なんて幸せな悲劇

「あんたって、本当に馬鹿」

 私がそう言うと、さっきまで目の前で息を荒げていた初老の紳士は、息を整え、ふん、と怒って顔をそむけた。装いと風格に全くそぐわない品のない仕草に、私はため息をつく。
 窓の外は騒がしく、サイレント怒号がわんわんと響いてとてもうるさかった。真剣に取り組んでいるであろう人たちにこういってはなんだが、こんなに騒いでいたら、犯人はきっとすぐ逃げおおせてしまうだろうなと思ってしまう。あっちだ! 追え! という大声が遠くなっていく。

「ははは、こんなにうるさくては『俺たちはここにいるぞ』と言っているようなものだ」

 彼は私が言わずにそっと心に秘めた感想と同じことを、面白そうに低く呟いた。サイレンの音はこの家の前をウーウーと通り過ぎて行く。カーテンの隙間からそっと外を覗くと、赤色灯があちらこちらで瞬いていたがこの家の前に集結する気配はない。部屋の明かりが、そして中の人影が、不用意に漏れないようカーテンをぴっと閉めた。

「……、はあ」

 私が彼をじっと見つめてからあからさまなため息をつくと、彼は、ため息はやめてくれ給え、といかにもな口調で不満を呈した。

「なんで」
「ため息は人を傷つけるだろう?」

 思っていた以上にまともな指摘だったので、私はうっと言葉に詰まって苦し紛れに、あんたこそその話し方やめてよ、と謝罪には程遠いことを口にしてしまう。

「ついでに、その変装も」

 今日の彼は初老の紳士を装っていた。老いてもなお、青春を謳歌するような活力に満ちていて、瞳に力があり、生き生きとしている。白髪交じりの黒髪はそれでもハリがあって、纏っていた仕立ての良いスーツは長年着ているおかげでしっくりきている雰囲気があった。眼鏡もお洒落で小粋な感じだ。だけどこれは、よくできたまやかし。
 彼はやれやれとでも言いたげに小さく肩を竦めると、大人しくいつものちょっと風変わりな服装に戻った。白いコートに、チェックのスラックス。切り揃えたボブカットのかつらに、目元を覆うアイマスク。慣れた手つきで首元にスカーフを巻いて、ものの五秒。どういう仕組みか見当もつかないが、さっきまでいた初老の紳士はいなくなり、七色いんこが目の前に現れる。

「はあ、まったく……。だからおたくはだめなんだ」
「ため息!」
「嘆いただけだ」
「嘆きたいのはこっちです。仕事に失敗した挙句、こんな夜中にレディの部屋のドアを叩く泥棒男と知り合ってしまったこの悲劇」
「まったく、劇的だねえ」
「シェイクスピアもびっくりするよ」
「きっと彼が生きていたらこれを戯曲にしたろうね」
「絶対、売れない」
「そのとおり」

 彼は良く出来ましたと言わんばかりに大仰に手を叩いて私を賞賛した。いちいち演技がかったその態度が気に食わなくて、私は思いっきり顔を顰めてみるのだが、彼は私が嫌がれば嫌がるほど楽しそうにする節があった。案の定、とっても嬉しそうに目を細める彼はピエロのようだ。

「はあ」
「おたくは本当に学習能力に乏しいねえ。ため息はだめだってさっきも言っただろうに」
「うるさいうるさい!」
「かりかりしなさんな。綺麗な顔が台無しだ」
「……」
「なんだよ」

 またついてしまいそうになったため息を寸でのところで飲み込んだ。そして下を向く。これだから、これだから役者は大嫌いだ。思ってもいないことも、さも心の底から思っていましたよ、なんて顔で言ってのけるんだもん。それを演技だなんて呼ぶんだからずるい。嘘と何が違うんだろう。
 急に黙った私に彼は何を思ったのか、さっきよりずっとずっと楽しそうに唇を歪めた。

「ははーん。俺に綺麗な顔って言われて、言葉を失っちゃうくらい嬉しかったんだ。真っ赤になっちゃって、かわいいったら」

 誰か! こいつの口を塞いで!
 屈辱に拳を震わせたところで私の叫びはもちろん誰にも届かない。いや、きっと目の前の彼には、声に出さずとも届いているのだろう。その証拠に、アイマスクの奥の瞳は実に愉快そうにきらめいている。
 誰か!




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