やがて君はすぐに
春が少し落ち着いたこの時期は新しいお客さんが多くなる。新生活を始めた人たちの気持ちと生活が少し落ち着いて、そろそろ髪でも切ろうかと思い始める頃だから。どんな新天地に来ようと、髪は否応なしに伸びる。爪と違って自分の髪を自分で切って整えられる人は少ないから、私でもなんとか食い逸れることなくこの水の都で生きている。
この島はグランドラインにある島には珍しく、他の島との行き来が比較的容易だ。それは我ら島民が全世界に誇る「海列車」のおかげ。「カーニバルの町」サン・ファルド、「春の女王の町」セント・ポプラ、「美食の町」プッチ、そして「司法の島」エニエス・ロビーには海列車で行き来することが出来る。だから、これも珍しくない。
「予約しとらんのじゃけど」
店のドアを開け身体を半分店の中に入れながら言ったその人は、新規のお客さんで、肩より長いオレンジ色の巻き毛をなびかせながらこちらの返事を待った。「大丈夫です。どうぞ」と店内に促すと、彼は「おお、良かった。助かったわい」と言いながら頭がぶつからないように屈んで、店のドアをくぐった。
その人、と思ったけれど訂正する。すらっと伸びた手足や肩の広さと逞しさ、軽やかな足取りと、何より初めての店でも物怖じしない佇まいから、働き始めた若い男性かと思ったけれど店内で見上げるようにして対峙した「その子」の顔つきには、子供らしいあどけなさが残っていた。
「こちらにどうぞ」
「よろしくどうぞ」
大人びた口調も、彼の年齢を誤認させる一つの要因かもしれない。彼は、初対面で、明らかに大人である私に対して、敬語は使わなかった。でも、生意気、とも違う。彼の言葉からは丁寧さとこちらへの敬意を十分に感じられたから不思議だった。
椅子に腰を下ろした彼の首にタオルを巻いて肩からケープをかける。鏡越しに「ご希望は?」と問うと「短くしたくて」ときっぱりとした声音で返ってきた。どれくらい短くしたいのか、重ねて質問すると「ばっさり」と一言。これ以外ない、という意志を感じる希望だった。綺麗に手入れをされてきたことが想像できる髪を手で梳くようにしながら、念のため最後の確認をする。
「本当にいいのですか? 何か理由があって伸ばしていたのでは?」
「勘が良いのう。なんでそんなことわかるんじゃ?」
「おや、当たりましたか。なんとなく、ですけど。でも、毛先まで手入れもされてるし、量も調節されていますよね? ただ伸ばしていただけ、って感じには思えませんで」
プロはさすがじゃ、と目を丸くしながら何のてらいもなく真っ向から賞賛され、いい大人のくせにうっかり照れてしまう。でも、こんなにまっすぐなのは久しぶりだ。深い森の中、差し込む太陽の光に向かってまっすぐに伸びていく若木を思わせる子だなと感動する。
指通りのいい髪の感触を確かめるようにしていると、彼が髪を切る理由をぽつぽつと話し始めた。
「まあ、その……。目指してた大人がこんな髪での。じゃからまあ、真似して伸ばしとったんじゃけど」
少し言いにくそうなのは照れているからだとわかったので、ふんふん、と詮索はせずに淡々と聞くように努める。
「もう、いいんですか?」
「この巻き毛が厄介での! 扱いが大変なんじゃ! 思ってたのとは全然違うし」
「へえ? その人はどんな感じだったんです?」
「昔は肩くらいまでの長さでまっすぐじゃったのう。伸ばしたら癖でも出たのか、今は緩くふわふわしとるけど」
「お客様も……あ、お名前を聞いても?」
「カクじゃ」
「カクさんも十分お似合いですけど、こういうのは自分で納得出来ないとだめですもんね。それに、もう『絶対切る』って決めてきているでしょう?」
お客様もといカクさんはまたしても「さすがプロじゃのう」と先ほどと全く同じ調子で感心してくれた。私はうっかりうぬぼれないよう、鋏を握りしめ、気を引き締める。
「じゃあ、切りますね。後ろとサイドは短めにして、トップは癖を生かして、束感が出るようにサイドよりは少し長さを残す感じでいいですか?」
「よろしく」
カクさんの短い返事を合図にして、ジャキン、と勢いよく鋏をいれていくと、カクさんの豊かなオレンジ色の巻き毛は呆気なく床に落ちていく。確かに髪質は柔らかくて、意外と細く、扱いは大変かもしれない。でも、とても綺麗な髪色で、せっかくここまで伸ばしていたのに惜しいなとも思った。
「髪を切りたくなったのはもう一つ理由があっての」
カクさんは私がちょっとだけ残念に思っているのに気がついたのか、髪を切りに来た二つ目の理由を教えてくれる。
「あら。二つ目。それは当てられませんでした」
「ワハハ。実はの、もう少ししたら新しい仕事に就くんじゃけど」
「まあ、それはドキドキしますね。髪が長いとそのお仕事に差し支えますか?」
「それもあるし、まあ。なんというか」
カクさんはそこで言葉を切って、わずかに間を取った後、笑顔のまま「不安で」と続けた。カクさんは、その時だけ小さな子供みたいになった。私は手を止めず、彼の顔もあまり見ないようにして「働くのは初めて?」とだけ尋ねる。
「そうじゃなあ。今までは訓練ばかりで」
「そうですか。それは確かに不安になりますねえ。誰でも初めては不安です」
「じゃろう? 髪を切れば少しは気分もさっぱりしていいかなと思っての」
「名案だと思いますよ」
「前髪は?」と問うと「短めで」と、髪形に関しては迷いなく答えが返ってくる。それならば、と私もさくさく切っていった。ある程度、長さを決めて、毛先を微調整する。鋏をカクさんの顔の前に持ってくると、カクさんは静かに目を閉じた。私も毛先に集中する。
シャキン、シャキン、一定のリズムが店に響いた。カクさんはずっと目を閉じている。
そして、目尻の方でシャキン、と最後の鋏を入れ終わるとカクさんはすっと目を開けた。先ほど、子供みたいな顔をしていたのが嘘のよう。丸い瞳がまっすぐ鏡を見つめている。
「わしに務まるじゃろうか」
カクさんは鏡の中の自分に問いかけていた。
「ええ、もちろん」
私は即答した。鏡の中のカクさんが目を丸くする。
カクさんは私の飾り気のない返事に驚きながら「そうか! プロが言うなら安心じゃな」と歯を見せて笑った。
「いかがでしょう?」
「おお!」
その一言で、カクさんが新しい髪形を気に入ってくれたのが分かり、内心ほっとする。
「カクさんはお顔が小さいから、短いのもよくお似合いです」
「おお……。新鮮じゃ。あと頭が軽い!」
「そうでしょうとも」
カクさんが珍しそうに手でわしわしと頭をかいた。
「お姉さん、ありがとう」
今日一番の笑顔で店を出ていくカクさんは、もう大人になってしまっていた。この短い時間で、あっという間に。床に落ちている、さっきまでは彼だったものを集めながら、カクさんがなりたい大人になれるといいな、と切に思う。
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