幕間の逢瀬


目の前のカクが「本当のカク」だというのなら、「私が好きだったカク」は誰だったのだろう。

 私は社長の警護のために厳戒態勢となった職場に、あろうことか家の鍵を忘れてしまったので、物々しい雰囲気の職人さんたちに頭を下げ中に入れてもらい、彼らの殺気に気圧されながら、ロッカーに置き去りにしてしまったキーケースを取りに来ていた。
 早く家に戻って避難の準備をしないと、と思いながらキーケースを確かに握りしめ、ロッカーを閉める。その瞬間、ドオンッ!というかなりの爆音とともに、窓ガラスがビリビリと震えた。私は心臓が止まってしまうんじゃないかと思うくらいびっくりして、ひいっ!と叫んで飛び上がった後は、怖くてそのままその場に蹲ってしまう。爆音にかき消されているけど、かすかに職人さんたちの怒号も聞こえてきた。
 はやく、逃げなくちゃ……。今の爆音は、アイスバーグさんを暗殺しようとしている海賊が攻撃してきた音に違いない。なんだってよりによってこんな日に、私は家の鍵を忘れてしまったんだろう。焦れば焦るほど、足に力が入らなくて、余計に焦る。落ち着いて、落ち着いて……。
 震える身体を自分でひしと抱きしめるようにして、一生懸命深呼吸をしていたら、喧噪に混じって、コツ、と小さな靴音がした。どうして私はこの混乱の最中、それを聞き取れたのか。
 何気なくそちらに顔を向けると、髑髏の被り物をして、舞台衣装みたいな豪奢な衣装を纏った人が廊下の照明を背にして立っていた。明らかに異様だ。
 海賊!? と私が恐怖を覚える前に、その人はもったいつけることなく、本当にあっさりと、髑髏を脱いだ。

「カク、じゃん……」

   ◆

 髑髏を脱いだら、カクだった。
 でも光を拒絶したかのように真っ黒な瞳は、私を映しているのかも危うくて、同じ人間が、こうも全くの別人みたいになるものなのかと驚く。

「なぜここに」

 カクは、発していいと許されている文字数があるみたいに、本当に短く、ただ言った。
 海賊じゃなくて、カクなんだから、私は安心していいはずだった。怖かった! と泣きついて、早く外に逃がしてもらえばいいのだ。頭ではそう思うのに、なぜだろう。目の前のカクが、私の知っているカクなら難なくしてくれるだろうそれを、してくれる気がしなかった。
 こんなカクの目はみたことがないし、こんなカクの声は聞いたことがない。カクは私を私と認識できているのかな。なんだか道端の石ころをみるような目で私を見ている。
 カクは私がなぜここにいるか、聞いたくせに興味がないようだった。ロッカールームの時計をちらりと見て、また私に視線を戻す。

「カクは、……その服、なに?」
「仕事じゃ」
「社長の護衛、ってこと?」
「いや」
「じゃあ、なに?」
「言いたくない」
「……どうして?」
「……今日だけは、嘘はつかんと決めた」

 カクは答えるのに間を取ったが、その割に葛藤なぞ一切感じさせない平坦な声音だった。
 今日“だけ”は? いつもあまり動かしていない頭が、今日はなんだかフル回転している。じゃあ、“今まで”は?
 外は騒がしいはずなのに、私とカクだけが喧騒から遠いところにいて、なんだかぼんやりとした膜で覆われているみたいに、カクの声だけがはっきりと私に届いていた。

   ◆

 カクは私のたった一人の同期で、瞬く間に出世したのにそれを鼻にかけることなく、いつも気さくで、付き合っても、5年経っても、初対面の「明るくて人懐っこくていい人だな」という印象は変わらなかった。
 付き合ったり、5年経ったりしたら、思っていたよりずっと欠点が見えてくるものだと思うけれど、カクはあんまりそんなことがなかった。どんどんいい印象が追加されていくだけで、まあ少し、意外と子供っぽいところはあるかな? なんて思ったりもするけれど、彼の根っこにある人の好さや、温かさ、優しさなんかに比べたら、それは些末な欠点だったし、何より私はそれすら可愛いと思えて大好きだった。
 それよりも、私の小さな器、すぐイライラしてしまうところ、天邪鬼で素直になれないところ、自分の欲に忠実なところ、そっちの方が問題だったはずなのに、奇特なカクはなぜだかそんな私もまるごと好きになってくれたらしい。私が度々自己嫌悪に陥り「カクだって、嫌でしょ? こんな女」と大層めんどうくさいことを聞いても「いや? 可愛いが?」と一蹴するのだ。毎回恐る恐る聞いて、毎回びっくりしていた。そんな素晴らしく人間が出来ているカクに好かれている、ということは、私を安心させ、私にとってかなりの自信となり、私という人間を少しずつ落ち着かせてくれたように思う。
 頭が痛いといえば「それは辛いのう。動かすと痛いのか? じっとしていても痛いのか?」と。仕事で失敗したと言えば話を聞いてくれ「まあ確かにも確認不足だったところがあるかもしれんが、そもそもそれは先方の担当がアホじゃろ!? なんじゃそいつ」と。天気が良ければ「散歩にでも行かんか? 会社近くの花屋の隣に、雑貨屋が出来たんじゃと」と。雨が降れば「今度の休み、もし晴れたら一緒に海列車に乗りたいんじゃけど……」と。
 こうやって毎日、重厚な木床を磨くように丁寧に、じっくり大事にされてきた。
 でも、なんていうか私たちは、本当に普通だった。特別な出会いがあったわけでも、何か共通の趣味があったわけでも、私のピンチに彼が駆け付けてくれた、なんてこともなく。楽しいことも、嫌なこともある、でも死ぬほど辛いわけじゃない、そんな普通の毎日を、糸を紡ぐように淡々と、一定のリズムで過ごしてきた。
 他愛ない会話の一つではあったけど、そういえば結婚の話もした。両親は亡くなっていて、孤児院のようなところで育ったというカク。その代わり、友達はたくさんいるから、カードを贈りたいと言っていた。もちろん料理はプッチで評判のお店に頼まんとな。式場はセント・ポプラで探そうか。新婚旅行はサン・ファルドかの? そんなふうに散々盛り上がったあとで、でもやっぱりお金ももったいないし、慎ましいのがいいんじゃないかなあ? あ、カードは絶対贈ろうね! と急に現実的になったりもした。
 そうやって過ごしてきた私たちだ。今、目の前で起きていることは、これまでの平和な二人には起こりえないことだった。

   ◆

「私は家の鍵を忘れて……、取りにきたの」
「ほう」

 今更の答えだったけど、カクは気にせず話を続けてくれる。

「カクは? どうしてここに?」
を見かけて追ってきた」
「仕事は大丈夫なの?」
「いや」

 難なく受け答えできているけど、感情がみえない平坦な声音は、なんだか人を真似ている人形みたいだ。そこでふと、ああ、そうか。もしかしたら、誰かに操られているのかも。それなら少しだけ、納得できるかも。事情はよく分からないけれど、これはカクの意志じゃない。プログラムされた行動を忠実になぞっているだけ、なのかも。なんて思ったりもする。

「来るか?」

 カクが冷たい床に蹲ったままの私を見下ろし問いかける。

「……どこに?」
「わしのそばに」

 私を見下ろすカクを見上げて、そうか、もうカクは。
 カクは、恐怖に蹲る私に駆け寄って、その膝を折り、優しく、でも、強く、抱きしめたりはしてくれないんだな、と唐突にすべてを理解したような気持ちになった。
 ずっとカクに大事にされてきた私にとって、これはとても悲しいことだった。私が好きになったカクのいいところ、つまり、温かくて、安心できて、柔らかくて、気持ちが落ち着いてくる、そういうところが今は全く見えなくなっていた。後ろから光に照らされているカクは、ぽっかりと空いた暗くて深い、底の見えない穴のようだ。

「……私の、好きになった、カクは……いる?」

 喉が張りついて、息がうまく吸えなくて、つっかえつっかえ、なんとか言う。
 そしたら、それまで微動だにしなかったカクの眉が、瞳が、唇が、あっという間にぎゅっと辛そうになったから、ああこれ、操られているんじゃなかったんだって馬鹿な私でもわかってしまった。そして、なんて残酷な言葉なのかも。
 カクの辛そうな顔を見た瞬間、私は、後悔の大波にざぶんと攫われ、足のつかない暗く深く冷たい大海原に身一つで投げ出された気持ちになった。
 恐怖で動かなかった足が急に動くようになって、私はばね仕掛けの玩具みたいにカクに飛びついて、縋りついた。そして、溺れそうな人が助けを呼ぶみたいに必死に叫ぶ。

「違う! ごめん! カク、ごめん! 違う、違うの!」
「いや、わしが悪かった」
「違う! そうじゃなくて! 聞いて! 私はあなたをそこから──……」

 慌てて謝っても、もう遅い。
 カクが私の身体に意識を遠のかせる何かをしたみたいで、全然痛くないけど、瞼が下がってきて、視界が柔らかい闇に覆われていく。
 違う、違うの。
 今のあなたを嫌いになったんじゃない。
 あなたについていけないんじゃなくて、あなたをそこから救ってあげたい。
 できることなら、あなたにそんな顔をさせてしまう何かから遠ざけて、もう二度と近づけたくない。私があなたのそばにいるんじゃなくて、あなたを私のそばにおいて、辛くて怖くて悲しいものすべてから逃がして、守ってあげたい。そんな目をしなきゃいけないようなところにいてほしくない。
 私が知っているカクだって、全部が嘘だったわけじゃなくて、カクの一部だったって思いたい。
 私を見つけたら屈託のない笑顔で手を振りながら駆け寄ってくるあなた、美味しいものを一緒に食べて「美味しい」って嬉しそうなあなた、洗い立てのシーツを敷いたベッドに飛び込んで「太陽の匂いがする」って言いながら昼寝しちゃうあなた。死ぬまでずっと、そういうあなただけでいてほしい。
 私、カクとならどこまでもいけるって思っていたけど、そうじゃなかった。今わかった。
 闇に進むあなたについていく私じゃなくて、あなたをここに踏みとどまらせる私になりたかったな。
 まあ、なれなかったけど……。そして、それがとても悲しくて涙が出たけど、カクが「痛かったか?」って勘違い、しないといいな。



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