわした。普段は黒を身に纏う彼も、今は赤を少々。手傷かそれとも怒りの炎か。彼女も時を同じくして駆け出した。軽い足音が小さくなっていく。

「下らん真似を」
「随分と派手にやられたようじゃのう」

眉間の皺がひとつ増えた。 にもかかわらず「挑発には乗らん」なぞとぬかしおる。

「追うか?」
「愚問」
「ほう、裏切り者を捨て置いて追うと来たか」
「……何が言いたい」

「要するにお前さんは、ワシを相手にしておったらニコ・ロビンを逃すと、そう言っておるのじゃろう?つまり、ワシ倒すのには時間がかかると?しかも、ニコ・ロビンが逃げてしまうほど」

「………お前は本当に性悪だ」
「お褒めに預かり光栄じゃ」

かかった!



はやく、はやく、もっとはやく!
我らの手が届かぬところまで!我らの闇が届かぬところまで!





手には、本と温かい紅茶を


ハ調のアッチェルランド


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