第九番 回想

あと、365回





「カクー!」

 帰路につこうとしていたそのとき、この4年で聞き馴染んでしまった声に名前を呼ばれた。今日は疲れていたのに、と嫌々ながらも振り返ればやはり知った顔だった。だからもちろん次に続く言葉もやっぱり想像できた。大きく手を振りながら、こちらが恥ずかしくなるくらいの大声で「飲みに行こう!」ときっとそう叫ぶのだ。そんな風に予想したところで、やっぱり思ったとおり

「飲みに行こう!」

 と聞こえてきた。隣ではルッチが大変不服そうな顔をしてこちらを睨んでいた。断るつもりか貴様、まさか俺に面倒を押し付けて自分だけ一人助かろうとはしまい…なんて無言のプレッシャー。そんな彼に苦笑しながら「わかった、行こう」と答える自分を少し呪わしく思う。あぁ、疲れていたのに。読みたい本があったのに。さっさとシャワーを浴びて寝てしまうのも良かった。アルコールよりもカフェインが良かった。洗濯物もたまっている。そんなことをぐるぐると考えながら、そして本当に名残惜しく思いながら、家と反対方向につま先を向けた。


「ところで金はあるのか?」

 飲む店は相談などしなくとも決まっている。3人の足は誰ともなくブルーノの店に向かっていた。夕陽は少し傾き、そろそろ昼とは少し違った、夜の賑わいが顔をだす頃だ。月の光とともに、星の数とともに、増していくだろうその雰囲気。どこか浮き足立っているような、それでいて息をひそめているような、微妙な、不思議な空気。でも今この街を支配しているのは今漂うのは、明るくはつらつとした、少しだけ憂いを帯びているような空気と、街をオレンジ色に染め上げる太陽だけだ。

「心配すんな!今日は勝ったんだ!」
「また、賭け事か」
『懲りない奴だな、ポッポー』
「ったくうるせーな!勝ったんだからいいだろうが」

 そうやって肩に回される腕の重さがとても鬱陶しく、とても温かく、とても無駄に、とても嬉しく感じた。いつかはこの腕も自分の肩から滑り落ちるのだ。赤を纏って滑り落ちるのだ。日の光をそのままトレースしたような髪の色が目に眩しくて思わず目を背ける。下を見れば細く長い影が自分の足元から伸び、自分たちの動きを綺麗に真似する。太陽は明るすぎてまるで優しくないと思った。短調なリズムで昇り惜しげも無く沈んでいき、そのついでだと言わんばかりに容赦なく自分を痛めつけて影の色を濃くさせるのだ。濃くして濃くして、真っ黒にして。伸びて大分先にある影の顔、表情は笑っているように見えた。何を笑っているのか、大方見当のつく自分に嫌気がさす。こんな他愛ないやり取りがとても楽しく思える自分を見透かされているみたいで、シルクハットの彼のほうを見る事なんて到底出来なかった。

「ええい!やめろ暑苦しい!」
『同感だ、さっさとこの腕を下ろせ』
「なんだなんだ、いいだろうが!今日は誰が奢ってやると思ってるんだ?」

何を考えているんだと聞かれて別に何もと答えた。 知っているくせにそんなことを聞くんだ。 なんて嫌味な男だろう。 自分がそんな風に思っていることもばれてしまったかもしれない。 それでも別にいいと思った。





あと、365回





365回目の太陽があっけなく沈む。





366回目の太陽はここでは見ない。


第九番 回想


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